油絵を描くことは、命を作ることに似ているんじゃないか? と、僕は思う。
 絵に命を吹き込むという言葉があるが、油絵を描く場合、使う絵具の調合にも気をつけなければならない。
 ……百年前の絵より、五百年前の絵の方が美しく残っている事もあるからね。
 油絵の絵具をそのまま使うと、いつまで経っても絵具が乾かず、乾いた後も時間が経てばひび割れてしまい、絵がダメになってしまう。そのため絵具は、溶き油と混ぜて利用する必要があった。油の種類も、乾きの早い揮発油、乾いた後固まって艶を出す乾性油と様々で、用途に合わせて使用する。
 ……ここに気をつければ、トートは永遠に残り続ける。
 ネットにトートを残し続けれるとはいえ、その元となる絵を描くのに手を抜くというのは、僕には考えられなかった。そんな、プールに遊びに行くのに水着を持っていかないような中途半端さで僕は絵を描きたくないし、描くことが出来ない。
 僕が残す生きた証を、そんな形で残せない。
 僕は下塗りが終わったキャンバスに、ナイフで色を塗り重ねていく。ペイントパレットに出した絵具を練って、ナイフですくってパンにジャムを塗るようにキャンバスに塗るのだ。ナイフは筆よりも絵具の厚みを持たせられるので、色を大きく塗りたい時は僕はナイフを使うようにしている。
 キャンバスの中では、足を地面に引きずっているあの時のトートの輪郭がほぼほぼ出来上がっていた。もう少し描き込んだ後、立体感を出すように明暗を入れ、細部の描き込みをしていけば、先生が残してくれた僕の残すべきトートが完成する。
「……くぁぅ」
 キャンバス越しに見れば、現実のトートはあくびをして犬小屋の近くで横になっていた。絵を描き始めたときよりはリラックスしているようだが、臭いにはまだ慣れていないらしく、僕のそばに来る気配すらない。
 僕がナイフから筆に持ち替えようとした時、扉が開いて剛士が入ってくる。僕は剛士の姿を見て、自分の手を止めた。
「どうしたの? 随分汚れてるけど」
「……朱冨の奴らと、ちょっとな」
「また喧嘩かい?」
「……したくてしているわけじゃない」
 呆れながら筆を取る僕の視界の端で、剛士は憮然としながら鞄を地面に下ろした。その後彼はジャージについたホコリを払うと、物置の方へ向かう。
「……それに、今回は俺が絡まれたんじゃない。先輩が朱冨の奴らに絡まれてたんだ」
「へぇ。じゃあ剛士、その先輩を助けたんだ」
 剛士の言葉に、僕は素直に驚いた。
 剛士のスタンスは、基本的に受動的だ。多数決でも常に保留で、剛士自身が煩わしいと感じたり、不利益があるような場合じゃないと行動しない。例外があるとすれば、それは僕ら五人が関係することだけだった。
 僕は薄く笑って筆を動かしながら、物置の中でフードボールを探す剛士を一瞥する。
「剛士は、そういう人を作らないと思ってたよ」
「……馬鹿言え。そういうもんじゃねぇよ」
 ドッグフードを手にした剛士が、フードボールにそれを注いでいく。
「……先に先輩が俺に絡んできて、その先輩が絡まれたんだよ」
 忌々しげにそう言って、剛士は犬小屋まで歩き、餌をトートの元へと運ぶ。それを耳をひくひくさせ、瞳を輝かせていたトートが待ってましたと言うように声を上げた。
「わん! わんっ!」
「……お前は変わらず元気だな」
 剛士にわしゃわしゃと撫でられながら、トートはがつがつと餌を食べていく。
「じゃあ、剛士はその先輩に巻き込まれただけってことなの?」
「……まぁ、そういうことだな。先輩に絡みに来た朱冨に、絡まれたんだ。喧嘩を売られたから、買った。それだけだ」
 餌を食べるトートを見ながら、剛士は思い出したようにつぶやいた。
「……そう言えば、犬がどうとか、団地がどうとか言ってた朱冨のドレッドヘアーと刈り上げは、まぁまぁ強かったな」
「へぇ、そんな二人がいたんだね」
 枕詞はさておき、剛士が強かったと評するのであれば、その相手は一般的にはかなり喧嘩は強い部類に入る。剛士が強すぎるので彼には他の人がそこまで強く思えないかもしれないが、僕からするとその二人とはできれば一生縁がない事を祈りたい相手だ。
「それで朱冨の人たちと喧嘩になったんだ。それで、剛士の先輩はどうなったの?」
「……朱冨をボコった後にボコった」
「何だよ、それ」
「……売られた喧嘩を買った結果だ」
 笑う僕を横目に、剛士はトートの喉を撫でる。トートはフードボールから顔を上げて、剛士の手に顔を擦り付けた。
「くぅーん」
 剛士が小さく笑ったタイミングで、彼のスマホが鳴った。
 剛士はスマホの画面を見ると、すぐに立ち上がる。
「……すまん。ちょっと外す」
「どうしたの?」
「……バイトの面接に行った店からだ」
「そ。言ってらっしゃい」
「わんっ!」
 僕の言葉を聞き終える前に、剛士は扉を開けて敷地の外へと出ていった。
 僕は改めてキャンバスに向き合うと、こちらを見つめるトートと目があう。嬉しそうに笑った口から桃色の舌が伸びて、何か気になることがあるのか少しだけ首を傾げていた。
 ……餌は、もういいのかな?
 トートの前に置かれたフードボールの中には、まだドッグフードが三分の一ほど残っている。いつもなら撫でられるのも気にせずに食べ続けているのに、今日はいつもの勢いがない。
 ……まぁ、僕が絵を描くのに支障がないからいいけどね。
 僕が生きた証を残すことの邪魔にさえならなければ、他のことは正直どうでもいい。それは剛士が誰と喧嘩しているとか、そういう話もそうだ。口を動かしながら絵が描ける状態だったので世間話に付き合う程度に話していただけで、もし剛士が新しい原付を買ったという話しをしていたのならば、絵を描くのに邪魔にならない範囲で僕はそれにあわせて喋っていただろう。
 今の僕にとって、先生の残してくれたトートの絵を描くこと以外、興味がない。
 筆を操り、キャンバスにまた色を重ねていく。筆を動かしていく度、絵の中のトートは精緻に描いたスケッチブックの形に近づいていき、どんどんとまだ膝しか引きずっていなかった時の姿になっていく。
 筆が乗ってきた所で、何かが地面に落ちた音がした。音がしたほうをキャンバス越しに見ると、被写体だったもの(トート)が横たわっている。僕は絵を描くのに支障がないと判断し、そのまま絵を描き続けた。
 それから少し経って、剛士が戻ってくる。僕は視線をキャンバスから動かすことなく、口だけ開いた。
「どうだった? バイトの面接」
「……落ちた」
 少しだけ落胆したような剛士の声が、次の瞬間には切羽詰まったものに変わる。
「……おい、寿史。トート、吐いてるんじゃないか?」
「え?」
 言われてみれば、地面に横になったトートの口から吐瀉物のようなものが見える。それに息が出来ないのか、トートは僅かに痙攣していた。でも、それは絵を描くことに関係のない事だ。
 しかし剛士はすぐにトートを抱き上げると、水栓柱のそばまでより、トートの口の中から吐瀉物を水で洗いながら取り除く。その後トートの体を横にすると、剛士は心臓マッサージを始めた。
 剛士が何度かトートの胸を押した後、咳をするようにトートが息を吹き返す。
 僕は絵を描き進めながら、感心したように剛士に向かって口を開いた。
「随分手慣れてるんだね」
「……工事現場のバイトで、救命研修受けたんだよ。犬でも人でも、呼吸止まってたら同じだろ? やること」
「そういうものかなぁ」
「……寿史。小嶋に連絡しろ」
「え? 弁護士の小嶋さん?」
「……俺は今からトートを連れて、動物病院に向かう」
「前に、トートの怪我を診てもらったとこ?」
「……ああ。お前は小嶋に通院費と、お前のタクシー代も請求しとけ」
「え、僕も行くの!」
「……小嶋に連絡した時点で、まともにトートの世話ができない状態なのは知られるだろ。トートの世話をしないやつを小嶋はここに立ち入らせないし、絵も描かせないんじゃないか? それに何もしないのは、明らかに多数決の結果と違う行動だろ」
 そう言って剛士は僕の返事も聞かず、庭を飛び出していった。
 僕はすぐに動かず、剛士の言葉を反芻する。
 ……トートの絵は、もうここに来なくても描ける。それでも僕がここで絵を描いているのは、皆で決めた多数決の結果があるからだ。
 多数決は、先生が僕たちに残してくれた意思決定の大切なシステムだ。先生が残してくれたものは、トートと同じように僕にとって特別なものでもある。
 ここに来て僕が絵を描いていれば、トートはだいぶ大人しくなる。ここで絵を描くことで、トートを大人しくする世話をしているのだから、僕が絵を描くことと、トートの世話をすることは、僕の中で何ら矛盾した行動になっていない。だから絵を描くのを邪魔されたくなかったのだ。
 ……でも、ここで絵を描いてたらトートの世話が出来なくなるのは確かだね。
 多数決の結果を無視するのは、僕の望むところではない。
 キャンバスやイーゼルを物置に片付けた後、僕はスマホで小嶋さんに連絡をし始める。
 
 タクシーを降りて病院の自動ドアをくぐると、ロビーには剛士の姿があった。
 今の時間帯は他の来院はないのか椅子に座っているのは剛士だけで、受付にも看護師さんの姿は見えない。ロビーの一番奥の蛍光灯が、瞬きするみたいに点滅を繰り返している。
「……トートは、命に別条はないみたいだ」
「そっか」
 そう言った僕を、椅子に座った剛士が睨む。
「……それだけか?」
「何がだい?」
「……言うことは、それだけかって聞いてんだよ」
 剛士にそう言って凄まれるが、僕は本気で剛士が何を言っているのかわからない。
 だって僕は、多数決で決めたようにトートを残そうとしているし、多数決で決めたようにトートの世話も行っている。
「僕は、やるべきことをちゃんとやっているよ」
「……ふざけんな!」
 剛士が立ち上がり、僕の胸元をつかむ。剛士のぎらつく瞳が、僕の眼前に突きつけられた。
「……何でトートを見てなかったんだ」
「見てたよ。だから絵にちゃんと描けてる」
「……絵の中のトートの話をしてるんじゃない!」
「それ以外に、何が必要なんだよ!」
 喉元を握る剛士の手を、僕は強く握りしめる。
「僕がどうやって『死』と向き合っているのか、知ってるだろ?」
「……知ってるよ」
「なら、皆で多数決で決めた結果なのに口を出すなよ!」
「……あの絵じゃなきゃ、ダメなのか?」
「え?」
「……あの絵じゃないと、お前の残したいものは残せないのか?」
「ば、馬鹿な事を言うなよ……」
 そう言いながらも、僕の剛士の手を握る力が弱まっていく。
 それでも僕は気を取り直すように、口を開いた。
「あの絵は、トートなんだよ? 先生が残してくれた、先生を残すための、先生が残してくれた時のトートなんだよ? だから僕は、僕が残していかないといけないんだ! だからその絵を描かないで――」
「……わかってんだろ? 俺が何を言ってるのか」
 剛士の言葉に、僕は口をつぐむ。そんな僕に畳み掛けるように、剛士は僕を握る手に力を込めた。
「……今描いてる絵に、お前が固執しないといけない理由はねぇだろ? あの絵をもう一度描き直したって、お前の残したいものは残せるんじゃないのか? 今あの絵を描かなくたって、お前が残したいものは永遠に出来るんじゃねぇのかよ?」
「そ、それは……」
 どうにかそう口にできたが、僕は剛士の言葉に明確な答えを出せないでいた。そんな僕を、剛士が嘲るように笑う。
「……どっちでもいいんだよ、俺は。今描いてる絵だろうが、これからお前が描く絵だろうが、どっちになろうとも対して大差ない。でもな、寿史。俺が怒ってるのは、あの時俺たちが互いに見つけた『死』の向き合い方に、折り合いの付け方に中途半端な態度で接してるお前が許せねぇんだよっ!」
 胸元が締まり、呼吸しづらくなる。それでも剛士は、僕を放そうとしない。
「……お前のやろうとしてることは、写真を撮るのと変わらねぇ。写真みたいにその時の一瞬を切り取るためにシャッターを切るみたいに、お前は絵を描こうとしてんだよ」
「ち、違う。僕は……」
「……違わねぇ。絵は、絵だから何度もやり直せるんだろうが? 描き直せるんだろうが? 写真みたいに、その一瞬を逃したってお前の記憶の中にあれば、いつだって残せる。お前がいたら残せるんだ。だからお前は、そのやり方で『死』と向き合ったんじゃねぇのかよっ!」
 剛士に突き飛ばされ、僕はロビーの廊下に強かに尻餅をつく。見上げると、僕を見下ろす剛士の顔があった。蛍光灯が瞬き影ができて、彼の表情が読みづらい。
 それでも剛士の口元ははっきりと見えて、彼は口を歪めていた。
「……わかんなくなっちまったんなら、壊してやろうか? 俺が今、お前の描いている絵を」
「ふざけるなっ!」
 激情にかられ、僕は膝をついて立ち上がる。
 そして、剛士を射殺すように見つめた。
「そんな事、させない! もしそんな事をしたら、僕は絶対剛士を許さないからなっ!」
「……だったら今、何でてめぇがそんなに怒ってんのか、もう一度よく考えろっ!」
 僕の視線を、剛士は真正面から受け止める。その上で剛士は、物分りの悪い生徒へ丁寧に説明する教師のような口調で、僕に向かって話しかけてきた。
「……寿史。お前、自分の絵が壊されることだけに怒ってんのか? あの絵に込めた、先生とトートへの想いが壊されるから怒ってんのか?」
「ぼ、僕は……」
「……お前が絵で残そうとしてるもんはな、トートは今生きてんだよ。確かに美しい理想も辛い現実も、『死』も『生』も地続きだ。でもな? 今生きてるやつは、生かし続けようと思えば、まだ今に残し続けれるんだぞ」
「でも、トートだっていつかは死ぬ」
「……だったら何でお前は、俺がトートの救命活動をしている時、俺の方を見ていたんだ?」
「……」
「……あの日『死』に晒されたよしみで、もう一度言ってやる。お前は、何で怒った? お前は何を残したい? 残そうとしているもの(トート)は、まだ続けられるんだ(生きていられるんだ)。辛い現実だって、絵の中では美しい理想も描けるんじゃないのか?」
 そう言われた僕は、何も言えずに佇むことしか出来なかった。
 ……ぼ、僕は、僕が絵を描いている理由は、永遠の『生』を求めている理由は、生きた証を残したいと思った理由は――
 切れかけの蛍光灯が、僕をちかちかと照らしている。学芸会で失敗した子供を労う拍手のようなタイミングで瞬くその光を受けて、僕は内側から湧き上がってくる羞恥心で自分の唇を血が出るまで噛み締めた。