雪平と白川が学校以外で会うことはない。それでも春休みが終わるころには共に下校するまでの仲になっていた。なぜなら白川が毎日のように美術室に雪平を迎えに行くから。その光景に部員たちもすっかり慣れていた。白川が遅れる日には「翼はまだなん?」などと雪平が心配される始末だった。
「あ、翼。雪平なら今片づけしてるからちょっと待ったって」
「おう! ありがとうね、七海君」
七海綾は雪平の同クラスで美術部員。雪平の友人の一人。そしてもう一人、美術部の青野歩という友人がいる。いつも三人で過ごしていて、昼間はバスケをしたり、放課後寄り道をしたり、ゲームをしたり。入学した時からの仲良しらしい。
七海と青野が声をかけ帰っていく。白川にとって入学してから初めて学校で他生徒とまともに挨拶をかわす。高校二年生の新生活。学内に友達なんて必要ないと思っていたのに、この新鮮さが楽しかった。去っていく雪平の友人を見つめほくほくとする。すると頭に小さな衝撃が走った。
「なにニヤついてんだよ」
声の方に振り向くとスケッチブックを手にした雪平が呆れた顔で立っていた。
「大事なスケッチブックで人の頭叩くなよ」
「お前が廊下の真ん中に突っ立ってるのが悪い」
さっさと歩いて行ってしまう雪平を白川が追いかける。
「最近俺とばっかり帰って大丈夫なん?」
質問の意図が分かりかねると雪平が怪訝な顔をする。
「七海君たちと帰らなくていいのかなって」
「ああ、別に。あいつら地元が一緒らしくて、どうせ俺は途中で別れるし」
「いやいや、俺とは学校近くの駅までっしょ」
「たしかに」と雪平が呟く。そんなこと疑問に思った事もないといった様子だった。
横に並び歩き出すと玄関を過ぎ、校門を抜け学校を後にする。校庭には桜が満開に咲いているのに、二人がそれにふれることはない。皆綺麗だとはしゃいだり写真を撮ったりしている。雪平から話題に出さないのなら、こちらから言いだすことはしない。雪平が居心地よくいてくれるなら、咲いている花など些細な事だった。
最寄りの駅までは一緒に向かう。しかし反対路線を使っている二人は駅で別れるのが日常になっていた。駅までだけの短い時間。20分ほどのわずかな時間。道すがらたわいもない話をする。クラスも違う、趣味も違う、共通点などなさそうなのにこうやって語り合えるのは、なんとない時間が心地いいからだろう。
「そういや、白川はレッスンとかないの?」
ちらりと白川が背負うヴァイオリンに視線が向けられる。コンクールで賞を獲る為にはみっちりとレッスンを受けるイメージがあるのだろう。いつも音楽室で自主練をしている白川を不思議に思っている様子だった。
「ん、帰ったらやるよ。いつも八時から」
「そんな遅くから教室に通うのか?」
「いんや。レッスンは週に一回。普段は親がコーチ」
なるほどと雪平が納得した声が漏れる。
「八時からだと練習も遅くまでになるだろ。早く帰って早く終わらせた方がいいんじゃないのか?」
「んー」と白川が考える。雪平が言いたいことは分かる。部活が終わるまで待っている白川に気を使っているのだろう。しかしこれは白川のわがままだと、まだ雪平には言えなかった。白川が満面の笑みを作る。
「でも今は雪平と帰りたいから」
あまりにも眩しい顔に雪平が視線を逸らし前を向く。そんな雪平の様子を不思議がりながらもその心の内もまた、まだ白川は知らなかった。
「そういやさ、この前雪平にとって絵は趣味かどうかって聞いた時、言葉詰まらせただろ。あれなんだった?」
そんなことを覚えていたのかと雪平が驚く。
「やっぱり絵を仕事にしたいとか?」
白川相手だから言えなかったわけじゃない。夢が現実に見えている人間に、夢がまだ茫然としている感覚を分かってもらえるのか自信がなかった。
出会った時は確かにそう思っていた。しかし今は白川に話してみたくなった。どんな反応をするのか、知りたかった。
「高校卒業したら美大に行きたい。とにかく美術を学びたい。でも絵を描くことを仕事にする気はない」
雪平自身、遠回しに物を言っているのは分かっている。白川が隣で首をかしげる。それでも夢を語るには少し勇気がいった。
「世界に美術を伝えたい」
「えっと、美術のすばらしさとか」と小声で捕捉する。白川の顔を見ることができない。白川だからこそその答えが重い。
「わっかるわー!」
底抜けに明るい声が大きく響く。声が、雪平の全身を突き刺した。
「ほんとそれ。俺もさ、この良さ分かってくれー! って、伝えられるように頑張ってる」
白川がバンザイをするように手を広げる。感情をむき出しにした大きな声といい、大げさなジェスチャーといい、恥ずかしいと雪平が背を向け再び歩き続ける。
「白川はいいだろ。もう伝える術を持ってる。俺はまだ――その術も分かってない」
先を行く雪平に小走りで追いついた白川が肩を並べる。
「だから美大行きたいんだろ? それが何かを探しにいくんだろ?」
白川に共感してもらえれば自信になるかと思った。実際に白川が分かると言ってくれたことが嬉しかったし、心が軽くなった。しかしそれと同時に白川の気持ちを得てしてしか自分を肯定できない今の状況に雪平は失望した。
「そうだけど。なんかお前に話すのバカらしいな」
「なんでだよお。俺は雪平の夢が知れて嬉しい。なあ、俺の事も世界に伝えてよ」
人懐っこい顔が雪平を覗き込む。
「俺は音楽の事は分からない」
「観るか聴くかの違いだろお?」
「どうしてそんな雑把に考えれるんだよ」
なあなあとまとわりつく白川を面倒くさそうにあしらう。あしらいながら雪平が心の中を悶々とさせる。
最初は白川を通して広がる景色を見たかった。でも本当に自分が望むものはそれなのか。ふつふつと湧き出る感情は形が曖昧でつかめない。しかし何かが雪平の中に生まれた気がした。それもまた白川が見せてくれている景色なのか。無邪気に鼻歌を歌いながら前を歩いていく白川を見つめる。突然振り返った白川が笑う。やっぱりその眩しすぎる顔を直視することは出来なかった。
美術室には今日も部員たちが集まる。しかしその日はいつもと違っていた。ガラガラっと教室のドアが開くと、顧問ではない教師が顔をのぞかせる。
「顧問の春日井先生は今日お休みされている。みんなを見てやれる先生いないから、今日は早めに帰るように」
そうとだけ伝えるとぴしゃりとドアが閉められた。部員同士顔を見合わせる。
「部活やっていきたいやつは残ってもいいけど、他のみんなは帰っていいぞ。とりあえず俺は少し残っていくし」
三年生の部長がみなを帰すように促すと、雪平が友人たちと目を合わせる。
「マジかー。まあ別に急いで描いてる作品ないし。あ、そういや」
七海が思い出したように声を上げる。
「今度のコンテストの作品。どうするか決めた?」
青野が頬杖を突き考える。
「あー、俺はデザイン系でいきたいんだけどさー。まだ構図とか全然決まってない」
「俺は水彩画かなー。去年失敗したからさ、リベンジ。奏は?」
いきなり話を振られた雪平が答えに困る。
「俺は……まだ何も決めてない」
一瞬脳裏に桜がよぎった。しかしそれを宣言するにはまだ迷いがあった。桜の色を描くには心を決しきれていない。
「ふーん。あれは? 翼の絵。あれ完成させたら?」
「は?」と雪平が驚く。たぶん七海が言っているのは雪平が描いていた白川の人物画。まさかあの絵を勧められるとは思ってもいなかった。
「な、なんであんな落書き……」
「えー。だってあの絵すっげえいいよ。なんか奏の気持ちが溢れてて」
「なあ」と青野に同意を求めれば、「わかるわかる」と相槌を打たれる。どういうことかと追及しようとしたかったが、七海たちはすでに違う話題で盛り上がっていた。
「まあ、まだ時間あるし、今日は解散すっか? お前らも帰る?」
七海と青野が帰りの支度を始める。そんな二人にならうように雪平も鞄を手にした。
「あ、ああうん、俺も。……いや、やっぱり先帰ってて」
振り返った七海が首をかしげる。
「そうか? なら俺ら帰るな」
「じゃあお前んち寄ってくぞー」と七海が青野にじゃれつきながら教室を後にする。次々と生徒がいなくなる中、画材を用意するわけでもなく雪平は呆けていた。さっき七海が話していたコンテストの話を思い出す。スケッチブックをめくると、まだ描きかけの白川の絵が目に入った。
――この絵、他のと何が違うんだろう。気持ちが溢れてるって、どういう意味だ?
そっとスケッチブックを閉じると視線を窓の外にやる。校庭にはすでに散り始めた桜が並んでいる。やはりそれを描く気にはなれなかった。いや、描く勇気がまだなかった。
「あ、翼。雪平なら今片づけしてるからちょっと待ったって」
「おう! ありがとうね、七海君」
七海綾は雪平の同クラスで美術部員。雪平の友人の一人。そしてもう一人、美術部の青野歩という友人がいる。いつも三人で過ごしていて、昼間はバスケをしたり、放課後寄り道をしたり、ゲームをしたり。入学した時からの仲良しらしい。
七海と青野が声をかけ帰っていく。白川にとって入学してから初めて学校で他生徒とまともに挨拶をかわす。高校二年生の新生活。学内に友達なんて必要ないと思っていたのに、この新鮮さが楽しかった。去っていく雪平の友人を見つめほくほくとする。すると頭に小さな衝撃が走った。
「なにニヤついてんだよ」
声の方に振り向くとスケッチブックを手にした雪平が呆れた顔で立っていた。
「大事なスケッチブックで人の頭叩くなよ」
「お前が廊下の真ん中に突っ立ってるのが悪い」
さっさと歩いて行ってしまう雪平を白川が追いかける。
「最近俺とばっかり帰って大丈夫なん?」
質問の意図が分かりかねると雪平が怪訝な顔をする。
「七海君たちと帰らなくていいのかなって」
「ああ、別に。あいつら地元が一緒らしくて、どうせ俺は途中で別れるし」
「いやいや、俺とは学校近くの駅までっしょ」
「たしかに」と雪平が呟く。そんなこと疑問に思った事もないといった様子だった。
横に並び歩き出すと玄関を過ぎ、校門を抜け学校を後にする。校庭には桜が満開に咲いているのに、二人がそれにふれることはない。皆綺麗だとはしゃいだり写真を撮ったりしている。雪平から話題に出さないのなら、こちらから言いだすことはしない。雪平が居心地よくいてくれるなら、咲いている花など些細な事だった。
最寄りの駅までは一緒に向かう。しかし反対路線を使っている二人は駅で別れるのが日常になっていた。駅までだけの短い時間。20分ほどのわずかな時間。道すがらたわいもない話をする。クラスも違う、趣味も違う、共通点などなさそうなのにこうやって語り合えるのは、なんとない時間が心地いいからだろう。
「そういや、白川はレッスンとかないの?」
ちらりと白川が背負うヴァイオリンに視線が向けられる。コンクールで賞を獲る為にはみっちりとレッスンを受けるイメージがあるのだろう。いつも音楽室で自主練をしている白川を不思議に思っている様子だった。
「ん、帰ったらやるよ。いつも八時から」
「そんな遅くから教室に通うのか?」
「いんや。レッスンは週に一回。普段は親がコーチ」
なるほどと雪平が納得した声が漏れる。
「八時からだと練習も遅くまでになるだろ。早く帰って早く終わらせた方がいいんじゃないのか?」
「んー」と白川が考える。雪平が言いたいことは分かる。部活が終わるまで待っている白川に気を使っているのだろう。しかしこれは白川のわがままだと、まだ雪平には言えなかった。白川が満面の笑みを作る。
「でも今は雪平と帰りたいから」
あまりにも眩しい顔に雪平が視線を逸らし前を向く。そんな雪平の様子を不思議がりながらもその心の内もまた、まだ白川は知らなかった。
「そういやさ、この前雪平にとって絵は趣味かどうかって聞いた時、言葉詰まらせただろ。あれなんだった?」
そんなことを覚えていたのかと雪平が驚く。
「やっぱり絵を仕事にしたいとか?」
白川相手だから言えなかったわけじゃない。夢が現実に見えている人間に、夢がまだ茫然としている感覚を分かってもらえるのか自信がなかった。
出会った時は確かにそう思っていた。しかし今は白川に話してみたくなった。どんな反応をするのか、知りたかった。
「高校卒業したら美大に行きたい。とにかく美術を学びたい。でも絵を描くことを仕事にする気はない」
雪平自身、遠回しに物を言っているのは分かっている。白川が隣で首をかしげる。それでも夢を語るには少し勇気がいった。
「世界に美術を伝えたい」
「えっと、美術のすばらしさとか」と小声で捕捉する。白川の顔を見ることができない。白川だからこそその答えが重い。
「わっかるわー!」
底抜けに明るい声が大きく響く。声が、雪平の全身を突き刺した。
「ほんとそれ。俺もさ、この良さ分かってくれー! って、伝えられるように頑張ってる」
白川がバンザイをするように手を広げる。感情をむき出しにした大きな声といい、大げさなジェスチャーといい、恥ずかしいと雪平が背を向け再び歩き続ける。
「白川はいいだろ。もう伝える術を持ってる。俺はまだ――その術も分かってない」
先を行く雪平に小走りで追いついた白川が肩を並べる。
「だから美大行きたいんだろ? それが何かを探しにいくんだろ?」
白川に共感してもらえれば自信になるかと思った。実際に白川が分かると言ってくれたことが嬉しかったし、心が軽くなった。しかしそれと同時に白川の気持ちを得てしてしか自分を肯定できない今の状況に雪平は失望した。
「そうだけど。なんかお前に話すのバカらしいな」
「なんでだよお。俺は雪平の夢が知れて嬉しい。なあ、俺の事も世界に伝えてよ」
人懐っこい顔が雪平を覗き込む。
「俺は音楽の事は分からない」
「観るか聴くかの違いだろお?」
「どうしてそんな雑把に考えれるんだよ」
なあなあとまとわりつく白川を面倒くさそうにあしらう。あしらいながら雪平が心の中を悶々とさせる。
最初は白川を通して広がる景色を見たかった。でも本当に自分が望むものはそれなのか。ふつふつと湧き出る感情は形が曖昧でつかめない。しかし何かが雪平の中に生まれた気がした。それもまた白川が見せてくれている景色なのか。無邪気に鼻歌を歌いながら前を歩いていく白川を見つめる。突然振り返った白川が笑う。やっぱりその眩しすぎる顔を直視することは出来なかった。
美術室には今日も部員たちが集まる。しかしその日はいつもと違っていた。ガラガラっと教室のドアが開くと、顧問ではない教師が顔をのぞかせる。
「顧問の春日井先生は今日お休みされている。みんなを見てやれる先生いないから、今日は早めに帰るように」
そうとだけ伝えるとぴしゃりとドアが閉められた。部員同士顔を見合わせる。
「部活やっていきたいやつは残ってもいいけど、他のみんなは帰っていいぞ。とりあえず俺は少し残っていくし」
三年生の部長がみなを帰すように促すと、雪平が友人たちと目を合わせる。
「マジかー。まあ別に急いで描いてる作品ないし。あ、そういや」
七海が思い出したように声を上げる。
「今度のコンテストの作品。どうするか決めた?」
青野が頬杖を突き考える。
「あー、俺はデザイン系でいきたいんだけどさー。まだ構図とか全然決まってない」
「俺は水彩画かなー。去年失敗したからさ、リベンジ。奏は?」
いきなり話を振られた雪平が答えに困る。
「俺は……まだ何も決めてない」
一瞬脳裏に桜がよぎった。しかしそれを宣言するにはまだ迷いがあった。桜の色を描くには心を決しきれていない。
「ふーん。あれは? 翼の絵。あれ完成させたら?」
「は?」と雪平が驚く。たぶん七海が言っているのは雪平が描いていた白川の人物画。まさかあの絵を勧められるとは思ってもいなかった。
「な、なんであんな落書き……」
「えー。だってあの絵すっげえいいよ。なんか奏の気持ちが溢れてて」
「なあ」と青野に同意を求めれば、「わかるわかる」と相槌を打たれる。どういうことかと追及しようとしたかったが、七海たちはすでに違う話題で盛り上がっていた。
「まあ、まだ時間あるし、今日は解散すっか? お前らも帰る?」
七海と青野が帰りの支度を始める。そんな二人にならうように雪平も鞄を手にした。
「あ、ああうん、俺も。……いや、やっぱり先帰ってて」
振り返った七海が首をかしげる。
「そうか? なら俺ら帰るな」
「じゃあお前んち寄ってくぞー」と七海が青野にじゃれつきながら教室を後にする。次々と生徒がいなくなる中、画材を用意するわけでもなく雪平は呆けていた。さっき七海が話していたコンテストの話を思い出す。スケッチブックをめくると、まだ描きかけの白川の絵が目に入った。
――この絵、他のと何が違うんだろう。気持ちが溢れてるって、どういう意味だ?
そっとスケッチブックを閉じると視線を窓の外にやる。校庭にはすでに散り始めた桜が並んでいる。やはりそれを描く気にはなれなかった。いや、描く勇気がまだなかった。