昼休みになり、いつもどおり第一図書室に行くと、まだ大熊はいなかった。教室にも姿がなかったから、もう来ているのかと思ったがちがったらしい。

しんと静まり返る図書室で、ゆっくり、ゆっくり、米粒を口に含ませる。

箸のペースがさらに遅くなっていく。

自分の咀嚼音だけが鼓膜を打ち、食欲が失せていった。


それでもなんとか平らげてもなお、誰も来る気配がない。

日直の仕事で遅くなっているのだろうか。



「……ま、ひとりでもいいんだけど」



ふたりで過ごすことに慣れすぎていたけれど、そうだ、元々はひとりだった。

ちょっと前に戻るだけ。

何も支障はない。


楽しみにしていた小説の続きを開いた。

期待しながら一文、二文と読んでいく。呪いをかけられた主人公は怪物となり、森の洞窟に身をひそめる。そこに異国の民が迷いこんでくる。呪いをかけられ……あれ?誤って冒頭に戻ってきてしまい、もう一度はじめから読み直した。なぜかまったく頭に入ってこない。

チクタク、時計の針に神経を刺される。読み始めてから、まだ五分も経っていない。視線が本と時計を行き来する。

疲れているのかと思い、目を閉じても一向に寝つけない。

ひとりぼっちの静寂に、胸がじくじく痛みだす。



「ああ今日はだめだ」



昼休みが終わるまで、残り十分足らず。

結局一ページも進まず、とうとう本を閉じてしまった。

チャイムが鳴る前に、図書室をあとにする。



教室に戻る道中、騒がしい声が耳をつんざいた。ひとりやふたりじゃない。十人以上の声が束になり、近所迷惑になりかねないボリュームになっている。

図書室との差に、聴覚がぶっ壊れそうだった。


騒音の出どころは、廊下を曲がった先。異常なほどに人口密度が集中しているところからだ。

うごめく人の塊。
中心で頭ひとつ分飛び出し、否が応でも目立つ金髪。

どれも見覚えがあった。


まさか……。



「ニアくんっ、日直お疲れ。これで終わり?」

「う、うん」

「役に立ててよかったぁ。朝は手伝えなかったからうれしい!」

「あ、ありがとう」



……やっぱり、あいつか。


金髪・九頭身・ハーフという非凡設定てんこもりな学校のアイドル、大熊は、信仰深いファンに包囲されていた。

廊下にはまだスペースがあるのに、誰も大熊のそばを離れないせいで、夏のおしくらまんじゅう大会と化している。見ているだけで暑くなってくる。


身動きもままならない大熊は、仕事を手伝ってくれた感謝を伝えつつ、やんわりと離れてもらおうとする。最初しか聞いていない群集は、むしろさらに距離を詰めていった。

どうやら、彼らは今まで、運悪く増え続けた雑用を手分けして片付けていたらしい。

大熊は先生からも気に入られていて、普段から何かと頼まれがちだ。日直という肩書きで、その効果が二倍になってしまったのだろう。

つまり俺の予想は当たっていたわけだ。ほっと息をつく。


……あれ? なんで俺、安心してんだ?



「ニアくんがやさしいからってセンセーたち仕事押しつけすぎ」

「断ったっていいんだぜ?」

「でも……先生方も大変だろうから」

「もう~ニアくんてば、そういうところだよ~?」

「まあ、大熊はなんでもできるから、つい甘えちまうよな」



大熊は笑顔で否定するが、あっさり聞き流され、代わりに盛大に褒めはやされる。付け入る隙もなく、めまぐるしく流れる渦に、飲みこまれていく。



「雑用はだるいけど、ニアくんと一緒にいられるなら悪くないかも」

「大熊と昼休み過ごしたの、何気にひさしぶりじゃね? やっぱ告白されてんの?」

「い、いや……」

「なんでわかんないんだろうね。ニアくんはみんなのものなのに!」

「なに言ってんだ、大熊は大熊のもんだろ」



大熊は何か言いかけ、しかし押し殺してしまった。困ったように苦笑し、流れのままに身をゆだねる。

つつけば崩れ落ちそうな口角、ためらいがちに伏せられる瞼。

俺といるときと、まったくちがう笑い方。


あんな表情をしているやつが、本当にやさしいのか。

いいや、ちがう。

俺にはわかる。あれは……何もかもどうでもよくなって、あきらめたやつの表情(カオ)だ。



「ニアくん、明日も昼休み一緒にいよーよ」

「あ、俺、大熊に相談したいことがあって」

「ちょっと! あたしが先! 今度どこか遊びに行く計画立てよ!」

「みんなのものっつってたのに、自分はデートか」

「それはそれ、これはこれ」

「てかまた勉強教えてよ。大熊がいねえとやっぱ無理でさ」



窒息してもおかしくないほどの愛であふれかえっている。

なのに、なぜだろう、大熊がひとりぼっちに見えた。

あの日、誰もいない部屋の片隅で泣いていた姿と、重なる。


気づいたときには、俺の足は力強く地面を蹴っていた。



「――ニア!」

「え……? い、ぬ、かい、くん……?」



俺を捉えた大熊の瞳が、きらり、光る。

ざわめく群集をかき分け、俺は手を伸ばした。

ひときわ白い腕を引っ張ると、大当たり、唯一無二の輝きに出会えた。



「わりぃ、ちょっとこいつ借りるわ!」

「えっ、あ、あんた犬塚!?」

「なんで今井が……!?」

「もうすぐ授業始まるんだけどー!?」



俺の名前を一生覚える気のないやつらに用はない。

静止の声を振り切り、どこか遠くへ逃げていった。

大熊を連れ、無我夢中で風を切る。メガネのレンズに髪が張りつき、前が見えづらい。それでも足を止めることはなかった。


いつの間にか俺は、旧校舎に戻ってきていた。

ほかに行くあてもなく、とりあえず第一図書室に入る。


――キーンコーンカーンコーン。


昼休み終了の合図。

とたんに罪悪感に苛まれた俺は、こわごわと手を離しながらあとずさる。



「あ、勝手に悪い、サボらせちまって……」

「……どうして」



小さくかすれた声音。

大熊は今さっきまで俺がつかんでいた手首の感触をたしかめるように撫でていた。



「どうして、連れ出してくれたの」



俺は乱れた前髪をかきあげながら息を吐いた。



「なんか……泣きそうに見えたから」



気のせいだった? ……気のせいじゃねえよな?

短い付き合いだけど、顔を見ればわかるよ。

わかるようになっちまったよ。


瞬間、大熊の目から涙がこぼれた。

ぼろぼろと堰を切ったように滴り、頬を濡らしていく。

前に『見るな!』と言われたことを思い出し、俺はとっさに顔を背けた。すすり泣く声に、思考が鈍っていく。



「あ、あのさ……よくわかんねえけど、あんま無理するなよ」

「……」

「王子様でいんのつらかったら、別にふつうでいりゃ…………お、ぐま?」

「……っ」



ちょん、と手にぬくもりが触れた。

右の人差し指だけを、たどたどしく握りしめられる。



「……好き……」



背中越しに届いたのは、今にも消え入るささやきだった。



「どうしよう……、……ごめん……」

「え……?」

「友だちじゃ、足りない……っ」



嗚咽まじりに紡がれる言葉に、俺は思わず振り向いた。



「ごめん……」



視界に飛び込む、熱に浮かされ苦しそうな表情。

ごめん、その三文字を何度も何度も繰り返す。

心臓がドクンと重くなった。


好き……? こいつが、俺を?


それが単純な意味合いではないことは容易に汲み取れる。聞きたいこと、言いたいこと、たくさんあるはずなのに、涙を止める術ばかりを考えていた。


もしかして、彼が泣いているのは、俺のせいなのだろうか。

それは……なんかいやだな、と思った。

でもなぜだろう、いやじゃないとも思っている。


涙の膜の張る瞳に、日差しが乱反射し、純度の高いきらめきを落としている。

無意識のうちに左手が動いていた。指先で跡をたどりながら、まばゆい雫をすくい取る。

濡れた長いまつげが、震えた。



「……ひ、引かないの……?」

「なんで。引かねえよ」

「……い、いやじゃ、ない?」

「いやじゃねえよ。……ふしぎなくらい」



俺の人差し指だけをつかめていた大きな手が、おそるおそる広げられていく。

手のひらが覆われると、しがみつくように指が折り重なった。


大熊が一歩ずつ近づいてくる。

逃げることなど考えもしなかった。

当たり前のように引き寄せられた。



あぁ、そうか、俺はとうにやられていたのだ。



つま先がこすれた。お互いの息がかかる。

いつものきれいな顔は、ぐちゃぐちゃに歪んでいた。

もっと見たくて、少し首を伸ばす。

大熊の鼻先と俺のメガネが、ガッとぶつかった。



「……」

「……」

「くっ」

「ふ……」



どちらともなく笑みを吹く。


チャイムの余韻が残る、静かな第一図書室。

その奥でひそかに深まる影に、ひと粒の光が降った。




END