明莉の誕生日パーティーから戻ると、澄香はどこかにしまい込んだままのスケッチブック――やはり絵が趣味であった明莉の『お下がり』である――を必死に探した。
 無事これを見つけ出すと、少女は自分を救ってくれた麗しの君を忘れたくないとばかりに、一心不乱に青年の姿を描き始めた。

(美しい黒髪は、耳から肩にかけて流れるようなラインを描いていたわ。そして黒曜石のような瞳は、そう、大きなアーモンドのような形! 唇はどうだったかしら……)

 青年の姿を思い起こしながら絵にしていくのは、澄香にとって、とても幸せな時間だった。

(もう一度お会いできたなら、ぜったいにお名前をお尋ねしよう)

 再会の日を夢見ながら、澄香は夢心地で鉛筆を走らせるのだった――。



「ちょっと、いつまで寝てんのよッ! さっさと朝餉(あさげ)の支度、手伝いなさいよッ!」

 翌朝、明莉の金切り声で澄香はハッと目を覚ました。昨夜、どうやら青年の絵を描きながら眠ってしまったようだった。

「も、申し訳ございません! ただ今すぐに!」

 大急ぎで台所に向かうと、使用人のタキが冷たい視線を投げかけてきた。

(――ったく、無能のくせに朝寝坊するだなんて! おかげで私の仕事が増えちゃったじゃないの!)

 タキの心の声が、波のように澄香に押し寄せてきた。

「……え……」

 その場に凍りつく澄香。

「――いえ、昨晩のパーティーでお疲れでしたよね」

 タキは口角を上げて微笑むように答えるも、その目はまったく笑っていない。

(無能の役立たずが明莉お嬢様のパーティーに参列したって、橘花(たちばな)家の恥をさらすだけなのに! だったら床の雑巾がけでもしておいてもらいたかったよ!)

「あ……」

 タキから発せられる悪意の波が次々と押し寄せてきて、澄香はめまいを起こし、その場にしゃがみ込んでしまった。
 タキはすぐに駆け寄り、大丈夫かい? と顔を覗きこんできた。その声には優しさがこもっているように感じられた。

「すみません、ちょっと立ち(くら)みがして……でも、大丈夫です」

 澄香はそう言って、タキに微笑みかけた。しかし、その瞬間――。

(おいおい、余計な仕事を増やさないでおくれよ! これだから、無能は……)

 再びタキから悪意に満ちた感情が流れてきた。

(これは……一体どういうこと……?)

 澄香は恐ろしくなり、タキを手の平で押し返すと(きびす)を返して部屋に戻った。少女には、自分に何が起きているのか、まったくわからなかった。

 頭から布団をかぶりガタガタ震えていると、ドンドンと乱暴に床を踏みつける足音が近付いてきた。

「ちょっと! 朝餉の支度をしないばかりか、女学校まで欠席するつもりかい! そんなズル休みをするくらいなら、学校なんて退()めておしまいっ! ただでさえ、無能のオマエを学校に通わせる義理はないっていうのにっ!」

 ヒステリックに叫ぶ継母――橘花明美の声が、ふすま越しに響き渡った。

(……このまま家にいるよりは、外の空気を吸った方がマシね)

 澄香は観念してゆっくりと起き上がると、髪をひとつに束ね、色褪せた着物に袖を通した。

 澄香は、皇都では指折りの老舗呉服店、『橘花屋』の長女として生まれた。『橘花屋』では代々、霊力をもつ子供が誕生しており、その恩恵もあって、長年に渡り帝や政治・経済界のトップ層家庭の御用達(ごようたし)店という地位を確固たるものにしてきた。
 ところが、澄香は霊力をもたずに生まれてきた。実母はたいそう責任を感じ、しまいには心を病んでしまい、澄香が二歳を迎える少し前に自ら命を絶ってしまったのだった。

 父は妻を亡くした悲しみに暮れるどころか即座に明美を(めと)り、すぐに明莉が生まれた。澄香と明莉は二歳しか離れていないことから、父は澄香の母と婚姻関係にある間に明美と関係をもっていたことになる。澄香はそんな父親のことを嫌悪し、憎んでいた。

 霊力をもたずに生まれた澄香は、今日まで父からも、継母の明美からも、そして異母妹の明莉からも『無能』と(さげす)まれ、(しいた)げられてきた。
 明莉の誕生日には毎年、豪奢(ごうしゃ)な洋館を貸し切って盛大なパーティーが開催されるが、澄香の誕生日にはパーティーはおろか、「おめでとう」の一言が贈られたこともない。
 それどころか、事あるごとに『なぜこんな無能が我が橘花家に生まれてきたのか! ええい、忌々しい!』と両親から折檻(せっかん)されることも少なくなかった。

 明莉も明莉で、六歳になると『無能と一緒に食事をすると、無能が伝染する!』と騒ぎ出し、澄香は自室でひっそりと食事をするしかなくなった。
 そしてその二年後、澄香は『明日からは毎日、おタキと一緒に家族の朝餉と夕餉をこしらえてちょうだい!』と明美から命じられた。

「おタキもいい歳だからねぇ。まったくあんたって子は気が利かないね! 無能なんだから、せめて食事の準備くらい手伝うと自分から言いだしたっていいようなものなのに! まぁ、無能だから、仕方ないか」

 明美はそう言うと、毒々しい色で塗られた指先を満足そうに眺め、夜の街へと出かけていった。

 (うと)まれ、虐げられ、寂しい子供時代を過ごしてきた澄香だが、学校の勉強がよく出来たことから、女学校に通うことについては両親からしぶしぶではあるが許可をもらえた。

「何の役にも立たない無能なんだから、せいぜい学校の勉強くらいまともにやって、生きていて恥ずかしくない程度の人間にはなりなさいよね」

 初登校の朝、玄関で草履(ぞうり)を履いている澄香に、明美はフフンと鼻を鳴らしながらそう告げたのだった。

 明莉も澄香と同じ女学校に通っているが、その通学手段や装いには大きな格差がある。
 明莉はその日の天候や気分に合わせて、人力車か自転車を選ぶことができる。
 老舗呉服店の娘らしく、明莉は薔薇(ばら)やチューリップ、スイートピーなどの西洋の花が描かれた最先端の着物をたくさん所有している。こういった高価な着物で華やかに装いたい日には、明莉は人力車を選択する。
 そして、女学生たちのあいだで大流行中のコーディネイト――矢絣(やがすり)柄の小袖(こそで)に海老茶色の女袴(おんなばかま)を合わせ、足元は編み上げブーツ――を楽しみたいときには、自転車通学を選んでいる。

 一方の澄香にあてがわれているものはといえば、店に展示しているうちに色褪せたり汚れがついてしまった着物や、時代遅れになったデザインの着物ばかりである。
 両親からは人力車どころか自転車すら用意してもらえず、雨の日も強風の日も澄香は片道三十分以上かけて歩いて通学している。

「着物を着て自転車になんか乗ったら、それこそ裾がめくれてしまってみっともない姿になるわ。だから徒歩でいいの」

 今も澄香は、そう自分に言い聞かせるようにして歩みを進めている。
 ただ、今朝の台所での出来事にショックを受けたためか、頭に鈍い痛みを感じていた。
 少しだけ立ち止まり息を整えていると――。

「ちょっと、邪魔よ! どいてくださる?」

 後方から高飛車な声が聞こえてきた。