私が帰宅するとリビングのカーテンの隙間から明かりが漏れていた。出掛ける時に電気を消し忘れたのかと慌てて玄関の鍵を開けるとそこには直也さんの黒い革靴が並んでいた。一瞬息が止まり心臓の音が耳に響いた。

(ーーーなんで、なんでこんなに早いの)

 ゴクリと喉が鳴った。

「た、ただいま」
「おかえり」
「直也さん、早かったんだね」
「莉子は遅かったね」
「え、その」

 リビングを覗くのが怖かった。

「ちょっと手洗いとうがいーーしよう、かな」
「済んだらちょっと来て」
「うん」

 直也さんの雰囲気がいつもと違う事は明らかだった。鼓動が早くなり指先が震えた。鏡に映った私の顔色は青ざめていた。直也さんは2階に上がるとすぐに下りて来た。リビングのソファが軋む音が聞こえた。恐る恐る覗くとそこには紙飛行機が入っているクッキー缶がテーブルに置かれていた。

(う、嘘)

 後頭部が殴られた気がした。直也さんはクッキー缶の存在とその在処(ありか)を知っていた。私は直也さんと向かい合って座った。緊張で喉が渇くのが分かった。

「悪かった」

 頭を下げたのは直也さんだった。

「俺はこの紙飛行機の事を知っていた」
「い、いつから」
「1年前、この家に引っ越した時に誤って床に落としてしまった」
「1年前」
「中身を見るつもりは無かった。ただばら撒いた紙飛行機に莉子の名前を見付けた興味本位だった」
「なんて書いてあったの」

「莉子、愛してる」

 直也さんはこの紙飛行機に気が付いていた。

「もう1枚開いたら、莉子 受験頑張れ そう書いてあった。文字も鉛筆で幼かったから学生の頃のものだろうと思った」
「知っていたの」
「知っていた、けれどただの思い出だと思ってなにも言わなかった」

 直也さんは両膝に肘を突くと手のひらで顔を覆った。そして絞り出すような声で話を続けた。

「骨董市に行ってから莉子の様子がおかしかった。ぼんやり考え事をしたり夜もうなされていた。泣いている事もあった」
「直也さん」

 直也さんは私の僅かな変化を感じ取っていた。

「それでついこれを開けて見た。如何してこれを見ようと思ったのか分からない。気が付いたらクッキーの缶を手に取っていた」
「ーーーー」
「見た事の無い紙飛行機が入っていた」
「それって」

 直也さんが私の顔を凝視した。

「英字新聞の紙飛行機だった。中は見ていない」
「ーーーー!」
「骨董市で《《その男と会った》》と思った」
「ーーーーー」
「だから遠藤さんにLINEした。莉子とは会っていないと返事があった」

(全部ーーーバレていた)

 妻の不貞が明らかになれば夫は激昂し叱咤する事だろう。けれど直也さんの目は穏やかで悲しい色をしていた。

「月曜日に会っていたのは《《雨月蔵之介》》さんなのか」

 蔵之介の名前も知っていた。私が頷くと直也さんは伏目がちになった。

「スポーツジムに通うというのは嘘だったんだな」
「ごめんなさい」
「この先ずっと会い続けたのか」
「わからない」
「そうか、わからないのか」
「うん」

 離婚を言い渡されるのだろうかと観念しきつく目を瞑った。ところが直也さんは私の手を握った。左手の薬指を見た。そこにはルビーの指輪が光っていた。

「莉子、選んでくれ」
「ーーーえ」
「あの紙飛行機を見た時からいつかこんな日が来るんじゃないかと思っていた」
「どういう事」
「怖かった。いつかその男が現れて莉子が心変わりをするんじゃないかと思っていつも怖かった」
「ーーーそんな筈ないじゃない」
「月曜日に行っていたじゃないか」

 なにも言えなかった。

「ーーー俺に隠れて会いに行っていたじゃないか」

 その悲痛な言葉は頬を叩かれるよりも痛かった。

「選んでくれ、俺とその男とどちらと生きていくのか選んでくれ」
「直也さん」
「選んでくれ」

 直也さんが泣く姿はいつ以来だろう、あれは結婚式で流した嬉し涙だった。

(直也さんを傷付けていた、直也さんはこんなに私を思ってくれていたのに)

 私は直也さんを抱き締めていた。