僕はただ、体の奥底から湧き上がってくる衝動に突き動かされて走っていた。
 怒りだ。
 僕が今走っている原動力。それは、自分の怒りだった。体の内側から溢れるそれにしたがって、ただただ足を動かしていく。もう沈もうとする夕日に照らされて、橙色に染まる町並みが僕の視界を通り過ぎていった。
 ……でも、なんで僕は怒ってるんだろう? なんでこんなに怒ってるんだろう?
 
『……寿史。お前、自分の絵が壊されることだけに怒ってんのか? あの絵に込めた、先生とトートへの想いが壊されるから怒ってんのか?』
 
 トートが嘔吐して病院に連れて行ったあの日、剛士に言われた言葉を思い出して僕は歯噛みする。
 ……僕が今怒ってるのは、間違いなく絵が台無しにされた事が関係している。
 誰だって、時間をかけて作ったものを壊されて、いい気持ちになるわけがない。だから、僕の怒りは正しいはずだ。
 
『……あの絵じゃないと、お前の残したいものは残せないのか?』
 
 剛士の言葉が、また脳裏によみがえってくる。
 僕が絵を描くのは、それが僕の『死』との向き合い方、折り合いの付け方だからだ。永遠の生を求め、生きた証を残したいからだ。
 僕がいなくなっても僕の描いた絵が残り続ければ、それは僕が生きた証となる。
 ……だから僕は、僕は先生が残してくれたトートを残したくって、そうすればトートも、トートを残そうとした時の先生の想いも残せるから、だから僕は――
 
『……今描いてる絵に、お前が固執しないといけない理由はねぇだろ? あの絵をもう一度描き直したって、お前の残したいものは残せるんじゃないのか? 今あの絵を描かなくたって、お前が残したいものは永遠に出来るんじゃねぇのかよ?』
 
 剛士の言葉は、正しかった。永遠に残したいものが壊されたのなら、もう一度作ればいい。描けばいい。まだその時間は残っている。絵を破かれた悔しさは確かに残っているが、それでの僕の中の優先度は、生きた証を残すこと、絵を描くことだ。
 ……だったら僕は、なんで怒ってるんだ? なんで破れた絵を描き直さずに、僕はトートを探しているんだ?
 
『……あの日『死』に晒されたよしみで、もう一度言ってやる。お前は、何で怒った? お前は何を残したい? 残そうとしているもの(トート)は、まだ続けられるんだ(生きていられるんだ)。辛い現実だって、絵の中では美しい理想も描けるんじゃないのか?』
 
 先生が残してくれたものは、僕にとって大切なものばかりだ。トートもそうだし、多数決という取り決めだってそうだ。
 多数決という、姿形のない意思決定システムを、僕は既に大切に扱っている。形がなくても大切なものがあると、僕はもう知っているのに。
 それでも僕がトートを、絵という形で残したい、描きたいと思う理由は、一体何だ?
 僕が描きたいと思っているものは、何だ?
 僕が残したいと思ったのは、本当は何なんだ?
 ……写真みたいな絵じゃ、ダメだ。僕がちゃんと手を動かして、僕自身が描くことで、僕は『死』と向き合える。だから、僕は――
 
『終わろうとしているものに、意味を見出しすぎるな。お前まで引きずられて――』
 
 唐突に、義法に言われた言葉を思い出した。あの時僕は、下半身が不自由なトートが懸命に歩こうとする姿に目を奪われて。
 ……美しいと、そう感じたんだ。
 だから、あの時のトートを残そうと思ったのだ。あの時のトートの姿に固執してしまったんだ。あの時から僕は、ずれてしまっていたんだ。
 あの時僕が美しさを感じたのは、残したいと思ったのは、懸命に生きようとするトートの在り方だったのに!
 だから僕は、絵の中のトートですら傷つけられたくなかったのだ。だから僕は、怒っているのだ。
 トートを傷つけられた。僕が怒っているのは、そんな単純な理由だった。
 ……僕は、僕は、僕は今、トートに会いたい! 皆と会いたいっ!
 その時、僕のスマホが震えた。見れば、紫帆からトークルームにメッセージが三つ、入っている。
 そのメッセージを見て、僕は愕然とした。
 
『トートは菫青公園』
『皆急いで』
『よっしーが殺されちゃう!』