現世の夢。幽世の現。

 コポコポと湯が沸き上がる音とコーヒーの薫りが心地よい。
 もう少しこのままでいたい…。
 そんな瞳子の鼻下に、温かい湯気とともにさっきまでよりも強いコーヒーの薫り。

「瞳子さん、そろそろ時間だよ」

 目をゆっくり開けると、コーヒーを瞳子の目の前に差し出した雪兎がいた。
「もうそんな時間?さっき目を瞑った気がするのに…」
「ほら。1時間は眠ってたよ」
 雪兎がコーヒーを啜りながら、棚の置き時計を指さす。
 時計のデジタルは「14:08」。
 オンラインミーティングが終わった13時前にソファに倒れこむように寝てから、もう1時間以上経っていた。約束の時間は15時だけど、準備に時間が掛かるだろう瞳子のことを考えて、早めに起こしてくれたんだろう。

 雪兎が用意してくれたコーヒーを手に、スマホでSNSのチェックを始めた。

「瞳子さん、いいのかい?そんなゆっくりしてて」
「何が?」
「い、いや…また、ファッションショーやらないの?」
「ファッションショーって…失礼ねっ。洋服なら、このままでいいわ。オンラインミーティングのままだから」
「あ。そ?ホントに?」
「なんで?ダメ?おかしい?」
「うーん・・・上はそれでイイんだろうけど、オンラインミーティングじゃなくて、リアルに会うわけだから、下のソレはどうかな?」
 雪兎が苦笑いしながら、瞳子の下半身を指さす。

「あ~~~~‼そーだった。オンラインだからいいやって、下はスウエット短パンのままだったぁ‼」
 
 カップを置いて、大急ぎでベッドルームへ走る瞳子の背中をコーヒーを飲みつつ笑いながら見送る雪兎。

「雪兎ぉー、コレ、どう?」
 着替えてリビングへ来た瞳子は、クルリとひと回りして見せた。
「うん。悪くないよ」

「悪くない?良くはないってことだよね?えぇ…どうしよ。じゃ・・・」
 またバタバタと寝室へ走る瞳子。
こんなことを繰り返しているうちに、もう時間は15時になろうとしている。

    ―ピ、ピン・・ポンッ♪  ピ、ピン・・ポンッ♪―

「え?もう?どうしよう・・・」
「いや、彼らじゃなく、景子ちゃんだと思うよ。僕が出るよ。瞳子さん、この間のパンツ、カッコ良かったよ。食事に行ったときに履いてたヤツ」
 そう言い残して、雪兎は玄関へ向かった。

「ウコさぁーん、いよいよですねぇ♪」
 景子の能天気な声が響いてきた。

    ―ピ、ピン・・ポンッ♪  ピ、ピン・・ポンッ♪―

「うわっ。今度こそ、彼らね」
 鏡の前で数度振り返りながらチェックして、迎えに出た。

「わ。ウコさん、そのパンツ、カッコいいですね♪」
「そう?ありがとう」
「だろ?」
 なぜか、雪兎の方が自慢げだ。

 雪兎がドアを開けると、恭しくお辞儀をしている先日の幽世トリオ。
 前回と同じ並びで席につくと、今回は雪兎が先にコーヒーを出した。
「お好きでしたよね?お二人とも」
『うむ』
 仰々しい頷き方の割には、好物のコーヒーを前にだらしなく目尻が下がっている、神薙の月影兎士郎と幽世の治安を守っているらしい烏頭刑。

「おぉ良い薫りぢゃ。やはりココのコーヒーは、ひと味違うのぅ。兎士郎殿」
「同じコーヒーなのに、我らが日々にいただいておるのとは違いますな。刑殿」
「あ。前回、あんな終わりになってしまったので、お渡しし損ねたコーヒー豆と、美味しい淹れ方のメモをこちらに置いておきますね」

『おぉ~‼ありがたい』
 雪兎が、コーヒー豆とメモの入った小袋をテーブルに置くが早いか、スッとテーブルから小袋が消えた。
 あまりの早業に、キョロキョロと周りを見回す、兎士郎と刑。
 薄い唇の口角を片側だけ上げて、凍り付くような笑みを見せる漣の指先で二つの小袋が揺れている。

『お~っ!返せ!我らのコーヒーっ!』
 猫じゃらしにじゃれつくように、小袋に手を伸ばす小さな老人2人。
 漣も猫をじゃらすかのように、上へ下へ、左へ右へ。

 現世3人の唖然とする視線を感じた漣が冷静に戻り、またまた素早い身のこなしで、2人の手元に小袋を置いた。

「オッホン!お二方、本来のお仕事をお忘れなきよう」

 天目漣が眉をひそめて、キツめに釘を差すが、二人はうれしげにコーヒーの小袋を抱えてどこ吹く風。

「漣クンは、コーヒー嫌いだったかな?紅茶もお茶もあるよ」
「いえ、おかまいなく。こちらをいただきます」
 漣が背筋を伸ばして、肘を水平にしてカップを持ち上げる様は、絵のようだ。
「イケメンは、何をしてもイケメンですねぇ」
 景子が惚れ惚れしながら、漣を見つめている。それを横目でチラリと見やって、静かにカップを置くと、漣が口を開いた。

「それでは、先日の面談の結果と今回の経緯(いきさつ)をご説明いたします。よろしいか?」

『はい。お願いします』

「まずは、面談の結果ですが…。こちらは、先日申し上げた通り、今回、こちらが探していた方は、盈月瞳子(えいげつ とうこ)様。あなた様で間違いございません。あれから幽世に戻りまして、再度、審査しましたが、間違いないということに…。えーっと、この間はバタバタとして、いろいろとご納得いただけなかったようですので、こちらの事情を少しお話させていただきます」

 ー 約500年ほど前の話になります。
 幽世に龍籍の神子・卯兎という者がおりました。
 彼女は龍籍の者ですから、そのままいれば、いまも私たちと一緒に過ごしていたことでしょう。
 『龍籍』と申しますのは、『龍神』の『籍』。「龍神」の『龍』、「戸籍」の『籍』と書きます。時の黄龍様…幽世の長たる方ですが…から、その『籍』を与えられた『ひと』が『龍籍』に入ることができ、その黄龍様がいらっしゃる限り、『神籍』にいる者と同じで不老長寿でいられます。
 まぁ、不老長寿と申しましても、老いは多少ありますが。でも『ひと』の速度に比べれば、かなり遅いものです。ー

「え~!幽世ってそんなシステムあるんですねぇ。聞きしに勝る不思議の国ぃ~」
 景子が感嘆の声をあげる。
「システムって…ま、まぁ、そうですね。こちらにいらっしゃる月影兎士郎様は『ひと』でいらっしゃいますが、『龍籍』に入られております」
「月影サンって、不老長寿っていう割には、結構なおじいちゃんじゃない。何千年生きたら、こんなになるのぉ?」
「お!お前、おじいちゃんって‼まだ、千年生きとらんわっ!龍籍に入ったのが遅かったのぢゃ!」
 それまでコーヒーを舐めるように飲んでいた兎士郎が、立ち上がって反論した。

「お話し中申し訳ございません。まだご説明はサワリでしかありませんっ」
 冷たい目線と口調を景子と兎士郎に向けて、漣が続きを話始めた。

 ― その卯兎様ですが、500年前のある日、龍籍を離れられ転生を望まれたのです。
 その際に、7回目の転生を終えられたら、幽世に戻られるだろうと黄龍様が仰られました。
 しかし、それまで卯兎様と一緒に転生を繰り返していた者が7回目の転生に一緒に転生で疵、卯兎様を見失ってしまったのです。ー

「ったく、昔から粗忽なヤツだったが、こんな肝心なとこでやらかしてくれるとはな」
 烏頭刑がカップの底を指で掬って舐めながらぼやいた。
「刑様っ‼はしたない真似、お止めくださいっ!」
 鬼のように怒った顔も美しい漣が刑に言い放った。

「烏頭さん、おかわりいかがです?」
 雪兎がキッチンからコーヒーポットを持ってきた。
「おぉ。いただくぞ!」
「私にもくれぃ!」
 ここぞとばかり、兎士郎もカップを差し出す。
 雪兎は苦笑しながら、二人のカップにコーヒーを足し、残りを自分のカップに入れると、キッチンで新しいコーヒーを淹れ始めた。

 ― 見失った卯兎様を我々で探し始めましたが、なかなかその足跡を掴めず…。
 手掛かりは、卯兎様の誕生月と月の暦。卯兎様と同じ髪と瞳の色。そして、左薬指の星型の疵。
 これだけは、何度転生を繰り返しても変わらないもの。
 八方手を尽くして、消息を掴み切れないことに業を煮やした青龍様の提案で、現世の方を一部、受け入れていこうと現世の長の方々に掛け合い、150年と少しぶりに幽世と現世の垣根を下げて、行き来できるようにしたのです。ま、ほんの一部の方たちですが。
 それでもなかなか見つからないものですから、今回の募集に至ったわけです。  —

「ここまではよろしいか?」

 漣はまっすぐに瞳子の目を見た。
 瞳子は、あまりにまっすぐな漣の視線に戸惑いながら、頷く。
「えぇ。でも、なぜそこまでして、その『卯兎』さんを探してるの?っていうか、その卯兎さんの生まれ変わりが私だっていうの?なぜ?髪や瞳の色なんて同じひとはいくらだっているし、2月の満月生まれだってこの世に何人いると?」

「そうですね。それについてはいろいろと根拠がありますが、一番はその星型の疵です」
 漣は、瞳子の左薬指を指した。

 ―髪色:濃茶
  瞳 :茶色
  生月:如月・満月
 これらは、確かにかなりの方々が当てはまります。ですが、髪色も瞳の色も普通の方がご覧になると同じ色に見えても、私たち幽世の者には、微妙な違いまで見分けることができるのです。—

「あぁ。それで、あんなに舐めるように髪の毛を見たりしてたわけね」
 瞳子は二人の老人が前回のときに、気味が悪いくらいに自分の髪の毛を矯めつ眇めつしていた姿を思い出した。

 ― 続けます。
 「如月(きさらぎ)の満月」
 生まれ「月」というのは、魂が何度生まれ変わっても、その魂の決められた「月」にしか生まれ出(いで)ないものなのです。
 「新月(しんげつ)」「繊月(せんげつ)」「三日月(みかづき)」「上弦(じょうげん)」「十日夜(とおかんや)」「十三夜(じゅうさんや)」「幾望(きぼう)」「望月(もちづき)」・・・いまは「満月」と呼ばれることの方が多いですね。「十六夜(いざよい)」「立待(たちまち)」「居待(いまち)」「臥待(ふしまち)」「更待(ふけまち)」「下弦」「有明」、「晦日」と月齢の分かれているなか、「幾望」「望月」「十六夜」が満月期と呼ばれる月域。
 卯兎様と同じ「月」の生まれは、カンタンに申し上げると『十四夜』。「幾望」と呼ばれる月齢ではあるのですが、「幾望」のなかでもかなり「望月」に近い月齢。
 もう少し詳しく申し上げますと、卯兎様は『十四夜』の月がまさに「満望月」にならんとする時刻にお生まれです。
 瞳子様のお生まれになったのは、現在の時刻で18:05。この日の「満望月」は23:50。
 見た目には変わらない満月ですが、満ちきるまでにあとほんの少し足りない。そんな時間にお生まれになったのが、卯兎様であり、その転生の瞳子様なのです。
 そして、肝心の「星型の疵」。これには、決定的なモノがございます。
 今回ご応募の方のなかに、タトゥと言う手法で入れてきた方やご自分で傷つけてきた愚か者もおりましたが、この疵はそんなものでは代わりにはならないのです。
 瞳子様、その疵は生まれつきおありになったでしょう?
 その疵には、あることがきっかけで「神氣」が宿っているので、わかるものが触れればその「氣」を感じ取ることができます。
 先日、面談の際にこちらのお二方が触れた途端に倒れそうになったのは、それほどに強い「神氣」がその疵からは発せられていたからです。  ―

「へぇ~そうなの?私なんか触っても全然、平気だけど?」
景子が瞳子の左手に手を重ねた瞬間、少しビクンっとした。
「もぅ、ウコさんこの指輪デカ過ぎですって、いま、龍の頭に指が引っかかちゃったじゃないですか」
 一瞬、その場の視線が景子に集まったが、景子の軽口に、場が一瞬和む。
しかし、瞳子の手を見ていた兎士郎と刑が、目を見合わせた。
漣も、ほんの一瞬だけ引き攣った表情を見せたが、すぐにいつもの冷静な漣に戻ってそのまま話を続けた。


「お前のような「ひと」の小娘に、青龍様の「神氣」がわかってたまるか‼」
「ゴホゴホッ!刑様っ!」
 漣の一喝に、口をすぼめて慌てて黙り込む刑を見て、皆が吹きだした。
 笑いが治まったところで、瞳子が尋ねる。

「だいたいはわかりました。それで?なんでこの時期に幽世に行かなきゃいけないの?このまま待てば、私ももうすぐ死ぬわ。死ねば、いずれ行かなきゃいけない場所でしょ。幽世って」
「瞳子さん、死ぬなんて言うなよ!」
 それまでキッチン近くの丸椅子に腰掛けて、黙って聞いていた雪兎が声を荒げた。
「雪兎、そんなに怒らないでよ。だって、もうこの歳だもの。おかしくはないでしょ?普通に考えてってことよ。今日・明日のことを言ってるんじゃないから」
「ウコさん、雪兎さん、心配してるんですよ。ここのところ、発作起こすことも少なくないし。私だって心配ですよ!」
「わかってる。景子も雪兎もありがとう。ゴメン。そんなにカンタンに死ぬって思ってるわけじゃないから」
 三人のやりとりが落ち着くのを待って、漣が答えた。

「そうですね。そこのところをご説明しなければならないかも知れませんね。どうでしょうか?兎士郎様、刑様」

 雪兎からもらったコーヒーの小袋を抱えながら、嬉々としながら匂いを嗅いでは眦を下げて「猫にまたたび」のごとく恍惚としている、兎士郎と刑。
 漣が咳払いをしても恍惚の世界から戻らない。

 ドンッ‼

 瞳子たち三人も飛び上がるくらいの勢いで、漣が足を踏み鳴らすと、二人の老人は本当に椅子から数㎝飛び上がって、小袋をギュッと抱きしめたまま漣に目を向けた。

「なぜ、この時期に瞳子様を幽世にお迎えせねばならないのか⁉その説明を差し上げなければならないのではっ?」
 漣が大きめの声で、ゆっくり、ハッキリ、キツめに二人に再度問いかけた。

 兎士郎と刑は、顔を突き合わせてコソコソと小声で話し始めた。
「…だから、そこは青龍様の…」
「しかし、それでは瞳子がのぅ…」
「そうは言うが、私の一存では…」
「まさしく、そこがちょっとなぁ」
『う~~ん』
 結局、結論は出なかったようだが、意を決したように兎士郎が口を開いた。

「瞳子、どうぢゃろ?それを知るためにも、一度、幽世へ来てみんか?お前の納得できる理由になるかどうかはわからんが、ココ現世ではわからぬことも幽世ならわかることもあると思うんだがのぅ…」

「と、瞳子って…この間も思ったけど、いきなり呼び捨て、『お前』呼ばわり、失礼じゃない?」
 瞳子は、兎士郎の問いには答えず、兎士郎の言動に不快感を露わにした。

「申しわけございません。こちらにいらっしゃる、月影兎士郎様と烏頭刑様は、こう見えて…」
『どう見えてなんぢゃ‼』  
 二人の老人のツッコミなどなかったかのように続ける漣。

「こう見えて、兎士郎様は神事省にて幽世全体の神薙を統べるお立場の方。刑様は、刑部省にて幽世の治安を守る者たちを統べていらっしゃる。現世で言うところの『総理大臣』と『警視総監』とでも申しましょうか。つまり、御二方の上には黄龍様とその八龍の皆様、黄龍様の奥方でいらっしゃる姫龍様しかいらっしゃいません。したがって、この方々以外の方に、敬語やへりくだった物言いをなさることはないのです。ご了承くださいませ」

『ソーリダイジン…』
『ケイシソーカン』
 目を白黒させつつ、二人の小さな老人を見やる現世トリオ。
「アハハハハ〜。ホントにぃ?ホントにこのちっちゃいおじいちゃんが幽世のケイシソーカン?うけるぅ〜」
 瞳子を呼び捨てにした失礼さを上回る失礼さ加減で大笑いする景子を冷たい目で一瞥して、漣がさらに続ける。
「先程お話申しあげました通り、兎士郎様は『ひと』ではありますが、龍籍の方。そして刑様は、烏天狗のあやかしでいらっしゃるのです」

「天狗?天狗って、あの天狗?」
 景子は、失礼を通り越している笑い方で笑い転げながら、自分の鼻に握り拳を付けて尋ねる。
「ソレは、何の意味でございましょうか?」
「え?天狗って言ったら、コレでしょ?鼻が高くて大きい…」
「あぁ〜あ。そういう意味でしたか。それは現世の方の創作物ですね。我々の言う天狗族とは、コチラですよ」

 猛禽類の鳥人間とでもいう風体の画像をタブレットに映し出した。

『えっ⁉』
 ぎょっとしたように、刑を見つめる現世トリオ。

「やっ、やっだぁ〜!漣さんたら、冗談がお上手なんだからぁ。この凛々しくて猛々しい感じの鳥さんと、このおじいちゃんが同じワケないですよねぇ」

「おのれ小娘、言わせておけば…」
 地の底から響くような声がしたかと思うと、ミシッミシッっと家の悲鳴のような家鳴がした。
さっきの画像がタブレットから抜け出て巨大化したかのような、天井にも届きそうな大きな烏天狗が見下ろしている。

『ひっ、ひぃー』
 瞳子を抱き寄せ、空いた片手で景子の肩を引っ張り壁際に寄せ、二人を庇うようにその前に雪兎が立った。


「刑様ッ‼刑様ッ‼……烏頭刑ッ‼」

 漣の怒声に、烏天狗はかき消すように消えて、前のテーブルには何事もなかったかのように刑がちょこんと座っている。
 ヘナヘナと床に腰を着く3人を漣が、それぞれ立ち上がらせ席に着かせ、ため息混じりに自分も席に戻った。

「我々あやかしは、本来の姿の他に『人形(ひとがた)()る』と申しまして、いまのように『ひと』の姿に見た目を変えることができます。本来の姿ならば、チカラは数倍になり大きさも自在に変えられます。現代では、本来の姿に戻るのは緊急事態のときくらいになりましたが…」

 まださっきの衝撃から現実に戻りかねている3人は、お互いに何かを確認するかのように顔を見合わせている。
「あれ⁉瞳子さん⁉苦しいんじゃないの?いまの衝撃で、発作かな?」
「うん…ちょっと出そうな感じかな。薬飲んでおく」
 立ち上がりかけた瞳子を座らせて、雪兎が薬と水を持ってきた。

「瞳子さん、心臓があまり良くないんですよ。急に驚かすようなことは止めてください」
 雪兎の言葉に、刑は、さっきの猛々しい烏天狗の姿など微塵も感じさせないほど、さらにちんまりとしている。

「すまん…。その小娘があまりにナメたことを言うのでの…つい…」
「確かに先ほどの景子ちゃんは、失礼でしたね。僕も謝ります。景子ちゃん?景子ちゃんも。ほら」
「えーっ。私のせいですかぁ?思ったこといっただけなのにぃ」
「景子、イイ歳して、アタマと口が直結してるその構造、なんとかしなさい。思っても、一旦、心に止めて考えなさいよ」
「ウコさんまでぇ〜。はいはい。すみませんでした。おじいちゃん」
「おじいちゃんと呼ぶなッ」
「刑様、刑様ももうほどほどに…」
「おぉ。漣、すまぬ。ん?いま、ふと思い出したが、お前、さっき儂を呼び捨てにしなかったか?ん?」

 猛禽類の眼力を取り戻した刑が漣を睨むが、漣に冷ややかに睨み返されて、その眼力を失った。

「さて、いろいろと話が逸れてしまいましたが、先ほどの兎士郎様のご提案、いかがでしょうか?瞳子様」
「うわぁ~~‼大正時代?え?明治?ホントにココ、現代?」

「景子様、幽玄界のこの辺りは昔から姿をほとんど変えてないのですよ。『壱の神殿』がある幽玄館の周りは本当に昔から変わらないままに、街はその時々の流行りが入ってきたりもしましたが、やはり変わることを良しとしない向きもございまして…外観は、現世でいうところの『大正時代』くらいまでで止まってます。まぁ、設備関係はかなり現代のモノになっておりますが」

 先頭を颯爽と歩きながら、漣が幽世の街並みを説明する。

「幽玄界もこの先へ行くと、現世の街並みと変わらないようなところもございます。そちらは現世ほど多くないですが、車も走ってますよ」
「漣くん、そう言えば、車を見ないね。こちらの方は、みんな健脚なんだねぇ」
「アハハ…失礼。雪兎様、それは違います。我らあやかしや神族は車など必要ないのは、先ほどココまで来たときにお分かりでしょう?」

 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

 一ヶ月前。現世  雪兎・瞳子宅

 天目漣と神薙の月影兎士郎、幽世の治安を守っているという烏頭刑の三人から『幽世行き』の経緯をひと通り聞いた瞳子。

 「なぜ、いま幽世へ行かなければならないのか?」との疑問を捨てきれない瞳子に、兎士郎から「その理由を知るためにも、一度幽世へ来てみては?」との提案を受けた。

「さて、いろいろと話が逸れてしまいましたが、先ほどの兎士郎様のご提案、いかがでしょうか?瞳子様」
「漣くん、この間も言ったし、いまも見ての通り、瞳子さんは心臓が悪いんだ。発作を起こすこともたびたびある。たぶん、そのたびに瞳子さんは、怯えている。このまま死んでしまうんじゃないか?とね。だから…」
「雪兎、私が…自分で言う。幽世ってひとが死ぬと行く場所でしょ?昔は普通に行き来があったかもしれないけど、現代は。いまは死ななきゃ行けない場所って言っても過言じゃないわよね?そこに、いま、このタイミングで行って、そのまま帰ってこられなくなるのが怖いのよ」

「瞳子、それは大丈夫じゃ。のう、漣」

「はい。兎士郎様。瞳子様、確かに亡くなられた方がいらっしゃる街ではございますが、生きて幽世にいらした方がそのまま亡くなられて幽世から戻れないということはございません。ま。現世に戻られてから亡くなられて、またすぐ幽世に…ということは…」
「漣くんっ‼言い方っ!」
「あ。申し訳ございません。とにかく、幽世にいらしたからと亡くなることはございません。それに、ご病気をお持ちだそうですが、たぶん幽世にいらっしゃる間は、その「発作」とやらは出ないと思いますよ。幽世では魂が主体。あぁ、もちろん現世においても魂は主体ではあるのですが、その在り方が違うのです。上手い例えではないかもしれませんが、現世では肉体がないと動けませんが、幽世では魂だけで動けるとでもいいますか…」

「え⁉幽世ツアーには『魂』だけで行くってことですか?」

「瞳子様、そうではございません。もちろん、肉体ごと行っていただきますが、ご病気とかお怪我とか肉体の『問題』は現世に置いてこられるという感じでしょうか」
「なんだかよくわからないけど…」
「そうぢゃろ?瞳子。幽世に来てみればわかることが他にもあると思うぞ」
 瞳子は、まだ親しくもない他人に呼び捨てにされることに納得していない目と幽世の不可思議さを理解できない目で、兎士郎を上目遣いに見た。

「な、なんぢゃ、その目つきはっ!ホントに口で説明するのは難しいのぢゃ」
「行きますよね?ね?ウコさん?」
 話が堂々巡りで埒があかないと思った景子が答えを促す。
「う~ん…じゃ、行くとして、私ひとり?ですか?」
「あ。ウコさん、それ大事ですね!」
 景子が目を爛々とさせて幽世トリオを見回す。
「本来ならば、瞳子様お一人をご招待するところですが」

「で・す・が??」
 ますます目を輝かせて漣に迫るように顔を近づけた景子を鋭い目線で突き放すと続けた。

「瞳子様はご結婚なされておりますし…」
「雪兎は『盈月(えいげつ)』の家系の最期のひとりだそうだの?」
「月影さん、『盈月』の家のこと、ご存知なんですか?」
「うむ。同じ神薙であったし、の。それに、『盈月』のことは私より(ぎょう)殿の方がよくご存知だろ」
「儂が知っていることが、雪兎、お主の知りたいことかどうかはわからんがの」

「…というわけで、盈月家の末裔でいらっしゃる雪兎様も渡幽の資格ありと判断されましたので、ご夫婦お二人ともお招きいたします」
 漣がいつもの薄い唇の片方の口角だけ上げる冷たい笑みを景子に向けると、景子は表情が抜け落ちた顔をしている。

「景子、景子っ!大丈夫?」
「あ。ウコさん…。いって・・・らっしゃい…」
 消え入りそうな声で答える景子。その顔は、顔中で「ガッカリ」と叫んでいるようだ。

「そして・・・景子様でございますが、瞳子様のご同僚ということ以外、特に幽世とのご縁はございませんし…」

 暫し口を閉ざして、冷ややかに景子を見つめる漣。景子の目はさっきまでの肉食獣が獲物を狩るような爛々とした輝きはなく、表情の抜け落ちた視線を(くう)に遊ばせている。

「コホンっ。…しかしながら、このたびは瞳子様を探し出してくださった功労者であるということで、その褒賞として、ご招待させていただきます」
 漣が言い終わるのが早いか、景子が漣に飛びついて叫んだ。
「ありがと~~~‼!うれしいぃ~~~‼」

 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

 かくして、三人三様の思いを抱えて瞳子・雪兎と景子の現世トリオは幽世へ。

 そしていま、漣の案内で幽世の幽玄界の中心地の街を歩いていた。
 現世の東京だと環八や環七といった環状線にあたるくらいの道幅の両脇には、煉瓦造りや木造の古い建物が建ち並ぶ様子は、映画やテレビドラマで見る大正時代の銀座を彷彿とさせる。
 これだけ広い道幅の道路がアスファルトでも石畳でもなく、土のままで、自転車や手押し車は見かけるが、自動車は1台も走っていない。ホントにタイムスリップしたかのようだ。

「あ゛~!ウコさん、雪兎さん、アレ見てくださいよ」
 景子がまた何かを見つけて大騒ぎしている。景子の指さす方向を見ると、どこかで見たことのある建物。

「あれ?あれって…歌舞伎座?ちょっと違うか…」
「歌舞伎座ですよ。瞳子様。現世のあのカタチの歌舞伎座は焼失してしまったそうですが、こちらはそのまま残しておりまして、往年の役者の方々が公演なさっていますよ。ちょうど今日は、八代目から十一代目までの団十郎が揃い踏みで「勧進帳」をやっていますね」

『団十郎揃い踏みって・・・』

 不思議顔の現世トリオを気にすることなく、前を行く漣。
「こちらへ」

 (いざな)われるままに角を曲がった通りは、またひと時代前に遡ったかのような街並みだ。
 片側に川が流れ、川の向こうには小さな山があり、その麓にいくつかの建物が川に沿って並んでいる。道の両脇に立っている街灯はガス灯のように見える。
 ここは本当に2022年なの?現世トリオは狐につままれたようになっているが、漣は構わず先に歩を進める。
 ようやく漣に追いついた3人は、漣が立ち止まっている場所まで来て、辺りを見回してため息をついた。


『ここ、ホントに日本?2022年?』


 川には時代がかった小さな太鼓橋が掛かり、渡った先には、ジブリ映画に出てきそうな木造三階建ての建物。その一番上の庇からは「幽玄館 龍別邸」と墨文字で書かれた、地に届きそうな大きな提灯が下がっている。
 あかりが灯る二階の部屋に揺れる人影がより景色を幻想的に見せている。古い映画の一コマを見ているようだ。

「皆さまにご逗留いただくのは、こちら『幽玄館 龍別邸』でございます」

 入り口に入ると、仲居さんらしき女性三人と男性二人が正座して出迎えていた。
 五人ともかなり整った顔立ちをしていて、男性二人はいわゆるイケメンという部類。一人は韓流ドラマで見たことがあるような顔立ち。もう一人は、ちょうどいま流行っているラブコメの主演俳優に似ている。
 女性の方は、いまどきの、というより『昭和』の正統派美人という感じ。

「いらっしゃいませ。盈月(えいげつ) 瞳子様でございますね。お荷物をこちらへ」

 女性のひとりが瞳子に声を掛け、韓流イケメンの方へ荷物を預けるよう促した。
「ありがとうございます。でも、自分で持てますから」

「瞳子様、それでは彼の今日の仕事がなくなってしまいます。どうぞ、彼に荷物をお預けください」
「そんな…持っていただくほどの荷物じゃないんですよ」

「瞳子様、ココで働くものは皆、あやかしなのです。あやかしは『ひと』のように、お金のために働きません。というか、『お金』というものを必要としないのです。でも、あやかしは何かしら仕事をすることで、その日の食事や住むところのない者は寝床を得るんです。ですから仕事をしないと、この者は食事ができないか?雨露を凌げない場所を寝所にするか?なんですよ」

 淡々と漣に説明されて、瞳子は言われた通りに荷物を韓流イケメンに手渡した。
 荷物を受け取ると韓流くんは、先に廊下の奥へと歩き始めた。

 2番目の仲居の女性が雪兎に声を掛けた。
「いらっしゃいませ。盈月 雪兎様でございますね。お荷物をこちらへ」
 同じように挨拶すると、ラブコメイケメンに荷物を預けるよう促した。
 さっきの瞳子と漣のやりとりを聞いていたので、雪兎は素直にカバンを預けた。ラブコメくんは深々と頭を下げると、韓流くんに続いて廊下の先へ消えた。

『お二人はこちらへ』
 二人の仲居が声を揃えて、正面の廊下の先へと手を向けている。

「え?え?え?私は?」
 景子は一人取り残されそうで、慌てて漣に縋りつく。

「あなた様は、少々、こちらでお話したいことと伺いたいことがございますので、この者と一緒にあちらへ」
 景子の手をすっぱりと引きはがすと、景子の顔も見ずに言い放った。
 漣が示したのは残された仲居と瞳子たちが誘われた正面廊下とは別の方向の廊下だ。

「え?え?なんで?なんで私だけこっち?イケメンも付いてくれないし」
 半分、泣き出している景子の腕をグイっと引っ張ると、3人目の仲居はズンズンと荷物と景子を廊下の奥へと引っ張って行った。
「ウコさぁ~んっ!雪兎さぁ~~ん」
景子の声が遠くなっていく。
「漣くんっ!景子ちゃんに、なにを!」
 掴みかかろうとした雪兎をサラリと避け、ゆっくりと振り返った漣の口元には、いつもの凍りつくような笑み。そして、その目の奥にわずかに宿った疑惑の色を、瞳子は見逃さなかった。
「別に、何もしませんよ。取って食おうというわけではありません。ただ——」

 一拍置いて、漣は続ける。

「景子様には、ある『疑惑』がございますので。その真偽を確かめさせていただくだけです。なに、一晩もあればわかることです」

 そう言う漣の背後、廊下の奥へ消えていく景子の姿。そして、その後を追うようにして、兎士郎と刑が静かに続いて行く。
 瞳子と雪兎が仲居二人に案内されて、だらだら坂のような段差の少ない階段を上ってやってきたのは、宿の三階だった。
 顔が映りそうなほど見事に磨き上げられた板廊下は、ずっと奥まで続いているが、ちょうど真ん中辺りに韓流・ラブコメ両イケメンくんたちが、廊下の左右に立っている。

「瞳子様、こちらのお部屋でございます」

 向かって右に立っていた韓流くんが、右の襖を掌で示している。
 同じように逆側に立っていたラブコメくんは、左の襖を。

「えっ?ちょっと待って。雪兎と同じ部屋じゃないの?」

『こちらの()では、男女同衾はお控えいただいております。神様のお膝元のお部屋でございますので』

 仲居二人が見事なユニゾンで答えながら、それぞれの部屋の前に正座し、襖を開け、頭を下げている。
 イケメン二人もそれぞれの仲居の後ろで同じように頭を下げている。

「夫婦なのよ?同衾もなにも・・・」
「瞳子さん、『同衾』しなければいいんだ。寝るとき以外は、どちらかの部屋で一緒にいてもいい。そういうことだろ?」

 雪兎は、瞳子に言い聞かせるようにしながら、四人の案内人を見回した。
「そ、それは、私たちではお答えいたしかねます」
 顔を上げて答えたのは、瞳子の部屋の前にいる仲居だった。
「ふーん・・・。じゃ、漣くんを呼んでくれるかな?漣くんに聞いてみよう」

「れ、漣って、一龍齋様・・・天目の漣様でございますか?」

 漣の名前を聞いて、四人はさらに深く頭を下げて、凍り付いてしまった。
「どうしたの?さっき、ここまで案内してくれた、天目漣さんを呼んできて」

 被せて瞳子がいうと、四人は頭を下げたまま(かぶり)を振った。
 この対応に瞳子と雪兎は顔を見合わせて、ため息をついた。

 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*
 その頃、幽玄館 龍別邸の一階。
 内側に「めし処」の古い暖簾が掛かっている。

 その小上がりに、月影兎士郎、烏頭刑、天目漣そして景子の姿があった。

「して、お前、ここまで来ても何も感じぬのか?」
 兎士郎が景子の顔を覗き込む。

「感じるって、何をですか!だいたい、ウコさんたちに付いてきただけなのに、なんで私だけこんな扱いなんです?そりゃ、私が一番幽世とは縁がない立場だからって、ずいぶんな扱いじゃないですか‼」
「…本当に、何も思い出さぬのか?」と兎士郎がぽつりと呟く。
「うぬ~・・・ここまでとは・・・のぅ」刑も腕組みをして唸って俯いてしまった。
 二人の落ち込みを横目に、淡々とした口調で漣が厨の奥へ声を掛ける。その声に応えて、大小数体の異形のモノたちがぞろぞろと景子の前に並んだ。

「ひ、ひ、ひぃ~~~~~っ・・・食べないで!殺さないでぇ~」

『・・・?』

 異形のモノたちが何か言いたげなのを堪えた様子で、悲しげな目を向ける。なんとも言えない重く悲しげな空気に、頭を抱え込んで俯いていた景子が、そっと顔を上げて見回す。どの顔を見ても景子の知るはずのない顔が並んでいる。
 景子はますます混乱して、震えながら頭を抱えてまた俯いてしまった。

 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

 凍りついたように正座のまま頭を下げる4人と顔を見合わせて途方にくれている瞳子・雪兎夫婦。

 時が止まったかのような幽玄館 龍別邸三階に、足早にこちらに向かってくる足音が聞こえてきた。
 古めかしいような神薙の衣装を纏った若い男性が瞳子たち六人の前で足を止め、宿の四人を後ろに引かせると、瞳子の前に正座して頭を下げた。
盈月(えいげつ) 瞳子様とご主人様・雪兎様でいらっしゃいますね。これから青龍様がお出ましになります。青龍様がお2人には、青龍様のお部屋の方へお出向きいただきたいとのこと。諸々、よろしければ、わたくし神薙の繊月 秋菟(せんげつ しゅうと)がこれからご案内いたします」

「繊月さん、大変申しわけないんだが、少し瞳子さんを休ませたいんだ。漣くんには話をしてあったんだけど、瞳子さんは心臓が悪くてね。こちらへ着いてから随分歩いたから少し疲れもあるだろうし…。薬も飲ませたいし」
「わかりました。一旦あちらのお部屋へ向かわれて、青龍様のお出ましまでに少し時間がございますから、あちらで少し休まれてはいかがでしょうか。何かお飲み物もご用意いたしますし」
「ここでは、なんとしてもこちらの言うことは聞いてくれないのね」
 瞳子が少し苛立った調子で答えた。
「申し訳ございません。瞳子様。こちらでは…特に此方では、龍神様のご意向が最優先でございますので…」

 本当に体が小さくなったかと思うような縮こまり方で謝る秋菟に、半ば呆れながらついていくことになった。

 秋菟は、瞳子たちが案内された部屋の次の部屋に入ると、その部屋の奥にある螺鈿細工が見事な黒い扉を引き開けた。
「あら、驚いた!箪笥か何かかと思ってたら、ドアになってるのね」
「へぇ・・・立派なもんだね。建築関係に身を置くものとしては、じっくり見学させてもらいたい造りだなぁ」

 その言葉を受けて、秋菟は自慢げに振り返ると
「幽玄館 龍別邸は、古い建物ですが、龍別邸といわれるだけあって、そこかしこに立派な細工がございます。よろしければ、ご逗留中のお時間あるときにご案内いたしましょう」
「ほう。それはありがたい。楽しみだよ」
「雪兎!もぉ、建築のことになると私より優先なんだから!」
「そんなことないよ。僕の一番は、瞳子さん。それから、コーヒー、建築かな?」
「コーヒーといえば、先日、兎士郎様がお持ち帰りになったコーヒーは雪兎様のモノとか…私も少し飲ませていただきましたが、大変、おいしゅうございました」
「へぇ、兎士郎さんがあなたに分けてくれたの?ウチから持って帰るときには、誰にも触らせない勢いだったのに、やっぱりご自分の下の方にはお優しいのね」
「・・・え、いえ、分けていただいというより、ひと舐めさせていただいたというか・・・」
「あら、ま。ケチねぇ」
「舐めた程度じゃ、そんなに味はわからなかっただろう?もしよければ、建物を案内してくれる御礼に、後で僕が1杯ごちそうしますよ」
「本当でございますか!ありがとうございますっ‼きっと、きっと館内を隅々までご案内いたしますよ!」
 秋菟は、飛び上がらんばかりの喜びようで答えた。

「こちらでございます」

 彩りは鮮やかでないものの、静寂の美しさを湛えた絵が描かれた襖を引き開けて、部屋の中央に置かれた座布団を勧めた。

 秋菟は、一旦、部屋を後にすると、カラカラとこれまた見事な螺鈿のワゴンを押して部屋に戻ってきた。小柄な秋菟が螺鈿のワゴンを押してくる様は、江戸時代のからくり人形を彷彿とさせて、瞳子はつい、吹き出してしまった。

「なにかございましたか?」
「いいえ。ごめんなさい。なんでもないのよ、ちょっと思い出し笑い」
「女人が思い出し笑いなぞ、いただけませんな!・・・と、兎士郎様なら仰います。でも、ありますよね。急に思い出しておかしくなること」
 自分のことを笑われてるなどと露とも思っていない秋菟は、せっせとお茶の用意をしながら調子を合わせてくれている。

「とりあえず、お茶を入れましたが、こちらにお酒もお水もございますので、お好きになさってください」
「神様の御前になるまえに、お酒なんていいのかい?」
「はい。いつもならもってのほか!で、ございますが、本日は青龍様からのお許しがございましたので」
「なんでも、青龍様のおっしゃる通りなのね」
 足を寛げて、出されたお茶を啜りながら、瞳子がイヤミたっぷりに返すも、秋菟は意に介することなく淡々と自分の仕事を続けている。

「瞳子さん、いくらゆっくりしてくれていいって言われてるからって、そのカッコはくつろぎ過ぎじゃないかい?」
「男のひとはいいわよ。正座じゃなきゃ胡坐かけばいいんだから。でも私たちは、足でも伸ばさないとゆっくりした気分になれないわよ」
 ほっぺたを膨らませて、雪兎を軽く睨む瞳子。

「お二人、仲がよろしいんですね」

 秋菟は微笑ましそうに二人を見やって、
「それでは、そちらの御簾から青龍様がおいでになりますので、それまではお二人でごゆっくり」
 深々と頭を下げて出て行った。

「ねぇ、雪兎。ホントに来て良かったのかな?」
「なんか不満なことでもある?」
「景子はどっかへ連れていかれるし、なんだか何もかも押し付けられてるみたいでさ」
「そうだね。景子ちゃんのことは心配だし、あとで聞いてみよう。押しつけっていうか、しきたりみたいなものなんだろうけど、ちょっと窮屈な感じするね。ま、1週間って予定だけど、イヤなら明日でも明後日でも切り上げて帰ればいいさ。会社にはお休みって言ってるんだから、帰ってもどこかへ出かければいいんだしさ」
「そうよね?明日帰ってもいいんだもんね。帰っても、他に遊びにいくところはいろいろあるしね」
「そうそう。ま、大人の修学旅行と思って、この窮屈さも楽しむさ」

「・・・・」
「ん?ほかにもまだ、なんかあるのかい?」
「んー。雪兎、帰るときには必ず私も連れて帰ってね」
「なんだよ急に」
「私が発作起こしたときに見る景色があるって言ったこと覚えてる?」
「あぁ。サルバトール・ムンディの?」
「あぁ、それはいいのよ。キリスト様が日本の神様のところに来るわけないから」
「その前に、フツーに信者でもないひとのところに現れないと思うけどね」
「え?何?なんか言った?」
「いやいやいや…で?その風景が?」

「ココのさぁ、この旅館の前の通りとか裏山とか似てるのよ。発作のとき、フラッシュする景色が。ここの大きな提灯が揺れてる感じとか、どこかのお店で大勢が騒ぎ飲んでるみたいなところとか・・・」

「卯兎、思い出したのか?」

 雪兎の声じゃない声がした方を振り返ると、銀髪のような長髪のひと房だけが金髪に青いメッシュを入れたような色をしている、青い衣を身に纏った男性が水晶玉を片手に立っていた。

「う、う、ウソ・・・さ、サルバトール・ムンディ~~??お、お、お、お迎え??そ・・・そういえば、此処のあの提灯も、向こうに見えた山も・・・」

 後は言葉にならず・・・。瞳子はのけ反って、いまにも発作を起こしそうな引き攣り方をしている。
 片手で胸をわしづかみにして、苦しそうな息の下で、雪兎に訴えかける。
「ゆ、雪、兎・・・サルバトール・ムンディ。やっ・・・ぱり、ここだった。私の最期・・・つ、連れて帰ってね。おうちに。雪兎のところに・・・」

 発作を起こさなかったものの、瞳子は気を失ってしまった
 幽玄館 龍別邸の一階。めし処。
 異形の者たちに囲まれ、混乱して、震えながら頭を抱えている景子の様子を見て、色白の白髪の少女と狐耳の少女が抱きついてきた。

『私たちのこと、忘れちゃったのぉ??』
 泣きながら抱きついてきた二人を振り払うこともできず、かと言って受け入れることもできないまま、景子は目線で漣に助けを求めた。

「これでもダメか・・・」
 漣は景子の目線に応えることなく、刑と兎士郎に耳打ちをしている。

「荒療治だが、仕方ないか…でも、そうなると現世での『景子』はどうするんじゃ?」
 なにか不穏なことが起きそうな気配の刑の発言に、景子は声も出せず、口をパクパクしている。
 そんな景子に構うことなく漣が刑の言葉に被せるように答える。

「刑様、そこのところは、ぬかりなく・・・」
 語尾に続く言葉は聞こえない。

「しかし、元々、神事で粗相するわ、大事な御勤めの御印(みしるし)を失くしたうえに、我をも失くしてしまうヤツにそのような器用な真似ができようか?のう?」
 兎士郎が刑に問いかける。
「うむ。心配なのは、そこじゃなぁ…」
「卯兎様さえお目覚めくだされば…」

 ものすごく残念なモノをみるように3人は景子を見つめている。
 異形の少女2人に抱きしめられていた景子は、ようやく二人を振りほどき、立ち上がった。
「なんだかわかりませんけど、帰ります!ウコさぁ~ん!雪兎さぁ~~ん‼」

 荷物を持って、一歩踏み出そうとしたとき、グラリと体が傾いた。
 漣が腕を差し出し、受け止めて小上がりに改めて横に寝かせた。

 (あぁ…漣さんの腕のなかぁ…幸せ♡)などと、脳天気な景子であったが、意識が遠のく寸前に先ほどの抱きついてきた少女2人が細い針のようなモノを手にしていたコトを知って、自分の身の上に何かとんでもないことが起ころうとしていることだけはわかった。
 しかし、意識が薄れゆくこの状態では、為す術なく、成り行きに身を任せるしかない。
  そんな景子に、二人の少女が耳元で静かに囁いた。

「もう大丈夫だよ…結卯…」

 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

 手を胸元で組ませ、寝かせた景子の周りを兎士郎と手下てかの神薙たち、刑、そして漣が囲むように座っている。
 そこへ先ほど景子に抱きついた二人の少女が恭しく龍の蒔絵が施された衣装盆を掲げて、兎士郎に差しだした。
 衣装盆の上に左手を添え、右掌で天を支えるかのように腕を強く突き上げて伸ばすと、目を閉じた。小さな老体から出されたとは思えない威圧感と威厳のある低い声で、祈りの詞ことばを発し、その最後に突き上げていた右手を気合と共に左手に重ねた。
 その刹那。盆からふわりと衣が浮いて、また盆の中に落ちた。
 兎士郎は少女たちから衣装盆を受け取り、刑ぎょうの前に差し出すと、手は盆を掲げたまま跪いて頭こうべを垂れた。
 刑は、跪く兎士郎の肩に右手を添え、「えぇいっ!」大声で一喝したかと思うと大きな烏天狗に姿を変えた。

『うわっ!』

 小さな異形のモノ=幽世のあやかしたちは、その迫力に腰を抜かす者も、泣き出す者も…。いずれも小さき者たちは震えあがっている。
 衣装盆を兎士郎に引き渡したあと、脇に控えて頭を垂れて神妙にしていた少女二人が刑を見上げると、静かに頷いている。それを見て、少女たちは足早に怖がる者たちの隣に歩み寄り、寄り添った。そして優しく抱き包みながら、また静かに頭を垂れた。震えていた者たちも安心したかのように少女たちに身を預けながら、彼女たちに倣って頭を垂れた。
 その様子を下目に見ていた刑は、皆が落ち着くのを確認すると、左手に持った羽団扇を衣装盆に翳し、右手の錫杖を大きく『シャンッ』と鳴らした。
 その場にピリリとした空気が張りつめ、唱えられる祈りの詞の合間に響く錫杖の音。刑の低く唸るような詞が空間を包み込むように響き渡り、錫杖の音の合間合間に、小さな稲妻が盆の上に幾筋も走る。
 しばらくして、羽団扇を衣装盆の上に翳したまま、祈りを続けながら体の向きを漣に向ける。
 漣は、それまで伏せていた顔を上げるとクワッと目を見開いて、全身に力を込めた。
 その場の空気が一層清涼で清浄な緊張に包まれたと同時に、黒鋼のように輝く胴体とまさしく黒鋼の眼帯を左目に付けた龍が一体、空くうに姿を現した。
 刑の重々しい祈りと錫杖の音が響き渡るなか、龍は一度、二度と弧を描きつつ、空を上下したかと思うと大きく頭かぶりを振って、眼帯を振り落とした。
  コンっ・・・カラカラカラ・・・
 静粛ななかに乾いた音が響き渡る。神薙のひとりが中腰のまま、眼帯を拾いに走り、懐の袱紗に包み、掲げながら元の位置に戻った。
 眼帯の取れた左目は閉じられていたが、刑の一層大きな祈りの声を受けて、見開かれた。その目は燃え盛る炎のように赫かった。その赫い瞳が一層の輝きを放ったと同時に、周囲を赫く染め、次にはまばゆく白い光がすべてを包み込んだ。
 そこにいた者たちがまばゆさに目を閉じて、開けた次の瞬間には、刑の祈りも止み、漣も最初からそうしていたかのように、刑の傍らに頭を垂れて座っていた。当の刑もまた、普段の小柄な老人に戻っていた。

「さて、目覚めてもらうぞ」
 兎士郎はそういうと、神薙たちが掲げた衣装盆から取り出した龍の紋の千早を広げ、改めて刑と漣に向って掲げ、一礼し、景子に掛けた。そして徐に、衣装盆の隅にあった小さな紅い玉を指で摘まみあげ、景子の口に含ませた。ここまでを終えて兎士郎が半歩下がると、神薙たちが進み出て景子の上半身を持ち上げ、御神酒を含ませて、その赤い玉を飲み込ませた。
 景子の周りを囲む兎士郎と神薙たち、刑、漣が揃って、手を合わせると、二度大きな柏手を打った。
 その音に、建物がビリビリと震える。柏手の残響がぐわわわ~んっと部屋全体からそれぞれの耳に吸い込まれて静寂が戻った。

「・・・・・あれ?ここ・・・・『めし処』?え?私って、どうしたの?」

 体を起こしてキョロキョロする景子に、二人の少女が駆け寄った。

結卯(ゆう)ぅ~』
紗雪(さゆき)に、弥狐(やこ)じゃない!なんだか不思議と懐かしい気分だよ!」
「結卯、もう!心配したよ!」
 白髪の少女・雪女のあやかし紗雪が景子の手を握り締めた。
「結卯、弥狐のことわからなかった。忘れた思った。寂しい。でも、いまうれしい」
 狐耳の少女・妖狐の弥狐が涙を拭きながら景子にしがみついた。
 三人は、あぁでもないこうでもないと、箸が転がってもおかしい年頃でもあるまいに、キャーキャーと再会を喜び抱き合っていた。

 ウォーッホンっ!

 大きな咳払いにビクッとして離れた三人。
 景子が恐る恐る、咳の聞こえた方へ首を向けた
「あ~~‼兎士郎様ぁ~!やっだぁ、お元気そうじゃないですかぁ。あ。兎士郎様は龍籍に上がられたから、老けないんでしたっけ?あはははは」
 言うが早いか、景子は立ち上がって兎士郎に抱きついた。
「こ、これっ!よさんか!まったくお前は、何度転生しても魂は成長しとらんようぢゃの」
「転生・・・?え?私、死んだの?・・・どういうこと?なに?え?え?」
「お、お前・・・やはり御印を失くして、我を失くすだけあるな・・・すっかり御勤めの意義を忘れてしまっとるな」

「予想以上の大戯おおたわけだったようぢゃの、兎士郎殿」
 刑が呆れ果てたという体ていで、結卯を見つめる。
 刑の声に振り返り、刑の隣に漣を見つけると、大慌てで居住まいを正し、正座で漣に向き直ると深く頭を下げた。
「一龍齋様。いらっしゃると気づかず、大変失礼いたしました」
「ほう。一応、幽世での礼儀は忘れてなかったみたいだな」
 漣が薄い唇の口角を上げて、皮肉な笑いを浮かべた。
「わ、私は、なかなか物覚えが良い方でございますよっ」
「ほう。ならば、お前のこの度の務めの目的を申してみよ」
「えーっと・・・務め・・・あ!『望月の神事』の神子ですよね!え?でも神事の主を一龍齋様がお務めに?上四龍どころか八龍に入ってもないのに?」
「こ、これ。結卯!失礼な物言いをするでない!」
 脳天気な結卯の発言に、兎士郎は気が気ではない。
「兎士郎様、かまいませんよ。子ウサギの戯言など、痒くもございません」
 漣は笑って軽くいなしているが、目が笑っていないのを見て、兎士郎は胃の辺りを押さえつつ、愛想笑いで返している。
「一龍齋様へのご挨拶は大事だがな、兎士郎殿の隣にいる儂への挨拶を飛ばしておろうが!」
 無視されたカタチになった烏頭刑は、面白くない。
「あぁ。刑様、いらしたんですね。兎士郎様と重なって見えて、気づきませんでした」
 テへへと笑う結卯に、二人の老人が食って掛かる。
『一緒にするな‼』
 揃って出た言葉にお互いに顔を見合わせ、にらみ合う兎士郎と刑。
『どういう意味だ?』
『こっちが聞いておるのだ!』
『え?どういう意味なのだ?』
 一卵性双生児のように、いつまでも言葉が揃って、埒が明かない。
「お二人とも、いい加減にしてください!いま、そんな細かいコトどうでもいいでしょ」
『細かい?』
『どうでもいい?・・・どうでもよくない!』
 はたまた2人そろって反論するも、漣が足を一つ踏み鳴らし、一瞥しただけでモゴモゴと口を閉じた。
「さて、結卯。お前、やはりきれいさっぱり忘れてしまっておるようだの?」
 ヒヤリとするような一瞥をくれる漣の視線に耐えきれず、結卯はキョロキョロと紗雪や弥狐を見るが、二人とも気まずそうに視線を逸してしまった。
 兎士郎と刑は、ギロリと睨んでいる。
「儀式は失敗だったのか⁉コヤツ、今度は現世のコトを忘れておるではないか…」
 刑は苦々しそうに、兎士郎と漣にいうと、結卯の瞳の奥を覗き込んだ。
「いや…儀式は成功だったから、結卯が目覚めた。しかし…景子の記憶がないのはどうしたことじゃろのぅ…」
 兎士郎も刑の隣に顔を並べて、同じく結卯の瞳を覗きこんだ。
「な、な、なんですよ!刑さまも兎士郎さまも!やめてくださいよぉ」
 結卯は、両手で顔を覆い俯いてしまった。
 頭を抱え込んでいる結卯を背にして、兎士郎、刑、漣が顔を突き合わせて、ボソボソと話してはため息をつき、また話してはため息をつき・・・を繰り返している。
 結卯は、そーっと顔を上げ、三人の様子を伺いみて不安げに紗雪と弥狐を見やるが、二人も結卯と同じくらい不安げな顔をしている。その後ろに並ぶ、見覚えのあるあやかし達も心配そうに結卯を見つめている。

「どうして?私、どうしちゃったの?」

『それは、こっちのセリフだっ!』
 兎士郎、刑、漣、三人が振り返って突っ込む。
「・・・仕方のないやつじゃ。いま、覚えていることを言ってみろ?」
 兎士郎が結卯の前にしゃがみこんで、尋ねる。
 結卯は、ジッと目を閉じて大きく深呼吸した。 
「私は、ココ幽玄館龍別邸の神殿に仕える神子で、神子の仕事がないときは、紗雪や弥狐、ポン太たちと裏山の畑の面倒見たり、卯兎の『めし処』を手伝ったり・・・。あ!卯兎!卯兎はどこに?」
 結卯は、キョロキョロと室内を見回して、卯兎を探すが見つからない。
「え?卯兎は?卯兎はどこ?」
 紗雪や弥狐を見る。二人は、目を伏せて首を振る。後ろのあやかしたちを見るも、二人と同じように首を振っている。
「・・・う・・・そ・・・卯兎、いない?・・・なんで?なんでなの?」
 紗雪の肩を掴んで揺さぶるが、紗雪は悲し気にして首を振るばかり。
「兎士郎様、どういうことです?卯兎は、どうしちゃったんです?」

「お、お前、そこからなのか?」
 兎士郎は呆れ顔を刑と漣に向けると、2人は万策尽きたとばかりに、天を仰いでいる。
 兎士郎もそんな二人に倣うように天を見上げて、大きなため息をついた。

 そんななか、竹のあやかし・竹暁(ちくぎょう)が進み出て、持っていた笹を結卯の前に置いた。続いてポン太が竹を切って作った器を並べ、小虎と呼ばれるあやかしが禊萩(みそはぎ)を活けた細い竹筒を並べた。それを見ていた弥狐が弾かれたように奥へ駆け込むと、狐火を灯した竹皿を持ってきて、竹暁の持ってきた笹を立たせて、その枝に吊るした。
 弥狐が狐火の皿を吊るしたのを機に、あやかしたちが笹の周りに集まった。
「大変だったね。『上弦の月の宴』の準備」
「でも楽しかったよ」
「黄龍様のお顔を初めて見たよ」
「卯兎の料理、おいしかったね」
「姫龍様が大喜びされたのはなんだったけ?」
 口々に、「あの夜」の宴の思い出話を始めた。本当に楽しげに。うれしげに。そして、誰もが「あの夜」のあの時間を愛おしげに口にする。
 笹をぼぉっと眺め、揺れる狐火を見つめる結卯の目に、いままでになかった光が灯った。
「あぁ・・・卯兎・・・。魂の旅に出たんだったね・・・」
 涙が頬を伝う。
「思い出したようぢゃの」
 兎士郎がホッとしたようにしつつ、自分の手ぬぐいで涙を拭いてやる。
 結卯は、居住まいを正して、兎士郎、刑、漣に向き直り、正座のまま頭を下げた。
「ただいま、戻りました。途中、御印を失くし、卯兎を見失ってしまいました。でも、今回同行した盈月瞳子さんが卯兎の7度目の転生だったんですよね?で?卯兎は?」
 三人を見上げるが、三人ともに首を横に振ってため息をついている。
「私、私は、どうやって幽世の記憶を取り戻せたんでしょうか?御印を失くしたままでは幽世の記憶はないまま、『景子』として生を終えれば、また転生を繰り返すか?天界に住まうか?いずれにしてもここへは戻れなかったのでは?」
「確かにそうだ。でも、お前の魂の執念とでも言うべきか?お前は意識せぬままであったが、現世で『卯兎』を見つけて、その近くにいた」
「漣、なかなか上手いこというな。『魂の執念』か。そうやも知れぬな」
 刑が漣の言葉にうなずきつつ、感慨深そうに天を仰いだ。
 そのあとを受け取って、兎士郎が続ける。
「卯兎が魂の旅に出ると言い出したとき、お前が是が非でも付いていくと言ったときの勢いはまさに、鬼気迫るものがあったからな。ただ、粗忽なお前のこと。7回の転生の間に何かしらやらかしてくれるんじゃないかと心配しておったら、案の定。6度目には卯兎が80歳で天命を終え、7度目の転生に向かったのに、お前は101歳の長寿を全うしたうえに、御印持つことなく7度目の転生を迎えて・・・。御印のないお前の転生先がわからぬわ、いままでなら姉妹や従妹という近さにいた卯兎の転生先もわからぬまま・・・」
 兎士郎の言葉は、最後はあふれ出る涙で続かなかった。

「兎士郎様、しっかりしてください。まだ、これからなんですから。コイツには卯兎様の魂の記憶を呼び覚ます役目を最後までやってもらわねばならないのですよっ」
 漣が兎士郎の背を撫でながら、立ち上がらせて、神薙の神具のひとつ真榊と海をそのまま映し取ったたような青い龍珠を握らせた。
 手渡された青い龍珠をジッと見つめていた兎士郎は、狩衣の乱れを正し、襟元を整えると真榊を握る手にグッと力を込めた。
「そうですな。卯兎をココに戻すまでは、このうつけ者でさえ、その執念が卯兎を見つけ出してきたというに、我らがその魂を目覚めさせなければ、我らの沽券にかかわるというもの!さて、最後の仕上げとまいりますかな」
 瞳子が目を覚まして身を起こすと、銀髪の長い髪の若い男性と雪兎が酒を酌み交わしている。

「ゆ、雪兎?」

「瞳子さんッ‼目が覚めたかい?」
「なに?私、どうしたの?」
 ハッキリしない意識のなか、キョロキョロと自分の身の回りや体を見回す瞳子の目に、『サルバトール・ムンディ』が…。

「さ、さ、サルバトール・ムンディ‼」

 また意識を失いそうになった瞳子をすかさず支えたのは、雪兎ではなく(くだん)の「サルバトール・ムンディ」だった。

「誰が、猿なのだ?私は龍であって、猿ではないっ‼」
「青龍さん、さっき説明したじゃないですか。猿じゃなくて、“サルバトール・ムンディ“ですって。西洋の神様の、しかも肖像画なんですよ」
「ふんっ。そうだったな。しかし、なんでそいつが出てくると、死ぬのだ?」
「それもさっき説明しましたよね?」
「そうだったか?」
「少し酔われましたか?」
「そうかもな。アハハハハ」

 『サルバトール・ムンディ』とすっかり打ち解けた雰囲気の雪兎を見て、瞳子は意識がハッキリするごとになんだか腹が立ってきた。
「何よ!私が死にそうになってるときに、よくお酒なんか呑んでられるわねっ‼」
「おっと、瞳子さん。ホントに死にそうだったら、酒なんか呑めるわけがないじゃないか。無事なのがわかって、そしてただ気を失っただけだってわかったから、目が覚めるまでの間、おしゃべりしながら少し呑んだだけだよ」
 ニッコリとほほえんで、瞳子の頭をポンポンっとする雪兎に、もうそれ以上怒る気がしなくなった。

「それより、いつまで青龍さんの腕のなかにいるつもりだい?」
 瞳子は雪兎に言われて初めて、青龍に抱きとめられたままだったコトに改めて気づき、慌てて離れると、パタパタと自分の身を払って、慌てて雪兎の背に身を寄せた。

「ずいぶん嫌われてるモノだな…」
 『青龍』と雪兎に呼ばれていたサルバトール・ムンディは、口角の片側だけを上げて自嘲するように笑って呟いた。

「そんなことはないと思いますよ。まだサルバトール・ムンディを引きずっているだけで…ねぇ、瞳子さん?」
 雪兎は、瞳子の肩を抱き寄せて自分の隣に引き寄せた。

「こちらは、青龍さん。瞳子さんのサルバトール・ムンディではないよ。こちらの世の神様のおひとりだそうだよ。そして、今回、僕らがココへ来ることになったツアーの主催者だ」
「…そ、そうなの?…は、はじめまして。瞳子です」
「はじめまして…か。そうだな。『瞳子』としては、はじめましてなんだな」
 またしても自嘲するような笑みを見せる青龍。その笑みは、悪いことはしてないはずなのに、瞳子に何か悪いことをしてしまったような気持ちを抱かせる。

「あのぅ・・・セイリュウさん?ちょっとお伺いしても・・・?」
 瞳子が恐る恐る口を開いた。
 改めて瞳子の方へ向き直って座り直した青龍が「どうぞ」という風に掌を水平に滑らせて、瞳子を見つめた。
「あの、漣クンとか、月影さんから聞いたんだけど、お探しの方がいるとか・・・?あ。私じゃなくて。神子の方・・・」
「あぁ。そうだ。だが、その質問に答える前に、ちょっと待て。『漣クン』と言ったな。漣とはずいぶん親しげだな」
 拗ねたような目で瞳子を睨む姿は、まるで子どもだ。
「親しいってわけじゃないですけど、こちらへ来る前に何度かお会いしてるし、そのうちにはケンカになったこともあったり・・・。あ。もちろん、和解してますよ。キチンと。それに、ここまでも案内してくれたし。だから、何となく近しい感じがして、私も雪兎も『漣クン』と呼ばせてもらってますけど・・・いけなかったですか?」

「ふんっ!漣っていうのは、幼名でな。ヤツも『一龍齋』という立派な名を賜っている神族のひとりだ」
『えぇ‼神様なんですか?漣クン・・・いや、天目さん・・・』

 いまさらながらに、驚く瞳子と雪兎。

「そういえば最初にウチへみえたときに、景子ちゃんが「あやかしですか?」って尋ねたら、烏頭さんは、天狗のあやかしだけど、自分は神族だって言ってたような気がする・・・」
「うっそぉ。私、神様相手にケンカ吹っ掛けちゃったってこと?雪兎ぉ、どうしよう・・・ホントは漣クンすごい怒ってて、バチ当たったりしない?」
「大丈夫だよ。漣クンだって、そこまで子どもじゃないさ。神さまなんだもの、きっと広い心を持ってるよ。それでも、ま。後先考えずに突っ走るのが瞳子さんの悪いところだけど、誰に対しても表裏がないっていうのは、すごくいいところだと思うよ」
「雪兎がそう言ってくれるから、私はやっていける・・・ありがとね」
「僕の方こそ、瞳子さんに救われてることばかりだよ」

「おいっ!そこのふたりっ!そろそろ二人きりの世界から戻ってこい!」

 声を掛けられて、ハッとして青龍に向き直る2人。

「聞いてはいたが、ほんとに仲が良いのだな」
 そういう青龍は、また何とも言えない寂し気な笑い方をする。(俺と卯兎もあぁやって笑いあえてた日があったのにな…)

「で?さっきの質問の件ですけど…?」
 瞳子は俯き加減の青龍の瞳めを覗き込むようにして、尋ねた。

「あ。なんだったかな・・・あぁ。私が探してた神子のことか・・・あれは、幼馴染で…俺の嫁になるはずだった」

 ― 卯兎と言うのだ。
 父さん…あ。父は黄龍といって、この幽世を取りまとめる幽世の長だ。―

 青龍は、幽世のなかでの龍の地位とその龍のなかで『黄龍の八龍』がいること、黄龍や八龍は世襲制ではなく天啓が下ることなどを話して聞かせた。

「へぇ…青龍さんってエラいのね。まだお若く見えるのに…」

 ― 卯兎は、聞いている通り神子だった。龍神付の。
だからココに住んで、神事の際は神子として務め、普段はこの宿の一階にある『めし処』で働いていた。働いていたというか、営んでいたというか・・・。
 ひとの世界と違って、商売でやっていたわけじゃないから、営んでいたっていうのも少し違うな。
 卯兎は、働くのが好きでな。神事のないときにジッとしているのがイヤだと、宿の厨房の隣にあった食糧庫の一部を改装して、『めし処』を始めて、あやかしたちや神薙、そして俺たちに得意の料理を振舞っていたんだ。―

「商売じゃないのに、店??なんだか不思議な感じだね」

「まぁ、ある種、集会所の様相だったな。気ままに来て、食って、飲んで、話して…」  
 青龍は遠い目をしながら続けた。

 ― 卯兎の料理の腕は宿の厨人も舌を巻くほどだった。饗食ではないけれど、誰もが食べてホッとするような、食べただけで気持ちが和むようなそんな料理だった。
 それから卯兎は、聞き上手でな。
 あやかしも、ひとである神薙も、腹がくちくなって、酒も進めば、口が緩くなる。愚痴だったり、悩みだったりいろいろと出てくるひとつひとつに耳を傾けてくれて、ひとりひとりの心に寄り添ってくれる。そんなヤツだった。だから、神薙たちからもあやかしたちからも、私たち神族からも卯兎は好かれていた。
 「めし処」には、卯兎の旨い飯を食いに行くというより、卯兎と話がしたくて、話を聞いてもらいたくて行く者が多かったんだ。卯兎の存在に皆、救われていた。なにより俺が一番救われていたんだと思う。―

「そんな卯兎さんが、なぜいなくなったの?なんでも『龍籍』とかいう籍に入ってたから、あなた方と同じように不老不死だったのを捨ててまでいなくなったのはなぜ?」

 青龍は、拳を握りしめて俯いていたが、洟を啜り上げるようにして頭かぶりを振りながら、上を向いて大きくひと息ついた。
「・・・卯兎は、本当の卯兎になりたかったんだ」

『本当の…卯兎さん??』
 瞳子夫婦が声を揃えて尋ねたが、青龍は、それには答えず、手にしていた盃を一息に煽って、大きく息を吐き出した。
「本当の卯兎さんって・・・どういうこと?当時の卯兎さんは本当じゃなかったってどういう意味?」

― ここ幽世には、知っての通り、神々とあやかしたち。そして現世から天界へ、転生へと向かう魂が集う世界だ。ひとがココで暮らすには、神薙などの神職に就くか、神族に仕えるか…。
 それとて簡単なことではない。神薙などの神職にはそれなりの能力が求められるし、ここでの神薙の仕事にはある種特殊な能力も求められる。だから、だいたいは神薙は同じ血筋から受け継がれて就くことが多い。
 稀に普通の家庭にチカラを持って生まれる子がいても、その子は神薙の家の養子となって、幽世の神薙に就く。―

「あ。僕の曾祖父はそのチカラが弱かったから神薙に就かせることを諦めた高祖父母は、曾祖父を高祖母が連れて現世に戻って、高祖父はこちらに残ったので、その後、盈月の神薙は高祖父を最後にいなくなって、現世でもたぶん僕が最後の盈月の人間なんだと思います」

「おぉ。そうだった。雪兎は「盈月」の人間だったな。しかし、お前の聞いてきたその話は事実と少し違うようだ・・・。
 うーん。それについては、ここにいる間にでも刑に尋ねるといい。刑が当時の盈月とは昵懇だったし、あの件の当事者のひとりだからな」

「え?烏頭さん?当事者?どういうことです?」
 雪兎は顔色を変えて青龍に迫ったが、青龍は
「…刑に聞け。俺の口からは言えないが、お前の血筋は俺たちの世界にとって少しばかり厄介でな」
と、呟くように答えると卯兎の話の続きを始めた。

 ― 昔はときどき子どもが現世からこちらへ迷い込んできたものだった。
 遊んでいて友や兄弟とはぐれて、うろうろしているうちにこちらへの道へ迷い込んでしまった者。こいつらは、刑たち刑部省の烏天狗たちがそっと家の近くまで連れ帰ってやる。
 昔、現世で言われていた『神隠し』の正体だな。現世では「烏天狗が子を攫う」と言われていたようだが、逆だ。連れ帰ってやってたのだ。
 もう一つは切ないのだが・・・現世で飢饉などになったときに、口減らしのために親がわざわざ幽世の入り口に我が子を置いていくのだ。
 そういう子らは、こちらの心ある者が運良く見つければ、神薙の養子になったり、神族の屋敷で下働きをしたりして、その寿命が来て光の(うみ)を渡るまで、この街の皆で面倒見る。なかには、そうしてるうちに神族や神薙の誰かに見初められて婚姻して龍籍や神籍を手に入れる者もいるが。
 見つけられなければ、そのまま飢えて命を落としたり、獣や質の悪いあやかしに喰われた子らも多かった。そうなると、魂の導かれるままに光の湖へ行き、転生の道をたどるのだがな。光の湖の虹の橋を渡るのは、必ず一人。それがどんなに幼い子でもな。幼子でも行けるように鬼界の鬼たちが補助はしてやるのだけどな。
 卯兎は、このどれでもなかった。―

「小さい子が鬼なんか見たら、泣き出しちゃうんじゃない?」
「神族の我らは、人形(ひとがた)を採っていることが常だからな。本来の姿で会うわけじゃない」

― 卯兎は、現世では「生」を受けられなかった子として、幽世へ来たのだ。
 どういった経緯(いきさつ)で現世に生れ落ちなかったのかは、知らん。
 とにかく、「ひと」として現世をいきることなく幽世にやってきた。そして、虹の橋を渡ることなく、幽世の街に居ついたところを同時代に口減らしで幽世に送られた『結卯』や『兎朱(とあけ)』らとともに、ここ幽玄亭の神薙とあやかしに引き取られて育った。
 なぜ虹の橋を渡らなかったのか?渡れなかったのか?未だにそれもわからん。鬼界の鬼たちが見落としたとも思えなかったんだが…―

「現世で「ひと」として生まれなかったってことは、「ひと」としてのカタチはなかったんじゃ・・・」

「そのことか。ここでは肉体は問題ではない。現世では肉体がないと動けず、カタチも認識されないだろうが、ここでは魂がカタチを成すのだ」
「ん?どういうこと?よくわかんない?体がないのに、料理したり、神子のお勤めができたりするの?ん?」
「ここは、そういうところだ」
 青龍に豪快に笑い飛ばされたが、未だ、瞳子の頭のなかは大混乱。

 ふと、雪兎を見ると、さっきの「刑に聞け!」と言われた話が引っかかっているようだ。
「雪兎、青龍さんとのお話が終わったら、刑さんを探そう。景子のことも聞きたいし・・・ね?」
 雪兎は、我に返ってニッコリ微笑むと瞳子の肩に手をやった。
「刑を探しに行くなら、雪兎ひとりで行けばいいだろ。卯兎・・・いや瞳子はココにいろ」
「はぁ?なんでっ⁉いやよ!雪兎と一緒に行きますっ‼」
「あ、いや、刑なら後で俺が呼べばすぐ来るだろう・・・続けるぞ」

 瞳子の思わぬ迫力に負けた青龍は、ムリムリな感じで話を続けた。

― 卯兎はいつも元気で、元気すぎて…お転婆とも言える面があったけれど、神事などのときはソツなく熟す器用さもあった。
 もの覚えもよくてな。神薙の上級の仕事もできそうだったな。
 いつも笑って、笑わされて…―

「いつも怒らせて、怒られてっていうのもあるんじゃないの?」
 声に振り返ると、青龍とソックリの男性が御簾から出てくるところだった。

『せ、青龍さんが、二人??』

 よく見ると、目の前の青龍はひと房の髪が金色のような黄色とターコイズのようなブルーなのに、もう一人の青龍はトルマリンのような透明に近いような透き通るブルー。
 あとは、何から何まで瓜二つ。座る青龍と御簾の前に立つ青龍の両方をキョロキョロと見比べる瞳子と雪兎。

「おかえり。卯兎。やっと帰ってきたね」
「晦、まだ卯兎じゃないんだ。いまは『瞳子』というらしい。隣にいるのが夫の『雪兎』だ」
 晦と呼ばれた青龍もどきは、先ほどの青龍が見せた寂し気な自嘲するような笑みを見せて瞳子を見つめる。
「そうなのか。どう見ても卯兎なのに…」

「瞳子、雪兎、これは、オレの兄貴。晦だ。『黄龍八龍』はさっき説明したな?そのうちの、今の『蒼龍』が晦だ。見ればわかるが、双子だ」
「あぁ。双子・・・どうりで・・・。初めまして盈月雪兎と妻の瞳子です」
 雪兎は、手を差し出した。
 蒼龍は、その手を包み込むように両手で受けると自分の胸に引き寄せた。
「これまで卯兎を・・・いえ瞳子を守ってくれてありがとうございます。無事に会えて、こんなにうれしいことはありません」

 同じ顔、同じ声なのに、蒼龍の方は随分、物腰が柔らかい。
「ホントに双子なの?顔は似てるけど、性格は随分違うのねぇ」
 思ったことをすぐ口にしてしまう瞳子に雪兎が慌てて、頭を下げる。
「すみません。悪気はないんですけど・・・」
「そういうところも卯兎そのままなのになぁ・・・」
 寂し気に微笑みながら、ジッと瞳子を見つめる蒼龍は、青龍に向き直って言った。

「で?どこまで話したの?しづらかったら、私が話そうか?」
「いや、オレが話す。足りないことがあったら、助けてくれ」
 そう答えつつも青龍は、顎に手を当ててしばらく黙り込んでいた。
「ねぇ、朔。朔は卯兎の話の続きを考えてて。私はさっきの瞳子の疑問に答えるよ」
「さっきの?」

「あぁ。『「ひと」としてのカタチはなかった。でも料理したり、神子のお勤めはできたのか?』って話だよ」
「それって・・・っていうか、お前いつから御簾の裏にいたんだ?」
「う~ん・・・。『卯兎は、本当の卯兎になりたかった』って下りのちょっと前かなぁ」「そのちょっと前って、話の最初からいたんじゃないか。とっとと出てくれば良いものを!」
「まぁまぁ。私が出ないほうがいいこともあるかと思って、様子を見ていたんだよ。じゃ、さっきの瞳子の疑問に答えるよ?」

「知りたい、知りたい‼なんだかよくわからないもの。ねぇ雪兎?」
 瞳子が大きく身を乗り出した。
「わかった!わかった」
 蒼龍・晦が、瞳子の迫力にのけぞりながら後ずさった。

「じゃ、その話を晦がしてる間に、俺はどう話したら、瞳子が卯兎であることを思いだしてくれるか⁉考えるよ」

「どう話してくれても、私はわ・た・し。盈月瞳子よッ」
 そうは言いつつも、晦・蒼龍も瞳子になんと説明すべきか⁉考えあぐねている様子。
 青・蒼(せい そう)、二人の龍は、背中合わせに胡坐を組んだ姿勢のまま、同時に口元に拳を充て、同時にため息をついたかと思えば、また同時に上を向いてなにやら呟いている。
 全く同時に、同じポーズをとる二人を見ていると、二人の背中の間に鏡があるのではないかと思うほどだ。
 しばらくそうしていたが、先に動いたのは蒼龍・晦だった。
 瞳子の方に向き直り、いま一度、天を仰ぎ、青龍・朔に目を向けた。目が合った朔は、「お先にどうぞ」というふうに、仰向けた手のひらを横へ滑らせた。
 それを見た晦は、大きくうなずくと瞳子に話しかけた。

「瞳子、雪兎が持ってる盃の中には何が入ってる?」
「お酒でしょ?種類まではわかんないけど…」
「雪兎、私にも一杯くれるかな?」

 雪兎は、朔との間に置いていた酒や酒器の載せられたお盆を引き寄せると、徳利から酒を注いで晦に差し出した。
「瞳子さんも飲むかい?」
「日本酒でしょ?私はいいや」
「でも、コレ、瞳子さんの好きな白ワインっぽくて日本酒じゃないみたいだよ?」
「そうなの?じゃ、ちょっとだけもらおうかな?」
 雪兎は、薄いピンクの桜の柄のぐい呑みに酒を注いで瞳子に渡し、続けて朔の盃、自分の盃に酒を満たして、朔の前に朔の盃を差し出してから、晦に向き直った。
「お待たせしました。さあ、どうぞ」

「あはははは…伝え聞いてはいたが、瞳子と雪兎は仲が良いのだな。そして雪兎は優しいのだな。さすが、風菟(ふうと)の子孫だな」
「ふ、う、と…?僕の高祖父ですか?ご存知なんですか?」
 雪兎は高祖父の名を聞いて、グッと身を乗り出した。
 その思わぬ反応に晦は、未だ背を向けたままの朔に助けを求めた。
「あ…え?いや…わ、どうしよう。朔ぅ〜」

 呼びかけに横目でチラリと晦を見やって、大げさにため息をついて見せる朔に、晦はますます困惑の様相だ。
「ったく…言ってあっただろ。風兎の話は、今回はナシだって」
「そうだった?あの件を話さなきゃ問題ないのかと思ってたよ」
「あの件?あの件ってなんです?」
 雪兎がさらに身を乗り出して、晦に迫る。
 晦は、後ろ手で後退りながら、慄いて答える。
「そ、それは…(ぎょう)に。刑に聞けば詳しくわかる。刑に聞いてくれ」
「また、烏頭(うとう)さん…ですか…」
 雪兎はがっくりと肩を落としてしまった。
「雪兎、後で青龍さんが烏頭さんを呼んでくれるって言ってたじゃない。ね?後で烏頭さんに聞こう。雪兎の高祖父(ひいひいおじい)様の話。ね?」
「ん?俺?俺、そんな約束したか?」
「え?え?言ったでしょッ‼俺が呼べばすぐに来るからって‼」
「呼べば、来るとは言ったが、呼ぶとは言っとらん‼」
「あら?神様がウソついていいの?」
「あのなぁー…」
 躍起になって言い争いを始めた青龍と瞳子を見つつ、蒼龍は涙ぐんでいる。
「あぁ…何年ぶり…何十年、何百年ぶりだろうな。朔と卯兎の『ジャレあい』を見るのは…」

『ジャレあって、ナイッ‼』
 瞳子と青龍・朔に噛みつかれて、その勢いに思わず雪兎の背に隠れる蒼龍・晦。

「まぁまぁ二人とも。僕が悪かったよ。僕のコトは、瞳子さんの話が終わって落ち着いたら、考えてもらうよ。コレじゃ話が進まない。ね?青龍さん?瞳子さんも」

 雪兎が割って入り、二人はとりあえず言い合うのを止めたが、目線ではバチバチとヤリ合う気満々。でもそれは、本当にヤリ合う同士のモノではなく、確かに蒼龍のいう『ジャレあい』の域だ。
  
「話、始めて良いかな?」
 
『ハイッ』
 夫婦して居住まいを正して蒼龍・晦に向き直った。

「もう一度聞くよ。この中身は何?」
 瞳子・雪兎夫婦の顔を交互に見つめ、徐に持っていた盃を目の高さまで持ち上げて、晦が尋ねる。
 瞳子と雪兎は、顔を見合わせつつ、自信なさげに2人で声を合わせて応える。
『酒・・・ですよね・・・?』
 晦は黙ってうなずくと、今度は盆の上の徳利を手にした。
「じゃ、この中身は?」
『酒・・・です・・・』
 先ほどと同じく自信なさげに声を揃える2人。
 またしても、黙ってうなずき、今度は徳利の酒を赤い切子硝子のグラスに注ぎ、瞳子の前に置いた。
「じゃ、瞳子。コレは?」
「お酒でしょ?徳利の中身がすり替えられてなければ!」
「そんなことするわけないでしょ。する必要もない。なんなら飲んでみる?」
「い、いいわよ」
 慌てて遠慮する瞳子を上目遣いに見ながら、晦は自分の盃、グラス、徳利を前に並べた。
「さあ、この中で違うモノは何?」
 瞳子は、手品師(マジシャン)がするような手つきで両手を広げる晦を訝しげに見ながら首を傾げている。
「何をしたいの?マジック?お酒を何かに変えるとか?なに?」
「瞳子、私は卯兎の話をしたいんだよ。手妻を披露したいわけじゃない。素直に答えてくれていいんだよ」
「お酒が卯兎さんと関係あるの?う〜ん…」
 ますます訝しげな表情の瞳子だが、意を決したように口を開いた。

「素直に答えろというのなら、『器』が違うだけよね?盃、グラス、徳利。どれも中身はお酒でしょ?」

「そう!そうだ。『器』が違っても、中身は『酒』なのだ」
「それと卯兎さんに何の関係があるって言うの?」

 ― ここで言う『酒』は、精魂。
 『器』は、肉体だ。だから、『器』が変わっても中身は変わらない。
 わかるかい?変わっているのは『器』だけ。そして、ココ・幽世では『器』…いわゆる肉体に大きな意味はないのだ。
 『精魂』…これは現世に生きるモノも幽世に生きるモノも変わらず、生あるものに宿るもの。幽世ではこれがしっかりしていれば、肉体という『器』は必要ないのだ。
 しかし現世では、肉体という『器』がないことには誰にも認識してもらえない。だから卯兎は何度か器を変えながら現世を生きて、七度目(ななたびめ)のいま。卯兎は、瞳子という器にいるのだ。
 それから幽世の住人である私も朔も、いわゆる肉体はない。いま瞳子たちが見えているのは、私たちの魂のカタチなのだ。―

『え〜〜‼だって…ほら…え〜〜‼!』
 腰を抜かさんばかりに驚いて、口をパクパクさせながら、晦と朔を指差しつつのけぞる瞳子夫婦。

 ― 落ち着け!落ち着くのだ、瞳子よ。雪兎よ。
 最近の現世では、『魂』とか『精』よりも肉体が随分大切にされているようだが、昔は現世でも『魂』とか『精』が大切に考えられていたんだ。
 個々の持つ『魂』は、『精』の持つ核みたいなモノ。『精』は『魂』を象るものとでもいうかな。もうちょっとカンタンな言い方をすると、『魂』が持っている特徴を表わすのが、『精』。
 その『精』が姿形を成して、視覚的に見えていると言えば、わかるかな?  ―

「で、でも肉体がないと、モノを持ったり、動かしたりできないでしょ?それに、お酒飲んだり、食事したりできてるのはなんで?」
「現世でも神様や仏様にお供えしたりするだろう?あれって、お供え物を置いておいて、そのお供えはどうなってる?」
「お供えして、ある程度時間が経つと、とりあえず下げるわね。放っておくと腐らせたりするから、食べ物だと『お下がり』として、私たちが戴くかな」

「神様や仏様が召し上がった形跡はあったかい?」
「アハハハ~。あるわけないじゃない」

 ― ここでさっきの話に戻るよ。『精魂』の話。
 『精』はなんにでもある。『水の精』とか『木の精』とか言うだろ?モノにも思いを込めれば、『魂』が宿る。そこに『精』も生まれる。
 お供えは、神様や仏様への思いを込めて供えられている。お供えをもらった方は、その思い=『精魂』を戴くのだ。だから、カタチはそのままでもちゃんとお供えを戴いているということだ。
 そのものの真髄である『精魂』を頂いているのだから、ちゃんと味も味わってる。わかるかな⁉ ―
「ますますわからないわぁ・・・」
 瞳子は、首を振りながら盃を手に取って、眇めている。
「なんとなく、食べたり飲んだりっていうことができるのはわかったけど…モノを持ったり、動かしたりって、肉体がないのにどうして⁉」

「それは、元の話に戻るが、ココ・幽世や天界では肉体は必要ないからさ」
 蒼龍・晦は、周りをキョロキョロと見回すと、先ほど秋菟が瞳子たちに茶を淹れたときに使った茶さじを見つけて、瞳子の前に置いた。
「ここでなら、瞳子にもできるはずだよ。この茶さじを手を使わずに持ち上げてごらん」
「はぁ???できるわけないでしょ。ユリ・ゲラーでもあるまいし。ユリ・ゲラーだってスプーンは曲げても手を使わずに持ち上げるなんてできないわよ」
「ゆり?花の精か?花の精ならできるだろうな」
「違うわよ!ユリ・ゲラーっていうのはね、」
「瞳子さん、瞳子さん、見て!できた!僕、できたよ」
 さっきまで瞳子の目の前にあった茶さじが雪兎の前に移動している。
「うっそぉ。ホントに?私が見てない間に動かしたでしょ?」
 瞳子は疑いの目を向けている。
「ホントだって!もう一回やってみるよ?」
 そう言うと、雪兎は茶さじに手を翳して、「ウンッ」と気合を込めた。
 茶さじは、プルプルと震えたかと思うと、スーッと滑って瞳子の前へ。
「え?え?なんで?すごいじゃない!超能力?いつの間にそんなチカラ身に着けたの?雪兎ったら!」
「超能力じゃない。なんていうのかな・・・ちゃんと自分で瞳子さんの前に茶さじを滑らせた感覚が手にあるんだ。瞳子さんもやってみてよ。僕にできたんだから、きっと、瞳子さんも…」
 雪兎に促され、瞳子は自分の前にある茶さじに、雪兎と同じように手を翳して気合を込めた。…が、茶さじはピクリとも動かない。「ダメだ」という顔で雪兎を見ると、蒼龍・晦が口を挟んだ。
「瞳子、動かしてやる!と思うんじゃなくて、自分で茶さじを取ろうと思ってごらん。普通に手に取るときのように」
「そんなこと言われても、普段、いちいち『茶さじを取りましょう』なんて考えて手をうごかすことなんかないもの・・・」
 文句を言いつつも、もう一度茶さじに向き直って、手を翳す瞳子。今度は、目を閉じて、静かに呼吸しつつ、掌を上にして手を翳している。
 そうして数十秒。
「瞳子さん、瞳子さんすごいよ!え?信じられない」
 雪兎の大声で、目を開けた瞳子。雪兎の指さすところを見ると、瞳子の掌に茶さじが載っている。
「え?なんで?雪兎が置いた?蒼龍さん、あなた?」
 瞳子は信じられないという風に、二人の顔を見るも、二人とも静かに首を横に振っている。
「私たちが瞳子の掌に茶さじを載せたか?どうか?それは、瞳子が一番よくわかってるんじゃないのかい?」
「そう言われれば、私、茶さじの感触が手にある。摘まみ上げた感じが指先に・・・」
「ん。そうだ。それが肉体がなくともモノを動かしたり、料理ができたりってコトにつながるんだ。わかってもらえたかい?」
 蒼龍・晦が、優しい笑みを湛えながら、瞳子の目を覗き込んだ。
「ま、まぁ、そういうことができるってことはわかったわ。でも、いちいちこんなに集中しなきゃいけないってひとつ物を動かすのに、すごい労力がいるわよ?」
「瞳子、さっき、茶さじを動かす前、なんて言ったかな?『いちいち『茶さじを取りましょう』なんて考えて手をうごかすことなんかない』って言ったな?いまの瞳子たちは、肉体があることに頼って暮らしているから、集中しないと動かせないっていうけれど、私たちにとっては、もう当たり前のことで、いちいち考えて動かすことなんかないんだよ。瞳子たちが無意識に手足を動かすのと同じだ」
「うーん・・・完全に理解するには、まだもう少し時間が必要かもね。まだ、右から左へ『はい、そうですか』って納得はできないけど、なんとなくは、わかったわ」
「それでいいのだ。なにもかもすべてをいますぐわからなくても。少しづつ思い出せばいい」
 蒼龍・晦は、満足げに笑うと、持っていた盃の酒を飲み干した。
「さぁ、どうだ?そろそろ話がまとまったかい?」
 晦が朔を見やると、朔はまだ頭を抱えたままのうえ、どうやら、泣いているようだ。
「朔?泣いてるのか?大丈夫?」
「泣いてないっ!大丈夫だっ!」
 勢いの割には、声は鼻声で泣いているのは明白だ。
 晦は、少しため息をつきながら、朔の背を叩いて一緒に俯いていたが、不安そうに見つめてる雪兎と瞳子の方を見て、大丈夫という風に頷いて見せた。
「ねぇ、朔。私も力を貸すから、どうかな?話すんじゃなくて、あの日のことを雪兎と瞳子に幻視で見せるっていうのは・・・。たぶん、私たちがあれこれ話すより伝わるよ。なにより、瞳子は卯兎なんだから」
 その言葉に、ハッとして晦を見た朔は、大きく頷いて、朔の右手を握ると、左手を差し出した。晦は朔の差し出された左手に自分の左手を重ねて、二人で印を結ぶと、揃った声で厳かに(ことば)を唱え始めた。

 空間がグニャリと歪み、周囲が薄い黄色の靄に包まれた。その靄の向こうに、ぼんやりと映し出された映像は、まるで3Ⅾの映画を見ているような臨場感だ。
 いや映像というより、そのときのその場に、瞳子も雪兎も入り込んでしまったという方が合っているかも知れない。
 *~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*

「卯兎、さすがだな。よしっ。皆揃った。始めよう、懐かしの宴を!」

 黄龍の一声で、皆、盃を持ったところで、卯兎が声を上げた。
「黄龍様、せっかくでございます。上の月見棚へ出てみませんか?今日は暖かいですし、夜風も気持ち良うございますよ。皆で上限の月を眺めながら…というのもよろしいでしょ?湯冷めせぬよう、何か羽織るものをお持ちしますので」
 月見棚は、幽玄館本館の二階の広間からせり出た板場で、その名の通り、満月の際にはそこで月見をしたり、神事のあとの宴の際の余興などで芝居や踊りを披露する舞台代わりにも使われたりする場所である。とは言え、普段、卯兎たちが勝手に使えたりする場所ではなかったが、この日は身内の宴とはいえ、黄龍の宴。反対できる者などあろうはずがない。
「卯兎、それは良い。なに、御大のお召し物なら、ほれ、ここに。湯のあと、ここへ寄られるだろうとお持ちしているの」
 最初に卯兎の提案に弾んだ声で応えたのは、黄龍の妻で、蒼・青の双子龍の母、姫龍だった。
「姫は、よく気が回るのぅ。じゃ。『上限の月の宴』の続きとまいろうか」
 黄龍の声に、全員が腰を上げた。
「あ。盃はご自分のをお持ちになって棚へお上がりください。後のものは、私たちが運びますので」
 卯兎は、鬼堂・鬼丸に腕を絡みつけてしなだれている結卯に目くばせをする。
 卯兎に目くばせされて、唇を尖らせながら、未練たっぷりに鬼丸に絡みつけていた腕を解いて、卓上に並べられていた皿や料理を盆に載せ始めた。
「私も手伝うよ」
 蒼龍・晦が、結卯に続いて手際よく盆に皿や料理を載せると立ち上がって運び始めた。

 月見棚に全員が揃い、腰を落ち着けたのを見計らって、黄龍が再び声を掛けた。
「さぁ、今度こそ始められるな。ん?皆、良いか?」
 黄龍が皆の顔を見回して、盃を上げる。それに倣って、姫龍、蒼龍・晦、青龍・朔、鬼堂・鬼丸、結卯、そして卯兎。それぞれが顔を見回して、黄龍に向けて盃を上げた。
 ひととき、昔話に花が咲き、笑い、泣き、また笑って時間を過ごした。
「ところで父さん、何か私たちにお話があったのではないのですか?」
 話がひと通り盛り上がりを終えたところで、晦が口を開いた。
「うむ…そのことなのだがな…」
 口ごもり、考え込むような様子の黄龍。
「あ。ご家族のお話でしたら、私たちはお(いとま)を…ホレ!」
 鬼丸が結卯を急き立てて立たせると、卯兎にも顎を振って、下がるように指示した。
「いや、鬼丸、座ってくれ。お前たちにも居てもらった方がいいだろう。その方が卯兎も心強かろうて」
「え?私?私のお話でございますか?黄龍様直々に?」
『卯兎のこと?なんです?』
 双子龍が声を揃えて、黄龍に顔を寄せて迫ると、それを遮るように姫龍が二人の頭を撫でた。
「母さん、いきなりなにするんです?」
「なにするんだよ。いきなり。ガキじゃないぞ!」
「二人とも、卯兎のこと好きなのね。じゃ、お父様の話をしっかり聞いて。そして、考えて。卯兎のために。あなた方のために」

「卯兎、もう一杯くれぬか?」
 卯兎が黄龍の盃に酒を満たすと、黄龍はそれをひと舐めして話を始めた。

「卯兎、お前、どうして此処・幽世へ来たか覚えているか?」
 卯兎は、俯いて正座した膝に拳をギュッと握りしめたまま、首を横に振る。
「結卯、お前はどうだ?」
「私…かなり昔だから…」
「でも、覚えておるだろう?」
「・・・・あの、私・・・あたしんちは貧乏で、兄ちゃん二人は父ちゃん母ちゃんの仕事を手伝ってて…姉ちゃんは村でも評判の美人。だから綺麗な着物(おべべ)着て、おいしい御飯(おまんま)が食べられる御大尽のところへ行けるって。そのうえに、父ちゃんたちもお(ぜぜ)貰えるって。姉ちゃんと私の間にいたもう一人の兄ちゃんは死んじゃって…。それから…それから弟が生まれて。可愛い子で、あたしがいつもおんぶして面倒みてたんだぁ・・・弟が一歳ひとつになって間もなく飢饉続きで、一家七人、食うや食わずやの日が何日も続いて・・・。姉ちゃんがお大尽の家へ行くのが決まった日。父ちゃん、母ちゃんと握り飯持って山へ・・・。麦や稗だったけど、でも久しぶりの大きな握り飯。うれしかったなぁ。そう、姉ちゃんが十日後に家を出るって決まったから、姉ちゃんに家で染めた布で御守袋作って持たせるのに、その布を染めるのに、(えんじゅ)の蕾や桑の葉や山桃の樹皮なんかを採りにね。父ちゃんと母ちゃんとあたし。握り飯持ってね。・・・いっぱい採れて、『疲れたろう?握り飯おあがり』って母ちゃんが…。あたし、うれしくって。3つ持ってった握り飯、全部食べていいって。うれしかったけど、(しん)に…弟に持って帰ってやろうってひとつは、食べずに懐にしまっといたんだぁ。でも、あたしが握り飯食べてる間に、父ちゃんも母ちゃんもいなくなってて、泣いて叫んだけど、見つからなくて・・・」
 結卯はだんだんと涙声になり、声が詰まり話せなくなった。

「結卯、もういいよ。もう思い出さなくていい」
 卯兎がそんな結卯の肩を抱き、背を撫でてやりながら、黄龍を睨みつけた。
「いくら黄龍様でもひどすぎます!結卯の辛い思い出をわざわざ掘り返さなくてもいいじゃないですか!それと、私の話。何の関係がっ?」
「悪かったな。悪かった、結卯。そんなつもりはなかったんだ。許してくれ。な?」
「黄龍様、もったいないことでございます。()うの昔のこと。私も忘れてしまっておりました」
「そうじゃの。忘れてても思い出すことはあるものだ。じゃが、卯兎はどうじゃ?」
「あ、私は・・・。気づいたら、鬼界ヶ原の端にいて、結卯が泣いてて・・・」
「それ以前のことは思い出せないのだな?あ。いや、責めとるわけではないぞ。仕方のないことなのじゃ。でも、もし覚えておったら・・・とな」

『仕方のないこと?』
 双子龍、鬼丸、結卯、卯兎が声を揃えて聞き返した。

 ― うむ。
 いま聞いた通り、結卯はいわゆる口減らし…すまんな結卯…で、幽世との境に置き去られた。飢えて、命が尽きる寸前で鬼界ヶ原にたどり着いたところを兎士郎と刑に見つけられて、幽玄館へ来た。
 そのとき一緒にいた卯兎も連れて来たんじゃ。姉妹かと思っての。だが、結卯に尋ねても知らぬという。肝心の卯兎は、喋ることができぬ状態じゃった。
 卯兎は、どこから来たのか?なぜ来たのか?誰にもわからなかったのじゃ。
 現世(うつしよ)のひとが、様々な理由で子を幽世との境へ置き去ることが多かった。いまもまだ、あるがの…。悲しいことに。その子らは、飢えて死んだり、獣に食われたりで死んでしまえば、鬼界ヶ原へ来る。その後は鬼界ヶ原の鬼たちが虹の橋まで導いてやる。来世は幸せな人生であることを願いながらの。生きて幽世に迷い込んだ者は、兎士郎や刑が保護して、幽世各所の神殿や宿で引き取ってやっていた。
 そして引き取るには、黄龍である私の許可が必要だった。だから、いろいろ調べたのだが、私にもわからん。あやかしの子ではなく、ひとの子だとはわかっていた。だが、死んで鬼界ヶ原へ来たのか?結卯のように死にかけて鬼界ヶ原へ来たのか?生きて迷い込んだのか?なにより、卯兎は肉体を持たずに此処へ来たようだった。
 わからぬことだらけの子を引き取るべきか?どうするべきなのか?だから私は、天帝にお伺いを立てた。
 天帝からのお答えは、一言。「お前に任せる」とのことだった。そこで、我らで育ててやることになったのだ。
 見つけられたときに一緒だったせいか?卯兎は、結卯とは心通じてるようで、喋らない卯兎のことを結卯が一番理解しておったからの。別々の神殿や宿で預かるより、同じところがよかろう。そして卯兎の素性がわからん以上は、兎士郎に、私に近い幽玄館 龍別邸が良かろうということになった。
 そこから後は、皆も知っての通りだ。
 喋れなかった卯兎が神子の仕事もソツなく熟すようになり、龍籍を得て、もうかなりの年月が過ぎたな。―
「信じられないな。卯兎が喋れなかったなんてな」
 青龍・朔が、おどけた表情で真っ青な顔で震えている卯兎の顔を覗きこんだ。
「いまじゃ、祭主とそれが仕える神まで、木べらひとつで動かすくらいになった」
 蒼龍も笑顔で卯兎の顔を覗きこんだ。
 卯兎は、震えながらもコクコクと首を振り、大丈夫だという風に手を振った。その姿を見て、青龍が黄龍に続けて尋ねた。
「で?父さん、その卯兎の生い立ち?いや、此処へ来た経緯と今夜の話は何が・・・?」
 ― そうだな。ここからが本題だ。―
「前置き長過ぎだろ!」
「朔、いいから続きを聞こう」
「なんだよ。晦は、いつもいい子だな」
 双子のそんなやりとりを微笑みながら聞いていた姫龍が口を開いた。
御大(おんたい)、お疲れでしょう?少し、お飲みになったら?続きは私がお話ししましょう」

 ― 御大…現・黄龍様が遠からず引退なさることは、皆さんご存知よね?
 黄龍が交代するということは、その黄龍の代に職に就いていた者、龍籍に入った者は、一旦、その身分を解かれる。
 兎士郎や秋菟は、神薙としてこの神殿に残るだろうから、龍籍も職もそのままだと思うけど、卯兎や結卯、鬼界ヶ原の珠鬼(たまき)なんかの、幽世で保護されて育った子らは、一旦、その職を解かれて、龍籍も返上となるわね。あぁ、兎朱(とあけ)は別ね。あの子は、御大から龍籍をいただいたけれど、いまは鳳一族だから。その籍の責務は鳳にありますからね。
 問題は、その龍籍から抜けた後のことなのよ。
 新たな黄龍がその籍に就いて、天帝から御赦しをいただいて、黄龍としての職権を揮えるようになるまでの時間。私たち神族やあやかしにとっては、そんなに長い時間ではないけれど、龍籍を失った「ひと」にとっては、十分すぎるくらい長い時間かもしれない。
 その長い時間の中で、結卯や珠鬼は歳をとっていくだけだろうけれど・・・。
 さっきの話の中で、御大は、ハッキリ言うのを避けたのだけど・・・。
 卯兎、ごめんなさいね。ハッキリ言うわね?
 卯兎は、ひととして現世(うつしよ)で生を受けることのないまま、幽世へやってきたのよ。―

「ひととして・・・現世で・・・生を受けてない・・・。私・・・ひとじゃないの?あやかしでもないなら、バケモノ??」
 卯兎は、ガクガクと震えながら、尋ねた。
「うーん・・・バケモノだなんて、そんな言い方・・・。違うのよ。違うの。確かに、子どものまま『生成(なまな)り』になりかけてはいたんだけど、そうならずに済んだ。ひととして現世に生まれられなかっただけなのよ」
 姫龍は卯兎を我が子を慈しむように抱きしめた。
「『生成り』って・・・?」
 結卯の問いに姫龍が答えようとするのを遮って、黄龍が口を開いた。
「姫、言いづらいことを言わせて悪かったな。ありがとう。ここからは、私が引き継ごう」
 黄龍は、手元の盃をじっと見つめ、ひとつ息をついてから、ゆっくりと語り始めた。その瞳の奥には、後悔とも哀しみとも呼べそうな苦渋の思いに揺れていた。

 ― 本来、『生成り』は、執念や怨念に取りつかれ、般若にも成れぬ、「ひと」にも戻れぬという者がなるのだがな。
 卯兎の場合、すでに「ひと」でもなく「あやかし」でもない存在だったからな。でも、「ひと」になるはずだったその魂は、現世に生まれなくとも、現世への、いや現世の何者かへの?なにかへの強い執念や怨念を抱いたまま幽世へ来た。
 その暗い思いが強すぎたのか?虹の橋を渡れずに幾年か過ごした頃、瀕死の魂で現れた結卯と出会ったことで、『生成り』にならずに済んだ。
 そして、そのまま今日まで来てしまった。その『「ひと」でもなく「あやかし」でもない存在』の者に、私が龍籍を与えた。が、知っての通り、私は黄龍の任を解かれる身。私が黄龍でなくなれば、私が龍籍を与えた者たちは、龍籍を離脱することになる。新しい黄龍の就任後、また龍籍を得られる者もいれば、得られない者もいる。―

「ちょっとお待ちください。龍籍の与奪権は『ときの黄龍』のモノではないのですか?父さんの次は、朔という天啓が示されたのですから、朔がそうと決めれば、与えられるのでは?」
「大抵の者は、時を過ごしても、また龍籍を得られるだろう。だがな、晦。卯兎は龍籍を離れれば依り代を失う。そうなったら、卯兎がどうなってしまうのか?私にもわからん」
「わからんって、卯兎は、卯兎はどうなるんだよ!何か方法があるだろ‼」
 掴みかからんばかりの青龍・朔を抱きとめたのは、当の卯兎より涙を流している鬼丸だった。
「朔、やめろ!黄龍様だって、お辛いのだ」

「卯兎が消えることも、生成りになることもなく、再び私たちと会える方法がひとつだけある」
 卯兎の背を撫でながら、黄龍も涙にくれている。
『なんですっ?そのひとつって!』
 双子龍と鬼丸が声を揃えて、黄龍に向き直った。
「それはな…、魂の旅をすることだ」
「魂の、旅・・・?」
 泣き腫らした目で黄龍を見上げる卯兎に今度は姫龍が続ける。
「虹の橋を渡り、魂の洗浄を受け、新しい魂で現世へ降りるのです。そして、ひととしての人生を終えて、此処へ戻ってくるのです」
「母さん、それは・・・それは・・・それは、いまの卯兎に死ねと言っているのですか?」
「晦、そうじゃないの。生まれ直しをしたら、此処へ戻れるのよ」
「でも、卯兎は、いまの卯兎はいなくなってしまうじゃないか!」
「朔、卯兎は、卯兎ですよ。生まれ直しても、魂の本質は変わらない。何度生まれ直しても、卯兎は卯兎なんですよ」
「何度?何度って、どういうことです?一度じゃないんですか?」
「あら?言わなかったかしら??ホホホホ・・・」
 取り繕うように笑う姫龍の手を両手で包み、頷きながら皆を見回した黄龍。
七度(ななたび)じゃ。七度(ななたび)の魂の旅を終えたら、幽世の住人となることが許されるはずじゃ」
『七?七度(ななたび)?』
「魂は一度の生まれ直しでは、天界から幽世に降りることは許されん。現世で大きな貢献を果たし、幽世で暮らしておるひとでも、最低でも三度(みたび)は生まれ直しておる。ましてや卯兎は、一度も現世を生きておらん。七度(ななたび)は必要だろう。七度(ななたび)の魂の旅を終えたのち、天界で魂の洗浄を受けたのち、また現世に戻るか?幽世に降りて暮らすか?選べるはずじゃ」

「もし、それをしなかったら・・・もし生まれ直しを選ばず、朔が黄龍様になるのを待つとしたら…そしたら、私は、私はどうなるんでしょう?」
「卯兎は生まれ直すのが嫌なのか?怖いのか?」
「黄龍様、私を今日まで育てていただいて、心から感謝しています。私がここで真っ当に暮らしてこられたのは、黄龍様のおかげだとわかっています。でも、私がこのままだとどうなるか?黄龍様にもおわかりにならないんですよね?私、このまま朔の黄龍様を待っていても、変わらずいられるかも知れないんですよね?もし、私がバケモノに変わってしまうようなことがあれば、そのときは迷わず成敗してくださって結構ですから。私、このままではいけませんか?お願いします」
 卯兎は、板に頭をこすりつけるようにして泣きながら土下座している。
 黄龍は、腕組み、顰めた顔を斜め上に向けたまま、軽く握った片手を口元に添えて、なにやらブツブツとつぶやいた。