慌ただしい気配が去っていき、振り返るまでもなくトートのいたこの庭にいるのが俺一人だけだというのを理解する。
 ……結局、見れそうもないな。
 トートの今際の際がどうなるのか、笑ったまま逝くのか、それとも全く見たこともない顔で逝くのか、興味があった。
 何事もなく後数年もすれば、もっと短いかもしれないが、その答えを見ることも出来たかもしれない。しかし、トートが連れ去られた今となっては、もはやそれも望めないだろう。最悪、もう死んでいる。
 ……こんなの、最初からわかってたはずだろ? 最後は、こうなるって。
 トートの面倒を見ると決めた時から、あいつの命は長くないことはわかっていた。それが早まっただけ。最終的な結論は、あの頃と変わっていない。
 無くなって、おしまいだ。
 それでも俺は、わけもなく歯噛みした。
 どうせ最後に死ぬのなら、この世界に意味なんてない。
 このスタンスは、俺の『死』への向き合い方は変わらないし、そう簡単に変わるようなものではない。
 ……だって、八年だぞ? 小三から高一の今までの八年間。俺はずっとこの考え方で生きてきたんだ。
 二十代の人からみた八年という時間と、三十代の人が感じる八年という時は、多分違った受け止められ方をするのかもしれない。その時間を長いと感じる人もいるかもしれないし、短いと感じる人もいるかもしれない。
 ……でも、俺にとっての八年という時間は、十六歳の俺にとっての八年は、今まで生きてきた人生の半分の時間なんだよっ!
 だからもう、このスタンスは俺の体の半分を占めている。それはきっと、他の五人も同じはずだ。それを、そう簡単に変えることなんて、出来るわけがない。
 
『一度決めたことに。一度決めた内容じゃなくて、その形を、体裁を取り繕うことばっかり気にしてるんじゃないかと思う』
 
 少し前に静花から言われた言葉が、脳裏をよぎる。
 二年前の、まだテニスをしていた時の俺なら、まだこの『死』との折り合いの付け方が自分の半分を占めていない頃の俺だったら、また違う行動が出来たのだろうか? していたのだろうか?
 でも、もう今の俺は自分自身への虚無感すら感じない。じんわりと口元に冷笑が浮かぶだけだった。
 ……もう、ここに来ることもないだろう。
 後片付けをした後に立ち去ろうと思い、俺はようやく足を動かし始める。
 そう言えば、自殺を決意した人はその行動を起こす前に身の回りの整理を始めると聞いたことがある。今の俺は、少しだけその理由がわかった気がした。どうせ終わるなら、綺麗に終わりたい。たとえ全て、無になるのだとしても。
 俺が最初に向かったのは、水栓柱だった。
 ここで毎回、犬小屋の掃除をする時に水を汲んでいた。たまにトートが構って欲しがって、結果水浴びみたいになったこともあった。
 近づいて折れている部分をどうにか直せないかと思うが、折れた部分を塞ごうとしても、無駄に水しぶきが舞ってこちらが濡れるだけだった。流石にこれは溶接などをしないと対応が難しい。水が出続けているので水道代もかかり続けていると思うが、その辺りは小嶋がどうにかするだろう。そう思い、俺は別の場所へ足を動かす。
 次に向かったのは、物置だ。
 ここはトートの餌やフードボール、車椅子をトートがつけてから使わなくなったが、散歩をする時に使っていた介護ベルト等がしまってあった。こちらが餌の準備をしているのだとわかると、トートは必ずはしゃぎだした。多分、食い意地が張っているのだろう。介護ベルトを使っての散歩は、下半身が動かないくせにトートが走り回るのでついていくのが大変だった。
 今ではドッグフードを入れるフードボールは皿の底が反対側にへこんで、山が出来ている。そこに入れるはずだったドッグフードは袋ごと破れて、中身が散乱していた。ご丁寧に介護ベルトまでも、ちぎれてズタズタにされている。
 半分にへし折られた箒を使い、物置からゴミになりそうなものを掃き出していると、物置の脇にすでに何かが集められている事に気がついた。
 吹けば飛んでしまいそうなそれらをよく見ると、それが寿史の持ち込んだものだとわかる。俺はその事実に驚いた。
 ……あいつ、あんなに絵をダメにされた事に怒ってたのに。
 俺が今物置から掃いた中に、寿史の絵だったものや、寿史が持ち込んだキャンバスの破片等はなかった。つまり、先に寿史が集めていたのだ。
 もう絵と呼べない、欠片となったそれらを丁寧に集めたであろう寿史の行動に、俺は寿史の絵に対する執着以上のものを感じ取る。ひょっとしてあいつはトートの絵を描きながら、その過程で何か思う所があったのだろうか?
 ……はっ! バカバカしい。
 俺は自分の考えを、鼻で笑う。
 もしそうなら、どうだというのだろう? 今更羨ましいと感じる自分に、俺はただ呆れて笑うしかない。
 ……トートを探しに行かなかった俺が、何を今更。
 俺は黙々と掃除を続け、車椅子の残骸もまとめていく。不燃物可燃物にある程度わけたところで、俺はふと気づいた。
 ……血とか、吐いた跡がないな。
 俺がトートを事故死に見せかけるのだとするなら、この場で、そして一撃で、苦痛を感じさせる間もなく終わらせてやる。吠えられる事もないし、運ぶのも楽だからだ。
 殺す方法は、撲殺を選ぶ。首を絞めると暴れられそうだし、刃物を使うと血が出るし、一発で終わらせてやれるか自信がない。薬品を使うのはそもそもそれを手に入れるのが難しいし、事故死に見せかけるのならその方法は取れない。
 やはり事故死に見せかけるなら、撲殺してから運ぶことになる。そして殴るなら一撃で決められる、頭を狙うだろう。でも殴った時に血や、吐瀉物が出ることだって――
 そこまで考えて、俺は頭を振った。
 ……何を考えてるんだ、俺は。
 終わったはずだ。もう死んでいる可能性も考えたはずだ。なのに俺は性懲りもなく、まだトートが生きている可能性を考えている。生きていても、どこにいるのかわからないのに。
 ……気持ち悪い。
 終わるなら綺麗に終わりたいと思った矢先に、往生際悪くそんな事を考えている。本当に、ダサすぎて、キモすぎて、自分が嫌になる。
 だからもう終わらせようと、俺は最後に犬小屋の前へ立つ。
 トートはたいてい犬小屋の周りか中にいて、俺たちの誰かが来ると元気よく駆け寄ってきた。犬小屋の中からおもちゃを引っ張り出してきて、トートが遊んでいたときもある。
 今は屋根が入り口を塞ぐように陥没していて、見る影もない。粉々になった破片を集めて、俺は解体するために屋根を思いっきり引っ剥がした。その下からは、トートのおもちゃがいくつも出てくる。トラのぬいぐるみ、縄を結んで骨の形にしたものに、そして――
「は?」
 思わず、そんな声が出ていた。だってそこに、あるはずのないものを見つけたから。
 ……なんでだよ。おかしいだろ?
 俺は混乱しながら剥がした屋根を地面に捨て、見つけたそれを右手で拾い上げる。
 痛い。
 ……だって、おかしいだろ?
 右手が、痛い。
 ……トークルームでトートが犬小屋に溜め込んでるものって、そういうことだって!
 静花たちからは、トートはお気に入りのものを犬小屋に溜め込んでいると聞いていた。
 ……なのに、何で俺が持ってきたテニスボールが犬小屋の中から見つかるんだよっ!
「クソがっ!」
 叫んだ時には、俺はテニスボールをつかんだまま走り始めていた。頭の中にはもう、あのクソ犬(トート)の事でいっぱいだった。
 クソが! クソが! クソが! クソが! あのクソ犬がぁっ!
 何でまだ持ってやがるんだよ! 何で犬小屋にしまってやがるんだよ! 何で俺はこんな気持になってやがんだよ! 何で面見てぇ時にてめぇ(トート)がここにいねぇんだよ、クソがっ!
 あぁ、クソ! ほんとにクソ! クソ! 涙で前が見えずれぇじゃねぇかクソっ!
 涙を拭いながら息切れした所で、俺は少し立ち止まる。
 ……ダメだ、落ち着け。こんなの俺らしくない。落ち着くんだ。無様にあがき続けたって、結果は結局変わらない。
 なら、なんで俺はトートを探しに走り始めた? 決まっている。多数決の結果だ。その結果に従うにはこうするしかないと、そう気づいたからだ。
 だって紫帆は、こう言って多数決を取ったじゃないか。
 
『今すぐ殺されそうなトートの元に皆で集まるかどうか、多数決しない?』
 
 ……だから俺は、今すぐ、殺されそうなトートの元に、何が何でも行かなきゃなんねぇんだ。殺されてない可能性が残ってるのなら、あいつに会いに行かなきゃならねぇんだよ!
 ガードレールに寄りかかり、俺は自分の情けなさで笑ってしまい、次から次に出てくる涙を拭うことが出来ない。
 ……本当に、いちいちこういう言い訳をしないと動けない自分が嫌になるぜ。
 でも、いいぞ。調子が出てきた。いつもの無意味で無価値の俺の思考が戻ってきた。いきなり熱血キャラみたいなのは俺の性分じゃないし、きっとそれは俺の役目じゃない。
 ……そういうのは、先に行動した五人に任せるさ。
 だから俺は他の五人と違って、すぐにトートを探しに行けなかった俺だからこそ出来ることをすべきだし、出来ることがあるはずだ。
 そもそも、俺は静花たちになんて言った? そうだ。どこ探すんだ? と、俺はそう言った。
 かなり冷静になってきた俺は、スマホを取り出す。トークルームの覗いてみても、各自情報共有をする事になっているみたいだが、まだ有益な情報は入手出来ていないみたいだ。
 ……他の五人は、どう動く? 何を考えて動く?
 トートを連れ去ったやつらの考えはわからないけど、他の五人の考えならよく知っている。既にあいつらがやっていることを俺がやっても、あまり効果はない。二度手間になるだけだ。
 剛士は、原付がある。一番移動距離が稼げるから、近場は他のやつに任せて距離の離れた場所から探しているはずだ。
 静花、しおり、寿史は、移動手段が徒歩しかない。近場から探していくが、手がかりが少ない状況では、探す方向ぐらいは分担しているだろうが、闇雲に探すしかないだろう。
 紫帆は、静花たちと同じ状況ではある。でも、紫帆はトートを連れ去ったやつらに連絡が出来る。これは今も継続して行われているはずだ。トークルームへの情報共有がないので、まだ連絡はついていないのだろう。
 犯人への連絡、闇雲とはいえ遠距離の捜索と近場の捜索は、他の五人がやってくれている。
 ……だったら俺は、根暗で陰気で後ろ向きな俺にしか出来ない、キモくて痛い発想をここで捻り出すしかない!
 そう思うと情けなさ過ぎて涙が出そうになるが、それが俺が他の五人と違う所だ。どれだけ情けなくても、他の五人と違う所はここしかない。俺が今できるのはそこしかない。
 自分のスマホを操作して、俺はトークルームの過去メッセージを読み漁る。
 ……どれだけ積み重ねても、最後は消えて無くなる。だったら残ってるものに、過去と今に賭けるしかない!
 静花の、しおりの、寿史の、剛士の、紫帆の、そして俺がトートと過ごした記録(思い出)から、今まで見聞きしたものをどうにか関連付けて、結びつけて、発想を飛躍させる。たとえ買えないおもちゃであっても、それに憧れてはいけないなんてこと、きっとないはずだから。
 そして、スマホをなぞる俺の指が止まった。飛躍しすぎた発想が、俺の頭の中に生まれる。
「はっ!」
 やがて俺は、乾いた笑いを浮かべた。自分でも無茶な、そんなバカな、というアイディアを思いついた。思いついたが――
 ……ここぞって場面で、こんなアホみたいなことしか考えられねぇのか俺はっ!
 涙が溢れるぐらいの自己嫌悪で消え去りたくなるが、そうも言っていられない。どんなにバカなことでも、思いついてしまった以上は動かざるを得ない。
 ……俺の考えがあってるなら、もう時間がない。
 俺が探すべき場所は、三箇所もある。ガードレールから腰を上げ、スマホで地図アプリを立ち上げた。涙をふいて再度走り出そうとした道の脇で、俺はある人物を見かける。
「……しおり?」
 顔を上げたしおりと、目があう。
「お前、なんでまだこんな所にいるんだ? 俺より先に出たはずだろ?」
「よ、義法くんこそどうして……どうして、泣いてるんですか?」
「ばっ! こ、これは、って、泣いてるのはお前もだろうが」
 涙を拭いながら、俺はしおりの方へと向かっていく。何故しおりがこんな所にいるのかわからないが、正直助かった。
「しおり。お前、こんな所にまだいるってことは、トートを探す当てはないんだろ?」
 しおりは涙を拭いた後、小さくうなずいた。
「は、はい、そうですけど……」
「なら、俺に考えがある。協力しろ」
「え、ど、どういうことですか? 義法くん」
「多分トートは、藍銅公園、花田天然公園、菫青公園のどこかにいるはずだ」
 俺がそう言うと、しおりは驚愕の表情を浮かべる。
「ど、どうしてそう思うんですか? 紫帆ちゃんの彼氏たちはトートを事故死に見せかけたいと思っているはずですけど、トートを別の場所で殺す可能性もありますよね?」
「それは否定しない。でも、トートの犬小屋を見ても、庭を見ても、トートの血や吐いた跡は見つからなかった。公園の遊具で事故死に見せかけたいなら、やつらはトートを殴り殺すはずだ。別の場所に運んでから殺すより、殺してから運んだほうが楽なのに、あの場所にはそうした痕跡はなかった。だから多分、まだトートは生きてるよ」
「じゃ、じゃあトートがまだ生きていて、公園に連れて行かれて殺される事になっていたとするよ? でも、なんでその三つに絞れるの?」
「団地だ」
 しおりの疑問に、俺はそう言い切る。
「トートをさらったやつらと喧嘩した時に、剛士は犬という単語を聞いている。その犬が剛士が言った通りトートの事なら、その時剛士が聞いた団地というキーワードは、トートをさらった件と何かしら関係がある可能性が高い。この辺りで団地が近い公園っていうと、俺たちがトートの散歩コースで使っていた藍銅、花田、菫青の三つの公園に候補に絞られるんだ」
「な、なるほど。じゃあ義法くんの考えをトークルームに――」
「待て、それが正解みたいに書くな!」
 俺はスマホを操作しようとしたしおりを、慌てて止める。
 改めて口にしてみて、自分の考えのバカらしさを痛感した。可能性、多分、はずだ、という確定情報のない不確かすぎる俺の考えは、推理だなんてとても呼べるような代物ではない。
「相手が車とか、移動手段を持っていたらもっと公園の対象は広がる。事故死に見せかける偽装工作の準備だって、前もってやっておけばトートを庭で殺さなくても、用意していた場所に運び込む事を優先するはずだ。それっぽくは言ったが、俺が考えた三つの候補なんて、ほぼ当てずっぽうに等しいんだよ」
「じゃ、じゃあ、皆にはなんて言いましょうか?」
「……俺とお前が、藍銅、花田、菫青のどこに向かうかだけ伝えればいいだろ。南側が藍銅、花田の二つで、北が菫青だから、しおりは北の――」
「い、いえ! しおり、南の方に行きますっ!」
 俺の言葉を遮って、しおりが自ら手を挙げる。
「よ、義法くんはそうやって色々考えられるから、候補を一つ確認したら、別観点でトートがいそうなところを考えてください。しおりはそういうの出来ないから、とにかく走って頑張りますっ!」
 かつてないほど積極的に自分の意見を述べるしおりに、俺は思わず圧倒された。こいつも、トートに何かしら感化されたことがあったのかもしれない。
「……わかった。じゃあ、南は任せた」
「り、了解ですっ!」
 トークルームへメッセージを入れ始めたしおりと分かれて、俺は北に向かって走り出す。
 右肘の痛みが、もっと早く走れと、俺を急かした。