「放課後にうちの生徒が男の人に絡まれてたから、みんなも注意しろって」
「ええ、気持ち悪……」
「でもそれ以来不審者の話って出てないよね?」

 千秋が尋ね、友理奈が頷く。
 不審者の話はそれきりだった。

 私たちの二年一組の教室は三階にある。私は二人にスクールバッグとトートバッグを持ってもらったり、上履きを出してもらったり、甲斐甲斐しく世話をされ、快適に教室までたどり着くことができた。

「ありがとー。助かった」
「どういたしまして。はい、3000円になりまーす」

 友理奈がふざけて手のひらを差し出してくる。「有料なんかーい」とエセ関西弁で突っ込みを入れた途端、頭にぴりっと軽い痛みが走った。

 ――消費税込みで、5500円。
 ――タダに決まってんじゃん。

「……」

 前にも誰かに、同じような冗談を言われた気がする。
 デジャヴというやつだろうか。脳が疲れているとデジャヴが起こりやすいという雑学を、どこかで耳にしたことがある。

「どした? 体調悪い?」

 こめかみを押さえていると、千秋が心配そうに私の顔をのぞきこんできた。

「あ、ううん」

 私は明るく笑ってみせ、二人と一緒に教室へ入る。

「お、宮ちゃんだ!」
「入院してたんだっけ?」
「退院、おめでとー!」

 室内に入るなり、クラスメイトたちが私を歓迎してくれる。
 嬉しくて頬が緩むと同時に、私はものすごくほっとしていた。一人一人の顔と名前をしっかり覚えていたからだ。

「文化祭、出られなくてごめーん」
「しゃあないって」

 友達や先生たちには、骨折のことはもちろん知れ渡っている。でも、記憶の一部が抜け落ちていることまではなかなか言えなかったし、今後も口にするつもりはなかった。
 仲の良い千秋と友理奈には、とくに。
 友達にこれ以上余計な心配をかけたくない。学校ではくだらないことで笑っていたい。なるべく気楽に過ごしたかった。





 昼休みになった。
 チャイムが鳴るとほぼ同時に、吹奏楽部の部員である千秋と友理奈は教室をとび出て行ってしまう。この高校は吹奏楽部の強豪校で、部員たちは昼休みも練習に励むのだ。
 それは覚えている。
 けれど、一つ問題があった。

 自分自身が昼休みにどう過ごしていたのか思い出せない。
 誰とどこで昼食を食べていたのか、すっかり記憶が抜け落ちていた。
 見舞いに来た「西さん」や母の知り合いであるらしい「佐々木さん」が思い出せなくても、今のところ生活に支障は無い。
 でも、昼休みをどう過ごすかは、生徒にとっては――少なくとも私にとっては――大問題となる。一人で過ごすなんて、あまりにもさみしい。

 お腹がぐうと鳴らないよう力を入れながら、学校机の上のツナとたまごのサンドイッチを見下ろす。車での通学途中、コンビニに寄ってもらって買ってきたものだ。怪我をする前も、サンドイッチかおにぎりを買ってから登校するのが習慣だった。
 でも、誰と一緒に昼食をとっていたのだっけ?

「あれ? 宮ちゃん、どうかした?」

 一人考え込んでいると、机を運んでくっつけている女の子たちが私に声を掛けてくれた。てっきり輪の中に誘ってくれるのだと思ったけれど、

「宮ちゃん、今日は行かないの?」

 彼女は首を傾げてしまう。

「い、行かないって、どこに?」
「昼休みになるとすぐに図書室に行っちゃうでしょ? 勉強しに」

 他のクラスメイトたちも不思議そうな表情を浮かべている。

「……あー、うん。今から行くとこ! じゃあ、また後で」

 私はサンドイッチと水筒と、引き出しからパッと取り出した英単語ドリルを手に教室を出た。「私って、図書館で勉強するような真面目な生徒だったっけ?」という疑問とともに。

 とにかく、図書室へ向かえば何か思い出せるかもしれない。私はそう踏んだ。
 一階まで下り、昇降口の前を通り過ぎると、奥に図書室に続く扉が見えてくる。廊下の右手側には窓が続き、中庭を一望できた。初夏とはいえ降り注ぐ日差しは強烈で人はいない。

 蒸し暑い廊下を進み、図書室の中に入る。書架の向こうに自習スペースがあったはずだ。
 貸出カウンターの前を通り過ぎようとした時、司書さんに呼び止められた。飲食物を持ち込んだことを注意されたのだった。
 私は頭を下げ、そそくさとまた廊下へ戻る。
 少し考えればわかることとだ。図書室内で食事なんてできない。

 では、私は一体どこで昼食を食べていたのだろう。せっかく図書館に足を運んだのに「記憶」というパズルのピースが見つからず焦りを覚える。
 学校は楽しいと思っていたはずなのに、ぼっち飯をしていたのだろうか。ぼっち飯が辛すぎて、意識を失ったときに記憶を消してしまったとか?
 心細くなりながら、明るい中庭を眺める。
 誰もいない。そう思ったけれど、中庭の中央に置かれたベンチに腰掛ける人影を見つけた。

 男子生徒だった。
 葉を茂らせた木の作る木陰に、なんとか体が収まっている。膝の上にのせた教科書をのぞきこんでいた。顔にかかる前髪を鬱陶しそうに右手で押さえている。

「……西さん?」

 なんと、ベンチに座っているのは病室にお見舞いに来てくれた男の子だった。

 半そでの開襟シャツと黒いスラックスはこの高校の男子生徒の制服だ。目を凝らし、上履きのラインを確認する。ラインの色は青だから彼は二年生だ。つまり、私と同級生。
 まさか同じ高校の生徒だったなんて。

 目を丸くしながら、私は西さんを観察していた。観察対象は教科書に集中していて、私に気付く気配は無い。
 彼は教科書に目を落としたまま、左手をベンチの上に彷徨わせた。傍らに置かれていた水筒の蓋を手に取り持ち上げ、口をつけてまた戻す。

「……」

 足が自然と動く。中庭の出入り口となっている扉のノブに手をかけ、そっと開けた。
 一面に敷かれた白いタイルから照り返しを受け、目を細める。湿気で息苦しくなった。
 それでも、校舎の中に引き返そうとは思わない。私は吸寄せられるように、明るみへと踏み入れた。
 人の気配を感じた男の子が教科書から顔を上げる。