そして白川もまた同じ状態に陥っていた。
どうにも練習に身が入らない。毎日同じことの繰り返しで、一体自分が何のために頑張っているのかを見失いかけていた。
「翼! 集中なさい」
 母親である葉子の怒号が飛んでくる。
「ごめんなさい」と恐縮すると、そんな白川に息をついた。
「なにか気にかかることがあるんでしょ」
 母親の鋭い観察眼に気まずそうに苦笑する。ひと息つきましょうと葉子が椅子に腰を下ろした。
「繊細な年ごろだもの。いろいろあったって仕方ないの。でもね、貴方がやると決めたからには、私は手を抜くわけにはいかないの」
 母親の言うことは十分に分かる。それが愛情だなんて恥ずかしくて言えないけど、ちゃんとわかっている。
「音楽以外の知り合いなんてさ、いなかったから。どう触れていいか分からなくてさ」
「学校のお友達?」
「……かな」
 恥ずかしそうに応える息子の表情に驚きと共に嬉しさで目を瞬かせる。本当はその友人の話をもっと聞きたい。同じクラスなのか、そもそも同学年なのか。どんな子でどんな会話をし、どんな学校生活を送っているのか。しかし今は白川が自分の力で解決をする道を示す事が親の役割だと葉子が気を引きしめた。
「いろんな感情を経験することはいいことよ。だけどそれで練習がおろそかになるなら、まずはちゃんとその問題に向き合いなさい」
 怯えたような目は、現実から拒否されることへの想像。その正体が何なのか分からない。分からないから怯える。
「こわいかもしれないけどね。ダメだったなら相談なさい。私じゃなくても、翼の周りには翼を助けてくれる人がたくさんいるんだから。大丈夫よ」
「大丈夫」
 そう、大丈夫。なぜなら相手は雪平だから。白川は知っている。雪平が故意に相手を傷つける人ではないことを。今回のすれ違いもきっときっかけがあって、それを言えずにいることを。もし自分が切り開くなら、普段通りの自分で雪平に触れればいい。ちょっと不器用な雪平も、きっと心を開いてくれる。
 白川が再びヴァイオリンを構える。葉子は少し安心したように、その音色に再び耳を傾けた。

 白川と雪平が話すことがないまま、数日が過ぎた頃、昼休みの中庭に雪平はいた。気温も暖かく気持ちいい日に、その場所で昼ご飯を食べる事が好きだった。植物が植えられているだけの庭に興味を示す男子生徒は多くない。昼休みにも人が寄りつかない秘密の場所だった。
 雑草交じりの花壇には花が咲く。青葉が繁った大きな木が庭に木漏れ日を落とす。そんな色を眺めているだけで気持ちよかった。そよそよと吹いて来る風は満腹になった体を眠りに誘う。うつらうつらと瞼が閉じかけた瞬間、突然体の左側に衝撃が加わる。誰かが断りもなく雪平の隣に座り込んだ。
「ここかー。探したー」
「白川!?」
 雪平が驚いても白川の表情は変わらなかった。
「バスケしてるかと思って体育館に行ったらいないし。でも七海君たちがここかもって教えてくれた」
 どういう感情で白川が雪平の隣にいるのか分からない。同じようにどういう気持ちで雪平が白川を避けているのか分からない。
「なんか雪平が怒ってる」
 その言葉にぴくりと肩が動く。
「怒ってない」
「怒ってる」
「怒ってないって」
「いや、怒ってるっしょ」
 言葉の堂々巡りに二人してため息をついた。
「なんでここでメシ食ってんの?」
「ここの景色は見ていて飽きない」
 雪平が見ていて飽きないと言った景色を白川が眺める。普通に考えればただの花壇がある光景。でも雪平に見えている景色はたぶん違う。木漏れ日が映し出す草の濃淡。揺れるたびに表情を変える花々。落ちた花びらや葉っぱはさまざまに姿形を変え、毎日変化する天気が色付けをする。
 雪平はこれを表現できる。描き出すことができる。どうやって、どんな技法で。今雪平に見えている景色は、一体どんなものなのだろうと白川が考えた。
 ふいに白川が雪平の手をとると、両手で掴み、くまなく調べるように見回し始めた。
「な、なに」
「いやあ。絵を描く人の手ってどんなのかなって」
 白川の行動に驚きつつも雪平がいいようにさせる。
「そういうのって、楽器弾く人の手が気になるってヤツだろ?」
 すると突然白川が手を差しだし、雪平の目の前にかざす。
「気になる? いいよ、触っても」
 差し出された手に戸惑いながら、初めて白川の手をちゃんと見た。すらりと伸びた指と切りそろえられた爪。指の腹がすこし膨らんでいるのは弦を抑えるからだろうか。雪平がおそるおそる触れようと手を伸ばした。今にも白川の指に触れそうな距離。すると突然白川が雪平の手をぎゅっと掴む。またしても何事かと雪平が目を見開き白川を見る。
「はい、握手。仲直りの証」
「はあ!?」
 思わず呆れた声がもれた。あっけらかんとしている白川に、降参したとばかりに雪平がうなだれた。
「コンクール、練習上手くいってるのかよ」
 手を離した白川が雪平と肩を並べ座り直す。
「うん。そこそこ。本当はさ、コンクールに出るつもりなかったんだけど」
 どういう事かと雪平が首をかしげる。
「今音楽事務所からスカウトされてて。別に賞とか獲らなくても先にCD出したりコンサートしたり、そういう売り方もあるって」
 またしても始めて聞く話に雪平の心臓がドクリと波打った。
「だから今回のはなんていうか、箔付けみたいな。そんな感じ」
 やはり今いるステージが違いすぎる。白川と対等でいたいなんて、分不相応な考えにしか思えない。
「俺はさ、白川と同じ景色を見ることが出来るのか?」
 雪平の消え入りそうな声に、白川がキョロキョロと辺りを見回す。
「ピンク色のもんないし、同じく見えてるだろ」
「そうじゃなくて……。俺は慧斗さんと違って白川の隣にも立ててない」
 体育座りをする白川が膝に顔をうずめる。「ああ、なるほど」。雪平の言いたいことが白川に伝わった。
「慧斗くんはさ、確かに憧れてた時があったよ。でも恋人いるし……」
「いるの!?」
 自分でも驚くほど声を張ってしまい、咳ばらいをすると気持ちを落ち着かせる。
「雪平とはさ、並んで歩いていたくて」
「お前が雲の上なんだろ……」
「才能とか、今出来る事の話じゃなくて! 分かるだろ、あの絵見りゃ。雪平が俺の音楽を感じてくれてるって。それがただ嬉しかったんだよ」
「あの絵」とは雪平が初めて出会った時に描いた、ヴァイオリンを弾く白川の絵。七海たちが気持ちが溢れていると言った絵だ。
「結構敬遠されてるからさ、学年でも。俺も学校なんて興味なかったし。クラスのヤツの名前だってろくに覚えてない」
「嫌味な悩みだな。そんな恰好して、高嶺の花になってりゃ誰も近づいてこないだろ」
「でも雪平は来てくれた」
 膝に伏せた顔からのぞく目に見つめられる。こうやって話していればどこの高校生とも変わるところはない。白川だってただの普通の少年だ。
「コンクールって、俺も聴きに行けたりするのか?」
 雪平の言葉に白川の目が丸くなる。きらきらと光を帯びたかと思えば雪平へと身を乗り出した。
「来てくれるの!?」
「あ、ああ」
「会場、ちょっと遠いけど!」
「母さんに頼めば、送ってくれると思う」
 突然立ち上がった白川に雪平の体がビクリとのけぞる。
「な、なに、急に」
「ヤバイ! 緊張する!」
 興奮した白川が鼻息をならし雪平を見下ろす。
「お前緊張なんてするのかよ」
「したことない!」
 未だ鼻息の荒い白川にため息をつく。さっきまでのぎこちない空気もすっかりなくなっていた。
「ごめん。変な態度取って」
 絞り出したような雪平の声。ようやく謝ることが出来た。
「うん。びっくりしたし、どうしようかと思った。でも話せたから、良かった」
 白川が差し出した手を雪平が取る。ぐいっと引っ張り上げると雪平が立ち上がった。校舎内へと戻る二人の間に吹く風は、以前よりも温かくなっている気がした。