死にたくないって思わない人は、いないんじゃないだろうか?
 ずっと生きていたいって思わない人の方が、少ないんじゃないだろうか?
 ……だから僕は、永遠に生きたいって、残り続けたいって、そう思ったんだ。
 放課後、僕は美術室にいた。
 檸檬月高等学校の校舎の四階にあるその教室には、キャンバスを立てるための木製のイーゼルが並び、壁の棚にはデッサン用の彫刻がいくつも並べられている。いくつかのイーゼルの上に鎮座するキャンバスには、美術部の生徒たちが描いた水彩画や水墨画、油絵絵画が並んでいた。絵のモチーフはバラバラで、町並みを描いた風景画もあれば、自分の好きなアイドルの人物画もあり、中にはこの世に存在しないであろう場所や建物を描いた空想画もある。
 それらに囲まれながら、僕は筆をペイントパレットに伸ばす。ペイントパレットに伸ばしたいくつかの色の中から黄色を選択し、僕はその色を筆に宿らせた。そしてそれを振るい、今度は目の前のキャンバスに黄色という彩りを添えていく。
 今僕は、レモネードの絵を描いていた。今日みたいな夏の暑い日に飲むレモネードが、僕は嫌いではない。
 キャンバス上には、透明なガラスのコップが描かれていて、その中に四角い氷と輪切りのレモンが入っている。そのコップの中をレモネードが満たしていて、黄色の小さなプールみたいになっていた。そのプールにはスライダーの代わりとでもいうように、青と白のストライプ色のストローがささっており、青々としたミントも添えられている。
 ……現実のレモネードだと、氷も溶けてなくなり、レモンも腐って朽ち果ててしまう。
 でも、僕のレモネードはそうはならない。コップの表面についた水滴も、みずみずしく透明感を感じさせるミントも、何もかもそのままだ。
 僕の絵の中の存在は永遠に消えることなく、この絵を描いた時のまま生き続けている。レモネードを飲んだ時のスッキリとした爽快感も、この絵に刻みつけておきたい。
 ……『死』が避けられないなら、ずっと残る方法を僕は選ぶよ。
 僕が死んでも、この絵がある限り、僕が生きた証は、僕が絵に残したものは、永遠の『生』を得る。僕という存在がいなくなったとしても、僕が生きていた証は残り続けるのだ。
「あれ、東武君?」
 美術室の扉が開き、美術部の先輩が入ってくる。学年が一つ上の先輩は美術室の扉を閉めると、スカートを揺らしながらこちらに向かってきた。
「今日は用事があるって言ってなかったっけ?」
「ええ、そうですよ。でも、スケッチブックを忘れてしまったので取りに来たんです」
「……じゃあ、何で絵を描いてるの?」
「もっと、ちゃんと残してあげれるんじゃないかと思って」
「……何それ」
 面白そうに笑う先輩が、筆についた絵具を拭き取る僕の隣に立った。彼女は僕が残そうとしているレモネードの絵を見て、感心したように頷く。
「相変わらず上手だよね、東武君」
「上手さは、あんまり気にしたことないんですけどね」
「またまた、そんな事言って! この前のコンクールだって、入賞してたじゃないっ!」
 それは確かに事実だけれど、僕にとって重要なのは他人からの評価じゃない。僕の描いたものが、生きた証がどれだけ残るか否かだ。
 ……昔は大会の賞を取った絵が後世に受け継がれてたけど、今はネットに上げれば残り続けるから。
 だからもう、僕にとってどうやって残していくのか? という問題は解決していた。解決しているが故に、今僕の一番の関心事は、何を残すのか? 何を描くのか? ということだった。
 ……そしてそれを、僕はようやく手に入れた。
 内から沸き起こる歓喜を溢れないようにしつつ、僕は筆洗器で筆を洗う。
「たまたまですよ、先輩」
「……やっぱり、変わってるよね。東武君」
「そうですか?」
「そうだよ。だって、他の一年生の子から、東武君はクラスだと大人しい感じって聞いてるし」
 筆をタオルで拭う僕のそばに、一歩先輩が近づいてくる。
「でも、絵を描いている時は別人みたい」
 それはそうだろう。だってそれが、僕が見出した『死』との向き合い方、折り合いの付け方なのだから。
 ……先生と一緒に、僕が、僕だけが見つけた方法なんだ。
 だから、他人からどう見られているとか、スクールカーストの順位とか、そんなものは僕には全く興味がなかった。
 もっと言ってしまえば、永遠の『生』を、僕の生きた証を残すこと以外、どうでもいい。
「そう言えば、先輩はどうしてここに?」
「なんだか今日は、東武君に会える気がして」
 ……じゃあ、何で美術室に入って僕の姿を見た時驚いたんですか?
 少しだけ、僕の口元が歪む。
 学校の人間関係が必要以上に密接になるのは、僕が望むものではない。唯一家族以外で許容できる人間関係は、一緒にあの『死』を目の当たりにした五人ぐらいなものだ。
「じゃあ、先輩は今日は絵を描いていくんですか?」
「うん。それでね、東武君。私今、描いててちょっと悩んでることが――」
「よかった。それじゃあ美術室の戸締まり、お願いしてもいいですか?」
 筆を乾燥させるための洗濯物ハンガーのハサミに筆を挟んで、僕は笑顔で先輩に美術室の鍵を手渡した。
「え、あ、うん」
 少し表情を固くした先輩の手が、ぎこちなく僕から渡された鍵を握る。
「それでは、僕はこの辺で」
「あ、ちょっと待って! 少しだけでいいから」
 スケッチブックを入れた鞄を担いだ所で、先輩が僕の手を握った。思わず舌打ちしそうなところを、なんとかこらえる。
 ……もう描きたいものは描けたし、早くトートの所に行きたいのに!
 トートは、あの先生が残してくれた大切なものだ。先生は、僕が永遠を求めて生きた証を残したいと思っていることを知っている。だからきっと、先生が生きていた証であるトートは、先生が僕にくれたプレゼントなんだ。それが先生が、僕にトートを残してくれた意味なんだ。
 僕がトートを描くことで、僕がトートを永遠にする事で、僕が生きた証は、先生が残してくれたものは、永遠に残り続ける。
 写真じゃ、駄目だ。それは僕じゃなくてもきっと出来る。僕が手を動かして、僕が僕自身のために行わないと、駄目なのだ。そうでなければ、僕が残したという充実感を、僕が得られない。それなくして、僕は『死』と向き合えない。何かと代替できるものなんて、僕の生きた証になりえない。
 ……だから、早くトートの所に行かせてよっ!
 怒りの形相で振り向こうとした、その瞬間。美術室の扉が、乱暴に開け放たれた。
 美術室に入ってきたのは、不機嫌そうな顔をした、義法だった。彼は苛立たしげに眼鏡を押し上げて、口を開く。
「放課後、昇降口の前に集合って言ったの、寿史だろうが。どれだけ待たせんだ? さっさと来い!」
 
 電車を降りて、僕は義法と一緒に駅の改札を抜ける。居酒屋やバーガー屋が並ぶ南口ではなく、北口のバスロータリーを横切って歩いていると、先に歩いていた義法がこちらに振り向ことなく話しかけてきた。
「弁護士の小嶋が言ってたんだけど、今から向かう家って、元々先生の両親が住んでた家らしいな。ご両親も亡くなってて、たまに先生も掃除をしに帰ってたらしい」
「そうなんだ」
「それが今では犬のために維持してるだなんて、随分変な話だ。それに、犬一匹が住むには贅沢過ぎる。家の維持にかかる税金も、例の百二十万から出てるんだってさ。税金は年間二十万ぐらいらしいから、まぁ、あいつがいなくなるまではもちそうだな」
「そうだね」
 義法の言葉に相槌を打つも、正直僕はこの話に興味がなかった。お金がいくらかかろうとも、先生が残してくれたもの(トート)があれば、その絵が描ければ、僕は何だっていい。
 でも、次の話題は、流石に聴き逃がせなかった。
「……先生は、何を考えてたんだろうな?」
「どういう事だい?」
「小学生三年生のあの日、俺たちは変わっちまっただろ?」
 その問いに、僕は頷く他なかった。
 先生の見立てでは、僕たちが『死』に出会って抱えた疾患は、外傷後ストレス障害(Post-traumatic Stress Disorder)みたいなものだという。
 あの日、周りの大人たちは大騒ぎだったらしい。まず、僕たちがいつまで経っても登校してこない事に不審に思った学校の教師が、それぞれの家に連絡。家を出たはずだという事で学校の教師と両親たちが僕たちを探しに出かけ、彼らは死体の前に立ち尽くす僕らを発見した。
 時間にして、おおよそ二時間程だという。
 二時間の間、僕たちは唐突に出会った『死』を前に、大人たちが駆けつけるまで一歩も動けなくなっていた。
 僕はたまに、ふと思うことがある。
 普通の小学生三年生なら、どんな風に高校生になったのだろう? 将来なりたいものを決めて、成長していったのだろうか? それとも、ただただ毎日はしゃぎながら成長したのだろうか? それとも、成長の実感など得られないままに、高校生活に突入したのだろうか?
 ……でもあの日、僕たちは『死』を知ってしまった。
 言葉としてではなく、現実の存在として、リアルな人間としての『死』をまざまざと見せつけられた。どうしようもなく終わりという存在を、心の奥底まで刻み込まれた。
 その時の事を思い出したのか、義法が自嘲気味につぶやいた。
「それから俺たちは、上手く自分の言葉で話すことも出来なくなった。夜中に急に目が覚めて、滝みたいに汗を流しながら飛び起きる事もあった」
「僕は、まだたまに夜中に飛び起きるよ」
「……俺もだ。先生のカウンセリングを受けて、『死』との向き合い方、折り合いの付け方を模索してなきゃ、俺はきっと、まだあの『死』の前に立ちすくんでいたと思う」
「それは義法だけじゃなくて、僕も含めた他の五人も同じだと思うよ」
 六人全員、どうにかしたいともがいていて、先生がそのもがきを手伝ってくれた。でも不思議なことに、六人が六人とも先生と一緒に『死』の向き合い方を考えたのに、皆違う結論に行き着いた。
「その時からだよね? 僕たちの間で、意見が割れたら多数決で決めるってルールが出来たのは」
「皆、自分の方法が正しいって思ってたし、その方法で他の五人も『死』と折り合いがつけられるって、今でも思ってるからな」
「先生に、どうすればいいと思う? って聞かれなかったら、六人の意見がぶつかり合って、またそこで立ち止まってただろうね、僕ら」
 そして多数決の結果、互いの『死』の向き合い方には口を出さない事に決まったのだ。
 ……そう言えば、このルールも多数決というシステムも、先生と一緒に作ったものか。
 でも、だとしたら僕は――
「なぁ、寿史。先生は、何であの犬を俺たちに残していったんだと思う? どうせ死んだら消えて無くなってしまうのに」
 今湧き上がった違和感の正体に気づく前に、僕の頭は義法の言葉で埋め尽くされる。
 僕は首を振って答えた。
「先生は、トートを僕たちに残していってくれた。それだけで意味があることじゃないか。後は、それを受け継いだ僕が残していけばいい」
「……そうかよ」
 そう言ったっきり、義法は口をつぐんだ。互いの『死』との折り合いの付け方は、知っている。知っているから、僕たちはこれ以上互いに口を挟まなかった。
 
「ここだね」
 あるボロ屋の裏手、その扉の前で、僕はそうつぶやいた。スマホで位置情報を確認し、メッセージアプリで静花たちから送られてきた写真も確認して、この扉が目的地である事を確信する。
 僕は小嶋さんからもらっていた鍵で扉を解錠し、敷地の中へと足を踏み入れた。僕の後ろを、仏頂面の義法がついてくる。
「わん! わんっ!」
 僕たちの姿を見つけたトートが、足を引きずりながら犬小屋から飛び出してきた。僕はしゃがんでトートを受け止めると、わしゃわしゃとその頭を撫でてやる。トートの小さなしっぽが、嬉しそうにひょこひょこと揺れた。
「……じゃあ俺、餌持ってくるわ」
「わんっ!」
「てめぇはついてくるな! 静花からの報告で、お前が餌をどか食いしようとしてたことはバレてんだよ」
「……くぅーん」
「しょげかえっても駄目だ」
「ほら、トート。僕と一緒に遊ぼ?」
「……わんっ!」
「いや、寿史。お前も仕事しろ」
「……くぅーん」
「でも義法。誰かがトートの面倒を見てないと、トートが餌を勝手に食べようとするんじゃないかな?」
「わん! わんっ!」
「うるせぇなぁお前ら……」
 そう言って舌打ちをしながら、義法は一人物置へと向かっていく。ひとまずトートに、餌を与えることを優先したようだ。
 一方僕は、犬小屋からトートの遊び道具を取り出して、庭にばらまいた。それを見たトートが、嬉しそうにおもちゃへかじりつく。
 その様子を横目に、僕は自分の鞄からスケッチブックを取り出した。制服に砂がつくのも気にせず庭に座り込み、僕は筆箱からデッサン用の鉛筆を取り出す。
 最初に使うのは、芯があまり硬くない2Bの鉛筆だ。2Bは紙を傷めずに描けるので、絵の大まかなベースを描く時に僕は多用している。
 トラのぬいぐるみにかじりついているトートを横目に、僕は鉛筆をスケッチブックへ走らせた。
 ……動物を描く時は、相手が止まってくれている方が少ないからね。
 もとより、トートに動き回られる事は覚悟の上だ。だからまず、動き回るトートの大枠を描いた上で、徐々に細部を精緻化して絵を描いていく方法を取る。
 顔の輪郭に、体の大きさ。四本の足のバランスに気をつけながら、丸みの帯びだ耳と短いしっぽの位置までアタリをつけておく。
 少し粗めに描き込んで、僕は今度は筆箱からねり消しゴムを取り出した。ねり消しゴムは平ぺったくして面で消したり、尖らせて線で消したりと、消すことで絵を描く事ができる。
 邪魔な線をねり消しゴムを転がして消していると、義法が物置からこちらに不満の声を上げた。
「おい寿史! 犬こっちにきてんじゃねぇか! 面倒見るなら、ちゃんと見ろっ!」
「わんっ!」
 スケッチブックから顔を上げてみれば、トートは物置の前に立つフードボールを持った義法の周りを走り回っていた。
「手に持ってるものを、地面に置けばいいんじゃないかな?」
「そう簡単な話じゃねぇんだよ! こいつ、物置の中の餌を狙ってやがるっ!」
「わん! わんっ!」
 僕は苦笑いを浮かべて、スケッチブックをたたみながら立ち上がった。制服についた砂を払って、次来る時は折りたたみの椅子も持ってこようと思いながら、物置に向かう。
「ほら、トート。ご飯の時間だよ」
「わんっ!」
 スケッチブックを物置に置いた後、僕はトートを持ち上げて物置から距離を取る。その間に義法が物置の扉を閉めて、フードボールをトートの前に置く。
 トートが食事に夢中になっているのを観察している僕の目の前に、義法が箒を突き出してきた。
「こいつが飯食ってる間に、ちゃっちゃと掃除済ませるぞ」
「……わかったよ」
 本音を言えば、トートを描くために、もう少しトートを観察しておきたい。でも義法が本気で怒っていることがわかったので、僕は素直に掃除をすることにした。
 ……それに僕も、まだ本気でトートを描き始めてないしね。
 義法と犬小屋の掃除を済ませた後、今度はトートと一緒に散歩へ向かう。
 その前に、ある準備が必要だった。
「これ、大丈夫なのかな?」
 トートの下半身に巻きつけられたベルトを手にした僕は、不安げに義法に問いかけた。彼も渋い顔をしながら、手にしたスマホを睨んでいる。
「でも、介護ベルトの使い方はこれであってるはずだぞ」
「わんっ!」
 ベルトで引っ張り上げられ、お尻が頭の位置より高くなったトートが嬉しそうに鳴き声を上げる。
 何も知らずに道端でこんな格好の犬を連れている人を見かけたら、犬を虐待しているのでは? と思う姿なのだが、トートは全く平気そうだ。それどころか、早く散歩に行かせろと言わんばかりに前足を動かして、こちらを急かしてくる。
「変性性脊髄症は下半身が麻痺してるから、犬本人は後ろ足を引きずって歩いても痛みを感じない。だから犬は普通に歩こうとするが、足を引きずっているから怪我をする。だからこうやって引っ張り上げるのが正解なんだが……」
「……まぁ、ひとまず行こうか。静花たちも昨日はこれで散歩してるはずなんだし」
 義法にそう言って、僕たちはトートと庭の外へ繰り出した。扉の鍵を締めていると、義法はまだスマホをいじっている。
「散歩、どこまで行く?」
「静花たちは、菫青公園(きんせいこうえん)まで行ったんだよね?」
「菫青はここから北方向に進んだ団地の近くにある公園だぞ。結構歩いてるな……」
「わんっ!」
「じゃあ、僕たちは反対方向の南側を目指そうか」
「……なら団地沿いの花田天然公園(はなだてんねんこうえん)まで行くか」
「わんっ!」
 トートの声に押されるように、僕たちは道を歩いていく。後ろ足が地面につかないようにベルトで持ち上げているため、トートは下半身が宙に浮いている状態だ。
 下半身が吊られているため、トートは二本の前足でバランスを取って歩いている。しかし、それですんなり歩けるわけがない。特に下半身の位置は、介護ベルトを持つ僕が決めていると言ってもいいのだから、バランスを取るのはかなり難しいはずだ。
 それでもトートは嬉しそうに、自分の身に起こっている事を、これから訪れるであろう終焉を感じさせることなく、その目を好奇心に輝かせて歩いている。
 よたよたとした歩みでも、トートは耳をひょこっと動かしながら前に進んでいた。
 先生が残してくれたそれの姿を見て、その在り方を見て、僕は思わずつぶやいていた。
「美しい……」
「おい、やめろっ!」
 義法が、苛立ったような、切羽詰まったような表情で、僕の肩をつかむ。その力に、僕は僅かに眉をひそめた。
「終わろうとしているものに、意味を見出しすぎるな。お前まで引きずられて――」
「お互いの『死』に対する向き合い方には口を出さないって、そう決めただろ?」
 義法の手を、僕は強かに払いのける。目を細めながら、僕は義法を一瞥した。
「先生の葬儀の時から、続けてだよ? 義法。破るのかい? 僕たちのルールを」
 そう言った僕を見て、義法は狼狽えた。
「ち、違う! 俺はただ、お前が――」
「そう言えば、義法っていつも多数決で誰かの意見を否定する方に投票するよね? そうやって誰かを否定して、楽しい?」
「……何だと?」
「全てが無意味だと思うのは義法の自由だけど、それを僕にまで押し付けないでくれよ。はっきり言って、ウザいよ。それ」
「てめぇ!」
「くぅーん、くぅーん」
 義法が僕へ一歩踏み出した所で、トートが僕たちの間に入り込む。
 トートは義法の足にまとわりつき、義法が一歩後ろに下がった。その後トートは、僕の周りを一周し始める。トートのベルトを握っている以上、僕もその動きに合わせてその場で一回転するしかない。
 一回転し終えると、なんとも言えない表情を浮かべた義法と目があった。
「……勝手にしろ」
 毒気が抜けた表情の義法がそう言って、先に歩き始めた。
「わん! わんっ!」
 トートが元気よく鳴き声を上げ、義法の後を追う。一歩踏み出した所で、トートがこちらを振り向いた。僕は少しだけ、口元を緩める。
「……うん。そうするよ」
 そう言って、僕も歩き始めた。
 夕日に照らされ、二人と一匹の影が道路に伸びている。予定通り花田天然公園にたどり着き、家に帰った所で、僕も義法も帰路についた。