「敬語じゃなくていいですよ。今さらですけど」

 大の大人に敬語で話されていると申し訳なくなってくる。
 演奏が終わり、ピアニストが立ち上がった。拍手を浴びながら頭を下げる。これで生演奏は終わるのか、彼は店の奥へ行ってしまった。音楽の代わりに、お客さんたちの作る程よいボリュームの喧騒が店内に響く。

「いやいや、距離感は大事でしょう。知らないおっさんに馴れ馴れしくされてもキモいだろうし」

 きっぱりと言われて、私は瞬きを繰り返した。

「別に、キモくないですよ。佐々木さんは『知らないおっさん』じゃなくて、お母さんのカレシさんじゃないですか」

 店員さんがやってきて、食器を片付けていく。佐々木さんはあらかじめ注文しておいたデザートを持ってくるように頼み、また私に向き直った。

「いや、このまま貫きますよ。『成宮さん』と呼ぶし、敬語です」
「ずっとですか?」
「僕と明莉(あかり)さんと成宮さんの三人で、正式に家族になる時まで、です」

 佐々木さんが真面目な顔で言い放ち、私の真横に座るお母さんが息を呑むのが聞こえた。

「……」

 あまりにも堂々と言い切るので、呆気に取られてしまった。私がプロポーズされたわけではないのになんだか恥ずかしくなってしまって俯く。

「その……」

 店員さんが拭いてくれたテーブルクロスの上に言葉を探した。

「私は全然、反対するとかないです。今のところ。佐々木さんとお母さんが結婚したいなら、結婚しちゃえばいいと思います」

 佐々木さんは「ありがとうございます」と真面目な顔で頷くと、「ただ、簡単な話じゃないんですよねえ」と肩を落とした。くだけた調子が戻っている。

「実は、今年の九月に大阪の支社に転勤することが決まっているんです」
「大阪に?」
「ええ。成宮さんは行ったことはありますか? 大阪」
「いえ。中学生の時、修学旅行で京都と奈良には行ったけど……」

 ここは関東。関西までは距離がある。修学旅行の行先に選ばれるほどに。
 京都と奈良の隣である大阪へは、一度も足を踏み入れたことがない。いつか友達とUSJに行ったり、食い倒れたりしたいなと夢見てはいるけれど。

「佐々木さんは大阪に引っ越しちゃうんですか?」
「そういうことになります」
「リモートワークはできないんですか?」
「営業だから不可能なんですよね。しばらくは関東へも戻れません」
「じゃあ……」

 転勤の話は当然知っていたのだろう、押し黙っているお母さんと佐々木さんを見比べる。

「二人は、遠距離恋愛になっちゃうってことですか?」
「あのね、ひーちゃん」

 お母さんが重そうに口を開く。

「私たちも一緒に大阪に引っ越せたらなって思ってるんだけど」
「えっ……?」

 寝耳に水だった。

「でも、学校が」

 言いよどむ私に、佐々木さんが「ええ」と頷く。

「友達がいるんです。学校に。この街も、ずっと暮らしてるし。五歳の時からだけど……」

 戸惑うあまり、幼児のようにしどろもどろになってしまう。
 大阪へ引っ越すということはつまり、転校するということだ。佐々木さんがリモートワークできないように、私もリモートで通学することはできない。

 転校なんて考えたこともなかった。私はあの高校を卒業して、自宅のアパートから大学か職場へ通うものだと信じて疑わなかった。

「その点については僕と明莉さんとで意見が割れていてね。僕は成宮さんの卒業まで待ったほうがいいと思ってます」
「でも、それじゃあ二人は離れ離れになっちゃいますよね?」

 もし私の卒業を待つのだとしたら、二人が結婚するのはおよそ二年後だ。その間二人は遠距離恋愛となってしまう。関東から大阪までは、一体何時間かかるだろう。交通費だって高いに違いない。

「そのあたりを今日、話し合えたらいいなって思ってたのよ」

 お母さんの顔が暗い。

「僕はやっぱり、成宮さんの気持ちを大切にしたいよ」

 お母さんのほうを向く佐々木さんの口調から、ほんの少し穏やかさが欠ける。

「でも、」

 二人の仲裁をするように、誰かのスマフォの着信音が鳴った。お母さんははっと自分の足元を見下ろし、カゴの中に収めていた自分のバッグに手を突っ込んだ。

「部長からだ。今日、会議を抜け出してきちゃってるから……。ごめんなさい。ちょっと電話してくる。デザートが来たら二人で先に食べててね」

 母はスマフォを片手に慌ただしく店外へ出て行ってしまう。
 重い話をしている途中だったのに、初対面の佐々木さんと二人で取り残されてしまった。デザートはまだ来る気配が無いし、演奏も再開されない。
 居た堪れなさに身をかたくしていると、佐々木さんが開口した。

「お父さんとは連絡は取っていますか?」
「父とですか? いえ」

 出し抜けな質問に瞬きをしながら私は首を横に振った。