なんとなく教室を後にした雪平が向かっていたのは音楽室。桜の事なんか考えていたからかもしれない。無意識に足が白川のいる音楽室に向いていた。音楽室に近づくにつれヴァイオリンの音が大きくなる。防音とはいえ、やはり学校の設備程度では音が漏れる。熱のこもった熱い音は抑えるには強すぎることを雪平は知っている。
 ドアを少し開ける。すると隙間から風が流れ出してくるように白川の音が溢れ出て来る。無神経に雪平の体を刺す音。雪平が迷っていようがいまかろうが、迷いのない音が心臓に響く。雪平が顔を上げると音楽に没入した白川が目に入った。相変わらず絵画のように神聖な光景だった。ガラガラと音を立てて開いたドアにも白川は気付かない。一曲を弾き終わったところでようやく教室内に佇む影に気が付いた。
「おわ! ビックリした! いつの間にいたんだよ」
 本気で気付いていなかったのか白川が大げさに驚く。
「さっきからいた」
 影が雪平だと分かると胸をなでおろすふりをする。
「部活は?」
「春日井先生が休みだから解散した」
「そっか」と構えていたヴァイオリンを下ろす。
「帰る?」
「白川が弾いてたかったら聴いて待ってるけど」
 うーんと一瞬宙を仰ぎ考えるが、「一緒に帰ろう」とヴァイオリンをケースにしまい始めた。いつものように肩を並べ、いつものようにたわいもない話をしながら校舎を出る。校門を出たところまではいつもの、いつもと変わらない光景だった。

「おい、翼!」
 聴きなれない声が白川を呼ぶ。声の方に二人が振り向いた。そこには車にもたれかかった大人がこちらを向いていた。大学生だろうかと雪平が考える。白川を呼ぶその人物につい怪訝な目を向けてしまう。しかし隣から聞こえたのは親しい人に向ける声だった。
「え、慧斗(けいと)くん! なんで?」
 雪平の隣を離れ白川が走って行く。慧斗と呼ばれた人物にかけよった。
「は!? 『なんで?』じゃねーだろ」
「え、ん? ああ!」
 何かを思い出したのか白川が叫ぶ。
「『ああ!』じゃない」
 長い知り合いなのだろうか。二人が親し気に話す。いや、これは時間だけの問題じゃない。誰かに懐いている白川を始めて見た。
まるで蚊帳の外。ただ見つめているしか出来ない雪平に白川が振り向いた。
「ごめん、雪平。俺もうすぐコンクールで、当分一緒には帰れない」
 言うのを忘れてたと悪びれる様子はない。しかし初めて聞いた話に雪平の心がぐらっと揺れた。知らない、コンクールの話なんて知らない。そんな大事な話、聞いていない。
「そ、その人は――」
「ああ、慧斗くんは伴奏してくれる。コンクールで、ピアノ伴奏」
 驚いたような焦ったような雪平の顔を慧斗がおもしろそうに見つめる。
「そ、だから翼は当分は俺と練習。放課後は毎日迎えに来てあげんね」
 親し気に肩に手を回す仕草はまるで雪平に見せつけているよう。白川が頭一つ二つ抜けているなんて分かっていた。しかし実際に外部の、しかも大人にまじり対等に接している姿を見たことがなかった。
雪平が知らない世界。しかし雪平なんかより白川に近い存在。白川がいるのはそういう環境の中。分かっていたはずなのに疎外感と劣等感が体を蝕んだ。
「でも翼が珍しいね。ガッコーの友達なんて」
「あ、雪平はね、絵が好きで美術部に入ってる。雪平の絵はすっげえ綺麗で、将来は美大に行って美術を世界に広めるのが夢なんだっ――」
「白川‼」
 思わず大きな声を上げて言葉を遮ってしまった。白川が目を丸くして驚いている。
「……練習だろ。早くいけよ」
 その様子を慧斗が興味深そうに、楽しそうに眺めている。慧斗が車のドアを開けると白川が大人しく乗り込む。最後に向けられた視線は、雪平の苛立ちを理解出来ず困惑していた。
「じゃあまたね、雪平くん」
 窓から手を振ると慧斗が車を発進させる。スピードを出し去っていく車の後ろ姿を見送ると「くそッ」と小さく吐き捨てた。
 残された雪平が一人駅へと向かう。とぼとぼと歩きながら先ほどの自分の態度を思い出していた。一体何が癇に障ったのか。何をイラついているのか。その答えはすぐに見つかった。
 嫉妬だ。
 自分の知らない世界にいる白川を目の当たりにした。そしてその隣にいる人物に敵わないと思った。当たり前だ。人生の経験値が違う。あの男はすでにステージに足をかけている。白川と同じステージにだ。高校生の夢物語なんかじゃなく、現実に足をついている。あの男も白川も今のままいけば夢は必然と現実になる。そんな存在なのだ。
雪平の話なんて、慧斗からすれば鼻で笑われるようなもの。そんなのは青臭い話だと、白川に知られたくなかった。雪平が空を仰ぐ。憎いほどに美しく広がる青空にわたぐもがぽつぽつと浮いている。
「クソっ。絵になるな」
 今度は俯きかげんに目線を伏せ歩いていく。
 ダサい自分を見られたくなかったとか、それこそダサいことなど分かっている。
 こんなにも駅までの道がつまらなかったなんて知らなかった。明日からはこのつまらない道を帰らなくてはいけない。
「いいや、七海たちと帰ろう」
 そうだ、別に春休み前に戻るだけ。白川は白川の世界で、雪平は雪平の世界で生きるだけ。白川はあんな性格だから雪平に懐いていたが、そもそも住む世界は違う。
「俺が一方的に憧れてただけだ」
 こんなにもこじらせてしまうなんて、自分でもみっともないと思った。しかし雪平にとってそう思うことが唯一自尊心を保てる方法だった。

 それから白川が迎えに来ない日が続く。唯一の接点が学校の帰り道だった。白川が例の大学生と帰っているのか、一人で帰っているのか、それさえも雪平には分からない。隣のクラスなんだから話しかけにいけばいい。分かっているのにそれができないのは意地にも近いものがあった。
 昼間、雪平が七海と廊下を歩いていると丁度その先に白川が教室へ入っていく姿が見えた。
「あ、翼じゃん」
 七海の声に気付いた白川が振り向く。しかし白川に見つかった瞬間、雪平は顔を背けてしまう。本意ではない。でも条件反射だった。そんな雪平を見て、白川が気まずそうに笑うと教室内へと姿を消してしまった。「げっ」とこちらも極まりが悪そうに七海が雪平を見る。
「お前ら……まさか喧嘩――」
「みなまで、皆まで言うな、七海」
 自分自身にあきれたように眉間をつまみ項垂れる。
「おいおい、やめてくれよ。あんなに仲良かったろ」
 はあと息を吐き切るように雪平がため息をつく。
「俺が意地張ってんの。カッコ悪い」
「マジでな」
「早く仲直りしろよ」と七海に言われ、深く頷くしかできなかった。
 それからはどうしてか絵を描くことが楽しいと感じられなくなった。みなが集中してデッサンをしている中、雪平の頭には先日の白川と慧斗の光景がよぎる。思わず指先に力が入ると、パキっと鉛筆の芯が折れた。青野が横から覗き込む。
「あーあ、鉛筆削り直しだね」
「めんどくせ」と雪平が呟く。「え?」と青野が自分の耳を疑った。雪平から絵に対してネガティブな言葉を聞いたことがなかった。固まる青野の脇をちょいちょいと七海がつつく。
「翼と絶賛喧嘩中」
 妙なジェスチャーで青野に伝えると、ひえっと青野が大げさに反応する。
「どうりであんなに荒れてるわけね」
 青野が雪平のデッサンを指さす。七海と青野が触らぬ神に祟りなしと、いそいそと自分の席に戻っていく。
 雪平といえば、ぐるぐると嫌な思考が頭の中、腹の中に渦巻いていた。イライラする。何に対してなのかが分からない。それが一番雪平を苛立たせていた。