どうせ死ぬなら、人生を楽しんでから死にたくない?
 辛いことや悲しいことなんて、経験しない方がいいに決まっている。
 ……一秒後に死ぬかもしれないなら、楽しくて、面白くて、気持ちいい事を選んだほうがいいよねー。
 そう思いながら、あたしはトートに会いに行くため立ち上がろうとする。
「おい、ちょっと待てよ」
 そう言って塩畑 海(しおはた かい)は、手をとてあたしを引き止めた。風が吹いて、あたしのポニーテールが雑に揺れる。あたしたちは今、校舎の屋上にいた。
「紫帆。お前、最近付き合い悪ぃぞ」
 そう言って海は、口からタバコの煙を吐き出す。煙は彼の金髪をくゆらせて、青いペンキをぶちまけたような夏の青空へと消えていった。
 海はあたしと同じ、朱冨澤高等学校に通う三年生。新入生として入学してそうそう、あたしは海に告られた。
 ……特に断る理由もないから、OKしたんだよねー。
 海は顔も整っているし、お金も持っている。話も面白いので、今の所あたしは積極的に別れようとは思っていない。
 ……まぁ、あたしの知らない所で色々してるっぽいけどねー。
 朱冨は、どちらかと言えば進学校に分類される。偏差値もそこまで低くなく、国立大学への進学者も毎年出していた。しかし、だからといって生徒全員が素行がいいわけではない。悪知恵が働く分、たちの悪い生徒が一部存在する。
 その総元締めみたいなのをやっているのが、海だった。
「別に、犬の世話なんて二、三日放っておいたって平気だろ?」
 そう言って海は、吸い終えたタバコの火を消しもせず、吸殻を排水口に投げ捨てる。
 そう言えば、こうして学校の屋上でタバコを吸えるようになったのは、教師の弱みを握って強請り、屋上の鍵を手に入れたからだと海が言っていた。彼が用意した女子高生とラブホに入っていく写真を撮って、金も取っているのだという。
 そういう話を海から聞けるのも、あたしが彼と関係を続けている理由だった。普段聞けない、聞く機会がない話を聞くのは純粋に楽しいし、面白い。
 ……あたしに関係ない所で何してても、どーでもいーしねー。
 女子高生に手を出す高校教師も、その高校教師を強請っているのも、その強請った相手から成功報酬を受け取る女子高生も、その女子高生に売春を斡旋しているのも、あたしじゃない。あたしにとって重要なのは楽しいか否かで、楽しくないものには興味がなかった。
 ……でも、こうやってあたしの行動に口出ししてくるのは、ちょっとウザいかなー。
 海に向かってあたしが何かを言う前に、彼の取り巻きの一人、ドレッドヘアーの向家 康治(むかいえ やすはる)が冗談めかしたような口調でこう言った。
「ぎゃはははは! 紫帆、ひょっとして他に男が出来たんじゃねぇの?」
 康治は海と同じ三年生。常に海の後ろについて回り、後ろ暗いことをするのにも積極的に手を貸しているようだ。
 その康治に向かって、海は立ち上がる。そしてそのまま無言で、海は康治の顔面を殴りつけた。殴られた康治は、面白いように吹き飛んでいく。
 仰向けで転がる康治を、殺気立った海が見下ろした。
「……紫帆が浮気するわけねぇだろ。次くだんねぇ事言ったら殺すぞ」
「そうっすよね、海さん! 紫帆ちゃんがそんなマネするわけないもんねっ!」
 そう言って海にすり寄ってきたのは、犬飼 千春(いぬかい ちはる)。頭の両サイドを刈り上げた千春も海の取り巻きで、確か二年生だったはず。
「ご、ごめん海くん。冗談だったんだよ」
「いくら冗談でも、言っていい冗談と悪い冗談があるっすよ、康治さん」
 よろよろと立ち上がる康治を、千春は蔑んだ表情で一瞥する。一方の康治も、千春に向かって舌打ちをした。二人共海の手足のようにこき使われているが、海のそばにいるのは旨味があるから今の立場に甘んじている。そんな自分を情けなく思っている部分が二人の中にあるから、二人は互いを同族嫌悪しているのだ。
 ……あー、めんどくさいめんくさーい。
 そう思っているあたしに向かい、康治に向けたのもとは打って変わって、千春が満面の笑みを浮かべてくる。
「オレは紫帆ちゃんのこと、そんな浮気者だなんて思った事は一度もないからね!」
「あはは、ありがとー」
 乾いた笑みを浮かべて、あたしはもう屋上を離れようと立ち上がった。
 千春の好意には気づいているが、正直そういう関係は海で間に合っている。そもそも千春は、顔も金も海に劣っており、話もたいして面白くない。更に言えば、海のコバンザメでありながら、海の彼女のあたしをあわよくば的な感じで狙っているのが最高にダサい。
 あたしが海から千春に乗り換える理由が、一ミリたりとも存在していなかった。
「じゃー、あたしそろそろ――」
「だから、待てって」
 スカートをはたき、屋上を後にしようとするあたしの背中から、海が抱きついてくる。
「ちょ、何!」
「紫帆の恩人だかなんだかしんねーけど、犬の世話なんて止めて、もっと楽しい事しようぜ」
 楽しい事、と言われて、あたしの抵抗が一瞬弱まる。
 トートの世話をするようになって一ヶ月。ぶっちゃけ、あたしはもうそれに飽きていた。
 最初の方は犬と遊ぶのが楽しそうだと思っていたのだが、しょんべんかけられたり、餌やりや掃除も地味に大変。そして何より、下半身の麻痺が進行しているトートの散歩が一番大変だった。
 ……あーあ、こんな事なら、反対票を入れておくんだったなー。
 そう思うものの、あの時は楽しそうだと思ったのだから仕方がない。今あたしがつまらないと思えているのは、たまたまあたしが今日まで死ななかった結果に過ぎない。こうしている今だって、一秒後にはあたしは心臓麻痺で死んでしまうかもしれないし、隕石がぶつかって死ぬかもしれない。
 ……だったら、その時その時で楽しそうな選択をしてくだけだよねー。
「ほら、動きが止まってるぞ? 紫帆。残れよ。な?」
「ちょ、どこ触って、あっ! もう! こんな所で止めてよっ!」
 抵抗を止めたあたしを強引に迫れば残せると思ったのか、海があたしの胸を弄ってくる。そんなあたしたちを、康治は下卑た笑みで、千春は嫉妬で頬を引きつらせて見ていた。
「なになに? 海くんここでおっぱじめるの? 俺、カメラ係やろうか?」
「ちょ、さ、流石にここはまずいっすよ、海さんっ!」
 千春のその反応を見て、海は口角を釣り上げる。海も千春のあたしへの想いに気づいていて、わざとやっているのだろう。
 ……あー、めんどくさー。
 あたしは自分の肘を海の顎にぶつけるように振るい、彼の拘束から逃れた。
「もう行くって言ってんでしょ? 邪魔しないで」
「……紫帆。お前、俺よりもその犬の方が大切なのか?」
「はぁ?」
「その犬がいなくなれば、お前はもうどこにもいかねぇのか?」
「……あんた、何いってんの?」
 ただでさえ子供じみた海の独占欲がめんどくさすぎるのに、彼は更にめんどくさい事を言い始めた。
 あたしはポニーテールを揺らしながら、海を少しだけ睨む。
「トートは、怪我した部分の包帯がようやく取れたところなの。バカなこと言わないで」
「そう、それ。それだよ、紫帆。俺が気になってたのは、そこなんだ」
 海は胸ポケットからタバコを一本取り出し、ライターで火を付ける。
「その犬の治療費、誰が出してんだ? 昔の仲間と一緒に世話してるって言ってたけど、男か?」
 その言葉に、あたしはちょっと海に幻滅した。あたしが浮気をするようなやつじゃないと康治を殴っておきながら、結局その可能性をずっと考えていたのだ。呆れ過ぎて、逆に冷静になってきた。
「だからー、前に言ったじゃん。トートをあたしらに残した先生が、お金も一緒に残してくれたんだってー」
「でもよぉ、紫帆。動物を病院に連れてった通院費、かなりかかんだろ? その先生以外が支援してんじゃねーのか?」
「大丈夫だよー。まだ百万ぐらいあるはずだしさー」
「……何?」
 目の鋭くなった海を見て、あたしは自分の失言に舌打ちをした。海の素行を知っているあたしは、先生が残してくれた大金の話だけは彼にしていなかったのだ。百万以上の金の話を聞いて、海が大人しくしているとはあたしには思えなかった。
 あたしは取り繕うように、すぐに言葉を重ねる。
「あー、でもそのお金、弁護士が預かっててあたしたちの自由には使えないんだよねー。通院費とか食費とか、犬の世話に必要だ、ってその弁護士が認めたものしか、弁護士からもらえないんだー」
「だが用途が限られているとはいえ、その金を使えるってことは、だ。紫帆、お前にもその金の相続権があるってことだよな? 犬のために用意された金なら、犬がいなくなればお前に金が入ってくる」
「だめだめー。そんな簡単な話じゃないんだってー」
 あたしのことを自分の彼女ではなく、金として見始めた海に内心冷や汗を流す。でも、海の考えた方法は実現できない。
「誰かの飼い犬を傷つけたりすると、損害賠償とかになったりするらしいから、割にあわないと思うよー」
 たけから一度聞いたうる覚えの話を、あたしは海に向かって披露する。流石に海も、明らかに訴えられる可能性を犯してまで百万円を取りに行こうとは思わないはずだ。
 しかし、海はスマホを取り出し、何かを調べ始めた。
「損害賠償は、三年以下の懲役、または三十万円以下の罰金もしくは科料、か。俺らは少年法あるし、罰金も百万なら釣りが来る額だな」
「……ちょっと、本気で止めてよね」
 話すあたしの言葉にも、怒気が交じる。海の言葉を、あたしは許すことが出来なかったからだ。
 トートが死んだ場合、海の言う通り、あたしたち六人は百万円というお金を手に入れれるかもしれない。そうなれば、そのお金は六人で山分けすることになるだろう。
 ……でも、海は百万円を手に入れた場合の事を口にした。
 つまり、あたし以外の五人からも金を巻き上げることを考え始めたのだ。五人の弱みを握って、強請ることでも考えたのかもしれない。
 でもそれは、ダメだ。絶対ダメだ。
 だってそんなの、楽しくない。面白くない。気持ちよくないどころか、それはあたしが絶対に避けたい、辛いことや悲しいことだ。
 だからあたしは、それを許せない。
「……変なこと考えてるなら、もうあたし、あんたと別れるから」
「……悪い悪い、冗談だって。紫帆があんまり構ってくれないから、ちょっとからかっただけだよ。な?」
「そうだよ紫帆ちゃん! そんなにキレんなってっ!」
「そうですよ。海くんの冗談に決まってるじゃないですか!」
 ……言っていい冗談と悪い冗談があるんじゃなかったのかよ。
 あたしは何も言わずに踵を返すと、そのまま屋上を後にする。
 鞄を自分の教室に置いたままなので、まずはそれを取りに行く。あたしは自分の教室へ向かっている途中、廊下である人から声をかけられた。
「あれ、紫帆?」
「春華さん」
 二年生の境田 春華(さかいだ はるか)は、よくあたしとつるんでくれる先輩だ。海たちとも交流があるが、犯罪などには一切関わっていない。むしろ、あたしがそれに巻き込まれないように、色々と気を使って声をかけてくれていた。
 春華さんはパーマをかけた髪を揺らしながら、こちらに近づいてくる。
「今日は一人なの? 海たちは?」
「屋上っすー。あたしは、もう帰ろうかとー」
「ああ、例のわんこ君の所ね」
 春華さんはそう言って、少しだけ嬉しそうに笑った。
「紫帆、最近いい顔になったよね?」
「え、そーですか? 自分じゃ普通にしてるつもりなんですけどねー」
「変わったよ。だってあんた、最初に会った時はなんか、こう、今しかないって感じの切迫感というか、刹那主義っぽいところあったからさ」
「……そうっすかねー?」
 内心、自分の考え方を言い当てられて驚いていると、春華さんは更に笑いながら口を開く。
「そうよ。塩畑たちは、色々危ないことやってるみたいだけど、短絡的に考えて紫帆が巻き込まれないようにしなさいよ。ズルズルと周りに流されちゃうと、大切なものが何なのかわからなくなっちゃうから。あんた自身も含めてね」
「は、はぁ」
 生返事を返すあたしをみて、春華さんはばつの悪そうな表情になる。
「あー、私、説教臭かったね。そう言うんじゃなくて、ちゃんと考えて行動しなよって事が言いたかっただけなの。って、それだとやっぱり説教か。こうやってババアになってくのかなぁ、私」
「ババアって、春華さんあたしと一つしか違わないじゃないっすかー」
「その一年の大きさを、紫帆も来年実感する時が来るって。それじゃ、わんこ君のお世話、頑張ってね」
「はい、ありがとうございますー」
 春華さんの言葉を、すぐにあたしは自分の中に消化することが出来なかった。でも、その言葉だけは頭の片隅に入れておこうと、そう思った。
 
「ど、どういうことなんですかっ!」
 庭に入った途端、しおしおの怒号が聞こえてくる。
 トートを見れば、怯えた様子で犬小屋の中からこちらを伺っていた。
 私は自分の鞄を置いて、しおしおの方へと向かっていく。
「え、えーっと、どーしたの?」
「ど、どうしたもこうしたもないです! 『いいね』が、『いいね』が全然つかないんですよっ!」
 必死の形相になったしおしおが、割れんばかりにスマホを握りしめていた。
 しおしおは震える指でスマホのディスプレイを、必死に操作している。
「そ、それどころか、炎上! 炎上してるんです、しおりのアカウント!」
 しおしおのスマホを覗き込むと、そこにはいくつもの誹謗中傷のコメントが並んでいた。
『こんな抱っこの仕方、ありえない!』
『犬が可愛そう!』
『その子はあなたを引き立てる道具じゃないのよ?』
『障害犬を使ってフォロワーを稼ごうだなんて、気が狂ってる』
『そういう可愛そうなのは求めてない』
『余計なことせずに素直に脱いどけばいいんだよ!』
『動物虐待だ!』
『体見せて『いいね』稼いでたんだろ? だったらその路線だけにしとけよ』
「な、何でですか何でですか何なんですか! 皆、『いいね』押してくれてたじゃないですか! フォローしてくれてたじゃないですか! コメントで褒めてくれてたじゃないですか! 私を、しおりを認めてくれてたじゃないですか! 皆が求めてたものを、しおりは提供してたじゃないですか! それが、何でっ!」
 スマホを落とし、しおしおは庭にうずくまる。
 しおしおのスマホを拾い、あたしは彼女のアカウントの投稿履歴を眺めていく。
 トートの世話をあたしたちがし始めた時の投稿は、『いいね』の数もフォロワーの数もどんどん増えていたし、コメントも絶賛の嵐だった。それから一週間、二週間と、同じ様な状況が続いている。
 所が三週間目になって、様子が変わり始めた。
 ……あー、動物愛護のNPOが拡散したのかー。
 しおしおがアップした写真から、トートが変性性脊髄症であることに気づいたのだろう。病気の犬に対しての扱い方や、病気の犬を自分の『いいね』やフォロワー稼ぎに使っていることに対して、批判的なコメントと共にしおしおのアカウントが非難されていた。
 ……一応、しおしおもちゃんと世話してるって言ってるんだけどねー。
 食事の管理や、介護ベルトを使って散歩をしている事等、必要だと思われることは全部している、としおしおは投稿している。だが、それが逆に火に油を注ぐ結果になっていた。今までアップしていた写真が、しおしお自身を強調しているものが多かったため、彼女はトートを引き立て役に使っているとSNS上で断定されていた。
 ……まぁ、あながち間違いじゃないんだけどねー。
 四周間目では、もうしおしおを庇う人すらいなかった。それどころか、彼女を称賛していた人たちも、手のひらを返したようにしおしおをバッシングしていた。
『いいね』とフォロワーの数は一気に減り、それと反比例するようにネガティブなコメントがどんどん増えていく。
「……くぅーん」
 うずくまっているしおしおを心配してか、トートが犬小屋からゆっくりとこちらへやってきた。
 トートがしおしおにすり寄ろうとした所で、彼女はツインテールを揺らしながら、恨みがましい表情でトートを睨む。
「お、お前が、お前さえいなければっ!」
「しおしお、ダメ!」
 あたしの言葉を聞き、しおしおははっとしたようにこちらを振り向いた。自分が今どんな表情を浮かべていたのか理解したのか、わなわなと震え始めた。
「し、しおりは、しおりは、今……」
「大丈夫、大丈夫だよー、しおしお」
 彼女にスマホを返し、あたしはしおしおの頭を撫でる。
「そんな怒ってちゃ、つまんないよーしおしお。つまんないことは止めて、楽しいことしよーよ」
「し、紫帆ちゃん……」
 しおしおは自分のスマホを握りしめると、下唇を噛んだ。
「で、でも、しおりには、しおりにはこれしかないの。ごめん、頭冷やしてくるっ!」
「え、ちょ、しおしおっ!」
 そう言ってしおしおは自分の鞄を手に取ると、庭の外へと出ていった。
 残されたあたしは、トートと互いに顔を見合わせる。
「ひょっとしてあたし、今日はあんたの世話一人でしないといけないのかなー?」
「わんっ!」
 ……やっぱり、来るんじゃなかったかなー。
 でもあたしが来なければ、しおしおはトートに何をしていたのかわからなかった。しおしおも、一人で自分の状況を抱え込むより、あたしに知られた方が良かった部分もあるだろう。
 ……でも、今日はちょっと、色々とめんどくさすぎる日だなー。
「……くぅーん」
 見れば、トートが心配そうな顔であたしの事を見上げている。そこであたしは、今日春華さんに言われた事を思い出した。その場でしゃがみ、あたしはトートの頭を撫でる。
「そんな顔すんなよー、トート。お前は死ぬまで、死ぬその最後の一瞬まで、笑って生きてりゃいいんだからねー。だから、精一杯、死ぬまで一杯笑いなよー」
「わんっ!」
 その時、あたしは初めて、心の底からこの子の世話をするのが楽しいと思った。