俺が「ただいま」と声を掛けると2階の寝室から声がした。その気配は慌ただしく《《なにか》》を片付け階段を駆け降りて来た。それは今にも足を滑らせるのではないかという勢いだった。

「おかえりなさい!」
「なに、寝てたの?」
「うん。運動したら疲れちゃって。ごめんね」

 莉子の表情からは明らかに焦りが見て取れた。

「それで?ジムではなにをして来たの?」

 俺はネクタイを解きながら莉子に微笑み掛けた。

「あっ、うん。今日はストレッチの体操だけだった、身体が硬いですねって言われちゃったよ」
「じゃあ明後日は筋肉痛だね」
「なんで明後日なの」
「そりゃあ、歳を取ると筋肉痛になるのが遅いっていうでしょ」
「ひ、酷い!」
「じゃあ、着替えて来る」
「あ、うん」

 俺はスーツのジャケットを脱いだ。視線は自然とクローゼットに向いた。ドレッサーの椅子を運びアイアンフレームの籠を避けてその奥に手を差し入れた。

(ーーー無い)

 余程慌てていたのだろうクッキー缶がいつもの場所に無かった。廊下に出て階下の様子を窺い見ると莉子はエプロンを身に付けて冷蔵庫の扉を開けていた。シンクのたらいに浮き沈みする茄子、まな板と包丁を準備している。寝室に戻りベッドの下を覗いて見たがクッキー缶はそこにも無かった。

(何処だ)

 ナイトテーブルの引き出しの中、隙間、見当たらない。音を立てない様に息を殺してクローゼットの扉を開けたがその中にも無かった。

(ーーー無い)

 ジャケット、ブラウス、スカート、ワンピースと木製のハンガーを避け冬物の衣類が入った引出しの中を見てみたがそこにもクッキー缶は見当たらなかった。その時莉子の声が聞こえた。

「直也ーー!」
「な、なに!」
「茄子と豚肉の炒め物なんだけど!醤油とオイスターソースどっちが良い!?」

 一瞬考えた。

「醤油!生姜があったら生姜も入れて!」
「分かったーー!」

 冷蔵庫を開ける音、茄子を切る音、直也は耳鳴りと激しい動悸を覚えた。最後のワンピースのハンガーを動かすと鞄が置いてあった。

(これだ)

 その鞄には妙な膨らみがあり手を入れると硬いものが触れ軽い金属音がした。それは見覚えのある古びたクッキー缶だった。

(ーーーん?)

 持ち上げるとコロコロとこれまでに無かった音がした。俺は床にひざまづきその蓋を開けた。

(ーーー指輪)

 クッキー缶の中には色とりどりの紙飛行機に紛れ(いぶし)た銀の花の指輪、そして小さなケースが入っていた。

(莉子、おまえ)

 蓋を開けると赤い貴石の指輪が収められていた。