俺にとって『死』は恐怖の対象ではなく、生きることについて必死に誰かの賛同を得ようとも、無理に面白おかしく生きようとも思わない。自分の生きた証を生み出すことに興味もなければ、虚無感で絶望に苛まれることもない。
 俺はいつだって死んだように生きているし、生きたように死んでいる。
「……これで、気が済んだか?」
 俺の眼前には、六人ほどの学ランを来た男どもが倒れていた。この場所は俺の通う天燈工の校舎裏で、倒れているのはこの学校の生徒たちだ。
 そのうちの一人が体を起こし、恨めしそうに俺を睨む。
「くそっ、一年の分際で……」
「……その一年相手に手も足も出なかったのは、お前らだろ」
 体の大きさと坊主頭という特徴から、俺は入学早々先輩たちからのご指導を受けることになった。
 中学生から高校へ進学して、調子づいている新入生をシメるのが、どうやらこの学校の伝統らしい。今どきこんな学校が残っているのかと最初は呆れたものだが、腕っぷしでスクールカーストが決まるというシンプルな構造は、そこまで嫌いではなかった。
 ……そういう意味で、俺はこの学校のスクールカーストをぶっ壊しちまったのかもな。
 入学式以降、こうして指導をしに来てくれる先輩たちをなぎ倒し続けてきた俺は、クラスどころか学校で浮いた存在だ。
 その原因を作ったやつら、地面に伏している面々を、俺は一瞥する。
「……なぁ、もう止めにしないか? 売られた喧嘩は買うが、放っておいてくれれば、俺はあんたたちにはちょっかいは出さない」
「そういう、わけには行くかよ。一年一人シメれなきゃ、俺らが舐められるんだからな!」
 口から僅かに血を流した一人が立ち上がり、俺に向かって拳を振り上げる。だが既に立っているのだけで限界なのか、彼の足腰は震えていた。
 俺はその攻撃を避けることもせず、拳がこちらに届く前に足刀蹴りを相手の胸に叩き込む。先輩の口が空気の塊を吐き出すように大きく開き、悲鳴を上げて後ろに吹き飛んだ。背中からもろに地面に倒れて、一瞬痙攣したかのように体をビクつかせる。
「……あんたたちのメンツがどうなろうが、俺は知らん」
「くそっ!」
「調子に乗りやがってっ!」
「朱冨の奴らと揉めてるのに、お前に構ってる時間はねぇんだよ!」
 ……だったらなおのこと、ほっといてくれ。
 起き上がって攻撃を繰り出す先輩たちの腕を、足をさばきながら、顔面に右ストレートを、体を捻って背負投を、足払いをした後にみぞおちへ足を振り下ろして、俺は男たちを再起不能にしていく。
 ……意味がわからない。
 本当に、意味がわからない。六人が万全の状態であっても、俺に手も足も出なかったのだ。それが手負いの状態で、俺に敵うはずがない。
 ……それでも、来るなら火の粉を振り払うだけだ。
 それが徒労になるとわかっていながら挑んでくるのであれば、別に俺は止めやしない。徒党を組んで俺に向かってくるのも、対して変わりがなかった。
 結局喧嘩は、やるかやられるかの世界。やるもやられるも、結局は同じことだ。
 ……『生』と『死』の関係と、同じだ。
「これで、勝ったと思うなよ? 後で、吠え面かきやがれ……」
 そう言って倒れた先輩を横目に、俺は辺りを見回した。どうやらもう悪態をつくのが精一杯らしく、立ち上がる先輩はいないようだ。結局、先輩たちが誰も立ち上がることができなくなるまで、付き合ってしまった。
 丁度そのタイミングで、昼休憩を終えるチャイムが鳴る。俺はその音を聞きながら、校舎の塀を超えるように鞄を投げ、その後俺自身も塀をよじ登り始めた。
 ……バイトの時間だ。
 俺は高校に入学して、すぐに始めたことがある。それは原付の免許を取ることだ。理由はどちらかというと前向きなものではなく、後ろ向きなもの。
 ……生きていようが死んでいようが、何をしたって変わらない。
 学校にいれば、授業を受ける以外にも、こうして先輩たちの指導に付き合う必要がある。だから、学校にいない時間帯を作りたかったのだ。
 だが今は、バイト以外にも学校外でする事が、俺には増えていた。脳裏に浮かぶのは、一匹の犬だ。
 ……出席日数は計算してあるし、大丈夫だろう。
 学校の近所の公園、そこの駐車場に俺は原付を停めている。学校にも申請をすれば原付で通学可能だが、俺は学校と家の距離がそこまで離れていないので申請が下りない。だからこうして、学校の近くまで原付で来た後、歩いて学校まで通っているのだ。
 ……免許を取るための教習料と原付の代金はオフクロから借りてるから、バイトして返さないとな。
 原付につけてあったチェーンを暗証番号で外し、鍵を挿入してエンジンを吹かす。中古で激安販売されていた型落ちモデルのそれは、ところどころ塗装がはげ、外観は凸凹している。しかし、初代から受け継がれている丸みを帯びたデザインは健在で、エンジンも問題なく稼働した。
 俺は後頭部まで覆われているスモールジェットのヘルメットをかぶり、補導されないよう制服を鞄にしまって、代わりに取り出したスポーツメーカーの薄手のジャージを羽織る。学校指定の鞄は、無理やり畳んで原付に収納した。
 出発の準備が整った所で、俺はスロットルを吹かして原付を走らせる。
 公園の駐車場を抜けて、道路へと繰り出した。風が頬にあたって、夏の風も涼しく感じる。時速三十キロで過ぎ去る世界は、自転車よりスピード感を感じさせるが、車や電車に乗った時に感じるそれよりも遥かに遅い。
 自転車に乗るのが当たり前の中学生だった時より速さを手に入れたはずなのに、既にそれより速いものを知っているため、何故だか俺は空虚感を得た。先輩たちをどれだけ投げ飛ばせた所で、俺の出来ることには限りがある。
 出来ることなら、無限にスピードを出して、どこまでも駆け抜けて行きたかった。でも、そんな事出来るわけがない。俺の走る速度は免許と年齢に縛られていて、道は有限だ。どこまでも続く道なんて、どこにもない。それはきっと、『生』と『死』が地続きの道になっているのと同じぐらい、普遍的なものなのだろう。
 バイト先の工事現場へたどり着くと、俺は駐車場に原付を止め、ヘルメットを外して、原付から鞄を取り出す。鞄を一度担ぎ直すと、俺は敷居で仕切られた現場へと入っていった。俺のバイトは、肉体労働。工事現場の瓦礫の撤去が、俺の仕事だ。
「……お疲れさまです」
 簡素なプレハブ小屋の扉をたたき、挨拶をして中に入る。小屋の中には、誰もいなかった。
 俺は特に気にした様子もなく、出勤の記録を付けるため、自分の名前が書かれたタイムカードを探す。しかし、見当たらない。
 もう一度カードを上から探し始めた所で、プレハブ小屋に誰かが入ってきた。芳山さんだ。
 芳山さんはこの工事現場の現場監督を務めており、気弱な感じがするが工事の進捗状況など全体を俯瞰して見れており、現場のメンバーからは信頼されていた。
「……芳山さん。俺のタイムカードが見当たらないんですが」
「あ、長谷井くんか。ちょっとこっちに来てくれないかな!」
 肩にかけたタオルで汗を拭いながら、芳山さんは少し慌てた様子で俺を奥のテーブルへと誘導した。簡単な打ち合わせスペースになっているそこに、端に砂が溜まった机を挟んで、俺は芳山さんと向き合って座る。
 芳山さんは申し訳無さそうに一度うつむいた後、俺に向かって口を開いた。
「申し訳ないけど、長谷井くん。君は、もううちで働いてもらうことは出来なくなった」
「……クビ、ってことですか?」
「残念ながら、そうなるね……」
 タオルで額を拭いながら、芳山さんは申し訳無さそうに口を開く。
「実は、本社の方に連絡があったんだ。ここの現場で、素行に悪いバイトを雇ってるって」
「……そのバイトが、俺だと?」
 芳山さんは、唇を噛んで頷いた。それを見ていた俺は、学校を出る前に先輩から言われた言葉を思い出す。
 
『これで、勝ったと思うなよ? 後で、吠え面かきやがれ……』
 
 ……それがこれだとするなら、ダサすぎんだろ、先輩。
 あの先輩たちがやったという証拠は、どこにもない。でも、タイミング的にどうしてもそこと関連付けて考えてしまう。
 俺は少しため息をついた。先輩を叩きのめしている以上、自分は素行が良いだなんて、言えるわけもない。そのため息は、諦めのため息だった。
「……それで、俺はクビですか?」
「すまない。私としては君の働きっぷりには助かっていたし、君がそんな事をするとは思えない。そこは信用している。だが、相手は証拠の動画も撮ってある、すぐに止めさせないと動画サイトにアップしてSNSで拡散するぞ、と言ってきて――」
「……もう、いいですよ。芳山さんが庇ってくれただけで」
 そう言って俺は、芳山さんの言葉を遮り、席を立つ。そしてその場で一礼した。
「……今まで、ありがとうございました」
「そんな、謝らないくれ! こちらの方こそ、力になれずに申し訳ない」
 そう言いながらも、どこか安心したような表情を浮かべた芳山さんは、俺に向かって封筒を差し出した。
「これは、今まで働いてくれた分のバイト代だ。少しだけど、気持ちを入れておいた」
「……ありがとうございます」
 そう言って俺は、プレハブ小屋を後にした。
 駐車場に戻り、停めてある原付に乗る前に、芳山さんから手渡された封筒の中身を確認する。中から出てきたのは、千円札が三枚と、百円玉が二枚。働いて信用されていた俺の頑張りは、合計三千二百円だった。
 ……オフクロに金返せるのは、一体いつになるんだろうな?
 原付を維持するには、税金も保険も必要だし、当然ガソリン代だってかかる。車のメンテナンス代に比べたらかなり安いとは言え、金は必要だ。しかし――
 ……バイト、また探さないとな。
 スクールカーストに興味はない。降りかかる火の粉があれば、払うだけだ。それでもまとわりつかれるから、距離を取ろうと学校を抜け出した。でもその抜け出した場所を、俺は今失った。
 逃れられない。地続きだから。全ては『生』と『死』が続いているように、表裏一体。居場所を変えても、俺の現状は変わらない。
 ……せめてもう少し、金があればな。
 その時ふと、トートの事を思い出した。正確には、先生があの犬と一緒に残してくれた、百二十万円の事を。
 そこで俺は、小さく首を振る。
 ……駄目だ。あの金は、小嶋がトートの世話に必要だと認めないと使えない。
 原付を走らせて、俺は工事現場を後にする。今日は、俺と紫帆がトートを世話する日だ。
 バイトがなくなり時間が余ったので、俺はトートのいる家の近くのコンビニに寄る。ペットボトルのお茶を買い、俺はスマホで少しの間、あることについて調べ物をしていた。
 
 調べ物もある程度終わり、少し早い時間帯だが、俺は原付を走らせてトートの元へと向かう。
 目印のボロボロの家の前でエンジンを切り、原付を押して裏手へと回った。すると、既に扉が空いている。俺はノックもせずに、その中へと入っていった。
「こら、トート、くすぐったいって! あははっ! あ、たけじゃん。おつかれー」
「わんっ!」
 扉の向こうには、予想通りと言うべきか、既に到着していた紫帆がトートと戯れていた。庭の脇には、紫帆のものと思われる鞄とブレザーが置かれている。
 紫帆が喉元を撫でると、トートは気持ちよさそうに目を細めた。いつ見ても笑っているようにしか見えないトートの口から、桃色の舌が上下に揺れている。
 それを横目に、俺は原付を庭の中へと入れると、扉を閉めた。
「……随分早いな、紫帆」
「授業だるいからサボりー。そーゆーたけも、だいぶ時間早いと思うけど?」
「……お前と似たようなもんだ」
「そっかー。じゃあ、二人そろったし、トートにご飯あげよっか」
「わん! わんっ!」
 物置に向かおうとする俺たちの後ろを、トートがついてくる。俺はすっとトートを抱えあげ、餌を勝手に食べられないようにした。
 トートは俺の方を見上げて、どうして僕にそんなに意地悪するの? とでも問いかけてくるような瞳を向けてくる。
「……くぅーん」
「……そんな目をしても駄目だ」
「ちょっとぐらいなら、多めにあげても良いんじゃないのかなー?」
「わんっ!」
「……駄目だ。食べ過ぎは健康に悪いし、太るとその増えた体重で後ろ足を引きずることになるから、怪我の元になる」
「……くぅーん」
「えー、でも、それだとトートが楽しく生きられないかもしれないじゃん? それにあたし、この子がご飯食べてる所見るの好きだしー」
「わんっ!」
「……駄目だ。多数決で、ちゃんと世話するって決めただろ?」
「ちゃんとって文言は、なかったと思うけどなー。でも、たけの言うことにも一理あるねー」
「……くぅーん」
「ほーらトート、そんな声出さないのー。ご飯は一杯食べれないけど、あたしと一杯遊ぼーねー」
「わんっ!」
 紫帆は俺からトートを受け取ると、犬小屋の方へと向かっていった。
 邪魔者がいなくなったため、俺は物置の中でフードボールを探す。棚の奥にしまわれていたそれを手に取り、中に餌を入れようとドッグフードの袋に手を伸ばした。その時――
 
「は? 何してんの? お前」
 
 紫帆の、冷めた声が聞こえてきた。間延び口調でなくなった時、だいたい紫帆はキレている。
 物置の外に出ると、そこには地面から紫帆を見上げるトートと、上半身のシャツが濡れている紫帆の姿があった。
「……何があった?」
「こいつ、あたしにしょんべんかけやがった」
 怒りで紫帆の口角が、若干引きつっている。口の端は上がっているのにその目の温度は冷たくて、今にも紫帆はトートに手を上げそうだった。
 俺は思わず、口をはさむ。
「……トートは、下半身が麻痺している。トイレもあまり上手くできない。だから犬小屋も水拭きしてるんだろ?」
「だから、しょんべんかけられても笑って許せって? あたし、無理かも」
「……だが、飼い犬を傷つけたら最低でも器物破損罪だぞ。警察が入ったら、動物愛護法違反の可能性だって出てくる」
「は? 犬なのに、器物破損? 何いってんの、たけ」
「……ペットも物として扱うことがあるんだよ。器物破損罪は親告罪だから、物の所有者が告訴する事で裁かれる。お前がトートを傷つけた場合、寿史やしおりならやりかねんだろ? それはきっと、楽しくない」
「…………まぁ、ひさとしおしおなら、そーかもねー」
 そう言って、紫帆は険のある表情を少しだけ和らげた。
 それを見た俺は、後ろ手に物置の扉を閉めて、紫帆の方へ歩いていく。
「……俺のジャージでよければ、使ってくれ。物置の中でなら、着替えられるだろ?」
「うーん、じゃーそーする」
 俺はジャージを脱いで、紫帆に差し出す。それを受け取った紫帆は、無言で物置の方へと歩いていった。
 紫帆が物置の扉に手をかけた時、僅かに俺の方へ視線を送ってくる。
「でも、よく知ってたねー? 器物破損とかなんとかって」
「……たまたまだ」
「ふーん」
 そう言って、紫帆は物置の中へと入っていった。それを見送り、俺は内心ため息をつく。
 俺が紫帆に言ったのは、嘘だ。
 ここに来る直前のコンビニで、俺は動物を虐げた時の事を調べていた。何故なら先生の遺言でトートと、トートを世話するための金が俺たちに残されている。
 ……だったら、トートがいなくなれば、その金はどうなる?
 今は弁護士の小嶋の管轄だが、あの金は先生がトートの世話をするために俺たちに残してくれたものでもある。だからトートがいなくなれば、百二十万を俺たちのものだと主張するのはそこまでおかしなことではないと思ったのだ。
 ……百二十万を六人で割れば、一人あたり二十万になる。
 実際はトートの食費などが発生しているため、もう少し得られる金額は下がるだろう。それでも今トートに何かあれば、各人の取り分は十万以上になるはずだ。
 しかしそれは何かが起こる前提で、今すぐそれが起こるだなんて偶然はありえない。だから誰かが何かを起こさなければならないのだが――
 ……トートは、法律に守られている。
 俺たち六人が六人とも共謀すれば、その何かを起こしても勝算がある。全員で口裏を合わせて、不慮の事故という形にすればいいからだ。
 しかし先程俺が紫帆に言った通り、寿史としおりはトートを守ろうとするだろう。ひょっとすると、静花も反対するかもしれない。そうなれば、彼ら(トートの所有者)はトートに何かをした人を糾弾する。つまり、親告罪で訴えられる事になる。
 俺たち六人の中の誰かがトートを守ろうとする限り、トートのために残された金を手に入れることは出来ない。
 ……だから、そんな心配そうな目で俺を見なくても大丈夫だぞ。
 こちらを見上げるトートの頭を、俺は撫でる。トートは俺にされるがまま、黙ってその身をこちらの手に委ねていた。
「ありがとー、たけ。着替え終わったよー」
「……ああ」
 ジャージに着替えた紫帆が、物置から出てくる。それを見たトートが俺の手から離れて、紫帆の方へと歩いていった。
「……くぅーん」
「……いいから、ご飯にしよーか」
「わんっ!」
 そこから俺たちはトートに餌を与え、淡々と犬小屋の掃除を行った。紫帆も、トートに対して何かしようとする素振りも見せない。
 散歩のコースは南側の団地沿いを選び、藍銅公園(らんどうこうえん)を目的地にして歩き始める。
 その間トートは、相変わらず笑ったような表情で俺と紫帆を見つめていた。