辺りを見回すとウンベラータ(観葉植物)の背丈が低くなり窓の外の日差しは白く陽炎(かげろう)がゆらめく程に眩しかった。


(え、え!?)


 視線を上げると到底28歳とは思えない面差しで薄茶の髪を三つ編みにし高等学校の制服を着た莉子がメニュー表を手に困った顔をしていた。


「雨月くん?」

「え、え」


 莉子が僕の事を「雨月くん」と呼んでいたのは2人が付き合う前だ。


「いらっしゃいませ」

「はい」

「後ほどオーダーに伺います」

「はい」


 目の前にレモンの輪切りが浮かんだグラスが置かれ、おしぼりがセッティングされた。莉子がメニュー表で顔を隠して小声で話した。


「ごめん、高かった」

「・・・・え」

「私、お小遣い1500円しか持って来てなかった。雨月くんは?」

「え、と」


 財布を開いてみると500円玉が1枚、100円玉が3枚、小銭が少し。


「は、800円」

「2300円(税別)だとワンセットしか頼めないね」

「そう、ですね」

「なに、急に敬語なんてどうしたの?」


 僕はもう一度財布の中を見た。


(マリーゴールドの指輪がない)


 財布を開けた時に床に落としたのかと思いしゃがみ込んでテーブル周りを探したが指輪は見当たらなかった。そこで違和感に気付いた僕は動きを止めた。


(右脚が、動く)


 僕はその場に立ち上がり手首を回し腰を(ひね)った。まるでストレッチ運動をするように膝を上げたり下げたりした。隣の席で食事を楽しんでいた客は驚き、莉子は顔を真っ赤にして僕のカッターシャツの裾を掴んだ。


「ちょ、ちょっと雨月くん!なにしてるの!座って!」

「あ、ちょっとびっくりして」

「びっくり?どうしたの、なんだかおかしいよ!?」

「やっぱりおかしい?」

「おかしいよ?」


 莉子は(いぶか)しげな顔をしながらパンケーキの写真を指差した。


「ねぇ、あのさ、予算足りないからパンケーキ半分こにしない?」

「うん半分こにしよう」


 僕と莉子はパンケーキを半分に切って皿に取り分けて食べた。


「美味しいね!」

「・・・・うん」

「あれ?雨月くん甘いもの苦手だった?」

「ううん全然!美味しいよ!」


 突然の出来事に困惑した僕はパンケーキも添えられた生クリームも全く味がしなかった。


「お飲み物のご注文はお決まりですか?」

「雨月くん、ジャスミン茶は飲める?」

「うん」

「じゃあBLOOMING TEA(ブルーミングティー)をお願いします」



BLOOMING TEA(ブルーミングティー)って綺麗だよね」

「雨月くん、知ってたんだ」

「う、うん」


 工芸茶はガラスのティーポットの中でゆっくりと黄色い花弁を開き始めた。


「工芸茶って言うんだよね」

金花彩彩(きんかさいさい)って言うの、素敵な名前だね」

「莉子の好きなマリーゴールドだね」

「あれ?マリーゴールドの話、話した?」

「な、中庭に咲いてたから、そう言ってたよ」

「それに・・・莉子って」

「あ!呼び捨てにしてごめん!」


 莉子は顔を赤らめ下を向いて呟いた。


「うん、莉子って呼んで良いよ」

「え」


 駄目だ、このままじゃ10年前と流れが変わってしまう!慌てた僕は莉子の手を握ってその目を見つめた。


「莉子って呼んでいい?」

「良いよ?」

「莉子、付き合って」

「私と雨月くん、もう付き合ってるよね?」

「え、どういう事」

「期末試験の前にLINEでそう言ってたよね?」

「えっそうなの!?」

「違うの?」

「え、や、違わない!ごめん!直接言いたくて!」


 莉子の背後(うしろ)の窓ガラスには短髪で日焼けをした僕がいた。顔に触れると肌には弾力があり額にはニキビがあった。


(おでこ!)


 僕は中腰で立ち上がると莉子の前髪を上げて見た。


「え、雨月くん、な、なに!?」

「ちょっとごめん!」


 そこには白い肌、傷ひとつない額があった。


(莉子は10年前と変わらない。僕だけが、僕の中身だけが10年後の26歳だ)


 僕はいつも本を読んでいる莉子に尋ねてみた。


「タイムスリップ」は時間を滑ること。
「タイムリープ」は時間を飛び越えること。
「タイムワープ」は時空が歪むこと。
「タイムトラベル」は時空を旅行すること。


 時間が滑るだの時空が歪むだの理解出来ない事だらけだが今の僕に当てはまるのはタイムリープだと思った。僕だけが時間を飛び越えて10年前の7月15日にいた。


(もしかしたらあの夜を変えることが出来るかもしれない)


 食事を終えた2人はレジスターのトレーに硬貨を1枚、2枚と並べて支払いを済ませた。ここまでは同じだった。


(10年前と違う事をすれば良いんじゃないかな)


「莉子、家まで送って行くよ」

「ありがとう」


 僕は自転車を引きながら莉子の前を歩いた。


「あれ?雨月くん」

「蔵之介でいいよ」

「蔵之介くん、私、家の場所教えてないよね?」

「あっ・・・」

「嫌だ、また調べたの?」

「うんGoogleマップで調べたんだ」

「うわ、きっも」


莉子には気持ち悪いと冷ややかな目で見られたがそれは仕方がない。


「じゃ、また明日ね」

「またね送ってくれてありがとう」


 この頃の僕たちは口付けをする間柄ではなかった。僕は莉子に手を振り自転車のサドルに(またが)った。そして通い慣れた片道6kmの道のりを夏の匂いと風を連れて走り続けた。
 自宅の玄関は真新しく僕の松葉杖はなかった。台所で「おかえり、早かったね」と振り向いた母親の顔は若く溌剌(はつらつ)としていた。


「やっぱり母さん、若いね」

「なに、()めてもお小遣いはあげないわよ」

「いや、本当に若くてびっくりしてる」

「変な子ね」


 会社から帰宅した父親の髪は若白髪はあるものの黒々としていた。当然婆ちゃんも生きていた。僕は母親の介助なしでゆったりと風呂に浸かり、ボディソープでこの10年間の辛さを洗い流した。右手で箸を持ち左手で熱い味噌汁の椀を口に付けるこの旨さ。そして僕は一昔前のゲーム機のコントローラーを握り声を出して笑い楽しんだ。


「蔵之介!ゲームばっかりしてないで勉強しなさい!」

「分かってるって!」

「世界史、赤点だったんでしょ!」

「赤点じゃないよ!」


 携帯電話の液晶画面をタップする。



莉子、おやすみ
既読 
       
       おやすみなさい

また明日
既読

       うん



 僕は思いのままに動く身体を心からありがたいと思いながら眠りについた。