しおりの目の前には、かなり異質な光景が広がっていた。多数決の結果を受けてやってきたのだけれど、今まで自分たちが通っていた場所とは思えないほど、トートと一緒に過ごした庭は荒れている。
「あたしが、あたしのせいで!」
「紫帆! 違うよ紫帆! しっかりしてっ!」
 うずくまり、かなり取り乱している紫帆ちゃんを、静花ちゃんが背中を擦ってなだめていた。紫帆ちゃんはかなり自分を責めているようで、血走った目には涙が浮かんでいる。
「……酷いな」
 その一言に全ての感情を込めて、剛士くんは顔をしかめながらつぶやいた。
 反対に、剛士くんから少しだけ離れた場所に立つ義法くんは、全く表情を変えていない。その様子は、不気味なほど達観しているようにも見えた。
「ふざけんな! ふざけんなよっ!」
 ボコボコになった物置から、鬼のような形相になった寿史くん飛び出してくる。
「絵が、僕の絵が! 僕のトートがズタズタじゃないか! キャンバスもバキバキに割られてスケッチブックもビリビリに破かれて、何でこんな事になってるんだよっ!」
 寿史くんは気でも振れたかのように頭をかきむしり、歯茎をむき出しにしながら歯ぎしりをした。やがて彼の焦点があっていない瞳は、紫帆ちゃんへと向けられる。
「紫帆のせいだ……。紫帆が彼氏に先生が残してくれたトートと金の話をしたから、こんな事になったんだっ!」
「やめてよっ!」
 静花ちゃんが、寿史くんを睨む。
「紫帆がやったわけじゃないでしょ? やったのは別の人で、寿史の絵をめちゃくちゃにしたのも他の人でしょ?」
「でもこの自体を引き起こしたのは、間違いなく紫帆が――」
「……よせ、寿史」
 剛士くんに止められ、寿史くんは面白くなさそうな表情を浮かべる。そんな彼を横目に、剛士くんは紫帆ちゃんに問いかけた。
「……お前の彼氏には、まだ連絡がつかないのか?」
「うん。電話も出ないし、既読もつかない……」
「じゃあ、探しに行こうよ!」
 そう言って静花ちゃんは、しおりたちの方を見渡す。
「皆で探せば、まだ間に合うかもしれない」
「どこ探すんだ?」
 凍てつく氷のような温度の声で、義法くんはそう言った。彼は一瞬口を歪めた後、不格好な笑みを作る。
「当てもないだろ? 闇雲に探すのか? そもそもどうやって探すんだ? 剛士みたいに皆原付持ってれば多少は違うんだろうが、徒歩で探し回っても多分、見つけれねぇぞ」
 そして義法くんは、全てを諦めたような吐息をした。
「やっぱり、何かを積み上げようとしても無駄なんだよ。最後は全部、『死』で終わる。全てが無駄、無意味だったんだ」
「あんた、まだそんな事言ってるわけっ!」
 静花ちゃんは義法くんにそう言うものの、それ以上上手く言葉が出てこないか少しだけ悔しそうな顔をして、顔を伏せた。
 口をつぐんだ静花ちゃんの代わりに、剛士くんが紫帆ちゃんに向かって問いを投げる。
「……トートを連れてった奴らは、どんなやつなんだ?」
「……海は、金髪でタバコ吸ってる。顔も悪くない。康治はドレッドヘアーで、千春は頭の両サイドを刈り上げてる」
 それを聞いた剛士くんは、舌打ちをした。
「……団地がどうとか言ってたやつらか。なら、あいつらの言ってた犬がトートの事だったわけだ」
 一人納得したようにうなずくと、剛士くんはこの場から立ち去ろうとする。
「ど、どこに行くんですか? 剛士くん!」
「……トートを探す」
 そう言って、剛士くんはしおりの質問に迷いなく答えた。
「……あの時から、売られてた喧嘩だからな」
 後はもう、振り向きもしなかった。そんな剛士くんの後を、寿史くんが追う。
「僕も行くよ!」
「……私たちも、行きましょう」
 静花ちゃんが紫帆ちゃんの手を取って、立ち上がる。そして静花ちゃんは、しおりの目を真っ直ぐと見つめた。
「しおり」
「あ、う、うん!」
 反射的にそう言ってしまい、しおりは静花ちゃんたちと一緒に走り始める。
 去り際に一瞬、しおりは後ろを振り返った。
 義法くんは立ち去るしおりたちを見向きもせず、ただ黙って、じっ、と壊れた犬小屋を見つめていた。
 
 適宜、各自で見つけた情報はトークルームで共有する事になった。先に出発した剛士くんと寿史くんも、少しでも手がかりになりそうなものを見つけたらすぐに共有してくれると返事がある。
「それじゃあ、何かあったらトークルームで」
「絶対トート、取り戻そうねー!」
 静花ちゃんが弁護士の小嶋さんにも事情を説明する電話をした後、しおりは二人と分かれて、一人で走り始めた。
 ……。
 …………。
 ………………。
 ……も、もう静花ちゃんと紫帆ちゃん、行ったかな?
 後ろを振り返るが、誰かがしおりのことを見ている様子はない。その事実を確認して安堵のため息を付いた後、私はガードレールに腰掛けてスマホをいじり始める。トートの家から、そう離れた場所ではなかった。
 ……な、なんか雰囲気でついてきちゃいましたけど、しおり、そんな必死になってトートを探したいって思えないんですよねぇ。
 むしろ逆に、トートがいなくなってくれてよかったとすら思っている自分もいる。それが酷い考えであることも理解しているが、事実なのだから仕方がない。
 ……だってSNS、ずっと炎上しっぱなしですから。
 しおりのアカウントは相変わらず『いいね』の数も増えず、コメントも荒れている。フォロワーは逆に面白半分でフォローしてくる人がいるので、一時期減った数に比べたら若干増えていた。
 ……で、でも、そういう人たちにフォローして欲しいわけじゃないんですけどねぇ。
 しおりが求めているのはしおりを認めてくれる人であって、しおりを否定する人ではない。今まで誰かに認めてもらうために使っていたSNSは、今やしおりを攻撃する見たくもないものに変貌していた。
 ……そろそろ、新しいアカウントの開設準備もしてたんですけどね!
 アカウントだけ変えても、中の人が同じだとバレれば、今炎上している炎が別のアカウントに飛び火するだけだ。そうなれば今度は、より大きな炎となるのは目に見えている。
 ……だから新しいアカウントは、慎重に作ろうと思ってまだ作れてないんですよねぇ。
 そういう意味でしおりは少し、誰かに認めてもらうことに飢えていた。だからかもしれない。静花ちゃんに自分の名前を呼ばれて、しおりは静花ちゃんが求めているであろう行動をとっさに取ってしまっていた。
 ……で、でも、それだけなんですかね?
 もしあの場に残っていたら、義法くんを一人にしない、という認められ方だって出来たはずだ。
 しおりは少し、首をかしげる。
 ……しょ、正直、炎上の原因がいなくなれば、今のアカウントをそのまま使えるんじゃないか? って思ってたんですけどねぇ。
 それはつまり、トートの死によって自分のアカウントが炎上から復活しないか? という最低な考え方だ。でも、どれだけ最低でも、しおりにはしおりを認めてくれる存在が必要なのだ。
 ……や、やっぱり、しおりは何もしないのが正解なんですよ!
 最低で最悪な結論にたどり着くが、それだとやはりあの場に残るのがしおりにとって最善だったのに、何故そうしなかったという矛盾が生じる。
 でも、しおりはそれを無視した。
 何故なら今、しおりはトートを探していないからだ。
 ……こ、これなら結局、あの場に残っているのと変わりがないですよね!
 小さく頷き、しおりはスマホの画面をスワイプする。撮りだめた写真を眺めようと思ったのだ。理由は単純で、炎上してからアップしてない写真がどれぐらいあるのか、気になったからだ。
 写真の一覧が、しおりのスマホに表示される。
「……え?」
 スマホを見て、しおりは思わずそうつぶやいていた。
 画面に表示された写真が、全体的に茶色い。スクロールしてもスクロールしても、同じ様な画面が続く。色の系統だけで言えば、あまりバズりそうもない写真ばかりだ。
 では一体、何故そんな事になっているのだろう?
 トートだ。
 しおりが撮った直近の写真には、ほとんどトートが写っているもので占められていた。
 SNSに写真をアップしていた時は、むしろSNSのためにバズりそうな写真を撮りに行っていた。でも炎上してからは投稿も控えていたので、SNSにアップするとかしないとか関係なく、最近では撮りたいものだけを撮るようにしている。
 ……え、え? 嘘。え?
 自分でもよくわからない感情に突き動かされながら、しおりはスマホの画面をタップする。
 スマホいっぱいに、ドッグフードを貪るトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、トラのぬいぐるみにかじりつくトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、介護ベルトをしながらも楽しそうに散歩するトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、スマホが気になって興味津々な瞳でこっちを見るトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スマホいっぱいに、水を浴びて嬉しそうにはしゃぐトートの姿が映し出された。スワイプする。
 スワイプする。スワイプする。スワイプする。スワイプする。スワイプする。
 どれだけ指を動かしても、やって来るのはトートとの思い出ばかりだった。
 しおりが撮った写真もあれば、他の五人が撮った写真もある。でもそれら全ての写真で、トートは自分を撮った人と寄り添っているようだった。
 ……ち、違う、違うよ。
 寄り添っているのではない。認めてくれているのだ。ただそばにいることを、そこにいてもいいのだと、トートは寄り添うことで認めてくれていたのだ。SNSで炎上したことを八つ当たりしようとしたしおりさえ、認めてそばにいてくれていたのだ。
 ……だ、だからしおりは、私は、トートの写真ばっかり!
 何故気づけなかったのだろう? 何故もっと早く気づけなかったのだろう? 自分にはもうこんなに自分を認めてくれる存在がいて、無意識でそれがわかっていたからこんなに写真を撮っていたのに、何で自分はもっと早く気づけなかったのだろう?
 他の人から見れば、所詮犬じゃないかと思われるかもしれない。でも、トートはしおりを認めてくれる存在なのだ。どれだけ非難のコメントに晒されても、トートは私のそばにいてくれたのだ。
 涙で視界が滲む中、スワイプしていたしおりの指が、止まる。
 その写真はまだトートに静花ちゃんが怯えていた頃、最初にトートのお世話をしに行った時に静花ちゃんに撮ってもらった写真だった。トートを抱き上げて、しおりは嬉しそうに笑っている。
 何故自分はあの時、静花ちゃんに写真を撮るようにお願いしたのだろうか?
 ……き、決まってるじゃないですか! トートが、トートが愛おしかったからに決まってますっ!
 自分よりも大きな存在に抱かれているというのに、その身を預けてくれたトートの暖かさが、記憶から蘇ってくる。
 あの時しおりは抱っこの仕方もわからなくて、怯える静花ちゃんから聞いてもう一度トートを抱き上げたのだ。すでに嫌がる抱き方をしたしおりを、トートはあの時から受け入れてくれていた。だからSNSにアップすることがない写真でも、こうしてまだ自分は残していたのだ。出会った時から残していたのだ! それなのにっ!
 ……し、しおりは、本当に、本当にバカです!
「……しおり?」
 自分の名前を呼ぶ声に、しおりは顔を上げる。その拍子に、両頬から涙が零れ落ちた。
 しおりが顔を上げた、その視線の先にいたのは――