僕と莉子は《《あの8月22日》》の深夜の事故を回避し人生をやり直す事が出来た。僕の身体は自由に動き、莉子の額に痛々しい傷痕もない。けれど離れ離れになる事は変えられなかった。結ばれる事はなかった。

「じゃあね」
「じゃあ」

 17:00の高等学校のチャイムが鳴り僕たちは握手をして別れた。もし何処かですれ違っても他人のままでいようと指切りをした。

ゆびきりげんまん嘘ついたら針千本のーます、指切った!

「針、千本買うのも大変だね」
「100円均一のお店を何軒回るかな」
「大量発注すればいいんじゃない?」
「なんだか怪しまれそう」
「だからもう会わないほうが良いんだよ」

 そう言って笑った。

 莉子の気配が消えた部屋の中は空虚でこんなに広かったのかと立ち尽くした。僕たちは何のために再会したんだろう。そんな事を考えているとインターフォンが鳴った。

「はい?」

 応答呼び出しボタンを押すとモニターには莉子が映っていた。時計を振り返ると20:00を過ぎていた。もう直也さんが自宅に帰っている時間だ。一瞬でさまざまな思いが交差した。

(もしかしたら、いや、まさかそんな筈はない)

 玄関ドアを開けるとそこには悲しげに笑う莉子が立っていた。

「どうしたの、こんな時間に」

 僕は慌てて莉子を部屋に入れようと背中に手を回し、その時気が付いた。見下ろした駐車場に見覚えのないシルバーグレーの車が駐車し、運転席の傍に男性が立っていた。男性は深々とお辞儀をした。その男性が直也さんである事はすぐに分かった。

「莉子」

 莉子はハンドバッグから見覚えのある指輪のケースを取り出し僕に手渡した。蓋を開いて見るとルビーの指輪が悲しげな色をして光っていた。

「これ、返しに来たの」
「莉子」
「この指輪は持っていちゃいけないの」

 ふと見ると右手の薬指には(いぶ)し銀のマリーゴールドの指輪が()められていた。

「それは、良いの?」
「これは思い出だから良いの、直也さんがそう言ってくれたの」
「直也さんが」
「うん」

 そう言って莉子はもう一度ハンドバッグに手を入れて英字新聞の紙飛行機と携帯電話を取り出した。

「これも返すね」
「うん」

 莉子は携帯電話の電話帳を開くと《《K》》の携帯電話番号を消して微笑んだ。蔵之介、僕の名前だという事は分かった。

「本当にお別れだね」
「うん」

 僕は心の何処かにずるい自分がいて、いつかまた莉子が会いに来てくれるのではないかと思っていた。莉子の頬には涙が流れ、踵を返すとエレベーターホールへと向かって歩き出した。振り返らない莉子はボタンを押した。喉の奥が詰まり目頭が熱くなった。エレベーターの扉に消える後ろ姿。僕は弾かれた様に部屋に戻り書類を裏返すとボールペンを握った。指先が震える、それでも力を込めた。

(莉子!)

 通路に飛び出して階下を臨くと、莉子は駐車場を横切って直也さんが開けた車の助手席に乗り込もうとしているところだった。僕は大きく振りかぶった。

「莉子!」

 僕の飛行機はひらひらと宙を舞い駐車場に落ちた。莉子が直也さんへ振り返ると直也さんは小さく頷いた。飛行機に駆け寄った莉子はそれをゆっくりと開き、頭の上で大きく丸を作った。その姿に18歳の莉子が重なった。


莉子 幸せになれ


 シルバーグレーの赤いテールランプ、黄色いウィンカーが点滅して視界から消えた。曇った夜空の隙間から星が見えた。僕と莉子は10年前の恋に終止符を打った。


莉子 幸せになれ


 僕はこの言葉を告げるために莉子と再会したのかもしれない。ベランダで黄色とオレンジのマリーゴールドの花が夜風に揺れた。


莉子 幸せになれ