黄龍の席へ向かい、いつもように豆を挽くところから始め、コーヒーと姫龍リクエストのカフェ‣オレを差し出すと、龍神のトップオブトップ夫婦は、仲良く顔を見合わせながら、カップに口を付けた。
「雪兎のコーヒーが旨いと耳にしておったが、ほんに、幽世で飲むコーヒーとはずいぶん差があるのう。姫のは、どうじゃ?」
姫龍は言葉にはしないものの、にこりと笑って黄龍の言葉に応えた。
「のう、瞳子よ。雪兎よ。ここ幽玄館の『めし処』、卯兎がいなくなって閉めておったが、どうじゃ?二人でやってみんか?」
黄龍の突然の申し出に、一瞬、声も出ない二人だったが、顔を見合わせると先に雪兎が答えた。
「僕は、リタイア後は、コーヒーショップなんてできたら…と夢見てましたが、蓄えもそんなにないし…。いくら古くても、あれだけの広さがあれば、家賃もかなりでしょ?いまさら、この歳で借金もしたくないし…」
「そうねぇ…それに、私たち『ひと』がここ・幽世に住めないんでしょ?ホントは、現世から渡幽するのにも一時金とかの高いお金が掛かるって聞くし…」
瞳子の目を覗き込むように見つめた黄龍は、すべてを包みこむような笑顔を見せて、二人の言葉に答えた。
「幽世では、お金のやりとりはほとんどないのだ。だから、家賃というものも存在しない。その対価として、労働や御饌で返すのだ。普通は、な。しかし、雪兎は神薙。瞳子は神子だ。神に仕えるものは、その務めが対価として見做される」
「ちょ、ちょっと待って。私も雪兎も神子でもなければ、神薙でもないわ。確か…いくら黄龍様やその八龍様たちでも、その特権を濫用したら、命に関わると教えてもらったわ…なのに…」
黄龍は、まくしたてる瞳子の口の前、左手を立ててその喋りを止めると、右手を軽く誰かに向かって挙げた。そして、瞳子に向かって静かに微笑んだ。
ほんの数分いや数十秒ほどで、見かけの年寄りさ加減からは想像もつかない速さで、兎士郎が筒を携えて黄龍の脇に控えた。
兎士郎は、正座をして深々と頭を下げると、徐ろに筒を掲げ、一度自分の前に置いて、手を合わせると何やら唱えている。
「あぁ、兎士郎は、形式ばり過ぎていかん!兎士郎!もうよい!早うせい!」
待ちかねた黄龍に急かされて、慌てて、また深々と頭を下げると、筒に手を伸ばした。
「本当に仕方のないヤツじゃな。臨機応変ということを知らんのか」
そう言いつつ、兎士郎が手にした筒をヒョイと取りあげると、サッサと筒の蓋を開け、中の巻紙を取り出し、片手で広げ、スルスルと読み進めていく。
「おぉ。あった。ここじゃ。ここを見てみろ、雪兎」
そう言うと、巻紙の中程の文字を指した。
雪兎は、懐から眼鏡を出して、手元から少し離して見たり、上に透かして見たり、顔を近づけて舐めるように見たりした挙げ句、大きなため息を吐いた。
「黄龍様、申し訳ございません。この文字は見たこともない文字で、私には読みかねます」
「なんじゃ、情けない。私が読んで聞かせよう」
雪兎から巻紙を取り上げると、胸を貼って、兎士郎が読み上げ始めた。
ひと通り読み終え、満足げに瞳子たちを見やる兎士郎。対する瞳子は、不満満々という顔をしている。
「なに?それ…日本語!?何言ってるか、ちっともわからないわ!ねぇ?」
瞳子は、隣の雪兎に同意を求めたが、雪兎は黄龍を見つめながら涙を流している。
「さすが、風兎の子孫だな…文字は読めずとも、龍神言葉が理解できたようだな」
自分をまっすぐ見つめながら、静かに涙する雪兎に、優しい笑みを返しながら、黄龍は満足そうだ。
「龍神…言葉?」
おーほっん!!
大きく偉そうな咳払いを響かせて、兎士郎が後を引き受ける。
「我らの龍神様に祈りを捧げるために使う言葉なのじゃ。文字も龍体文字という特殊な文字で記される。これを読み書きできるのは、黄龍様はじめ龍神様方とその皆さまにお仕えする神薙と一部の神子だけなのじゃ。だから、幽世の外に漏らせない話などは、この龍神言葉と龍体文字を使うのだ」
「で?なんて?なんて書いてあるの?そんな特別な言葉で残されているなら、何か重要なことじゃないの?」
「ふ…風兎の児 、颯兎は幼くして能力発現。その大きさ幅広さ類稀なり。末は天帝様の下、天界に仕える神薙にもなり得るであろう。しかしその能力を悪しき道にと狙える者あり。また偉大なる能力を発現させた颯兎を疎ましく思える者、脅威に感じる者あり。この輩に幼子の命が危機に晒されること数度。天帝の命により、颯兎と盈月の血の存続を守るため、風兎の妻・咲葵が現世の実家に連れ帰り、幽世から隔離することとする。その際、現世と幽世の往来、これすべてを閉じることとした。この後現世との往来、何者も叶わず。天帝曰く『盈月の血が絶ゆることなくば、いつの日か『盈月』この地に再び根付かん』。我ら神薙一同、その日の来るを待たん」
一気に言い切ると、雪兎はバタバタと居住まいを正すと、黄龍に向いて深々と頭を下げて言った。
「盈月風兎の末裔、雪兎。幽世に戻りました。私までの命を繋いでいただいて、皆さま、本当にありがとうございました。おかげさまで、この歳まで息災に過ごして参りました」
「雪兎、よう戻ってきたな。よう戻ってきてくれた」
黄龍は、満足げに雪兎に歩み寄って肩を抱いた。
「盈月の、風兎の・・・そして、かの颯兎の血を引く者・雪兎、これを神薙と認めずしていかに・・・」
雪兎の背を叩きながら、烏頭 刑と兎士郎は、涙ぐんでいる。
「え〜…。そこな感慨深さに浸ってる皆さん?悪いんですけど…お忘れじゃないですか?私を!!」
瞳子が感動のひと幕に水を差す。
「忘れておらんよ。おーい息子たち、どこへ行ったんだ?もうできたのか?」
黄龍の呼びかけに、グッタリしながら蒼・青双子龍が現れた。
『黄龍様ッ、できましたッ』
珍しく蒼龍・晦までもが、やさぐれた態度になっている。
「なんだその態度は?それにいまは『父さん』でいいぞ」
「私は、こんなに神氣を使ったのは初めてでしたよ」
「父さんの提案で、俺たちも確かに乗ったけど、鱗剥がすって結構、痛いじゃないか!聞いてないぞ!」
双子龍は、ただの少年が父親に文句を言うような調子で、幽世のトップオブトップの黄龍に噛みついている。受ける黄龍も、そこいらにいる父親と同じように、息子たちの猛攻をオロオロと受け止めている。
「あらあら、あなた方、お父様になんて言い草なんですっ?お謝りなさいっ」
黄龍の妻・姫龍も幽世のトップオブトップのファーストレディではなく、ひとりの母として息子たちを叱っている。
そんな様子を見ていた瞳子は、笑いを堪えながら
「アハハハ、黄龍様ご一家も普通のご家庭ですね。ところで、私の件は…??」
黄龍一家が顔を見合わせて気まずそうな笑顔を見せつつ、誰が瞳子に答えるか探り合っているなか、青龍・朔が自慢げに瞳子に腕を突き出してきた。
「ほら、瞳子。コレ、やるよ」
朔が差し出したそれは、瞳子がいつも身につけていた、あの龍の指輪だった。
驚いて、自分の薬指を確認して、指輪がないことにいまさらながら気づいて、青龍の差し出した指輪をしゃくり取った。
「ちょっと、いつの間に!!やるって、これは元々、私のモノよ!雪兎が最初にプレゼントしてくれたんだから!」
左に薬指に嵌め、いつもの癖で指輪を左右にクルクルしていると、「あら…なんだか少しいままでと違うような…」。
元々の瞳子の指輪は、二頭の龍が頭を突き合わせて小さな水晶玉を咥えて支えている、シルバーの指輪だ。
いま瞳子が手にしているのは、デザインは同じだがどことなく違う。
まずシルバーの龍が薄い被膜を掛けたかのようなブルーを帯びたブルーシルバーに輝き、咥えた水晶は海と空をそのまま掬いとったようなブルークォーツになっている。
「どういうこと?コレ、私のと似ているけど、私のじゃないわ」
「瞳子、それは紛れもなく瞳子の指輪ですよ」
そう言うと、蒼龍・晦は瞳子の指輪に手を翳した。
水晶は仄かな光を帯び、そのなかで蒼い空に光刺すような輝きを放っている。
続けて青龍・朔が晦に重ねて手を翳すと、陽射しを受けた青い海の色が揺らめき、水晶のなかで蒼と青が『太陰大極図』となり、ゆらゆらと揺らめいている。
「雪兎、こっちへ来て手を翳してくれ」
雪兎は不審顔ながらも言われた通りに蒼・青双子龍の手に重ねて手を翳すと、水晶は一層の明るさを増し、薄い被膜に覆われたようだったブルーシルバーの龍それぞれが、ターコイズブルーとトルマリンブルーに輝き、水晶はブルーゴールドに輝きはじめた。
「うわっ。なに、これ…。私のはただのシルバーとクリスタルの指輪だったわよ」
「コレは元々、雪兎が選んだんだよね?…ということは、この指輪には雪兎の想いが載っている。そこにさらに私たちの神氣を載せたんですよ」
蒼龍・晦が自慢げに指輪を嵌めた瞳子の手を取った。
その手を振り払って、次に手を取り、グッと握りしめた青龍・朔。
「神氣を載せたと言うが、カンタンなことではないのだぞ!俺たちの鱗を一枚づつ剥いで粉にして、その指輪全体を覆ったうえで、水晶にはたっぷりの神氣を注ぎこんだ。おかげでヘトヘトだわ、痛いわ…」
「こらこら、次期・黄龍になろうかという者が鱗の一枚ごときで…。黄龍の扇には何枚の鱗を使うと思ってるのだ?」
黄龍が息子を宥めるように言いつつ、瞳子の手を青龍から受け継いで握りしめた。
「どうだ?瞳子。卯兎は優秀な神子だった。その神子がお前のなかに眠っておる。魂はひとつなのだから、いつかは瞳子にもその能力が発現するだろう。しかしそれまでの間、幽世で暮らすのに不便のないよう、そして、お前を邪気から守るため、この二人の神氣を込めさせた。元々は雪兎からの贈り物と聞いておるからな。雪兎と晦、朔、三人の『氣』に守られているということだ」
「あら、三人もの殿方に護られてるなんて、素敵だわ…。羨ましいわ」
姫龍がチラリと黄龍を見やる。
「姫、何を言うか!お主も三人の男に護られておるではないか!」
黄龍が、自分をそして二人の息子をそれぞれ指差した。
「まぁ、ほんとだわ!わたくしも三人の殿方に護られてるっ。瞳子、わたくしたち幸せ者ネ」
目の前で繰り広げられている、余興のような出来事に呆気にとられて、ただ目を瞠るばかりの瞳子に、雪兎が肩を抱いて声を掛けた。
「瞳子さん?大丈夫かい?僕も怒涛の流れで何がなんだか…って感じだけど…。最初は景子ちゃんのノリに乗せられた幽世行きだったけど、僕らは来るべくして来たんだ。そう思わないかい?」
「え?えぇ…。もう…いろんなコトがあり過ぎて、頭のなかが散らかりっぱなしで、夢を見ているようで、何が現実で、何をどうしたらいいのか…」
困惑の表情の瞳子に、双子龍が声を揃えて答える。
『夢を見ている瞳子は、現世にいる。いまを見ている瞳子は幽世にいる。いまを生きる瞳子は、現世に。夢を生きる瞳子は、幽世に。どちらの瞳子も、卯兎と我らとともにいつも在る』
いつの間にか、瞳子たちの周りには、八龍はじめ宴に参加していた面々が集まってきて、口々に瞳子たちに訴える。
異口同音だが、皆、瞳子に、瞳子と雪兎に『めし処』を引き継いでもらいたいと。
「宴の間、瞳子の作った料理を食べながら、話を聞いてもらっただけでも随分、心が軽くなった。まるで卯兎がいた頃の『めし処』でのひとときを思い出したよ」
「瞳子の説教は、身に…いや、心に沁みたよ。卯兎に叱られて、励まされて帰ったあの日のことを思い出したよ」
「瞳子の料理もいいけど、雪兎のコーヒーだな。飲むと、なんだかほっこりして心の澱をすべて吐き出したくなっちゃうんだよ」
「そうそう、薫りがなぁ〜。なんだかなにもかも手放せる気になっちゃうよなぁ」
「『めし処』がなくなってから、そういう吐き出せる場所、なくなってたよなぁ」
瞳子と雪兎の料理やコーヒー、そして言葉に、おもてなしに感謝と感動を皆、口にして、『めし処』復活を多くの者が望んでいるのだと二人にも充分に伝わってきた。
「雪兎…どうしよ…」
「ん?瞳子さんの気持ちはもう決まっているんじゃないのかい?」
雪兎は、いたずらっぽい笑みを見せて瞳子に尋ねた。
「意地悪な言い方するのね!興味はあるのよ。料理は好きだし、得意だし…。みんなに褒めて貰えると嬉しいし…。今日、景子たちのこのお祝いの料理をさせてもらってホントにそう思うの…。でも…」
瞳子が続けた言葉は、まだ不安を拭いきれないものだったが、それでも瞳子の瞳には決意に満ちた光を湛えていた。
「やれやれ、一時はどうなるかと思いましたが、とりあえず、我らの企みは成就ということでよろしいですよね?」
一龍齋・天目 漣が、薄い唇の端を持ち上げるような冷ややかな笑みを兎士郎と刑に向けた。
『ま、ちょっと思っていたのとは違ったがな。どういうカタチであれ卯兎は戻ったし、良いだろう・・・』
「私の功労ですな」
「儂のチカラぢゃな」
「は?なにをっ?」
「おぬしこそ、なにを!!」
揉める老人二人をそれぞれ、両脇に抱えて、漣が皆の輪から去っていく。
「漣も大変ですね・・・私にあのお二方のお相手は・・・」
蒼龍・晦が苦笑しつつ呟くと
「あれらの扱いは、漣以外にいないよ。さ、行こう、晦」
青龍・朔が晦の背を押して、瞳子たちのもとへ戻った。
「で?どうするんだよ?」
青龍・朔がぶっきらぼうに尋ねる。
「ん?決まってる!やるわよ!でも、やるからには、瞳子流でとことんやらせてもらうわ!この宴と同じようにね!」
「瞳子さん、決まりだね!僕も此処でのルーツを知ることができたし・・・。景子ちゃんきっかけだったけど、此処には導かれて来たんだよ。僕も、瞳子さんも」
雪兎はそう言いながら、瞳子の肩を抱いた。
「もう一回、ちゃんとお店を見ておきたいわ」
瞳子のその言葉に、全員がぞろぞろと移動し、「めし処」の前に集まった。
雪兎と瞳子は、「幽玄館 龍別邸」前の小さな川に掛かる、小さな太鼓橋まで下がって、「幽玄館 龍別邸」全体を見渡し、そして「めし処」の戸口を見つめた。
瞳子は、しっかりその目で「めし処」を捉えると、そっと目を閉じて、雪兎に問いかけた。
「雪兎、どう?私たち、此処でどうやっていくか?見えた?」
「見えたよ!瞳子さんは美味しい料理を。僕は美味しいコーヒーを入れる。来てくれた皆の声に心傾けて・・・」
カッと目を見開いた瞳子は雪兎に向き直って叫ぶように、言った。
「そうよ!それよ!私たちができること!神だろうと、ひとだろうと、あやかしだろうと、皆と美味しい食事、美味しいお酒、美味しいコーヒー・・・そして、心の澱を吐き出し、迷いを振り払い、新しい道を見つけるための場所。それが、私と雪兎の店「つきうさぎ」よ!」
『「つきうさぎ」?』 皆が口々に聞き返す。
「そう!「つきうさぎ」!雪兎の家系の「兎」、「卯兎」さんの「卯」も「兎」もうさぎ。そして、私は卯年生まれ!「上弦の月」に導かれて集った「うさぎ」たちがいる店!」
『おぉ!!「つきうさぎ」万歳!!』
誰からともなく、万歳の声があがり、雅楽隊が笛や鉦を打ち鳴らし、「幽玄館 龍別邸」前は、さながら祭りの様相を呈している。
月見台からその様子を眺めていた黄龍夫妻はじめ、八龍の面々、新郎新婦たちも、それぞれの顔を見合わせながら、大きくうなずきながら微笑んでいる。
周囲の面々を見ながら笑う瞳子と雪兎の目には、もう迷いはなかった。
「雪兎のコーヒーが旨いと耳にしておったが、ほんに、幽世で飲むコーヒーとはずいぶん差があるのう。姫のは、どうじゃ?」
姫龍は言葉にはしないものの、にこりと笑って黄龍の言葉に応えた。
「のう、瞳子よ。雪兎よ。ここ幽玄館の『めし処』、卯兎がいなくなって閉めておったが、どうじゃ?二人でやってみんか?」
黄龍の突然の申し出に、一瞬、声も出ない二人だったが、顔を見合わせると先に雪兎が答えた。
「僕は、リタイア後は、コーヒーショップなんてできたら…と夢見てましたが、蓄えもそんなにないし…。いくら古くても、あれだけの広さがあれば、家賃もかなりでしょ?いまさら、この歳で借金もしたくないし…」
「そうねぇ…それに、私たち『ひと』がここ・幽世に住めないんでしょ?ホントは、現世から渡幽するのにも一時金とかの高いお金が掛かるって聞くし…」
瞳子の目を覗き込むように見つめた黄龍は、すべてを包みこむような笑顔を見せて、二人の言葉に答えた。
「幽世では、お金のやりとりはほとんどないのだ。だから、家賃というものも存在しない。その対価として、労働や御饌で返すのだ。普通は、な。しかし、雪兎は神薙。瞳子は神子だ。神に仕えるものは、その務めが対価として見做される」
「ちょ、ちょっと待って。私も雪兎も神子でもなければ、神薙でもないわ。確か…いくら黄龍様やその八龍様たちでも、その特権を濫用したら、命に関わると教えてもらったわ…なのに…」
黄龍は、まくしたてる瞳子の口の前、左手を立ててその喋りを止めると、右手を軽く誰かに向かって挙げた。そして、瞳子に向かって静かに微笑んだ。
ほんの数分いや数十秒ほどで、見かけの年寄りさ加減からは想像もつかない速さで、兎士郎が筒を携えて黄龍の脇に控えた。
兎士郎は、正座をして深々と頭を下げると、徐ろに筒を掲げ、一度自分の前に置いて、手を合わせると何やら唱えている。
「あぁ、兎士郎は、形式ばり過ぎていかん!兎士郎!もうよい!早うせい!」
待ちかねた黄龍に急かされて、慌てて、また深々と頭を下げると、筒に手を伸ばした。
「本当に仕方のないヤツじゃな。臨機応変ということを知らんのか」
そう言いつつ、兎士郎が手にした筒をヒョイと取りあげると、サッサと筒の蓋を開け、中の巻紙を取り出し、片手で広げ、スルスルと読み進めていく。
「おぉ。あった。ここじゃ。ここを見てみろ、雪兎」
そう言うと、巻紙の中程の文字を指した。
雪兎は、懐から眼鏡を出して、手元から少し離して見たり、上に透かして見たり、顔を近づけて舐めるように見たりした挙げ句、大きなため息を吐いた。
「黄龍様、申し訳ございません。この文字は見たこともない文字で、私には読みかねます」
「なんじゃ、情けない。私が読んで聞かせよう」
雪兎から巻紙を取り上げると、胸を貼って、兎士郎が読み上げ始めた。
ひと通り読み終え、満足げに瞳子たちを見やる兎士郎。対する瞳子は、不満満々という顔をしている。
「なに?それ…日本語!?何言ってるか、ちっともわからないわ!ねぇ?」
瞳子は、隣の雪兎に同意を求めたが、雪兎は黄龍を見つめながら涙を流している。
「さすが、風兎の子孫だな…文字は読めずとも、龍神言葉が理解できたようだな」
自分をまっすぐ見つめながら、静かに涙する雪兎に、優しい笑みを返しながら、黄龍は満足そうだ。
「龍神…言葉?」
おーほっん!!
大きく偉そうな咳払いを響かせて、兎士郎が後を引き受ける。
「我らの龍神様に祈りを捧げるために使う言葉なのじゃ。文字も龍体文字という特殊な文字で記される。これを読み書きできるのは、黄龍様はじめ龍神様方とその皆さまにお仕えする神薙と一部の神子だけなのじゃ。だから、幽世の外に漏らせない話などは、この龍神言葉と龍体文字を使うのだ」
「で?なんて?なんて書いてあるの?そんな特別な言葉で残されているなら、何か重要なことじゃないの?」
「ふ…風兎の児 、颯兎は幼くして能力発現。その大きさ幅広さ類稀なり。末は天帝様の下、天界に仕える神薙にもなり得るであろう。しかしその能力を悪しき道にと狙える者あり。また偉大なる能力を発現させた颯兎を疎ましく思える者、脅威に感じる者あり。この輩に幼子の命が危機に晒されること数度。天帝の命により、颯兎と盈月の血の存続を守るため、風兎の妻・咲葵が現世の実家に連れ帰り、幽世から隔離することとする。その際、現世と幽世の往来、これすべてを閉じることとした。この後現世との往来、何者も叶わず。天帝曰く『盈月の血が絶ゆることなくば、いつの日か『盈月』この地に再び根付かん』。我ら神薙一同、その日の来るを待たん」
一気に言い切ると、雪兎はバタバタと居住まいを正すと、黄龍に向いて深々と頭を下げて言った。
「盈月風兎の末裔、雪兎。幽世に戻りました。私までの命を繋いでいただいて、皆さま、本当にありがとうございました。おかげさまで、この歳まで息災に過ごして参りました」
「雪兎、よう戻ってきたな。よう戻ってきてくれた」
黄龍は、満足げに雪兎に歩み寄って肩を抱いた。
「盈月の、風兎の・・・そして、かの颯兎の血を引く者・雪兎、これを神薙と認めずしていかに・・・」
雪兎の背を叩きながら、烏頭 刑と兎士郎は、涙ぐんでいる。
「え〜…。そこな感慨深さに浸ってる皆さん?悪いんですけど…お忘れじゃないですか?私を!!」
瞳子が感動のひと幕に水を差す。
「忘れておらんよ。おーい息子たち、どこへ行ったんだ?もうできたのか?」
黄龍の呼びかけに、グッタリしながら蒼・青双子龍が現れた。
『黄龍様ッ、できましたッ』
珍しく蒼龍・晦までもが、やさぐれた態度になっている。
「なんだその態度は?それにいまは『父さん』でいいぞ」
「私は、こんなに神氣を使ったのは初めてでしたよ」
「父さんの提案で、俺たちも確かに乗ったけど、鱗剥がすって結構、痛いじゃないか!聞いてないぞ!」
双子龍は、ただの少年が父親に文句を言うような調子で、幽世のトップオブトップの黄龍に噛みついている。受ける黄龍も、そこいらにいる父親と同じように、息子たちの猛攻をオロオロと受け止めている。
「あらあら、あなた方、お父様になんて言い草なんですっ?お謝りなさいっ」
黄龍の妻・姫龍も幽世のトップオブトップのファーストレディではなく、ひとりの母として息子たちを叱っている。
そんな様子を見ていた瞳子は、笑いを堪えながら
「アハハハ、黄龍様ご一家も普通のご家庭ですね。ところで、私の件は…??」
黄龍一家が顔を見合わせて気まずそうな笑顔を見せつつ、誰が瞳子に答えるか探り合っているなか、青龍・朔が自慢げに瞳子に腕を突き出してきた。
「ほら、瞳子。コレ、やるよ」
朔が差し出したそれは、瞳子がいつも身につけていた、あの龍の指輪だった。
驚いて、自分の薬指を確認して、指輪がないことにいまさらながら気づいて、青龍の差し出した指輪をしゃくり取った。
「ちょっと、いつの間に!!やるって、これは元々、私のモノよ!雪兎が最初にプレゼントしてくれたんだから!」
左に薬指に嵌め、いつもの癖で指輪を左右にクルクルしていると、「あら…なんだか少しいままでと違うような…」。
元々の瞳子の指輪は、二頭の龍が頭を突き合わせて小さな水晶玉を咥えて支えている、シルバーの指輪だ。
いま瞳子が手にしているのは、デザインは同じだがどことなく違う。
まずシルバーの龍が薄い被膜を掛けたかのようなブルーを帯びたブルーシルバーに輝き、咥えた水晶は海と空をそのまま掬いとったようなブルークォーツになっている。
「どういうこと?コレ、私のと似ているけど、私のじゃないわ」
「瞳子、それは紛れもなく瞳子の指輪ですよ」
そう言うと、蒼龍・晦は瞳子の指輪に手を翳した。
水晶は仄かな光を帯び、そのなかで蒼い空に光刺すような輝きを放っている。
続けて青龍・朔が晦に重ねて手を翳すと、陽射しを受けた青い海の色が揺らめき、水晶のなかで蒼と青が『太陰大極図』となり、ゆらゆらと揺らめいている。
「雪兎、こっちへ来て手を翳してくれ」
雪兎は不審顔ながらも言われた通りに蒼・青双子龍の手に重ねて手を翳すと、水晶は一層の明るさを増し、薄い被膜に覆われたようだったブルーシルバーの龍それぞれが、ターコイズブルーとトルマリンブルーに輝き、水晶はブルーゴールドに輝きはじめた。
「うわっ。なに、これ…。私のはただのシルバーとクリスタルの指輪だったわよ」
「コレは元々、雪兎が選んだんだよね?…ということは、この指輪には雪兎の想いが載っている。そこにさらに私たちの神氣を載せたんですよ」
蒼龍・晦が自慢げに指輪を嵌めた瞳子の手を取った。
その手を振り払って、次に手を取り、グッと握りしめた青龍・朔。
「神氣を載せたと言うが、カンタンなことではないのだぞ!俺たちの鱗を一枚づつ剥いで粉にして、その指輪全体を覆ったうえで、水晶にはたっぷりの神氣を注ぎこんだ。おかげでヘトヘトだわ、痛いわ…」
「こらこら、次期・黄龍になろうかという者が鱗の一枚ごときで…。黄龍の扇には何枚の鱗を使うと思ってるのだ?」
黄龍が息子を宥めるように言いつつ、瞳子の手を青龍から受け継いで握りしめた。
「どうだ?瞳子。卯兎は優秀な神子だった。その神子がお前のなかに眠っておる。魂はひとつなのだから、いつかは瞳子にもその能力が発現するだろう。しかしそれまでの間、幽世で暮らすのに不便のないよう、そして、お前を邪気から守るため、この二人の神氣を込めさせた。元々は雪兎からの贈り物と聞いておるからな。雪兎と晦、朔、三人の『氣』に守られているということだ」
「あら、三人もの殿方に護られてるなんて、素敵だわ…。羨ましいわ」
姫龍がチラリと黄龍を見やる。
「姫、何を言うか!お主も三人の男に護られておるではないか!」
黄龍が、自分をそして二人の息子をそれぞれ指差した。
「まぁ、ほんとだわ!わたくしも三人の殿方に護られてるっ。瞳子、わたくしたち幸せ者ネ」
目の前で繰り広げられている、余興のような出来事に呆気にとられて、ただ目を瞠るばかりの瞳子に、雪兎が肩を抱いて声を掛けた。
「瞳子さん?大丈夫かい?僕も怒涛の流れで何がなんだか…って感じだけど…。最初は景子ちゃんのノリに乗せられた幽世行きだったけど、僕らは来るべくして来たんだ。そう思わないかい?」
「え?えぇ…。もう…いろんなコトがあり過ぎて、頭のなかが散らかりっぱなしで、夢を見ているようで、何が現実で、何をどうしたらいいのか…」
困惑の表情の瞳子に、双子龍が声を揃えて答える。
『夢を見ている瞳子は、現世にいる。いまを見ている瞳子は幽世にいる。いまを生きる瞳子は、現世に。夢を生きる瞳子は、幽世に。どちらの瞳子も、卯兎と我らとともにいつも在る』
いつの間にか、瞳子たちの周りには、八龍はじめ宴に参加していた面々が集まってきて、口々に瞳子たちに訴える。
異口同音だが、皆、瞳子に、瞳子と雪兎に『めし処』を引き継いでもらいたいと。
「宴の間、瞳子の作った料理を食べながら、話を聞いてもらっただけでも随分、心が軽くなった。まるで卯兎がいた頃の『めし処』でのひとときを思い出したよ」
「瞳子の説教は、身に…いや、心に沁みたよ。卯兎に叱られて、励まされて帰ったあの日のことを思い出したよ」
「瞳子の料理もいいけど、雪兎のコーヒーだな。飲むと、なんだかほっこりして心の澱をすべて吐き出したくなっちゃうんだよ」
「そうそう、薫りがなぁ〜。なんだかなにもかも手放せる気になっちゃうよなぁ」
「『めし処』がなくなってから、そういう吐き出せる場所、なくなってたよなぁ」
瞳子と雪兎の料理やコーヒー、そして言葉に、おもてなしに感謝と感動を皆、口にして、『めし処』復活を多くの者が望んでいるのだと二人にも充分に伝わってきた。
「雪兎…どうしよ…」
「ん?瞳子さんの気持ちはもう決まっているんじゃないのかい?」
雪兎は、いたずらっぽい笑みを見せて瞳子に尋ねた。
「意地悪な言い方するのね!興味はあるのよ。料理は好きだし、得意だし…。みんなに褒めて貰えると嬉しいし…。今日、景子たちのこのお祝いの料理をさせてもらってホントにそう思うの…。でも…」
瞳子が続けた言葉は、まだ不安を拭いきれないものだったが、それでも瞳子の瞳には決意に満ちた光を湛えていた。
「やれやれ、一時はどうなるかと思いましたが、とりあえず、我らの企みは成就ということでよろしいですよね?」
一龍齋・天目 漣が、薄い唇の端を持ち上げるような冷ややかな笑みを兎士郎と刑に向けた。
『ま、ちょっと思っていたのとは違ったがな。どういうカタチであれ卯兎は戻ったし、良いだろう・・・』
「私の功労ですな」
「儂のチカラぢゃな」
「は?なにをっ?」
「おぬしこそ、なにを!!」
揉める老人二人をそれぞれ、両脇に抱えて、漣が皆の輪から去っていく。
「漣も大変ですね・・・私にあのお二方のお相手は・・・」
蒼龍・晦が苦笑しつつ呟くと
「あれらの扱いは、漣以外にいないよ。さ、行こう、晦」
青龍・朔が晦の背を押して、瞳子たちのもとへ戻った。
「で?どうするんだよ?」
青龍・朔がぶっきらぼうに尋ねる。
「ん?決まってる!やるわよ!でも、やるからには、瞳子流でとことんやらせてもらうわ!この宴と同じようにね!」
「瞳子さん、決まりだね!僕も此処でのルーツを知ることができたし・・・。景子ちゃんきっかけだったけど、此処には導かれて来たんだよ。僕も、瞳子さんも」
雪兎はそう言いながら、瞳子の肩を抱いた。
「もう一回、ちゃんとお店を見ておきたいわ」
瞳子のその言葉に、全員がぞろぞろと移動し、「めし処」の前に集まった。
雪兎と瞳子は、「幽玄館 龍別邸」前の小さな川に掛かる、小さな太鼓橋まで下がって、「幽玄館 龍別邸」全体を見渡し、そして「めし処」の戸口を見つめた。
瞳子は、しっかりその目で「めし処」を捉えると、そっと目を閉じて、雪兎に問いかけた。
「雪兎、どう?私たち、此処でどうやっていくか?見えた?」
「見えたよ!瞳子さんは美味しい料理を。僕は美味しいコーヒーを入れる。来てくれた皆の声に心傾けて・・・」
カッと目を見開いた瞳子は雪兎に向き直って叫ぶように、言った。
「そうよ!それよ!私たちができること!神だろうと、ひとだろうと、あやかしだろうと、皆と美味しい食事、美味しいお酒、美味しいコーヒー・・・そして、心の澱を吐き出し、迷いを振り払い、新しい道を見つけるための場所。それが、私と雪兎の店「つきうさぎ」よ!」
『「つきうさぎ」?』 皆が口々に聞き返す。
「そう!「つきうさぎ」!雪兎の家系の「兎」、「卯兎」さんの「卯」も「兎」もうさぎ。そして、私は卯年生まれ!「上弦の月」に導かれて集った「うさぎ」たちがいる店!」
『おぉ!!「つきうさぎ」万歳!!』
誰からともなく、万歳の声があがり、雅楽隊が笛や鉦を打ち鳴らし、「幽玄館 龍別邸」前は、さながら祭りの様相を呈している。
月見台からその様子を眺めていた黄龍夫妻はじめ、八龍の面々、新郎新婦たちも、それぞれの顔を見合わせながら、大きくうなずきながら微笑んでいる。
周囲の面々を見ながら笑う瞳子と雪兎の目には、もう迷いはなかった。
