さて、問題です。
次の□□に入る言葉はなんでしょう? 正答だと思う言葉をひとつ書きなさい。
問一:青春とは、□□である。
解答者:朝野みやび
解答:青春とは、『水族館』である。
私はたぶん、ひとよりも恵まれた人間なのだと思う。
両親は再婚で、私とお母さんは血が繋がっていないけれど、それでも可愛がってもらってる。
学校でも、私はいつだってクラスのなかでいちばん人気のグループに入れてもらえた。
もちろん、いじめられたことなんて一度もないし、なんなら友だちの作りかたも知らない。だって、男女問わずみんなのほうから話しかけてきてくれるから。
男の子に好きって言ってもらったことも、何度もある。
みんな基本的にすごく優しくて、気を遣ってくれる。
……でも、ときどき、みんなの笑顔が仮面に思えるときがある。
みんな、私の前では笑顔だけど、うしろを向いたとき、本当に笑っているのだろうか、って。
もしかしたら本当はぜんぜん笑ってなんていなくて、それどころか本音すら打ち明けてくれていないんじゃないか、って。
私に本音を言ってくれてる子って、今までどれくらいいたのかな……。
***
「――ねぇねぇ。よかったら、連絡先交換しない?」
高校二年の春。
私は、新学期いちばんに声をかけてくれた、うしろの席の女子と友だちになった。
彼女は名前を淡島亜子ちゃんといって、華やかな子だ。
長い髪の毛先はコテで丁寧に内巻にしていて、ちょっといい匂いがするから、香水もつけているらしい。
休み時間はよくファッション誌を読んでいて、お弁当はいつも小さめ。
放課後、どこかに寄り道してなにかを食べようってなったとき、いつも半分こしない? って言ってくる。
少食できらきらした可愛いもの好きの、ザ・女の子みたいな感じの子だ。
「ねーみやび、今日部活?」
放課後、先生が教室を出ていくと同時に、うしろの席の亜子が私の肩を叩いた。
「ううん、今日は休み」
振り返って答えると、亜子の顔がパッと明るさを増す。
「なら、ちょっと寄り道していかない?」
「いいよいいよ、どこ行く?」
私は笑顔で返事をする。
「私今金欠で、できればカフェあたりがいいんだけど……どう?」
亜子がうかがうような視線を私に向ける。
亜子はたまに、私の顔色を気にするような態度をとる。そしてそれは、私にだけではなくて、ほかの子たちに対しても同じ。
なにかに怯えてるみたいに、というか、すべてのひとと一線を置いているような、そんな感じ。
行先は私に決めてほしいってことなのかな?
ただ気を遣っているだけなのか、それともほかの理由があるのか。亜子は特に、本音が見えないときがある。
本音を言えるほどの関係に、私たちはまだなれていないということなのかもしれないけれど。
心のなかでほんの少し寂しさを感じながらも、私は笑顔で頷いた。
「じゃあ私、スタバ飲みたいな!」
「いいね! じゃあスタバ行こ!」
「やったー!」
亜子は、どうして私に声をかけてくれたのだろう。
やっぱり、外見が大きいのかな。
少し複雑だけど、そのおかげで亜子と友だちになれたのなら、喜ぶべきなのだろう。
スタバに入り、フラペチーノを注文して空いている席に座る。その間、話が途切れることはなかった。
「最近なににハマってる?」
「曲はなに聞く?」
「アイドルとか好き?」
亜子は聞き上手のようで、続けざまに質問をくれた。
「えっとねー……」
次第に話が盛り上がってきて、笑い声が大きくなっていく。ふととなりの席の女性と目が合い、私たちが今いる場所がカフェであることを思い出した。慌てて我に返り、声を抑えて訊ねる。
「ねぇ、亜子ってさ、一年のときはだれと仲良かったの?」
さっきから私ばっかり話してしまっている気がして、今度は私から亜子に話を振る。
亜子は少し気恥ずかしそうにはにかんで、話し出す。
「知ってるかなー? 市野桃果っていう子なんだけど、今は七組で」
七組といえば、たしか、一年のときに仲が良かった綾とみこと同じクラスだ。
「知ってる知ってる! 昨年の後夜祭でバンドしてた子だよね? 軽音部の」
明るいロング髪の、人前に立つのが大好きといった感じの子だ。たしか一年の後夜祭で、先輩たちとバンドを組んで歌っていた。中学も違うし、話したこともないけれど、顔ぐらいは知っている。
「あーそうそう。もうあのバンドは解散しちゃったらしいんだけどね」
「え? そうなの?」
驚いて顔を上げると、亜子は若干呆れた口調で言った。
「桃果、あのバンドのギターの先輩と付き合ってたんだけど、別れたらあっさり退部してサッカー部の男子と付き合ってるよ」
「そ、そうなんだ……すごいね」
高校生になると、周りはどんどん大人になっていく。
だれかとだれかが付き合ったとか、別れたとか。私にはまだ未知の世界だ。
話の流れで、亜子の彼氏の名前を聞いたときは驚いた。
遠山隼。
サッカー部でイケメンだとよく噂になっているひと。私自身、同じクラスになったこともないし、彼について詳しいわけではない。
ただ、告白されたことが一度だけあった。
私に告白してきたのは、たしか一年の冬休み直前の頃。同時期にとなりのクラスの女子も告られたとか騒いでいたから、あぁそういうひとなんだなぁと思って、断った。
特別視されることはきらい。だけど、軽視されるのもいや。
「亜子は……彼のどこが好きなの?」
「えー……」
亜子が恥ずかしそうに笑う。
噂のこともあって、私は正直なことを言うと、彼に良い印象は持っていなかった。
しかも、よくよく話を聞けば、亜子が告られたのも同時期だとか。
亜子の様子をうかがうけれど、彼女はその噂については知らないようだ。前半クラスで噂になっていただけで、全クラスまで広まってはいないのだろう。
言うか言うまいか悩むが、亜子の様子を見るかぎり、幸せそうに見える。始まりはどうあれ、当人同士が幸せなら、私がとやかくいうことではない。もし言うにしても、もう少し関係ができてからのほうがきっといい。
私は彼の噂について、黙っておくことにした。
「だって隼くん、かっこよくない? 人気者だし」
「かっこいい……?」
「うん!」
その言葉はまるで、じぶんへ向けられた刃のように、私の心臓を突き刺した。
かっこいいとか、人気者とか。そんな理由? そんな理由で、恋ってするものなの?
じゃあ、これまで私に告白してきた男の子たちはやっぱりみんな、私の外見だけで……。
「ねぇ、みやびは彼氏いないの?」
亜子から問われ、私は顔を上げる。
「私? いないいない。私、恋とかしたことないし」
苦笑混じりに答えると、亜子が前のめりになる。
「そうなの? でもすごい告白されるんじゃない?」
「んー……ぶっちゃけ、今はあんまり恋愛に興味ないんだよね」
本心だった。私はあまり、恋愛にいいイメージを持っていない。
だれかに好きって言ってもらうことはあるけど、そういうとき、いつも相手は私の顔を見ている。
その目を見て思う。
このひとは、もし私が事故に遭って顔がぐちゃぐちゃになったとしても、好きだよと言ってくれるのだろうか、って。
私の顔は変わらない。これ以上良くもならないし、悪くもならない。なのだから、そんなこと考えたって意味がない。頭では分かってる。だけど、どうしても考えてしまう。
私の価値って、なに?
顔を褒められるたび、人格を否定されている気になる。
終わりのない負のループにはまりかけて、私は思考を掻き消すようにスマホを開いた。ふと、ホーム画面の左下にあるアプリアイコンに目が止まる。
『チップス』。
試しに素性を隠して始めてみたSNSだ。でも、ほとんど起動させていない。フォロワーがいないのだ。いくら呟いても、フォローしても、フォロワーは増えなかった。
私の呟きは、つまらないんだろう。
私は、ビジュアルがなければだれの目にも止まらない。だれにも相手にされない。
じぶんでも自覚してる。だって、不特定多数のひとたちに向かって、なにを話せばいいかなんて分からない。話すことなんてない。
なんでみんな、楽しそうにこんなものをやるんだろう? 承認欲求? 分からない。理解できない。
となると、みんなが欲しがる承認欲求というものが、私にはないのだろうか。
私は考える。
……違う。
たぶん私は、SNSがなくても、承認欲求が既に満たされてしまっているのだ。
フォロワーがいなくても、現実では人気者だから。みんなに愛されているから。
だから私には、SNSなんて必要ない。いいねなんてそんなもの、ぜんぜんほしくない。
私はそんな小細工しなくても愛されるから。鬱陶しいと感じるくらいに愛されているから。
「ねぇ、みやびってチップスやってる?」
「えっ?」
「チップス。知らない? 最近人気のアプリなんだけど」
亜子はじぶんのスマホを翳して、チップスのアイコンを見せてくる。
「あー……」
私はじぶんのスマホを見る。視界に入るのは、アカウントを作っただけで放置しているチップスのアイコン。やっている、と言おうかどうか、悩む。
でも結局、私はスマホ画面を暗くした。
「ううん。私、そういうの分からなくてやってないんだ」
「そっかぁ」
私は、他人のことが信用できない。
ただし、普段からひとが信用できない、というわけではない。
信用できないのは、私のことを好きと言ってくるひとのことだけ。失礼な話かもしれないが、私にぜんぜん興味ありません、っていうひとのほうがひととして信頼できる気さえしている。
女の子同士でいると、だいたい恋バナが始まる。
恋バナ自体は好きだけど、じぶんに話を振られるのは苦手。
こういうとき、恋愛に対して否定的なことを呟くと、必ずと言っていいほど「もったいない」と言われるから。
なんでもったいないんだろう。
可愛かったら、彼氏がいないといけないの?
恋愛って、そういうものなの?
亜子との会話中、つい声のトーンが下がってしまった。いけない、と思い直す。気を悪くしてしまったかもしれない。
微妙な空気が流れて、亜子が慌てて笑顔を作る。
「あっ、そういえばさ、ずっと気になってたんだけど、みやびって髪つやつやだよね! シャンプーなに使ってるの?」
察しがいい。亜子は気遣い上手のようだ。ありがたい反面、申し訳なさを感じる。
話しながら、亜子はしきりにフラペチーノのストローをかじっていた。くせなのだろうか。
「――そういえばみやびって、昨年は二組だったって言ってたけど」
「うん」
「みやびはだれと仲良かったの?」
「あー……えっと」
何気なく問われて、私は曖昧に笑う。
脳裏に数人の女子の顔がちらつく。だけど、そのうちのだれの名前も言う気にはならなかった。
「……昨年は特別仲いい子はいなかったんだ。なんていうか、一年のクラスはみんなでわいわいって感じだったから」
言いながら、目を伏せる。
本当は、違った。ひとりだけ、友だちだと思っている子がいた。けれど、それも結局思っていたのは私だけ。だから、厳密には友だちとは呼べないのかもしれない。だから、言わない。
かつてあの子に言われた言葉が蘇る。
『――学校では、あんまり私に話しかけないで』
胃のあたりがぎゅっとした。
「あー……あるよねぇ、そういうクラス。いいなぁ。うちのとこは結構ギスギスだったからさ」
「そうなの?」
「うん。いつも気を張ってるかんじだったよ。いじめとまではいかなかったけど、グループのなかでのいざこざも多くて」と亜子は苦笑する。
そうなんだ、と返しながら、少しだけ亜子に親近感を感じる。だから、訊ねてみた。
「ねぇ……亜子って、アニメとか見る?」
「えー? なに急に。見ないけど。え、うそもしかしてみやび見るの? 意外すぎるんだけど!」
なんとなくいやな言いかたに聞こえたのは、気のせいだろうか。ちょっと小バカにしたような。
その反応に、あぁ、やっぱりこの子もか、と私は軽く幻滅する。
「……見ないけど」
本当は好きだけど、たぶんそういう答えは、この子は望んでない。
「あは、だよねぇ。だってアニメってオタクが見るものでしょ。アニメ好きとか言ったら、絶対クラスでハブられるわ」
「…………だね」
やっぱり、私の感覚は合っていたみたい。
もし、私がアニメを好きだとぶっちゃけたら、亜子はなんて言うのだろう。
私のことを、どう思うんだろう……?
「まぁでも、みやびはそんな悩みとは無縁そうだよね~」
そんなことない。……そんなことないよ。
友だち関係では、私だってたくさん悩んだ。今だって、ちょっと悩んでる。
……でも、亜子の言うとおり、私はひとより恵まれているという自覚がある。
直接バカにされたり、ものを隠されたりしたこともない。だから、そんなことは思っちゃいけない。
「あは。そうかも」
私は顔に笑みを貼り付けて、亜子の言葉を聞き流す。
「亜子はさ、桃果ちゃんとは今も仲良いの?」
「あー……」
微妙な反応が返ってきて、おや、と思う。
亜子はどこか気まずそうに頬をかきながら、言った。
「ううん。廊下で会えば話す程度かな。今はもう個人的にメッセとかはぜんぜんしてない。お互い、クラスに新しい友だちいるしね」
「ふぅん、そうなんだ?」
「ん」
じっと見ていると、亜子が私から目を逸らした。その視線の流れを見つめながら、思う。
フラペチーノを飲む亜子は笑顔だったけれど、その笑顔はどこか引き攣っているように思えた。
――なにか悩みでもあるのかな。
相談に乗りたいけれど、まだ知り合って日が浅いから、遠慮しているのかもしれない。もしくは、私には話しにくいことかも。
……今はまだ、聞くべきじゃないかな。言いたくないことを無理に聞くのもよくないし。
そうだ。今日は亜子から放課後デートに誘ってくれたから、今度は私から誘ってみたらどうだろう。
今はまだ無理でも、この先もお昼を一緒に食べて、放課後寄り道したり、勉強会したり、休みの日に映画とかデパートにいっしょに行ったりして、少しづつでも仲良くなっていけば、いつかは本音で話してくれるようになるだろうか。
たまに喧嘩して、お互い泣きながら仲直りしたりできるだろうか。
亜子と私のあいだにある見えない壁を、いつか壊せたらいい。
そしていつか、亜子と心から笑い合える友だちになれたらいい。
そう思いながら、私は指先でつまんだストローを口に持っていった。
***
亜子と別れて、駅前のバス停に立っていると、バスの到着時刻である五時四十二分きっかりにバスがやってきた。
バスに乗り込むと、車内は仕事帰りの大人たちで混み合っていた。
運良く空いていた後方の座席に座り、カバンを膝の上に置く。ひと息ついてから、車内を見渡した。
乗客のなかには、既に学校を経由していたからか、ちらほら同じ星蘭高校の制服を着た学生がいた。
そのなかのひとりに、引き寄せられるように視線がいった。
赤いパーカーを着た女の子だ。
――月宮茉莉奈。
話したことはないが、同じ学校の生徒だ。
肩につかないくらいの髪は緩く巻かれていて、スカートから覗く足は陶磁器のように白く細い。
学校でもそうだが、彼女は外部のひと混みのなかでもかなり目を引く容姿をしている。
家が同じ方向なのか、よくバスでいっしょになる。
氷のように冷たい眼差しをした、人形めいた女の子。スマホも見ず、居眠りもせず、ただじっとどこか一点を凝視している。
彼女は、いつ見ても異質だった。
バスが発進する。バス停をふたつ過ぎたところで、茉莉奈ちゃんが停車ボタンを押した。
『次は、泉町商店街前。泉町商店街前。次、止まります』
茉莉奈ちゃんは、私を一度も見ることなく、バスを降りていった。
「あ、おかえり、みやびちゃん」
家に帰ると、お母さんが笑顔で迎えてくれた。香辛料のにおいがする。今日はカレーらしい。
「ただいま。今日は仕事もういいの?」
お母さんはいつも仕事が忙しく、夜遅くまで帰ってこない。こんな早く家にいるのは珍しい。
「だって今日は、みやびちゃんの二年生記念日なんだもの! それで、新しいクラスはどうだった?」
「うん! 仲良い子できたよ」
笑顔で答えると、お母さんはホッとしたように微笑む。
私は、お母さんと血が繋がっていない。
お母さんは、もともと他人だったけれど、パパと再婚したことで私の『お母さん』になった。
血は繋がっていなくても、お母さんは優しいし、ちゃんと私のことを可愛がってくれる。
どんなに忙しくても必ずお弁当を作ってくれるし、服もたくさん買ってきてくれる。本当は、お昼は購買のパンでじゅうぶんだし、買ってきてくれる服も私の好みじゃないけど、お母さんが母親としてこうしたいって、そう言うから。
べつにいやなわけじゃないけど、たまにはコンビニとか、購買のものも食べてみたい。
なんて、言えないから、私はまたうそをつく。
「今日もお弁当美味しかったよ、ありがとう」
私は笑顔で空になったお弁当箱を差し出す。お母さんは嬉しそうに受け取った。
***
「――じゃあ今日は、来週末の遠足で行動するグループを決めていきます」
教卓に立った学級委員が、遠足の話を進めていく。
行先はテーマパークだ。
グループかぁ……。
亜子とは一緒になれるだろうから、残りはあと四人。
亜子はだれを誘うだろう。
私は、窓際で笑い合っている子たちを見る。ちょっと派手めなバスケ部の女子だ。ちょうど四人。誘うならあの辺かもしれない。
あの子たちのことを詳しくは知らない。けれど、いつも大きな声で周囲に気を遣わずに話していたりして、なんとなく苦手だった。
あの子たちを誘うなら……。
ちらり、と窓のほうを見る。そこには、すごく可愛らしい容姿をした女子がいた。
――月宮茉莉奈ちゃん。
今、いちばん気になってる女子。私はあの子を誘いたい。
小動物のようにくりくりと大きく、しっとりと濡れたような瞳。小柄なわりに、いつも大きめのパーカーをブラウスの上から着ていて、いわゆる萌え袖が印象的な女子だ。
その印象から、ふわふわした子なのかなと思いきや、意外と違う。
茉莉奈ちゃんはいつも男子といた。
とにかく男子とばかりいるから、女子からは男好きだと思われて、ちょっとだけきらわれているみたいだ。
だからたぶん、彼女をグループに誘う女子はいないだろう。
「ねね、亜子! 私、あの子と話してみたいんだけど」
思い切って亜子に頼んでみると、彼女の表情がわずかに強ばった。
……だよね。そういう顔になると思ってた。
でも、違うんだよ。
私は知っている。
茉莉奈ちゃんは本当は、すごく優しい子。
私は知っている。彼女の優しさを。
私は毎日、茉莉奈ちゃんと同じバスに乗って通学している。
朝はいつもいっしょ。下校のときも、たまに遭遇することがある。
クラスが同じというわけでもなかったし、彼女の噂はさんざん聞いていたから、となりの席に座っても話しかけるということはしなかった。私も噂を鵜呑みにしていたから。
彼女への印象が変わったのは、一年の最終日の放課後のできごとがきっかけだった。
バスのなかで、赤ちゃんが大泣きした。
周りにいた人たちは迷惑そうに赤ちゃんや母親を見ては、あからさまにため息をついたり、不快感を顔に出していた。
小さな舌打ちを皮切りに、いやな空気が漂い始める。
彼らの反応も、分からなくはない。でも、相手は赤ちゃんなんだから仕方ないじゃない。生まれたての子が、ときや場所を選んで泣けるわけはないんだから。
『うるせーなぁ……』
『さっさと泣き止ませろよ』
ボソッと吐かれる心ない言葉たちに、私は両手を強く握り込む。
どうしてみんな、こんなことで苛立つのだろう。
どうしてもっと、優しくできないのだろう。
私たちにだって、あの子のように小さい頃があったのに。
どうにもならないことを責めるような空気がいやで俯いていると、だれかが立ち上がった。
少しだけ顔を上げると、視界の端で見慣れた制服がちらついた。
赤いパーカーに、深緑と紺のチェックのスカート。同じ学校の子だ、と彼女の姿を目で追って、ハッとした。
立ち上がったのは、彼女だった。月宮茉莉奈。
茉莉奈ちゃんは、まっすぐ赤ちゃんを抱く母親の席へと向かっていく。
最初、私は茉莉奈ちゃんがお母さんに文句でも言うつもりかとはらはらした。が、そうではなかった。
茉莉奈ちゃんはおもむろに、鞄から小袋のお菓子を取り出した。そして、赤ちゃんのそばでかしゃかしゃと袋を握りつぶすように擦って、音を鳴らし始めた。
なにしてるんだろう……?
じっとその様子を眺めていると、それまで泣いていた赤ちゃんが不思議と泣き止んだ。まるで魔法のようだった。
赤ちゃんはぽかんとした顔で、茉莉奈ちゃんの手元を見ている。そのうち、笑い始めた。
わっ……すごい! あんなに泣いていたのに。
感心していると、
『あ……ありがとうございます』
と、赤ちゃんの母親が茉莉奈ちゃんに礼を言う。すると、茉莉奈ちゃんはこう返した。
『すごくいい子ですね、この子』
母親は泣きそうな顔をして、茉莉奈ちゃんにもう一度礼を言った。
赤ちゃんに微笑みかける茉莉奈ちゃんの横顔は、とても美しかった。
それ以来、私は茉莉奈ちゃんを見かけると、目で追うようになった。
そして、いくつか分かったことがある。
茉莉奈ちゃんの待ち受けがもふもふの猫の画像であること。その猫の動画をよく見ていること。アニメのキャラクターのキーホルダーをバッグに付けていること。
どんな男子とも、分け隔てなく接していること。
みんなの言う彼女だけが彼女の姿では、決してない。
そのことを私は知っている。
茉莉奈ちゃんは、不思議な子だ。
聞こえよがしに不名誉な噂をされても、なにも言い返さない。
けれど、決してやけになることなく、じぶんがこうしたいと思った行動をする。いざってときは、思ったことを言う。
噂が違うなら、きっといやなはずなのに。
否定したくならないのかな?
私が彼女と同じ立場なら、どうするだろう。
茉莉奈ちゃんのように、だれも分かってくれないのなら、ひとりでいればいいやってなれるだろうか。それでも毎日学校に来られるだろうか。
いや、おそらく無理だろう。
だれかが目の前で困っていても、周りの視線を気にして、見て見ぬふりをしてしまう私に、彼女のような強さはない。
知りたい。彼女のことをもっと。
大丈夫。
亜子はいい子だし察しがいいから、亜子もきっと、茉莉奈ちゃんと話せば分かってくれるはずだ。
***
一年のとき、私には水沼果歩ちゃんという仲のいい女子がいた。
同じクラスで、たまたま入学時の席がとなり同士になって自然と仲良くなったのだ。
果歩ちゃんは素朴な感じの子で、アニメや動物が大好きだった。
スマホで画像を開きながら、私にアニメの良さやあらすじを熱弁してくれた。
果歩ちゃんと過ごす毎日は、亜子といるときのような華やかさはなかったけれど、とても穏やかで、楽しかった。
なにより果歩ちゃんが、じぶんの好きなものを私と共有してくれようとしていることが嬉しかった。
――でも。
入学して一ヶ月が過ぎ、次第にクラスメイトたちと打ち解け始めてくると、果歩ちゃんはだんだん、私よりもほかの子と過ごすようになった。
理由はたぶん、私のそばに少し派手めの男女が集まってくるようになったからだ。
いわゆる『陽キャ』とか、『一軍』と呼ばれる子たち。
彼らといるのがいやなわけではないけれど、恋愛のことにあまり興味がない私は、話についていけない。
果歩ちゃんは教室の隅っこのほうで、少し地味な雰囲気の女子たち数人で固まって過ごすようになっていた。
私のことなんて忘れたみたいに、楽しげに笑っている。
寂しくて、羨ましかった。
私もあのなかに混ざりたいな、と思った。
タイミングを見て何度か声をかけようと思ったけれど、上手く噛み合わない。
果歩ちゃんは私を、どこか避けているようだった。
そんなある日、トイレの前でたまたま果歩ちゃんと出くわした。
「果歩ちゃん!」
嬉しくなって、果歩ちゃんの肩を軽く叩きながら声をかけたら、果歩ちゃんは飛び上がって驚いた。果歩ちゃんは振り向いて私を見ると、ホッと息を吐いた。
「あ……なんだ、みやびちゃんか」
果歩ちゃんの笑顔は引き攣っている。
微妙な空気を感じながらも、きっと気のせいだと心の違和感に気付かないふりをした。
だって、果歩ちゃんはいい子だ。
そう思って、私は話を続けた。
「ねぇねぇ、あのね、前に話してくれたアニメ見たよ! すごく面白かった」
「あー……ありがとう」
果歩ちゃんの反応は、やはりあまりよくない。大丈夫。考えすぎ。気にしない。
「それでさ、またなにかオススメのアニメとかあったら……」
私が話しているあいだも、果歩ちゃんはなにかを気にするように視線を泳がせている。さすがに、その視線を無視することはできなかった。
「……どうかしたの?」
話題を中断させて小さな声で訊ねると、果歩ちゃんがようやく私を見た。
「……あ、ねぇ、みやびちゃんって、今ひとり?」
「え?」
私は不思議に思いながら、首を横に振る。
「……ううん。綾たちとトイレに来たとこだけど」
「あ……そ、そうなんだ」
すると、果歩ちゃんは言いにくそうにしながらも、控えめな口調で私に言う。
「……あのね、私、綾ちゃんのこと少し苦手で……」
「え……そうだったの」
知らなかった。これまで、そうとは知らずに綾たちの前で話しかけていたから、よそよそしくされてしまったのか。
「だからできれば、学校ではあんまり私に話しかけないでほしいの」
果歩ちゃんはそう言いながらも、頻りに私の背後を気にしている。
私のほうは、少しスッキリしていた。果歩ちゃんとの距離ができてしまったことに対しての明確な理由が分かったからだ。
「……もしかして、私が綾と仲良いから? だから最近私のこと避けてたの?」
「うん……だから、ごめんね」
果歩ちゃんが申し訳なさそうに俯く。
「ぜんぜんいいよ、そんなの。むしろ、原因がはっきりしてホッとした」
私がきらわれたのかと思っていたが、そうではなかった。
良かった。
私は胸を撫で下ろしつつ、
「でも綾、いい子だよ。明るいし。なんで苦手なの?」
何気なく、訊ねた。でも、果歩ちゃんの反応を見て、言わなきゃ良かった、と心から後悔した。
「それは、相手がみやびちゃんだからだよ。綾ちゃんって、私たちみたいな陰キャのことすごくバカにしてるんだよ。アニメとか見てる奴キモいって、陰口言うの」
だから、あんまり関わりたくないの。
そう言って、果歩ちゃんは俯いた。
「それは……たまたまじゃない?」
べつに、綾をかばうつもりで言った、とかではない。むしろ、果歩ちゃんを励ましたつもりだった。
だけど私の選んだ言葉は、間違いだったようだ。果歩ちゃんの顔を見て、そう気付いた。
「……たまたま?」
「そうだよ。私はそんなことないと思うけどな……あ、そうだ。この前果歩ちゃんから勧められたアニメ、綾に教えたけど、面白かったって言ってたし」
「だからそれは、みやびちゃんみたいな可愛い子が勧めたからでしょ! 私、綾ちゃんとは同じ中学だったけど、ずっと陰口を言われてきたんだよ! いじめられてきたの!」
果歩ちゃんは睨むように私を見上げた。
「みやびちゃんはさ、可愛いし、スタイルもいいし優しいから、努力なんかしなくても学校にいくらでも居場所があるじゃん。だけど私たちは、綾ちゃんみたいな子たちにきらわれたら終わりなの! ああいう子たちの目に入らないように、息を潜めて生きてかなきゃいけないの。その苦労、みやびちゃんには分からないでしょ!」
お願いだから、もう私に話しかけないで!
果歩ちゃんはそう言い捨てて、逃げるように教室に戻っていった。取り残された私は、そのままその場で立ち尽くす。
「……なにそれ」
私には、分からない?
分からないよ。分からない。じゃあ、私はどうしたらよかった?
ただ果歩ちゃんとアニメの話をしたかっただけなのに。楽しかったことを伝えたかっただけなのに。
みんな、なにも分かってない。なんで私が勝ち組みたいに言うの?
「……私にだって、苦労くらいあるよ」
だって。みんな私がこの顔じゃなかったら、どうせ私に声なんかかけてくれなかったでしょ?
勝手に決め付けてるのは、そっちだっていっしょじゃん。
……私がこの顔じゃなかったら、きっと私には価値はない。
だって私は、みんなにとってステータスを上げるアイテムのようなものなんだもの。
私をそばに置いておけば、陽キャになれる。だからみんな、私を求める。
私はただ笑っておけばいい。それ以外はだれも求めていないんだから。
分かったよ。私は私の役目をしておけばいいんでしょ。
「みやび、おまたせー」
私は、笑っていればいい。
「もう、綾もみこも遅いよー」
「ごめんってー。ねぇ、それよりさ、さっきみやび、水沼に絡まれてなかった?」
水沼とは、果歩ちゃんの苗字だ。
「あぁ。なんかさー、いきなりアニメの話されたんだけど、私意味分かんなくて。無視しちゃった」
笑え、私。笑って、お願い。
引き攣りそうになる顔に言い聞かせる。
「うわ、マジ? やばー。あいつマジキモいよね」
「だよね~」
どうしてだろう。
綾たちといればいるほど、性格が悪くなっていく気がする。じぶんが腐敗していく気がする。
さっき見た、果歩ちゃんの泣きそうな顔が、脳裏をよぎる。
ずきずきと心が痛い。けれど、私はそれに気付かないふりをする。
だって、果歩ちゃんの言葉で傷付いたのは、私もだもん。だから、この胸の痛みはたぶんお互いさま。
「さっき男子たちとも話してたんだけどさー、今日カラオケ行きたくない?」
「あー……」
男子とカラオケ。あんまり好きじゃない。
私の反応を察してか、綾が私の腕に絡みついてくる。
「私さ、今竹元くんのこと狙ってて。竹元くん、みやびが来るなら来るって言ってくれたんだよ。だからさ、付き合ってくれるよね?」
いつもこうだ。私はだれかを釣るためのエサ。
でも、仕方ない。青春なんて、そんなものだ。
「ね、みやびも行こ?」
ダメ押しのように確認される。
「もちろん!」
なんにも知らないふりをして笑いながら、私は心のなかで果歩ちゃんに問いかけた。
ねぇ、果歩ちゃん。息を潜めているのは、果歩ちゃんだけじゃないよ。
陰口ぐらい、だれだって言われる。
さっき、トイレのなかで綾とみこが私の陰口を言っていたことを、私は知っている。
「みーやびっ、帰ろ!」
放課後、月宮さんが日直の仕事で席を外しているうちに、私はみやびに声をかけた。
「あ、うん!」
みやびはちらりと月宮さんの席を気にするように見たものの、笑顔で頷く。
「帰ろ帰ろ」
みやびはスマホを軽くいじってから、カバンを肩にかけて立ち上がる。おそらく、月宮さんに先に帰る旨を連絡したんだろう。
遠足の行動班に月宮さんを誘ってから、みやびと月宮さんは急速に距離を縮めていた。
休み時間だけでなく、移動教室や体育の時間は、必ず三人で行動するようになった。
私は許可なんてしてない。みやびが勝手に月宮さんに声をかけた。巻き込まれた私は迷惑極まりない。とはいえ、相手がだれであろうと私は『いい子』の仮面を被って接しなければならない。
だから勘違いしたのか、どうせすぐに嫌気が差して月宮さんのほうから離れていくだろうと思っていたのに、私の予想に反して、彼女はちゃんとみやびと親しくなっていった。私を差し置いて。
「ねぇ、今日さぁ、帰りどっか寄っていかない?」
「いいね! あ、私、遠足用のお菓子買いたい! まだ買ってないんだ」
「あっ、私も! じゃあ駅ナカの薬局行こ! あそこお菓子安いし」
帰り道、みやびと月宮さんは同じ方向で、私だけべつ。
放課後は、どこかへ遊びに行かないかぎり、私はみやびといっしょには帰れない。
私は焦っていた。
今日はふたり。この機会を逃すわけにはいかない。みやびの機嫌を取らなきゃ。
「あっ、小枝だ! これ買う!」と、みやびが言う。
「それ、美味しいよねぇ。私は抹茶味が好きー」
「えっ、そんなのあるの?」
「知らない? あるある! じゃあ私が抹茶買うから、バスで交換しよ!」
私はお菓子コーナーを探して、同じシリーズの抹茶味を手に取る。
「しよしよ! ――そうだ、茉莉奈ちゃんはなにが好きかなぁ」
みやびの口から何気なく出てきた名前に、私はお菓子を選んでいた手を止める。
「……最近みやび、月宮さんと仲良いよねぇ」
「えっ? うん。でも、私っていうか、亜子も仲良いじゃん?」
みやびはきょとんとした顔で首を傾げた。
は? 私が月宮さんと仲良い? なに言ってるの、この子。
察し下手にもほどがある。
気を遣って喋ってるの。あんたが勝手に月宮さんを誘うから、仕方なく!
月宮さんだってきっと、私が疎ましく思っていることに気付いてる。それに気付いてるから、私への当てつけでわざとあんたと仲良くしてるんだよ。
そう、ぶちまけたくなる気持ちをどうにか抑えて、私は「そうだね」と笑う。
いらいらした。
というか、みやびってもしかして腹黒?
だって、私は知っている。
最近は、私がトイレに行っているあいだとか、ふたりだけで会話をしていることも増えてきた。
そういうとき、私がなに話してるの? と会話に入ろうとすると、あからさまに気まずそうにパッと会話をやめたりする。
なにか隠してるような素振りをしたりする。
みやびはそういうことはしないと思っていたのに。
やっぱり、付き合う相手が悪いとひとって変わるんだよなぁ。
どうせ、ふたりきりのとき、月宮さんが私の悪口を言ったりしているんだろう。ホント、いい迷惑。害悪。
みやびがそれを信じて、私をきらいになって、私をハブろうとし始めたらどうしてくれるの。
冗談じゃない。
ハブられてべつのグループに入るなんて、ぜったいイヤ。ぜったい噂されるし、私の価値も下がる。
みやびは渡さない。私は、だれにもこの居場所を譲らない。そのためなら、なんだってする。
これまで私が、どれだけ努力してきたと思ってんの。
月宮茉莉奈はいつもひとり。べつにひとりでいられるんでしょ。群れてる女子をバカにしてきたんでしょ。だったらずっとひとりでいればいいじゃない。わざわざなんで私の居場所を脅かそうとするわけ? ほんっと性格悪い。消えてほしい。
「あっ、あれ、茉莉奈ちゃんだ!」
みやびの声に、ハッと我に返る。
「え?」
顔を上げると、店の窓ガラスの向こうに月宮さんが歩いているのが見えた。学校帰りのようだ。
「亜子、私、茉莉奈ちゃんのこと呼んでくるね! ちょっと待ってて!」
「あっ……」
私が引き止めるより先に、みやびはお菓子を置いて店を出ていく。
茉莉奈茉莉奈まりなマリナ。
「……ウザ」
私はスマホを取り出し、楽しげに話すみやびと月宮さんを横目に駅を出た。
***
みやびと別れたその足で、私は隼くんと会っていた。
話があると連絡が来たのだ。いいよ、と返信を送ると、隼くんはすぐに駅に来てくれた。そのまま私たちは、スタバに入った。珍しく、私が好きなカフェデートだ。
最近気分が乗らないことが多くて、隼くんからの誘いを断り続けていたから、さすがに焦って私好みの店をチョイスしてくれたのかもしれない。可愛いところもある。
私たちは、カウンターでそれぞれドリンクを受け取ると、窓際の席に向かい合って座った。
「そういえば、隼くんはだれと同じグループになったの?」
「えっ?」
大袈裟なリアクションで、隼くんが顔を上げる。
「えっ、て……遠足の話だよ」
驚いた顔の隼くんに疑問を抱きながらも、私は話を続ける。
「あ、あぁ……遠足ね。ふつーにサッカー部のやつらと固まったよ」
「そうなんだ」
こうやって話していても、いつも、亜子は? とは聞かれない。だから私は、「私は……」と話し始めるつもりでいた。
そうしたら、「亜子は?」と聞かれた。私は驚いて、思わず喉が鳴った。
「あ……うん。私は、みやびと月宮さんだよ。あとは安堂くんたち」
月宮さん、あたりで隼くんが飲んでいたフラペチーノを吹き出した。
「えっ、ちょっと、大丈夫!?」
「ごめんっ!」
慌てて紙布巾を差し出すと、隼くんがこぼしたフラペチーノを拭く。
そのあとも、隼くんはどこか落ち着きなく、じぶんが頼んだ抹茶フラペチーノの容器を握ったり離したりしている。さすがにおかしい。
そう思って、「ねぇ、どうかしたの?」と訊ねた。すると、隼くんはようやく、私を見た。そして、言った。
「……あのさ、亜子。実はその……いきなりでホント申し訳ないんだけどさ、俺と別れてほしいんだ」
その瞬間、目の前からふっと光が消えた気がした。
「……え」
なに? 今私、なんて言われた?
瞬きも忘れて、さっきの音を手繰り寄せる。
別れてほしいって、言われた。間違いなく。
「……え、なんで?」
「……好きなひとができたんだ」
は? 意味分かんない。好きなひとってなに。隼くんの好きなひとって、私じゃないの? だって私たち、付き合ってるんだし。
隼くんは、珍しく申し訳なさそうな顔をしている。これまで、私がどんなに高いお金を払ってもケロッとしていたくせに。
「……そっか……そっかそっか。それじゃあ仕方ないね。うん、分かった。いいよ、別れよ」
承諾すると、隼くんはホッとしたような顔をした。
「……ごめんな、亜子」
申し訳なさそうな顔が腹立つ。
「ううん、べつにいーよ。なんとなく私たち最近、なんかちょっと合ってないなって気がしてたし」
「だよな! うん、俺たち、合ってなかったよな!」
お前が言うな、お前が。ひとの金でさんざん遊んできたくせに。けれど、私は笑顔を保つ。みっともなく縋るとか有り得ない。
「でさぁ、隼くんの好きなひとって、だれ?」
ここは、聞いておく。一軍の私をふるくらい、好きになった相手。
「あー……それは」
隼くんは私から視線を逸らし、言葉を濁す。いやな予感がした。
隼くんの口元が、ゆっくりと動く。まるでスローモーションになったかのように思えた。
隼くんは私に、「月宮さん」と言った。
ひとりカフェに取り残された私は、ぼんやりと窓の向こう、行き交うひとびとを見ていた。
隼くんにふられた。しかも、よりによって月宮さんに取られた。信じらんない。
呆れて言葉も出てこなかった。
隼くんは気まずさからか、聞いてもいないことをぺらぺらと話し出した。
『部活帰り、バスでいっしょになったのがきっかけ。あっ、でも、俺から声をかけたんじゃないよ。あっちが話しかけてきたんだ。亜子の彼氏だよね、って。それから少しづつ話すようになって、いつの間にか……ごめん、俺、最低なこと言ってるな』
どうでもいいけど、このひとって本当にクズだよなぁ。
隼くんは私を傷付けたと思っているのかもしれないけれど、私は正直、隼くんと別れたこと自体はどうでもよかった。あの空き教室でのできごと以降、私はすっかり隼くんへの気持ちが冷めてしまっていたからだ。
もともと隼くんと付き合っていたのは一軍ステータスのためで、特別な感情なんてこれっぽっちも抱いていなかった。
最近は、お金を払うことも面倒になっていたくらいだし。だって、いちいちうざかった。隼くんの笑顔を見るたびに、あの空き教室の冷笑が思い出されるようだったから。
それによく見たら、隼くんって割とふつーの顔してるし、ぜんぜん私と釣り合ってない。
これが噂の蛙化現象ってヤツなのかしら?
そんなふうに思っていた。
だけど、月宮茉莉奈に取られるとなると話はべつ。ぜんぜん笑えない。面白くない。
私は、アイスティーのストローを噛む。
このままじゃ終わらせない。やられたらやり返す。ぜったい月宮茉莉奈を許さない。
これ以上月宮茉莉奈の好きにはさせない。隼くんはもういい。だけど、みやびのことは、ぜったいに渡さない。
さて、どうやってやり返そう。
月宮茉莉奈の弱みを握る? どうやって?
私はスマホを開く。チップスを開いて、『星蘭高校、月宮茉莉奈』で検索をかける。
引っかかった投稿を確認していく。
『めっちゃ可愛い子見つけた。二年一組の月宮茉莉奈って子』
うざ。消えろ。
『月宮茉莉奈っていつも赤いパーカー着てる子だよね』
どうでもいいわ。
『彼氏パーカーみたいで可愛い』
黙れ。
苛立ちが募って、頭を搔く。
ろくな呟きが出てこない。これでは、いくら遡っても意味がない。
学校で探るしかないな、と諦めてアプリを閉じようとしたとき、
『推しが星蘭高校に通う娘の同級生に似てる気がするんだよなぁ』
推し?
ふと、気になる投稿を見つけた。投稿主の名前は、『もずく』さん。
もずくさんのアカウントに飛ぶと、投稿の中身はだいたい、愛娘の自慢か推しだとかいうホステスのマリちゃんの話。クズなんだか子煩悩なんだかよく分からない。
まぁ、この投稿はたぶん、月宮茉莉奈とは関係ないだろう。やっぱり学校で探るしかない。
私はスマホをポケットにしまって、帰路についた。
***
月宮茉莉奈は、毎朝、ホームルームが始まるギリギリの時間に登校してくる。登校しても、担任が教室に入ってくるまでは基本的にじぶんの席で寝ていて、注意されてようやく起きる。
授業中も必ず寝てる。教師たちは既に諦めているのか、居眠りについても、校則違反のパーカーについても、なにも言わない。
基本的にじぶんからだれかに話しかけるようなこともなく、男子に話しかけられたら答える、くらいのコミュニケーション。
いつも違う男と噂になっていて、ふったふられたの話にはなっていない。男のほうが騒がないってことはたぶん、彼女がふってるんだろう。でも、身勝手に、じゃない。付き合った男たちからは一切不満が出ていないことを考えると、彼女は円満に別れを切り出している。
私は月宮さんをじっとりと観察しながら、トマトジュースのストローを噛み潰す。
彼女を見ていると、おのずと彼女が着ている赤いパーカーに目が引き寄せられる。Lサイズくらいだろうか。彼女の体格では、Sでも充分大きいはずだ。
なんでわざわざあんな大きなパーカーを着ているんだろう。男物だとしても、ずっと同じものを着ているから、男からのプレゼントではないだろうし……。
考えていると、
「ねぇ、亜子」
みやびに話しかけられた。顔を向けて、「なに?」と答える。
「今日って放課後、ひま?」
「え、なんで?」
「安堂くんたちに、カラオケに行かないかって誘われてて……」
は? なにそれ聞いてない。なんで私抜きで話が進んでるわけ?
気に入らない。
「……それって、月宮さんも行くの?」
私は月宮さんを見つつ、みやびに訊ねる。
「ううん。茉莉奈ちゃんはバイトがあるから行かないって。私も、亜子が行かないなら断ろうと思ってる」
「ふぅん……」
つまり、私より先に月宮さんに確認したと? 私が行くか行かないかより、月宮さんが行くかどうかそっちのほうが気になったと?
……気に入らない。
いらいらしながらストローを啜っていると、口内に入ってくる液体が途切れた。中身が空になったらしい。
「亜子はどうする?」
私はトマトジュースのパックを握り潰しながら、みやびに言った。あくまで笑顔は絶やさない。
「ごめん。今日はやめとこうかな。明日遠足だし」
「そっか。じゃあ私から断っておくね。安堂くんたちには悪いけど、私も今回は行くのやめる」
「うん、ごめんね」
私はみやびに謝り、教室を出た。
空になったパックをゴミ箱に捨て、教室に戻ろうとしたとき、渡り廊下の先に桃果の姿を見つける。
かなり派手めの女子ふたりと、楽しげに話している。桃果と話しているその友だちのほうに、どこか見覚えがある気がして、私は足を止める。知り合いではない。だけど、どこかで見たことがある。
でも、どこで見たんだっけ?
放課後、みやびは図書委員の仕事があるというので、別々に帰ることになった。
昇降口を出たところで、月宮さんのうしろ姿を見つける。月宮さんはひとりだった。スマホをいじりながら歩いている。私には気付いていないようだ。
そういえば、月宮さんは今日、バイトがあるとみやびが言っていた。
スマホを開いて時間を確認する。まだ十七時前。少し考えてから、私は彼女のあとを追いかけた。
月宮さんは、バスに乗った。バレないように乗客に紛れて、私もバスに乗り込む。十五分ほどバスに乗り、『泉町商店街前』というバス停で下車した。慌てて私も降りる。
月宮さんは、そのまま近くにあったコンビニのトイレへ入っていった。
私はコンビニの前で立ち止まる。鉢合わせしたら困る。
私は、道路を挟んだ向かいにある書店に入って、彼女が出てくるのを待つことにした。
しばらく雑誌を読むふりをしてトイレを注視していると、月宮さんが出てきた。出てきた姿を見て、驚く。
月宮さんは制服ではなく、私服になっていた。白いシャツに、赤いチュールスカート。
なにあれ。ただのバイトなのに、なんでわざわざ私服に着替えてるわけ?
彼女の行動が理解できず、私は思案する。
制服から私服に着替えるということは、制服では入れないバイト先ということだろうか?
ということはつまり、学校から許可をもらっていないバイト。もしくは、学校には言えないバイトということ。
ふと、昨日のもずくさんの投稿を思い出す。
『推しが星蘭高校に通う娘の同級生に似てる気がするんだよなぁ』
……え、なにそれ。つーか推しってなに? まさか地下アイドルとかやっちゃってたり? なにそれウケる。アイドルなら写真撮ってSNSに晒しても許されるだろうし、さて、どう料理してやろうか。
じぶんの口角が上がっていくのを自覚する。
私はわくわくしながら彼女のあとを追いかけた。
結果的に私の予想は、当たらずも遠からず、といったところだろうか。いや、むしろアイドルなんかよりもっとやばい。
月宮さんは、バス停からすぐ近くの路地に入っていった。キャバクラやホストクラブ、ガールズバーなどが立ち並ぶ、大人の雰囲気が漂う夜の街だ。高校生が立ち入る場所ではない。
彼女のうしろ姿をカメラに押さえて、私はにんまりと笑う。
「いいもの見ちゃった」
月宮さんが入っていった店は、男性向けのガールズバーだった。
さらに決定的な証拠写真を撮るべく、私は近くの喫茶店に入った。
『同級生、ガールズバーなう』
裏アカで高揚感を呟きながら、時間を潰す。
十七時に看板のライトがつき、数人の男性がなかへ吸い込まれていく。それからさらに十九時を過ぎたあたりで、月宮さんが出てきた。キモいおっさんと腕を組んで歩きながら。
うわー、期待どおり。というか、期待以上。
もずくさんのマリちゃんは、正真正銘月宮茉莉奈だった。
もずくさんグッジョブ!
にやける口元を抑えられない。
私は喫茶店のなかから、ガラス越しに彼女にカメラを向ける。数枚写真を撮って、撮影した画像を確認した。
月宮さんは、チョーカーネックの豪奢なドレスを着ていた。化粧がいつもより濃いからか、一見すると月宮さんに見えない。
画像をじっと見つめていると、私はあることに気付いた。
チップスを開いて、もずくさんのアカウントへ飛ぶ。
右上の検索マークをタップして、『マリ』と打ち込むと、二十数件の投稿がヒットした。
関係のない投稿はスルーしていく。そして、目当ての投稿を見つけた。ブクマを付ける。
じわじわと口角が上がる。
私は、メッセージアプリから、目当ての人物のアカウントを探した。
市野桃果。
噂を流すには、桃果を使うのがいちばんだ。あの子は私が知っているひとのなかでも特に口が軽い。
相談するふりをして話せば、ぜんぶ学校で言いふらしてくれるだろう。いっしょにいたときは困る性格だったけれど、今は使える。
『おひさー。ねぇ、今日電話できる? ちょっと相談があってさぁ』
私は桃果にメッセージを送ったあと、私は喫茶店を出た。
まだ四月ということもあって、空はすっかり暗く、少し肌寒い。
私はスマホを握り締めて、足早に駅への道を歩いた。夜道は苦手だ。ひとりでいると無性に寂しくなるし、心細くなる。
駅に着き、ホームに降りると、ちょうど電車のアナウンスがした。
タイミングがいい。待たずに電車に乗れるのは助かる。
明日はいよいよ遠足だ。
今日中に桃果に月宮さんのことをバラせば、明日にはきっと学年中に広まっているはず。
果たしてあの子は、どんな顔をするんだろう。楽しみで興奮して、眠れないかもしれない。
***
「――ねぇ、三人でお揃いの髪型にしない?」
翌日、テーマパークに向かうバスのなかで、みやびが唐突に言った。
今日は遠足である。
バスの席は左から敷島くん、私、通路を挟んでみやび、月宮さんだ。私と敷島くんのうしろの席に、安堂くんと本島くんがいる。
「私たち三人みんな髪長いし、ツインお団子できるじゃん? お揃いで写真撮ったらぜったい盛れるよ!」
――お揃い。
女子が好きなやつだ。特に、一軍女子が好きなやつ。仲良しの証みたいなもの。
私にとって重要なのは、『三人で』という部分。
この場合、普段ならぜったい断る。
圧倒的なみやびとふたりでお揃いをするなら、比較はされないからいい。でも、月宮さんと同じことをしたら、比べられる。
私と月宮さんの、どっちが可愛いか。もちろん私に決まってる。だけど、万が一ってことがある。ほら、好みとかの関係で。だから基本、危ういことはしないのだけど、今日はべつ。
「いいよ! やろやろ!」
私は笑顔で頷く。
今日の私は機嫌がいい。なぜなら、月宮茉莉奈の秘密を握っているから。
心からの笑顔を向けられる。
私はみやびの奥の席に座る月宮さんを見る。
「ね、月宮さんもやろう?」
声をかけると、月宮さんは私のことをちらりと見て、無愛想に言った。
「あたしはいい」
「えぇー茉莉奈ちゃんもやろーよ」
みやびも口をすぼませる。
「せっかくの遠足なんだよ? 三人でたくさん写真も撮りたいし」
「そうだよ。今日くらい」
すると、月宮さんが私を睨んだ。
「バカみたい。髪型揃えてなにになるわけ?」
出た。空気読まない発言。それでも私は笑顔を崩さない。
「写真映えするじゃん!」
私の言葉に、月宮さんは鼻で笑った。殴りたい。
「そうだよ。みんな同じ制服なんだし、三つ子コーデになるじゃん?」とみやびが言うと、茉莉奈ちゃんはもう反論はしなかった。
「……でもあたし、じぶんじゃできないよ」
「まかせて! 私がやってあげる。茉莉奈ちゃんの髪さらさらでいじってみたかったんだぁ」
「じゃ、ヨロシク」
月宮さんは面倒そうな顔をしながらも、そう言ってみやびに背を向けた。
みやびが嬉しそうに彼女の髪を梳き始める。
月宮さんはみやびのされるがままになりながら、窓の外を眺めて呑気に欠伸をしていた。
テーマパークに着き、解散の合図が出ると、私たちはさっそくアーチ状の入口をくぐった。
カラフルな遊具に楽しげな音楽。まさに夢の国だけど、私の心はいまいち乗り切れない。
「じゃあとりあえず決めたとおりに回ってこ。まずブルースカイエリアだから、こっちか」
安堂くんを先頭に、夢があちこちに散らばった王国を歩く。
平日であるにもかかわらず、一般客の姿が多い。さすが、国内一のテーマパークを誇るだけのことはある。加えて、人混みのなかに私と同じ制服を着た生徒の姿。学校外でじぶんと同じ制服を見かけると、なんだか不思議な気分になる。
あちこちで知り合いを見かけそうだ。
そういえば、桃果からの返信はきただろうか。スマホを取り出して確認するが、新着のメッセージは来ていなかった。
桃果はスマホ中毒だ。これまではすぐに返信がきたのに、いったいどうしたのだろう……?
「亜子ー?」
足を止めてスマホを見ていると、みやびが私を呼んだ。
「あ……ごめん、今行く!」
スマホをスカートのポケットにしまい、私は小走りでみやびたちのところへ急ぐ。
「……あれ? 安堂くんたちは?」
「先、アトラクションのところに行ってくれた。列が空いてるようなら少しでも早く並びたいからって、走っていったよ」
「そうなんだ」
それなら、このままはぐれちゃえばいいのに、と少し思う。
グループ決めのときは六人ひとグループと決められていたが、実際パーク内に入ってしまえば先生の監視はなく、個人の判断に一任される。
バスのなかでは、ほかのグループと合体して回る約束をしていた子たちもいた。とはいえ私は、そんなことをしたら印象が悪くなるから、そんな提案はしないけれど。
と、考えていると、スマホが鳴った。安堂くんからだった。
送られてきたメッセージを見て、眉を寄せる。
私たちが乗ろうとしているアトラクションは、現在約二百分待ちだという。
『チケットを取ればすぐ乗れるけど、どうする? チケットはひとり二千円だけど』
「だって。どうする?」
安堂くんからのメッセージを読み上げて、私はふたりに確認する。
「チケットはムリ。あたし、お金ない」
月宮さんがばっさり言う。出た。どうせこうなるだろうとは思ったけれど。
「じゃあ並ぼっか」
月宮さんの言葉を受けて、みやびが言った。まぁいいけど。
「分かった。じゃあ私、安堂くんにメッセージ送っとくね」
「ありがとー」
私は安堂くんにメッセージを送って、スマホをしまう。
二百分かぁ……。長い。ぜったい飽きる。しかも今日、結構晴れてるから暑いし。待ち時間を聞いた途端に倦怠感を感じる身体。
なにかないかな、と思って視線をめぐらせていると、ふとポップコーンの看板が見えた。あれだ!
私はすぐさまみやびを見た。
「ねぇねぇ、待ち時間かなり長いみたいだしさ、私たちはポップコーン買ってから安堂くんたちに合流しない?」
暑いなか並ぶよりは、ポップコーン店で少しでもいいから涼みたい。ポップコーンの店は、アトラクションほどではないにしろ、それなりに行列ができている。時間つぶしにもなるし、どうせ並ぶならこっちのほうがいい。
「いいね! 私キャラメル食べたい〜」
みやびが乗ってくれた。
「えーみやびはキャラメル派? 私ぜったいハチミツなんだけど」
「あー分かる。ハチミツ味ってここでしか食べられないしね!」
「月宮さんは?」
私は笑顔で訊ねる。べつにキョーミなんてないけど、私は、どんなにきらいでもあからさまな態度は取らない。私のために。
しかし、彼女は、
「は? なんであんたに言わなきゃいけないわけ?」
はい、感じ悪い。笑顔がひきつる。
「……はぁ」
さすがに今のは、交わせなかった。ため息が漏れる。
「……あっ、亜子、ほら、順番来たよ」
みやびが少し焦った口調で私に声をかける。
「あ、うん。じゃあ私、先買っていい?」
「もちろん!」
みやびは大袈裟なくらいにうんうんと頷いた。
先にポップコーンを買い終えて店の端っこで待っていると、レジ横でポップコーンを買い終えたふたりが歩いてくる。スマホをポケットにしまい、その様子を何気なく眺める。
「私ね、ずっと気になってたんだけど、茉莉奈ちゃんって、いつも使ってるカバンにキャラクターのキーホルダー付けてるよね? もしかして、アニメ好きなの?」
なんだ、アニメの話か。くだらない。私は彼女たちから目を逸らした。そういう系は、私はぜんぜんキョーミない。
「これは友だちからもらったんだ。あたしはそこまで詳しくないんだけど……もしかして、みやびちゃんアニメとか好きなの?」
月宮さんは、カバンにつけたキーホルダーを手に持って顔の前にかざしていた。どうやら、ふたりの会話は弾んでいるらしい。
安堂くんたちと合流して、順番待ちの列に並んでいるあいだ、みやびは嬉しそうに月宮さんに話しかけている。
まるで、私のことなんて見えていないみたい。
楽しそうなふたりの横で、私のいらいらは最高潮に達していた。
やっぱり、月宮さんと同じグループになんてなるんじゃなかった。
私だけ置いてけぼりで、つまらない。
なんとなく裏切られた気分になって、居心地が悪くなる。
私は空になったポップコーンの箱の線を指でなぞっていた。ポップコーンは、六人で食べたらあっという間になくなってしまった。
並び始めて小一時間が過ぎた頃だった。
「なんかお腹減った~」
月宮さんが言い出した。
私は無視した。
そもそも、あんたのせいでこんな行列に並ぶ羽目になってるんだっつーの。心のなかで毒づく。
私だってお腹減ってるし、というかそもそもチケット買いたくないって言ったのは月宮さんなんだから、そういうことは思ってても口に出さないでほしい。余計お腹が減るじゃない。
「だねー……私もチュロス食べたくなってきた」
みやびまで言い出す。安堂くんが身動ぎをした。たぶん、「じゃあ俺が買ってくるよ」と言う気だ。その前に、私が言う。
「じゃあ、私が買ってくるよ。みんなは並んでて」
並ぶのにうんざりしていたからちょうどいい。そう思って私は列から抜ける。
「あ、それならあたしも行く。あたしが言い出したんだし」
は? と思って振り返ると、月宮さんが私を見ている。今のセリフを彼女が言ったのだと脳が理解するまで、かなり時間がかかった。
「いいよ。ひとりで行く」
思わず強い口調で返すが、月宮さんは私を無視して列から外れる。
「みやびちゃん、チョコでいい? シナモン?」
「あ、えっとじゃあチョコ……」
続けて、困惑気味に私も行こうか? と言うみやびに、私は頷こうとした。しかし、それよりわずかに早く、月宮さんが「大丈夫。ふたりいればじゅうぶんだから」と返した。勝手に。
舌打ちをしそうになり、慌てて呑み込む。
いちいち気に入らない。
私は睨むように月宮さんを見た。月宮さんも、負けじと私を見つめ返してくる。
あぁ、もう、なに。この、ひとを小バカにしたような瞳。
どうせ、心のなかで思ってるんだろうな。
私のこと、ダサいとか、ブスだとか。
彼女から視線を外し、俯く。すると、スカートの下から伸びたじぶんの足が見える。みやびのように長くなく、月宮さんのように細く小さくもない足。
痩せたつもりだったけど、ふたりと並ぶとじぶんの容姿の劣り具合が顕著になる。
指先も、爪の形すら、ふたりに勝てるところなんてない。
私がふたりと同じ髪型なんて、ただの罰ゲームじゃん。
私は、お揃いにしていたお団子をほどきながら、歩き出した。
***
私は今、なぜか月宮さんとふたりでカラフルなパークを歩いていた。
あーもう。なにこれ、信じらんない状況なんだけど。
このひと、なんでついてきたわけ? マジで意味分かんない。あのまま楽しくみやびと列に並んでいればよかったのに。
大股で歩いていると、ふと背後の気配が消えた。振り返ると、月宮さんはかなりうしろのほうにいた。てか、歩くの遅っ。
月宮さんは小走りで私の元へやってくると、キッと私を睨んだ。
「ごめん。歩くの早かった? ごめんね?」
少し息を切らした月宮さんに、内心笑いながら声をかける。ちょっと声に出たかもしれない。
月宮さんは、膝に手をついて呼吸を整えている。
「ずっと思ってたんだけど」
しばらくして切れていた息が整うと、月宮さんは私を上目遣いで見た。
「……淡島さんってさぁ、あたしのこときらいだよね」
どきりとした。
「えー……なに? いきなり」
私は笑顔を引っ込める。
「いきなり?」
私の反応に、月宮さんがふっと笑う。
「なに言ってんの。あからさまじゃん? 態度が。あたしにだけ」
「……そんなことないよ」
ウソ。そうだよ。あんたみたいな女、だいっきらいだから。
そう言いたくなる喉をきゅっと引き締めて、私は努めて笑顔で聞き返す。こんなことで動揺なんてしない。私は完璧ないい子を演じてみせる。
「……ごめん、私、月宮さんの気に障ること、なにかしたかな?」
「その下手くそな作り笑い、いい加減やめたら?」
「……は?」
笑顔のまま、固まる。
「気持ち悪いよ、能面みたいで」
月宮さんの「気持ち悪い」というひとことは、私の胸を深くえぐった。
みんなに悪口を囁かれてきたあの頃の記憶が蘇る。
言葉につまる私を、月宮さんは白々とした眼差しで見つめる。
その目に嘲笑されているような気がして、なにも返せない。
なにこいつ。
そんなこと、わざわざ言われなくたって分かってる。私はブスだ。化粧で誤魔化してる。
だからなに? そんなのみんないっしょでしょ。世のなか、化粧とったらだいたいの女がブスじゃん。
つーか、あんただってべつにたいした顔してないくせに。どの面下げて言ってんの?
「私は……っ!」
声を荒らげそうになったそのとき、
「ふたりともっ!」
みやびの声がした。振り向くと、みやびが走ってこちらへ向かってくる。
「みやび?」
私も月宮さんも、一旦言い合いを止めて、やってきたみやびを凝視する。
みやびは息を乱している。急いで私たちを追いかけてきたみたいだ。
「やっぱり、私もいっしょに行っていいかな?」
「…………」
私も月宮さんも、うんもなにも言わない。
みやびが来ても、私たちのあいだには微妙な空気が流れたまま。
「え……ど、どうしたの、ふたりとも?」
異変を察知したみやびが、私と月宮さんを交互に見る。
「べつになんでもないよ」
私は気を遣って、笑ってそう言ってやったのに。月宮さんは無遠慮に言った。
「今だから言うけど、あたし、ずーっと思ってた」
私は月宮さんを睨みつける。月宮さんからは、挑戦的な視線が返ってきた。まだ続けるつもりだ。
「あんた、みやびちゃんに対しての態度も違和感だらけだったし?」
月宮さんは言いながら、ちらりとみやびを見た。みやびは月宮さんと目が合うと、びくりと肩を震わせる。
私はため息をつく。可哀想。みやびは今の状況について、なにがなんだか分からないだろうに。
呆れてなにも言わないでいると、月宮さんは今度、みやびを見た。
「てゆーかさぁ、みやびちゃんだって気付いてるよね? このひと、みやびちゃんのステータスが気に入ってるだけで、心のなかでは友だちだなんてぜんぜん思ってないよ?」
月宮さんの言葉に、みやびは困ったように俯く。こいつ、余計なことを言いやがった。
「みやび、気にしなくていいよ」
そう言うけれど、みやびもみやびでなにも言わない。頷きすら、しない。月宮さんは続ける。
「その証拠に、裏ではさんざん悪口言ってるしね」
「はぁ? なんのこと……」
「あたしは人間地雷らしいし?」
人間地雷。
私は奥歯を噛み締める。
「なにそれ……」
知らんぷりをしようとして、その途中でハッとする。そのセリフ、どこかで聞いた。いや、見た。裏アカで私が呟いた言葉だ。
月宮さんは、笑っている。私は眉を寄せた。
「……あんた、なんで」
「あんたって爪が甘いよねぇ。学校で裏アカ開いたら、ぜったいだれかに見られるに決まってんのに」
『学校で』その言葉を聞いて、すべてを察する。
みやびが月宮さんを遠足のグループに誘ったとき、私はいらいらしてトイレで発散した。それを見ていたのだ。あのとき個室にいたのはこいつだったのだ。
「性格悪……」
「あ、それからごめんね? あんたの彼氏も取っちゃって」
こいつ。やっぱり隼くんと連絡取ってた。
「べつに? あんな男、もうどーだっていいし」
強がりなんかじゃない。本心だ。本当にどーでもいい。あんなクズ。
「だよね。あたしも、さすがにあの男とは付き合えないよ。だって隼くん、いいところぜんぜんないんだもん。毎日毎日メッセもしつこいし……あんた、よく半年もあんなのと付き合ってたね?」
半笑いで言われ、頭のなかの血管が二、三本切れた気がした。
「あんた、黙って聞いてれば、いい加減にしなさいよ! ひとの彼氏に色目使っておいて信じらんない!」
私は我慢できず、月宮さんに掴みかかった。思い切り髪の毛を引っ張ってやる。
「きゃっ! いったぁ……なにすんのよ!」
月宮さんの目の色も変わる。仕返しのように月宮さんも私の髪を引っ張ってくる。痛い。最悪。
「ちょっ……ふたりともやめて!」
みやびが割って入ってくる。私たちはみやびを挟み、野良猫のように睨み合った。
もう我慢できない。言ってやる。
私は爆弾を投下した。
「私、知ってるよ。あんたってさぁ――虐待児なんだよね?」
「っ……!」
これにはさすがに、月宮さんも驚いて動きを止めた。
「なんで……」
いつも淡々とした月宮さんが、動揺していた。月宮さんは信じられないものでも見るように、呆然と立っている。
「いっつもそのパーカー着てるから気になってたんだよね。体育のときも、ぜったい長袖だし。胸元の痣、見られたくないんでしょ?」
その瞬間、月宮さんの目の色が変わる。
「……なんであんたがそれを知ってんのよ!」
つばが飛んできた。最悪。でも、笑顔は崩さない。その動揺した顔、目に焼き付けてやる。
私は昨日、月宮茉莉奈の秘密を知ったのだ。
月宮茉莉奈は、虐待児だった。
子どもの頃、実の母親から虐待を受けていたらしい。そして、中学のときに捨てられた。母親が、男を作って出ていったらしい。
かわいそう? 同情? なにそれ、ないない。あり得ない。
「よかったじゃん、殴られなくなってさ」
私は笑う。
これらの情報は、ぜんぶ、もずくさんの投稿にあった。
もずくさんはガールズバーで健気に働くマリちゃんの熱心な信者らしかった。マリちゃんのほうも、こういう妄信的な男は金ヅルになるからか、よく身の上話をしていたようだ。
「残念だけどね、私、もっと知ってるよ。あんたがガールズバーで働いてることも、キモいオッサンと仲良くしてることも」
挑発するように言うと、月宮さんの唇がわなわなと震え出した。
「ちょっと待って、ガールズバーってどういうこと? 茉莉奈ちゃん?」
みやびが困惑して、月宮さんを見る。月宮さんは黙ったまま、なにも答えない。
月宮茉莉奈は、珍しく動揺していた。
先に挑発してきたのは、月宮さんのほうだ。私は悪くない。私はそうじぶんに言い聞かせる。
ざまぁ。
月宮さんは私を睨んでくる。私は負けじと笑みを返す。
「毎日毎日オッサンの相手だなんて、大変だねぇ?」
わざと挑発するように言うと、月宮さんはふんっと鼻で荒く息を吐き、私を蔑むように見つめた。
「……黙れよ。あんただって、昨年まで仲良かった友だちにブロックされてるクセにさ」
「は?」
ブロック?
「どういう意味?」
どこかバカにしたようなその態度に、私は眉を寄せる。すると、私の表情を見た月宮さんが嘲るように笑った。
「はっ! まさかあんた、知らないの? 昨年仲良かった子、ええと桃果ちゃん……だっけ? あの子にあんたの裏アカ教えたら、ガチギレしてたよ。ムカつくから、彼氏にバラしてやるとか息巻いてたっけ」
身体が、凍りついた。
……こいつ今、なんて言った?
桃果、と言った。裏アカのことをバラした、とも、間違いなく言った。
急いでスマホを確認する。チップスを開いて、桃果のアカウントに飛んだ。
『あなたはこちらのアカウントにブロックされています』
画面いっぱいに、見慣れない文字が並んでいた。
……信じらんない。月宮さんを睨むと、月宮さんは蔑むような眼差しを私に向けていた。
「残念だったね。彼があたしを好きにならなくても、あんたの腹黒がバレてどうせふられたんだよ?」
許せない。殺す。殺してやる。
怒りのあまり唇がわなわな震えて、言葉なんて出てきやしない。
とにかくその場で震えて立ち尽くす。しかし、月宮さんはそんな私にかまわず、涼しい顔をして続ける。
「あんたはさ、じぶんだけが我慢してると思ってたみたいだけど、ほんとは、そんなことぜんぜんない。まわりもずーっと我慢してたんだよ」
まるで心をぐりっと鋭利ななにかで抉られたようだった。
「……知らないし、そんなの」
「だろうね。あんた、じぶんのことしか考えてないもんね」
「…………」
うざ。そんなの、あんたもいっしょでしょ。心のなかでそう思う。でも、口には出せなかった。言ってやればいいのに、声が出ない。ムカつく。
「ねぇ、みやびちゃんも、彼女に言いたいことあるんじゃないの。この際、もう言っちゃったら?」
月宮さんは、今度はみやびを挑発する。
なに、いきなり。じぶんの都合が悪くなったからって。いい加減にしてほしい。
「……はぁーっ……」
息を吐いていらいらを誤魔化そうとしたけれど、ダメだった。
「あぁ、もうっ! なんなの、あんた? なにがしたいわけ? 私とみやびをそんなに仲違いさせたいわけ?」
月宮さんが私を見る。
「いい加減にしてって言ってんのよ!」
思わず怒鳴る。すると、月宮さんがにやっと口角を釣り上げた。その顔を見て、しまった、と思う。
「出た! それが本性? こーわっ」
月宮さんが茶化すように言う。私はそれを、ぴしゃりと跳ね除けた。
「うるさいっ! というか、みやびもさぁ……なんなの? そんなことないよ、とか、言ってくれないんだ? それってずいぶん薄情じゃない」
矛先をみやびに向けてどうにかやり過ごそうかと考えるが、みやびは黙ったまま、俯いてしまった。
その仕草を見て、あぁ、なんだ、そっか、と思う。
みやびも私の本心、分かってたんじゃん。
これまで必死に積み上げてきたものが、がらがらと音を立てて崩れていったようだった。
……あーぁ。なんかもう、どうでもよくなっちゃった。
「だったら言わせてもらうけどさぁ、月宮さんこそなに? なにさまなわけ?」
私は睨むように月宮さんを見返した。
「は? なにが?」
月宮さんも、負けじと私を睨み返してくる。
「……月宮さんの言うとおりだよ。私は一軍でいたいからみやびと一緒にいるの。だったらなに? 悪い? べつにいいじゃん。それで平和にやってるんだから、あんたにとやかく言われる筋合いないと思うんだけど?」
月宮さんは、小バカにしたように笑っている。たぶん、私が本音をさらしたことに満足なのだろう。
一方で、みやびはじっとじぶんの足元を見るばかりで、なにも言わない。月宮さんも黙り込んだまま。重い沈黙が、余計にいらいらする。
私は開き直ったように饒舌になった。ギャラリーが集まってきているけど、もうそんなことはどーだっていい。
一度開いてしまった口は、そう簡単には閉じそうになかった。
「だってさ、仕方ないじゃん。私はみやびみたいに可愛くないんだから。じぶんを偽らなきゃ、居場所なんて簡単になくなるの。みやびみたいに好き勝手わがまま言って、のほほんとしてたら、ハブられるの。っていうか月宮さんこそ本当に性格悪いよね。最初から私の気持ち分かってたなら、みやびに誘われたとき断ってくれたらよかったのに」
後半は、月宮さんを睨みつけながら言った。もう、遠慮していい子ぶるのがバカらしくなってきた。こうなったらどうにでもなれ、だ。
「はぁ? なんであたしがあんたに気を遣ってやらなきゃいけないわけ?」
月宮さんも負けじと私を睨んで言い返してくる。
「バカみたい。うそをついて、だれかと一緒にいたって虚しくなるだけじゃん。そんなことまでして一軍にいることに、なんの意味があんの? あんた、一軍にいないと死んじゃうわけ? なにそれウケる」
必死に守ってきたものを笑ってバカにされ、悔しさのあまり私は、歯が砕けそうなほど噛み締める。
「うるさいうるさいっ! あんたになにが分かるの! 私の、なにがっ……!」
私は、震える声で言い返す。
「あんたはいいよ。じぶんに自信があるんでしょ!? でも、私は違う。私は、ひとりにさえならなければなんだっていいっ! いじめられないなら、どんな無茶だってするし、うそだってつく」
私は間違ってない。ぜったい、間違ってなんかない。
「それって、もはや友だちじゃなくない?」
頭にカッと血が昇るのが分かった。
「そうだよ? そのとおりだよ。でも青春ってそういうものでしょ? なんなのあんた、いちいちつっかかってきて! どうせ、いじめられたこともないくせに……」
握った手がぷるぷると震える。その震えは、果たして怒りから来るものなのか、それとも悔しさから来るものなのか。もはやじぶんでも分からない。
「私はべつに、どれだけ性格悪いって思われたとしてもいい。いじめられなければなんだっていいの! 月宮さんはいいよ。ひとりでいても平気なんだろうし、なんなら男子が寄ってくるんだから! でも、私がひとりでいたってだれも助けてくれない。ずーっとひとりのまま。努力しなきゃ、だれも私を仲間になんていれてくれないの!」
小学生のとき、ひとより太っていた私は、それが理由でみんなに無視されていた。
あのときの日常は、たぶん一生忘れない。私をいじめてきた奴らの名前も顔も、忘れたくても、忘れられない。
今でも、思い出すだけで手汗が滲み出してくる。それくらい、トラウマなのだ。あのときのことは。
『おいデブ。こっち来んな、きもい』
『くせーんだよ』
私が声を発するだけで空気が張りつめる、あの感じ。笑い声が響く教室で、私の存在だけが透明になっていく、あの感じ。
ペアになる授業ではいつも必ず取り残され、ひとりで掃除させられ、目が合ったら逸らされる。私は空気。いないのが当たり前。そんな雰囲気が漂う教室に、三年間通い続けた。
脳内で流れ出す光景を遮断するように、私はぎゅっと目を瞑った。
違う。今は、違う。
私は痩せた。可愛くなった。ブスじゃない。可愛い。私はいじめられっ子なんかじゃない!
「ふたりと違って私は凡人だから、努力しなきゃいけないの。太らないように食べたいものも我慢して、お洒落にも気を遣って、思ってもいないことを言って笑って。そうやってようやく、私はクラスメイトとして認識されるの」
ふたりは黙って私の話を聞いていた。
困惑したようなみやびの眼差し。私は虚しさのあまり、思わず笑みを漏らした。
「……バカみたいでしょ? んなの、じぶんでも分かってるよ。だけど、それでもいじめられてたあの頃よりはずっと幸せ。私には、ふたりがそうやってバカにしてる日常が、なにより守りたいものなの!」
「亜子……」
みやびが私の名前を呼ぶ。
でも、顔を上げられない。だって私は、みやびにすごく失礼なことを言ってしまった。もう、終わりだ。明日からきっと、一緒に笑い合うことなんてできなくなる。周りには、騒ぎを聞きつけてきたたくさんのギャラリー。なかには、カメラを向けているひともいる。
見るなよ、うざい。勝手に撮るなよ、鬱陶しい。なんて、言ったって無駄か。
……あーぁ。これできっと、噂も広がる。
また、ひとりになるんだ、私は。あの頃のように……。
がっくりと肩が落ちた。もうなにもかもどうでも良くなった。深く息を吐き、私は低い声でふたりに告げる。
「……もういい。私、今日はもうひとりでいるから。あとはふたりで楽しみなよ」
このままいっしょに行動する選択肢は、もうない。私はひとりで歩き出す。
しかし、ひとごみに紛れる直前、月宮さんの声が聞こえた。
「バカみたい」
私はもう、なにも言い返す気にはならなかった。
***
私はパーク内にあるカフェに入った。海賊船をモチーフにしたカフェで、店内は薄暗い。周りにいる客の顔もよく見えないほどだ。
足元危ないし、カバンの中身も見づらいけど、今は助かる。たぶん、私は今ひどい顔をしているから。
スマホを見る。『チップス』を開くと、案の定、私と月宮さんが喧嘩している動画があちこちで出回っていた。
『やば。なにコレ』
『淡島亜子ってこんな性格だったの? 可愛いと思ってたのにショック』
『いや、あの顔はどう考えても作ってるでしょ笑』
『だいぶキレてるなー笑』
どんどんいいねがされて、拡散されている。
引用されて、私の悪口も書き込まれている。
私を悪く言って動画を拡散しているのは、ぜんぶ知ってるアカウントだった。
みんな、中学のときや一年のときに一軍の女子みんなでハブいた子やいじめてきた子たち。
『淡島亜子終わったな』
ほんと。
『隼クン、別れて正解じゃん?』
ほんとにそう。
『てか、淡島亜子ってそもそも友だちから隼くんを奪ったらしいよ』
そうだよ。私は、桃果から隼くんを奪った。
『淡島亜子はクズ』
知ってる。
『淡島亜子死ね』
私は乱暴に頭を搔く。
あぁ、もう。うるさいうるさいうるさい!
黙れブス!
あんたらになにが分かるんだよ!
そうだよ、私はこんな性格だよ。
だからなに。悪い?
私を責めるなら、あんたたちはどうなの?
だれかの悪口言ったことないわけ?
嘘ついて、他人にいい顔したことないわけ?
じぶんを守るために生きて、なにが悪いの。
好き勝手言いやがって……あんたたちだって中身はどうせこんなもんでしょ。ひとに理想抱く前に、じぶんのことを省みてみなさいよ!
……つーか、
「外野は黙ってろ!」
テーブルを叩いて叫んだ瞬間、カフェのなかが静まり返る。周囲の目が一斉に私に向く。
集まった視線に、泣きそうになる。
私は力なく椅子に座り直して、項垂れた。
「……サイアク」
だけど、いちばん最悪なのは、私だ。
為すすべもなく、私は拡散されていく動画を見つめた。
どうせこのあと、月宮さんが私の裏アカの存在を暴露して、私はもっと炎上するんだろう。いや、若しくはもう既に桃果が暴露しているかもしれない。
あーぁ。完全に摘んだ。
これまで積み上げてきたものが、ぜんぶなくなった。
積み上げてきた? なにを?
私はなにを積み上げてきた?
いじめられないように、可愛くなる努力をして、言動も陽キャを意識して、じぶんより下の子を見て笑って。
じぶんだって、少し前まで見下されてきたくせに。でも、そうしなきゃいじめっ子たちのなかに入れなかった。
三ノ輪茜、山口美香、金森真奈。
下品に笑う、あのなかに。
「…………」
私は、なんであのなかに入りたいと思ったんだろう……。
あんなにきらいだったはずなのに。
「……バカみたい」
涙で視界が滲んだ。
さて、問題です。
次の□□に入る言葉はなんでしょう? 正答だと思う言葉をひとつ書きなさい。
問一:青春とは、□□である。
解答者:月宮茉莉奈
解答:青春とは、『ままごと遊び』である。
あたしは可愛い。
一歩外に出れば、みんながちやほやしてくれる。
あたしが頼めば、男子はなんでもやってくれる。
だからあたしは高いところにあるものは取らないし、重いものだって持たない。
それについて文句を言うガヤはいるけど、べつに気にしない。だってそれでなんの問題もなく生きていけてるんだから、かまわないじゃない。
それに、文句を言うのはだいたい女。どうせみんな、可愛いあたしに嫉妬してるだけ。妬まずにはいられないだけ。あたしが可愛いから。羨ましいから。
街を歩けば、男子だけじゃなくて女子だってちらちら見てくる。
あたしは可愛い。
だからあたしは、だれにも媚びない。そんなことしなくても、あたしは愛される。愛されるに相応しい女だから。
***
高校二年の春、あたしはすごく久しぶりに、女子から声をかけられた。
朝野みやび。
美人でスタイルが良くて、一年のときから目立っていた子だ。他人に興味のないあたしでも、知っていた。
「あのね、私ね、美月ちゃんが赤ちゃんを泣き止ませてるの見て、すごく感動したんだ!」
「えー……ありがとう」
……気持ち悪い。なに知り合いでもないひとのこと見てんの。ストーカーかよ。
きらいなタイプだ。
彼女からは、清潔な匂いがぷんぷんしていた。
きっと、すごくいい子なのだろう。
可愛くて、性格も良くて、皆から愛されてきた。
愛されて育ったから、他人を疑わない。ちょっと意外な一面を見ただけで、あたしのことを、困ってるひとに手を差し伸べられる心優しい女の子だと誤解する。
それがあたしのすべてなわけがないのに。
あたしは善人なんかじゃない。
バスのなかであたしがあの親子に声をかけたのは、そんなきれいな理由からじゃない。
***
風船がパンッと割れたような音がして、あたしは目を覚ました。
周囲を見ると、満員のバスのなか。何度か瞬きをするあいだに周囲の空気を感じ、今が放課後で、じぶんが帰宅途中であったことを思い出す。
寝ぼけて遠のいていた音が、波のように押し寄せてくる。
前のほうから、赤ちゃんの声が聞こえる。
見ると、小さな赤ちゃんを抱っこした若い母親が優先席近くに座っていた。風船が割れた音だと思ったのは、赤ちゃんの泣き声だったようだ。
母親が泣き止まない赤ちゃんをあやすために立ち上がると、空いた席にすかさず近くにいたおばさんが座った。
となりに座っていたおじさんが、聞こえよがしのため息を吐く。背後から、「うるせえなぁ」という呟きが聞こえてくる。
目眩がする。
降りろよ、という乗客からの見えない圧に、母親はどんどん萎縮していく。
母親の緊張が赤ちゃんにも伝わったのか、赤ちゃんは泣き止むどころかさらに大きな声で泣き始めた。
べつに、どうだっていい。
……どうだっていいけれど、泣き声は、苦手。
母親を、思い出すから。
『あんたなんて、産まなきゃよかった』
耳元で声がした、気がした。
あたしの母親は、あたしが中学になるかならないかくらいのときに男を作って出ていった。
悲しくはなかった。むしろ、心からほっとした。それまで、さんざんいじめられてきたから。
機嫌が悪いと、殴られ蹴られは当たり前。口ごたえどころか睨んだだけでご飯も抜きにされる。ひどいときは、服を剥かれて熱湯をかけられた。
いわゆる虐待というやつである。
おかげであたしの胸元には、大きな火傷の痕がある。故にいつもパーカーで隠し、バイトのときはチョーカーネックのドレス一択。痕がバレないように。
まぁ、贔屓の客にはわざと見せて、感情を煽ったりもするけれど。
でも、オッサンは騙せても、たぶん、同級生はムリ。特に女子は、たぶんこういうものを見たら、あたしを格好の餌にする。女子はそういう、醜い生き物。だからあたしは、基本的に学校では肌を隠している。
あたしは、今でもまだ、ふとしたときにPTSDに襲われたりする。トリガーになるのはだいたい、子どもの泣き声、女の金切り声、オジサンの怒鳴り声。
あんな店で働いてるあたしだけど、べつに男が好きってわけじゃない。お金に困ってるわけでもない。もっとべつの理由。
あたしは、子どもの泣き声も母親もきらいだけど、オッサンがいちばんきらい。
あたしに手を上げてきたのは、母親だけじゃなかった。母親が出ていってからは、父親にも手をあげられてきたから。
大きな手で頭を掴まれて、何度も、何度も……。
吐き気がする。
……いやなことを思い出した。気持ち悪い。頭痛い。
あたしはカバンのポケットから痛み止めを取り出し、二粒口のなかに入れた。薬を飲み込んで、目を瞑る。しかし、動悸は収まらない。
……ダメだ。まだ足りない。
あたしはさらに三粒、痛み止めを飲み込んだ。
少しづつ意識が朦朧としてくる。不安が薄れていく。
ほっとして、気が緩んだその拍子に、手の力も緩んでしまったようだ。鞄が手から滑り落ちた。
床に落ちた瞬間、なかで乾いた音がした。鞄を開けてなかを見ると、小袋のお菓子が入っていた。
なにこれ。
少し考えて、あぁ、そうだ、と思い出す。
『――月宮って甘いもの好き?』
今朝、学校でとなりの席の男子と、そんな会話をした。その子から、お菓子をもらったのだった。くれた男子の名前は知らない。たしか、遠足も同じグループだった気がするけど、キョーミないから覚えてない。
お菓子の袋を取り出し、バスの前方を見る。
まぁ、車内にゴミ箱なんてないか。
学校のゴミ箱に捨ててくるつもりだったのに、すっかり忘れていた。
あたしは基本、他人からもらったものは食べない。
昔、母親が作ったカレーのなかに割れたガラスを入れたことがあったから。あのときは最悪だった。口の粘膜があちこち切れて、数日、いや、一週間くらいは、口のなかになにも入れられなかった。
あれ以来、あたしはじぶんで作ったものしか食べられなくなった。
だけど、くれるというものを突き返すのも、理由を話すのも面倒だから言わない。笑顔で受け取る。そして、あとで捨てる。そのほうが楽だから。
しかし、女子はそれをよく思わないらしい。
『うーわ。また男子に媚び売ってるよ』
『よくやるよねぇ』
『マジ男好きだよねー』
は? なんで? くれるっていうものをもらっただけで、なんであたしが責められなくちゃならないの? じぶんがもらえないからってあたしに当たるな。
『ないわー』
こっちのセリフだし。つーか、羨ましがってんの見え見えなのよ。悔しかったらあんたも男に笑って見せれば? それで男がその気になるかどうかは知らないけど。
『亜子ちゃんもみやびちゃんも優しいよね』
どこが?
淡島亜子も、朝野みやびもただの偽善者。
弱い者にいい顔をして、ただいい子のふりをしたいだけ。そのあとの責任はなにひとつとらない。あれのどこが優しいわけ?
『私はいっしょに行動するとかムリだわー』
いやいや、こっちから願い下げですけど。なに言ってんの?
『亜子ちゃんの彼氏とったってきいたよ』
そうだよ? だってひとの男奪うのって気持ち良いから。ただし、奪った男はすぐ捨てる。あたしは、捨てられる人間にだけはぜったいにならない。
『えーマジ? ヤバ』
はいはい。知ってます。あたしはクズ。ヤバい人間です。だからどうした。ほっといて。
裏アカだの一軍だの、だれかがだれかの彼氏とっただの。
どいつもこいつもバカばっか。
だったら聞くけど、女友だちなんか作ってなにになるの?
集まったところで、ただ悪口言いあってるだけじゃん。それのなにが楽しいわけ?
男とったっていうけど、あたしからアプローチしたわけじゃないし。つーかこの世の半分が男なんだから、次に行けばいいじゃん。なんでみんなそんなくだらないものに執着するわけ?
バカみたい。バッカみたい。
少し気分が落ち着いて、あたしは周囲を見る。となりの座席のおじさんがいらいらしていた。
舌打ち、ため息。貧乏揺すり。
明らかに、親子に圧をかけている。
あぁ、もう。うるさい。うるさい、うるさい!
子どもじゃないんだから、いらいらを外に出さないでよ。ここはあんたらの家じゃないのよ!
おじさんのとなりに座っているおじさんもまた、いらいらし始める。
周囲の空気に、泣きわめく赤ちゃんをあやしていた母親の顔から、ゆっくりと表情が消えていく。その光景に、あたしはもう顔もろくに覚えていないはずの母親のことを思い出した。
『あんたさえいなければ……』
疲れ切った、悪魔のような母親の声が耳朶を叩く。
あたしを責める声。
なんで?
あたしは悪くない。勝手に産んだのはあんたじゃない。それなのに、なんでそんな顔するの。なんでそんな目であたしを見るの。
赤ちゃんをあやす声から、覇気が失われていく。
『あんたみたいな醜い生き物、産まなきゃよかった!』
あたしは醜くなんてない。ちゃんと見て! ほら、あたしはこんなに可愛い。
母親はとうとうあやすのをやめて俯いた。
あたしはその姿をじっと見つめる。
バカみたい。じぶんで産むことを選んだくせに。
「…………」
そんな目で赤ちゃんを見ないでよ。この子は悪くないじゃない。悪いのはあんた。その子を産んだあんたがぜんぶ悪い。責任転嫁するな。
叫び出したくなる衝動をなんとか抑えて、あたしは席から立ち上がった。
親子の前で立ち止まると、あたしに気付いた母親が顔を上げる。
文句を言われるとでも思ったのだろうか。母親はあたしと目が合うと、弱々しい声で「ごめんなさい」と口にした。
ムカつく。それはなにに対しての謝罪?
あんたが謝るべきはあたしじゃない。あんたの腕のなかにいるこの子だ。
あたしは母親の謝罪を無視して、鞄からお菓子を取り出した。赤ちゃんの前でくしゃくしゃと音を鳴らす。
前、テレビかネットか忘れたけれど、こうすると赤ちゃんが泣き止むと聞いたことがあったのだ。
半信半疑だったが、赤ちゃんは本当に泣き止んだ。あの情報は、どうやらうそではなかったらしい。
赤ちゃんはあっという間に泣き止んで、しばらくぼけっとしたあと、きゃらきゃらとご機嫌そうに笑い出した。
可愛い。
笑っている赤ちゃんは、とても可愛らしい顔をしている。
「ありがとうございます」
母親は、今にも零れ落ちそうなほど大きな雫を目に溜めて、あたしを見上げていた。それを見て、初めて気付いた。
お母さん、若……。
赤ちゃんを抱いていたのは、思ったより若い女性だった。目元のクマがひどいせいで老けて見えたけれど、まだ二十代前半くらいに見える。きっとあたしと五、六歳ほどしか変わらないだろう。
「……すごくいい子ですね」
最後、あたしは母親にそう言った。
あれは、母親のためじゃない。子どものために言ったのだ。
「これ、よかったらどうぞ」
あたしはお菓子を母親に差し出す。ちょうど最寄り駅についたので、あたしはそのままバスを降りた。
どうか、勘違いしないで。この子は敵じゃない。この子に憎むような眼差しを向けないで。そう祈りながら。
あのときの行動は、あたしにとって、今はどこにいるかも分からない母親への、精一杯の反発だった。
***
「――ごめん、巻き込んだね」
あたしは、すぐとなりで俯いていたみやびちゃんに言う。するとみやびちゃんはわずかに顔を上げて、あたしを見て微笑んだ。
「ううん……」
みやびちゃんの笑顔は引きつっていた。
「無理して笑わなくていいんじゃない。ショックだったんでしょ」
あたしは、生まれてこのかた友だちなんていたことはない。だから、これが慰めになっているのかは分からなかった。だが、どうやら、あたしが励ましたつもりだということは、伝わったらしい。
「……茉莉奈ちゃんは優しいね」
ぽつりと呟くみやびちゃんに、あたしは冷笑した。
「どこが? あたし、みやびちゃんと淡島さんの関係ぶち壊した本人だけど?」
「それはそうだけど……でも、私を置いていこうとしたのって、私に気遣ってくれたんだよね?」
「…………」
残念ながら、私がみやびちゃんを置いていった理由は違う。
だが、本当にみやびちゃんは美しいひとだ。まるで、物語に出てくる本物のお姫さまみたいだと思う。でも、彼女がお姫さまなら、あたしはなに?
あたしはみやびちゃんを見ていられず、彼女から目を逸らした。
どうやったら、彼女のような心の持ちかたができるんだろう。
「ねぇ、ちょっとだけ話できるかな?」
「……え」
「大事な話だから、場所変えよう? こっち来て」
みやびちゃんが、パーカー越しにあたしの手を掴んで歩き出す。彼女にしては、いささか強引だ。
みやびちゃんに手を引かれながら、あたしは周囲を見る。
ギャラリーがあたしたちを取り囲んでいた。無遠慮にカメラを向けてくるひともいる。まぁ、あれだけ派手に言い合ったのだから仕方ない。
それにしても、かなり大騒ぎになってしまった。これはあとから呼び出しを喰らいそうだ。
明日、学校で担任に呼び出されてくどくどと説教されるじぶんの姿を想像すると、うんざりした。
あたしたちはひとだかりを抜け、すぐ近くに乗り場があった観覧車に乗り込んだ。
パーク内のアトラクションはどれも人気だが、観覧車だけは並ばずスムーズに乗ることができるのだとみやびちゃんは言う。
「詳しいんだね」
「うん。家族で何回か来てるから」
「へぇ……」
向かい合って座ると、みやびちゃんは気まずさからか、ずっと窓の外を眺めていた。
あたしはこっそり、彼女の横顔を盗み見る。落ち着かないのかまつ毛が微かに震えているが、その横顔は場違いなまでに完璧で、まるで美術館の絵画でも見ているような錯覚を覚えた。
「……ねぇ、みやびちゃんちって、三人家族だったよね。仲良いの?」
あたしの問いに、みやびちゃんが振り向いた。
「え? あ……」
その眼差しは左右に揺れて、困惑しているように見えた。
「……うん、まぁ、仲良いよ」
「ふぅん。そうなんだ」
「茉莉奈ちゃんちは……」
言いかけて、声が途切れた。あたしが虐待されていたという淡島亜子の話を思い出したのだろう。
「……ごめん」
「いいよ。べつに」
「…………」
「…………」
話題が浮かばず、あたしはぼんやりと外の景色を眺める。
パークの向こうには、海が見えた。太陽に照らされた水面がきらきらしていて、美しい。
「……あのさ、茉莉奈ちゃんは私のこと、どう思う?」
あたしは黙って彼女を見る。みやびちゃんはあたしと目が合うと、自信なさげに俯いた。
「なに? いきなり」
「茉莉奈ちゃん、いつもひとりでいたから、ひとりが好きだったかなって。もしそうだったら、いろいろ誘ったりして、その……ごめんね」
出た。自己反省からの独りよがりな謝罪。
いい子に限って、こういうことをヘーキでする。
こういうとき、あたしは心のなかでいつも思う。
そのセリフ、どんなつもりで言ってるの?
まぁ、聞かなくてもおおよそのことは分かるけれど。
結局みやびちゃんは、『そんなことないよ。私はみやびちゃんのことが大好きだよ』と、そう言ってほしいだけなのだ。
そして、あたしがそう言ってくれるって無意識に確信している。愛されている自信があるから、こっちが気を遣ってそのセリフを吐いてるって気付かない。
「……べつに、迷惑ではなかったよ」
ほかの子だったらうんざりして無視するところだけれど、あたしは、彼女の望む答えを投げてあげる。
気だるく、窓際に頬杖をつきながらではあるけれど。それでも今回ばかりは、あたしの答えと彼女の望む答えが一致していると、みやびちゃんと過ごすことには意義があったと、そう確信しているから。
もちろん、これまであたしは、友だちなんていらないと思っていたし、今でもそう思っていることに変わりはないが。
「本当?」
「もしかして、今のが大事な話?」
もしそうなら、なんてくだらない大事な話だろう。
「いや……」
みやびちゃんの目が泳ぐ。
「違うの?」
話があるならさっさとしてほしい。観覧車はもうすぐ頂上に差し掛かる。
「……その、私ってさ……ぶっちゃけ女子からはきらわれるタイプかなって思って」
「……そう?」
むしろ好かれまくっている気がするが。
「昔からあんま、空気? みたいなのが読めなかったし」
それは仕方ない。見た目がいいから、多少ワガママでも許されてきたのだろうから。
「私さ、友だちがいなかったことってないんだ。新学期はみんなどきどきするっていうけど、いつもみんなのほうから声かけてくれるから、すぐ友だちもできるし。……だから私、亜子が言ってたいじめとかは経験なくて。亜子の気持ちは、理解できない」
そりゃそうだろう。彼女ほどの美貌があれば、男も女も関係なくみんな親しくなりたがる。興味を持つ。
人間は所詮、美しいものが好きだ。あくまで美しいもの、だが。美しいと可愛いは違う。
あたしは、前に落ちていた髪を乱雑にうしろ側に払った。
「いいんじゃない。いじめられないに越したことないじゃん」
「本当にそうかな……」
みやびちゃんが俯く。一瞬見えたその表情は、不満そうだった。
「私に声をかけてくれるひとはみんな優しい。けど、本当に私を友だちって思ってくれてるのかなって思うの」
これは長くなりそうだ。この子はいったい、あと何周観覧車を回るつもりだろう。
「……他人なんだから、多少気を遣うのはふつうだと思うけど」
子どもじゃあるまいし、気を遣わないほうがおかしい。あたしはそう思う。でも、彼女はそれが気に食わないらしい。
「私ね、小学校からずーっと仲良い子って、ひとりもいないんだ。クラスが変わって、学校が変わったら、友だち関係もそこでおしまいっていうことが多くて。兄妹もいなくてひとりっ子だし……」
ふうん、とあたしは相槌を打つ。
というか、それなら私もいないけど。それってそんなにおかしいこと? 気にしたこともなかった。
「昨年、仲良くなった子がいたんだ。アニメが好きで、大人しい感じの子。でも、私の周りに派手な子たちが集まるようになったら、どんどん疎遠になっていって」
「ふぅん、そう」
相手の子の気持ちは、分からないでもない。みやびちゃんは目立つから、陰キャは近寄り難いのだろう。
「その子にね、言われたの。他の子たちに目をつけられたくないから、もう話しかけないでって。クラスのなかで必死に居場所を守ってる彼女と私は、違うんだって言われた」
みやびちゃんはとうとう、ガラス玉のような目から、ぽろぽろと涙を流し始めた。マジか。
「私だけ大好きでも、ぜんぜんうまくいかない。だから、今年こそはちゃんとした友だちがほしいって思ったの。本当は、亜子の本音は気付いてたよ。でも、これから向き合っていけば、ちゃんと仲良くなれるかもって……そう思ったんだ」
みやびちゃんが俯く。
あたしはそれを見て、バカだなぁと思う。そんなもの、本人の意図は関係ない。
だって、彼女は生まれた瞬間から凡人ではないのだから。
それが、どれだけ彼女に息苦しさを与えているのかは私には分からない。だが、とにかくみやびちゃんのせいではないし、みやびちゃんにはどうしようもできないことだった。
さて、なんて言おう?
あたしは、ひとりが好き。あんたの気持ちを汲んで、ずっといっしょにいてあげるっていうのはできないし、したくない。
それは彼女も分かっているはずだ。だからこそさっきの謝罪があったのだから。
それなら、彼女はいったい、あたしになにを言わせたいのだろう。彼女の目を見つめ、じっと考える。……が、まぁ、考えたところで分かるはずもなく。
ふっと、さっきのみやびちゃんの言葉がよみがえった。
『――これから向き合っていけば、ちゃんと仲良くなれるかもって』
あぁ、そういうことか。
あたしはようやく自覚した。なぜ、ここにいるのかを。
あたしは、彼女を殺すためにここにいるのだ。あたしの役目は、彼女を殺すことだった。彼女も、それを望んでた。
「……たぶん、それが間違ってるんじゃない」
みやびちゃんが涙を拭っていた手を止める。
「そもそも向き合うってこと自体、間違ってる。向き合ったって無駄。あたしたちは分かり合えない」
あたしが彼女にできることは、ほかならぬ現実を突きつけること。そして絶望させることだ。
「なんで? ちゃんと思ってることを口にすれば、すれ違ったりしなくなると思うんだけど」
そうかもしれない。でもそれは、きれいな本音を聞けたときの話。ひとの本音は、だいたい黒くて汚いものだ。そんなものを四方から真正面にぶつけられたら、よりよい人間関係なんてまず作れないだろう。
「淡島さんはべつに、みやびちゃんを騙そうとしたとか、好きじゃなかったとか、そうじゃない。ただ、本音を見せたくても見せらんなかっただけ」
みやびちゃんは少しのあいだ黙り込んで、しかし首を傾げた。
「……だからなんで? 分かんないよ。見せられないってことは、私を信じてくれてないってこと?」
違う。あたしは首を横に振る。
これは、信じる信じないの話ではないのだ。
「じぶんに自信がないの。だから、みやびちゃんにきらわれたくなくて、本当の姿を見せられない。みやびちゃんは、生まれたときから愛されて、ずっと受け入れられてきたから分からないだろうけど」
最後のひとことに、みやびちゃんが黙り込む。
彼女は、愛されている。
みやびちゃんは、学校という場所に恐怖を抱いたことがない。だから、他人の評価に恐れがない。淡島さんの劣等感の本質に気付けない。
「……じゃあ、私は、どうしたらいいの?」
みやびちゃんは項垂れるように言った。
「どうもなにも、どうしようもないよ。だってあたしたちは赤の他人。みやびちゃんは淡島さんじゃない。淡島さんの気持ちは、一生分からないんだから」
「そんな……」
「だってないんでしょ? いじめられたこと」
被せるように言うと、彼女はしゅんと怒られた子犬のように黙り込んだ。
「ない……けど。でも、それじゃあ友だちなんて一生できないことになっちゃうじゃん」
「そうだね」
「そうだね、って」
あぁ、鬱陶しい。
「あたしたちは、育ってきた環境もタイプもぜんぜん違うんだよ。分かり合おうとするほうが無謀だって」
「そんなことないよ。私は……!」
しつこいな。
これは、やんわり伝えただけでは納得してくれなさそうだ。あたしは仕方なく、トドメを刺してあげることにした。
「じゃあ言うけど、淡島さんに本心教えてって言ったとしてよ。たとえばみやびちゃんの悪口が呆れるほど出てきたとしても、みやびちゃんは、本音を言ってくれてありがとう、あなたの気持ちは分かったから、これからはちゃんとした友だちになろーって思えるわけ?」
みやびちゃんが息を呑む。
「ひとの生きかたを否定して、じぶんの生きかたを見せつけるのは簡単だよ。けど、じぶんの気持ちを優先させるってことは、彼女の生きかたを曲げさせるってこと。それに責任をとらなきゃいけないってことだよ。淡島さんと友だちになりたいなら、みやびちゃんは、彼女のぜんぶを受け入れなきゃいけない。最後まで、見捨てることなく。たとえ彼女がどんなにクズだったとしても。なぜなら、踏み込んだのはじぶん自身なんだから」
みんな、それができないから、ある程度の仮面を被って、テキトーに生きている。相手に合わせて、本音を呑み込んで。そのほうが楽だから。
「それにさ、みやびちゃんってあたしたちにずっと遠慮して、本音見せてなかったでしょ? 本音を見せてくれないひとに、相手が心なんて開くわけないじゃん」
ダメ押しにもう一撃くらわせると、みやびちゃんは黙り込んでしまった。俯いて、唇を噛み締めている。
あーぁ。泣くかな。
やめてほしい。まるであたしがいじめているみたい。
やっぱりニガテだ。こういう、無自覚にじぶんの正しさを訴えてくる清潔な子。
俯く彼女を見て、改めて思った。
それからしばらく、あたしたちは無言のまま外の景色を眺めていた。
ほどなくして、ゴンドラが地上に到着する。
あたしはみやびちゃんより先に降りて、そのまま歩き出す。
さて、これからどうしようか、と思っていると、みやびちゃんが「ねぇ」と声をかけてきた。
「茉莉奈ちゃんは、だれのことも受け入れたくないからひとりでいるの?」
足が止まる。
「ごめん、でも、ずっと気になってたんだ。茉莉奈ちゃんって、本当は男の子のこともあんまり好きじゃないでしょ?」
あたしは振り向く。
「……なんで?」
「なんとなく」
「まぁね。ひとりは気楽だし」
男は暴力的だし、女は面倒。
あたしは赤の他人にじぶんを見せたいとか知ってもらいたいなんて思わないし、どこの馬の骨とも分からない他人を受け入れるつもりもない。
友だちを作るのは義務じゃない。だったらあたしはいらない。
男もそう。適当に相手をしてやって、飽きたら捨てる。捨てられる前に捨てる。それでじゅうぶん、暇は潰せる。
そう、あたしはみやびちゃんに告げる。
「……そっか」
そう言うと、みやびちゃんは笑った。そして、おもむろにあたしの手を掴んだ。
「なに?」
あたしは眉を寄せて、みやびちゃんを見上げる。みやびちゃんは、じっとあたしを見下ろしていた。
「大事な話があるって言ったけど、今してもいいかな?」
「え……う、うん」
驚きつつも頷く。大事な話とは、さっきの友だち関係の悩みではなかったのか。それならば、さっきのはなしはなんだったのだ。
「私ね、ずーっと前から、茉莉奈ちゃんに聞きたいことがあったんだ」
「……なに?」
なんとなく、いやな予感がした。そしてそれは、当たっていた。
「――茉莉奈ちゃんって、私のパパとどーゆう関係?」
私の視界の端にあったジェットコースターが、カラフルな悲鳴とともに頂上から真っ逆さまに落ちていった。
***
「……なんのこと?」
数秒後、ジェットコースターの悲鳴が引くのを待ってから、私はそう返した。
「私ね、前に見たことあるんだ。泉町商店街のバス停の前で、茉莉奈ちゃんとパパが腕組んで歩いてるとこ」
「…………」
みやびちゃんはそう言って、スマホ画面を見せてくる。画面には、薄暗くなった街の風景が切り取られている。ネオンの下で、華やかな化粧をした女がオッサンと腕を組んで歩く姿が写っていた。紛れもなく、あたしだ。
「……えーなに、このオッサン、みやびちゃんのパパなの? 似てないね?」
あたしは努めて冷静に、そう返す。
「……そっか。あくまで知りませんでした、を貫き通すつもりなんだ」
みやびちゃんは、一度悲しげにまつ毛を震わせて、すっと表情を消した。次の瞬間、彼女の顔には、乾いた笑みが浮かんでいた。
正直、彼女については引くぐらい純粋だと思っていたのだが、どうやらあたしが間違っていたらしい。こんな顔もできるのか、と変なところで感心してしまう。
「でも、そんな演技しなくていいよ。私、知ってるから。茉莉奈ちゃんが私に復讐しようとしてること」
ねぇ、と、みやびちゃんがあたしに顔を寄せてきた。
「私のお母さんって、茉莉奈ちゃんのママなんだよね?」
「…………」
「ね?」
ダメ押しのようにもう一度訊ねられ、あたしは笑った。
「なぁんだ、つまんない」
あたしはゆっくりと瞬きをして、目を開ける。
「そうだよ。あたしを捨てた女が、みやびちゃんの新しいママ」
その瞬間、ごくっと彼女の喉が鳴った。
「ってことはあたしたち、血は繋がってないけど姉妹ってことになるのかな?」
あたしはわざと呑気に笑ってやる。
「ねぇ、みやびちゃん。どこから知りたい?」
これは、あたしとみやびちゃんの物語だ。
あたしはずっと、母親の行方を探していた。
あたしを捨てた母親を。
理由は、ほかでもない復讐のため。
あたしはずっと、復讐するために生きている。
母親を見つけたのは昨年の冬のことだった。あろうことか、場所は学校。
うちの高校は、冬になると学年問わず三者面談がある。一年のとき、三組だったあたしは、担任と二者面談をした。保護者代わりである叔父に日時と時間を伝えたものの、当日、来なかったからだ。そんなことだろうとは思っていたから、前もって担任教師にも伝えていたし、あたしも担任教師も、特段対応に慌てることはなく、ふつうに二者面談が始まって、終わった。
母親と再会したのは、二者面談が終わって、廊下に出たときだ。といっても、あたしが一方的に見かけただけだが。
二組で同じく行われていた面談の風景がちらりと目に入った。面談をしていたのは知らない女子だったけれど、きれいな横顔だなと思って、そのまま眺めていた。そして、自然な流れでその子の母親を見た瞬間、あたしは凍りついた。
見知らぬ女子生徒と親密そうに肩を並べて、担任教師に愛想のいい笑みを向けていたのは、他ならぬあたしの母親だったのだ。
母親は、再婚していた。新しい夫には連れ子がいて、それが、みやびだったのだ。
再婚したことについては、なんとも思わなかった。母親が男を作って出ていったことも、あたしより男を取るひとであることもいやというほど知っていたから。
だけど、あたしは知らなかった。
母親が、だれか知らない女の母親でいることを。あたしと同じ歳の少女の保護者となっていることを。
あたしを捨てた女が、血の繋がりもない女の、保護者面をしている?
ふざけんな。
「待って」
そこで、真実を語っていたあたしを、みやびちゃんが遮った。
「捨てたって……違うよ。お母さんはただ、茉莉奈ちゃんのお父さんと離婚しただけでしょ? 親権がお父さんになっただけでしょ?」
そう、消え入りそうな声で、あたしに反論する。
「は?」
笑っちゃう。
「あんた、淡島亜子の話聞いてた? あたし、虐待されてたんだよ?」
あたしは苛立ちを露わにしながら、パーカーの首元をぐっと下げる。
まだ少しひんやりとした春の空気が、優しくあたしの肌を撫でていく。
みやびちゃんの目には、痕が映っているはずだ。あたしがあの女につけられた、凄惨な火傷の痕が。
みやびちゃんはあたしの胸元を見て眉を寄せ、顔を背けた。
「そうやって汚いものから目を逸らすの、あんたもあの女と同じね」
挑発すると、みやびちゃんのこめかみがぴくりと動く。そして、ゆっくり、あたしへ視線を戻した。
そうよ。ちゃんと見なさいよ。あたしは、あんたの母親にこの痕をつけられたんだよ。
「ねぇ、みやびちゃん。あたしね、許せなかったの」
変わり果てた母の姿が、許せなかった。
あたしのことは愛さなかった女が、みやびちゃんを愛しているなんて。男にしか興味なかった女が、幸せな家庭の中心にいるなんて。
「だからね、今年、みやびちゃんと同じクラスになったときは、運命だと思ったよ。ようやく神さまも、あたしを愛する気になってくれたんだってね」
あたしはうっそりと笑う。一方でみやびちゃんは、どんどん青ざめていく。
「……じゃあ、私と仲良くしてくれたのは、ぜんぶ復讐のためだったってこと……?」
あたしは笑顔で頷く。
「うん、そう」
あたしはあたしの目的のために、みやびちゃんと友だちのふりを続けた。
淡島亜子に嫉妬されてることは気付いていたけど、そんなこと、どーだってよかった。あたしのなかでの最優先事項は、朝野みやびの家庭をぶち壊すこと。ただそれだけ。
「あのね、いいこと教えてあげる。みやびちゃんのパパとうちの母親はね、ガールズバーで出会ってるんだよ。ちなみに、あたしが今働いてるとこ」
みやびちゃんが驚きの表情を見せる。
絶望してる絶望してる。そうだよね。まさか、そんな場所で両親が出会っていたなんて思わなかったよね。かわいそー。
でも、男女なんてそんなものなんだよ。あんたは夢見すぎ。もっとしっかり現実を見たほうがいい。この腐った世界の現実を。
「あたしの母親はクズだったけど、調べてみたら、みやびちゃんのパパもなかなかクズだよねー。女好きで、浮気性で。ウケる」
「……それで、茉莉奈ちゃんは最終的にどうするつもりだったの」
はぐらかそうか、最後まで暴露するか。少し考えてから、あたしはまた話し出す。
「みやびちゃんはさぁ、なんであたしがラパンでバイトしてたと思う?」
質問を投げられると思っていなかったのだろう。みやびちゃんの瞳が困惑気味に左右に揺れた。
「……お母さんが、働いてたから……?」
「惜しい!」
「じゃあなによ」
みやびちゃんが感情的に聞き返す。
「あんたの大好きなパパが通ってるからだよ」
「……パパ?」
「そう」
今日のあたしの喉は絶好調のようで、のど飴も舐めていないのに滑らかに滑ってくれる。
「あんたのパパが通ってたから、あたしは年齢を偽ってラパンでバイトを始めた。あんたのパパに近づくためにね。にしても、男って若い女が好きだよねぇ。あんたのパパ、すぐにあたしのこと気に入ってくれたよ。じぶんの奥さんの子どもとも知らないでさ」
私はふぅ、と息をつくと、前髪をかきあげた。みやびちゃんは呆然としたまま、微動だにしない。
「そのうちホテルに行って、既成事実でも作ってから、あの女のこと、あたしのこと、ぜんぶぶちまけてやるつもりだった。それで、ホテルでの写真をあの女に見せつけてやるつもりだったのにさ」
失敗した。淡島亜子のせいで。
あたしはスマホを見る。担任教師からの着信が、十件以上入っていた。おそらく、あたしと淡島亜子が起こした炎上騒ぎを聞きつけたのだろう。
教師たちがあの炎上動画を見ているとすれば、あたしのバイト先についても、学校側に露見していることになる。すぐにバイトもクビになることだろう。
残念ながら、あたしの復讐劇はここで幕を閉じる。
ちょっと想定外ではあるものの、あたしの心は案外スッキリしていた。みやびちゃんのパパがクズってことを、みやびちゃんに暴露できたからだろうか。
「……さて。話は以上。どう? これで満足?」
あたしはみやびちゃんに問いかける。
みやびちゃんはしばらく顔を伏せていた。泣いているのだろうか、と思ったが、違った。
「……うん。満足」
顔を上げた彼女は、口角を上げて笑っていた。不気味なほど上機嫌に。
「……なに、笑ってるわけ?」
目の前のみやびちゃんがいつもの彼女と別人のように思えて、背中を変な汗が伝う。
「ごめんね。茉莉奈ちゃんの本音が聞けたから嬉しくて」
「は……?」
「ねぇ、私、ちゃんと聞いたよ。茉莉奈ちゃんの本音。聞いたから、友だちになってくれるよね?」
なにを言い出すのかと思えば。
「……あんた、バカ? 今の話聞いてた? あたし、あんたんちをぶち壊そうとしてたのよ?」
間違いなく、今の暴露のあとでする話ではない。この子、頭がおかしいんじゃない?
「分かってるよ。でも、実を言うと私、ずっときらいだったの、お母さんのこと。香水臭いし、派手好きだし、イタイっていうか。でもパパが選んだひとだからって思って、我慢してた」
ホントはお母さんなんて呼びたくなかったし、お弁当も食べたくなかったんだよね。
みやびちゃんは可愛らしく笑いながら、あたしに言う。
これが、彼女の本音。
なんでだろう。あんな女、今さらどうだっていいし、だいっきらいなのに、なんか、みやびちゃんがムカつく。
あたしはみやびちゃんから目を逸らす。
その瞬間顔に影が落ち、あたしは顔を上げた。すぐ目の前に、みやびちゃんの美しい顔がある。みやびちゃんは笑顔であたしに言った。
「ね、私もちゃんと本音を言ったよ。これって、私も茉莉奈ちゃんも、お互いのために生きかたを曲げたってことだよね? つまり、お互い責任を取らないとってことだよね?」
「は……?」
本音? 責任? いったいなんの話?
訊こうとしたとき、みやびちゃんが静かに言った。
「だから、なってくれるよね? 私の、ほんとの友だちに」
「みやびちゃ……」
あたしが彼女の名前を呼び終わる前に、手を掴まれた。今にも鼻先が触れそうなほどの距離で、みやびちゃんの瞳があたしを射抜く。みやびちゃんは目を見開き、あたしを凝視している。
「茉莉奈ちゃんは私のぜんぶを受け入れなきゃいけない。最後まで、見捨てることなく。たとえ私がどんなにクズだったとしても。なぜなら、踏み込んだのは茉莉奈ちゃん自身だから」
「…………」
ようやくみやびちゃんの意図に気付く。彼女は意趣返しをして、あたしを縛りつけようとしていた。
これはいささか、想定外だ。彼女がここまで友だちというものに固執するとは思わなかった。呆れてもはや、ため息しか出てこない。
「…………あんたって、淡島亜子以上に変わってるよね」
「そう?」
満面の笑みが非常にうざい。というより、怖い。
「ねぇ、今から茉莉奈って呼んでもいい?」
「どーぞご自由に」
テキトーにあしらうと、みやびちゃんがあたしの腕に絡みついた。
「茉莉奈も、私のことみやびって呼んでよ!」
「ハイハイ」
「ハイハイって、ねぇ。今、呼んでよ」
しつこい。
無視しようとしたら、みやびちゃんがあたしの腕を振り回し始める。ウザいし痛い。
ハイハイ、言えばいいのね。
「……みやび」
仕方なく呼んであげると、みやびは顔をくしゃっとしてみせた。名前を呼んだだけなのに、なんでこんなに嬉しそうなのかしら。この子、彼氏できたらヤンデレになるタイプかも。
あたしは将来みやびの恋人となるであろうひとにご愁傷さま、と心の内で唱えた。
「よし! じゃあ仲直りも済んだところで、そろそろ亜子のこと探しに行く?」
よし、の意味も、じゃあ、の意味も分からないが、まぁいい。
「行けば?」
どうぞご勝手に。あたしには関係ない。
「行けばって……違うよ? 茉莉奈も行くんだよ?」
「いやいや……なんであたしが」
あたしはみやびに強引に絡められていた手をやんわり外し、距離をとる。歩幅一歩分ほど空いた。
そのまま、あたしは彼女から離れようと試みるが、なにしろ、リーチが違う。呆気なく距離は縮められ、再びみやびに腕を掴まれてしまった。
「だって茉莉奈、私のことはきらいだったかもしれないけど、亜子のことはべつにきらいじゃなかったでしょ?」
「はぁ? なに言ってんの。だいっきらいだし、あんなやつ」
この子はさっきの大喧嘩を見ていなかったのだろうか? それとも忘れた?
思いっきり吐き捨てると、みやびはふふっと笑った。
「そんなことないよ。だって、きらいならふつう隼くんと別れさせたりしないでしょ」
あたしはぎろりとみやびを睨む。
「なんの話?」
みやびは、私は知ってるよ、みたいなドヤ顔を向けてくる。
「茉莉奈ってなんだかんだ、優しいよね」
あたしはみやびから目を逸らした。
あぁ、もう。鬱陶しい。
あたしは懲りずに絡みついてくるみやびを引き剥がしながら、うんざりと言う。
「……あたしはただ、あの子があまりにも良い子ちゃんぶってるから、その面の皮を剥がしてやりたくなっただけ」
「ウソだ。茉莉奈は亜子のこと、本当は結構大好きだよね?」
「バカなの?」
有り得ない。あんな自己中。勝手にひとの秘密バラしやがって。あー思い出したら腹立ってきた。
睨みつけると、みやびはふと真剣な顔つきになった。
「……ねぇ、茉莉奈。私、茉莉奈に言われて、考えたよ。それでなんとなく分かった。私、これまで友だちに不満を抱くのっていけないことだと思ってた。でも、違うよね。好きでも不満のひとつくらい、あっていいんだよね」
「そりゃそうでしょ。相手のぜんぶを好きじゃなかったら、好きって言えないとでも思ってたの?」
「バカだね、私」
「そうだねー」
話していたら、あたしたちの前方にいたキャラクターの着ぐるみと目が合ったような気がした。それはやはり間違いではなかったようで、キャラクターはコミカルな動きであたしたちに近づいてくる。
キャラクターはあたしのところまで来ると、おもむろに黄色の風船を差し出してきた。いらない。無視していたら、みやびちゃんがあたしを小突いたあと、笑顔で受け取った。
「……だれかを妬んだり憎んだりすることは、当たり前の感情だよ」
そもそも、不満がないほうが異常だと私は思う。友だちなんて所詮他人だ。合わない部分は必ずある。もちろんそれは、友だちに限った話ではないけれど。
「私、茉莉奈が私にしたこと、許せないし許さない。でも……私がもし、茉莉奈の立場だったら、同じことをすると思う。だから私、そう思うことを許したい。じぶんにも、相手にも」
だからこれは、妥協とかじゃない。ぜんぜん違う。
そして、みやびは力強く言った。
「私は、亜子のことも茉莉奈のこともだいっきらいだけど、そこそこ好きだよ。少なくとも、クラスのなかでは、いちばん好き」
息を呑む。
だいっきらい。
間違いない彼女の本音。
でも、
そこそこ好き。
これもきっと、彼女の本音だ。
みやびがあたしの手をとる。つくづく、彼女はあたしに触れるのが好きみたいだ。
「ねぇ、茉莉奈はこれからどうする?」
私は、少し考えてから、
「……任せる」
そう返すと、みやびはにっこりと笑った。
可愛い。そうだ、そういえばこの子は可愛いんだった。メンタルが強過ぎて、忘れてたけど。
「……ま、さすがはあの女の娘ってことね」
小さく呟くと、みやびが振り返った。
「茉莉奈もね」
ドヤ顔で、そう返された。
可愛くてメンタル鋼で、さらに地獄耳? こわ。
大炎上している私のスマホは、あれからずっと通知音が鳴り止まない。
いいかげん耳障りになって、私はスマホの電源を切ってカフェを出た。
これからどうしようかな……。
宛もなく歩いていると、パークの端っこの人気のない場所に行き着いた。遠くから流れてくるカラフルな喧騒を聴きながら、私はひとり、ぼんやりと海を眺める。
つまらない。本でも持ってくればよかった。スマホがないと、なんにもやることがない。だからといってスマホの電源をつけたらうるさいだろうし、というか、スマホがあったところで、私には連絡する友だちももういない。
急に、手のなかの高級端末ががらくたに見えてきた。今までこんなものにすがりついて、なにをしていたんだろう。
「バカみたい」
……なんて、アイツの口癖が移ってしまったみたいだ。
周囲に目を配ると、近くにゴミ箱がある。私は、手のなかのがらくたとゴミ箱を見比べる。
いっそのこと、もうぜんぶ捨てちゃおっかな。それで、そのままどこか遠くにでも行こう。宛もなくふらふらと、行けるところまで行って、そして、行き着いた場所で死んでしまおう。
私はすぐ近くにあったゴミ箱に向かった。スマホを捨てようとしたとき、いきなり腕を掴まれた。
なに、と思って振り向くと、みやびがいた。
「……え……みやび? なんで」
驚きのあまり、言葉が途中で途切れてしまう。
だって、なんでみやびがここに? 私を探してた? それこそなんで? 私に文句を言うため?
みやびは、肩で息をしていた。走って私を探していたらしい。みやびの背後には、月宮さんもいた。彼女も額に髪を張りつけて、少し汗をかいている。
「探したよ。亜子、どこにもいないんだもん。バスにもいないし」
私はみやびの手を振り払う。
「なんの用?」
私は眼差しを鋭くして訊ねた。
「わざわざ私を引っ捕まえて、文句でも言いに来た? それとも謝罪動画でも取らせて拡散するつもり? 言っておくけど、私、そんなことしないから。私は間違ってないし」
早口で言う私に、みやびと月宮さんがそろってため息をつく。呆れたような。
「……亜子。私たちはそんなことしないよ」
みやびが諭すように言った。私はふんっと顔を逸らす。
「私たちはただ、話をしに来たの。亜子と、もう一度」
私はハッと鼻で笑う。
「話なんてないよ。さっきあんだけ話したじゃん。もう分かってるよね? 私がクズだってことも、みやびのこと利用してたことも。なにを話すことがあるわけ?」
「あるでしょ。まだまだたくさん」
「ないってば! もう離してよ!」
叫ぶが、みやびは私の手を掴んだまま離さない。うざい。しつこい。今の状況でまだ、私と仲直りできるとか思ってんのかな? だとしたら、本当迷惑だし、心底呆れる。
「私は見てのとおり、こういう人間だから。いい子じゃないし、大うそつきだよ。今さら私となにを話したところで、私たちの関係は……」
もどりっこない。そう言おうとしたとき、
「なんでそうやって逃げようとするの!?」
みやびが珍しく、強い口調で私の言葉を遮った。初めて声を荒らげたみやびに、私はごくっと息を呑む。
「亜子の言いたいことは分かるよ。私たちに亜子の気持ちは分からないって言いたいんでしょ。そんなの分かってる! だって私たち、他人同士なんだから。だから話そうって言ってるんじゃん!」
出た。優等生発言。そういうところがきらいだった。自覚ないのかな。ないんだろうな。
私は、深いふかいため息をついた。
「鬱陶しい……話したからってなにになるの? 分かり合えるとか思ってるわけ? ないよ。あり得ない」
「違うよ」
「じゃあなに? 私はクズだって、自覚でもさせたいわけ?」
みやびを睨むと、彼女は少し考えて、頷いた。
「どちらかと言えば、そうだよ。亜子はクズだと思う」
「はっ?」
まさか肯定されるとは思わず、私は困惑する。
「私と茉莉奈ちゃんも、さっきお互いをクズだって認め合ったとこだから」
「意味分かんないし……」
私は言い捨ててふたりから背を向ける。すぐさまみやびに腕を掴まれた。
「私は、嫉妬とか妬みとか、そういうのぜんぶ当たり前の感情だと思うよ!」
足を止める。
なに言っているんだろう、あの子は。
私はひどい。最低な人間だ。じぶんで自覚もしている。なのに、私はふつう? なにそれ。
「んなわけないじゃん。私は」
振り返りながら、叫ぶ。
私は最低な人間だ。クズだ。それも自覚するほどの。
「私、なんとなく分かってたから。亜子が私といる理由」
「え……」
私は顔を上げ、私の言葉を遮ったみやびを見つめる。目が合うと、みやびはなぜか申し訳なさそうな顔をしていた。
「……ねぇ、亜子。ひとつだけ、聞かせて」
「……なに?」
「亜子は、私のこと、好き?」
「え……」
言葉につまる。
答えられるわけがない。だって私は、みやびを利用した。それに、たとえ好きだと言ったとして、今さら信用してもらえるわけがない。
黙り込んでいると、私を掴むみやびの手が微かに震えていることに気付いた。
「私は、亜子が好きだよ。優しいし、可愛いし」
「……なに、いきなり。なんの慰め? さっきの話、聞いてたよね? 私は一軍にいたいからみやびに声かけただけ。好きとか、そんな……」
ぶっきらぼうに言うと、みやびが泣きそうな顔をする。私は視界を潰して、その表情から目を逸らす。
あーぁ、泣いちゃった。でも、ごめんね。これが本心だよ。私はこういう人間。
「裏アカで……私の悪口言ってたって、ほんと?」
息が詰まった。
もし今、違うよ、と誤魔化したら、私のしたことは許されるだろうか。なかったことにできるだろうか。
有り得ない。みやびはぜったい、私の裏アカを確認している。履歴をぜんぶ見たはずだ。
なら、なんでこんな分かり切った質問をするのだろう。本音を言えってこと? 私の、本音を。でも、そんなことをしたら、彼女を傷付けるのは目に見えている。たとえうそでも『違う』って言ったほうが、きっと、彼女のためにも、私自身を守るためにもいいはずだ。
「……本当」
頭の片隅でそう思いながらも、私の唇は本音を告げた。
「……そっか」
みやびは俯いてしまった。みやびが私から手を離す。離れていく手をなんとなく私の目は追いかける。
ほんの少し、期待していた。謝れば、元通りになれるかもって。そんなこと、有り得ない。今さら謝ったところで、なんの意味もない。無駄。
……だけど。
「……ごめん」
彼女の顔を見て初めて、私は、じぶんがしたことを理解した。
後悔、した。涙があふれた。
「ごめん、私……みやびに、めちゃくちゃひどいこと……」
本当は、ずっと思ってた。心のなかで、ずっと、ごめんなさいを繰り返していた。でも、変わらなかった。変わるのが怖かったのだ。だから逃げていた。
「亜子」
みやびが不意に、私の手を強く引いた。まっすぐ私の目を見つめて、
「いいよ。私もそういうこと、したことあるから分かる。それで、じぶんをきらいになったこともあるし」
みやびが私の涙を拭う。けれど、一度堰を切った涙は、もう止まらない。
「大丈夫。亜子だけじゃない。私も同じ。私もクズだよ。……私、分かってる。亜子は私を傷付けたかったわけじゃなくて、じぶんの居場所を守ろうとしただけだったんだよね」
私は嗚咽を漏らしながら頷いた。
「うん……大丈夫、分かってるよ」
優しく諭してくるみやびに、私は、ごめん、と何度も繰り返す。しばらくして涙が落ち着くと、私はみやびの背後に立っていた月宮さんに目を向けた。
「月宮さんも、裏アカでひどいこと言ってごめん。それから……虐待のことも、大勢の前であんな……最低なことした。本当にごめんなさい」
月宮さんを見ると、彼女はどこか気まずそうに私から目を逸らした。
「……べつに。あたしも言ったし、お互いさまじゃない」
ぶっきらぼうな態度に、私は目を伏せる。この反応は正しい。
彼女は私を、ぜったいに許せないだろう。私なら許さない。それくらいひどいことをした自覚がある。
彼女が隠していた秘密を無遠慮に晒し、ネットに拡散した。私がいくら投稿を消しても、アカウントを消しても、ネットに上がった情報は二度と消えない。私たちが死んでもなお、拡散され続けていくのだ。
私は、ひとのプライバシーを、そういう場所に流した。殺されてもおかしくないことをした。
重い沈黙が落ちて、気まずさに私は一歩下がる。
「私……バスに戻るね。もう遊ぶ気分でもないから。ふたりは、楽しんで」
そう言ってふたりから離れようとしたとき、月宮さんが「待ちなよ」と私を引き止めた。
「……あのさぁ、なんか勘違いされてるみたいだから言っておくけど、あたしは、あんたが間違ってるとは思ってないよ」
月宮さんは眉間に皺を寄せて、ぶっきらぼうに呟いた。
「社会で上手く生きるには、あんたのほうが正しいんだろーし。さっきのは、ただの八つ当たり。だからあたしも、ごめん」
まさか月宮さんのほうから謝られるとは思わず、私は驚きのあまり、
「あんたって、謝れたんだ?」
と、つい言ってしまった。
「はぁ?」
すると、ものすごい形相で睨まれた。緩んでいた涙腺が一瞬にして、きゅっと引き締まる。
「ご、ごめん」
「マジで失礼」
「……だよね。月宮さんに言われて、ホント痛感してる」
私は自嘲気味に笑う。自己嫌悪でいやになる。
私は、昔からずっと、こういうじぶんがきらいだった。だれかをバカにして、蔑んで。そうしていなきゃ、じぶんの心を守れない弱いじぶんがだいきらいだった。
自覚しているのに変われないじぶんに腹が立った。
「ふたりみたいに強く生きられたら、よかったなって」
月宮さんみたいにひとりでいいって割り切って生きられたら。
みやびみたいな圧倒的な可愛さがあったら。
ううん、きっと、私が私でさえなかったら、今よりは楽に生きられたんだろう。私は私である限り、私を好きにはなれないから。
「は? だれが強いって?」
月宮さんが眉を寄せた。
「ずっと思ってたんだけど、あんたのそのじぶんだけが辛いみたいなノリがムカつくのよ。みやびだっていろいろあるし、あたしだってべつに強くないから」
いつもの彼女より、感情が滲んだ声だった。
月宮さんはふだん、ぼそぼそと相手を考えないしゃべりかたをする。けれど、今日だけはやけに声がよく通る気がする。なんでだろう。
「あたしがひとりでいるのは、だれも信用できないからってだけだし」
「……そうなの?」
「あたし、ちっちゃい頃誘拐されてるから」
言葉が出なかった。
「……え、誘拐って」
かろうじて、声を絞り出す。
「まぁ、未遂だったんだけどね。母親といるときに、駅で」
私の耳に届いたその二文字は、とても現実的な響きを持ってはいなかった。
言葉は知ってる。ドラマやニュースで何度も見たことがある。でも、まさかその被害者が、目の前にいるなんて、だれが思うだろう。
驚愕のあまり、にわかには信じがたい。みやびも私と同じく、言葉を失くしている。どうやら彼女も初耳だったようだ。
「駅のロータリーの隅だったかな。母親にここで待っててって言われて、あたしはひとりで待ってた。でも、母親はぜんぜん戻ってこなくて。そのうち、知らない男のひとに声をかけられた。あっちでお母さんが待ってるから、行こうって。あたしは素直について行った。なんとなく危ない気はしたけど、そのままついてった」
「なんで……?」
「なんで? そうね。だって、幼い少女にとってそのひとは、初めてじぶんを必要としてくれたひとだったから?」
じぶんの過去を話しているのだというのに、月宮さんはまるで他人事のような話しかたをする。
「だけどね、誘拐は実現しなかった。車に乗せられそうになったとき、親切な女のひとが助けてくれちゃったんだよね」
「くれちゃったって……そんな言いかた」
みやびが戸惑いの眼差しを月宮さんに向ける。
命の恩人に対する言動とは思えない。だって、月宮さんの言いかたではまるで、助けてくれたそのひとのことを憎んでいるようだ。
「……そのひとに、感謝してないの?」
私が訊くと、月宮さんはふっと笑った。
「感謝? するわけなくない? だって、助かったそのあとから、虐待が始まったんだから」
一瞬にして、テーマパークの音が止んだような錯覚に陥る。重い沈黙が降りた。
月宮さんは、私のこともみやびのことも見ていなかった。どこか遠くの一点を見つめたまま、淡々と続ける。
「中学生になったら母親は男を作って出ていって、以降は父親にも虐待されて。それが原因で父親とは引き離されて。そのあとはずーっと、親戚の家をたらい回し。最終的には叔父が持ってるアパートに押し込められて、今に至る」
いつもならみやびがなにか言ってくれそうなものだったが、みやびはなぜか黙り込んでいた。だからじゃないけど、私が言うしかなかった。
「でも、もし誘拐されてたら、今頃どうなってたか分かんないよ」
言っていいことなのか分からなかったが、ほかに言葉が見つからなかった。
私の言葉に、月宮さんは乾いた笑みを浮かべる。
「分かってるよ、そんなの。もしあのまま誘拐されてたら、あたしはたぶん殺されてた。……そんなことは、考えなくても誘拐のニュースを見てれば分かる。だけどね、それでもあたしは、あのとき誘拐されていれば、お母さんに捨てられずに済んだんだよ!」
いつもなにごとにも興味を示さなかった月宮さんが、初めて感情を剥き出しにした。
「あのまま誘拐されてれば、お母さんはあたしを愛してくれたかもしれない。あたしを探そうとしてくれたかもしれない」
見開かれた目には水の膜が張っている。月宮さんは、泣いていた。
「あたし、分かってた。お母さんがロータリーにあたしを放置したのは、あたしを捨てるつもりだったからだって。でも、誘拐騒ぎが起きたから戻ってきたの。保護されたあたしを迎えにきたあのひとの絶望した目が、今も忘れられない」
あたしは、あの瞬間に死んだの。そう話す月宮さんの声は、震えていた。
彼女が黙ると、途端にパークの賑やかなメロディが耳につく。私もみやびも、なにも言えない。ただ彼女を見つめることしかできなかった。
「……だからあたしは、あたしを助けたあの女が憎かった」
あの女とは、誘拐に気付き、阻止してくれた女性のことなのだろう。
「あの女は、あたしを助けたことを誇りに思ってる。警察に表彰されて、取材されて、あたしにも感謝されてると、当然のように思ってる」
月宮さんは憎々しげに呟く。
当たり前だ。幼い女の子を誘拐犯から救った。立派なことだ。私がその女性であったなら、同じく誇りに思うだろう。
「助けるだけ助けて、そのあとは放置のくせに、なにが英雄? あたしは、そのあとのほうがずっと苦しかった! 捨てられて、殴られて、そんなふうに生きるなら、誘拐されて可哀想な子として死んだほうがずっとよかった!」
月宮さんは基本、ふだんだれとも会話をしない。最近はみやびが声をかけるから声を聞くようになったけれど、それまではだれとも、挨拶すらしていなかった。彼女のこんな声、聞いたこともなかった。
ふと、月宮さんがみやびを見た。
「ねぇ、さっきあんた、聞いてきたよね。なんであたしがいつも、ひとりでいるのかって。さっきは気楽だからって言ったけど、あれはうそ。あたしがひとりでいるのは、ひとがきらいだから。男にいい顔してるのは、そうしていれば殴られないって知ってるから。本当は、男も女もだいっきらい。機嫌が悪くなるとすぐ殴ってくる、あんな奴ら……視界に入るだけで反吐が出る」
黙り込む私たちにかまわず、月宮さんは続ける。
「あたしは、さんざん殴られて、死にかけながら生きてきた。本気で死にそうだったことも、いっそこのひとたちを殺してしまおうって思ったこともある。ナイフを持って、部屋の前まで行ったこともある」
月宮さんの本音は、まるで呪詛のようだった。
「でも、できない。怖くて足が震えて、心から殺してやりたいのに、できないの……」
これまで私は、いろんなひとにいろんな言葉をぶつけられてきた。嬉しい言葉にも、いやな言葉にも、心を抉られてきた。だけど、それらはすべて、私に向けられた言葉だった。
月宮さんの言葉は、私へ向けられたものではない。それなのに、月宮さんの本音は、苦しいくらい、私の胸を突き刺した。
「あたしは、あんたたちの人生がどうとか知らないし、興味もない。だけど、あんたたちの価値観であたしがぬるく生きてきたって言われるのは、ムカつくからやめて」
月宮さんは言葉を切り、無表情のままみやびへ目を向けた。月宮さんに見つめられたみやびは、戸惑うように目を泳がせる。
「みやびはさ、バスのなかであたしが困ってるひとに声をかけてたから仲良くなりたいと思ったって言ってくれたよね。でも違う。あたしはあのとき、黙ってらんなかっただけ。ひとこと言ってやりたかったんだ」
あたしは、誘拐未遂以降母親からずっと、あんたさえ産まなければって言われ続けてきたから。そう、月宮さんは、憎々しげに眉を寄せて吐き捨てた。
「産んだのはあんた。産むって決断したのは、あんたでしょ。だからこの子はここにいる。子どもは勝手にはできないし、生まれてもこれない。ぜんぶ、あんたが選択したことなんだよ、って」
「…………」
私たちはなにも言葉を返せないまま、呆然と月宮さんを見つめた。
「あたしがあの親子を助けたのは、母親にムカついたから。それだけ。ぜんぜん、善意なんかじゃない。期待を裏切っちゃって、ごめんね」
月宮さんはみやびに向かって、静かな声で言った。
「……ううん」
みやびは首を振り、月宮さんを見つめ返す。
「茉莉奈は、なにも裏切ってないよ。私……あの場ではね、お母さんが心配っていうより、バスのなかの張り詰めた空気が怖かったんだ。だから、とてもあの親子に声をかけようなんて思えなかった。でも、茉莉奈は違った。ちゃんとふたりの助けてって声に気付いた。その動機がたとえムカついたからだったとしても、それで結果的にあの親子の心を救ったんだったら、それって、やっぱり善意だと私は思う。あれが、茉莉奈なりの善意なんだよ」
テーマパークの華やかな音楽のなかでも、みやびの声はやけに正確に私たちの耳に響く。
月宮さんは戸惑いがちに視線を泳がせてから、ふんっと鼻を鳴らした。
「……みやびって、本当にお人好しだよね」
月宮さんの頬は、ほんのり赤らんでいた。こっちもこっちで珍しい。月宮さんは、みやびの前ではわりかし素直だ。私の前だと文句ばっかりなのに。
いや、なんで。私の前でもそうなりなさいよ。
「この際だからさ、みやびも言ってやったら? 美人だから楽して生きてきたって思われるの、いいかげん腹立つでしょ」
「え……」
みやびが一歩後退る。
「言ったところで、なにか変わるかって言われたらなんにも変わらないけど。でも、少しはすっきりするかもよ」
みやびは少し考えてから、口を開いた。
「……私は」
みやびは言いかけて、けれど苦しげに唇を引き結ぶ。ためらっているらしい。
「私は……亜子が言うとおり、いつも明るいグループに入ってたと思う。でも、私はそこに居場所を感じたことなんてなかった。男女仲良いグループだと必ず女子にきらわれたし、男子が原因で反感買うことも多くて。仲良くしたいと思った子が大人しい子だと、仲間に入れてもらえなかったりもしたし」
みやびの声が震え出す。
「でもきっと、私は亜子とか茉莉奈の悩みに比べたら、私は生ぬるい学校生活を送ってる。だから、このくらいのことは我慢しなきゃって、愚痴っちゃダメだってずっと思って、感じた違和感も、悪意もぜんぶ気付かないふりして、流してきた」
でも、本当は、ずっと寂しかった。
そう言って、とうとうみやびは泣き出した。
「ねぇ、亜子。……私ね」
つられるように、私も涙が込み上げてくる。
「私……昨年、ほんとはクラスで仲良い子がいたんだ。その子は、アニメとか漫画が大好きな子でね。一緒にいて、すごく楽しかった。大好きだった。……でも、クラスが打ち解け始めてきたら、私のまわりには派手な感じの子たちが集まり出しちゃって。そうしたらその子、私を避け始めたの。それでも私は疎遠になりたくなくて、思い切って話しかけたんだ。でも……話しかけないでって言われちゃって」
みやびは悲しげに目を伏せる。
「……私、なんでよって思っちゃったんだ。それで……つい、その子の悪口をみんなと一緒に言っちゃった」
「みやび……」
みやびの声には、やり切れない後悔が色濃く滲んでいた。
「その子のこと、きらいだと思った。だけど私、本当はただ悲しかっただけなんだ。私は彼女のことを本当の友だちだと思ってたのに、彼女はそうじゃないって分かって、悲しかったの。彼女だけじゃない。みんな……私のことは見てくれない。みんなが好きなのは、私のステータスだけ」
否定できなかった。
私はみやびを抱き締めた。
……初めて知った。
完璧だと思っていたみやびにも、悩みがあった。なにごとにも動じないと思っていた、月宮さんにも。ふたりだからこその悩みが。
私たちは同じじゃない。生きてきた環境も、考えかたもぜんぜん違う。違うのが当たり前。
ふう、と息を吐く。
それぞれしばらく海を眺めた。沈黙のなか、私は呟く。
「……青春って、なんなんだろうね」
「青春って、殺し合いだよ。自我の殺し合い。だって、どれだけ辛くても逃げ出せないんだもん。逃げたら負けって言われる。笑われる」
だから私たちは、殺し合うしかない。じぶんの居場所をかけて、相手を殺すしか、生き残る道はない。だからみんな、武器を持つ。そして、相手に剣を向ける。相手が好きとかきらいとか、そういう理由ではなく、じぶんを守るために剣を向けるのだ。
「……うん。そうだね」
紛れもなく、私たちは殺し合った。そして、全員、死んだ。それぞれ、殺された。そう思う。
私には、ふたりの苦しみは分からない。飛び抜けた美人でもないし、誘拐されたことも、親に殴られたこともないから。
……けれど。
「……私……みやびから離れてった友だちの気持ちなら分かるかも」
「え?」
呟くと、みやびが私を見た。
「みやびは可愛いから、いっしょにいるといやでも目立つでしょ。目立ちたくない陰キャにとっては、みやびといることで陰口を叩かれるんじゃないかって怖かったんだと思う。だからその子は、みやびがきらいでそういうことを言ったんじゃないと思うよ」
「そう……なのかな」
少なくとも、私はみやびといるときはいつだって緊張していた。だからたぶん、その子も同じだったんだと思う。みやびのことは好きだけど、ずっといっしょにいるのは、周りの目が怖くて疲れる。そんな感じ。
「その子はたぶん、じぶんを守ることで精一杯だったんだよ。陰キャにとって学校は、常に崖の淵に立たされているようなものだから」
みやびの目が潤み出す。
「そう……なんだ。……そっか。じゃあ、心のなかでは彼女も、私といっしょにいたいって思ってくれてたかなぁ……」
「……うん。私は打算でみやびに声をかけたけど……きっとその子は違う。その子はただ、みやびと仲良くなりたくて声をかけたんだと思うよ」
慰めの気持ちが半分。そして、もう半分は私の本音だった。
みやびは唇を噛んで俯いた。そのまま小さく頷く。
「……すごいね。こんな救われかたもあるんだなぁ……」
私は、本音がみやびに伝わったことを嬉しく思った。しばらくして顔を上げたみやびは、涙を流しながら笑っていた。
「ありがとう、亜子」
お礼を言うみやびに、私は首を振る。
「私こそ、今まで私といっしょにいてくれて、ありがとう」
言いながら、泣きそうになる。
ほんの短い時間だったけれど、みやびと過ごした時間はかけがえのないものだった。もう元の関係には戻れない、今だからそう思えるのかもしれないけれど。
「今までって、なにそれ。これからもいるでしょ」
みやびが笑った。
「え……」
私は固まる。
これからも?
「だって亜子、私と茉莉奈以外に友だちいる?」
みやびらしからぬ発言に、私はぎょっとした。直後、月宮さんが噴き出す。キッと睨むと、月宮さんは素知らぬ顔で顔を逸らす。ムカつく。
「たしかに。あたしたちにまで見捨てられたら、明日からあんた、ぼっち飯確定だもんね。今やあたしよりきらわれてるんじゃない?」
「はぁ!? そんなことないし」
自信ないけど。
「昨年仲良かったトモダチにもブロックされてるのに?」
ウケる、と月宮さんは意地の悪い笑みを浮かべる。
痛いところを突かれた。それを言われたら、私はもうなにも言えない。
私は今、桃果にもブロックされてしまっている。裏アカで悪口を呟いていたことが、バレていたのだ。というか、こいつにバラされたのだった。ちょっと待って。さっき、じぶんの行動を反省したところだったけれど、なんだかんだこいつも最低なことをしてるような。
「あぁ、もう……」
――月宮茉莉奈。
マジでムカつく。なんでこいつ、こんなに性格悪いの。でもそれを言ったらぜったい、あんたのが悪いでしょ、って返されるだろうから、言わない。
「……ねぇ、ひとつ聞きたいんだけど」
私は月宮さんを見る。
「月宮さんは、なんで私につっかかってきたわけ?」
思えば出会いから、こいつは私にだけ態度が悪かった。
月宮さんは少し考える素振りをしてから、平然と言った。
「ムカついたから」
「はぁ?」
「だってあんた、周りの空気に敏感なくせにひとに興味なかったでしょ。いっつもじぶんのことばっかで」
「そんなことないよ」
私は月宮さんを睨んだ。しかし、月宮さんは涼しい顔で私を見返してくる。
「あんたがあたしにした質問、ぜーんぶ上っ面だった。だからムカついたの。偽善者っぽくて」
否定はできなかった。
彼女の言うとおりだ。
私は、月宮さんにぜんぜんキョーミなんてなかった。彼女への質問や会話は、場を持たせるため。相手や周りにいい印象を抱かせるため。引いてはじぶん自身のためだった。
これまで、ずっと彼女の返事に態度が悪いと思っていたけれど、彼女は私の本心を感じとって、拒絶していただけだったのかもしれない。態度が悪かったのは、私のほうだったのだ。
……って、いや、違う。
「私は偽善者じゃない!」
「あたしがそうって言ってるんだから、客観的に見たらそうなのよ」
「うるさい。違う、訂正して!」
「あたしの考えはあたしのもの。なんであんたに正されなきゃいけないわけ? ぜったいイヤ」
ぴしゃりと言われ、私は悔しくて奥歯を噛む。
「ムカつく……ほんと、あんたって性格悪い!」
言ってから、しまった、と思う。言ってしまった。月宮さんがまたにやっとする。
「残念だけど、あんたには負けると思うわ」
ドヤ顔で言い返された。ほら、ぜったい言うと思った。
「ねぇもう、ふたりってば。いつまで喧嘩してるの? そろそろなんかのアトラクション乗りに行こうよ!」
みやびが私と月宮さんの腕を引く。
「えーあたし並ぶのやなんだけど」と、月宮さん。
「じゃあチケット買えばいいじゃん」
わざと私が言うと、
「お金ないからムリって言ってんじゃん。あんた、バカなの?」
月宮さんはやっぱり言い返してくる。
「じゃあ、どこか入る? レストランとか! お腹減ったし」
優しいみやびが助け舟を出すが、それでも月宮さんは仏頂面。
「だれが出すの」
「は?」
「お金。だれが出すのよ」
「各々じぶんに決まってんでしょ!」
なに言ってんの、こいつ。バカなの?
「えー……」
まさかこいつ、おごってもらう気だったわけ? 有り得ない。
「あんた、いいかげんにしなさいよ」
「はぁ? なにが」
「わがままにもほどがあるって言ってんの。少しは協調性を持ちなさいよ」
すると、鼻で笑われた。
「あんたが言う?」
「言っておくけど、私はあんたよりは協調性ありますから」
「ふん。どーだか」
「ぜったいあるから!」
「じゃあ、アトラクション並んであげるかわりに、あんたのスマホ貸しなさいよ」
私は眉間に皺を寄せて、月宮さんを見た。
「……いや、じゃあの意味が分からないんだけど」
「いいじゃん。あんたそれ、さっき捨てようとしてたでしょ。ほら早くしてよ――亜子」
「はっ?」
今、名前。ツッコもうとしたけれど、じっと目を見つめられ、私は黙る。
「……なんで?」
スマホもだけど、名前も。
「裏アカ、消してあげるの」
「……いや、だからなんで?」
再び私は訊ねる。
「あんた、バカなの? あんなところで愚痴吐いてるから、こうなったんでしょ。言いたいことがあるなら直接言いなさいよ」
そんなの分かっている。だけど、言えたら苦労なんてしない。それに、
「あんたのここが好きとかきらいとか、そんなの、いちいち言われても困るでしょ。ウザいし」
それについては月宮さんも「まぁね」と頷いて同意した。
「でも、ぶつかれば、多少は相手の考えてることは分かる。だからあたしは、できる限り付き合うひとの本音は知りたい。本音を教えてくれないひととは、話したくない」
月宮さんの言葉に、みやびも頷く。
「……私もそう思う。私もね、今回のことで気付いたんだ。じぶんを受け入れてもらえるかは、自分をさらけ出さなきゃ分からないんだって」
そうかもしれない。
「……でも、それで受け入れてもらえなかったら?」
私は小学生のとき、受け入れてもらえずにいじめられた。赤の他人ばっかの世界で、ありのままのじぶんでいるなんて不可能だ。私はそう思う。
「たしかにそう。でも、亜子。その裏アカで愚痴を吐くたび、亜子はどんどんじぶんを許せなくなっていくんじゃない? まわりと比べて、相手を蔑んで、なんとかじぶんの心を守っても、そういうのって終わりはないよ。どんどんエスカレートしてくよ。……私、思うんだ。亜子はべつに、だれにも責められてなんかなかった。亜子を責めてたのは、亜子自身だよ」
ハッとした。思いもしなかった。責めていたのは、じぶん自身。
私は、みんなと違うじぶんがきらいで、だからこそじぶんを偽って、輪のなかに入れるように努力してきた。
でも、みんなと違うと言ったのは、だれ?
だって私は、努力しても人並み程度。いくら頑張っても、ダントツにはなれない。
こんな私に、生きてる意味なんて……って、いつも思っていた。
でも。そんなこと、だれに言われた?
言われていない。
私は何者にもなれない。何者でもない。
いつからか、勝手にそう思い込んでいた。
じぶん以外のみんながきらきらして、眩しすぎて、私は私に、気付かないうちに呪いのようなものをかけてしまっていたのかもしれない。
「まーね。それはたしかに、勘違いするのも分かる。特にSNSって、そーゆうのあおってるとこあるし」
だいたい、SNSやってるヤツって全員病んでるから。と、月宮さんは鼻で笑う。
たしかにそうかも。ちょっと笑える。
「私……変じゃないかな。私もみんなみたいに……ふつうに青春して、いいのかな」
「当たり前じゃん」
みやびの優しい笑顔に、心が揺れる。
「どの道、落ちるとこまで落ちたしね、あたしたち全員。今さらバレて困るものとか隠しごととかもはやないし。言いたいことバンバン言い合ってるし。SNSの意味よ」
「それはそうだけど……」
「周囲の人間全員に本音を言えなんて思わない。あたしだってそんなのムリだし。でも、あんたらならまあいっかって、思う」
まあいっか、って。
「なに、その妥協しましたみたいな言いかた。ムカつくんだけど」
「仕方ないじゃん。だってそうなんだもん。あんたもそうでしょ。だからほら、スマホ貸しなさい」
「…………」
私はじぶんの手のなかにあるスマホに視線を落とす。
機械の無機質な硬さが手に伝わってくる。
裏アカ。私の唯一安らげた居場所。
私はスマホを開く。
電源を付けると、とんでもない量のコメントやいいねが荒波のように押し寄せてきた。
ぜんぶ、私を侮辱するものだ。ぜんぶ、これまで私がしてきたことへの報い。
これらはたとえ私がひとつ残らず削除したとしても、ネットの海のなかで、永遠に残り続けて、私を侮辱し続けるのだろう。私が投稿してきた悪口と同じように。
心が暗くなる。涙で視界が滲み出して、鼻をすすった瞬間、月宮さんが私から、スマホをひったくるように奪った。
「気にすんな。こんなの、目に入れなきゃなんてことない」
そして、月宮さんは、あっさりアカウントを削除し、続けてアプリまでもを消去する。
「えっ、ちょ、そんなあっさり!?」
「は? アカウントとアプリ消すのにあっさりもなにもないでしょ」
「もう少しためらったりしなさいよ!」
「うるさい」
「ったくもう……」
ムカつく。
けど、ちょっとホッとしてるじぶんがいる。
憑きものが落ちたような、肩の荷が降りたような、なんか、不思議な気分だ。
ずっと不満だった。
どうして私は私なんだろう、と。
きれいな母親から生まれるひと。
裕福な家に生まれるひと。
私はどちらでもなくて、平凡で、むしろ、弱者のほうで。
いつもだれかを見ては憧れて、勝手に自信を失くして、じぶんを責めては膝を抱えていた。
……でも。
それはただのないものねだり。
悩みがないひとなんて、いない。
みんなが私にないものを持っているように、私にだって、みんなにないものがあったんだ。
今でも後悔ばかりで、じぶんのことをとても好きになれそうにはない。
でも、それもきっと私を作る上で必要なもの。
ときにぶつかって、ときに間違って、立ち止まっては、また一歩進む。
私は地獄を生きている。
みんなと違う私で、生き抜いてみせる。
ふたりといっしょに。
さて、問題です。
次の□□に入る言葉はなんでしょう? 正答だと思う言葉をひとつ書きなさい。
問一:青春とは、□□である。
正答:青春とは、『道中』である。