私は何度も止まりそうになる自分の足を、必死に動かして走っていた。
トートの家から北西方面。もうかなり走った気がするし、まだ全然走っていない気がする。でも夕暮れになっているので、結構な時間走っているのだと、そこでようやく気がついた。
時間の経過を認識して、私は同時に自分の疲労も認識してしまう。一度止まってしまうともう動けなくなりそうで無理して走っていたけど、もう限界だ。
私は道の脇にそれて、自動販売機の隣にあるベンチに腰を下ろした。うつむき、荒い息を吐く度に額から汗が地面へと流れ落ちる。体は熱いのに、恐怖で心は凍えて震えが止まらない。
……トート。
視界が、涙で滲んでくる。探しに行かなきゃ、と思うのに、頭にはトートの思い出が走馬灯のようによみがえってきた。
最初の頃、私はトートが怖くて仕方がなかった。もう死期が近いトートは、私にとって『死』を連想させるものでしかなく、近づくのも嫌だった。
……でも、多数決の結果、お世話する事になって。
怖いのに、会いに行くといつもこっちに向かってくる。大人しくして欲しいのに、全然言うことを聞いてくれない。本当に、だいっきらいだった。
……でも、放っておけなくて。
多数決で決まった以上、お世話はしなくてはならない。そして何より、トートは誰かが見ていないと『死』にどんどん近づいていってしまう。そんなの怖くて、放置出来なくて、気づいたらトートから離れられなくって、どんどんトートのことが好きになっていった。
『死』に近づいていっているはずなのに、行くといつも嬉しそうに笑っている顔が好きだった。
下半身が動かないのに、一緒に誰かと遊びたがる所が好きだった。
ご飯を食べすぎないように注意すると、少ししゅんとする顔も好きだった。
本当に、本当に本当に好きだったし、これからもきっと私はトートのことが好きなまま死んでいくに違いない。
……だから、嫌だよ、トート。
こんな終わりなんて、嫌だった。
もう会えないなんて、嫌だった。
また、あの笑顔に会いたかった。
名前を呼んで、抱きしめて、トートの暖かさを感じていたい。
また一緒に散歩に行きたいし、また名前を呼んでトートの頭を撫でたい。
想いが溢れてきて、涙が自分の手の甲に落ちる。涙の熱さでまたトートを抱きしめた事を思い出し、涙がどんどん溢れてくる。
……もう、行かなきゃ。
涙を拭って立ち上がろうとした所で、スマホが振動。取り出すとトークルームに紫帆からメッセージが入っていて――
『トートは菫青公園』
『皆急いで』
『よっしーが殺されちゃう!』
……え、どういう事?
わからない。わかっているのは、トートが菫青公園にいるということと、義法が危ないということだけだ。
私は弁護士の小嶋さんに連絡を入れると、すぐに菫青公園へ向かって走り始める。体に疲労は感じない。今はただ、全身全霊で走ることしか考えられなかった。
……トート! 義法っ!
私が菫青公園に到着した時には、もう辺りも薄暗くなり始めていた。
菫青公園は斜めの立地に建っている公園で、上段と下段が階段でつながっている構造となっていた。上段は芝生の生えたグラウンドとなっており、下段は滑り台やジャングルジム、シーソーにブランコといった遊具が並ぶ作りとなっている。
私がたどり着いた菫青公園の上段のグラウンドでは、かつてトートと一緒に散歩に来たときはサッカーや野球をする子どもたちの姿もあったが、今の時間は誰の人影も見えない。
スマホを覗き込んだ後、私は視線をある所に向ける。
……トートたちは、下段の方かな?
階段の方に駆け寄ろうと思うも、トートをさらったやつらもいるはずだと思い、若干私の足が進むのをためらう。しかし、トートと義法の身に危険が迫っていると思い、私は茂みからから顔を出すように、階段下へ視線を送る。暗くなってきているので、私は目を細めて辺りを見渡した。
滑り台のそばには、誰もいない。ジャングルジムのそばにも、誰もいない。シーソーのそばにもいなくて、ブランコの辺りには――
……いたっ!
ブランコの周りの背の低い囲いに二人、腰掛けている人影が見える。一人は金髪で、もうひとりはドレッドヘアーの、朱冨の制服を着ている男子だ。ドレッドヘアーの足元で、何かがうごめいているようにみえる。目を凝らして見ると、それは踏みつけられているトートだとわかった。口元と足が、ガムテーブが巻かれて身動きが取れなくなっている。
……トート!
叫び声を上げたくなるが、今ここで出ていっても私に何か出来ることはない。しかし、トートが必死に顔を動かす先には、ボロボロになった義法の姿があった。
義法は口から血を流しており、土にまみれて制服も泥だらけになっている。そこに追い打ちをかけるように、頭の両サイドを刈り上げた男子が義法の腹を蹴り上げた。義法がうめき声を上げ、トートはくぐもった声で鳴きながら体を動かす。その様子を、他の二人は薄ら笑いを浮かべて見つめていた。
「おら、いい加減大人しくなれよっ!」
顔を蹴られそうになるのを、義法はなんとか腕で防ぐ。そしてすぐに蹴られた足にしがみつこうとするが脇腹を殴られ、義法は痛みでのたうち回った。
そんな義法を見て、刈り上げはつまらなさそうに舌打ちをする。
「何犬一匹にそんなに必死になってんだよ。しかもこいつ、死にかけなんだろ? キモいよ、お前」
「俺が、キモいのなんて、わかってんだよ、言われなくてもよぉ……」
口元を拭い、震える足で義法はなんとかその場に立つ。だがまともに立っていられないのか、その足は千鳥足となり、安定しない。それでも義法は、しっかりとトートの方へ視線を向けていた。
「確かに、俺はキモいよ。根暗だし、陰気で後ろ向きな考えしか出来ねぇ。正直トートもその時が来たんなら、何やったって死ぬしかねぇと思ってるよ」
「だったら――」
「でも、でもなぁ! それは、その『死』は、決しててめぇらにどうこうされていいもんじゃねぇんだよっ!」
義法が吠えて、刈り上げに向かって走り出す。
「てめぇらがトートの『死』を、勝手に決める権利はねぇだろうがっ!」
「……やっぱキモいよ、お前」
義法の右ストレートは空振り、反対に刈り上げが放った肘のカウンターが綺麗に義法の顎を直撃する。その勢いをそのままに、義法はトートの方へ吹き飛ばされた。
もう立つ気力も残っていないのか、義法は地面に這いつくばったままトートに向かって手をのばす。苦悶の表情を浮かべる義法のその手は、すぐに金髪に足で払いのけられて届くことはなかった。
そして金髪が更に義法に近づいた所で――
「止めなさい!」
私は階段を降りて、義法たちの方へと向かう。その最中スマホを操作して、先程書き込んだ、今菫青公園で起こっている事等をトークルームへメッセージとして送った。更にスマホをいじりつつ、ブランコの方へあるきながら、私は口を開く。
「さっき、警察を呼びました! 無駄な抵抗は止めて――」
「嘘だな」
「え?」
金髪にすぐにそう言い返され、私は思わず呆然としてしまう。その私の様子を見て、金髪は嫌らしく笑った。
「見ず知らずのやつを助けるために、警察を呼ぶならまだわかる。でも、わざわざ俺たちにそれを教えに来るなんて変だろ?」
「そ、それはあなた達がその人にこれ以上危害を加えないように――」
「だったらなおさら俺たちの方には来ない。むしろ、こういうはずだろ? 『おまわりさん、こっちです!』って叫ぶのさ。そう言われりゃ、確かに俺たちは逃げただろうよ。だが、この犬も一緒に連れてな。でも、お前はそうしなかった。この犬を俺たちに連れて行かれたくないからだ」
その言葉に、私は内心冷や汗を流していた。図星だったからだ。
……トークルームへメッセージを送るのが精一杯で、警察に連絡している時間はなかったからね。
あの時私が飛び出していなければ、下手すると義法は本当に殺されていたかもしれないからだ。
もし警察が近づいている、と嘘をついていたら、義法は助けられるかもしれない。
でも、トートを連れて逃げる彼らを追うことは不可能になる。尾行して後を追うことも出来るかもしれないが、気づかれたら、それこそ嘘だとバレて私だけでなく義法も、そしてトートの身も危険に晒してしまうだろう。
だから私は、警察に通報したと嘘をついたのだ。
……でも、こんなにあっさりと見破られるなんて。
黙り込む私を見て、金髪の笑みが濃くなる。
「お前、転がってるやつと同じく、この犬の関係者なんだろ? いるんだよ。たまにお前みたいに、二兎を得ようとして色々考えるやつが。でもそういうやつは結局一兎も得れずに、俺たちのエサになるんだけどな」
そう言って金髪は、他の二人に向かって顎で指示を出す。
「あの女ひん剥いて、写真に撮れ」
「や、止めろ……」
顔を上げた義法のみぞおち辺りに、金髪が蹴りを叩き込んだ。
その様子を見ていたドレッドヘアーが、下卑た笑いを浮かべてこちらを一瞥する。
「ヤッちゃっていいんですか?」
その一言で、私の背筋を悪寒が走った。スマホを握り、私は一歩後ろへ下がる。
金髪は、面白くなさそうに頭をかいた。
「馬鹿野郎。今日はこの犬を金に変える準備までだ。紫帆とこいつらから百万徴収するのが先だ」
「でも海くん、こいつ結構可愛い顔してるぜ?」
「……ヤりたいんだったら、全裸の写真撮った後に別の日に呼び出せ。どうせ客も取らせる」
「へへっ、流石海くん。そうこなくっちゃ!」
ドレッドヘアーは自分の欲望を隠しもせずに、私の方へ足を進めてくる。刈り上げはそんな彼を軽蔑した眼差しで一瞬見つめていたが、すぐに金髪の指示に従うようにこちらにやってきた。
ドレッドヘアーからトートを受け取り、その場から動こうとしない金髪が私の正面にいる。左からドレッドヘアーで、右から刈り上げが迫ってきた。
……結局、最低なやつらが三人そろっているだけなのね。
スマホを見ながら、私は更に下がる。もう後ろは階段だが、登っている途中に捕まってしまうだろう。
それでも私が後ろに下がろうと膝を曲げ、二人が私に飛びかかろうと手を伸ばした。その時――
「うわあああぁぁぁっ!」
階段の茂みに隠れていた寿史が、ドレッドヘアーに向かって飛び出した。突然現れた寿史に彼はすぐに対応することが出来ず、寿史との取っ組み合いになる。
スマホを見ていたのは、寿史の奇襲のタイミングを合わせるためだ。私が公園に到着した後、寿史も公園の上段側にもうすぐ到着すると連絡があったので、情報を共有していたのだ。
寿史は必死の形相で、ドレッドヘアーにしがみつく。
「お前が、お前らが僕の絵を、トートを傷つけて、その上奪おうとするなんて、許せないっ!」
「これからお楽しみだって言うのに、訳わかんねぇこと言って邪魔すんじゃねぇ!」
ドレッドヘアーの肘鉄が、寿史の側頭部へ強かに打ち付けられる。寿史の拘束が弱まり、ドレッドヘアーは寿史のみぞおちに全力で拳を突き刺した。
寿史の体がくの字に曲がり、口から唾が飛ぶ。間髪入れずに、寿史の顔にドレッドヘアーの回し蹴りが直撃した。
吹き飛んだ寿史を待ち構えていたのは、刈り上げだ。
刈り上げは寿史の体を後ろから抱えるようにして、身動きを封じる。そこに向かって、ドレッドヘアーの容赦ない拳が何度も打ち付けられた。寿史も足をばたつかせて抵抗するが、焼け石に水だ。
「止めて、もう止めてっ!」
スマホを握りしめる私の言葉など聞きもせず、ドレッドヘアーは右手を高く掲げた。
「オラオラ! そんな弱っちぃのに、しゃしゃり出てきてんじゃねぇぞっ!」
右ストレートが寿史の顔に叩き込まれ、その鼻から血が溢れ出す。ボロボロになり、鼻血を出しながら、それでも寿史は不敵に笑った。
「弱、くても、いいさ。僕は、ようやく、ようやく、描きたいものに、たどり着いたんだから。どんなにボロボロでも、ぐちゃぐちゃでも、血だらけだって、構わない。僕は、残すよ。トートを、先生の、皆の、想いを……」
「殴りすぎて頭いっちまったか? 男のイッた所なんて見てもつまんねぇから、とっとと逝っちまえよっ!」
ドレッドヘアーが寿史に飛び蹴りを食らわせるために、少し後ろに下がる。と、そこで彼は表情を変えた。刈り上げも、違和感に気づいたのだろう。辺りをきょろきょろと見回して、音の発生源を探っている。
金髪は、私たちから少し離れていたからか、もう気づいているみたいだ。彼は菫青公園の下段、その入口を見つめている。金髪にはきっと、もう見てているに違いない。
菫青公園に近づいてくる、あの駆動音の正体が。
一台の原付が、この公園へと近づいてくる。
トートの家から北西方面。もうかなり走った気がするし、まだ全然走っていない気がする。でも夕暮れになっているので、結構な時間走っているのだと、そこでようやく気がついた。
時間の経過を認識して、私は同時に自分の疲労も認識してしまう。一度止まってしまうともう動けなくなりそうで無理して走っていたけど、もう限界だ。
私は道の脇にそれて、自動販売機の隣にあるベンチに腰を下ろした。うつむき、荒い息を吐く度に額から汗が地面へと流れ落ちる。体は熱いのに、恐怖で心は凍えて震えが止まらない。
……トート。
視界が、涙で滲んでくる。探しに行かなきゃ、と思うのに、頭にはトートの思い出が走馬灯のようによみがえってきた。
最初の頃、私はトートが怖くて仕方がなかった。もう死期が近いトートは、私にとって『死』を連想させるものでしかなく、近づくのも嫌だった。
……でも、多数決の結果、お世話する事になって。
怖いのに、会いに行くといつもこっちに向かってくる。大人しくして欲しいのに、全然言うことを聞いてくれない。本当に、だいっきらいだった。
……でも、放っておけなくて。
多数決で決まった以上、お世話はしなくてはならない。そして何より、トートは誰かが見ていないと『死』にどんどん近づいていってしまう。そんなの怖くて、放置出来なくて、気づいたらトートから離れられなくって、どんどんトートのことが好きになっていった。
『死』に近づいていっているはずなのに、行くといつも嬉しそうに笑っている顔が好きだった。
下半身が動かないのに、一緒に誰かと遊びたがる所が好きだった。
ご飯を食べすぎないように注意すると、少ししゅんとする顔も好きだった。
本当に、本当に本当に好きだったし、これからもきっと私はトートのことが好きなまま死んでいくに違いない。
……だから、嫌だよ、トート。
こんな終わりなんて、嫌だった。
もう会えないなんて、嫌だった。
また、あの笑顔に会いたかった。
名前を呼んで、抱きしめて、トートの暖かさを感じていたい。
また一緒に散歩に行きたいし、また名前を呼んでトートの頭を撫でたい。
想いが溢れてきて、涙が自分の手の甲に落ちる。涙の熱さでまたトートを抱きしめた事を思い出し、涙がどんどん溢れてくる。
……もう、行かなきゃ。
涙を拭って立ち上がろうとした所で、スマホが振動。取り出すとトークルームに紫帆からメッセージが入っていて――
『トートは菫青公園』
『皆急いで』
『よっしーが殺されちゃう!』
……え、どういう事?
わからない。わかっているのは、トートが菫青公園にいるということと、義法が危ないということだけだ。
私は弁護士の小嶋さんに連絡を入れると、すぐに菫青公園へ向かって走り始める。体に疲労は感じない。今はただ、全身全霊で走ることしか考えられなかった。
……トート! 義法っ!
私が菫青公園に到着した時には、もう辺りも薄暗くなり始めていた。
菫青公園は斜めの立地に建っている公園で、上段と下段が階段でつながっている構造となっていた。上段は芝生の生えたグラウンドとなっており、下段は滑り台やジャングルジム、シーソーにブランコといった遊具が並ぶ作りとなっている。
私がたどり着いた菫青公園の上段のグラウンドでは、かつてトートと一緒に散歩に来たときはサッカーや野球をする子どもたちの姿もあったが、今の時間は誰の人影も見えない。
スマホを覗き込んだ後、私は視線をある所に向ける。
……トートたちは、下段の方かな?
階段の方に駆け寄ろうと思うも、トートをさらったやつらもいるはずだと思い、若干私の足が進むのをためらう。しかし、トートと義法の身に危険が迫っていると思い、私は茂みからから顔を出すように、階段下へ視線を送る。暗くなってきているので、私は目を細めて辺りを見渡した。
滑り台のそばには、誰もいない。ジャングルジムのそばにも、誰もいない。シーソーのそばにもいなくて、ブランコの辺りには――
……いたっ!
ブランコの周りの背の低い囲いに二人、腰掛けている人影が見える。一人は金髪で、もうひとりはドレッドヘアーの、朱冨の制服を着ている男子だ。ドレッドヘアーの足元で、何かがうごめいているようにみえる。目を凝らして見ると、それは踏みつけられているトートだとわかった。口元と足が、ガムテーブが巻かれて身動きが取れなくなっている。
……トート!
叫び声を上げたくなるが、今ここで出ていっても私に何か出来ることはない。しかし、トートが必死に顔を動かす先には、ボロボロになった義法の姿があった。
義法は口から血を流しており、土にまみれて制服も泥だらけになっている。そこに追い打ちをかけるように、頭の両サイドを刈り上げた男子が義法の腹を蹴り上げた。義法がうめき声を上げ、トートはくぐもった声で鳴きながら体を動かす。その様子を、他の二人は薄ら笑いを浮かべて見つめていた。
「おら、いい加減大人しくなれよっ!」
顔を蹴られそうになるのを、義法はなんとか腕で防ぐ。そしてすぐに蹴られた足にしがみつこうとするが脇腹を殴られ、義法は痛みでのたうち回った。
そんな義法を見て、刈り上げはつまらなさそうに舌打ちをする。
「何犬一匹にそんなに必死になってんだよ。しかもこいつ、死にかけなんだろ? キモいよ、お前」
「俺が、キモいのなんて、わかってんだよ、言われなくてもよぉ……」
口元を拭い、震える足で義法はなんとかその場に立つ。だがまともに立っていられないのか、その足は千鳥足となり、安定しない。それでも義法は、しっかりとトートの方へ視線を向けていた。
「確かに、俺はキモいよ。根暗だし、陰気で後ろ向きな考えしか出来ねぇ。正直トートもその時が来たんなら、何やったって死ぬしかねぇと思ってるよ」
「だったら――」
「でも、でもなぁ! それは、その『死』は、決しててめぇらにどうこうされていいもんじゃねぇんだよっ!」
義法が吠えて、刈り上げに向かって走り出す。
「てめぇらがトートの『死』を、勝手に決める権利はねぇだろうがっ!」
「……やっぱキモいよ、お前」
義法の右ストレートは空振り、反対に刈り上げが放った肘のカウンターが綺麗に義法の顎を直撃する。その勢いをそのままに、義法はトートの方へ吹き飛ばされた。
もう立つ気力も残っていないのか、義法は地面に這いつくばったままトートに向かって手をのばす。苦悶の表情を浮かべる義法のその手は、すぐに金髪に足で払いのけられて届くことはなかった。
そして金髪が更に義法に近づいた所で――
「止めなさい!」
私は階段を降りて、義法たちの方へと向かう。その最中スマホを操作して、先程書き込んだ、今菫青公園で起こっている事等をトークルームへメッセージとして送った。更にスマホをいじりつつ、ブランコの方へあるきながら、私は口を開く。
「さっき、警察を呼びました! 無駄な抵抗は止めて――」
「嘘だな」
「え?」
金髪にすぐにそう言い返され、私は思わず呆然としてしまう。その私の様子を見て、金髪は嫌らしく笑った。
「見ず知らずのやつを助けるために、警察を呼ぶならまだわかる。でも、わざわざ俺たちにそれを教えに来るなんて変だろ?」
「そ、それはあなた達がその人にこれ以上危害を加えないように――」
「だったらなおさら俺たちの方には来ない。むしろ、こういうはずだろ? 『おまわりさん、こっちです!』って叫ぶのさ。そう言われりゃ、確かに俺たちは逃げただろうよ。だが、この犬も一緒に連れてな。でも、お前はそうしなかった。この犬を俺たちに連れて行かれたくないからだ」
その言葉に、私は内心冷や汗を流していた。図星だったからだ。
……トークルームへメッセージを送るのが精一杯で、警察に連絡している時間はなかったからね。
あの時私が飛び出していなければ、下手すると義法は本当に殺されていたかもしれないからだ。
もし警察が近づいている、と嘘をついていたら、義法は助けられるかもしれない。
でも、トートを連れて逃げる彼らを追うことは不可能になる。尾行して後を追うことも出来るかもしれないが、気づかれたら、それこそ嘘だとバレて私だけでなく義法も、そしてトートの身も危険に晒してしまうだろう。
だから私は、警察に通報したと嘘をついたのだ。
……でも、こんなにあっさりと見破られるなんて。
黙り込む私を見て、金髪の笑みが濃くなる。
「お前、転がってるやつと同じく、この犬の関係者なんだろ? いるんだよ。たまにお前みたいに、二兎を得ようとして色々考えるやつが。でもそういうやつは結局一兎も得れずに、俺たちのエサになるんだけどな」
そう言って金髪は、他の二人に向かって顎で指示を出す。
「あの女ひん剥いて、写真に撮れ」
「や、止めろ……」
顔を上げた義法のみぞおち辺りに、金髪が蹴りを叩き込んだ。
その様子を見ていたドレッドヘアーが、下卑た笑いを浮かべてこちらを一瞥する。
「ヤッちゃっていいんですか?」
その一言で、私の背筋を悪寒が走った。スマホを握り、私は一歩後ろへ下がる。
金髪は、面白くなさそうに頭をかいた。
「馬鹿野郎。今日はこの犬を金に変える準備までだ。紫帆とこいつらから百万徴収するのが先だ」
「でも海くん、こいつ結構可愛い顔してるぜ?」
「……ヤりたいんだったら、全裸の写真撮った後に別の日に呼び出せ。どうせ客も取らせる」
「へへっ、流石海くん。そうこなくっちゃ!」
ドレッドヘアーは自分の欲望を隠しもせずに、私の方へ足を進めてくる。刈り上げはそんな彼を軽蔑した眼差しで一瞬見つめていたが、すぐに金髪の指示に従うようにこちらにやってきた。
ドレッドヘアーからトートを受け取り、その場から動こうとしない金髪が私の正面にいる。左からドレッドヘアーで、右から刈り上げが迫ってきた。
……結局、最低なやつらが三人そろっているだけなのね。
スマホを見ながら、私は更に下がる。もう後ろは階段だが、登っている途中に捕まってしまうだろう。
それでも私が後ろに下がろうと膝を曲げ、二人が私に飛びかかろうと手を伸ばした。その時――
「うわあああぁぁぁっ!」
階段の茂みに隠れていた寿史が、ドレッドヘアーに向かって飛び出した。突然現れた寿史に彼はすぐに対応することが出来ず、寿史との取っ組み合いになる。
スマホを見ていたのは、寿史の奇襲のタイミングを合わせるためだ。私が公園に到着した後、寿史も公園の上段側にもうすぐ到着すると連絡があったので、情報を共有していたのだ。
寿史は必死の形相で、ドレッドヘアーにしがみつく。
「お前が、お前らが僕の絵を、トートを傷つけて、その上奪おうとするなんて、許せないっ!」
「これからお楽しみだって言うのに、訳わかんねぇこと言って邪魔すんじゃねぇ!」
ドレッドヘアーの肘鉄が、寿史の側頭部へ強かに打ち付けられる。寿史の拘束が弱まり、ドレッドヘアーは寿史のみぞおちに全力で拳を突き刺した。
寿史の体がくの字に曲がり、口から唾が飛ぶ。間髪入れずに、寿史の顔にドレッドヘアーの回し蹴りが直撃した。
吹き飛んだ寿史を待ち構えていたのは、刈り上げだ。
刈り上げは寿史の体を後ろから抱えるようにして、身動きを封じる。そこに向かって、ドレッドヘアーの容赦ない拳が何度も打ち付けられた。寿史も足をばたつかせて抵抗するが、焼け石に水だ。
「止めて、もう止めてっ!」
スマホを握りしめる私の言葉など聞きもせず、ドレッドヘアーは右手を高く掲げた。
「オラオラ! そんな弱っちぃのに、しゃしゃり出てきてんじゃねぇぞっ!」
右ストレートが寿史の顔に叩き込まれ、その鼻から血が溢れ出す。ボロボロになり、鼻血を出しながら、それでも寿史は不敵に笑った。
「弱、くても、いいさ。僕は、ようやく、ようやく、描きたいものに、たどり着いたんだから。どんなにボロボロでも、ぐちゃぐちゃでも、血だらけだって、構わない。僕は、残すよ。トートを、先生の、皆の、想いを……」
「殴りすぎて頭いっちまったか? 男のイッた所なんて見てもつまんねぇから、とっとと逝っちまえよっ!」
ドレッドヘアーが寿史に飛び蹴りを食らわせるために、少し後ろに下がる。と、そこで彼は表情を変えた。刈り上げも、違和感に気づいたのだろう。辺りをきょろきょろと見回して、音の発生源を探っている。
金髪は、私たちから少し離れていたからか、もう気づいているみたいだ。彼は菫青公園の下段、その入口を見つめている。金髪にはきっと、もう見てているに違いない。
菫青公園に近づいてくる、あの駆動音の正体が。
一台の原付が、この公園へと近づいてくる。