――キーンコーンカーンコーン。



今日もまた、昼休みが訪れた。

あくびをしながら、数学の疲労で凝り固まった体をぐっと伸ばす。


教室が騒がしくなる。

対角線沿いに位置する、最前列の席に、人だかりができていた。人がいすぎて、ここからではあの席に座っているはずのクラスメイトがまったく見えない。

それでも、正体は明白だ。誰でも簡単に気づけてしまえる。


渦中にいるのは、クラスの、いや……学校の華。



「ニアくん! さっきの問題教えてくれない?」



甘い香りに誘われ、またひとり、蜜蜂のように飛んでいった。



「ここなんだけどぉ……」

「あっ、そこ、俺も知りたい! まじわからん。なんでこうなる?」

「ああ、これはね、先週の応用なんだ。これを解いたうえで、さらにこっちの確率を割り出さないといけなくて……」

「すごーい! ニアくんさっすが!」

「はい天才。大熊にわからないことはない」

「そんなことないよ。先生の教え方が上手だったから」

「ちがうよ! ニアくんの実力だよ!」

「センセーにまで気ぃ遣えるとは、やっぱ王子はちげえな」

「……お、王子なんて、そんな……」

「ニアくんは、あたしたちの王子様だよ! ニアくんに会いに学校に来ているレベル!」

「警察~、この人捕まえて~。王子が危険です~」



……今日も、やってんな。


うるさいほどにぎやかな声が、大熊を軸にどんどん広がっている。廊下からも数えきれないほどの注目が集まっていた。

新たな宗教でもできたかのような盛り上がり。

あの調子じゃ、しばらく解放されないだろう。人気者も大変だな。



日常茶飯事の活気に呆れつつ、俺はカバンから弁当と、本日のおともの新作小説を取り出した。

ひと足先に第一図書室へ向かい、ノイズのない静けさのなか、心身を休ませる。

いただきますと合掌し、焼き色の濃いたまごやきを頬張る。よく噛んで味わっていると、扉が倒れこむようにスライドされた。



「はぁ、はぁ……お、お待たせ……」

「お、おう……」



思いのほか早く来た大熊は、肩を上下に揺らしながら俺の前に座ると、背もたれに全体重を預けてひと息ついた。



「は、走ってきたのか?」

「はぁ、はぁ……うん、がんばった」

「何もそこまでしなくても……」

「早く来たかったから」

「……そ、そうか」



生まれたときからちやほやされてきた彼ですら、逃げてきたくらいだ、今日の信仰はそうとう力強かったのだろう。

だが、逃げ場はここで合っているのか。

俺みたいなやつといても、意味ないと思うが……。


ふたりぼっちの時間。
違和感しかなかった、奇妙な関係。


かれこれ一週間ほど経つだろうか。

最初は落ち着かなかったけれど、意外とすぐに慣れた。

ここでの過ごし方は変わらない。ただひたすらに飯を食って、本を読む。そこにちょっと会話が増えただけだ。

基本的には、飯を食ったあとは静かに本を読んでいる。……基本的には。



「犬飼くん」

「なに」

「ふふ。なんでもない」

「だっる」

「あはは」



ごくたまに出る、ダル絡み。

こんなふうに意味もなく話しかけてくるときがある。読書中でもおかまいなし。規則性もない。いつも突然だ。

楽しそうに笑っているが、まったく笑えん。何がおもろい?

俺が睨んでも、大熊は無邪気な笑顔を見せるだけ。理解不能。


大熊ってこんなやつだったっけ?

いかにもモテ男な、スカした野郎だと思っていた。

三か月近く同じクラスにいても、わからないもんだな。



「犬飼くん」

「今度はなに」

「これ見て」



これみよがしに手を添えた目元には、シルバーのメガネがかけられていた。シャープなデザインで、無駄がなく、派手な顔面にはちょうどいい。

それにしても唐突すぎないか? 今までしてなかったのになぜ?



「似合う?」

「そりゃあな」

「……そ、そっか」

「目ぇ悪かったっけ?」

「いや、どっちも2.0」

「あ、ダテ?」

「そう!」

「じゃあなくてもよくね」

「犬飼くんの真似」

「おけ、俺メガネキャラやめるわ。お疲れ」

「待って! 嘘! 嘘です!」

「……どうせ気分とかだろ」



ちげえの? と目を眇めれば、彼はフレームをいじりながらほころんだ。



「これ見つけたとき、君のこと思い出して……気づいたら買っちゃってた」

「……」



なんだそれ。
本当も嘘も、ほぼ意味一緒じゃねえか。

不覚にも虚を突かれ、まともにツッコミもできなかった。



「よ、よかったな」



ぎりぎり絞り出した言葉は想像以上に薄っぺらく、我ながらへたくそな相槌だと思った。

よかったってなんだ。何がよかったんだよ。

気まずすぎて胸中がざわつく俺に対し、彼はそのメガネをそうとう気に入ったのか、鼻歌まじりにメガネをかけ直し、本を開いた。

気にしているのがバカらしく思えてきた。

自然と肩の力を抜けていく。

正常に戻った心音に耳をすましながら、俺は物語の続きへと意識をもぐらせた。


紙の厚さをたしかめる指の動き。
空を震わす、時間を刻む音。


無事に章の終わりを見終えたころ、ふと、向かいの本がきれいに折りたたまれた。



「……いいな」



いったいどんな本を読んでいたのか。
思わず視線を上げると、まどろむようにほほえむ大熊がいた。



「犬飼くんといると、息がしやすい」

「……変なやつ」



つられて俺の口もゆるんでしまう。



「この時間が、一番好きだなあ」



俺も前までそう思っていた。

だが今はどうだろう。

まったく同じだとは言いがたい。きらいになったわけでもない。

自分でも明確な表現が見当たらなかった。


なにかいい言葉はないかと、俺はふたたびページをめくった。新章が幕を開ける。続きが気になって手が止まらない。

明日も俺はここで読みふける。きっとそこには、彼もいるのだろう。



おだやかな日差しが、レンズに反射した。

気づけば足元には、昼下がりの星空が瞬いていた。