「本当の卯兎さんって・・・どういうこと?当時の卯兎さんは本当じゃなかったってどういう意味?」
― ここ幽世には、知っての通り、神々とあやかしたち。そして現世から天界へ、転生へと向かう魂が集う世界だ。ひとがココで暮らすには、神薙などの神職に就くか、神族に仕えるか…。
それとて簡単なことではない。神薙などの神職にはそれなりの能力が求められるし、ここでの神薙の仕事にはある種特殊な能力も求められる。だから、だいたいは神薙は同じ血筋から受け継がれて就くことが多い。
稀に普通の家庭にチカラを持って生まれる子がいても、その子は神薙の家の養子となって、幽世の神薙に就く。―
「あ。僕の曾祖父はそのチカラが弱かったから神薙に就かせることを諦めた高祖父母は、曾祖父を高祖母が連れて現世に戻って、高祖父はこちらに残ったので、その後、盈月の神薙は高祖父を最後にいなくなって、現世でもたぶん僕が最後の盈月の人間なんだと思います」
「おぉ。そうだった。雪兎は「盈月」の人間だったな。しかし、お前の聞いてきたその話は事実と少し違うようだ・・・。
うーん。それについては、ここにいる間にでも刑に尋ねるといい。刑が当時の盈月とは昵懇だったし、あの件の当事者のひとりだからな」
「え?烏頭さん?当事者?どういうことです?」
雪兎は顔色を変えて青龍に迫ったが、青龍は
「…刑に聞け。俺の口からは言えないが、お前の血筋は俺たちの世界にとって少しばかり厄介でな」
と、呟くように答えると卯兎の話の続きを始めた。
― 昔はときどき子どもが現世からこちらへ迷い込んできたものだった。
遊んでいて友や兄弟とはぐれて、うろうろしているうちにこちらへの道へ迷い込んでしまった者。こいつらは、刑たち刑部省の烏天狗たちがそっと家の近くまで連れ帰ってやる。
昔、現世で言われていた『神隠し』の正体だな。現世では「烏天狗が子を攫う」と言われていたようだが、逆だ。連れ帰ってやってたのだ。
もう一つは切ないのだが・・・現世で飢饉などになったときに、口減らしのために親がわざわざ幽世の入り口に我が子を置いていくのだ。
そういう子らは、こちらの心ある者が運良く見つければ、神薙の養子になったり、神族の屋敷で下働きをしたりして、その寿命が来て光の湖を渡るまで、この街の皆で面倒見る。なかには、そうしてるうちに神族や神薙の誰かに見初められて婚姻して龍籍や神籍を手に入れる者もいるが。
見つけられなければ、そのまま飢えて命を落としたり、獣や質の悪いあやかしに喰われた子らも多かった。そうなると、魂の導かれるままに光の湖へ行き、転生の道をたどるのだがな。光の湖の虹の橋を渡るのは、必ず一人。それがどんなに幼い子でもな。幼子でも行けるように鬼界の鬼たちが補助はしてやるのだけどな。
卯兎は、このどれでもなかった。―
「小さい子が鬼なんか見たら、泣き出しちゃうんじゃない?」
「神族の我らは、人形を採っていることが常だからな。本来の姿で会うわけじゃない」
― 卯兎は、現世では「生」を受けられなかった子として、幽世へ来たのだ。
どういった経緯で現世に生れ落ちなかったのかは、知らん。
とにかく、「ひと」として現世をいきることなく幽世にやってきた。そして、虹の橋を渡ることなく、幽世の街に居ついたところを同時代に口減らしで幽世に送られた『結卯』や『兎朱』らとともに、ここ幽玄亭の神薙とあやかしに引き取られて育った。
なぜ虹の橋を渡らなかったのか?渡れなかったのか?未だにそれもわからん。鬼界の鬼たちが見落としたとも思えなかったんだが…―
「現世で「ひと」として生まれなかったってことは、「ひと」としてのカタチはなかったんじゃ・・・」
「そのことか。ここでは肉体は問題ではない。現世では肉体がないと動けず、カタチも認識されないだろうが、ここでは魂がカタチを成すのだ」
「ん?どういうこと?よくわかんない?体がないのに、料理したり、神子のお勤めができたりするの?ん?」
「ここは、そういうところだ」
青龍に豪快に笑い飛ばされたが、未だ、瞳子の頭のなかは大混乱。
ふと、雪兎を見ると、さっきの「刑に聞け!」と言われた話が引っかかっているようだ。
「雪兎、青龍さんとのお話が終わったら、刑さんを探そう。景子のことも聞きたいし・・・ね?」
雪兎は、我に返ってニッコリ微笑むと瞳子の肩に手をやった。
「刑を探しに行くなら、雪兎ひとりで行けばいいだろ。卯兎・・・いや瞳子はココにいろ」
「はぁ?なんでっ⁉いやよ!雪兎と一緒に行きますっ‼」
「あ、いや、刑なら後で俺が呼べばすぐ来るだろう・・・続けるぞ」
瞳子の思わぬ迫力に負けた青龍は、ムリムリな感じで話を続けた。
― 卯兎はいつも元気で、元気すぎて…お転婆とも言える面があったけれど、神事などのときはソツなく熟す器用さもあった。
もの覚えもよくてな。神薙の上級の仕事もできそうだったな。
いつも笑って、笑わされて…―
「いつも怒らせて、怒られてっていうのもあるんじゃないの?」
声に振り返ると、青龍とソックリの男性が御簾から出てくるところだった。
『せ、青龍さんが、二人??』
よく見ると、目の前の青龍はひと房の髪が金色のような黄色とターコイズのようなブルーなのに、もう一人の青龍はトルマリンのような透明に近いような透き通るブルー。
あとは、何から何まで瓜二つ。座る青龍と御簾の前に立つ青龍の両方をキョロキョロと見比べる瞳子と雪兎。
「おかえり。卯兎。やっと帰ってきたね」
「晦、まだ卯兎じゃないんだ。いまは『瞳子』というらしい。隣にいるのが夫の『雪兎』だ」
晦と呼ばれた青龍もどきは、先ほどの青龍が見せた寂し気な自嘲するような笑みを見せて瞳子を見つめる。
「そうなのか。どう見ても卯兎なのに…」
「瞳子、雪兎、これは、オレの兄貴。晦だ。『黄龍八龍』はさっき説明したな?そのうちの、今の『蒼龍』が晦だ。見ればわかるが、双子だ」
「あぁ。双子・・・どうりで・・・。初めまして盈月雪兎と妻の瞳子です」
雪兎は、手を差し出した。
蒼龍は、その手を包み込むように両手で受けると自分の胸に引き寄せた。
「これまで卯兎を・・・いえ瞳子を守ってくれてありがとうございます。無事に会えて、こんなにうれしいことはありません」
同じ顔、同じ声なのに、蒼龍の方は随分、物腰が柔らかい。
「ホントに双子なの?顔は似てるけど、性格は随分違うのねぇ」
思ったことをすぐ口にしてしまう瞳子に雪兎が慌てて、頭を下げる。
「すみません。悪気はないんですけど・・・」
「そういうところも卯兎そのままなのになぁ・・・」
寂し気に微笑みながら、ジッと瞳子を見つめる蒼龍は、青龍に向き直って言った。
「で?どこまで話したの?しづらかったら、私が話そうか?」
「いや、オレが話す。足りないことがあったら、助けてくれ」
そう答えつつも青龍は、顎に手を当ててしばらく黙り込んでいた。
「ねぇ、朔。朔は卯兎の話の続きを考えてて。私はさっきの瞳子の疑問に答えるよ」
「さっきの?」
「あぁ。『「ひと」としてのカタチはなかった。でも料理したり、神子のお勤めはできたのか?』って話だよ」
「それって・・・っていうか、お前いつから御簾の裏にいたんだ?」
「う~ん・・・。『卯兎は、本当の卯兎になりたかった』って下りのちょっと前かなぁ」「そのちょっと前って、話の最初からいたんじゃないか。とっとと出てくれば良いものを!」
「まぁまぁ。私が出ないほうがいいこともあるかと思って、様子を見ていたんだよ。じゃ、さっきの瞳子の疑問に答えるよ?」
「知りたい、知りたい‼なんだかよくわからないもの。ねぇ雪兎?」
瞳子が大きく身を乗り出した。
「わかった!わかった」
蒼龍・晦が、瞳子の迫力にのけぞりながら後ずさった。
「じゃ、その話を晦がしてる間に、俺はどう話したら、瞳子が卯兎であることを思いだしてくれるか⁉考えるよ」
「どう話してくれても、私はわ・た・し。盈月瞳子よッ」
そうは言いつつも、晦・蒼龍も瞳子になんと説明すべきか⁉考えあぐねている様子。
青・蒼、二人の龍は、背中合わせに胡坐を組んだ姿勢のまま、同時に口元に拳を充て、同時にため息をついたかと思えば、また同時に上を向いてなにやら呟いている。
全く同時に、同じポーズをとる二人を見ていると、二人の背中の間に鏡があるのではないかと思うほどだ。
しばらくそうしていたが、先に動いたのは蒼龍・晦だった。
瞳子の方に向き直り、いま一度、天を仰ぎ、青龍・朔に目を向けた。目が合った朔は、「お先にどうぞ」というふうに、仰向けた手のひらを横へ滑らせた。
それを見た晦は、大きくうなずくと瞳子に話しかけた。
「瞳子、雪兎が持ってる盃の中には何が入ってる?」
「お酒でしょ?種類まではわかんないけど…」
「雪兎、私にも一杯くれるかな?」
雪兎は、朔との間に置いていた酒や酒器の載せられたお盆を引き寄せると、徳利から酒を注いで晦に差し出した。
「瞳子さんも飲むかい?」
「日本酒でしょ?私はいいや」
「でも、コレ、瞳子さんの好きな白ワインっぽくて日本酒じゃないみたいだよ?」
「そうなの?じゃ、ちょっとだけもらおうかな?」
雪兎は、薄いピンクの桜の柄のぐい呑みに酒を注いで瞳子に渡し、続けて朔の盃、自分の盃に酒を満たして、朔の前に朔の盃を差し出してから、晦に向き直った。
「お待たせしました。さあ、どうぞ」
「あはははは…伝え聞いてはいたが、瞳子と雪兎は仲が良いのだな。そして雪兎は優しいのだな。さすが、風菟の子孫だな」
「ふ、う、と…?僕の高祖父ですか?ご存知なんですか?」
雪兎は高祖父の名を聞いて、グッと身を乗り出した。
その思わぬ反応に晦は、未だ背を向けたままの朔に助けを求めた。
「あ…え?いや…わ、どうしよう。朔ぅ〜」
呼びかけに横目でチラリと晦を見やって、大げさにため息をついて見せる朔に、晦はますます困惑の様相だ。
「ったく…言ってあっただろ。風兎の話は、今回はナシだって」
「そうだった?あの件を話さなきゃ問題ないのかと思ってたよ」
「あの件?あの件ってなんです?」
雪兎がさらに身を乗り出して、晦に迫る。
晦は、後ろ手で後退りながら、慄いて答える。
「そ、それは…刑に。刑に聞けば詳しくわかる。刑に聞いてくれ」
「また、烏頭さん…ですか…」
雪兎はがっくりと肩を落としてしまった。
「雪兎、後で青龍さんが烏頭さんを呼んでくれるって言ってたじゃない。ね?後で烏頭さんに聞こう。雪兎の高祖父様の話。ね?」
「ん?俺?俺、そんな約束したか?」
「え?え?言ったでしょッ‼俺が呼べばすぐに来るからって‼」
「呼べば、来るとは言ったが、呼ぶとは言っとらん‼」
「あら?神様がウソついていいの?」
「あのなぁー…」
躍起になって言い争いを始めた青龍と瞳子を見つつ、蒼龍は涙ぐんでいる。
「あぁ…何年ぶり…何十年、何百年ぶりだろうな。朔と卯兎の『ジャレあい』を見るのは…」
『ジャレあって、ナイッ‼』
瞳子と青龍・朔に噛みつかれて、その勢いに思わず雪兎の背に隠れる蒼龍・晦。
「まぁまぁ二人とも。僕が悪かったよ。僕のコトは、瞳子さんの話が終わって落ち着いたら、考えてもらうよ。コレじゃ話が進まない。ね?青龍さん?瞳子さんも」
雪兎が割って入り、二人はとりあえず言い合うのを止めたが、目線ではバチバチとヤリ合う気満々。でもそれは、本当にヤリ合う同士のモノではなく、確かに蒼龍のいう『ジャレあい』の域だ。
「話、始めて良いかな?」
『ハイッ』
夫婦して居住まいを正して蒼龍・晦に向き直った。
「もう一度聞くよ。この中身は何?」
瞳子・雪兎夫婦の顔を交互に見つめ、徐に持っていた盃を目の高さまで持ち上げて、晦が尋ねる。
瞳子と雪兎は、顔を見合わせつつ、自信なさげに2人で声を合わせて応える。
『酒・・・ですよね・・・?』
晦は黙ってうなずくと、今度は盆の上の徳利を手にした。
「じゃ、この中身は?」
『酒・・・です・・・』
先ほどと同じく自信なさげに声を揃える2人。
またしても、黙ってうなずき、今度は徳利の酒を赤い切子硝子のグラスに注ぎ、瞳子の前に置いた。
「じゃ、瞳子。コレは?」
「お酒でしょ?徳利の中身がすり替えられてなければ!」
「そんなことするわけないでしょ。する必要もない。なんなら飲んでみる?」
「い、いいわよ」
慌てて遠慮する瞳子を上目遣いに見ながら、晦は自分の盃、グラス、徳利を前に並べた。
「さあ、この中で違うモノは何?」
瞳子は、手品師がするような手つきで両手を広げる晦を訝しげに見ながら首を傾げている。
「何をしたいの?マジック?お酒を何かに変えるとか?なに?」
「瞳子、私は卯兎の話をしたいんだよ。手妻を披露したいわけじゃない。素直に答えてくれていいんだよ」
「お酒が卯兎さんと関係あるの?う〜ん…」
ますます訝しげな表情の瞳子だが、意を決したように口を開いた。
「素直に答えろというのなら、『器』が違うだけよね?盃、グラス、徳利。どれも中身はお酒でしょ?」
「そう!そうだ。『器』が違っても、中身は『酒』なのだ」
「それと卯兎さんに何の関係があるって言うの?」
― ここで言う『酒』は、精魂。
『器』は、肉体だ。だから、『器』が変わっても中身は変わらない。
わかるかい?変わっているのは『器』だけ。そして、ココ・幽世では『器』…いわゆる肉体に大きな意味はないのだ。
『精魂』…これは現世に生きるモノも幽世に生きるモノも変わらず、生あるものに宿るもの。幽世ではこれがしっかりしていれば、肉体という『器』は必要ないのだ。
しかし現世では、肉体という『器』がないことには誰にも認識してもらえない。だから卯兎は何度か器を変えながら現世を生きて、七度目のいま。卯兎は、瞳子という器にいるのだ。
それから幽世の住人である私も朔も、いわゆる肉体はない。いま瞳子たちが見えているのは、私たちの魂のカタチなのだ。―
『え〜〜‼だって…ほら…え〜〜‼!』
腰を抜かさんばかりに驚いて、口をパクパクさせながら、晦と朔を指差しつつのけぞる瞳子夫婦。
― 落ち着け!落ち着くのだ、瞳子よ。雪兎よ。
最近の現世では、『魂』とか『精』よりも肉体が随分大切にされているようだが、昔は現世でも『魂』とか『精』が大切に考えられていたんだ。
個々の持つ『魂』は、『精』の持つ核みたいなモノ。『精』は『魂』を象るものとでもいうかな。もうちょっとカンタンな言い方をすると、『魂』が持っている特徴を表わすのが、『精』。
その『精』が姿形を成して、視覚的に見えていると言えば、わかるかな? ―
「で、でも肉体がないと、モノを持ったり、動かしたりできないでしょ?それに、お酒飲んだり、食事したりできてるのはなんで?」
「現世でも神様や仏様にお供えしたりするだろう?あれって、お供え物を置いておいて、そのお供えはどうなってる?」
「お供えして、ある程度時間が経つと、とりあえず下げるわね。放っておくと腐らせたりするから、食べ物だと『お下がり』として、私たちが戴くかな」
「神様や仏様が召し上がった形跡はあったかい?」
「アハハハ~。あるわけないじゃない」
― ここでさっきの話に戻るよ。『精魂』の話。
『精』はなんにでもある。『水の精』とか『木の精』とか言うだろ?モノにも思いを込めれば、『魂』が宿る。そこに『精』も生まれる。
お供えは、神様や仏様への思いを込めて供えられている。お供えをもらった方は、その思い=『精魂』を戴くのだ。だから、カタチはそのままでもちゃんとお供えを戴いているということだ。
そのものの真髄である『精魂』を頂いているのだから、ちゃんと味も味わってる。わかるかな⁉ ―
「ますますわからないわぁ・・・」
瞳子は、首を振りながら盃を手に取って、眇めている。
「なんとなく、食べたり飲んだりっていうことができるのはわかったけど…モノを持ったり、動かしたりって、肉体がないのにどうして⁉」
「それは、元の話に戻るが、ココ・幽世や天界では肉体は必要ないからさ」
蒼龍・晦は、周りをキョロキョロと見回すと、先ほど秋菟が瞳子たちに茶を淹れたときに使った茶さじを見つけて、瞳子の前に置いた。
「ここでなら、瞳子にもできるはずだよ。この茶さじを手を使わずに持ち上げてごらん」
「はぁ???できるわけないでしょ。ユリ・ゲラーでもあるまいし。ユリ・ゲラーだってスプーンは曲げても手を使わずに持ち上げるなんてできないわよ」
「ゆり?花の精か?花の精ならできるだろうな」
「違うわよ!ユリ・ゲラーっていうのはね、」
「瞳子さん、瞳子さん、見て!できた!僕、できたよ」
さっきまで瞳子の目の前にあった茶さじが雪兎の前に移動している。
「うっそぉ。ホントに?私が見てない間に動かしたでしょ?」
瞳子は疑いの目を向けている。
「ホントだって!もう一回やってみるよ?」
そう言うと、雪兎は茶さじに手を翳して、「ウンッ」と気合を込めた。
茶さじは、プルプルと震えたかと思うと、スーッと滑って瞳子の前へ。
「え?え?なんで?すごいじゃない!超能力?いつの間にそんなチカラ身に着けたの?雪兎ったら!」
「超能力じゃない。なんていうのかな・・・ちゃんと自分で瞳子さんの前に茶さじを滑らせた感覚が手にあるんだ。瞳子さんもやってみてよ。僕にできたんだから、きっと、瞳子さんも…」
雪兎に促され、瞳子は自分の前にある茶さじに、雪兎と同じように手を翳して気合を込めた。…が、茶さじはピクリとも動かない。「ダメだ」という顔で雪兎を見ると、蒼龍・晦が口を挟んだ。
「瞳子、動かしてやる!と思うんじゃなくて、自分で茶さじを取ろうと思ってごらん。普通に手に取るときのように」
「そんなこと言われても、普段、いちいち『茶さじを取りましょう』なんて考えて手をうごかすことなんかないもの・・・」
文句を言いつつも、もう一度茶さじに向き直って、手を翳す瞳子。今度は、目を閉じて、静かに呼吸しつつ、掌を上にして手を翳している。
そうして数十秒。
「瞳子さん、瞳子さんすごいよ!え?信じられない」
雪兎の大声で、目を開けた瞳子。雪兎の指さすところを見ると、瞳子の掌に茶さじが載っている。
「え?なんで?雪兎が置いた?蒼龍さん、あなた?」
瞳子は信じられないという風に、二人の顔を見るも、二人とも静かに首を横に振っている。
「私たちが瞳子の掌に茶さじを載せたか?どうか?それは、瞳子が一番よくわかってるんじゃないのかい?」
「そう言われれば、私、茶さじの感触が手にある。摘まみ上げた感じが指先に・・・」
「ん。そうだ。それが肉体がなくともモノを動かしたり、料理ができたりってコトにつながるんだ。わかってもらえたかい?」
蒼龍・晦が、優しい笑みを湛えながら、瞳子の目を覗き込んだ。
「ま、まぁ、そういうことができるってことはわかったわ。でも、いちいちこんなに集中しなきゃいけないってひとつ物を動かすのに、すごい労力がいるわよ?」
「瞳子、さっき、茶さじを動かす前、なんて言ったかな?『いちいち『茶さじを取りましょう』なんて考えて手をうごかすことなんかない』って言ったな?いまの瞳子たちは、肉体があることに頼って暮らしているから、集中しないと動かせないっていうけれど、私たちにとっては、もう当たり前のことで、いちいち考えて動かすことなんかないんだよ。瞳子たちが無意識に手足を動かすのと同じだ」
「うーん・・・完全に理解するには、まだもう少し時間が必要かもね。まだ、右から左へ『はい、そうですか』って納得はできないけど、なんとなくは、わかったわ」
「それでいいのだ。なにもかもすべてをいますぐわからなくても。少しづつ思い出せばいい」
蒼龍・晦は、満足げに笑うと、持っていた盃の酒を飲み干した。
「さぁ、どうだ?そろそろ話がまとまったかい?」
晦が朔を見やると、朔はまだ頭を抱えたままのうえ、どうやら、泣いているようだ。
「朔?泣いてるのか?大丈夫?」
「泣いてないっ!大丈夫だっ!」
勢いの割には、声は鼻声で泣いているのは明白だ。
晦は、少しため息をつきながら、朔の背を叩いて一緒に俯いていたが、不安そうに見つめてる雪兎と瞳子の方を見て、大丈夫という風に頷いて見せた。
「ねぇ、朔。私も力を貸すから、どうかな?話すんじゃなくて、あの日のことを雪兎と瞳子に幻視で見せるっていうのは・・・。たぶん、私たちがあれこれ話すより伝わるよ。なにより、瞳子は卯兎なんだから」
その言葉に、ハッとして晦を見た朔は、大きく頷いて、朔の右手を握ると、左手を差し出した。晦は朔の差し出された左手に自分の左手を重ねて、二人で印を結ぶと、揃った声で厳かに詞を唱え始めた。
空間がグニャリと歪み、周囲が薄い黄色の靄に包まれた。その靄の向こうに、ぼんやりと映し出された映像は、まるで3Ⅾの映画を見ているような臨場感だ。
いや映像というより、そのときのその場に、瞳子も雪兎も入り込んでしまったという方が合っているかも知れない。
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「卯兎、さすがだな。よしっ。皆揃った。始めよう、懐かしの宴を!」
黄龍の一声で、皆、盃を持ったところで、卯兎が声を上げた。
「黄龍様、せっかくでございます。上の月見棚へ出てみませんか?今日は暖かいですし、夜風も気持ち良うございますよ。皆で上限の月を眺めながら…というのもよろしいでしょ?湯冷めせぬよう、何か羽織るものをお持ちしますので」
月見棚は、幽玄館本館の二階の広間からせり出た板場で、その名の通り、満月の際にはそこで月見をしたり、神事のあとの宴の際の余興などで芝居や踊りを披露する舞台代わりにも使われたりする場所である。とは言え、普段、卯兎たちが勝手に使えたりする場所ではなかったが、この日は身内の宴とはいえ、黄龍の宴。反対できる者などあろうはずがない。
「卯兎、それは良い。なに、御大のお召し物なら、ほれ、ここに。湯のあと、ここへ寄られるだろうとお持ちしているの」
最初に卯兎の提案に弾んだ声で応えたのは、黄龍の妻で、蒼・青の双子龍の母、姫龍だった。
「姫は、よく気が回るのぅ。じゃ。『上限の月の宴』の続きとまいろうか」
黄龍の声に、全員が腰を上げた。
「あ。盃はご自分のをお持ちになって棚へお上がりください。後のものは、私たちが運びますので」
卯兎は、鬼堂・鬼丸に腕を絡みつけてしなだれている結卯に目くばせをする。
卯兎に目くばせされて、唇を尖らせながら、未練たっぷりに鬼丸に絡みつけていた腕を解いて、卓上に並べられていた皿や料理を盆に載せ始めた。
「私も手伝うよ」
蒼龍・晦が、結卯に続いて手際よく盆に皿や料理を載せると立ち上がって運び始めた。
月見棚に全員が揃い、腰を落ち着けたのを見計らって、黄龍が再び声を掛けた。
「さぁ、今度こそ始められるな。ん?皆、良いか?」
黄龍が皆の顔を見回して、盃を上げる。それに倣って、姫龍、蒼龍・晦、青龍・朔、鬼堂・鬼丸、結卯、そして卯兎。それぞれが顔を見回して、黄龍に向けて盃を上げた。
ひととき、昔話に花が咲き、笑い、泣き、また笑って時間を過ごした。
「ところで父さん、何か私たちにお話があったのではないのですか?」
話がひと通り盛り上がりを終えたところで、晦が口を開いた。
「うむ…そのことなのだがな…」
口ごもり、考え込むような様子の黄龍。
「あ。ご家族のお話でしたら、私たちはお暇を…ホレ!」
鬼丸が結卯を急き立てて立たせると、卯兎にも顎を振って、下がるように指示した。
「いや、鬼丸、座ってくれ。お前たちにも居てもらった方がいいだろう。その方が卯兎も心強かろうて」
「え?私?私のお話でございますか?黄龍様直々に?」
『卯兎のこと?なんです?』
双子龍が声を揃えて、黄龍に顔を寄せて迫ると、それを遮るように姫龍が二人の頭を撫でた。
「母さん、いきなりなにするんです?」
「なにするんだよ。いきなり。ガキじゃないぞ!」
「二人とも、卯兎のこと好きなのね。じゃ、お父様の話をしっかり聞いて。そして、考えて。卯兎のために。あなた方のために」
「卯兎、もう一杯くれぬか?」
卯兎が黄龍の盃に酒を満たすと、黄龍はそれをひと舐めして話を始めた。
「卯兎、お前、どうして此処・幽世へ来たか覚えているか?」
卯兎は、俯いて正座した膝に拳をギュッと握りしめたまま、首を横に振る。
「結卯、お前はどうだ?」
「私…かなり昔だから…」
「でも、覚えておるだろう?」
「・・・・あの、私・・・あたしんちは貧乏で、兄ちゃん二人は父ちゃん母ちゃんの仕事を手伝ってて…姉ちゃんは村でも評判の美人。だから綺麗な着物着て、おいしい御飯が食べられる御大尽のところへ行けるって。そのうえに、父ちゃんたちもお銭貰えるって。姉ちゃんと私の間にいたもう一人の兄ちゃんは死んじゃって…。それから…それから弟が生まれて。可愛い子で、あたしがいつもおんぶして面倒みてたんだぁ・・・弟が一歳ひとつになって間もなく飢饉続きで、一家七人、食うや食わずやの日が何日も続いて・・・。姉ちゃんがお大尽の家へ行くのが決まった日。父ちゃん、母ちゃんと握り飯持って山へ・・・。麦や稗だったけど、でも久しぶりの大きな握り飯。うれしかったなぁ。そう、姉ちゃんが十日後に家を出るって決まったから、姉ちゃんに家で染めた布で御守袋作って持たせるのに、その布を染めるのに、槐の蕾や桑の葉や山桃の樹皮なんかを採りにね。父ちゃんと母ちゃんとあたし。握り飯持ってね。・・・いっぱい採れて、『疲れたろう?握り飯おあがり』って母ちゃんが…。あたし、うれしくって。3つ持ってった握り飯、全部食べていいって。うれしかったけど、信に…弟に持って帰ってやろうってひとつは、食べずに懐にしまっといたんだぁ。でも、あたしが握り飯食べてる間に、父ちゃんも母ちゃんもいなくなってて、泣いて叫んだけど、見つからなくて・・・」
結卯はだんだんと涙声になり、声が詰まり話せなくなった。
「結卯、もういいよ。もう思い出さなくていい」
卯兎がそんな結卯の肩を抱き、背を撫でてやりながら、黄龍を睨みつけた。
「いくら黄龍様でもひどすぎます!結卯の辛い思い出をわざわざ掘り返さなくてもいいじゃないですか!それと、私の話。何の関係がっ?」
「悪かったな。悪かった、結卯。そんなつもりはなかったんだ。許してくれ。な?」
「黄龍様、もったいないことでございます。疾うの昔のこと。私も忘れてしまっておりました」
「そうじゃの。忘れてても思い出すことはあるものだ。じゃが、卯兎はどうじゃ?」
「あ、私は・・・。気づいたら、鬼界ヶ原の端にいて、結卯が泣いてて・・・」
「それ以前のことは思い出せないのだな?あ。いや、責めとるわけではないぞ。仕方のないことなのじゃ。でも、もし覚えておったら・・・とな」
『仕方のないこと?』
双子龍、鬼丸、結卯、卯兎が声を揃えて聞き返した。
― うむ。
いま聞いた通り、結卯はいわゆる口減らし…すまんな結卯…で、幽世との境に置き去られた。飢えて、命が尽きる寸前で鬼界ヶ原にたどり着いたところを兎士郎と刑に見つけられて、幽玄館へ来た。
そのとき一緒にいた卯兎も連れて来たんじゃ。姉妹かと思っての。だが、結卯に尋ねても知らぬという。肝心の卯兎は、喋ることができぬ状態じゃった。
卯兎は、どこから来たのか?なぜ来たのか?誰にもわからなかったのじゃ。
現世のひとが、様々な理由で子を幽世との境へ置き去ることが多かった。いまもまだ、あるがの…。悲しいことに。その子らは、飢えて死んだり、獣に食われたりで死んでしまえば、鬼界ヶ原へ来る。その後は鬼界ヶ原の鬼たちが虹の橋まで導いてやる。来世は幸せな人生であることを願いながらの。生きて幽世に迷い込んだ者は、兎士郎や刑が保護して、幽世各所の神殿や宿で引き取ってやっていた。
そして引き取るには、黄龍である私の許可が必要だった。だから、いろいろ調べたのだが、私にもわからん。あやかしの子ではなく、ひとの子だとはわかっていた。だが、死んで鬼界ヶ原へ来たのか?結卯のように死にかけて鬼界ヶ原へ来たのか?生きて迷い込んだのか?なにより、卯兎は肉体を持たずに此処へ来たようだった。
わからぬことだらけの子を引き取るべきか?どうするべきなのか?だから私は、天帝にお伺いを立てた。
天帝からのお答えは、一言。「お前に任せる」とのことだった。そこで、我らで育ててやることになったのだ。
見つけられたときに一緒だったせいか?卯兎は、結卯とは心通じてるようで、喋らない卯兎のことを結卯が一番理解しておったからの。別々の神殿や宿で預かるより、同じところがよかろう。そして卯兎の素性がわからん以上は、兎士郎に、私に近い幽玄館 龍別邸が良かろうということになった。
そこから後は、皆も知っての通りだ。
喋れなかった卯兎が神子の仕事もソツなく熟すようになり、龍籍を得て、もうかなりの年月が過ぎたな。―
「信じられないな。卯兎が喋れなかったなんてな」
青龍・朔が、おどけた表情で真っ青な顔で震えている卯兎の顔を覗きこんだ。
「いまじゃ、祭主とそれが仕える神まで、木べらひとつで動かすくらいになった」
蒼龍も笑顔で卯兎の顔を覗きこんだ。
卯兎は、震えながらもコクコクと首を振り、大丈夫だという風に手を振った。その姿を見て、青龍が黄龍に続けて尋ねた。
「で?父さん、その卯兎の生い立ち?いや、此処へ来た経緯と今夜の話は何が・・・?」
― そうだな。ここからが本題だ。―
「前置き長過ぎだろ!」
「朔、いいから続きを聞こう」
「なんだよ。晦は、いつもいい子だな」
双子のそんなやりとりを微笑みながら聞いていた姫龍が口を開いた。
「御大、お疲れでしょう?少し、お飲みになったら?続きは私がお話ししましょう」
― 御大…現・黄龍様が遠からず引退なさることは、皆さんご存知よね?
黄龍が交代するということは、その黄龍の代に職に就いていた者、龍籍に入った者は、一旦、その身分を解かれる。
兎士郎や秋菟は、神薙としてこの神殿に残るだろうから、龍籍も職もそのままだと思うけど、卯兎や結卯、鬼界ヶ原の珠鬼なんかの、幽世で保護されて育った子らは、一旦、その職を解かれて、龍籍も返上となるわね。あぁ、兎朱は別ね。あの子は、御大から龍籍をいただいたけれど、いまは鳳一族だから。その籍の責務は鳳にありますからね。
問題は、その龍籍から抜けた後のことなのよ。
新たな黄龍がその籍に就いて、天帝から御赦しをいただいて、黄龍としての職権を揮えるようになるまでの時間。私たち神族やあやかしにとっては、そんなに長い時間ではないけれど、龍籍を失った「ひと」にとっては、十分すぎるくらい長い時間かもしれない。
その長い時間の中で、結卯や珠鬼は歳をとっていくだけだろうけれど・・・。
さっきの話の中で、御大は、ハッキリ言うのを避けたのだけど・・・。
卯兎、ごめんなさいね。ハッキリ言うわね?
卯兎は、ひととして現世で生を受けることのないまま、幽世へやってきたのよ。―
「ひととして・・・現世で・・・生を受けてない・・・。私・・・ひとじゃないの?あやかしでもないなら、バケモノ??」
卯兎は、ガクガクと震えながら、尋ねた。
「うーん・・・バケモノだなんて、そんな言い方・・・。違うのよ。違うの。確かに、子どものまま『生成り』になりかけてはいたんだけど、そうならずに済んだ。ひととして現世に生まれられなかっただけなのよ」
姫龍は卯兎を我が子を慈しむように抱きしめた。
「『生成り』って・・・?」
結卯の問いに姫龍が答えようとするのを遮って、黄龍が口を開いた。
「姫、言いづらいことを言わせて悪かったな。ありがとう。ここからは、私が引き継ごう」
黄龍は、手元の盃をじっと見つめ、ひとつ息をついてから、ゆっくりと語り始めた。その瞳の奥には、後悔とも哀しみとも呼べそうな苦渋の思いに揺れていた。
― 本来、『生成り』は、執念や怨念に取りつかれ、般若にも成れぬ、「ひと」にも戻れぬという者がなるのだがな。
卯兎の場合、すでに「ひと」でもなく「あやかし」でもない存在だったからな。でも、「ひと」になるはずだったその魂は、現世に生まれなくとも、現世への、いや現世の何者かへの?なにかへの強い執念や怨念を抱いたまま幽世へ来た。
その暗い思いが強すぎたのか?虹の橋を渡れずに幾年か過ごした頃、瀕死の魂で現れた結卯と出会ったことで、『生成り』にならずに済んだ。
そして、そのまま今日まで来てしまった。その『「ひと」でもなく「あやかし」でもない存在』の者に、私が龍籍を与えた。が、知っての通り、私は黄龍の任を解かれる身。私が黄龍でなくなれば、私が龍籍を与えた者たちは、龍籍を離脱することになる。新しい黄龍の就任後、また龍籍を得られる者もいれば、得られない者もいる。―
「ちょっとお待ちください。龍籍の与奪権は『ときの黄龍』のモノではないのですか?父さんの次は、朔という天啓が示されたのですから、朔がそうと決めれば、与えられるのでは?」
「大抵の者は、時を過ごしても、また龍籍を得られるだろう。だがな、晦。卯兎は龍籍を離れれば依り代を失う。そうなったら、卯兎がどうなってしまうのか?私にもわからん」
「わからんって、卯兎は、卯兎はどうなるんだよ!何か方法があるだろ‼」
掴みかからんばかりの青龍・朔を抱きとめたのは、当の卯兎より涙を流している鬼丸だった。
「朔、やめろ!黄龍様だって、お辛いのだ」
「卯兎が消えることも、生成りになることもなく、再び私たちと会える方法がひとつだけある」
卯兎の背を撫でながら、黄龍も涙にくれている。
『なんですっ?そのひとつって!』
双子龍と鬼丸が声を揃えて、黄龍に向き直った。
「それはな…、魂の旅をすることだ」
「魂の、旅・・・?」
泣き腫らした目で黄龍を見上げる卯兎に今度は姫龍が続ける。
「虹の橋を渡り、魂の洗浄を受け、新しい魂で現世へ降りるのです。そして、ひととしての人生を終えて、此処へ戻ってくるのです」
「母さん、それは・・・それは・・・それは、いまの卯兎に死ねと言っているのですか?」
「晦、そうじゃないの。生まれ直しをしたら、此処へ戻れるのよ」
「でも、卯兎は、いまの卯兎はいなくなってしまうじゃないか!」
「朔、卯兎は、卯兎ですよ。生まれ直しても、魂の本質は変わらない。何度生まれ直しても、卯兎は卯兎なんですよ」
「何度?何度って、どういうことです?一度じゃないんですか?」
「あら?言わなかったかしら??ホホホホ・・・」
取り繕うように笑う姫龍の手を両手で包み、頷きながら皆を見回した黄龍。
「七度じゃ。七度の魂の旅を終えたら、幽世の住人となることが許されるはずじゃ」
『七?七度?』
「魂は一度の生まれ直しでは、天界から幽世に降りることは許されん。現世で大きな貢献を果たし、幽世で暮らしておるひとでも、最低でも三度は生まれ直しておる。ましてや卯兎は、一度も現世を生きておらん。七度は必要だろう。七度の魂の旅を終えたのち、天界で魂の洗浄を受けたのち、また現世に戻るか?幽世に降りて暮らすか?選べるはずじゃ」
「もし、それをしなかったら・・・もし生まれ直しを選ばず、朔が黄龍様になるのを待つとしたら…そしたら、私は、私はどうなるんでしょう?」
「卯兎は生まれ直すのが嫌なのか?怖いのか?」
「黄龍様、私を今日まで育てていただいて、心から感謝しています。私がここで真っ当に暮らしてこられたのは、黄龍様のおかげだとわかっています。でも、私がこのままだとどうなるか?黄龍様にもおわかりにならないんですよね?私、このまま朔の黄龍様を待っていても、変わらずいられるかも知れないんですよね?もし、私がバケモノに変わってしまうようなことがあれば、そのときは迷わず成敗してくださって結構ですから。私、このままではいけませんか?お願いします」
卯兎は、板に頭をこすりつけるようにして泣きながら土下座している。
黄龍は、腕組み、顰めた顔を斜め上に向けたまま、軽く握った片手を口元に添えて、なにやらブツブツとつぶやいた。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
泣きながら土下座していた卯兎は、周囲が静かなことに気づくと、そっと頭を上げて周囲を見回した。
そこには、四体の龍と鬼、ひとの子らしい女の子、異形の者たちが楽し気に笑いさざめきながら酒を酌み交わしている。
どこかで見たことあるけれど・・・?そして、そこにいる面々が何か話しているのに、その言葉はわからない。
ジッとみていると、青い龍がこちらにうねうねと近づいてきた。何か言っているけれど、意味が分からない。
ジリジリと近づいてくる龍。
卯兎は、周囲を見回すと竹を切る用の手斧があった。龍から目を離さないように、注意深く手斧を手元に引き寄せると、しっかり両手で握って身構えた。
戦闘態勢の卯兎にも構わず近づいてくる龍に向かって、叫びながら、手斧を振り回すと、スパーンっと龍の尾が切れた。切れた尾は、パタパタと別の生き物のように、動いている。
それを見ていたら、ますます恐怖が募ってきて、目を瞑って、ブンブンと斧を振り回すと、断末魔の叫びが響くとともに、聞き覚えのある声がした。
「卯、兎・・・な・・んで・・・」
我に返った卯兎が目にしたのは、青龍の姿に戻った朔だと気づいたときには、青い龍はぶつ切りにされて、息絶えている。結卯の闇を切り裂くような悲鳴。鬼丸の怒号。蒼龍や姫龍、黄龍の声。
手にした斧を見ると、おどろおどろしいほどの血が滴り、汗か涙かわからないモノを手で拭うと、手にはベットリと血が…。我が身を顧みると桶で水を被ったくらいの、返り血を浴びている。
もう動かなくなり、血だまりで息絶えている青龍。その他にも、弥狐や紗雪の白い髪も血で真っ赤に染まって、血だまりに倒れている。
皆の声、返り血、それらが卯兎の目の前でクルクルと風車のように回る。
*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
「うあぁあぁぁぁ~~~~」
突然、震えながら卯兎が自分の両手を見つめて、何か恐ろしいものを見たかのような叫び声をあげて後ずさった。
「卯兎、どうしたの?」
卯兎の顔を覗き込んで尋ねた結卯の肩を突き飛ばすと、戸を開けて弾かれたように飛び出していった。
卯兎の恐怖に震える叫声が廊下に響いていた。
卯兎の後を追ってきた朔。確かに、めし処の方へ来たはずなのに、見つからない。
「卯兎、出てこい。いるんだろ?あれは、夢なんだ。な。俺を見ろよ。元気だ!手足もある。鱗一枚、剥がれてない」
カタンっ・・・・。
音に振り向くと、厨の棚の扉が小さく揺れて動いている。そーっと、その扉を開けると、膝を抱え、その膝の中に頭を埋め込むように丸まって震えている卯兎。
青龍は、屈み込んで柔らかく卯兎の頭を撫でる。イヤイヤをするように頭を振る卯兎。そっと腕を差し入れて、卯兎を抱き上げて棚から引き出すと、そのまま座敷の方へ歩き始めた。
翌日の座敷の準備をする宿の面々とすれ違っても、二人の姿を認めると黙礼して行き過ぎる。卯兎が仕切った『上弦の月の宴』の座敷を通り過ぎ、寝所のある三階へ上がり、自分の部屋に入り、卯兎を抱いたまま座る青龍。
上弦の月に雲が掛かり、ひと雨来そうな空なのは、天気・気候を司る青龍の心がいまにも張り裂けそうなせいなのかもしれない。
「卯兎、卯兎…あれは、父さんの幻術の中での出来事だ。卯兎は、誰も傷つけてない。そんなこと、できるわけがない」
「私のなかに、邪悪なモノがあるから、あんな幻影を見た。清浄なモノが血に塗れるワケがない…」
涙声で卯兎が答える。
「私はココにいると、いつか、ここの誰かを傷つけてしまう。 黄龍様のおっしゃるように、魂を磨く旅に出るべきなんだわ。 朔や晦、結卯や鬼丸や寅太、紗雪、弥狐…みんなを傷つけてしまう日が来てしまう。そうなる前に、私は此処を出ていく」
ひととき涙に暮れていた卯兎は、意を決したように、青龍・朔の膝から降りて、朔に向き直った。
「朔、いままでありがとう。黄龍様の仰る通りだと、七たびの魂の旅を終えたら、また、此処へ戻ってこられるはず。それまで待っていてくれる?」
「当たり前だ。俺が待ってなくて、誰が待ってると思う?」
「ん?晦とか?鬼丸とか?結卯・・・弥狐・・・紗雪・・・あとは、・・・」
「あ~~‼もういい!俺が、俺だけが、絶対待ってる‼」
「アハハ・・・ありがとう」
目を真っ赤にしながらも、大きな笑顔を見せて、卯兎が立ち上がった。
「じゃあね」
卯兎は、戸を引き開けると青龍の寝所から走り去っていった。
「ま、待て!卯兎!」
青龍・朔は慌てて、卯兎を追ったが、もうすでに姿が見えなくなっていた。
青龍は、全身に力を込めると、龍の姿になり、大きくうねると、北の鬼界ヶ原を目指した。表へ出て、卯兎を探していた鬼堂・鬼丸がその青龍の姿を見て、後を追って走り出した。
ようやくたどり着いた鬼界の端。鬼界ヶ原きかいがはら。光の湖うみのほとり。たんぽぽの綿毛のような花をつけた草が一面に広がり、月明かりに照らされて風に靡く様は、金色のじゅうたんのようだ。
そこに茫然と立ち尽くす卯兎。
「卯兎…」
遠慮がちに声を掛けたのは、青龍・朔。
卯兎はその声に振り向きもせず、ジッと光の湖を見つめている。
「卯兎、危ないぞ。光の湖に落ちたら、地の底へ落ちて戻れなくなるぞ」
鬼界を仕切る鬼堂・鬼丸が続けて声を掛ける。
「鬼丸…私、思い出したの…」
朔と鬼丸に背を向けたまま卯兎が口を開く。
「私、ここへ来たの。お母さんと。いやお母さんになるはずだったひとと。お母さんが虹の橋を渡るのをここで見たの。ひとりになるのがイヤで、お母さんの後を追いかけて虹の橋に足を掛けたら、私の足元の虹が消えて、光の湖へ落ちた。深く深く落ちていくなか、光の糸が下りてきて私を引き上げてくれた…」
「光の湖へ落ちて、引き上げられた⁉そんなことがあるのか…それより、此処の鬼たちが卯兎に気づかなかったなんてことがあるのか??」
長く鬼界を仕切る鬼丸は不審顔をしながら首をかしげている。
「鬼丸、それより此処、虹の橋のたもとのはずだろう?なぜ、虹の橋が架かってない?」
「上四龍の青龍様でも、それはご存知ないか?」
鬼丸は片方だけ口角を引き上げて、笑いつつ横目で朔を見る。そして、左手で湖のほとりにある大きな鬼桃の樹を指して答えた。
「あの鬼桃の、すぐ向こうに虹の橋は架かる。ただし、渡る資格のない者が来ても橋はその姿を見せない」
「姿を見せないって…。じゃ、卯兎には渡る資格がないというのか?」
「ここまで来て…。なんでっ⁉」
卯兎が鬼丸に駆け寄り、腕を掴んで鬼丸を揺さぶるようにして、何度も尋ねた。あまりに大きく揺するので、鬼丸の手にしている錫杖がシャラシャラと不規則な音を立てている。
「なんで?なんで、私だけ?あのときも。今日も!なんで、私は虹の橋を渡れないのっ!」
鬼丸は左手で、自分の腕を握り締める卯兎の手を包み込んで、唇を噛み締めた。
柔らかな風が吹き渡っているのに、鬼桃の大樹の向こう側だけはまるで無風状態のように、重く霧が立ち込めている。
「卯兎、前に虹の橋を渡れなかった理由は、俺にはわからん。だけど、今日は…今日は俺が必ず渡らせてやる!」
「朔、お前、そんな安請け合いして、また卯兎を泣かせるようなことになったら…」
「いや、大丈夫だ!理由はわからんが、父さんはこうなること、読んでいたようだ」
青龍は、懐に入っているモノを確認するように胸に手を当てて、自信ありげに答えた。
「黄龍様が?こうなること…?卯兎が虹の橋を見つけられないってことを先読みされていたというのか?」
「あぁ。たぶんな」
青龍・朔は、父・黄龍から預かってきた黄龍の髭と鱗で作られた「黄龍の証の扇」を懐から取り出すと天に向けて大きくひと扇ぎして、片膝をついて俯いて手を合わせた。
並んで立っていた鬼丸も青龍に倣って手を合わせて俯いている。それを見ていた卯兎は、慌てて居住まいを正して正座し、青龍達に深く頭を下げた。
「天帝よ。いまひととき、我・青龍が黄龍の名代とし、この者に龍籍離籍を申し渡す。加えて七たびの魂の生を終えたのち、この者、再びこの地に戻りて龍籍を与え給うこと臥して願うものなり。是、黄龍とその八龍の総意なり」
静かな鬼界ヶ原の綿毛の草原に強いが優しい一陣の風。穏やかな光が一筋降り注ぎ、卯兎を照らしだした。
淡い黄色に照らし出された綿毛の草たちのなかにいる卯兎は、そのまま空に浮かぶ鮮やかな黄色に輝く上弦の月に召されていくかのように思えた。
「青龍よ、おのが欲にての願いを八龍の願いと偽れば、おのが命どころか、現・黄龍の命も危ういこと、わかっておるな?」
静かに体に染み渡るような、それでいて身をすべてを預けてしまいたくなるような包容力のある声が響く。
「おのが欲がないとは申しますまい。しかし八龍の総意ということには、相違ございません。この者には、八龍それぞれが世話になり、それぞれがこの者に対する深い思いを持っております。此処に、八龍の連名書状も持ち参じました」
青龍は、両手で書状を掲げ、深く頭を下げた。
ふわりと青龍の手を離れた書状は宙に浮き、ハラハラとその紙が解かれると、空に橋を架けたように広がった。その刹那。ホウッと静かな音を立てて書状が金色こんじきの炎になり、スッと吸い込まれるように消えた。
「皆の思い、しかと受けとった。元々、龍籍の与奪は代々の黄龍の与り。好きにせよ。ただし、七たび後にこの地に戻りて暮らすか否かは、私も黄龍も与り知らぬ。その者の好きにさせよ。その者が望めば、そのように」
『ありがとうございます』
青龍、鬼丸、卯兎の三人は、天を仰ぎ。手を合わせたのち、深く頭を下げた。
卯兎が青龍達に何か言おうと口を開きかけたとき、一瞬、空が煌めいて再びの声が聞こえる。
「青龍よ。七たび目の生をこの者がどのように生きたか?それが決め手になるやもしれぬ。その如何によっては、八たび、九たびと生を重ねることになるやもな…あるいは、七たび目の生が閉じる前に、幽世を思い出せば…」
言葉の最後は、煌めきとともに消えてしまった。
暫しの静寂が広がり、風が止むのを待っていたように鬼丸が口を開いた。
「おいっ、朔、お言葉聞き取れたか?」
「い、いや・・・最後は・・・ともかく、七たび。七たびの生を受ければ、卯兎はひととしての魂の旅を終えられる。そして、我らの元に戻ってこられる」
「それはそうだが、最後のお言葉・・・『七たび目の生が閉じる前に、幽世を思い出せば』なんなんだ?それより思い出さなければどうなるんだよ?え?」
「俺が知るかよっ」
「私、きっと思い出すよ。ううん。忘れないよ。朔も晦も鬼丸のことも。結卯や紗雪、弥狐・・・それから兎士郎様に叱られたことも。忘れられるわけがない」
「だよな?鬼丸は、心配性すぎるんだ」
鬼丸は、苛立たし気にシャンシャンシャンっと鳴らしながら、錫杖で地を突くと、地団駄を踏んで、二人に割って入った。
「わかってない!お前たち、二人とも。なーんにもわかってない‼」
鬼丸が怒っている理由がわからず、青龍も卯兎もキョトンとしている。
「いいか?今生の記憶があるのは、虹の橋を渡るまでだ。そこから先、天界に入れば、魂の洗浄を受ける。今生で受けた魂の記憶は、天界の光によって洗い流される。わかるか?洗い流されるってことは、失くなるってことだ。天界の光が魂の修行となったと認められる経験だけが魂の奥底に残される。その残されたものは受け継がれていくが…。卯兎は、これが初めての魂の旅。一度も「ひと」として生きた経験がないのだから、ここでの日々が魂の経験として認められるとは思えん。まっさらな、純白の魂として、一度目の旅を始めさせるはずだ」
一気に喋りきって、鬼丸は大きな息を吐いて、地べたに胡坐をかいた。
卯兎は、さっきまでの泣き腫らした目をまた赤くして潤ませて、青龍を見上げている。当の青龍は両手で支えるようにこめかみを押さえて目を閉じている。
ふわりとした風が3人を包んだかと思った瞬間。それまでの霧が晴れ、目の前に大きな虹が現れた。
「あれが、虹の橋…」
赤くなった目を見開いて卯兎がつぶやく。
「さぁ、旅立ちの時間だ」
鬼丸が錫杖を頼りに立ち上がると、虹のたもとにたわわに実をつけた鬼桃樹からひとつ実を捥いで卯兎に握らせた。
「ほれ、鬼界ヶ原の鬼桃だ。齧りながら行け。ひと口ごとに、いままでの思い出のなかでもお前のなかで飛び切り楽しかった思い出が蘇る。ひとりきりで渡る虹の橋だが、寂しい思いをせずに済む。そして、食べきって橋を渡り切る頃には、お前はいまの姿形を捨て、魂のみになっているはずだ。そして、魂の洗浄を受け、新しいお前に生まれ変わるのだ。来世を達者で生きろ!そして、必ず此処へ帰って来い」
鬼桃を握らせた卯兎の手を両手で包むように握りながら、鬼丸は泣くまいと唇を噛み締めつつ、鬼界の鬼としての仕事である虹の橋への手引きをした。
卯兎は、握りしめられた手を見つめながら「うん、うん」とうなずいている。
青龍はまだ先ほどの姿勢のまま目を閉じている。
「朔、朔っ!早く別れをしてやれ。卯兎がいつまでも旅立てんではないか!これは、いわば卯兎の門出だ。祝いだ。笑って送ってやれ!」
ドンッと青龍の背を叩き、鬼丸は洟を啜りあげている。
その後もしばらく目を閉じていた青龍を見て、卯兎は諦めたように背を向けて虹の橋へと歩を進めた。
「卯兎っ!待て!まだ、私の咎めを受けてないぞ!どんな咎めでも受けると言っただろ!」
「おい、おい。朔…。いい加減にせんか。もうそのことは良いではないか。天帝様へのご挨拶も済ませて、こうやって虹の橋も姿を見せた。サッサと送ってやらねば、また卯兎は橋を渡れぬぞ」
「いや、良くない!今生の咎めは、今生受けて行け!」
卯兎は、橋に足を掛ける手前でクルリと振り返った。
「朔、今生、最後の朔の頼み。聞いてあげるよ。なに?」
「ちっ。その物言いは気にくわんが、時間がない。手を出せ!」
卯兎は、両手で包むように持っていた鬼桃を右手に持ち、左手を差し出した。
「はい。これでいい?」
青龍は、卯兎そばへ走り寄ると、手のひらを上に向けて差し出されたの左手を両手で包み、甲が上になるように返すと、薬指を摘まみあげ、そこに唇を寄せた。
・・・・・・・・・
「いっ痛ぁ~い‼」
鬼界中に響き渡るかと思う卯兎の叫び声が響いた。
「ちょっと、アンタ、何するのよ‼ひとの指を噛むとかありえないでしょっ‼」
「どんな咎めでも受けると言っただろ」
「言ったけどさ、アンタも『神』ならもうちょっとらしいこと、思いつかなかったの?噛むなんて、子どものすることだよ!ホント、痛いわぁ」
「『神』だから・・・だ‼『神』にしかできぬことだ。龍の犬歯の歯型は★になる。★型は魔除けとなろう。そして卯兎のその疵には、龍神の神気が宿った。しかも通常の数倍の念を込めておいたからな。何回、魂が洗浄を受けようとも、その疵は消せぬ。卯兎のこの先を魔除けとしてずっと守ってくれるだろう。そして万が一、卯兎が忘れてもその疵と神気で俺がお前を探し出す!」
「・・・・朔・・・・ありがと。いつの世の私もこの疵を見たら、きっと思い出すよ」
「達者でな。ひとの世の400年や500年は、神族やあやかしの幽世じゃ2~3か月と変わらん。すぐ逢える。またな!」
卯兎は、虹の橋へ一歩踏み出した。
卯兎が足を運ぶたびに、橋の色ひとつひとつがゆらゆらと揺らめくように輝きを放っている。二歩、三歩と進めていた足が止まり、肩が揺れている。
『卯兎、止まるな!振り返らず行け!』
青龍と鬼丸は、涙声になりながら怒鳴っている。
二人の声に、立ち止まり、俯いて、肩を震わせていた卯兎。
肩で大きく息をして、鬼桃をガブリと齧って笑いだした。そして二人に背を向けたまま叫んだ。
「鬼丸ぅ、ホントだね。飛び切り楽しい思い出が目の前にあるよ。幽玄館の裏山でみんなで遊んだこと。大熊のあやかしに脅かされて、鬼丸がギャン泣きしてる。あははは!ビビった朔がおもらししてるぅ」
『卯兎、見えてる思い出をいちいち伝えてくれんでいい。自分だけで見ながら行け!笑い過ぎだ!足元、踏み外すなよ!』
二人で卯兎の声をかき消すほどの大声で返したあと、青龍が苦々しそうに言う。
「鬼丸、鬼桃はもちょっとマシな思い出を見せられないのか!」
「俺も知らんわっ!」
『朔ぅ、鬼丸ぅ~。ありがとう!晦や結卯にもよろしくねぇ』
背を向けたまま、齧りかけの鬼桃を手に、両手を大きく振る卯兎の姿がどんどん薄くなっていくのをもう堪えることを止めた龍と鬼が抱き合いながら声を出して泣いて見送っていた。
体がグラリとしたと思うと、靄が消え、元の幽玄館 龍別邸の青龍の部屋に戻っていた。
四人ともグジュグジュと洟を啜りながら、涙を拭いている。
「どうだ?卯兎。いや瞳子。何か思いだしたか?」
着物の袖口で涙を拭いながら、青龍が尋ねた。
「思い出すって、卯兎さんのこと?」
「そうだ。自分が卯兎だと思いだしたか?」
「残念ながら、それはないわね。でもね、少しわかったことがあるわ」
『わかったこと?』
蒼・青二人の龍に加えて、雪兎も身を乗り出してきた。
「わかったことっていうか…。雪兎、ほら、私言ってたじゃない。発作のとき、フラッシュする景色が似てるって。この旅館の前の通りとか裏山とか…。ここの大きな提灯が揺れてる感じとか、どこかのお店で大勢が騒ぎ飲んでるみたいなところ。あれは、卯兎さんの記憶だったのよ。さっき見た幻視⁉アレでわかった。鬼界ヶ原のあの金色の草原も、夢のなかでとか、何かを思い出そうとするときとかに、フッと頭を過る風景のひとつだった。だから、私は瞳子で、卯兎さんではないけれど、でも100%卯兎さんじゃないって言えないなぁって。私のなかのどこかに、卯兎さんが息づいているのかもなぁって」
瞳子は、バッグの中から手探りでハンカチを取り出しながら、さきほどの幻視の世界を思い出すかのような遠い目で答えた。
「それだけか?それだけなのか?」
蒼龍・晦も青龍・朔もガックリ肩を落とした。
**********************************
肩を落としたのは、蒼・青二人だけではなかった。
襖の向こうで、このやりとりを聞いていた、漣、兎士郎、刑たちも静かに大きなため息を吐いていた。
「兎士郎様、結卯はこちらの記憶も現世の記憶も取り戻しましたが、卯兎様は瞳子様のままのようです。どういたしましょうか。結卯と逢わせて、結卯に話をさせますか?」
「いや…黄龍様のお話によると、本人自らが幽世のことを思い出さない限り、意味はないし、卯兎の魂の旅は終わらぬらしいのでな。結卯にも結卯であることは伏せて、瞳子が卯兎だと思いだすまでは、「景子」として居てもらおうかの。良いな?結卯」
「はい。承知しました。兎士郎様」
「鬼堂殿も心得ていてくださいませ」。
三人の後ろに控えていた結卯・景子が大きく頷いたのを見て、漣が結卯の隣にいる鬼堂・鬼丸に向かって言った。
「それでは、参るぞ!」
「青龍様、蒼龍様。天目 一龍齋 漣でございます。お取込み中とは存じますが、鬼堂様がお二方にご報告とお願いがあると、いま、こちらに控えておりますが、御目通り願えますか?」
四人のいる座敷の外から、漣の呼びかけが聞こえた。
「漣??今日の客が誰か、一番よくわかってるはずだろ!まったく、鬼丸も今日でなくてもいいだろうに・・・」
「朔、一番よくわかってる漣と鬼丸がわざわざ『いま』来たんだ。大事な用事なんだと思うよ」
明らかに不機嫌になってしまった朔に代わって、晦が応えた。
「漣、いいよ。お入り」
その声を機に、スルスルと開いた襖の向こうには、鬼丸と結卯が立っていた。
『結ぅ・・・・・・』
蒼龍・晦と青龍・朔の声が尻すぼみになったのは、鬼丸の後ろに立つ漣が、「シッ」という風に口の前に人差し指を立てていたからだ。
「景子ぉ~!良かった。どこへ連れていかれちゃったかと思って、心配してたのよぉ」
瞳子が結卯・景子に抱きついた。
「瞳子さぁ~ん、怖かったですぅ」
「瞳子・・・さん??久しぶりね、景子からフツーに呼ばれるの」
「え?え?フツーって・・・あの・・・」
「アハハ?どうしちゃったの景子、いつもは『ウコさん』って呼んでたじゃない?」
訝しげに景子を見る瞳子の様子に、慌てた兎士郎に後ろから脇腹を突かれた結卯は、取り繕うように答えた。
「アハ・・・ちょっと緊張しちゃって、う、ウコさんって出てこなかったぁ。アハハハハ」
「怖い思いしたのね。帰ろうか?ね?」
「あ・・・いやぁ・・・それがぁ」
再会を喜ぶ瞳子と「帰ろう」と言われて戸惑う景子の間に、スルリと漣が入り込み、二人を引き離した。
「な、なにするの⁉」
「瞳子様、申し訳ございません。鬼堂様がそちらのお二方にご報告とお願いに参られたのです。景子様との再会のお話は、のちほど・・・と、いうことに・・・」
「あ。そうだったわね。ごめんなさい。景子、後で、ね!」
漣の誘導で、鬼堂・鬼丸は蒼・青二人の前へ進み出て、二人に御簾前へ座ってくれるよう頭を下げた。
「なんだ?なんだ?鬼丸、随分と他人行儀だな。今日は鬼堂様とお呼びした方が良いか?」
揶揄うような青龍・朔の言葉に、上目遣いに睨みつつもグッと言葉を飲み込んだ鬼丸。
二人が御簾前に並んで座ったのを確認して、今度は結卯・景子を手招いて、隣へ座らせた。
その姿を見た蒼龍・晦は、手を叩いてウンウンとうなずいている。
「晦、何、手を叩いてうれしそうなんだ?」
「朔は鈍いなぁ・・・」
「な、なにをぉ~」
「まぁまぁ、鬼丸の・・・いや、鬼堂殿の報告と願いとやらを聞こうではないか」
御簾前に蒼・青を座らせ、その前に自分も畏まって座ったものの、なかなか言葉が出せず、もじもじしている鬼堂。後ろから、烏頭刑の、月影兎士郎の、「早くしろ!」言わんばかりのわざとらしい咳払いに責められ、挙句、バンっ!と漣に背を叩かれ、その勢いで頭を下げたまま、叫ぶように話し始めた。
「青龍様っ、蒼龍様におかれましてはっ、ご機嫌麗しく、今日のこの大事な日に、わたくし鬼堂のためにお時間をいただきまして、ありがたき幸せに存じます。この度、わたくし百目鬼堂・鬼丸はこちらの向坂景子さんと婚約の運びとなりました。つきましては、御二方には百目鬼堂方の婚姻の立会人をお願いいたしたく、加えまして、盈月御夫妻には向坂景子方の婚姻の立会人をお願いいたしたく、百目鬼堂・向坂景子両名揃いまして、此処に参じました。何卒、よろしくお願い申しあげます」
御簾前の二人に。その脇に揃って座る瞳子たちに。深々と頭を下げている鬼丸と景子。 その後ろで、兎士郎、刑、漣も同じように頭を下げている。
蒼龍・青龍は、手を叩いて喜びあっているが、瞳子と雪兎は狐につままれたような顔をしている。
「景子、確かにイケメン好きで、百目さんもなかなかのイケメンさんだから、そこのところは納得だけど…。二人はいつの間に⁉そんな仲に⁉」
「二人は、幼馴染だからな」と答えた青龍の声は、急に大声で祝言歌「高砂」を競って唸り始めた兎士郎と刑の声にかき消された。
その間に漣が、滑るように蒼・青二人の元へ行き、事の次第を簡単に説明した。
漣が二人に説明している間に、すかさず鬼丸が瞳子と雪兎に再び頭を下げて、瞳子たちの気を自分たちへ向けた。
「本当は、いつ雪兎殿、瞳子殿のところへご挨拶に行こうかといろいろと迷うておりましたら、今日の渡幽の日となってしましました。順序が後先になり申し訳ございません」
「え?ウチに挨拶に・・・って、そんな前から?景子、そんなこと一言も…」
「ウコさん、ごめんなさい。話そうと思ってたんですけど、なんだか照れ臭いし、それにホントに鬼堂さんと結婚できるか⁉わからなかったし・・・。幽世と現世の人間が一緒になれるなんて、なんか現実味なくて、ダメだったらツライなぁって」
景子は手にしたハンカチを揉みしだきながら俯いて、モジモジとしている。
「あぁ…気持ちはわかる。わかるけど…いつ?いつ知り合ったの?」
『そ、それは・・・』
「最初にご応募いただいたときに、わけわからんモノも含めて、多数の応募がございましたので、確度が高そうな応募の方にお会いするのに、私だけでは手が足りず…鬼堂殿にもお手伝いをお願いしまして…その際が初めてかと…」
言い淀む二人に代わって、つらつらと漣が答えた。
『そ、そうなんです!お互いの昔のし・・・知り合いに似てるなぁ・・・なんて話から盛り上がってしまって・・・』
『立て板に水』の漣とは違い、ほぼ、しどろもどろと言って過言ではない二人の答えに、漣、兎士郎、刑は、ヤキモキしたが、案外、瞳子はすんなり信じてくれた。
「あぁ。最初は、ワイドショーとかですごく取り上げられてたくらいだものね。すごい応募数だったんでしょ?ふーん。それがきっかけなんだぁ。でも、良かったじゃない景子。イケメンと付き合いたい。あわよくば、結婚したい!って言ってたんだから、こんなイケメン捕まえられて!」
「もぉ、ウコさん、やめてくださいよぉ。恥ずかしいィ」
景子は、照れてはいるが、満面の笑みだ。
うれし恥ずかし満載で、はしゃぐ景子の脇腹を漣が突く。
「景子様、ご成婚にあたり、なにか瞳子様にお願いがあったのでは?」
にこやかにしてはいるが、景子に向ける目は、恐ろしく厳しく鋭い。
「あ、あぁ・・・そうでした!そうでした…」
「立会人の件なら、喜んで!ねぇ、雪兎?いつ?そうだ!ねぇ、雪兎、留袖、新調していい?」
「い、いや、ウコさん、立会人とは別のお願いが・・・」
「え?そうなの?何?お祝い事だもの。喜んで頼まれてあげるわよ!」
「あの、式のあとの宴のお料理を・・・ウコさん、料理上手だし、こちらの方には現世のお料理には珍しいものもあるみたいだし。私から幽世の皆さんへお近づきの印に、ふるまいたいんですけど・・・。私、料理下手だし・・・。あ、あの・・・ムリ・・・ですか・・・ね?」
景子は、上目遣いに瞳子の顔色を窺っている。
瞳子は、難しい顔をして小首を傾げていたが、大きく息を吐いて、大きくうなずいた。
「プロの料理人じゃないんだから、大したことはできないわよ?それに、ひとりで作るんだから、ある程度の限界はあるからね。その辺り、ご来席いただく皆さんにもご納得いただけるように説明しといてね」
「はいっ!それは大丈夫です!鬼丸と・・・あ、鬼堂さんといろいろ話し合って、お願いしようってことになったんですから」
景子は鬼丸と顔を見合わせて、二人して満面の笑みを瞳子に向けた。ついでに、漣に小さくピースサインを送ったが、その手は瞬殺で叩き落された。
「で?御式は?いつ?」
「あー・・・えっと。この旅行の最終日に・・・えへっ」
「えへっじゃない!この旅行の最終日って、一週間しか時間ないじゃない!え?私の留袖は?何着て出ればいいの?そんなの何にも持ってきてないわよ」
「瞳子様、お着物でよろしければ、小袖、十二単から留袖、振袖。紬、小紋、付け下げ、友禅と、各種揃えておりますので、お好きなものを御召しいただけますよ」
漣が一気にまくしたてて答え、胸を張った。
「それにしても、お料理するにも、材料をどこで揃える?あぁ、まず、調理場はどこ?」
「瞳子様、それものちほど、ご案内いたしましょう。材料は書いてくだされば、私が調えてまいります」
漣に押し切られるようなカタチで、一週間後、景子と鬼堂・鬼丸の祝言とその祝宴が行われ、その立会人と調理人を瞳子が担うこととなった。
すっかり卯兎の話はどこかへ飛んでしまったかのようだが、漣・兎士郎・刑の謀はその実、着々と進んでいるのである。
景子と鬼堂・鬼丸の婚姻の話が決まり、最初の目的だった『卯兎探し』は棚上げされたかのようになり、瞳子はある種の解放された気分になり、景子の祝言に託けて、幽世を楽しんでいる体だ。それどころか、「幽玄館 龍別邸」と卯兎や結卯に関わってきた、数多のあやかしたちともすっかり馴染んでいる。
あやかしたちを子分のように引き連れて、「めし処」の厨に入ってきた瞳子は、ぐるりと見まわし、腕まくりをしながら厨のなかをあれこれと観察している。
「さて、留袖の新調を諦めて、此処で景子の結婚披露宴の料理をやるんだから、トコトンやらせてもらうわよ!材料は、ここに書いておいたから、この紙を漣くんに渡しておいてね。で?オーブンはどこ?」
「・・・おーぶん・・・??」
「えぇ?まさか、ないの?そう言えば、ガスレンジとか、電子レンジとか、どこにあるの?」
「がす・・・れんじ・・・?で?ん?し?れ?ん?じ???」
「・・・え?まさか、それもないの??」
『ウト、何、言ってる?』
「ウトじゃない!ウコ! トウコ! トーコよっ!」
瞳子は名前を間違えられたことに引っかかっているが、あやかしたちは瞳子のちんぷんかんぷんな言動に引っかかるどころか、撃沈しかかっていた。
「幽玄館 龍別邸」の一階の片隅にあり、在りし日の卯兎が切りまわしていた「めし処」の厨に案内された瞳子に、あれやこれやまくしたてられて、困り果ててるあやかしたち。
「めし処」の小上がりで、蒼・青二人の龍、兎士郎、刑、漣の五人は意味ありげにニヤニヤと見ている。
「それにしても、よく鬼丸が結卯との婚姻を承諾したな」
青龍・朔がぼそりと呟くと、蒼龍・晦は笑いながら答えた。
「何を言ってるんだよ。朔が『卯兎を幽世で生かし続けるために、嫁にする!』って言ったとき、鬼丸が『じゃあ、結卯はどうするんだ?』って怒ってたじゃないか」
『え?そうなのか?』
青龍のみならず、兎士郎、刑、漣も驚いて顔を見合わせる。
「鬼丸は結卯のことをずっと気にしていたんだよ。卯兎を生かし続けるなら、結卯の存在をないがしろにするのはおかしいってね」
『そうだったのか…』
「だから、無事に結卯が戻ってきて、祝言になったんじゃないか?」
「えぇ・・・えぇ・・・まぁ、当たらずとも遠からずってところですかね」
漣が意味ありげな笑みを浮かべている。
「卯兎を目覚めさせるには、幽世での最後の日『上弦の月の宴』を再現してはどうか?」という話になった。
しかし、瞳子に料理をさせる口実が必要だった。
そこで景子が、突拍子もなく手を叩いた。
「あ!じゃあ私の祝言とかどうです?ね? 良くないですか? 瞳子さんも後輩の結婚式のためなら、ひと肌脱いでくれるでしょう?」
予想外の申し出に、一同が目を丸くするなか、鬼丸は景子をじっと見つめた。
そして、ふっと口角を上げると、静かにうなずいた。
「なるほど。面白い。…お前は、どう思う?」
そう言って、鬼丸は結卯に向き直った。
「急ごしらえの企みではあるが、鬼丸も首を横には振らなかった。多少なりとも結卯を憎からず思っていたんだろうと・・・」
漣が静かに言うと、晦が柔らかく笑った。
「事情はどうあれ、お祝い事だ。心から祝ってやろうよ」
「出たな!晦の“いい子”ぶり!」
朔が茶化し始め、兄弟喧嘩の空気が漂うのを、漣が止めに入った。
そんななか、兎士郎と刑が獲物を見つけた小動物のように、スクッと立ち上がり、鼻をヒクヒクさせながらキョロキョロし始めた。
「兎士郎、刑、どうしたのだ?何をキョロキョロしてる?」
青龍・朔が不思議そうに、二人に声を掛けると、代わりに答えたのは漣だった。
「青龍様、コーヒーでございますよ。この薫りにお二方は反応されたようです。これは、雪兎様が淹れられたコーヒーの薫り。格別でございますね」
「こーひー・・・」
すぅーっと鼻から吸い込み、ほぅーっと息を吐き出して、目を閉じて、鼻をヒクヒクさせて青龍までも立ち上がってしまった。
「う~ん。『幽玄館ホテル』で飲んだ時の薫りと全然違うな。なんというか、芳ばしい良い薫りだな」
「朔!朔、行儀悪いよ。青龍ともあろう者が、キチンと座りなさい」
蒼龍・晦が青龍の袖を引いて座らせる。
「まったく、雪兎様のコーヒーには幻術のようなチカラがあるようですね」
兎士郎、刑、青龍のそんな姿を半ばあきれ顔で見つつ笑う漣
「みなさん、お疲れでしょう?ちょっと一息入れませんか?」
雪兎がコーヒーを運んで来た。
兎士郎と刑は、待ってられないとばかりにコーヒーカップ代わりの湯飲みを奪い取るように手にすると、ちんまりと座り、両手で大切そうに包んで、目を閉じて薫りを嗅いでいる。
雪兎は、「どうぞ」と言いながら、青龍、蒼龍、漣にコーヒーを差し出した。
恐る恐る手を出した蒼・青の双子龍は、同じように湯飲み茶わんを持ち、同じように薫りを嗅いで、同時にそーっとコーヒーを口にした。
「旨いっ!」
「苦っ!」
ここばかりは、双子でも意見が分かれた。青龍は旨いと言ったが、兄・蒼龍には苦かったようで、渋い顔をしている。
「あ、蒼龍さんは、苦いのは苦手でしたか?」
「う~ん・・・薫りはとても良い薫りで好きですが、この苦いのは私にはどうも・・・」
「晦は、子どもだな。この苦みが良いのではないか。なぁ、雪兎?」
「えぇ。薫りと苦みがコーヒーの特徴ですが、苦みを抑えた飲み方もありますよ」
雪兎は、蒼龍の茶碗を引き取ると、コーヒーの半分を空の茶碗に移し、蒼龍の茶碗の残りに盆にのせていた小ぶりな雪平から白い液体を注ぎ入れた。そこに用意していた角砂糖を二つ落とし入れると竹の匙で良く混ぜ、蒼龍の前に戻した。
「これは、コーヒーをアレンジした『カフェ・オ・レ』というモノです。ずいぶん、苦みが抑えられて飲みやすいと思いますよ」
勧められた蒼龍は、飲む前から苦そうな顔を茶碗に近づけ、渋々といった体で飲み始めた。
「・・・・・う、旨いっ!苦くない!これは、私もいただける苦さ。美味しいですよ。雪兎!」
飲み始めた時とは雲泥の表情となった蒼龍・晦。
それを見ていた青龍・朔が、「自分にもひと口くれ」と晦に迫っている。晦は「朔には朔のがあるでしょう」と突き放しているが、朔も折れない。
「やれやれ。そういうところを他の皆には見せられませんな。現・黄龍の八龍であり、かたや次期黄龍様だというのに・・・。いつまでもご兄弟睦まじいのは結構ですけどね。揃って、子どものままというのは・・・」
漣は、口角を片方だけ上げる、いつもの皮肉な笑いを見せながら、コーヒーを啜った。
「漣、お前も偉そうなことを言っておるが、コーヒーは啜ってのむものじゃないのだぞ。主こそ、子どもではないか。のぅ、兎士郎殿。アハハハハ」
刑に豪快に笑い飛ばされて、冷淡な笑みから、怒りを帯びた目の色になる漣。
「仕方ないではありませんか!熱いのはあまり得意ではないのです!」
漣の凍り付きそうな視線に、大笑いしていた刑も兎士郎も固まってしまった。
コーヒーでワイワイとしている男性陣の元に、秋菟がやってきた。
「あ・・・コーヒー・・・・」
恨めしげに雪兎を見やって、大きく深呼吸した。
「ふぅ…。良い薫りでございますね」
「あ。繊月さん。コーヒーどうですか?」
「・・・いえ。とんでもないっ。この皆さま方と席を共にしてコーヒーをいただくなぞ、数百年いえ、数千年早い所業でございます」
それでも、秋菟の目は物欲しそうだ。
「え?そんなものかい?じゃ、厨の方で瞳子さんたちと一緒に。それならいいでしょ?」
雪兎の提案に、満面の笑みで頷く秋菟に、ようやくコーヒーから顔を離した兎士郎が尋ねた。
「お前、そんなコーヒーのことより、何か用があったんじゃないのか?」
「あぁ。そうでした!一龍齋様、お助けください。瞳子様のおっしゃることが、我ら幽世の、ここ「幽玄館 龍別邸」地域の者にはわからぬことばかりで・・・」
全く困り果てたという顔で、漣を見つめる秋菟。漣は、コーヒーを飲み干し、雪兎に礼を告げて腰を上げた。
「仕方のない奴らだな。ちっとは、世事にも通じておかんとな」
秋菟と一緒に厨へ入った漣を見て、あやかしたちが一堂に、救いの神とばかりの目を向ける。
「瞳子様、何かお困りで?」
「お困りもなにも・・・料理はここでするの?何の機材もないのに・・・」
「機材?ですか?」
「そうよ。ガスレンジとか、電子レンジとかオーブンとか・・・フードプロセッサーも欲しいわね」
「あぁ、そういったモノは、あちらの大通りにある歌舞伎座裏の「幽玄館ホテル」の厨房にはございますが、鬼堂様と景子様の式と宴は、ここ「幽玄館 龍別邸」にて執り行います故、料理を「幽玄館ホテル」で作られると、こちらまで運ぶのがかなり厄介かと・・・」
「歌舞伎座・・・あの裏かぁ・・・」
今度は、瞳子が困り果てたという顔で漣を見つめている。
漣は、弥狐と紗雪を手招きすると、瞳子に二人を紹介し、弥狐は狐火を操れること。紗雪は吹雪を操れることを説明した。そして、弥狐は竈に火を入れ、その火を自在に大きくしたり、小さくしたりした。紗雪は手桶の水をシャーベット状に、そしてカチカチの氷に変えて見せた。
「ふーん。そういうこと・・・。上手く使えば、いろいろ面白いことができそうね。じゃ、あとは調理器具ね。鍋とかフライパンとか・・・。それは、ホテルで借りられる?」
「借りてもようございますが、瞳子様のお気に召すものを作らせることもできますよ」
「作るって・・式は一週間後よ?作ってる時間なんて・・・」
「なぁに、一晩もあれば、充分でございますよ。瞳子様のご希望の鍋を絵に描いていただければ・・・」
「そ、そうなの?」
「瞳子様、ここは、幽世でございますよ。あやかしと神の住まう街ですよ。そのくらいのこと、お安い御用でございます」
漣はどこで覚えて来たのか?西洋のバトラーがするようなお辞儀をしておどけてみせた。
「あらら。漣くんでも、そんなおちゃめなことするのね。じゃ、ちょっと待って。絵なら私より雪兎の方が上手いから」
笑いながら答えて、瞳子は大声で雪兎を呼んだ。
雪兎は、事情を聴いて、瞳子の要望の鍋とフライパンをいくつか、様々な角度でサラサラと描いてみせた。
「どう?瞳子さんの納得のいくようなのが描けてる?」
「うん、うん!さすが、雪兎ね!」
雪兎の描いたスケッチを受け取った漣も感心して頷いている。
「で?瞳子様、こちらすべて鉄製でよろしいか?」
「え?えぇ・・・って、それ全部を一晩で?大丈夫?」
「瞳子様、ここは・・・」
「ハイハイ。幽世だものね」
漣は、ひとりの少年を手招きして呼び寄せた。
少年の名は「透馬」。『大口真神』の眷属オオカミ族の少年で、足が早いらしい。
「透馬、これから斬鉄の爺さんのところへ行って、一龍齋からの注文だとコレを渡してきてくれ。それと、こっちのメモはホテルの料理長に。それから・・・」
漣は、マジシャンのような手つきで色とりどりの数枚の紙を懐から取り出し、トランプさながら広げ、数を確認してから、続けて透馬に言った。
「こちらは、青龍様、蒼龍様以外の八龍の皆さまへ。この分厚い金色のモノは、黄龍様・姫龍様宛だからの。お屋敷の神薙長・瞬菟殿に。こちらの分厚い赤いのは百目家へ。百目の家には、鬼堂様の乳母だった麗婆さんがいるだろうから、婆さんに渡せばいい。それから、妖狐の狐窈様へ。蒼龍様・青龍様の乳母だったお銀のところ、そしてお前の親父さんだ。オオカミ族は誰を代表でお呼びすれば良いのか、こちらで判断できなかったのだ。そちらで決めてくれと伝えてくれ。いいか?」
透馬は漣から、スケッチ、メモ、色とりどりの紙を受け取り、まさしく風のごとく駆けていった。
「大丈夫?あんな小さな子に、あんなにたくさん用事を言いつけて・・・」
「体は小さいが、随分な歳ですよ。それに、彼の家はオオカミ族のなかでも『大口真神』様に一番に仕える一族で、透馬はその跡取りですから」
透馬が消えて、数分後。
赤い何かが、漣に向って飛んで来た。それが近くまで来て、折り紙の赤い龍だとわかった。龍は、漣の前で二、三度弧を描いて、漣が広げた掌にポトリと落ちた。
掌の龍は立ち上がると喋り始めたので、雪兎と瞳子は腰を抜かさんばかりだ。
「一龍齋殿、喜んで参加させていただく。鬼堂殿と奥方にもよろしく」
話し終えた龍は、音もなくすぅーっと消えた。
「な、なに?いまの・・・」
「赤龍様からの祝言へのご出席のお返事ですよ」
漣は、事もなげに答えた。唖然としている瞳子と雪兎をよそに、様々な色の龍、鬼⁉、犬・・・いや狼か・・・の、折り紙の返事が漣の下へ飛んできては、それぞれに出席の意志とお祝いの言葉を述べて消えていく。
最後にひときわ大きな龍が飛んできたと思うと、重々しい声と涼やかな女性の笑いが混じった声が聞こえてきた。
『漣、まとめ役、ご苦労だな。ま、幼馴染たちの祝言。精一杯やってくれ。それから、瞳子というたか?現世の料理を振舞ってくれるという・・・その者に頼んで欲しいのだがな。私は、卵のツルンとした熱々の、アレを食べたいのぅ。いろんな者に作らせたが、いまひとつ、何かが違うのだ。ぜひ、頼んでみてくれんかのぅ・・・』
声が重々しい割には、どこか親しみのあるような話し方の声の向こうで、引き続き、涼やかな声で笑っていた女性の声がする。
『え?御大、ご自分だけ注文つけて、ずるいわ!・・・あ?わたくしも注文してよろしいの?わたくしもあの料理は、いろいろ入っていて宝探しみたいで楽しくて好きでしたわ。でも、注文して良いなら、わたくしは断然、アレ!鬼桃の酒!アレも、どこでお願いしてもおいしいのに出会ってませんもの。よろしいでしょ?わたくしは、鬼桃の、酒。甘くて、冷たくて・・・あら、思い出したら、余計に飲みたくなってきたわ。漣。お願いね!』
勝手なことを言うだけ言ったら、派手な煙を上げて、消えていった。
「なんなの?いったい・・・」
いつもの瞳子なら「勝手なことばっかり言ってるんじゃないわよ!」と怒っていただろうが、いまは摩訶不思議な出来事を目の前にして。怒るより驚く方が先になっている。
「一番最後は、黄龍様・姫龍様でございます」
「え??幽世のトップ・オブ・トップの??そんな偉い方も出席されるの?そんな方にお出しできる料理なんてできないわよぉ」
珍しく弱気な発言の瞳子の背を軽くたたいて、雪兎が励ますように言った。
「瞳子さん、わざわざリクエストくれてるんだ。景子ちゃんのお祝いのためにも、瞳子さんの腕のみせどころじゃないかい?」
「雪兎は、呑気でいいわよ。作るのは、私よ?それに、なに?『卵のツルンの熱々』?だいたい卵なんて、卵料理なんてツルンとしてるモノばかりよ?目玉焼きだって、出来立てのゆで卵だって、『ツルンの熱々』よ!は?『鬼桃の酒』?何それ、そんなメニュー知らないわよ!てか、鬼桃って何⁉現世にあるヤツで例えて!料理名で言ってよぉ。果実酒なんて、これから漬けたって、当日までに間に合わないわよぉ。つか、鬼桃って何?現世にナイ、私が見たこともナイものを言わないでよぉ~」
「そりゃ、まぁ・・・そうだけど・・・。漣くん、何か知らないかな?どんなものかわかれば、瞳子さんなら再現できると思うんだけどな」
「私にはわかりかねますが、あそこにいる息子二人なら、何かご存知かも知れませんね」
漣は顎で、蒼・青双子龍を指した。
そんなやりとりをしてる間に、もう透馬が戻ってきて、漣の隣に立っている。
「う、うそ・・・もう全部回ってきたの?早くない?早過ぎない?」
「瞳子様、全部回ってきたからこそ、皆さまから続々とお返事を頂いてではありませぬか」
「あぁ・・・そうね。それにしても・・・」
まだ納得いかなそうな顔の瞳子の前に、何かがポトリと落ちた。しゃがんで拾い上げると、随分と色のくすんだ狐の折り紙。 その狐は、瞳子の掌に乗ると、「誰じゃ、お前は?漣は?漣はおらんのか?」と叫びながら、透馬の肩に乗った。
「おぉ。御神犬の小僧。漣を知らぬか?」
漣は屈みこんで透馬の肩の狐に目線を合わせて呼びかけた。
「お銀婆、私はここです。ずいぶん鼻も目も効かなくなったようですね」
「うるさいわっ!鬼丸のヤツ、嫁をもらうなど生意気になったな。どれ、当日はこのお銀が昔の恥話をたんと披露してやるでな。覚悟しておけと伝えておけ。ま、それでもヤツも良いところもあるのぅ、あの幼馴染のゆ・・・」
― グシャっ ―
派手な音を立てて、漣に握りつぶされた狐は、まだ何か「フゴフゴ」言っていたが、クシャリと丸めたソレを漣が内ポケットにしまい込んだので、何を言っているのか‥‥。
当の漣は何事もなかったかのように話の続きを始めた。
「瞳子様、『幽玄館ホテル』の料理長から、調味料はすべて調えて、明日には届けてくださるとのお返事を透馬がいただいて参りました。同じ頃合で注文した鍋も揃うことでしょう。あとは、食材ですね」
そう言うと、漣は瞳子の食材のメモを見ながら指差し確認しつつ頷いている。ひと通り目を通し終わって、瞳子に顔を向けた。
「瞳子様、今日はずいぶんといろいろあってお疲れでしょうから、お部屋でゆっくりなさって、お食事や湯を堪能していただいて、明日、少し出掛けませんか?」
「そうね。なんだか此処へ着いてから次から次へといろいろあり過ぎて・・・。一日で一年歳とった気分よ。で?出かけるってどこへ?」
「瞳子様の食材のリストを拝見しておりましたら、現世で仕入れてくるモノと、ここ幽世でも手に入るモノがございます。その幽世で手に入るモノを見に行きませんか?幽世観光がてら。素材が瞳子様のお気に召さなかった場合は、現世にて取り揃えて参りましょう。なに、幽世にもこんなにいい素材があると自慢させていただきたいというか・・・」
漣にしては珍しく控えめな物言いで、瞳子の様子を窺っている。
「う~ん・・・そうね。こちらの食材で現世のお料理っていうのも、景子と鬼堂さん二人の結婚を象徴してていいかもね。わかった。そうしましょ。」
瞳子が気分よく同意してくれたことに、ホッとした顔をしつつ、こちらを伺い見ていた、兎士郎、刑、蒼・青双子龍に、漣が親指を立てたサムズアップのサインを送ったことに、瞳子は気づいていない。
とりあえず、『めし処』からは撤収して、『幽玄館 龍別邸』の玄関へ戻った一同。
「刻限にはそれぞれお迎えにあがりますので、皆さま、それぞれお部屋でおくつろぎください。今宵は、瞳子様御一行様の歓迎の宴と参りましょう。厨人に用意させます故、しばしお待ちくださいませ」
漣は、ツーリストに戻って、皆に伝えると、最初に瞳子たちを部屋に案内した四人を呼び付けて、何やら指示を出している。
「瞳子、雪兎、改めて俺の部屋で飲み直すか?秋菟に用意させるか・・・」
青龍・朔が手を上げて、秋菟を呼ぼうとしているのを遮って雪兎が尋ねた。
「烏頭さんとお話させていただきたいのですが・・・?」
「ん?刑と?あぁ。風兎の話か・・・。今日でなくとも良くないか?まだ時間はある。
「いつだったら・・・」
青龍は、雪兎の言葉を無かったことのように、秋菟を呼び寄せると、軽い酒の用意と雪兎を湯に案内してやれと言いつけて、スタスタと自室へ戻って行った。
取り残されたカタチになった雪兎は、秋菟に促されて、湯へと向かった。
さらに取り残されそうになって、慌てて漣を呼び止める瞳子。
「漣クン、ちょっとお願いなんだけど・・・。私たちの部屋、男女同衾がダメだとかで、お部屋も別々にされてるんだけど、なんとかならない?」
「あぁ。その件でしたら、お部屋に戻られたら、雪兎様のお荷物も瞳子様のお部屋へ運ばれていると思いますよ。鬼丸・・・いや鬼堂殿と景子様がこうなって、祝言を此処で挙げることになりましたので、雪兎様のお部屋は、花嫁様の控え室となり、瞳子様のお部屋と青龍様のお部屋がそれぞれの立会人のお部屋となりますので。ただ、おやすみの際は、衝立を挟んでおやすみいただくということで…。ま、お休みの際には、誰が見ているわけでもありませんがね・・・」
最後は、意味ありげな笑みを見せ、漣は宿の厨房へと向かっていった。
その夜は、見たこともないような料理の数々と不思議な味の酒で、盛大にもてなされ、初日だというのにいろいろあったこともあり、瞳子も雪兎も部屋へ戻るなり、布団にもぐりこんで眠ってしまった。
その夜、瞳子は不思議な夢を見ていた。
**********************************
深縹色の空に、梔子で染めたような不言色の上弦の月がぽっかりと口を開けたように浮かんでいる。その空を背に、大勢で楽し気に飲み、騒いでいる。
青龍たちの幻術で見た、卯兎が消えた日の宴?いや、あの幻術で見たのとは違う…。
広い座敷に大勢がいて…。部屋のなかにあるのは、何?笹?
皆が楽し気に、おいしそうに、酒を、食事を、宴そのものを心から楽しんでいるようだ。
私は、コレをどこから見てるの?キョロキョロと見回すと、後ろに秋菟が大きな竹筒を持って立っている。繊月さん?なんで?
気づくと瞳子自身も大きな竹筒を携えている。
兎士郎が、そして大きな体躯の黄色い髪の男性と薄い桃色の髪を軽く結い上げた美しい女性が瞳子に向かって何か言いながら、手招きしている。
瞳子はどうしていいのかわからず、その宴のただなかに、佇んでいた。
**********************************
「瞳子様、雪兎様、お目覚めでしょうか?朝餉の用意ができております。座敷でお召し上がりになりますか?それともこちらへ?」
瞳子の係の仲居の声で目覚めた瞳子。慌てて身なりを整えて、雪兎を起こしながら、戸口へ行こうとしたとき、奥の部屋の方から声がした。
「瞳子と雪兎の分もこちらへ」
青龍・朔が仲居に命じると、仲居は「かしこまりました」と去っていく足音が聞こえた。
「瞳子、雪兎も、ゆっくり準備して俺の部屋で朝餉にしよう。湯にでも浸かってきたらどうだ?」
瞳子は大声で礼を言って、青龍の勧めに甘えて、雪兎と湯に向かった。
湯のなかで、瞳子は昨夜の夢を思い返していたが、起きてしまうとところどころがぼんやりとしてきて、思い出そうとしてた何かがわからなくなってしまった。
ザブンと頭まで湯に潜って、夢のことは忘れることにした。
忘れることにしたと言いつつも、まだ頭の隅で夢がもやもやしていたが、湯から戻って、雪兎と話しているうちに、本当に忘れてしまっていた。
雪兎が戸を開けると、朝食の膳がきれいに並べられていた。
青龍・朔がくつろいでいる隣に、蒼龍・晦が座り、景子も一緒にいた。
「おはようございます、蒼龍さん、景子ちゃん」
『おはようございます』
瞳子が席につこうとすると、ふと景子の姿を見て、首をかしげた。
「あれ?景子、ご主人は?」
すると景子は、にっこり笑いながら、軽く手を振ってみせた。
「幽世のしきたりで、花嫁は祝言までの五日間は、誰とも会えないんですよ。婿殿とは七日間会うことはできません。今日、この後から花嫁の支度に入るので、式までに瞳子たちに会えるのもこれが最後だと思って、朝餉に誘ったのです」
蒼龍・晦が景子である結卯に代わって答えた。
「へぇ、そんなしきたりが?でも、式まで一人でどうするの?」
「誰とも会えないとは言ったが、神薙や神子は別だ。五日間の間、神薙による祓いをうけるのだ。コイツの場合は、相手が鬼堂という神族のひとりだからの、我ら八龍の祓いも受けるのだ。それは、祝言の前夜のことだがな」
青龍・朔が食べながら、続きを説明した。
「朔、行儀悪いよ!」
蒼龍・晦が兄らしく窘めると、朔は、口を尖らせて「ハイハイ」とわかりやすくグレた態度を取った。
そんな様子に、瞳子たちが失笑していると、
「早く食わねば、出かけるんだろう?」
青龍・朔に促されて、二人も食事を始めた。
景子とも一日ぶりの話をしながら、笑いながらの食事の時間はあっという間に過ぎた。
「皆さん、食後のコーヒーはいかがですか?」
雪兎がいつの間に用意したのか、コーヒーのセットを手にしている。
「わぁ、雪兎さんのコーヒーがここでも飲めるなんて!飲みます!飲みます!いただきます!」
景子が嬉しそうに答えると、青龍・朔もそれに続いた。蒼龍・晦は、おずおずと「私は、例のアレを…」とカフェオレをオーダー。
それぞれの顔を見回して、雪兎はコーヒー豆の缶から人数分の豆をミルに入れると、豆を挽き始めた。
「雪兎さん、それ、セットで全部持ってきたんですか?さすが、コーヒー通ですね」
景子が褒めるのと裏腹に、瞳子は呆れ顔で笑っている。
「もうね、こうなると、中毒ね。ま、どこへ行ってもおいしいコーヒーが飲めるからいいけど」
「ところで、雪兎、それは何をやってるんだ?」
青龍・朔は興味津々にミルに顔を近づけた。
「おぉ、良い香りがするな」
「そうでしょ?これは豆を粉にしているんです。これに湯を注いで、コーヒーを作るんですよ」
「そうなのか?俺にもできるか?」
雪兎は黙ってうなずくと、青龍の前にミルを差し出して、やり方を教えて、ミルを青龍に任せて、自分はフィルターのセットを始めた。
そして、キャンプ用のシングルバーナーを取り出し、青龍に尋ねた。
「こちらで、火を使っても?」
「かまわんが、湯なら、後ろの炉に沸いておるだろう?」
「カフェオレ用のミルクを温めたいんです」
「みるく・・・」
「あぁ、牛の乳ですね」
「牛の・・・乳・・・」
話をしながら、てきぱきとセットを整えていく雪兎を青龍も蒼龍もすでに憧れの目で見始めていた。
コーヒーを落としながら、小鍋でミルクを温め、温まったミルクにコーヒーを適量入れると、もってきたカップに注ぎ分けた。
「はい。蒼龍さん、瞳子さん、カフェオレです。砂糖はお好みでこちらをどうぞ」
コーヒーシュガーの角砂糖の入った缶を蒼龍の前に置いた。
雪兎が青龍のコーヒーを出そうとしたとき、襖の向こうから声がした。
「青龍様、おはようございます。漣です。天目漣にございます。皆さん、こちらにお揃いと伺い、お迎えに参りました」
「おう漣、入れ!いま、コーヒーを飲むところだ」
青龍の声に応えて、漣が部屋へ入ってきた。
「これは、また芳しき薫り・・・」
「漣クンも飲むかい?熱いのが苦手だったら、ここに少し冷めたミルクがあるから、これでカフェオレにすればいいけど、どうする?」
「それは、蒼龍様が美味しいとおっしゃっていた、アレですな。いただきます」
「えー?漣も?俺もカフェオレが良い」
青龍がわがままなことを言い始めると、蒼龍が宥め、青龍が言い返す。軽い兄弟げんかの様相だが、雪兎が「大丈夫ですよ」と引き受けたことで、一件落着。
大丈夫だろうか?この龍神たち。確か、神だったはずだけど・・・。と、その場の誰もが思ったに違いない。
朝のコーヒータイムが終わり、出かけることになった。
「瞳子様、今日は、軽い山登りもありますので、それなりの恰好が良いかと思われます」
『え?山登り?』
答えたのは、雪兎と景子だった。
「ウコさんは、」
「瞳子さんは、」
『心臓悪いって言ってあったでしょ!』
二人の勢いに一瞬、怯んで後ずさった漣だったが、すぐに体勢を立て直して、いつものクールな感じに戻って答えた。
「ですから!渡幽する前にも申し上げた通り、ここでは、肉体に大きな意味はありません!ですから、瞳子様の心臓に負担を掛けることにはならないかと…」
「大丈夫、大丈夫!しんどかったら、登らないから」
当の瞳子はあっけらかんとしている。
「じゃ、そういうことで。私は、太鼓橋のところでお待ちしておりますので、準備ができたらおいでください」
身なりをアウトドア仕様にして表に出ると、漣とともに、何人かのあやかしたちも待っていた、
「トーコ、行こう!」
昨日、『めし処』の厨を案内してくれた狐耳の少女が瞳子の腕を取る。呆気に取られていると白髪の少女が逆の手を取った。
「弥狐だけ、ずるいよ」
「弥狐、ずるくない。トーコ迎えにきた。一緒に行く」
瞳子の頭が高速回転で、昨日のことを思い出す・・・
(こっちが弥狐って、ことは・・・この白髪の子は確か雪女のあやかしで、名前は・・・)
「紗雪、お前は雪兎様の先立ちを頼む」
漣が、あやかしそれぞれの役割を発表したところで、ようやく出発となった。
「幽玄館 龍別邸」の前の太鼓橋を渡ったところの通りはガス灯などもあり、明治か?大正か?っていう感じが残っているが、「幽玄館 龍別邸」のある通りは瞳子たちが昨日、最初に見た大通りからは、ひと昔、ふた昔遡ったような、街そのものが時の流れを止めているかのような風情でさえある。
そのいにしえの通りに沿って、小川が流れている。昔、瞳子の住んでいた田舎でも山へ行かないとこんなきれいな流れの小川はなかったなと瞳子が見ていると、弥狐がトコトコと小川へ降りていった。
「トーコ、これ、食べる?」
弥狐の手には、川エビが掌に山盛りになっている。
「え?弥狐、いま、捕ったの?それ!すごいね!うん。食べるよ」
弥狐は嬉しそうにエビを持ってきた籠に入れた。
「弥狐、それは帰りに持って帰れるよう、川のなかで隠しておきなさい」
漣は、弥狐に指示をして、皆を先へと促した。
最初に着いたのは、「幽玄館 龍別邸」の前の通りをずっとまっすぐに来た、突き当りの丘。
「瞳子様、雪兎様、ここは「月の丘」と呼ばれる丘で、この丘の一番上にあるのが、蒼龍様のお屋敷でございます。『月丘(げっきゅう)の蒼邸(そうてい)』と呼ばれております。「月の丘」は、その名の通り、月の夜はこの辺りは、薄く蒼く輝いているようで、きれいなんですよ」
「へぇ、そうなの。で?ここでは何を?」
「こちらでは、現世で『春野菜』と呼ばれるものが少々と春の山菜、果実が採れます。もう少し上へ上りますが、よろしいですか?」
「えぇ、まだ大丈夫よ・・・ひゃぁ!」
瞳子が答え終わる前に、ヒョイっと瞳子の体が浮いたと思ったら、関取のような体格のあやかしが瞳子を抱き上げた。
「オイラが運んでやるよ」
このあやかしも昨日、厨にいたなかのひとりだ。
「あ、ありがとう。でも、いまはまだ大丈夫だから、疲れたらお願いするわ」
瞳子の言葉に、残念そうに瞳子を下した。
一行は、「月の丘」で瞳子と雪兎の指示で、山菜と野菜、木の実や果実を採ると、丘を降りた。
「月の丘」からさらに北へ向かうと、金色の綿毛のような草原の広がる場所へやってきた。
「あぁ、ここは・・・」
「瞳子様!何か、思い出されましたか?」
勢い込んで、漣が瞳子に顔を寄せた。
「漣クン、近い、近い!んーっとね。ここ、『鬼界ヶ原』ね!」
「そうです。その通りです。思い出されたか??」
漣は、ポケットからハンカチを取り出して、涙を拭っている。
「そりゃ、昨日、見たばかりだもの。昨日、青龍さんたちの幻視で見せてもらったなかにでてきたのよ。ねぇ、雪兎?」
「あ・・・さようでしたか・・・」
あきらかに、色を失った声で単調に答えた漣。気を取り直すように、説明を始めた。
「ここ、鬼界ヶ原は、鬼界の端に位置します。この奥には、昨日、瞳子様たちがご覧になったように、『虹の橋』がございます。『虹の橋』を渡れば天界です。現世の生者であられる瞳子様と雪兎様は、こちらの『鬼界ヶ原』にいま、入ることはできません。今日は、あちらの鬼界の町のなかの鬼ヶ園(おにがその)の方へまいりましょう」
そこからまた少し歩いたところに威厳というよりも威圧的という感じのする黒い門が立っている。その門の脇で、漣はこめかみに手を充てて、ぼそぼそとつぶやくと、大柄な男たちがぞろぞろと現れた。
全員が瞳子たちに深々と頭を下げ、ルビーのような赤い髪を無造作に纏めたヘアスタイルのひとりが代表して挨拶を始めた。
「この度は、我らが大将・鬼堂様の祝言にあたり、奥方側の立会人をお務めいただくと伺っております。それから、祝言の饗の膳もご用意いただけるとか…。誠にありがとうございます。鬼堂様の手下(てか)一堂、心より御礼申しあげる。今日は、瞳子様、雪兎様お二方の侍衛を我らで務めさせていただく。安心して、心より愉しまれよ」
時代掛かった大仰な物言いに、ちょっと引き気味の瞳子夫妻だったが、悪気はなさそうなので、ありがたくお受けすると伝えると、男たちはどこかのマスゲームのごとくきれいな歩幅でスルスルと体系を整えた。
「ちょっと!漣クン、いくらなんでも大げさよ。なんとかならないの?」
「皆、鬼堂様のご婚礼がうれしいのでございますよ。少々、ゆき過ぎな感は否めませんが、これも『祝い』と、おつきあいくださいませ」
『祝い』だと言われてしまえば、瞳子も雪兎も反論で疵、現世なら、ハリウッド俳優か、どこかの国賓か⁉というボディガードたちの様相。しかも、鬼の一族を引き連れての鬼界訪問となった。
鬼界という恐ろし気な名とは裏腹に、グアムやハワイを思わせるような南国の陽気な雰囲気に満ちている。ハイビスカスやブーゲンビリアに似た花が咲き乱れ、陽射しは強い感じがするが、風はさわやかで、まさに南国の風情。
「漣クン、ここってもしかして、夏の果物や野菜が?」
「お気づきに?ここは、現世でいうところの夏の実りが得られます。特にこちらでのお薦めは、果実です。鬼界で採れる果実は、瑞々しく甘く幽世の評判のモノばかりでございます」
「そうなのね。それは、楽しみだわ。デザートやケーキに使えそうね」
「あ。そうそう、姫龍様が仰っていた『鬼桃の酒』。あれは、紗雪に酒を凍らせて、ここ鬼界の鬼桃を潰したのを混ぜたような酒だったそうです。酒も幽玄界のものではなく、鬼界の 『卯児(うーじ)』という甘味を引き出すための植物から作られる強い酒を使っていたとか…」
「『うーじ』…聞いたことない植物ね。強い酒なら、凍りきらないから、できたのね」
「瞳子さん、『うーじ』ってサトウキビみたいなものじゃないかな?それなら、それから作られる酒は『ラム酒』と似てるんじゃないかい?そうなると、瞳子さんも好きな、アレが作れるよ。ま、その果物の実にもよるけど…」
雪兎の言葉に、瞳子の顔色が輝いた。
「あぁ、ラム酒で凍った酒といえば、『フローズンダイキリ』ね!あれなら、景子も好きだし…。姫龍様のリクエストは、これでなんとかなりそうね」
二人の会話を聞いて、満足げに笑みを見せながら、漣はこめかみに二本の指を充てて、なにやらブツブツ言っている。
「ねぇ漣クン、さっきから何をつぶやいてるの?あっちの門のところでもやってたわよね?」
瞳子に問われて慌ててこめかみから指を離し、身構えるようにしつつ瞳子に向き直って答えた。
「瞳子様たちの『スマホ』と同じでございますよ。我ら神族とその眷属、そして上生(じょうしょう)のあやかしたちは、こうして念話することができるのです。あやかしも上生でなくとも同等のあやかし同士なら、簡単な念話はできますよ」
「へぇ…便利なものね。で?誰と念話してたの?」
「あぁ…それは、次に行く場所の者へ、連絡ですよ。先ほどの鬼族を呼んだように、次の準備を…」
「えぇ。いいわよ。こんな大層なことしてくれなくても」
「あぁ、ここは特別です。ここには、天狗堂からの沙汰を待つ者もいる街ですから。天狗堂と申しますのは、かの烏頭(うとう)刑(ぎょう)様がトップを務めておられる、ま、現世で申しますところの、警視庁ですね。あぁ、凶悪な者はちゃんと牢に入れてますよ。軽微な罪の者は、鬼界の鬼たち監視の下、鬼界内なら自由に出歩けます。しかし軽微とは言え、罪びとですから、瞳子様たち大切なお客様、しかも「ひと」など見かけたら、何の悪さを思いついて、仕掛けてくるやもしれませんからね」
その言葉を聞いて、瞳子と雪兎はゾッとした顔を見合わせたが、漣はそんなことはお構いなしに、ツアコンさながら、鬼界ヶ園の説明をつらつらと続けた。
「さて、瞳子様、雪兎様、こちら鬼界ヶ園には、鬼界にあるほとんどの作物、果実が手に入ります。簡単なお食事もできますから、少し早いですが、こちらで昼餉になさいますか?このあと、街中を通って『幽玄館 龍別邸』の方へ戻りますので、その途中の街なかでどこか食事処か、レストランで昼食でもよろしいですが…」
「そうなの…今朝、随分豪勢な朝食を戴いたから、そんなにお腹も空いてないけど…」
瞳子がそう答えかけたとき、雪兎が瞳子の袖を引いた。
「え?雪兎、お腹空いた?」
「いや、僕はいいけど…」
雪兎が言い淀んで、自分たちの周りに視線を巡らせた、
「『鬼界が園』で昼食」と聞いて、一緒に付いてきたあやかしたちが、ワクワクした視線を瞳子たちに向けている。
「あぁ。そういうことね。じゃ、ここで軽く何か食べましょう」
あやかしたちが喝采で応えた・
「こらこら、お前たちのためじゃないぞ。お前たちは、あくまでも瞳子様と雪兎様のご相伴だからな!いいな!」
あやかしたちは、念を押されたが、首が捥げるんじゃないかと思うほど、ブンブンと首を振ってうなずいている。
瞳子は、園内で見つけた使えそうな夏野菜と果実を選んで、漣に伝えた。
「ねぇ、漣クン、さっきの月の丘でもここでも、お願いした材料はどこにあるの?見たところ、皆、手ぶらだし…」
「そのことなら、御心配には及びません。月の丘のモノは、丘の民が。こちらのモノは、鬼界の鬼たちが『幽玄館 龍別邸』へ運んでおります。我々が帰り着くころには、すべて揃っておりますよ」
「そうなの?ありがたいけど、皆さんに申し訳ないようね…」
「いえいえ、申し訳ないどころか、鬼堂様の祝言の準備に携われると、皆、大喜びですよ」
瞳子たちが思う以上に、鬼堂・鬼丸と結卯・景子の結婚は、幽世の者たちに歓迎されているようだ。
ひと通り園内を見終わり、自分の持ってきたメモと照らし合わせて、ひとりうなずいていると、クイックイッとシャツの裾を引っ張られた。振り返ると、弥狐が訴えかけるような目線をくれている。
「あぁ。ゴメン、ゴメン!そうだね。お昼にしようか」
その言葉に、あやかしたちは、またもや首がもげるほど頷いている。
「漣クン、お昼にしましょ。皆さんもお疲れでしょ。少し休みましょう」
侍衛の鬼たちにも声を掛けて、休む場所を探すが、頃合いの場所が見つからず瞳子がキョロキョロしていると、侍衛のリーダーがどこからか大きなパラソルを持ってきて、園内を見渡せる小高い場所に立てている。
「瞳子様、雪兎様、こちらへ」
招かれるままに近づくと、いつの間に用意されたのか⁉美しい柄の織物が敷かれ、そこには数種の果物と薄切りにしたバケットのようなもの。そしていくつかの色とりどりのコンフィチュールやスプレッドが並べられている。
「まぁオシャレね。フルーツタルティーヌ?」
「料理の名前まで覚えておりませんが、私の妻が一龍斎様のお伴で現世に伺った際に習い覚えてきたものです。ありがたいことに、いまでは、この鬼界ヶ園の名物とまで言われております」
侍衛のリーダーは、少し照れながら、かなり自慢げに説明した。
「鬼界ヶ園の名物…それで、みんなコレが食べてみたかったのね?さては…みんな、今日、お供に付いてきたのはコレが目当てね?」
からかうように意地悪な口調で言って、瞳子はあやかし皆の顔を見渡した。
「違う!違う!弥狐…お手伝いしたい。トーコとユキトのお手伝いする」
泣きそうな目をして瞳子に縋りついた弥狐の頭を撫でながら雪兎が皆に声を掛ける。
「みんな、気にしなくてイイんだよ。瞳子さんも僕も、みんなの気持ちはわかってる。ちょっとからかっただけなんだよ。あんな意地悪を言う瞳子さんは、いけない子だから、オアズケだな」
「ダメ!ダメ!トーコも。トーコも食べるの!」
ますます泣きそうになる弥狐に、瞳子夫婦は「ゴメンね」と謝りながら弥狐を抱きしめた。
「お二人には、不思議とひともあやかしも惹きつけてしまうようなチカラがおありのようですね」
漣は、微笑ましそうに見ながら、念話の続きを始めた。
瞳子は、ふんわりと焼かれたパンをひと切れ手に取り、赤いコンフィチュールをたっぷり塗った。
その上に、瑞々しいフルーツを2,3切れ、彩りよく載せる。仕上げに、ふわりとクリームを掛け、ナッツを散らした。
弥狐に持たせると、小さな狐火がポッと灯る。
「ほんの少しだけ焙って。クリームが焦げないようにね」
弥狐は慎重に火を操り、クリームの表面がうっすらと焼き色を帯びる。
途端に、甘く芳ばしい香りがふわりと立ち上り、一同が思わず息をのんだ。
「うわぁ!おいしい!」
弥狐が目を輝かせてかぶりつくと、周りもソワソワし始める。
「どんな?どんな?」
「アタシも食べたい!」
「おいら、もう我慢できねぇ!」
皆が大騒ぎするなか、瞳子は次々と同じようなタルティーヌを作って、空いている皿に並べている。
「ほら、みんなも食べて!弥狐、焙ってあげて」
見ていた侍衛の鬼たちも喉を鳴らしている。
「侍衛の皆さんも一緒に食べましょうよ」
雪兎の言葉に、鬼たちの顔が緩むが、『シャンッ!』錫杖の輪が鳴り響くと、鬼たちは直立不動に変わった。
その音の方に目をやると、侍衛のリーダーが錫杖を手に仁王立ちして睨んでいる。
「漣クン、あのひとの名前、何て言うの?」
ひと通り話し終え、瞳子たちのランチの席に加わった漣に瞳子が侍衛のリーダーの名を尋ねた。
「あれは、斗鬼(とき)と申しまして、古くから鬼堂殿の家・百目家に仕える一族の長男ですよ」
漣の言葉が終わらないうちに、瞳子は斗鬼に声を掛けた。
「斗鬼さん、こちらで一緒に召しあがりません?皆さんもご一緒に」
「ありがたきお言葉ではございますが、我らは、お二人をお守りするのが今日の仕事。皆で食事をしていて、何かあって対応できなかったでは、鬼堂様に顔向けできませんゆえ・・・」
「そうなの?じゃ、いいわよ。鬼堂さんに、斗鬼さんに鬼堂さんに顔向けできないから私と一緒には食事できないっていわれたから、私と一緒に食事できない人がいらっしゃる以上、祝言のお料理を私が用意するのはムリですねって言うから」
「そ、そんなことは言っておりません。まいったな・・・」
「斗鬼、良いではないか。半々のメンバーで交代で食べれば。お言葉に甘えろ!」
漣の後押しがあって、ようやく斗鬼は、侍衛のメンバーを集め、半分づつのグループに分けて、「先にお前たちが行け」とグループの半分を瞳子たちの近くへ向かわせた。
当の斗鬼は少し離れたところに、錫杖を持って立っているままだ。
「ねぇ!まず、あなたが来なきゃ、みんな食べづらいわよ!」
瞳子の言葉に、先に瞳子たちのもとへ集まったメンバーが頷いている。
斗鬼は、後発メンバーのなかのひとりに錫杖を預けると、先発隊に加わって、皆を見回しながらリーダーらしく声を掛けた。。
「私は、妻がコレを作る練習中にたくさん食べさせられたから、味は、わかってる。皆、好きなものを選んで載せて食べると良いぞ」
そんな斗鬼に、弥狐が皿を持ってきた。
「コレ、食べて。コレ、トーコの味」
弥狐から皿を受け取って、戸惑う斗鬼を部下の鬼たちが羨ましそうに見つめている。いたたまれず、皿のタルティーヌを口へ放り込んだ。
「おぉ!これは!ウマイ!瞳子殿。コレの作り方を伝授いただけぬか?ウチへ帰って、妻にも食べさせてやりたいのです。いや、私が作って、驚かせてやりたいのです」
「もちろん!・・・あ。火を使うんだけど・・・」
「火なら、我ら鬼族も扱えますぞ!」
斗鬼は、軽く握った手をパッと広げて見せると、そこには野球ボールくらいの火玉が現れた。
「焙る程度だから、そんな大きな火はいらないんですけどぉ・・・ま、やってみる?」
瞳子は、皿にタルティーヌを作って乗せ、斗鬼に渡した。
斗鬼は、得意げに「火」を作り出し、タルティーヌに向けて放つと、無残な黒焦げタルティーヌが出来上がった。大きなカラダがひと回りもふた回りも小さくなったかのように落ち込む斗鬼に雪兎が助け舟を出した。
「そのうち、火の加減がご自分でわかるようになると思いますが、それまではこうやって作ってはいかがです?瞳子さん、タルティーヌ二つ作って!」
言われるままに二つ作って乗せた皿を雪兎に渡すと、雪兎はパンの下に敷いていたバナナの葉のような大きな葉をその皿に被せ、斗鬼にその上から「火」を当てるように指示した。葉がワンクッションとなり、タルティーヌにうまく焦げが付いた。
「はぁ・・・出来た!雪兎殿、ありがとうございます。おぉ、そうだ、おい、みんなも作ってみよ」
斗鬼の声がけで、たくさんの焼きタルティーヌが出来上がり、あやかしも鬼たちももちろん、瞳子たちもたくさん食べた。
あやかしたちも鬼たちも満足そうだ。
瞳子は、フルーツを盛り付けていた大皿から3分の1ほどのフルーツを別皿に取り、大皿に残ったフルーツにクリームを掛け、料理と共に供されたシャンパンに似た飲み物を混ぜ合わせて、紗雪を呼んだ。
「紗雪、コレを凍らせてくれる?緩めにね」
紗雪はニッコリ笑うと両手を皿に翳した。一瞬にして凍り付いた皿の上のクリームとフルーツ。瞳子はあやかしたちを見回して、先ほど「月の丘」で瞳子を抱き上げたあやかしを手招きして呼んだ。
さっきは、勢いよく瞳子を持ちあげたのに、いまはモジモジと恥ずかしそうに瞳子に近寄ってきた。
「お名前は?」
「おいら?小虎」
いかつい体つきに似合わぬ幼い声が返ってきた。
「小虎?いい名前ね。じゃ、小虎、キミにお願い。このフォークでこの山をガリガリしてくれる?」
「おいらもやりたい!」
「私も」
名乗りを上げたあやかしたちにもフォークを持たせてガリガリと掻かせて、瞳子はその掻きだされて細かくなったのをスプーンで小さくまとめては、小皿に乗せていく。
それを見ていた雪兎は、我が意を得たりとばかりに、瞳子の隣に並んで、瞳子が作った小皿に残りのフルーツやナッツ、コンフィチュールなどを掛けていく。
「弥狐もやる!」
弥狐が雪兎の隣で、雪兎の見様見真似の飾りつけをしている。
「お!弥狐、上手いぞ!センスあるな」
雪兎に褒められて、満面の笑みを見せる弥狐に「なんだ。弥狐ばっかり!」と、紗雪はかなり不満げだ。
「なに言ってるの。紗雪がいなければ、コレはできなかったのよ。紗雪のおかげ!」
瞳子に持ち上げられて、紗雪は照れ臭そうに、ふくれっ面を引っ込めた。
「さぁ、みんなに配って!みんなも自分のを取ってね」
配られた皿を手に、皆、矯めつ眇めつ不思議そうにしている。
「瞳子殿。これは、なんという・・・」
斗鬼の質問に、瞳子の答えを遮って、漣が自慢げに答える。
「これは、わたくし、現世でいただいたことがございますよ!『アイスクリーム』というものですよね!」
「う~ん・・・。当たらずとも遠からずかな?」
瞳子が皿の上のフルーツを指で摘まみあげて、口に入れながら答えた。
「え?違うのですか?」
「アイスクリームは、ミルクがもっと入っていて、もっとなめらかな口当たりでしょ?これは、凍らせたフルーツなんかを砕いて、混ぜあわせてるから、『シャーベット』とか『ソルベ』って言われるモノなのよ。少しお酒を入れたから『ソルベ』って言った方がいいかな?」
「『そるべ』ですか・・・」
瞳子の言葉を聞いて、斗鬼が懐から出した何かに書きつけている。
「正式には、もっと手間を掛けて作るけど、ここではすぐにみんなが食べられるよう、カンタンに作ったけどね。そして、景子たちの結婚式の食事の中休みの口直しやデザートにどうかと思って試作したんだけどね」
「さすが、瞳子様。発想が豊かで柔軟でございますね」
漣は瞳子をほめそやしながら、また誰かと念話で話し始めた。
「瞳子殿、これは、我が家でも作れるだろうか?」
斗鬼は、さっき『そるべ』と書きつけた紙を持ったまま熱い目で瞳子に尋ねた。
「斗鬼さん、コレも奥様に食べさせてあげたいのね。できなくはないと思うわ。凍らせる方法があればね」
「鬼は、『火』も『冷気』も操れるから、それは大丈夫だ!・・・加減が必要なんだろうが・・・」
先刻の黒焦げタルティーヌが頭を過ったのか?声が尻すぼみになった。
「そうね。コレも、タルティーヌもコツを掴めば大丈夫よ!私が帰る前に、レシピにまとめて、渡せるようにしておくわ」
「れ・・しぴ?」
「そう。レシピ。作り方よ」
「おぉ!それはありがたい!」
「その代わりと言ってはなんだけど、ちょっとお願いしたいことがあるんだけど・・・」
「その代わりでなくとも、瞳子殿の頼みとあらば、断わろうことなどあるはずござらん。なんなりと」
瞳子はうれしそうに頷くと、斗鬼の服を指して尋ねた。
「この衣装は、鬼の皆さんの衣装なの?」
斗鬼たち侍衛のメンバーは、薄手の布地で仕立てられたスタンドカラーの裾の長い上着に幅広のパンツという出で立ち。ちょうどベトナムのアオザイのようなカタチをしている上着には、それぞれ異なる刺繍が施されている。
街ゆく女性たちも同じような格好をしていて、女性の方は上着というより、ロングワンピースという丈。両サイドには、ウエスト辺りまでの深いスリットが入っており、それに合わせたボトムスは、ストレートのロングスカート、フレアのワイドパンツ、ピッタリ貼りつくようなスキニー、ハーレムパンツのような幅広のパンツの裾が絞られたタイプと男性に比べて合わせ方はいろいろだ。そして、こちらも上着にはどれも個性的で見事な刺繍が施されている。
「コレは、"鬼の"というより、鬼界の、この辺りの昔ながらの装束ですから、種族に関係なくこの辺りに暮らす者が着ていますかね…『雅な』『楪(ゆずりは)の』『衣(ころも)』(」)と書いて(かいて)、『雅楪衣(あちゃい)』といいます。現世(うつしよ)の「ユズリハ」と言われる樹によく似た『楪(ちゃ)』という樹木の繊維で昔は生地が作られていたそうです」
「そうなの?なら、私や雪兎が着ても、皆さんに不快な思いをさせない?」
「不快?とんでもない!光栄なことでございます。最近は幽玄界から来た者も土産にと持ち帰る者もおりますし…。あちらの鬼界の土産を扱う処に土産用の手軽な『雅楪衣』がございますよ。柄も色も豊富に揃っておりますから、きっとお気に召すものが見つかるかと…」
「あぁ…そうじゃなくってネ、その『雅楪衣』は、お祝いの場で着られるものもあるかしら?」
「もちろんです!宴の場や祝言の・・・あ?え?もしかして、鬼堂様の祝言に?」
「えぇ。失礼じゃなければ、着てみたいなって。こんなことになるとは思ってなかったから、着物もドレスも持ってきていないし。漣クンは、着物ならどんなものでも揃えられるって言ってくれたんだけどね。お料理も引き受けてしまったから、着物だと着るのも動くのも大変だなぁって思ってたの。でも、『雅楪衣』なら華やかなのに、皆さん動きやすそうだし。それに、『雅楪衣』ってアオザイに似てるじゃない?一度アオザイを着てみたいと思ってたから…いいなぁって見てたの。花嫁の立会人が着るには向かないかしら?」
瞳子が『雅楪衣』への思いを熱く語る脇で、斗鬼は、こめかみに手を当てて俯いてる。
「ねェ‼!聞いてた?」
瞳子に顔を覗き込まれて、斗鬼は慌てて、こめかみから手を離して、瞳子に向き直った。
「あぁ。すみません!聞いてました。お祝い事、しかも鬼堂様の祝言に花嫁様の立会人が我らの衣装を身に着けてくださるとは、私たちもうれしいですが、百目家の皆さんがなによりお喜びになると思います」
「そう??じゃ、お祝いに着て行ける『雅楪衣』を扱ってるところを・・・」
斗鬼は、瞳子の唇の前に、人差し指を立てて言葉を遮って自分が話し始めた。
「そうおっしゃると思って、いま、念話で鬼灯(ほおずき)・・・あ、妻ですが、を、呼びました。鬼灯の実家は、古くから龍籍以上の身分の皆さま用に、『雅楪衣』の素材を取り揃え、仕立てまでをやってきた家なのです。たぶん、一龍齋様が本日お召しの襯衣(しんい)も鬼灯の実家・九鬼の仕立てのものかと・・・」
自分の名前を耳にして、皆とソルベを愉しんでいた漣がなにごとか?と近寄ってきた。
「私になにか?」
「い、いえ。『雅楪衣』に興味を持たれて、祝言でお召しになりたいとおっしゃるので、鬼灯の実家・九鬼家をご紹介しようかと・・・。九鬼なら、神族であらせられる一龍齋様もお召しになられるものを扱っているので、安心だという話を・・・」
「え?『雅楪衣』を?留袖の新調はよろしいので?」
「新調って、そんな時間ないし、お料理を引き受けちゃったでしょ?着物じゃ、何かと動疵らいかと思って…」
「お時間だけのことなら、問題ございませんよ。なにせ、ここは幽世なのですから。最初に、小袖、十二単から留袖、振袖。紬、小紋、付け下げ、友禅と、各種揃えておりますと申し上げたではありませんか」
漣は得意げに、そして自慢げに例の独特の笑い方を瞳子に向けた。
「え?あれって、貸衣装のことだったんじゃ・・・」
「まさか!百目家の花嫁様の立会人様に、御貸しするなど、ありえません。新調いたしますよ。『雅楪衣』にしても新調するために、九鬼家をご紹介いただくのでしょう?」
「え?そうなの?わざわざ仕立てるなんて、とんでもない!もったいないわよ。仕立て上がりのモノで充分よ」
「なにをおっしゃってるんです?百目家の花嫁様の立会人様ともあろう御方が。『雅楪衣』をお召しになるなら、九鬼にお任せいただきゃ、最上質の布と刺繍でもって、どこに出しても恥かかないようなものを新調させていただきますよ。ねぇ、あんた?」
突然、場の空気を切り裂くように、カラリと響く声がした。
「で、どんな雅楪衣がほしいんだい?」
振り向くと、赤いオーガンジーに桜色のシルクを重ねた華やかな衣を纏った、小柄な女性が立っていた。
その姿はまるで優雅な姫のようだが、その口調はまるで親分。斗鬼が慌てて紹介する前に、女性はずかずかと歩み寄る。
「わっちが「百鬼(なきり)斗鬼」が女房・鬼灯。以後、お見知りおきを。で?あんたが噂の瞳子さんだね?」
その堂々とした態度に、瞳子は思わず圧倒される。
「…はい、そうです」
「へぇ。悪くないね」
じろりと瞳子を値踏みするように見て、鬼灯は満足げにうなずいた。
「鬼堂様の祝言の花嫁の立会人なら、バッチリ決めなきゃね。ほら、何色がいい?柄の好みは?」
「こらこら、なんて口の利き方だよ。こちら、盈月(えいげつ)瞳子殿。鬼堂様の花嫁様の立会人で、祝言の饗の膳もご用意くださるんだぞ」
「そんなこと、知ってらぁね。でも、わっちの口は、誰に対してもこうなんだから、しょうがないだろ。ねぇ?一龍齋の旦那?」
どうやら漣は、鬼灯は苦手らしく。珍しく愛想笑いなんぞしながら、頷くばかりだ。そんなことはお構いなしに、鬼灯のひとり舞台は続く。
「採寸しなきゃいけないね。旦那さんはどうするね?まさか、旦那だけ着物っていうわけにはいくまい?男のモノは、そうそう種類があるわけじゃないからね。奥さんの方の色・柄が決まってからでいいか。で?旦那はどこにいるんだい?」
一気にまくしたてられてタジタジしつつ、後ろの方を指さす瞳子。
「へぇ。優しそうないい男だね。でも小柄だから、下履きはウチのひとみたいな幅広じゃない方が恰好がつきそうだね」
「お前、ホントに失礼だぞ!鬼堂様に叱られても知らんからな!」
「なに言ってんだい。鬼堂様だって、わっちの口の悪さはよくご存じだよ!」
現世から習ってきたフルーツタルティーヌを、ここまで豪華に支度をしてくれた斗鬼の妻は、さぞかし楚々とした女性だろうと思っていたし、小柄で華奢な感じがする外見はその想像を超えた美しさだった。その鬼灯から飛び出す伝法肌な言動。そのギャップにたじろいだ瞳子だが、瞳子とて気取って物を言うのは好きではないし、鬼灯の言動からは、キツい言葉の分だけ、腹には何もないと感じられて、却って信用できる気がしていた。
「こ、こちらこそ、よろしくお願いします。急なお願いで申し訳ないですけど」
「ほんっとに!鬼堂様も急すぎですよ。早くしないと花嫁様に逃げられちまうとでもおもったんですかねぇ・・・アッハッハッハ。急なのは、鬼堂様のご決断。瞳子様のせいじゃござんせんからねぇ。しょうがありませんよ」
「お前・・・ホント、勘弁してくれよぉ。俺が鬼堂様にどやされるわっ!」
「だ、か、ら、あんたがどやされることはあっても、あたしは大丈夫なのよ!」
「トキ、ホーズキに負けた。トキ、カラダ大きいのに弱いの?」
体は大きいが喋りと声が幼い小虎が無邪気に尋ねたことで、その場が笑いの渦と化した。
ひと通り笑いが鎮まったところで漣が侍衛の者たちに手を上げて合図を送った。
侍衛の鬼たちは、また最初のときのようにきれいに整列すると、マスゲームのような動きで体勢を作りながら、見事に昼食の後片付けをしていく。
瞳子も手伝おうとしたが、侍衛のひとりに制され、手を引っ込めた。
「瞳子さん、いいんですよ。ヤツらに任せておけば。瞳子さんとダンナ様はお客様なんだ。どーんと構えておいでなさい」
鬼灯は腕組みをして、鬼たちの片づけを見守りながら、何かしらやり残したことを見つけると、口を出すよりも先にサッと動いて片付けている。口だけじゃなく、やることもやる。だから、斗鬼も漣も鬼灯には頭が上がらないのだろう。
「瞳子様、それでは次へ参りましょうか」
「一龍齋様、次はどちらへ?」
斗鬼たちが隊列を整えて、漣に行先を確認した。
「うん。これから幽玄界の繁華街の方へ出て、そのあとは幽玄館の裏、幽山(かすかやま)へ登って、幽玄館へ戻る」
「侍衛に何人か付けますか?」
「いや、繁華街の方は天狗堂の者たちが各所で目を光らせている。大丈夫だろう。途中で刑様、兎士郎様とも合流するしな。何かあれば、念話で呼ぶ」
「承知しました。それでは」
斗鬼たちは、出迎えに来てくれた門とは違う、鬼界ヶ園の門まで送ってくれた
「繁華街には、九鬼の店がございます。『雅楪衣』のお仕立てをご所望なら、寄って行かれるとよろしかろう」
斗鬼が言い終わるが早いか、ズドンッという重い音とともに、鬼灯の拳が斗鬼のみぞおちにめり込んでいる。
その華奢な体のどこに、斗鬼のような大柄な男のみぞおちに拳を食い込ませるほどの力があるのか!?瞳子も雪兎も目を白黒させている。
「いててて・・・何しやがる」
「そりゃ、こっちのセリフだよ!鬼堂様と花嫁様の大切なお客人に、ご足労かけて店へ出向かせるなんて失礼な真似できるかね!ちゃんと準備整えて、こちらから宿の方へ伺わさせていただくわっ!」
まさに鬼の形相で斗鬼を叱りつけたと思ったら、瞳子たちへは美しい笑みを湛えた顔を向けた。
「瞳子様、慌ただしくて申し訳ござんせんが、今夜、お寛ぎの時間を見計らって、宿の方へ『雅楪衣』の生地と仕立帳を持参いたします。それでよろしゅうござんすね?」
先ほど、大男のみぞおちへの豪快なパンチを目の当たりにしたところだ。首を横に振ろうものなら、瞳子や雪兎ならあばらの数本粉々になるやも知れず・・・。二人は、機械仕掛けの人形の如く、首を小刻みに振ってうなずいた。
「じゃ、のちほど・・・」
美しい笑みとしぐさで、優雅に手を振る鬼灯に、引き攣る笑顔で手を振り返しつつ、一行は鬼ヶ園を後にした。
漣は首をすくめて、寒気を払うように両腕をさすりながら、ツアコンの使命を忘れてしまったかのように速足でドンドン進んでいる。
「漣くん、待ってよ。早いよ」
漣は、雪兎の声にハタと止まって、ようやく振り返った。
「あぁ。スミマセン。ちょっと恐ろしいモノを目に致しましたので、我を忘れておりました」
いつも通りのクールな漣に戻って、深々と頭を下げた。
「漣くんでも恐ろしいモノなんてあるのね」
ようやく追いついて、ケラケラと笑う瞳子に、ブンブンと首を横に振って、また自分で自分の両腕を擦る漣。
「瞳子様はご存知ないのです。鬼族の女の怖さを・・・。怒らせたら、鬼も龍もひとたまりもありませんよ。そして一人を怒らせると、共同戦線で向かってきますからね。ま、そうだからこそ、鬼界の平和が保たれているのだと黄龍様などはおっしゃいます。しかし黄龍様とて、奥方の姫龍様は鬼族。そしてご結婚なされている、いま。龍のチカラも手に入れられている。姫龍様に敵おうはずなどないのです」
漣のそんな話を聞いているうちに、どうやら繁華街への入り口らしき通りにたどり着いた。
瞳子たちが最初に着いた街角とは違い、ずいぶん現代の現世に近い景色が広がっている通りに出た。目の前の大門を除いては。
門の向こうに見えている街並みとはちぐはぐな取り合わせの、昭和の商店街入り口を彷彿とさせる大門。その冠には『幽玄大通り』とある。
「ここへ着いてすぐのときに、漣くんが言ってたけど、ココには車も走ってるんだね。クラシックカーマニアが泣いて喜びそうな車が多いけど・・・」
そういう雪兎の目も爛々として道行く車を追っている。
「基本的に、幽世…なかでも幽玄界では変わってゆくことをあまり望んではいませんが、現世の現状も知っておかないと、現世で暮らしていけませんからね。ここは、その練習の場みたいなものです。『幽世ツアーズ』のオフィスもここにあります。ほら、あの銀色のビル。あの38階です」
「あ。ちゃんとオフィスあるんだ・・・てっきり、漣くん一人かと思ってた」
「38階ワンフロアが幽世ツアーズのオフィスで、ほとんどの従業員は研修を終えたら、現世の幽世ツアーズへ行ってます」
「え?現世に『幽世ツアーズ』なんていう旅行代理店、聞いたことないけど?」
「あぁ、現世では『KKYジャパンツーリスト』。通称『ジャパツリ』です」
『えぇ!!あの、旅行代理店最大手の『ジャパツリ』?』
瞳子のみならず、雪兎までも驚いて大声になっていた。
「はい、幹部は幽世の神事省や刑部省からの出向、スタッフは現世と幽世の混成です。」
「えぇ!?あの会社、幽世と繋がってたの?」
妙に自慢げにいう漣の袖を紗雪が引っ張り、前方を指差している。紗雪の指差す方向には、明るい町並みには不似合いな黒装束の一団がこちらへ向かって歩いてくるのが見えた。
漣に一瞬、ピリリと緊張が走ったが、遠く空を見上げて、内ポケットから扇子を取り出し広げると、空に向かって二度、三度、大きく煽いだ。
漣の袖を引っ張ったまま、その背に隠れていた紗雪も空を見上げると、漣の背から飛び出て、大きく手を振った。
その刹那。一陣の強冷風が吹きすさび、一瞬にして瞳子たちは冷凍人間となりかかった。弥狐が紗雪の腕を引いて止めなければ、幽玄界の大通りに氷河期のマンモスのごとく数体の冷凍あやかしと冷凍人間が並ぶことになっていただろう。
「紗雪、手を大きく動かすときには、袖が大きく揺れないように、押さえなさいといつも言っているでしょう!」
漣は、紗雪を叱りながら、両の腕をさすり、身なりを整え直してスッと背筋を伸ばし、空を見上げた。それと同時に、前方から向かってきていた黒衣の集団がザッという音共に、その場に片膝を付き、頭を垂れた。
凍りかけるわ、黒衣の集団が迫ってくるわ、その黒衣の集団が一斉に立ち止まったどころか、跪いている。呆然とする瞳子たちと黒衣の集団の上に大きな影が射し、大きな羽音と共に、怪鳥が黒衣衆の前に舞い降りた。
「もうちょっと快適に飛べんものか!何年天狗をやっとるんじゃ!」
怪鳥が何か産んだかに思うと、怒りながら羽根のなかから飛び出してきたのは、月影 兎士郎だった。
「何をいうか、お主こそ、何度乗ったら慣れるのぢゃ。背中でわぁわぁ喚くわ、羽根が引きちぎれそうなそうなほど握りしめるわ、載せてるこっちの身にもなってみろ!」
声の主は、烏頭 刑。
怪鳥は姿を消し、その代わりに現れた二人の小さな老人が口喧嘩を始めている。
「天狗堂の衆、何をしている、刑様をお諫めせよ!」
漣の声に、黒衣衆の最前列真ん中にいた男が立ち上がり、刑の傍まで歩み寄り跪くと、後ろに控えていた数人もそれに続いた。
「えいやっ!」
掛け声とともに、立ったままの刑をスッと持ち上げると、自分たちの集団の前に下ろし、サッと列に戻っていった。
刑はまだ、兎士郎に文句を言っていたが、ふと我が身を顧みて、自分の部下たちの前に立っていると気づいて、咳払いでごまかしつつ、身なりを整えた。刑のその様子を見て、先ほど最初に立ち上がった男が錫杖を、その隣の男が羽団扇を刑に手渡した。
「うむっ」と大きくうなずくと、刑は刑部省の長として、天狗堂の長としての威厳を醸しつつ、羽団扇を高く掲げた。
『御館さまっ!』
黒衣衆一同が頭を垂れると、瞬時にバラバラと散っていった。
「刑様、随分と大仰な登場ですね。あれほど、目立つようなことは!と申し上げたではありませんか!」
「漣、すまん、すまん。それを奴らに伝え忘れておったわ。あっはっはっはっは」
「笑い事では、ありません!これじゃ、瞳子さまたちが此処にいらっしゃると触れてまわっているのと同じではありませんか!」
ツカツカと刑の方に歩み寄りながら、漣の片手の握りこぶしが徐々に持ち上がってきている。
「漣、何をする気じゃ!?まさか…」
「うおぉ~~~~ッ‼!」
刑はびくっとして尻もちをついた。すかさず黒衣衆が「御館さま!」と叫びながら整列する。やりきった感満載の顔をした漣は、恐れおののいている刑を尻目になにごともなかったかのように、サクサクと瞳子たちの元へ戻ってきた。
「さぁ、瞳子様、参りましょう」
瞳子たちは、ビビって硬直したままの刑をそのまま放っておいていいのか?と心配しつつも、漣がサクサクと行ってしまうので、硬直した刑の脇を頭を軽く下げて通り越していった。
「一龍齋様ぁ、刑様、あのままでいいの?」
弥狐が漣の袖を引く。
「バツです!」
キッパリと言い放ったその言葉もかなり冷たい響きだったが、漣のその目が紗雪の吹雪よりも冷たい。弥狐は、震えながら漣の袖を離して、瞳子のもとへ走り寄った。
「あぁ、烏頭さん、また漣クン怒らせちゃって。よしよし、弥狐に怒ってるわけじゃないからね」
瞳子にしがみつく弥狐の頭をポンポンとしながら雪兎が笑うと、弥狐もようやく頬が緩んで笑顔になった。
漣の早足に瞳子が息も切れ切れで追いついたと思ったら、ハタと漣が歩みを止めて振り返った。
「わっ!びっくりした!突然止まらないでよ。ぶつかるところだった」
「あ、瞳子様、申し訳ありません。ちょっと思い出したことが・・・ちょっと、そこのカフェでお待ちいただけますか?」
そういうと、漣はカフェに入って中の者に声を掛けると、瞳子たちを手招きして中へ引きいれた。
外観は重厚な石造りでカフェとは思えない感じだったが、内装は昔ながらの珈琲店という雰囲気。テレビや映画で観た、明治末期か!?大正時代のカフェといった佇まいだ。
男性スタッフは、ジレに蝶ネクタイ。女性スタッフは、同じくジレに蝶ネクタイではあるけれど、タイトスカートに合わせたランタンスリーブのブラウスが少々時代がかって見える。
瞳子たち夫婦は、きょろきょろと店内を見回していたが、あやかしの子らは、すっかり席を陣取って瞳子たちが席に着くのを待っている。
天井から下がった少々ヤニ曇った感のするシャンデリアを見上げていた瞳子の側まで来て、手を引く弥狐に気づくと、瞳子はうなづきながら手を引かれるままに席に着いた。
その様子を見て、慌てて弥狐に倣うように雪兎の側へ走り寄った紗雪だったが、雪兎は紗雪に気づくことなく、カウンターに向かって一直線に歩み寄っていった。
「あ、あの、パウリスタの創設者でらっしゃる華原 龍さん…じゃないですか?」
声を掛けられたカウンターの中の紳士は、雪兎をチラリと見て、柔らかな微笑みを向けると、そのままサイフォンに目を落とした。
「caldo come l’inferno, nero come il diavolo, puro come un angelo e dolce come l’amor」
カウンターの中ほどに座っていた大きめのボータイを結んだ丸眼鏡の紳士がつぶやいた。
「caldo come l’inferno…l’inferno…悪魔の如く黒く、地獄の如く熱く、天使の如く清らかで、愛の如く甘く…それがコーヒー…だ…」
雪兎が答えてカウンターの紳士を見ると、紳士は片目を閉じて、いたずら小僧のような笑みを返して来た。
「『鬼の如く黒く、恋の如く甘く、地獄の如く熱きコーヒー』私が作った宣伝句は、こうだったんですけどねぇ…」
相変わらずの柔らかい笑みのまま、サイフォンから注ぎ分けたコーヒーをカウンターの紳士に差し出した。
「華原さんだって、ターレンのこの言葉をもとにしたんでしょ!?言ってるコトは同じなんだ。いいじゃありませんか。」
「永井先生に掛かったら、大抵のことは大したことじゃなくなってしまう。人生でホントに大切なことなんて、指で数えられるほどしかないんでしょうな。アッハッハッ」
雪兎は、カウンターの外と内にいる紳士を交互に見ながら、口をパクパクさせている。
「ユキト、ユキト!大丈夫?」
袖を引きながら、雪兎を見上げる紗雪にようやく気づいた雪兎は、うんうんとうなずきながら、それでも二人の紳士から目を離せないでいた。
「雪兎くんというのかね?雪兎くん、そんなとこに立っていないで、まあ座り給えよ。隣のお嬢さんも」
カウンターに座る丸眼鏡の紳士が、雪兎に自分の隣の席を勧めると、近くに立っていた男性スタッフがサッとやってきてカウンターの椅子を2つ引いた。
カウンターの二人から目を離せないままの雪兎は、夢現のような体で席に着いた。それを見ていた紗雪もそそくさと席に着いて、雪兎の顔を覗き込んでいる。
「あ…あの…こちらは、華原龍さんでお間違いないですよね?日本の珈琲文化の始祖でいらっしゃる…」
ようやく口を開いた雪兎がカウンターの中の紳士にそう語りかけると、今度はカウンターの隣の紳士に向き直った。
「そして…こちらは…間違いでなければ、永井…永井荷風先生ですか?」
「さようでございますよ。このカフェの常連で、私のカフェづくりの師匠でいらっしゃる」
答えたのは、かの永井荷風ではなく、カウンターの中の華原龍だ。
「えぇ!!えぇ〜!!!うわぁ~どうしよう。僕の憧れの方が揃ってここにいらっしゃるなんて!」
「おぉ?憧れの、などと大仰なことを。こんな遊び人風情な私を…アハハハ。これは頓狂なことを」
永井がボータイを弄びながら、大笑いするのをにこやかに眺めながら、カップを用意して、雪兎と紗雪にも華原がコーヒーを進めた。
「ユキトのが、上手いよ」
「紗雪、この方は僕の先生だ。師匠だ。僕なんか足下にも及ばないんだよ」
飲みもしないで抗議する紗雪の頭を撫でながら、大切なものを抱きしめるようにカップを手で包みながら雪兎が宥めた。
「ほぉ~。雪兎くんもコーヒーを?」
「いえいえ。僕なんか単なる趣味ですから…」
「いやいや、興味深いね。どうかな!?こっちへ来て、私に一杯淹れてくれないかな?」
華原が雪兎をカウンターの内に誘うと、その背を押すように永井が畳み掛けてくる。
「そりゃいい!私もご相伴に与れるかな!?」
雪兎の椅子を片手で回して自分の方へ向けると、永井も手をカウンターの方へ手を滑らせて誘っている。
「まいったなぁ…」
雪兎は、カウンターの椅子から降りて、まんざらでもない様子で、カウンターの華原の隣へ並んだ。
華原は、自分のバリスタエプロンを外して、雪兎に渡すと、永井の隣に並んで座った。
受け取った雪兎は、バリスタエプロンを締めながら、カウンター内を見回した。
「コレをお借りしても…?」
雪兎が手にしたのは、フレンチプレスのポットだ。
「いいとも。幽世ツアーズの子が何年か前に現世土産に買って来てくれたモノだがね。紅茶ポットと聞いていたが、コーヒーも淹れられるのかね?」
華原は興味津々という風に身を乗り出して尋ねてきた。
「えぇ。まぁ…。僕も普段は、布や紙のフィルターでドリップしますけど、お二人は普通のコーヒーは飲み慣れてらっしゃるでしょうから、ちょっと趣きの違うモノを…」
不承不承カウンターに入ったかのような雪兎だったが、その実、手慣れた喫茶店のマスターさながらおしゃべりをしながらもテキパキとコーヒーを準備している。
「雪兎、こんなとこまで来て、またコーヒー淹れてるの?もぉ!みんな、あっちで待ってるのよ」
なかなか皆と一緒の席に着かない雪兎を瞳子が迎えに来た。
「あぁ、瞳子さん、ちょうど良かった。僕のバッグからシュガーの缶、持ってきて」
「えぇ!?なんなの?いったい」
不服そうにしながらも、雪兎がこういうときにはトコトンまでいかないと収まらないとわかっている瞳子は、黙って雪兎のバッグからシュガー缶を取り出して、雪兎の前に置いて、自分も紗雪の隣に腰掛けた。
「あ。紗雪、みんなのところへ行ってていいわよ。そしてみんなに、好きなもの注文していいわよって言ってきて」
紗雪は、そこに残りたそうな顔をしつつも、瞳子の伝言を伝えに他の皆が待つテーブルへ小走りで向かった。
雪兎は、コーヒーを淹れつつもカウンターのあちこちをパタパタと開け締めした挙げ句、宝物を見つけたような目をすると、その見つけたモノを華原と永井の前にセットした。
雪兎がセットしたもの。それは、茶托に乗せた、少々大ぶりなぐい呑み。
コーヒーを待っていたのに、出てきたのは、ぐい呑み。雪兎は満足げだが、華原と永井は目を白黒させている。それでも黙って、雪兎の動向を見守っている。
瞳子は、コーヒーシュガーのポットにシルバーのスプーンを差し込み、ザクザクと軽く混ぜて、二人の茶托の間にセットした。
瞳子のその様子を珍しいものを見るような目で見ていた、華原と永井の二人。その二人がさらに目を見開いて驚いたのは、雪兎が二人に出したコーヒーだった。
「ゆ…雪兎くん?コレは?」
華原が恐る恐る尋ねてきた。
「華原さんや永井先生は、普通のコーヒーは飲み慣れてらっしゃるだろうし、『エスプレッソ』にしてみました。ま、機材がなくて"クレマ"がほとんどないので、『エスプレッソ』風なんですけど…」
雪兎が照れながら、説明していると、もう永井がカップに口を付けようとしている。
「あ!先生、ちょっと待ってください。お砂糖を入れて、軽くかき混ぜてから…」
「そうなのかい?最近の現世じゃ、ブラックっていう飲み方が流行っていると聞いてきたんだが、砂糖入れていいんだね」
「本場では砂糖を入れて飲むんですよ。日本では“ブラック”=砂糖なしと思われがちですけどね。」どうぞ砂糖を入れて飲んでください。そのスプーンに2〜3杯くらいが美味しいと思いますよ」
「ほう…この小さなカップに、2〜3杯…」
華原と永井は、雪兎に進められるまま、それぞれ砂糖を入れた。
「底に砂糖が残る程度に適度に混ぜて、ひと口でコーヒーを飲んでください」
二人は、恐る恐るカップに口をつけ、言われるままにコーヒーを飲み干した。
『おぉ…これは…!』
永井が目を閉じ、うっとりした声を漏らす。
「甘くて、後から苦味が広がる……クセになる味わいですな。」
「そしたら、底に溜まった砂糖を掬って召しあがってください」
底の溶け残った砂糖を掬い、口に運ぶと、永井と華原は見つめ合い、そして笑い出した。
「なんということでしょう。苦くて濃いコーヒーを飲んだあとに、ピッタリのデザートのようですな。
甘くておいしい〜!これはまるでプリンのカラメルを食べてるようですね。苦甘く、香ばしく…」
感動しきりの華原の隣で、永井は名残惜しそうにスプーンを口から離して、雪兎に向き直って尋ねた。
「雪兎くん、コレは、なんという豆のコーヒーだね?」
「おぉ、それは私も知りたいですな」
華原も身を乗り出した。雪兎も饒舌にエスプレッソを語り始めた。
華原は、胸ポケットから眼鏡を取り出して、近くにいたスタッフにペンを催促すると、近くにあったコースターに雪兎の言葉を書き留め始めた。
「おぉ。いいですね。これがここでもまた、いただけるようになりますな」
その姿を覗き込むように見ながら、永井が満足げに言った。
雪兎は、大慌てで両手を振りながら、華原と永井の間に割って入った。
「すみません。つい、スケベ心が出て、外連味を狙ってしまっただけです。これは、あくまでも余興ですから・・・エスプレッソマシンという機械があれば、本格的な「エスプレッソ」が楽しめますが、ココ、幽世で手に入るか…」
雪兎の言葉を遮るようにして、華原が答えた。
「ここは幽世ですよ?そんなもの、なんとでもなります!」
「ん?どっかで聞いたセリフね…」
瞳子と雪兎は顔を見合わせたが、華原も永井もどこ吹く風とばかりに、「エスプレッソ」の話で盛り上がっている。
「あぁ、こちらにいらしゃいましたか。さぁ、参りましょう」
漣が、瞳子たちのいるカウンターに歩み寄ってきた。
「あぁ、こちらのお二人は、一龍齋様のお客様でしたか。そうでしたか。これは、いい」
勝手に言って、勝手に納得している華原に、漣はキョトンとしつつ応えた。
「えぇ、そうでございますが…なにか?」
「うん。今度、現世で「エスプレッソマシン」なるモノを手に入れてきて欲しいんですよ」
「え・・す?ぷれ、っそ?ましん?なんです?ま、龍さんが言うのなら、良いモノなんでしょうね。わかりました。幽世ツアーズの誰かに頼んでおきましょう」
漣も華原には、一目置いているらしく、いつもの高飛車な態度ではなく、柔らかい物腰で対応している。
華原は、雪兎に片目を瞑って見せて、サムズアップしている。
「ささ、瞳子様、雪兎様、参りましょう。すみません、お待たせして」
雪兎と瞳子は、漣に促され、華原達に別れを告げて、カフェを後にした。
カフェの外に出ると、烏頭刑と兎士郎が待っていた。
『何をやっておるのぢゃ!遅いぞ!遅いっ!』
本当に、双子のようだと瞳子は思ったが、口に出すと、また長くなりそうなので、口をつぐんでいた。
「はい。はい。申し訳ございません。参りますよ!刑様、兎士郎様」
漣は、めんどくさそうに、老人二人の背を片手で押し出しながら、空いた手で、瞳子たちも前へと促した。
もうずいぶんと時間が経ったかに思ったが、表は、まだまだ明るい。遠くのビルの窓がまだギラギラと陽に輝いている。
ふと気づくと、あやかしの子らがいない。
「漣くん、弥狐や紗雪たちは?」
「彼らなら、先に幽山へ行かせました。この分だと、幽山へ着くのは暗くなってからになりそうなので、明るいうちに着けば登っていただけますが、暗くなると、獣たちが出てきたりしますからね。先に行かせて、山菜や木の実を採らせておこうと思いまして」
「え?まだこんなに明るいのに?ここにそんなに長い時間居なきゃいけない用事があるの?」
瞳子は、空を指して不思議そうに尋ねた。
「あぁ、そうでした。昨日、渡幽されてから今朝までは、宿の中にいらしたから気づかれなかったんですね。此処、幽世は、明るいか?暗いか?のどちらかなんです」
「え?陽が昇って、沈んでいくっていう流れはないの?夕焼けとか、朝焼けとか…」
「現世と違い、朝昼夕夜っていう感覚はありません。明るくなったら、それは『昼』。暗くなったら、『夜』。陽は、沈みません。黄龍様がいらっしゃる限り」
漣の話によると、幽世では、朝昼夕夜の概念がなく、黄龍が陽を司る。陽は沈むことなく、適切な頃合いになると、黄龍が自身の鱗で作られた『黄龍の扇』を扇ぎ、雲を呼び寄せて隠す。
すると、蒼龍が『蒼龍の鏡』を掲げ、夜の訪れとともに月を呼ぶ。月は幽世でも満ち欠けするため、住人たちは『月齢暦』で暮らしている。
また、天候を司るのは青龍であり、天に『青龍の剣』を掲げ、振るうことで気象を操る。しかし、それだけではなく、青龍の心が天候にも影響を及ぼすという。
卯兎を失ったあの日——青龍の怒りが雷鳴を轟かせ、その悲しみが雨嵐を降らせた。
事情を知る幽世の住人たちは、雨を恨まず、ただ青龍の心が和らぐよう祈っていた。
幽世の天候とともに、季節もまた龍神たちによって定められている。
月の丘は常春、鬼ヶ園のある鬼界は常夏、鬼界ヶ原は冬。
そして、瞳子たちが滞在する幽玄館 龍別邸から幽山にかけては、秋の気候が広がっていた。
街なかで、ウインドウショッピングしつつ、瞳子は気になった食器をいくつか選んだ。
「瞳子さま、とりあえず、調達はこんなところですかね?あ。幽山での食材もございますが」
漣の言葉に、瞳子は手にしたメモを見つつ、ため息をついた。
「どうなさいました?なにかまだ足りないものが?」
「う〜ん…足りないっていうか…。姫龍様の、鬼桃の酒はたぶん…コレ!っていうのがあるんだけど、肝心の黄龍様の、『卵のツルンの熱々』っていうのがねぇ…なんだろ?」
「あぁ、そのことでございますか。それなら、蒼龍・青龍様たちに伺えば…。あ、いまは花嫁の浄めの祈祷の時間ですね。う〜ん…」
瞳子が立ち止まってしまったので、一行は皆、そこで歩みを止めてしまった。
瞳子たちの前を口ゲンカ!?戯れ合い!?ながら歩く、兎士郎と刑を除いては。二人とも、後ろを振り返ることもなくドンドン前へ前へと進んでいる。
「月影さーん!烏頭さーん!」
呼び止めようとする雪兎を制したの漣だった。
「放っておきましょう。そのうち気づくでしょ」
「え?そんな雑な扱いでいいんですか?幽世の首相と警視総監でしょ?」
「いいんです!」
漣の目がギラリと光った…かに見えて、雪兎は、それ以上は口を噤んでしまった。
そんな雪兎をよそに、漣は、またこめかみに指を充てて、誰かと念話とやらを始めている。
こめかみに充てていた指を離しながら、瞳子を振り返った漣は、大きなため息をついた。
「瞳子様すみません。やはり、蒼龍様も青龍様もご祈祷中らしく…。今日のところは、諦めて、今宵の夕餉の席ででもお尋ねしましょう。さて、もうこちらでの御用がなければ、幽山の方へ戻りますか。まだ、この時間なら登れるかもしれません」
「・・・そうね。考えてもわからなさそうだし、そうしましょうか」
瞳子たちが歩を進め始めたところで、後ろから声が聞こえてきた。
「おや、一龍齋様、瞳子様ご夫婦、まだこんなところに、いらしたんですかい?もう、とうに宿に戻られてるのかと…」
さっき鬼ヶ園で会った、鬼灯だった。
「鬼灯さん、お買い物ですか?」
「いえ、ちょっと実家へ、ね。ほら、あなたの、瞳子様の『雅楪衣』のことを親に相談にね。仕立帳も生地見本もわっちのこの目で確かめてからお持ちしようと思いんして」
「あぁ、早速ありがとうございます」
「なにおっしゃってるんです。わっちの亭主の親分、われらが鬼の本家筋の祝言に関われるんです。こんな光栄なことがあるかね?」
相変わらず、伝法な物言いだが、その表情には自信と自慢と自尊に満ちている。
「景子に代わっても御礼を申し上げないといけないですね。幸せ者です。景子は。知らない土地で、こんなにも歓待されてお嫁にゆけるなんて…」
「知らない土地もなにも、あの子は幼いと…」
鬼灯の言葉が止まったのは、瞳子の後ろから漣が恐ろしい目つきをしながら、口の前で指をバッテンにしていたからだ。
「あぁ・・・そうだ。そうだ!実家から買い物頼まれてたの忘れちまうとこでした。じゃ、またのちほど」
慌てて、モゴモゴと話を切り上げて、立ち去ろうとする鬼灯を瞳子が呼び止めた。
「鬼灯さん!」
ビクリ!としながら振り向いた鬼灯に、まだ漣の氷の刃のような視線が突き刺さっている。
「な…なんでござんしょ?」
「鬼灯さん、お料理得意でしょ?」
「得意っていうか、好きですよ」
「あぁ、じゃ『卵のツルンの熱々』って料理知らない?」
「卵・・・ツルン、の、熱々?そりゃ、なんです?」
漣は、鬼灯にコトの経緯を話して聞かせた。
「ふ~ん・・・黄龍様がご所望の、『卵のツルンの熱々』…あのときの、『上弦の月の宴』で供された…」
鬼灯は、腕組みでしばし考えていたが、「ん?そういやぁ・・・」ポンッと手を打って、ドンッと漣の背を叩いた。
「な、何するんですか!」
「いやいや、一龍齋様も、肝心なことをお忘れでないかえ?」
「肝心なこと・・・?」
「あの、『上弦の月の宴』の席にはいなかったけれど、あのときの饗食を召しあがった方がいっらしゃるでしょうよ。蒼龍様、青龍様以外にも…。そして、ココ幽世の祝言で、ほとんど準備も何もなく、お暇な方が!」
「え?あ?・・・あぁ、鬼丸っ!あぁ・・・いや、鬼堂様!!」
「そういうことで。わっちは、これで…」
いつもの調子に戻って、言い放つと、鬼灯は去って行った。鬼灯の背を見送りながら、漣は、鬼堂・鬼丸と念話を始めた。
しばらくして、漣は満面の笑みを浮かべて、瞳子たちに向き直った。
「瞳子様、『卵のツルンの熱々』の正体がわかりました!あの夜の特別な料理と言うよりは、卯兎の得意料理で、山鳥の卵が手に入るとよく作っていたそうです。黄龍様だけでなく、蒼龍様、青龍様、そして鬼堂様、『めし処』へ来る皆が好きだったそうです」
「そうなの?じゃ、黄龍様だけじゃなく、ご出席の皆さまに喜んでいただけそうね?で?それは、作り方は?」
「あ?え?いや・・・あ~・・・作り方は・・・」
「まさか、聞いてないの?」・・・「つっ使えないヤツ・・・」
最後は小声で呟いた瞳子だが、漣は聞き逃さなかった。
「なっ・・・!?使えないって!?だいたい鬼丸も晦も朔だって食べただけで作り方は知らないんですからね!」
怒りに我を忘れた漣は、すっかり素に戻って、龍神・鬼神の皆を幼名で呼びつけてしまっている。
「はいはい、わかった、漣くんは悪くない。でも結局どうするの?」
「まぁまぁ、瞳子さん。どんな料理か聞けば、何か思いつくかもしれないじゃないか。ねぇ?漣くん?さすがにどんな感じの料理だったかは聞いたよね?」
見るに見かねて、雪兎が助け舟を出した。
「もちろんです!黄龍様のおっしゃる通り『卵のツルンの熱々』だったそうでございます」
「え?それじゃ何の手がかりにもならないじゃん・・・」
雪兎もつい、口走ってしまった。
「いや、まだあります!まだありますから!!」
二人に「使えない」呼ばわりされて、漣は必死に『卵のツルンの熱々』について、説明を始めた。
溶いた卵に、木の実や魚などいろいろ入れて、それを小さな椀に次ぎ分けて、蒸したものらしいと。そして、かの宴の際には、その器は、太めの竹を切った竹筒だったことを鬼堂・鬼丸から聞き出したらしい。
『え?それって、茶わん蒸しじゃん!』
瞳子夫婦が声を揃えて叫んだ。
「瞳子さん、茶わん蒸しなら瞳子さんの得意料理じゃないか!僕、瞳子さんの茶わん蒸し、大好きだよ!」
「そうね。茶わん蒸しなら、大得意よ!」
「そうなんですね!良かった。お役に立てましたか?」
「もちろん!」と答える瞳子に、いつものクールな漣に戻って胸を張っている。
「でも、違ったら・・・。そうだ!ねぇ、漣くん、今夜、厨房をお借りできるかしら?もちろん、他にお泊りの方のご迷惑にはならない時間で良いんだけど・・・」
「いまは、安全面を考えて、お泊りは瞳子様たちご夫妻だけでございますから、問題ないかと・・・」
「へぇ、あんな大きな建物に、僕たち二人だけが客なの?もったいない」
「いえ、もともと、幽玄館 龍別邸は、龍神様、特に青龍様専用みたいなところがありますからね。大きな神事があれば、各龍神様とその神薙たちが泊まるのでにぎやかですが」
「じゃ、厨房をお借りできるのね。今夜、お試しで作ってみて、蒼龍さん、青龍さん、鬼堂さんに召し上がっていただいて、確認しましょう」
今度こそ、瞳子たちが歩き始めたところで、通りの遥か向こうから、小さい人影が何かを叫びながら、こっちへ向かってきている。その姿を認めると、漣はすばやく瞳子の腕を引いて、すぐ近くの角を曲がって路地へ入った。
「あ、あれ?月影さんと烏頭さんじゃないの?待ってあげなくていいの?」
「いいんですよ!参りましょう!」
瞳子たちが初めて来たときとは違う路地だが、突き当りは幽玄館の前の通りらしい。この路地は両脇に小さな店が並んでいて、さながら市場の様相だ。
瞳子と雪兎は、物珍しい食材などに目を取られているが、漣はサクサクと進もうとする。
「漣くん、ちょっと待ってよ!ここにも面白い食材がありそうじゃない?」
「あぁ、現世の方には珍しいものが多いでしょうね。少し、何か買い物しますか?」
ようやくゆっくりと歩きだした漣に、あれやこれや説明を聞きながら、店を見て回り、良さげな器と山鳥の卵を買って、通りにでると、ちょうどあやかしの子らが、幽山で採ってきた山菜や木の実を川で洗っているところだった。
「あ~トーコ!!」
目ざとく瞳子たちを見つけて走ってきたのは、弥狐。後ろから、沙雪と小虎が追いかけ、その後ろを他の子らが続いて来た。
全員が幽玄館の前に集まったときには、すでに周りは暗くなっていた。
「あれ?ホントに知らない間に、夜になってる!」
瞳子の驚きの声を、あやかしの子らは不思議そうに見ている。
「ね?夕焼けとかって、見たことない?」
瞳子の素朴な疑問は、彼らを恐怖の表情に変えた。
「瞳子さま!先ほどもご説明しましたが、昼と夜以外は、黄龍様になにごとかあったときなのです。『夕焼け』は、黄龍様の御身が危うい兆しですから…」
「え?そういうことなの?ごめんなさいね。知らなかったのよ」
瞳子は近くにいたあやかしの子の頭を撫でながら言ったが、皆の表情はこわばったままだ。瞳子は、周りを見回して、恐怖に慄く子らの顔を見て、思案を巡らせていた。
「そうだ!お詫びに、みんなにも『卵のツルンの熱々』を今夜、ごちそうするわ。それでどう?許してくれる?」
「トーコ、卯兎のあの料理、作れるの?ここ何十年、何百年誰も作ったことないよ?」
「う~ん…卯兎さんが作ったのと同じかどうか?わからないけどね。鬼堂様に召し上がっていただけば、同じかどうか?わかるかな?あのときのお料理を召しあがったのって、黄龍様と姫龍様を除けば、私の知ってるなかでは蒼龍様、青龍様、鬼堂様だからね」
「弥狐も知ってる。食べた。沙雪も、小虎も、ポンタも、竹暁も…みんな食べたよ」
「え?そうなの?みんな、あの宴に出てたの?」
「弥狐たちは、宴に出られない。でも、手伝った。そいで…お料理は、皆の分も卯兎が作ってくれた」
「灯台、下暗しってこのことね!」
瞳子は、漣に向き直って、睨むようにしながら、言った。
「え?いや、私はあのとき、天界へ修行に行ってまして、事の顛末も戻ってから、鬼丸や兎士郎殿から伺ったわけで・・・えー・・・」
「いいわよ。いいわよ。でも、良かった。心強いわ。あの宴を知ってる子らがここにいれば、いろいろとヒントをもらえそうよ」
幽世を慌ただしく巡った一日が終わり、その日の夕食を軽く終え、蒼・青の双子龍と鬼堂・鬼丸、あやかしの子ら皆、「めし処」に集まっていた。
「さぁ、みんなお待たせ!」
瞳子と雪兎が運んできた蓋つきの小鉢を皆の前に並べた。
「さあ、どうぞ。蓋を開けて、召し上がれ!熱いから気をつけて」
皆、恐る恐る蓋を取ると、湯気とともに現れたぷるぷるの茶わん蒸しに、ため息が漏れた。
青龍・朔が木匙で掬いあげて口へ運ぶのを息を飲んで見つめる面々。朔は目を閉じて口に流し込むと大きく息を吐いて、一筋の涙を流した。
「あー青龍様、泣いてる~」
「泣いてはおらん!熱かったのだ!いいから、皆も食え!熱いぞ!熱々だぞ、プルンだぞ」
小虎に言われて、大きくかぶりを振って睨み返しつつ答えた青龍の声は少し震えていた。
それぞれが木匙を取り、口へ運んでは大きく息を吐き、そして、「ふうふう」という息の音と「かちゃかちゃ」と木匙が茶わんに当たる音だけが響く沈黙が続いた。
「ふぁあ~美味しかったぁ~」
最初に沈黙を破ったのは弥狐。その後、食べ終えたあやかしの子らが次々に感想を口にし始めた。
「どう?どうだった?」
瞳子が皆の顔を見回しながら不安げに尋ねる。
「あぁ・・・瞳子。これだ。父の・・・黄龍様の言う「卵のツルンの熱々」は。見事に、あのときの、あの夜の味だよ」
蒼龍・晦もどうやら泣いているらしく、涙声で答えた。鬼堂・鬼丸もうんうん、と頷いている。どうやらこちらも泣いているらしい。
「やったね!これで黄龍様のリクエストもクリアだわ。じゃ、茶わん蒸しはメニューに入れるとして・・・」
瞳子が確信を得て、他のメニューとの組み合わせを頭で巡らしていると、あやかしの子らの話が耳に入った。
「これ、卯兎のと同じだね」
「うん。また、上弦の月の宴やるのかな?」
「おいらたち、またお手伝いできる?」
「笹と竹、幽山で採ってくれば良かったかな」
「ねぇねぇ、お手伝いしたら、またこれ食べられる?」
急に話を振られて、すぐに応えられずにいる瞳子に雪兎が肩を叩いて振り向かせた。
「どうかしたかい?瞳子さん?」
「えっ?あぁ・・・ごめん。なに?なに?」
「鬼堂様と結卯様の御祝言の宴のお手伝いしたら、またおいらたちも宴の膳を食べさせてくれる?」
「小虎、今回の祝言は、鬼堂様と景子。結卯ってひとじゃないのよ。あ!小虎が聞きたいのは、こっちよね。宴の膳を食べられかどうか?ふふふっ。もちろん、お手伝いしてくれたら、みんなの分もあるわよ」
大喜びで他の子らの輪に戻っていった小虎を見ながら、また瞳子は考えを巡らせていた。
「瞳子さん、さっきからどうしたんだよ?体調悪いのかい?」
「雪兎、今度の日曜日って何日だっけ?」
雪兎は、少し考えてから手を打って答えた。
「7月7日。七夕だ!景子ちゃん、七夕婚だなんて、急だったけど、いい日を選んだよね」
それを聞いて、瞳子はハッとして蒼・青の双子龍のもとへ行った。
「ねぇ、月を司どってるのは、どちらでした?」
「私だよ」蒼龍・晦。
「景子と鬼堂さんの祝言の日の月は、なに?」
「あぁ・・・えーっと昨日が新月だったから、祝言の日は上弦ですね」
「そう・・・上弦の月・・・」
瞳子は、そう呟くと左薬指の指輪にそっと触れた。まるで、何かを確かめるように。