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イレギュラーは立て続けに起こりえる。
翌朝、生徒玄関で大熊と鉢合わせた。
入学してからはじめてのことだ。いやに緊張してしまう。
俺は平然を装い、下駄箱で靴を履き替える大熊の隣に並び立った。
「はよ」
「お……おはよ!」
「うるさ」
「あ、ごめん」
「元気すぎ」
声量のわりには、大熊の目はとろんとしている。目の下にはうっすらクマがあった。昨日の昼寝のせいで寝つけなかったのだろうか。
ふたりで教室へ向かう途中、うしろからクラスメイトが駆け寄ってきた。
「おっはよー、大熊!」
「ニアくーん! おはよーお!」
「……お、おはよう」
サッカー部の男子と、バレー部の女子。よく大熊とつるんでいるやつらだ。当然、俺に挨拶はない。
ちらちらと俺をうかがう大熊の視線でようやく、クラスメイトは俺の存在に気づいた。
「あれ……? ふたり一緒なんだ?」
「珍しい組み合わせだな」
「たしかクラス一緒だよね。名前なんだっけ」
「えっと……い、い……犬塚? あ、飯田だったか?」
「今井じゃない? あれ、伊藤だっけ?」
「……どんどん遠くなってっけど。当てる気ねえだろ」
だまっていられず、思わず割って入ってしまった。
舌打ちもかます俺に、クラスメイトは面を食らっていた。と思ったらなぜか噴き出した。
「あはは、口悪っ!」
「えー、そんなキャラだったんだ?」
「うぜえ……」
新しいおもちゃを見つけたようにはしゃいでいる。鼓膜がちぎれそうだ。ドン引きされたほうがましだったかもしれない。
朝から大量のエネルギーをぶちまけて笑うクラスメイトの傍ら、大熊はひとり、表情を曇らせていた。
「ギャップありすぎ。おもろ」
「で、正解は?」
「――犬飼くん!」
俺が言う前に、正解が廊下をかけめぐった。
俺の名前を知っているやつは、現状ひとりしかいない。
額に汗をにじませた大熊の視界には、やはり、俺しかいなかった。
やつの視界をさらに俺で埋めるように覗きこみ、ん? と首を傾げた。
「どした大熊」
「あ~そうだ、犬飼だ。さっすがニアくん!」
バレー部の女子が手をぽんと打ち、黄色い声を上げた。
大熊はハッとして目を泳がせる。
いつも白く透き通った顔をしているが、今はほのかに青みを帯びているように見えた。
「あ……い、犬飼くん」
「なに?」
「その……あ、ちょっと資料運ぶの手伝ってくれない? 僕、今日日直で」
日直は出席番号順に回っていく。俺と大熊は出席番号が前後。そのせいもあって、入学初日の地味判定が早かった。
「日直大変そうだな。俺らも手伝おうか?」
「あたしもやる!」
「ありがとう。でも大丈夫。準備室せまいし、ふたりでやるよ」
クラスメイトふたりの気持ちだけを丁重に受け取り、大熊は俺の腕を取った。
待て。俺、まだ返事をしてないんだけど。手伝うこと確定?
帰宅部の俺とちがって、こいつらのほうが体力あるだろうに。まあいいけど。どうせ暇だし。
一時間目の歴史では、世界地図や年表などの資料を多用する。それを授業の前に用意するのも、日直の仕事だ。
資料の保管場所である準備室は、俺たちのクラスとは真逆の方向にある。
中に入ると、混沌とした倉庫状態。ここからひとりで必要な資料を探すのは至難の業だ。
「なあ、大熊。今回は世界地図だけでいいの?」
「……」
「大熊?」
「さっき……」
「ん?」
大熊は閉ざした扉の前から一歩も動かず、立ちすくんでいた。傷ひとつない手をいじりながら、もごもごと口を震わせた。
「さっき、ふ、ふたりと、仲良さそうだったね」
「は?」
なんでそんなことを考えているのか。
くだらねえ。と一蹴しようとしたが、彼があまりにも神妙な面持ちをしていて、仕方なく付き合ってやることにした。
「はぁ……どうしたらそう見えんだよ。からかわれてただけだろ」
「そんなことないよ。一回話したら、すぐ打ち解けてた」
「おまえの仲良し判定、雑すぎ」
そんな単純な世界だったら、今ごろ全人類に友だち百人できてるわボケ。
「犬飼くんのいいところ、知られちゃうな」
「んなわけあるか。あんなんで仲良くなれたら誰も苦労しねえわ」
「……なれるよ、君なら」
「バカにしてる?」
「し、してないよ!」
「嘘つけ。俺がそういうの苦手なこと、おまえだって気づいてんだろ」
俺を一番知っている、大熊なら。
「自分をよく見せるとか、人に合わせるとか、そういうの。俺はもうあきらめたんだ」
中学のころ。はぶられたくない一心で、身なりも、会話も、他人の目も、必死に気を使っていた。
だけどだめだった。
どこにいても窮屈で、心がすり減ってしまう。
自分で自分の首を絞めていた。誰のことも頼れなかった。
周りは自然と俺から離れていった。別に悲しくもなかった。
何もかもどうでもよくなった。
そうしてできあがったのが、口の悪いひねくれ者。
こんな俺と仲良くなりたいやつなんて、いないと思っていた。
大熊、おまえは物好きだな。
「大熊」
「え?」
「俺にはおまえがいれば充分だよ」
観念したようにほほえめば、沈んでいた彼の表情がぱあっと生き返った。
「ぼ、僕、だけ……?」
うなずくと、彼は唇を引き締めて嚙みしめる。
ぼんやり俺を見つめながら、ぽつり、つぶやいた。
「……ずっと、そうがいいな……」
「え……」
「っ!」
彼はすぐさま口を覆った。手のひらが大きすぎて、顔の半分以上を隠してしまう。
「にゃっ、な、なな、なんでもない……!」
資料、地図、地図はどこだ、といきなり日直の役目に切り替え、強引にはぐらかす。手あたり次第に資料を探し回る最中、床のダンボールにつまずき、プリントの山が崩れていく。
ほこりが舞い上がり、煙のように空気が白む。
咳き込みながらほこりを払っていく。
クリアになった部屋のなか、金髪の奥にひそむ耳の裏が鮮やかに赤らんでいた。