コンクールが終わると詰め込んでいた練習も一旦落ち着いた。昨日の興奮が冷めやらぬ気持ちで、放課後に白川が向かったのは美術室だった。あの時からずっと顔を見て話がしたかった。いや、顔を見るだけでもよかった。部活が終わるまで居座ってやろうなどと目論みながら教室の前までやってきた。ドアの窓から中を覗き込む。雪平はたいがいの日は教室の隅でデッサンをしている。たまに西日に照らされる横顔が綺麗だった。しかしいつもの席に雪平がいない。キョロキョロと瞳を動かし雪平を探す。すると珍しく教室の中央付近に雪平を見つけた。その姿はいつもと少し違っている。
 イーゼルに立てられたキャンバスに向かい、姿勢よく雪平が座る。まるでキャンバスにかじりつくように鉛筆を走らせていた。その真剣なまなざしを白川は知っている。雪平と出会った日、白川を描くまなざしだった。その鋭い目から二人の関係は始まった。白川はその目に惹かれた。白川の演奏を唯一震わせるその目。
 一体雪平が何を描こうとしているのか、どうしてキャンバスに向かっているのか、白川には分からない。白川が昨日の慧斗の話を思い出す。
『翼は在り方次第で光にもなる』
 今雪平のまなざしを遮りたくはない。邪魔したくない。雪平の光でありたいから。
 白川がそっとドアから離れる。回れ右をすると教室と反対方向へと歩き出した。校舎の玄関へ向かう途中にスマホを取り出すとメッセージを打ち込んだ。

 部活の時間も終わり、生徒たちはみな帰っていく。そんな中、時間など忘れたかのように未だ雪平が描画に没頭する。スマホに届いたメッセージにも気づいていないほどだった。
「雪平さん、そろそろ帰る準備をしましょうか」
 声を掛けて来たのは顧問の春日井だった。その声に雪平がはっと我に返る。教室を見渡すとすでに生徒は雪平一人だった。
「すみません、その、七海たちも」
「はい。帰りましたよ。あまりに君が熱中しているものですから、声をかけるのが悪いと」
 にこにことする春日井が雪平のキャンバスを眺めた。
「アクリル画ですか?」
「はい、コンテスト用に」
「ほーう」と春日井が珍しそうに絵を眺めるので、雪平も何か居心地が悪く不安になる。
「あの……何かダメでしたか?」
 春日井が優しい笑みを崩すことなく首をふる。
「いいえ。ただ、ちょっと意外でしたから。雪平さんが題材に『桜』を選ぶことが」
 雪平が下書きされたキャンバスに視線をうつす。これまで部活で課題にされようと桜は決して描かなかった。だから正直描きだした時は戸惑った。桜の木の形は質感はどうだったか、どうやって花弁をつけ、どうやって咲いているのか、全く記憶になかった。ただ、白川が見せてくれた三輪の桜。それだけははっきりと覚えていた。
「俺に見えている景色を描きたい。見せたいヤツがいるんです」
「ほーう」とまた春日井が顎に手をあて頷いた。
「誰かに伝えたいと思って描いた絵には力強さがあります。とてもいいことだと思います」
「そ、それは、音楽も同じですか!?」
 食いつくように質問を投げかけてきた雪平に驚く。しかしすぐに春日井の頭には白川翼が浮かんだ。そして真剣に答えを待つ雪平ににっこりとほほ笑む。
「音楽には詳しくありませんが、同じじゃないでしょうか。絵画、写真、音楽、詩、表現するものはすべて、伝えたい思いが力となって宿ると思いますよ」
「そうですか」とどこかほっとしたように雪平が肩の力を抜く。「よかった」と、その背中が言っていた。
「さ、今日は遅いですから続きは明日にしましょうね」
 春日井が帰宅を促すと「すみません」と頭を下げ、雪平が画材を片付けだす。教室を出る時にようやくスマホに届いていたメッセージに気付いた。七海たちからのメッセージにまぎれて、白川からの通知があった。一番先に白川の名前をタップする。

「惚れなおしたので、今日は帰ります」

 メッセージにはそれだけが書かれていた。
「来てたのか? 声かけろよ」
 惚れなおしたとは何のことかと疑問に思いながらスマホを鞄にしまう。いつもより心が晴れている。白川が隣にいてくれているようで、その存在に心が支えられているようだった。
 学校の校門を過ぎると見たことのある車が道のわきに停まっている。雪平の脳裏には一瞬無視して通り過ぎるが吉と浮かぶ。しかし通り過ぎるより先に運転席のドアが開く。現れたのは慧斗だった。「よっ」と慧斗が手をあげ雪平に挨拶をするものだから、さすがに無視するわけにはいかなくなる。
「白川なら先に帰りましたよ」
「ああ、会った会った。今日は翼には用事ないって帰した」
「はあ」と雪平が怪訝な顔つきで頭をさげる。帰ろうとした雪平を慧斗が呼び止めた。
「ちょっとちょっと、そんなに警戒しないでよ」
 車にもたれかかった慧斗が眉をひそめる。
「謝ろうと思ってさ。こないだちょっと挑発しちゃって、ごめんね」
「いえ……」
 先に謝られてしまった。やはり自分より大人であることを痛感した雪平が未熟さを悔やむ。
「あとさ、お礼を言いたくて」
「お礼?」
「翼が一皮むけたのは雪平くんのお陰だと思ったから」
 自分の何が影響して白川がどうしたのか分からなかった。慧斗はそれ以上言葉を紡がない。しかし慧斗がいうならそうだろうと、素直に思えた。雪平が白川の何かを変え、響かせた。その事実だけで今は嬉しいと思えた。
「ところで雪平くんってさ、ずっと前から翼と知り合いってわけじゃないんだよね?」
「はい、今年の春休みからです」
「だよねえ、そうだよねえ」
 何かひっかかるように手を顎にあてがい慧斗が考える。その様子に雪平が不思議そうにする。
「いやさ、春休みに君の事聞いたんだよね。突然音楽室に押し掛けて翼のデッサン始めたヤツがいたって。『そいつよく昼休みにバスケしてたりさ、いっつも集会で眠そうにしてんの』って翼が言ったんだよね。ねえ、なんで?」
「え、なにが?」
「初めて会ったのに、なんで翼は君のこと知ってたの?」
 雪平が初めて声を掛けたとき、初めて名乗った時を思い出す。
『いちいち名乗らんでも知ってるわ!』と白川は言った。
 中庭で話した時を思い出す。
『クラスのヤツの名前だってろくに覚えてない』と白川は言った。
 この背反する言葉をどう理解すればいいか、雪平はなんとなく分かってしまった。
「だからさ、ずっと前から翼は雪平くんのこと無意識に意識してたんじゃない? なんて思ったんだけど」
 その時の慧斗の顔はあの時と同じようにいたずらっぽく笑っていた。「知りませんよ」と、ついつっけんどんに返してしまう。それでも大人な対応をしてくれた慧斗にちゃんと応えなければいけないと思った。
「俺の方こそ、すみません。慧斗さんに反抗心を抱いてしまいました。彼女がいるって知らなかったし」
「いいっていいって」と慧斗が手をひらひらさせる。
「あのとき自分の夢を恥じたでしょ。分かるよ、それ。俺ってさ、どっちかというと翼より雪平くん寄りだから。高校生の頃は夢に憧れまくって、必死にもがいて、でも自信に溢れてて。悪くないよ、その気持ち。俺はその時の気持ちのお陰で今ここにいるから。恥じずにさ、大事に持っててよ、君の夢」
 そんなに熱く語られるとは思ってもみなかった。雪平がぽかんとしたまま慧斗を見つめる。言いたいことが済んだのか慧斗は満足そうに車のドアを開けた。乗り込む前に雪平に振り返る。
「あ、それと雪平くん。芸術家たるもの先入観や固定観念はいけないよ」
「は?」
「彼女じゃない、カレシだよ。世界一可愛い彼氏」
「え、あ、すみません」
 なぜか訳も分からず謝罪の言葉が出る。
「よかったら送ってく? なんか話聞きたそうだし」
「いえ、知らない人の車には乗らないように教えられてますので」
 丁重に断る雪平をおもしろそうに慧斗が笑う。
「いいね、そういう可愛くないところも昔の俺そっくり」
 そんな言い方をされると、「大人だ」と思った事に対して前言撤回したくなった。じゃあと短く挨拶をすると慧斗がさっそうと立ち去っていく。慧斗の車が見えなくなると雪平も駅へと歩を進める。少し前は一人で帰るのに切なささえ覚えた帰り道。今は一人でも明るい気持ちになれた。やはり感じる、隣に白川がいることを。肩を並べて歩いている白川を、確かに感じることが出来た。

 次の朝、雪平がいつも通り登校すると駅には白川がいた。眠そうにあくびをしながらスマホをいじる。雪平に気付くといつもの笑顔を向け手をあげる。
「雪平おはよ」
「おはよう。ってかめずらしいな。いつもギリギリの電車で来てるだろ」
「そうなんだけどさ。雪平何時の電車か分かんなかったからめっちゃ待った」
 自然と二人が並んで歩き出す。
「連絡しろよ」
「あ、そっか」
 へらっと表情を崩すと、相変わらずの白川に雪平がため息をつく。まだ出会って長い月日が経ったわけじゃない。しかしこうやって一緒に登校するのは初めてだった。どうして白川がわざわざ駅で待っていたのか。それには理由があることくらい雪平にも察しがつく。
「なに、どうしたの」
 要件を切り出す様子がない白川より先に雪平が口をひらく。
「もしさ。もしリンゴを見たことがなかったら、リンゴを描くことはできないだろ?」
 予想外の言葉に雪平がキョトンとする。
「ヴァイオリンも同じなんだよね」
「え、今哲学的な話してる?」
 戸惑う雪平を白川が笑う。
「違うって。俺はさ、雪平にいろんなもん見せてもらってるんだよって話」
「イマイチ分からないんだが」
 不審がる雪平をよそに白川は清々しい顔をしている。白川がそれを伝えたかったのなら、これ以上深い意味を知る必要はないと思った。白川の言葉は直球だ。ならその言葉通りにとらえておけばいい。「いろんなものを見せてもらってる」なんて、お互い様だと思っているから。
「これからさ、ヴァイオリンのレッスンも忙しくなりそうでさ。事務所の話もいろいろ進みそうで。早く帰らなきゃいけない日が増えるかも」
「うん」
 「今まで通り一緒に帰ることは難しい」と言いたいのだろう。もちろん白川が夢に近づくことは嬉しい。それは間違いない。しかしその短い返事に動揺が現れなかっただろうか、複雑な気持ちを悟られなかっただろうかと雪平が心配する。しかし悲しそうな眼をしたのは雪平だけではなかった。不安を拭い去るように白川が声を張る。
「だからさ、今度の休み一緒に出掛けよう。デートしよう!」
「デ!?」
 登校中の生徒があふれる通学路で雪平が周りを気にする。キョロキョロと見回したが、みなイヤホンで音楽を聴いたりお喋りをしたり、二人の会話を気にする様子はない。
「普通に遊びに行くって言えよ」
 小声でささやくも、白川が焦る雪平を気にする様子はない。
「だって、慧斗くんがよく男の人とで出かける時、デートだって言ってるから」
 「天然かつ鈍感かよ」と雪平が眉間をつまみ嘆く。それでも白川の気持ちが嬉しかった。自分が会いたいと思っていたように、白川も会いたいと思ってくれている。放課後という時間を飛び出し、二人の世界がふくらんでいく。これからもっとお互いの事を知る。もしかしたら心が折れたりぶつかったりするのかもしれない。しかし今はそれさえも楽しみでしかない。
 突然に進展を見せた関係に恥ずかしくなったのか、白川の顔が見れなくなる。
「行きたいとことか、考えとけよ」
 ぶっきらぼうに、白川に顔をそむけたまま言葉を投げる。少し赤らんだ雪平の耳に白川が気付く。
「うん!」
 つられるように赤らめた白川の頬を、まだ雪平は知らない。

 俺たちは相手が見ている景色を見せてほしいわけじゃない。自分が見えている景色を見てほしいわけじゃない。
 君に見えている景色を、一緒に見たい。

Drawing and Playing fin.