「卯兎(うと)ぉ〜!青龍さまがお呼びだぞぉ〜!卯兎ぉ〜‼」

 狩衣の裾を翻しながら走ってきたのは、龍神たちに仕える神薙の『兎士郎(としろう)』。総髪に纏めた白髪を振り乱している。
 卯兎が、宿のなかにある『めし処』の厨の小窓から何ごとかという顔を覗かせた。
 「なんですよ。兎士郎さま。そんなに慌てて…」
 「いやいや、今日の祭りで奉納された御神酒(おみき)を青龍さまがいただいたのだけどな。なにやら良からぬモノが混じっておったのか⁉いただきすぎたのか⁉もう『卯兎が来ぬことには、ココを一歩も動かぬ!』と申されてな。次の神事に向かってくださらぬのぢゃ」
 「はあぁ??それは、良からぬモノのせいじゃのうて、ただのいただき過ぎ(・・・・・・)でございましょ。放っておきなされ。ご自分のお務めはご自分で、ようご存知でございましょう」
 「卯兎は、そのように申すが…もう次の神事まで時間がないのぢゃ。なんとか青龍さまを説得してくれんかのぉ…」

 いい歳の白髪の爺さまが、いまにも泣きそうだ。
 もう、恋する乙女の如くの熱視線を送られて、卯兎も折れた。

 「わ・か・り・ま・し・たッ。でも、私がどうしようと、一切、止めないでくださいましよ?」

 兎士郎に睨めつけるような目線をくれると、赤い袴をたくし上げて廊下を走り出した。
 倒れ込みながらの「くれぐれも、御手柔らかにぃ〜」との兎士郎の叫びは、卯兎に届いたかどうか…⁉

 半地下の厨から青龍がいる二階座敷まで、赤い袴を翻し全速力で走る卯兎。

 青龍が酒を呑みつつまったりしているであろう座敷の戸を引き開け、厨から引っ提げてきた大きめの木べらを翳しつつ、仁王立ちして一喝する。
 「ごるぅあ〜〜ッ!(さく)ぅ〜ッ‼」

 枡を手に片肘をついて、半分横になった姿勢だった青龍は、卯兎を見るなり身体を起こして、枡を高々と突き上げ、笑っている。
 「アハハ〜卯兎ぉ〜。顔、怖ぇーよ」
 「朔ッ!アンタってば、いつになったら、大人になるのよッ‼これじゃ、私はいつになっても嫁にいけないじゃないの‼」

 木べらを振りかざしながら、熱り立って突入してきた卯兎をスルッと躱し、背後からフワッと抱きとめ、青龍が囁くように言う。
 「卯兎は、俺の嫁になればいいんだから、どこにも行かなくていいだろ?」
 「な・ん・で、アタシがアンタの嫁にならなきゃいけないのよっ!」

 フワッとは抱きしめられているが、腕はしっかり押さえられているので、身動きできない卯兎は、バタバタと木べらを動かす。

 「イッ痛ってぇ‼!」

 木べらの端が、青龍の向う脛にヒットしたらしく、卯兎から手を放して、自分の膝を抱え上げて悶絶している。
 カラダが自由になった卯兎は、木べらをさらに振り回し、青龍の背を、尻を、腹を打ちつける。青龍は、痛さに絶叫しているが、卯兎に止める気配はない。
 「ほら、ほら、ご希望の卯兎サマが来てやったんだから、とっとと神事に就きなさいッ!」

 「こ、こ、コラコラ。卯兎、青龍様に向かってなんということを‼」

 騒ぎを聞きつけて兎士郎とその手下(てか)が駆けつけて来た。兎士郎の目くばせを合図に、今度は兎士郎の手下たちの手によって自由を奪われることになった卯兎。
 その姿を見て、さっきまで悶絶していた青龍が、指さして笑い転げる。

 「離せぇ~!兎士郎さま、話が違います!私が何をしようと止めないでください!とお願いしたではありませぬか‼」
 「いやいや・・・しかし、これは・・・」
 「朔には、言ってもわからぬのですから、このくらいしないと‼」

 「卯兎、青龍様ぢゃ。もうお前の幼馴染の『朔』様ではないのだ。これから幽玄界のみならず幽世を率いていくお方なのだぞ!」

 兎士郎の細い老体から出されたとは思えない、低く威厳ある声がその場の空気に沁みわたるように響くと、卯兎はピタリと動きを止めた。
 その威厳に戦いたように、兎士郎の手下たちも卯兎から手を離した。

 再び自由の身となった卯兎が、体をほぐすように腕を大きく回すと、周りで身構える手下たち。それらをぐるりと睨めまわし、最後に兎士郎をキッと見た卯兎。
 徐ろに袴を(はた)いて、折を整え、揃えながら、青龍に向かってきれいな正座をした。手にしていた木べらをカラダの横に揃えると、指を膝前に揃えてつき、深々と頭を下げる。

 「青龍さまにおかれましては、お寛ぎのところ、誠に痛みいりますが、まだ神事のお務めが途中でございます。皆、青龍様のお出ましを心待ちにいたしておりますゆえ、神殿の方へお運びいただけますと、我ら青龍様の下僕(しもべ)一同、幸甚にございます」

 卯兎が言葉を発し始めると、兎士郎もその手下も卯兎に倣うように青龍に向かって正座して頭を下げた。
 バカ笑いをして転げ回りながら酒を飲んでいた青龍も、突然の卯兎の一挙一動に、呆気にとられたように固まったまま卯兎を見つめていた。
 しかし、卯兎が言葉を発し終わってさらに深く頭を畳にこすりつけるように下げたのを見て、持っていた枡を畳に投げつけた。
 枡は二度、三度バウンドして転がり、卯兎の前で止まった。
 「なんだよッ!その態度!なあ、卯兎。なんなんだよッ!俺は卯兎からそんな言葉聞きたくて呼んだんじゃないッ!」

 卯兎は、動かない。ジッと正座のまま頭を下げたきりだ。

 今度は兎士郎のそばまで行って、タタンっと足を踏み鳴らす。
 兎士郎も頭を下げたまま動かない。

 「兎士郎ッ!なんで卯兎にこんなことさせる?俺はそんなこと頼んでないぞ!なんなんだよッ!もうこのあとの神事には出ねえ!そのつもりで!」
 「青龍様、これ以上遅れれば神殿の神気が乱れますぞ!この祭礼は百年に一度の……」
 縋りつくように説得する兎士郎を振り切ると、
 「なんだよッ!その態度!」
 帯に差していた扇子を取り出し、指先で開いてパシンと鳴らしながら、青龍は乱暴に立ち上がった。

 「俺は卯兎からそんな言葉聞きたくて呼んだんじゃないッ!」
 そう言いながらも、どこか拗ねたような目つきで睨んでいる。
 その顔に、卯兎は思わずため息をついた。
 (……ったく、アンタはいつまで経っても子供なんだから)
 そう思いながらも、青龍の周囲に漂う神気は、やはり龍神としての風格を感じさせる。
 青龍は、そのまま扇子で掌を打ちながら歩き始めた。

 「お待ちくださいッ!」卯兎が声を張り上げる。

 「わたくしどもの物言いがお気に召さなかったのなら、それはわたくし卯兎の不徳の致すところ。いかようなお叱りもお咎めも甘んじて受ける所存でございます。ですが、ここにいらっしゃる兎士郎様と共にお仕えする皆さま。また、神殿で青龍様のお出ましを心待ちにしている町の衆たちにはなんら罪なきこと。ご神事は…お務めは果たしていただけますよう、重ねてお願い申しあげます」

 「それだ!ソレ!その物言いが気にくわぬ!」
 パシパシパシと苛立たしく扇子で手を打つ青龍は、しばしそうしていたが、扇子をパシンっと鳴らすと、ニヤリと口角を上げ、卯兎を振り返った。
 「卯兎、いかような咎めも受けると言ったな?」

 卯兎の前に回り込み、扇子で卯兎の顎を持ち上げて自分の方へ向かせると、絶対に良からぬことを企んでいるだろう…と、誰しも推測できるような笑みを見せた。
 不敵な笑みを見せつつ「兎士郎、ゆくぞ!」と、青龍は衣を翻し、神殿への扉を開けた。

 「おぉ。そうだ‼」大仰に振り返ると、

 「卯兎、お前には“相応の咎め”を受けてもらわねばならん。 ……ふふ、心して待てよ」

 言い放ち、高笑いしながら、神殿へと続く通路へと消えていった。