白川のコンクール当日。高校生の部に間に合うように雪平が車で会場へ向かう。
「なんでお前がついてくんだよ」
「いいでしょ! お兄の妹っていう誼みでしょ。白川さんも良いって言ってくれてるんだから」
「白川さん(・・)……」
 車の後部座席には雪平とその妹が座る。妹が通うピアノ教室でも白川は有名で、その上今回は伴奏が慧斗ということで話がもちきりになっているらしい。しかも妹が話すには「無口で孤高な金髪王子(ブロンドプリンス)のヴァイオリニストと、大人の色気で魅了する騎士(ナイト)のピアニスト」というイメージが確立されているらしい。一人歩きする噂は怖いものだと雪平が嘆く。
「遊びに行くんじゃないんだからな」
「分かってるよ。お兄よりちゃんとわきまえてますから」
 どうやら妹にとっては憧れの人に会いに行く感覚にようで、そういいながらもウキウキとしたオーラが仕舞い切れていない。
 会場に着くと空いている席を探し着席する。コンサートホールなどほとんど来たことがない。妹のピアノ発表会でももう少し小さい会場だった。あれだけ妹に対し窘めたものの、ここでは妹の方がやはり場に慣れている。雪平がそわそわとした気持ちを落ち着けるように息を吐いた。コンクールが始まると一人一人と演奏を終えていく。素人目には誰もが上手くて巧拙など分からない。ただ、白川ほど惹かれる演奏は未だなかった。
 次が白川の出番だと目録に視線を落とす。一歩先に舞台に現れたのは慧斗。そのすぐ後ろを白川が歩いて出て来た。声を出す者などいないはずなのに、会場がどよめいたように感じる。雪平が視線を上げ、ステージ中央に立った白川を見たとたん息をのむ。いつもの着崩した制服姿からは想像もつかない、かっちりとした黒シャツにスラックス姿。セットされた髪でいつもよりあらわになった輪郭は、品の良さを際立てていた。正直この容姿なら、妹たちが夢中になるのも無理ないと思わざるを得ない。

 白川が選んだ曲は「メンデルゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調第一楽章」。
 慧斗が奏でるピアノの音が数音鳴ると、白川が息を吐いた。
 弦に乗せた弓の先端を滑らせると一気に会場全体に白川の音が広がる。弾き出しから、まるで乞うような媚びるような甘い音色が白川の世界へとみなを引きずり込む。どの曲もどのパートもこの音色で演奏しているわけではない。曲をどう魅せるか、白川が自然と成している技だった。
 テンポが速いわけではないのに細かい音が連続する。どんな楽譜をどんな指使いで、どうやって弓を動かし奏でているのか素人では分からない。儚く物悲しいはずの旋律は、白川を通せば焦がれるような優しく明るい光景となり映る。
 白川が音を放つたび、まるでヴァイオリンから花がぽろぽろとこぼれ落ちるよう。溢れた花は白川の足元を埋め、会場に広がり、観客の膝、腰、胸まで浸していくとついには聴く者を溺れさせる。気が付けば魅せられ目線が釘付けになっている。そして、そんな白川を支えているのが慧斗のピアノだった。その事実に雪平がわだかまりを感じることはもうない。それは当たり前の事。知り合って数か月の雪平とは過ごしてきた時間が違う。きっと何度も語り合い、切磋琢磨してきた仲間。そう思わせるほどに二人の織りなす音は通じ合っていた。
 終盤に向けて曲調は激しくなる。弓が激しく動く。白川の目が鋭さを増す。慧斗のピアノが食らいつく。雪平が息をのむ。フィニッシュに白川が高音を力強く弾き切る。まだピアノ伴奏が終わらない内に観客がうずきだす。拍手を送りたくてたまらない。ようやく演奏が終わると次は拍手が会場を埋め尽くした。折り目正しくお辞儀をする白川を、雪平が見つめる。
 ひと際大きな拍手に包まれる白川を、まっすぐに見つめていた。

 結果は2位だった。
 結果発表の瞬間、ふたたび会場は静かなざわつきをみせた。それでもステージ上の白川が見せた笑顔はいつも通りの笑顔だった。

 コンクール後は白川も忙しいらしく、顔を合わせる事は出来なかった。しかしそれでよかったと雪平が思う。正直どういう表情で、どんな言葉をかけていいのか分からなかった。
 帰りの車に乗り込む。雪平の妹は未だ夢の中のようで、白川の演奏を思い出してはうっとりとしている。しかし結果には納得がいっていないようで口を尖らせながらぼやいていた。
「優勝だと思ったのになー」
 雪平も優勝するものだと心のどこかで思っていた。それが当たり前だと思っていた。その事に気付いた時、「白川は当然に完ぺきを求められている」という事実にぶち当たった。初めて白川の背負っている重圧を知った。いつもニコニコと雪平に笑顔を向ける白川。冗談を言ったり、子どもっぽい仕草をしたり、雪平の前ではただの少年である白川。それがこんなにもプレッシャーを抱えていたなんて。気付かなかったことへ、雪平が不甲斐なさを感じる。白川へのメッセージ画面を開いたまま、文字を打ち込むことができないでいる。すると白川からの受信通知が届いた。
「優勝ダメだったー!」
 相変わらず白川らしいメッセージ。返信しようとした指が止まる。励ます? 慰める? 気にしないふり? 明るく振舞う? どう取りつくろえばいいか考える。違う、どれも違う。偽りなくまっすぐに白川に向き合いたい。
「大丈夫か?」
 メッセージを送ればすぐに返信が来た。
「うん。母親はちょっと不機嫌。でも事務所の人はよかったって! なんかいつもより伝わるものがあったんだって。音楽に向き合う気持ちの変化? みたいな? 俺思うんだけど、雪平のおかげかも!」
 思わず口元が緩んでしまう。
「ちょっとお兄、なにニヤけてんの。キモいって」
 表情に出ているとは思っていなかったのに、妹が横で引いた目を雪平に向けている。
「お前の大好きなヴァイオリン王子とメッセージ中」
 マウントをとるように言い返すと妹が顔を真っ赤にして悔しがる。
「ちょっと! ズルい! てか、なんで白川さんがお兄の友達なのよ」
「なんでじゃねえよ。そのおかげで今日のコンクール来れたんだろ。感謝しろ感謝を」
「たしかにい! 悔しいけど感謝してますありがとう!」
 膨れっ面の妹が喰いかかるのを諦める。
「まあ、納得いかないところはあるけど、お兄の友達っていうんなら今度家に呼んでよね」
「なんでだよ」
「あらあ、ママも一度白川くんに会ってみたいわあ」
 運転中の母親まで口を挟んできた。思わぬ加勢に妹がしたり顔をしている。
「はあ。忙しいだろうから、いつかな」
 妹もようやく満足したのかスマホをいじり始めた。雪平もスマホの画面に視線を落とすと、「よかったな」と、それだけ返信をして窓の外に目を遣った。
 白川はすでに向き合っている。少ししくじったって、それをプラスにしようとしている。
 俺は白川を通して雲の上の世界を見たいのか? それじゃダメだろ。
 雪平の瞳に決意が宿る。そっとスマホを伏せた。会場から遠ざかっていく夜の景色。「会いたい。会って話がしたい」と考えながら、その景色を見つめた。


「会いた――」そこまで打ち込んだメッセージを消去する。人気(ひとけ)のなくなったコンクール会場のロビーに白川はいた。ソファーに腰掛け、伝えそうになった本心に焦る。
「いやいやいやいや、これはヤバいっしょ!」
 思わず大きな声で叫んでしまう。
「何がヤバイんだよ」
 後から声が聞こえたかと思えば慧斗がこちらへ向かってきていた。
「どうしたらあんなに乱れんだよ」
 さきほどの演奏のことに言及されると「えへへ」とへらっとした顔を向ける。しかしすぐに真剣な表情になると深く頭を下げた。
「ごめん」
「なんで翼が謝るんだよ」
「……なんでだろ」
 そんな白川にため息をついた慧斗が白川の隣に腰をおろす。
「でも俺はよかったと思うぞ」
「それ、事務所の人にも言われた」
 優勝を逃した演奏がなぜ褒められるのか、白川にはまだ分からない。
「翼が緊張するなんて、初めてじゃないのか?」
「うん。いや、二回目」
「ユキヒラクンか?」
「たぶん、そうかも」
 脈略のないような質問にさらに白川が疑問を抱く。そんな白川の心が分かってか慧斗がゆっくりと語り出す。
「ヴァイオリンに関しては特にそうかもしれないが、演奏は高度な技術の積み重ねの上に成り立つ。感情や表現よりも正直テクニックが上手い下手を決める。技術がブレれば翼でも今回みたいな結果になる」
 歯に衣着せぬ言葉に「あはは」と白川が苦笑する。白川を気に留めることなく慧斗が続ける。
「それでも弾いているのは人間なんだよ。音には奏者の経験、思い、熱量がのっかる。それを聞いて感じ取れるのもまた人間。今日の翼の感情の揺れが音に熱を帯びさせた。だから聴き手の心を動かした。そういう演奏だったよ、今日のは」
 あんぐりと口をあけたまま慧斗の言葉を聞く。慧斗はいつも白川に大事なことを教えてくれる。支えてくれる。音楽に対しても、人生の先輩としても、白川には頼りになる兄のような存在。
「やっぱり慧斗くんはすごいや。きっと今回も慧斗くんの伴奏じゃなかったら俺は倒れてた。慧斗くんのピアノは本当に俺の憧れ」
 白川の褒める言葉に悪気はない。それは白川の人柄を知っていれば誰もが分かる事。それでも慧斗が一瞬渋い顔になる。
「翼の存在はな、時に人を失望させる。お前にそんな気がないのは分かってるよ。お前の才能が努力のたまものなんてのも考えりゃ分かる。でも持ってる(・・・・)ヤツを目の前にすると卑屈になっちまうもんなんだよ。だから自分自身の事を理解しておけ。翼は在り方次第では光にもなる」
 失望させるだとか、光を与えるだとか、何の話かと白川が顔をしかめる。
「雪平くんとやらについて助言してやってんだ。先輩のアドバイスを有難く思え」
「雪平自信なくしてるの?」
「この前会った時、俺にはそう見えた」
 慧斗が言わんとしていることは分かる。しかし白川のまっすぐな瞳に迷いはなかった。
「なら大丈夫。雪平が俺に与えてくれたものがあるように、俺は雪平の光になれてる」
「……はずだ」と小さく付け足す。やれやれと若さを羨むように慧斗が柔らかく笑う。
「なら、雪平くんにとってこれほど力強い光はないな」
「だろ!?」
 白川がいつもの人懐っこい笑顔をみせる。多感な少年たちは日々感じ成長していく。余計な説教だったかもしれないと、慧斗がその顔を見てほっと息をついた。