手入れのされた金髪ヘアーに着崩した制服姿で学校の廊下を歩く。
 制服は学ランだったが上着はめったに羽織ったことがない。いつもシャツにニットが定番スタイル。そんな見た目だからか同級生たちは寄り付かない。それくらいがちょうどいいとさえ思っていた。
 田舎の工業高校は特に校則が厳しいわけでもない。それでも最初はよく呼び出しをくらい、親にも叱られた。
 しかし「賞」を取れば大人たちは静かになった。周りは益々距離をあけた。

 一年生の三学期が終わり、春休みに入ると校内は部活のために出てきている生徒くらいしかい見当たらない。金髪の青年、白川翼(しらかわつばさ)が誰もいない音楽室のドアを開ける。男子生徒が八割のこの高校では音楽系の部活は軽音部くらい。第一音楽室を使っているので第二音楽室はいつも空いていた。しかも長期休暇にわざわざ学校へ出てきてまで部活をするような熱意はないらしい。
 人気(ひとけ)のない音楽室に入ると慣れた手つきで電気のスイッチを付け、窓を全開にする。穏やかな風が吹きこみ、かび臭い空気を一掃する。カーテンがふわりと舞い上がった。
「気持ちいい」

 パチンパチンとヴァイオリンケースのロックを外す。取り出したのは濃い赤茶色の木目が美しい楽器。そのカーブ掛かったフォルムを優しくなでる。
 普段の居場所は学校の外にあった。同じヴァイオリン講師の生徒は大学生や外国人、小さな子供たち。その世界が心地いい。だから同年代ばかりが集い群れる学校にはなじめなかった。白川にとって静かなこの時間、この場所が学校の中で唯一好きな空間だった。ここは白川だけの城。

 籠城することが日課だったが、休日と言う事もあり油断した。楽器の準備をしていると背後からガラっとドアが開く音が聞こえた。
「マジかよ、鍵閉め忘れた」
 白川の城には誰も立ち入られたくはない。機嫌悪く振り向いた先、入口に立っていたのは一人の男子生徒だった。
「勝手に入ってくんなよ」と言えるほど親しくもなければここは公共の場所でもある。突然現れたその生徒とは今まで接点もないし一度も話したことがない。ただ、同学年であり昼休みに他の男子生徒とバスケをする姿や、集会で眠そうに列に並んでいる姿を知っていた。
 白川にとっては、たぶんそれだけの存在。

「な、何か用?」
 白川が牽制するのもどこ吹く風。男子生徒が城へと踏み入る。
「3組の雪平奏(ゆきひらそう)
「いちいち名乗らんでも知ってるわ!」
 噛みつく白川をスルーすると、その辺にあった椅子をガタガタと煩く引きずり持ってくる。白川から少し離れた正面位地に置き、何の断りもなくどかりと座った。
「は?」
「あ、気にしないで。弾いていいよ、白川さん」
「俺のこと知ってんの?」
「白川はそれで有名でしょ」
 雪平が白川のヴァイオリンを指さす。呼び捨てにされたのも気にかかったが、白川の城にいきなり押しかけて来て無断で居座りだしたその態度が気に入らない。
「あのさ、何しに来たのか知らないけど出てってほし――」
「速い曲がいい」
――いやいやいやいや、何なのこいつ!
白川がドン引きしようが動じない。むしろ真剣な眼差しを向けてくるものだから、逆らうことが許されない感覚を覚えた。仕方なく白川がおもむろにヴァイオリンを構える。静かに小指を弦に添えた。
――分かったよ、弾きゃいいんだろ。
 こうなりゃ特別なのをお見舞いしてやろうと、ひゅっと息を吸うと弓の根本で弦を掻き鳴らした。弦を押さえる左手は流れるように動き続け、弓をひく右腕が激しく動く。
 曲に合わせて瞳に力が入り、上半身が揺れる。体の動きに合わせて頭の金髪がぴょんぴょんと躍る。

 曲は序盤から速いスピードで滑り出す。速い曲をご所望ならば指や弓さばきを見たいに違いないと白川がちらりと前をのぞいた。しかし目の前の雪平が演奏技法に興味をしめす様子はない。それどころか椅子に片膝を立て、鞄をガサゴソと探り出す。白川が横目に様子を伺うと、鞄から取り出したのはスケッチブック。数ページめくるとガリガリと鉛筆を走らせ始めた。
「やっぱり、すごくいい」
 小さく呟き無心でスケッチブックにかじりつく。拍子抜けした白川の演奏が続く。D線とG線を同時に鳴らし、重音がのびやかに響くパートに差し掛かる。ヴァイオリンの和音に重なり、サリサリと鉛筆が紙を滑る音がする。そんな小さな音が聞こえるはずはない。しかしその時白川には確かに聞こえた。自分が奏でる音と交じり心地いい。演奏も真面目に聴かず、スケッチブックに夢中な雪平に腹が立ち睨みつける。すると雪平が唐突に伏せていた目を上げ、突き刺すような視線が白川に向けられた。その瞳と目が合うと思わず視線をそらしてしまう。ドクリと心臓が鳴った。曲はテンポを上げ、ピッチカートが続く超絶技法からポジションが激しく移動する難易度の高いパートへと突入する。演奏にプレッシャーがかかっているわけではない。それなのに胸の音がうるさい。
 今までならただ音符を追うように弾いていただけの曲なのに、雪平と目が合ってから指先がおかしい。こわばっているような、神経が集中しているような、とにかく息苦しく弾きづらい。ドクドクと鳴る心臓の音が速まり、それに急かされるように指が動く。いつもよりテンポが速くなる。抑えたいのに指が止まらない。白川が初めて感じる感覚。
 これは「緊張」だ。
 最後の和音を弾き終わると心なしか息が切れている。いつもならもっと冷静に音を奏でられたのに。雪平と目が合ってから調子が狂った。睨むように前を見ると、当の雪平は未だスケッチブックに視線を落とし鉛筆を滑らせている。少し苛立った白川がつかつかと雪平に歩み寄る。そのままばっとスケッチブックを取り上げた。
「あ……」
 突然手元から消えたスケッチブックに雪平が驚く。白川が開かれた1ページをまじまじと見つめた。「返して」と言わんばかりに腕を伸ばすが、白川が取り上げたスケッチブックには座ったままでは届かない。
「……上手いじゃん」
 ページをめくると風景画や静物画が描かれていた。鉛筆で描かれた世界はなぜか色鮮やかで、その力強さと繊細さに見入ってしまう。雪平は返してもらうのを諦めたようで、おとなしく外を眺めだしていた。

 白川が雪平の絵に感心していると外からぶわっと大きな風が舞い込んできた。カーテンが大きく舞い上がる。パラパラとスケッチブックのページが捲れる。白川の金髪がなびき、雪平の睫毛が揺れた。
「春一番か?」
 白川も窓の外に目を遣る。窓を開けていても心地いい気温と暖かい風。春休みに入り、浮ついた学校の雰囲気。校舎内は新しい季節に向けて色めき立っていた。春風に撫でられると白川の苛立ちもいつの間にか収まっていた。
「絵が好きなの?」
「まあ。好きだから描いてる」
「俺と一緒か」
 白川の言葉に雪平の体が反応する。白川にも気付かれていない程、ちいさく雪平の心がうずいた。
「これ色塗らないの?」
「色塗りしたやつは他にある。それはデッサン用」
「へー。よく分からんけど、色がつけばもっときれいになるのか」
 警戒していたはずの雪平の絵に見入る。鉛筆一本でこんなにも魅力的なら、色の入った絵はどんなものかと自然と想像がふくらんだ。
「そうだ、もうすぐ桜じゃん。桜描けば? って、もう描いたことあるか」

「桜は描かない」

 大人しかった雪平が勢いよくスケッチブックを奪い取る。いきなりのことに白川が驚く。雪平は鞄を拾い上げそのままドアに向かうが、数歩進んだところで白川に振り向いた。
「さっきの曲、何ていうの?」
「パガニーニ 24のカプリース第24番」
 「へー」と興味なさげに一度宙を仰ぐ。
「覚えらんない。送って」
 許可も得ずスマホを取り出すとメッセージアプリのQRコードを表示させ、それを白川に突き出してきた。
「は!? なんでお前と連絡先交換しなきゃいけないの!?」
 一度は拒否したものの、「早く」と雪平が引く様子はない。不本意ながら、このままでは収集がつかないと思った白川がQRコードを読み取る。
「じゃ、送っといて。後で曲ダウンロードしたいから」
 そう言うと挨拶もなしに教室を出ていく。ポツンと残された白川がただただ雪平が出ていったドアを見つめる。
「意外と興味あるんじゃん。じゃなくて! 何なのあいつ!?」