「そういうこと。びっくりした?」

 お母さんははにかんでいる。

「びっくりするでしょ! 初耳だし」
「初耳ってわけじゃないんだけどね。怪我する前に一度だけ会って、三人でご飯食べてるんだよ」
「ご飯を? それなのに忘れちゃったんだ」
「思い出せない?」
「全っ然、思い出せない……」
「気に病まなくていいよ。一時的なものかもしれないって先生も言ってたでしょ」
「別に気に病んでなんてないけど。ねえ、結婚とか考えてるの?」
「まあ、何となくね。そういう話が出てる」

「ヒュー」と冷やかすと鬱陶しそうに手で払う仕草をされた。

「だから、ちゃんと三人で今後のことを話し合っていこうねって言ってるの。佐々木さんも、ひーちゃんの気持ちを一番大事にしようねって言ってる」
「へえ。なんか良い人なんだろうね、佐々木さんって」

 お母さんは小声で「良い人だと思うよ」と呟く。表情を緩めないようにしているのか、口元がやたら力んでいた。

「土曜日だっけ。どこで食事するの?」
「おすすめのイタリアンレストランだって。ディナーの時間に予約してありますって連絡が来た」
「ふーん。ラザニアってあるかな。グラタンよりラザニアのほうが好きなんだ」

 照れているお母さんを見ていると私のほうが恥ずかしくなってきて、誤魔化すためにやたら明るい声が出る。

「でも、ひーちゃんの怪我のこともあるし、無理して会わなくてもいいって佐々木さんも言ってたけど、どうする?」
「いいよ。会ってみる」

 私は即答した。

「いいの?」
「うん。とにかく会ってみて、嫌かどうかはそれから決める。会ってみなくちゃ本当に良い人かどうかわからないし。お金持ちだといいな」
「貯金額なんて訊かないでよね」
「さりげなく靴とか時計とかチェックしようかな」
「ひーちゃんのそういうとこ、助かるわ」

 あきれたように笑う母の表情に、安堵の色が混じっている。
 この話を娘に切り出すのにも勇気が必要だったのだろうなと想像できるくらい、私はもう大人に近づいている。

「その人は、お母さんのこと幸せにしてくれそうなの?」

 私は一番肝心なことを尋ねた。

 お父さんみたいに冷たい人じゃないの?
 黙って出て行くような人じゃないの?

「うん。お母さんだけじゃなくて、ひーちゃんのことも幸せにしてくれるんじゃないかなって思う。……でも、ひーちゃんが嫌だって言うなら、絶対一緒にはならないから。だから、安心してよ」

 信号の色がやっと変わった。
 車が加速し、上半身が押される。私はそのまま再びシートに背を預けた。






「成宮さん、お久しぶりです。大変でしたね」

 イタリアンレストランの駐車場の隅で、佐々木さんは他の車のヘッドライトを浴びながら眉を顰める。
 大柄な人だった。身長は百八十センチくらいあるだろうか。
 声は大きく、肩幅は広く、日焼けもしていてスポーツ選手のようだ。
 年はお母さんの二つ下で、子どもはいないし、結婚したこともないらしい。仕事帰りということで、スーツを身に着けていた。

 薄れる記憶の中の実の父とはまるでタイプが違う。父はもっと繊細そうな見た目をしていた気がする。
 佐々木さんは、私の母のことは「明莉(あかり)さん」と下の名前で呼び、私のことは「成宮さん」と苗字で呼んだ。しかも敬語だ。

「あの」

 ほんの少しだけ声が上ずる。相手は(私にとっては)初対面の男の人で、且つお母さんと結婚するかもしれない人だ。さすがの私も緊張しているらしい。

「前にお会いしたらしいんですけど、その時のことを全く覚えてないんです。すみません」
「そんなの、全っ然気にしないでください。むしろ大変な時に会ってくれてありがとうございます」

 白い歯が輝く。

「とにかく中に入りましょうか。イタリアンでよかったですか?」

 三人で店までのアプローチを進む。照明でライトアップされたちょっとした庭があり、薔薇の花が咲いていた。出入り口にはイタリアの国旗が掲げてある。木目の映えた屋根は片流れで、とてもおしゃれだ。
 佐々木さんが扉を押さえてくれて、母と入店する。
 ニンニクの香りを嗅ぐと、お腹が鳴りそうになった。店内は冷房がよく効いている。ワンピースの上にカーディガンを羽織ってきてよかった。

「いらっしゃいませ!」

 女性店員さんに呼応して、ホール中の店員さんが「いらっしゃいませ!」と私たちを歓迎してくれた。間接照明が木の床やテーブルを照らしている。店内も雰囲気が良い。
 ホールの中央には黒いグランドピアノが鎮座している。生演奏をしてくれるのだと佐々木さんが教えてくれた。
 三人でテーブルに着きメニューを開く。気になる料理を色々頼んで、三人でシェアすることにした。
 料理を待っている間に演奏が始まった。眼鏡を掛けた若い男の人がピアノの前に座り、音を奏でていく。
 聴いたことのある曲だった。

「『ムーン・リバー』ね」

 いつもよりメイクの濃いお母さんが音に合わせて肩を揺らす。

「『ティファニーで朝食を』っていう映画の曲よ」
「へえ、よく知ってるねえ」

 お母さんのカレシである佐々木さんは、にこにこしながらお冷をがぶ飲みしていた。
 料理を待つ間も料理が運ばれてきてからも、会話が途切れることはなかった。
 佐々木さんは明るくて、私の話にもお母さんの話にもちゃんと耳を傾け、会話を繋げてくれた。
 私は学校や友達の話をした。
 でも、よくよく考えてみれば、佐々木さんと私は一度会っているのだ。全く同じ話をしている可能性は高い。それなのに、相手は「初めて聞きました」というふうに頷いている。

 注文したサラダもラザニアもパスタもステーキも、全部美味しかった。お皿が空になり、代わりにお腹がぱんぱんになる頃には、私の緊張はすっかりほぐれていた。
 ピアノで奏でられる曲は「ニュー・シネマ・パラダイス」になっている。
 でも、佐々木さんは私を「成宮さん」と呼ぶし、敬語のままだ。

「あの、どうして私のことを『成宮さん』なんて呼ぶんですか?」

 せっかくの楽しい会話に水を差すようだけど、私はとうとう尋ねた。