ベンチに腰かけていた男の子が顔を上げる。改めて見てもきれいな顔立ちだった。
私を認めるや否や、喉仏がゆっくりと上下に動く。
胸ポケットに留められている校章入りの名札には、やはり「西」と書かれている。
人違いではない。
病室にお見舞いに来て、すぐに帰っていった男の子だ。
「あの、こんにちは。西さんですよね? その節はどうも。わざわざ病院にまで来ていただいて」
私は右手で顔に庇を作りながら挨拶した。
彼はしばらく私を見つめた後、ぷはっと息を漏らした。笑われてしまったらしい。
「同級生にする挨拶じゃないよ、それ」
笑ってくれたことにほっとしていると、彼は再び思い出したかのように表情を引き締めてしまう。
「大変だね。片手使えないと不便でしょ」
「あ、うん」
私は自分の包帯の取れない左手を見下ろす。
「すごく不便。だけど、学校では友達が色々手伝ってくれるから何とかなってます。……あ、なんとかなってる。荷物持ってくれたり、教科書出してくれたり、本当に有難くて」
そう、と小さく呟いて、男の子は水筒と本を片付ける。
教科書かと思ったけれど、それは雑誌だった。見えているのは広告を掲載した裏表紙で、どのようなジャンルの雑誌かはわからない。
彼は荷物を手にベンチから立ち上がる。日差しが白い肌の上で反射した。
「ここで昼飯食べるなら、どうぞ」
ベンチの上にできている、申し訳程度の木陰を二人で見下ろす。
「木陰でもかなり暑いから、熱中症に注意して」
「あの」
立ち去ろうとする同級生を呼び止める。彼は無表情で私を振り返った。
「暑いなら、どうしてこんなところにいたの?」
素朴な疑問をぶつけてみる。
彼はじっと私を見返し、しばらくそのままだった。
ずっと遠くから、吹奏楽部の奏でる楽器の音。
初夏の日差しにつむじを焼かれているせいで、くらくらとしてきた。言われた通り、熱中症になってしまいそうだ。
「……本当に思い出せない?」
楽器の音色にかき消されそうな小さな声で尋ねられた。
反射的に「ごめんなさい」と謝る。
「西さんの……。あ、同級生だから、西くんって呼んだほうがいいのかな。西くんと私は、知り合いだったのかな?」
だんだんと、怒られている保育園児のような気分になってきた。
「お母さんも、何も教えてくれなくて。ただ、『西さんは命の恩人』って言うだけで」
「命の恩人? 大げさな。たまたま通りかかって、救急車を呼んだだけだから。……まあ、俺のことなんてどうでもいいよ。ただの同級生だから」
「……本当に?」
「うん。自分のクラスメイトのことはちゃんと覚えてるんでしょ?」
私はこくりと頷く。
「覚えてる。でも、昼休みにどうしていたかとか、思い出せないことがあって。他にも、佐々木さんって人のこととか。佐々木さんっていう人もこの学校の生徒なのかな?」
「その人のことはちょっとわからない。……怪我をした日、何があったかは思い出せる?」
「ううん。お医者さんとお母さんからは『階段から落ちて手をついた』って聞かされたけど」
「どうして階段から落ちたのかは?」
「どうしてって、……足を滑らせて?」
自信無く答える。
「あの日は、雨だったから」
正確に言えば、雨だったらしいから。
「ふう」と小さなため息が聞こえた。
落胆とも、安堵ともとれるような吐息だ。果たして私の回答は正解だったのだろうか、それとも不正解だったのだろうか。
「じゃあ、よかったよ」
「よかったって、どうして?」
「思い出さないほうがいいことって、たくさんあるから。……じゃあ」
西くんは、引きとめる間もなく身を翻し、今度こそ中庭を去ってしまった。
くらりと眩暈に襲われ、足から力が抜けたようにベンチに座る。
――思い出さないほうがいいことって、たくさんあるから。
今しがたの彼の言葉を反芻した。
たしかに怪我した時のことなんて、思い出さないほうがいいのかもしれない。
自分のクラスメイトのことはちゃんと覚えているのだから、西くんのことだって忘れたままでもいいのかもしれない。
でも、腑に落ちなかった。
別れ際の彼の顔が、とても悲しそうだったからだ。
私を認めるや否や、喉仏がゆっくりと上下に動く。
胸ポケットに留められている校章入りの名札には、やはり「西」と書かれている。
人違いではない。
病室にお見舞いに来て、すぐに帰っていった男の子だ。
「あの、こんにちは。西さんですよね? その節はどうも。わざわざ病院にまで来ていただいて」
私は右手で顔に庇を作りながら挨拶した。
彼はしばらく私を見つめた後、ぷはっと息を漏らした。笑われてしまったらしい。
「同級生にする挨拶じゃないよ、それ」
笑ってくれたことにほっとしていると、彼は再び思い出したかのように表情を引き締めてしまう。
「大変だね。片手使えないと不便でしょ」
「あ、うん」
私は自分の包帯の取れない左手を見下ろす。
「すごく不便。だけど、学校では友達が色々手伝ってくれるから何とかなってます。……あ、なんとかなってる。荷物持ってくれたり、教科書出してくれたり、本当に有難くて」
そう、と小さく呟いて、男の子は水筒と本を片付ける。
教科書かと思ったけれど、それは雑誌だった。見えているのは広告を掲載した裏表紙で、どのようなジャンルの雑誌かはわからない。
彼は荷物を手にベンチから立ち上がる。日差しが白い肌の上で反射した。
「ここで昼飯食べるなら、どうぞ」
ベンチの上にできている、申し訳程度の木陰を二人で見下ろす。
「木陰でもかなり暑いから、熱中症に注意して」
「あの」
立ち去ろうとする同級生を呼び止める。彼は無表情で私を振り返った。
「暑いなら、どうしてこんなところにいたの?」
素朴な疑問をぶつけてみる。
彼はじっと私を見返し、しばらくそのままだった。
ずっと遠くから、吹奏楽部の奏でる楽器の音。
初夏の日差しにつむじを焼かれているせいで、くらくらとしてきた。言われた通り、熱中症になってしまいそうだ。
「……本当に思い出せない?」
楽器の音色にかき消されそうな小さな声で尋ねられた。
反射的に「ごめんなさい」と謝る。
「西さんの……。あ、同級生だから、西くんって呼んだほうがいいのかな。西くんと私は、知り合いだったのかな?」
だんだんと、怒られている保育園児のような気分になってきた。
「お母さんも、何も教えてくれなくて。ただ、『西さんは命の恩人』って言うだけで」
「命の恩人? 大げさな。たまたま通りかかって、救急車を呼んだだけだから。……まあ、俺のことなんてどうでもいいよ。ただの同級生だから」
「……本当に?」
「うん。自分のクラスメイトのことはちゃんと覚えてるんでしょ?」
私はこくりと頷く。
「覚えてる。でも、昼休みにどうしていたかとか、思い出せないことがあって。他にも、佐々木さんって人のこととか。佐々木さんっていう人もこの学校の生徒なのかな?」
「その人のことはちょっとわからない。……怪我をした日、何があったかは思い出せる?」
「ううん。お医者さんとお母さんからは『階段から落ちて手をついた』って聞かされたけど」
「どうして階段から落ちたのかは?」
「どうしてって、……足を滑らせて?」
自信無く答える。
「あの日は、雨だったから」
正確に言えば、雨だったらしいから。
「ふう」と小さなため息が聞こえた。
落胆とも、安堵ともとれるような吐息だ。果たして私の回答は正解だったのだろうか、それとも不正解だったのだろうか。
「じゃあ、よかったよ」
「よかったって、どうして?」
「思い出さないほうがいいことって、たくさんあるから。……じゃあ」
西くんは、引きとめる間もなく身を翻し、今度こそ中庭を去ってしまった。
くらりと眩暈に襲われ、足から力が抜けたようにベンチに座る。
――思い出さないほうがいいことって、たくさんあるから。
今しがたの彼の言葉を反芻した。
たしかに怪我した時のことなんて、思い出さないほうがいいのかもしれない。
自分のクラスメイトのことはちゃんと覚えているのだから、西くんのことだって忘れたままでもいいのかもしれない。
でも、腑に落ちなかった。
別れ際の彼の顔が、とても悲しそうだったからだ。