「全く。勝手に出て行ったきり一度も」
「あ、出て行ったんですね」

 佐々木さんの反応に、思わず口に手を当てる。私のお父さんのことをよく知らないらしい。
 我が家では、父の話題はなんとなくタブーだ。母が思い出を語ることも無ければ、私が父について尋ねたことも無かった。母は私を含む全ての人に、元夫の話をしたくないのだろう。

「お待たせいたしました」

 テーブルにホットコーヒーが二つと、アイスティーが運ばれてきた。
 アイスティーは私が頼んだものだ。本当はジュースがよかったけど、糖分の量を考慮してアイスティーにした。シロップとミルクを入れれば、なんとか飲める。
 テーブル上で、アールグレイのさわやかな香りとコーヒー豆の深い香りが混ざり合っていた。
 コーヒーはきっと、お店で挽かれた豆から淹れられている。

「成宮さんのお父さんのこと、明莉(あかり)さんはあまり話したがらないから。どんな人なのかなって」

 佐々木さんが父のことを気にするのは当然の感情だろう。私が佐々木さんの立場だったら、根掘り葉掘り聞いてしまうかもしれない。
 今、母は近くにいない。少しくらいなら教えてあげてもいいだろう。

「父は……」

 先生に言い訳する子どものように口の周りが重くなっていく。
 写真は少しだけ残してあるらしいけれど、目にしたことはない。どこにあるかも言われていない。
 父の写真に意識を向けないようにさせているみたいに、リビングの棚の上にはたくさんの母子の写真が飾られている。

 大昔に一度だけお母さんから訊かれたことがある。「お父さんに会いたい?」と。
 両親が離婚した直後だ。
 私が五歳の時、両親は離婚をした。
 父はテーブルの上に記入済みの離婚届を置いて出て行った。父の個人情報が書かれた紙と一緒に、口座から引き落とされたのであろう多額のお金も残されていたらしい。母が離婚届を役所に提出し、難なく受理された。

 それから私と母は引っ越した。母方の祖父母の家、つまり母の実家の近所のアパートに移り住んだ。「成宮」という苗字に慣れる間もないまま、私は新しい保育園に通い始めた。

 転園してすぐ、園では工作の時間が設けられた。父の日が近く、絵の具を使って自分のお父さんの似顔絵を描くことになったのだ。

 当然、私は戸惑った。「お父さん」という存在を失ったばかりだったからだ。
 担任の先生は、「お母さんか、おじいちゃんのお顔でもいいよ」と言ってくれたけど、私は実の父の似顔絵を描いた。
 描きたかったわけじゃない。描かなくちゃいけないと思った。同じクラスの子に「どうしてお父さんじゃない人の絵を描いているの」なんて訊かれたくなかった。転園したばかりだから、早く周りに馴染みたかった。
 その一心で父の顔を思い出しながら一生懸命描いた。思い出されるのは暗い顔ばかりなのに、画用紙に描いたのは父の満面の笑顔だった。

 その日の保育園のお迎えは、当時まだ生きていたおばあちゃんだった。
 お母さんはいつも仕事で遅い。だから私は母が仕事から帰ってくるまで、祖父母の家で過ごしていた。
 祖父母の家に着くなり、持って帰ってきたお父さんの似顔絵はキッチンに置いてある大きなゴミ箱に捨てた。母に見られてはいけない。そう思って焦っていた。

 ことは上手く運ばなかった。
 似顔絵はおばあちゃんに発見されてしまって、捨てたことはすぐにバレた。

 祖父母宅に到着したお母さんは、私を怒らなかった。
 折り目のついてしまった画用紙をキッチンの床に広げ「お父さんに会いたい?」と静かに訊いてきた。とても疲れた声をしていた。スーツに包まれた背が丸くなっていた。買い直したばかりのスーツの生地までくたびれて見えた。

 ――会いたくない。

 私は即座に答えた。
 それが自分の正直な気持ちだったかどうかは、もう覚えていない。
 でも、「会いたくない」と答えなくちゃいけない。はっきりとそう思ったことだけは記憶にある。
 保育園ではみんなでお父さんの似顔絵を描かなくちゃいけないし、お母さんの前では「お父さんに会いたくない」と言わなくちゃいけない。
 正しく回答しなければ、母さんまで私の元を離れていくのではないか――。幼い私は小さな頭で、そう考えたのだ。

 お母さんは私の「会いたくない」という返事を聞き、強く「うん」と頷いた。

「会わないほうがいいよ。あんな冷たい人」と。
「自分のことしか考えていない人」と。

 再びゴミ箱に放られる笑顔のお父さんを眺めながら、私はほっとしていた。私の答えは正解だったのだと確信して。

 それから今に至るまで、父のことを誰かに詳しく話したことはない。仲の良い千秋にも友理奈にも、話そうとは思わない。そんなこと、教える必要は無い。

 でも、佐々木さんになら話してもいいかもしれない。というよりも、話しておいたほうがいいかもしれない。

「父は、冷たい人でした」

 なるべく憎々しげに聞こえるよう、声を低くする。「佐々木さんは、まさかそんな人ではないですよね?」という牽制であり、そして願望だった。