「大変ねえ、成宮さん。色々と不便でしょう」

 放課後の職員室にて、担任の山田先生が微笑む。
 彼女は私を労いながら、何枚ものプリントが挟まれて厚くなったクリアファイルを見せつけてきた。「2―1 成宮さん」と手書きされた付箋が張り付けてある。

「大変だってわかってるなら、免除してくださいよう」

 私は当然、ぶうたれた。
 プリントのアソートは、私が休んでいた間に出された課題だ。提出しなければ成績に響く。定期テストで良い点が取れない私は、課題で挽回するしかない。

「まあまあ。他の先生たちも『〆切は大幅に伸ばしてあげる』って言ってるから」

 先生はウフフと笑うと、容赦なく私のトートバッグの中にクリアファイルを突っ込んだ。
 二十代後半の山田先生がまとう雰囲気はやわらかい。でも有無を言わせない点がうちの母に似ているかもしれない。

「帰りは親御さんがお迎えに来てくれるの?」
「いえ、普段通り徒歩で帰ります。母は仕事があるので」
「お父さんも?」

 何の屈託もなく先生が尋ね、そして「あっ」と口に手を当てる。

「ごめんなさい」

 申し訳なさそうにする若い担任に、私は笑ってみせた。

「いえ。そういうの、全然気にならないので」

 強がりなんかではなく本心だった。
 母がシングルマザーになったのはもう十年以上前のことだ。
 以来一度も会っていない父のことなんてもう覚えていないし、母と二人きりの家庭環境にも、周りの反応にもすっかり慣れた。
 片親しかいないという友人は、私の他にも何人もいる。今どき、片親家庭の子どもはそこまで肩身が狭くない(と私は勝手に考えている)。

「歩きなら早く帰ったほうがいいわね。これから雨が降るらしいから」
「えっ? 本当ですか?」

 職員室の窓の外を見る。たしかに昼間よりも雲が多くなっていた。

「もう少ししたら梅雨に入るのかしらねえ」
「お、成宮。退院おめでとう。傘は持ってるのか?」

 声を掛けてきたのは、一年生の時の担任だった今井先生だった。手にマグカップを二つ持っている。両方からふわふわと湯気が立っていた。

「俺の予備の折り畳みがあるから貸してやるよ」

 旧担任の今井先生は、現担任の山田先生のデスクの上にマグカップを一つ置いた。残りの一つを隣、今井先生自身のデスクの上に置く。中に注がれていたのはブラックコーヒーだった。
 粉を溶かしただけなのだろうな、という香りが鼻をかすめた。きちんと豆を挽いてドリップしたコーヒーとはやはり差を感じてしまう。

「……?」

 引き出しを開けて傘を取り出している今井先生のコーヒーをじっと見下ろした。
 私のお母さんもコーヒーが好きだ。家で飲むのは粉を溶かしたもので、贅沢したい時にはドリップコーヒーを淹れることもあるけれど、それもインスタント。豆は挽かない。挽くための道具も無い。挽いている姿なんて一度も見たことがない。
 それなのにどうして私は、コーヒーの香りの違いなんてわかったのだろう。

「ほら」

 今井先生が折り畳み傘を私に向けた。

「ちゃんと返せよ。先生が好きだからって借りパクすんなよ」
「今井先生、セクハラで問題になりますよ~」

 先生たちは冗談を言って笑っている。
 私も笑おうとした。けれど上手くいかない。
 どうしてか、私の頭の中にはシャッター街の景色が浮かんでいた。さびれた商店街に吹く風が二の腕を撫でたような気がした。
 頬を引きつらせながら「ありがとうございました」と告げ、傘を受け取る。

「どうした? 具合、悪いのか?」

 今井先生たちは笑うのを止め、私の顔をのぞく。

「いえ。失礼します」

 私はもう一度礼を言って、コーヒーの香りから逃れるように職員室を後にした。





 校門を出て五分ほど歩いたところで小雨が降ってきた。借りた折り畳み傘がさっそく役に立つ。
 車や人が多く行き交う道を逸れ、商店街のほうへ続く小道に向かおうとして足を止めた。
 今朝、車の中で母に注意されたばかりだ。商店街のほうは絶対に通るなと。
 千秋や友理奈が口にしていた不審者の話も脳裏をかすめる。

「……」

 それでも私は、そのまま小道を進んだ。
「自分だけは大丈夫」とのんきに構えているわけではない。この先に、どうしても確かめなければならないことがある気がしたのだ。