一日経っても謎の人物、雪平奏の事が気になっていた。今日も春休み中の音楽室へ直行しようとしたが気分が変わった。
「絵が好きなら美術部でしょ。美術部なら美術室でしょ」
安直な考えの元踵を返すと美術室へと向かう。授業でしか出入りしたことがないその教室の前に着くと、ドアに付いた小窓から中を覗き込む。皆静かに黙々と絵を描いているのが美術部というイメージだったのだが、教室の中は案外ガヤガヤとお喋りの声が充満している。
白川が小窓から目的の人物を探す。キョロキョロと視線を泳がせていると、突然ガラッとドアが開いた。ドアに張り付いた姿勢の白川を美術部の顧問がにこやかに迎える。教室内の生徒たちといえば、いきなり現れた白川に目を丸くし言葉を失っていた。金髪ヤンキーにて孤高のヴァイオリニスト。一人歩きしたイメージと共に全員の注目が白川に向いている。
「あれ、白川じゃん」
教室の奥から聞こえて来た声は雪平のそれだった。
「ちょうどよかった。ちょっと来て」
雪平の元に白川が向かう。その様子を雪平の友人たちでさえ口をあんぐりと開けたまま見つめていた。
金髪ヤンキーと雪平の組み合わせが相当珍しいのか、部員たちのざわめきが聞こえていたが、その興味も時間が経てば薄れていった。
「美術部って案外賑やかなんだな」
「みんな絵が好きで集まってるような部活だから。好き同士が集まれば話も弾むだろ」
雪平が白川を自分の前に座らせる。昨日使っていたスケッチブックを取り出すと、また何の断りもなくスケッチを始めた。
「細かいところが上手く描けなかったから」
どうやら昨日の絵を完成させるため、本人が必要だったらしい。
「こういうのって美大に入りたいやつとか、絵の勉強したいやつが入部してるのかと思ってた」
「別に陸上部がみな陸上選手になりたいわけじゃないだろ」
「そういうもんか」と白川が教室を見回す。白川にとって学校生活というのはやはり馴染みの持てない場所だった。
雪平を前に足を組み椅子に浅く座る。「行儀よく座れよ」と言われたのを最後に話は途切れた。
白川が真剣に絵を描く雪平をただただ見つめる。しかしそれもすぐに飽きたので、雪平の傍に積まれているスケッチブックや紙の束を取り、一枚一枚めくっていった。
昨日見たスケッチブックの絵とは違い、絵の具で彩られた絵の数々。それはリアルと幻想が入り交じったような魅力があった。思った通り、人を魅了する絵だった。しかし景色の絵や花の絵はあるのに、やはり桜の絵はなかった。
「雪平はどうなの? 絵は趣味? それとも将来仕事にしたいとか」
「俺は――。お前はプロとかになるんだろ?」
「俺はねえ、世界に自分の音楽を届ける! って、周りに言わされてる気がする」
白川がばっと手を広げ宣言すると雪平の目が見開かれた。しかし次の瞬間その目を細めた。
「好きじゃないの? ヴァイオリン」
雪平の問いに白川が横に首を振る。
「好きだよ。世界に届けたいほど好き」
いつものふざけた調子とは違い、遠くを焦がれるように見つめる白川に雪平の心が掴まれる。
「でもあと何か、ピースが足りない気がする」
「何が足りないって?」
「分かんねえ。なんだろ。技術とか、そういうんじゃなくって」
白川の悩みは雪平には分からない。まるで雲の上の存在。自分の夢など未だ形を掴めず浮遊している幻想のようで。そんなネガティブな感情を振り払うように再びスケッチブックに視線を落とす。スケッチブックに描かれた白川。もしかすると白川を通して雲の上を見た気になりたかったのかもしれないと、雪平がその絵を撫でた。
「ねえ、なんで桜描かねえの?」
ふいに投げられた白川の問いかけに雪平が答える事はなかった。
「雪平の絵って繊細っちゅうか、それでいて説得力あるっちゅうか。桜の絵なんて迫力あっていい感じに描けると思うんだよね」
絵を描く手が少しだけ止まったような気がした。でも気がしただけでその手は忙しく動き出している。雪平が答えることはなく無言の時間がしばらく流れた。
「生まれた時からピンク色が見えない。色弱」
思い切って放たれたような雪平の声が聞こえた。聞きなれない言葉に白川の表情が曇る。身を乗り出すと神妙な面持ちで声をひそめた。
「何それ。目え悪いの?」
「先天性のものだから悪くなることはない。生活に支障があるわけでもない。『見えない』は語弊だった。正しいピンク色が分からない」
椅子にもたれなおした白川が雪平の絵に視線を移す。
「みんな桜はピンクが映えて豪華絢爛だって言う。俺にはそれがずっと分からない。だからずっと桜が嫌いだったし、描きたくない。描きたくないというより、俺には描けない」
悲しいのではない、悔しいといったそんな表情にみえた。
「俺の絵、変じゃないか?」
今度はしっかりと絵を描く手が止まった。その質問を誰かに聞くのを怖がっているように、質問の答えを聞くのを怖がっているように、伏せたままの目から緊張が伝わってきた。
「変じゃない。すげえ綺麗」
「絵を描くのが好きなのに見えないなんて、笑えるだろ」
「全然。他人が笑う事じゃない」
ぶっきらぼうで、でも素直な白川の言葉に雪平の表情が緩む。
「白川はなんでもストレートに言うタイプだから、助かる」
「何それ、バカにしてんの?」
それでも嬉しそうな顔をする雪平に白川も顔がほころんだ。
「なあ、人は? 人は描かねえの?」
捲っていくスケッチブックに人物画が見当たらない。
「描きたくないわけじゃないけど、描きたいと思う人がいなかった」
口をあんぐりと開けた白川には気付いていない様子の雪平。今まさに描いているものはなんだと、白川が鉛筆をにぎる手元に視線をやる。
「なんで速い曲リクエストしたの?」
「たまに見てたから。そっちの白川の方がなんかこう、ぐっと来た」
きょとんとしたかと思えば「あっはは」と白川がケラケラと笑う。
「ねえ、俺今熱い告白されてんの?」
「ポジティブだと人生楽しくていいな」
「おい」と癪に障る振りはするけども、本気で怒る気などさらさらない。まだ鉛筆を握り締めている雪平の手首を白川が掴んだ。驚く雪平に構うことなくそのまま立ち上がる。ぐいぐいと引っ張ぱりながら教室の外へと向かう。
「先生、雪平借りていきます!」
「あらまあ。下校時間までには戻ってね」
状況がつかめず狼狽えながら引きずられていく雪平を顧問がにこやかに送り出した。
校舎の外へ出るやいなや走り出した白川を、わけも分からず走って追いかける。金髪少年が無邪気に校庭を走る。いつも孤独に敬遠されていた一人の少年は、天真爛漫で言葉を率直に吐く、ただの少年だった。
それでも白川はそのうち学校から飛び出していくだろう。もしかしたら日本からも飛び立ってしまうかもしれない。
その存在が雪平をグサグサと突き刺す。もっと突き刺してほしいと思い焦がれる。
白川の見ている世界が、見たい。
白川が校庭の端に佇む一本の木の前で立ち止まった。息を切らせながら雪平に向き直ると空を指さす。その指の先には桜が三輪ほどほころんでいた。
「今日の朝見つけた。なあ、描いて。今年は満開の桜、描いて」
その言葉に躊躇いをみせたのは雪平だった。
「だから、俺は描けないんだって」
「桜の色なんてどうでもいいんだって! 見たいと思ったんだって。雪平が見てる景色」
どうしてそんなに楽しそうにするのだろう、どうしてそんなに嬉しそうにするのだろう。まるで新しい世界を見つけたかのように。
雲の上のお前が、俺の世界を見たいだなんて、どうして――。
「ずるいだろ、それは」
「何が?」と白川が首を傾げる。
「白川は見れるのに、俺は見れないのは、ずるいだろ」
「それはしょうがないじゃん」
誰しもが気を遣って口を噤む言葉を白川は悪気なく吐く。それがなぜか雪平の心を晴らしていく。気にしていることがちっぽけでしょうもない事だと思えてくる。
「じゃあ、俺にも見せて。ヴァイオリンの世界」
白川がびしっと雪平を指さした。
「おう! 何でも弾いたる。そのうちプラチナチケットになるヴァイオリニストだからな。贅沢噛みしめろよ。その代わり白川も――」
「それは、まだ」
濁った雪平の言葉を白川はそれ以上求めなかった。まだ前を向けていない雪平に、無理に前を向けとも言わなかった。そんな白川の気持ちを見て見ぬふりするように、健気に咲いている三輪の桜からも目を逸らしてしまった。
「絵が好きなら美術部でしょ。美術部なら美術室でしょ」
安直な考えの元踵を返すと美術室へと向かう。授業でしか出入りしたことがないその教室の前に着くと、ドアに付いた小窓から中を覗き込む。皆静かに黙々と絵を描いているのが美術部というイメージだったのだが、教室の中は案外ガヤガヤとお喋りの声が充満している。
白川が小窓から目的の人物を探す。キョロキョロと視線を泳がせていると、突然ガラッとドアが開いた。ドアに張り付いた姿勢の白川を美術部の顧問がにこやかに迎える。教室内の生徒たちといえば、いきなり現れた白川に目を丸くし言葉を失っていた。金髪ヤンキーにて孤高のヴァイオリニスト。一人歩きしたイメージと共に全員の注目が白川に向いている。
「あれ、白川じゃん」
教室の奥から聞こえて来た声は雪平のそれだった。
「ちょうどよかった。ちょっと来て」
雪平の元に白川が向かう。その様子を雪平の友人たちでさえ口をあんぐりと開けたまま見つめていた。
金髪ヤンキーと雪平の組み合わせが相当珍しいのか、部員たちのざわめきが聞こえていたが、その興味も時間が経てば薄れていった。
「美術部って案外賑やかなんだな」
「みんな絵が好きで集まってるような部活だから。好き同士が集まれば話も弾むだろ」
雪平が白川を自分の前に座らせる。昨日使っていたスケッチブックを取り出すと、また何の断りもなくスケッチを始めた。
「細かいところが上手く描けなかったから」
どうやら昨日の絵を完成させるため、本人が必要だったらしい。
「こういうのって美大に入りたいやつとか、絵の勉強したいやつが入部してるのかと思ってた」
「別に陸上部がみな陸上選手になりたいわけじゃないだろ」
「そういうもんか」と白川が教室を見回す。白川にとって学校生活というのはやはり馴染みの持てない場所だった。
雪平を前に足を組み椅子に浅く座る。「行儀よく座れよ」と言われたのを最後に話は途切れた。
白川が真剣に絵を描く雪平をただただ見つめる。しかしそれもすぐに飽きたので、雪平の傍に積まれているスケッチブックや紙の束を取り、一枚一枚めくっていった。
昨日見たスケッチブックの絵とは違い、絵の具で彩られた絵の数々。それはリアルと幻想が入り交じったような魅力があった。思った通り、人を魅了する絵だった。しかし景色の絵や花の絵はあるのに、やはり桜の絵はなかった。
「雪平はどうなの? 絵は趣味? それとも将来仕事にしたいとか」
「俺は――。お前はプロとかになるんだろ?」
「俺はねえ、世界に自分の音楽を届ける! って、周りに言わされてる気がする」
白川がばっと手を広げ宣言すると雪平の目が見開かれた。しかし次の瞬間その目を細めた。
「好きじゃないの? ヴァイオリン」
雪平の問いに白川が横に首を振る。
「好きだよ。世界に届けたいほど好き」
いつものふざけた調子とは違い、遠くを焦がれるように見つめる白川に雪平の心が掴まれる。
「でもあと何か、ピースが足りない気がする」
「何が足りないって?」
「分かんねえ。なんだろ。技術とか、そういうんじゃなくって」
白川の悩みは雪平には分からない。まるで雲の上の存在。自分の夢など未だ形を掴めず浮遊している幻想のようで。そんなネガティブな感情を振り払うように再びスケッチブックに視線を落とす。スケッチブックに描かれた白川。もしかすると白川を通して雲の上を見た気になりたかったのかもしれないと、雪平がその絵を撫でた。
「ねえ、なんで桜描かねえの?」
ふいに投げられた白川の問いかけに雪平が答える事はなかった。
「雪平の絵って繊細っちゅうか、それでいて説得力あるっちゅうか。桜の絵なんて迫力あっていい感じに描けると思うんだよね」
絵を描く手が少しだけ止まったような気がした。でも気がしただけでその手は忙しく動き出している。雪平が答えることはなく無言の時間がしばらく流れた。
「生まれた時からピンク色が見えない。色弱」
思い切って放たれたような雪平の声が聞こえた。聞きなれない言葉に白川の表情が曇る。身を乗り出すと神妙な面持ちで声をひそめた。
「何それ。目え悪いの?」
「先天性のものだから悪くなることはない。生活に支障があるわけでもない。『見えない』は語弊だった。正しいピンク色が分からない」
椅子にもたれなおした白川が雪平の絵に視線を移す。
「みんな桜はピンクが映えて豪華絢爛だって言う。俺にはそれがずっと分からない。だからずっと桜が嫌いだったし、描きたくない。描きたくないというより、俺には描けない」
悲しいのではない、悔しいといったそんな表情にみえた。
「俺の絵、変じゃないか?」
今度はしっかりと絵を描く手が止まった。その質問を誰かに聞くのを怖がっているように、質問の答えを聞くのを怖がっているように、伏せたままの目から緊張が伝わってきた。
「変じゃない。すげえ綺麗」
「絵を描くのが好きなのに見えないなんて、笑えるだろ」
「全然。他人が笑う事じゃない」
ぶっきらぼうで、でも素直な白川の言葉に雪平の表情が緩む。
「白川はなんでもストレートに言うタイプだから、助かる」
「何それ、バカにしてんの?」
それでも嬉しそうな顔をする雪平に白川も顔がほころんだ。
「なあ、人は? 人は描かねえの?」
捲っていくスケッチブックに人物画が見当たらない。
「描きたくないわけじゃないけど、描きたいと思う人がいなかった」
口をあんぐりと開けた白川には気付いていない様子の雪平。今まさに描いているものはなんだと、白川が鉛筆をにぎる手元に視線をやる。
「なんで速い曲リクエストしたの?」
「たまに見てたから。そっちの白川の方がなんかこう、ぐっと来た」
きょとんとしたかと思えば「あっはは」と白川がケラケラと笑う。
「ねえ、俺今熱い告白されてんの?」
「ポジティブだと人生楽しくていいな」
「おい」と癪に障る振りはするけども、本気で怒る気などさらさらない。まだ鉛筆を握り締めている雪平の手首を白川が掴んだ。驚く雪平に構うことなくそのまま立ち上がる。ぐいぐいと引っ張ぱりながら教室の外へと向かう。
「先生、雪平借りていきます!」
「あらまあ。下校時間までには戻ってね」
状況がつかめず狼狽えながら引きずられていく雪平を顧問がにこやかに送り出した。
校舎の外へ出るやいなや走り出した白川を、わけも分からず走って追いかける。金髪少年が無邪気に校庭を走る。いつも孤独に敬遠されていた一人の少年は、天真爛漫で言葉を率直に吐く、ただの少年だった。
それでも白川はそのうち学校から飛び出していくだろう。もしかしたら日本からも飛び立ってしまうかもしれない。
その存在が雪平をグサグサと突き刺す。もっと突き刺してほしいと思い焦がれる。
白川の見ている世界が、見たい。
白川が校庭の端に佇む一本の木の前で立ち止まった。息を切らせながら雪平に向き直ると空を指さす。その指の先には桜が三輪ほどほころんでいた。
「今日の朝見つけた。なあ、描いて。今年は満開の桜、描いて」
その言葉に躊躇いをみせたのは雪平だった。
「だから、俺は描けないんだって」
「桜の色なんてどうでもいいんだって! 見たいと思ったんだって。雪平が見てる景色」
どうしてそんなに楽しそうにするのだろう、どうしてそんなに嬉しそうにするのだろう。まるで新しい世界を見つけたかのように。
雲の上のお前が、俺の世界を見たいだなんて、どうして――。
「ずるいだろ、それは」
「何が?」と白川が首を傾げる。
「白川は見れるのに、俺は見れないのは、ずるいだろ」
「それはしょうがないじゃん」
誰しもが気を遣って口を噤む言葉を白川は悪気なく吐く。それがなぜか雪平の心を晴らしていく。気にしていることがちっぽけでしょうもない事だと思えてくる。
「じゃあ、俺にも見せて。ヴァイオリンの世界」
白川がびしっと雪平を指さした。
「おう! 何でも弾いたる。そのうちプラチナチケットになるヴァイオリニストだからな。贅沢噛みしめろよ。その代わり白川も――」
「それは、まだ」
濁った雪平の言葉を白川はそれ以上求めなかった。まだ前を向けていない雪平に、無理に前を向けとも言わなかった。そんな白川の気持ちを見て見ぬふりするように、健気に咲いている三輪の桜からも目を逸らしてしまった。