ほとんど覚えていない父のことを思い出そうとするとき、頭の中に浮かぶのは暗い横顔だけだった。
 楽しくなさそうな、思い詰めたような表情をいつも浮かべていた。

「私が『お父さん』って呼んでも、いつも生返事で。……自分のことしか考えてなくて」
「自分のことしか?」
「はい。勝手に出て行ったし、それに」

 言い掛けたけれど、それ以上言葉が紡げなかった。「それに」、何だろう。他に何か父に関するエピソードがあっただろうか。
 一口も飲んでいないアイスティーのグラスから水滴が伝い、テーブルクロスを濡らす。

「すみません。変なこと訊いて」

 佐々木さんが私の顔をのぞきこむ。

「こんなこと、他人に話したくないですよね」
「いえ、違うんです」

 私は即座に首を横に振った。
 話したくないのではない。話せないのだ。
 だって私は、自分のお父さんのことをほとんど覚えていない。

 頭の中で、父の記憶を必死に探してみるけれど、思い出せるのはやはり横顔だけ。俯いた暗い顔だけだ。
 娘を冷たくあしらっているというよりかは、ひどく落ち込んでいて、誰のことも相手にできないというような――。

 冷たい人。
 自分のことしか考えていない人。

 思い返してみると、どちらも母の言葉だった。十年以上前、私が保育園児のときに彼女が放った言葉だ。自分自身の言葉ではない。
 母の言葉を大切に胸のとどめた幼い日の自分が、「でも」と抗議してくる。
 父は勝手に出て行ったのだ。冷たい人じゃないか。自分のことしか考えていないじゃないか……。

「食べちゃいましょうか。明莉(あかり)さんには悪いけど」

 佐々木さんに言われ我に返る。
 目の前にはいつの間にかパンナコッタが運ばれていた。私が選んだものだ。
 佐々木さんの前にはティラミス、空席にはピスタチオのジェラート。ジェラートは表面が少し溶けてきてしまっている。

「さっき店員さんに教えてもらったんですけど、イタリアンではデザートじゃなくてドルチェって呼ぶらしいですよ」

 佐々木さんはうきうきした様子でスプーンを手に取る。お母さんは電話が長引いているのか、まだ戻ってこない。

「うわー、うまいなあ」

 佐々木さんはティラミスに舌鼓を打ち、コーヒーカップに口をつける。
 無邪気な様子を眺めていると、目が合った。不思議そうな顔をする佐々木さんに首を振り「苦そうだなって思って」と曖昧に笑う。
「ティラミスも、コーヒーも」
「成宮さんは苦いものは苦手ですか?」
「苦手です。とっても」
「実は僕もなんです。苦すぎるのはあまり得意じゃなくて」
「え? でも」

 苦いものが苦手というなら、どうしてコーヒーなんて飲んでいるのだろう。

「お待たせ。ごめんなさいね」

 やっとお母さんが戻ってきた。巻いた髪が少し濡れていた。

「小雨が降ってきたわよ。あー、私の砂糖も使ってる!」

 お母さんに睨まれ、佐々木さんは「バレたか」と頭を掻いている。
 お母さんのコーヒーについてきたシュガーとミルクを、佐々木さんが勝手に自分のコーヒーに入れてしまったらしい。私は同じテーブルにいたのに、ぼーっとしていたので気がつかなかった。

「明莉さんはどうせブラックだからいいでしょ?」
「また健診で引っかかるよー?」

 二人はコーヒーを飲みながら、仲睦まじく笑い合った。引っ越しの話を忘れてしまったかのように、二人はデザート、ではなくドルチェを楽しんでいる。
 パンナコッタ用のスプーンを手に取っているうちに、また演奏が始まった。いつの間にか眼鏡の男性がピアノの前に戻っている。
 スプーンでパンナコッタをすくおうとして、手が止まった。

「おっ! 聞いたことのある曲だ。なんだったっけ、これ。えーと」

 佐々木さんが顎に手を当て考える。

「『虹の彼方に』よ。『オズの魔法使い』っていう古い映画の曲」

 佐々木さんは「さすが」と笑う。

「今日は映画の音楽がテーマなのかな。スター・ウォーズとかジュラシックパークとか弾いてくれないかな」
「ムードもへったくれもないじゃないのよ」

 ピアノの音と二人の笑い声を聞きながら、私はいまだにパンナコッタに口をつけられていなかった。

 自分の体だけがとても遠くへ行ってしまったような、不思議な感覚があった。

 私はこの曲を知っている。
 とてもよく知っている。

 優しい音なのに、なぜか胸の中にさざ波が生まれる。
 有名な曲だからという以外に、何か理由がある気がしてならない。
 でも、その理由がどうしてもわからない。