薄く開いた扉に、黒板消しが挟まっている。扉を開けたら落ちるのは明白だ。
わたしがはらはらしながら、どうするのだろうとコウタ先輩を見ていると、コウタ先輩は迷いなく黒板消しを手に取った。
「え、え、ええっ!?」
「今年また身長が伸びたんだよね。百八十五センチ。これぐらいの高さなら余裕です。えっへん」
鼻高々なコウタ先輩が横開きの扉を開ける。わたしがおそるおそる後ろからついていくと、コウタ先輩の頭をめがけて漢和辞典が降ってくるところだった。
「コウタせ」
わたしが言い切る前に、コウタ先輩の頭に漢和辞典がクリーンヒットする。声にならない声で悶絶し、両膝をがくりと教室の床に着いたコウタ先輩を見て、ふははと別の声が聞こえた。
「甘いな、野上。それは昼放送に勝手に乗り込んで放送部に迷惑をかけた分だ。反省しろ」
パイプ椅子に腰かけ、伸びかけのボブカットをざっくばらんに揺らし、分厚い虫眼鏡よりもさらに厚底のメガネをかけた女子生徒が即答する。
セーラー服の胸で揺れる三角スカーフは青色。
キランとメガネが光り、わたしは直立不動の体勢をとる。
「モモちゃん」
「は、はひぃっ‼︎」
返事をかんだわたしの体を、コウタ先輩がそうっと前へ出す。
「この人はね、メガネ先輩。同好会のメンバーだよー」
「メガネだ、よろしく」
わたしはぶんぶんと首を縦に振り、メガネ先輩と握手をかわす。
メガネ先輩のセーラー服の左胸に、学校指定の名札はなく。
【メガネ】と手作りの名札がついている。
自称がメガネ、あだなもメガネ。
先輩、あなたの本名はなんですか?
なんで同学年なのに、コウタ先輩は先輩呼びをしているんですか?
頭の中を、疑問がぐるぐる回るけれども。
ひとみしりをしないわたしが、今だけはお口チャック。
「野上。彼女の名は」
「モモちゃん」
「そうか。モモ、改めてよろしく。名乗る名は自由だからな」
笑うメガネ先輩を見て、わたしは本名をごくりと飲みこんだ。
メガネ先輩が、ぱちりと教室の電気をつける。
「わぁ……!」
大きなホワイトボード、高めの教壇。
TVや再生機器が置かれているラック。
ビデオカメラと三脚、空の三脚が一台。
会議用の長テーブルが二つ、プレハブのイスが六つ。
冊子がギッチリ詰まっている棚、備品棚、小さな冷蔵庫。
運動用マットの山、モコモコの赤い寝袋。
部室=美術室だった中学時代には、想像もできなかった光景。
ここが、今日から通う同好会室!
わたしは感動しつつ、室内を見わたす。
「メガネ先輩。ユキは? 今日も司書室コース?」
「いるぞ。そこに」
メガネ先輩が赤い寝袋を指し、わたしは視線を落とす。
ジッパーが、ジジ、ジジ……と動き出し……
白く細いものが、ぬっと中から飛び出し……
黒いものが、バサリ、バサリと流れだし……
「おばけぇぇぇぇ‼︎」
わたしは涙目で、コウタ先輩に抱きつく。
カエルとおばけとピーマンだけは大の苦手。
ぎゅうぎゅうぅと、白いパーカーにしがみつく。
「……っく……ひっく……おばけ無理ぃ……」
コウタ先輩が背負っていたスクールバッグとわたしのスクールバッグを床におろし、おいでと手招きしてくれる。
大きくて温かい腕の中に、わたしの体がすっぽりと包まれて。
優しい声が一段と優しさを増し、わたしの耳に直接ささやいた。
「モモちゃん、よーしよし。大丈夫、俺がついてるから。大丈夫、モモちゃんは俺が守ってあげる。こわいものから、俺が守ってあげるからね」
とくん、とくんと、聞こえる胸の音。
わたしは涙と鼻水でぐちゃぐちゃな顔を上げる。
揺れる視界でも。
コウタ先輩の笑顔は、満開の向日葵に見える。
「モモちゃん。一、二の三で、ゆっくり後ろを見てみようか。大丈夫、俺がそばにいるから。モモちゃん、数えるよー。はい、いち、にーの、さん!」
コウタ先輩が、ハンカチでわたしの涙と鼻水をぬぐってくれる。
コウタ先輩に抱きついたまま、わたしはおそるおそる振り返った。
「…………」
腰まで流れる、サラサラの黒髪ストレート。
アゴのラインギリギリまで隠す、黒のタートルネック。
長いまつげ、ぱっちりした二重まぶた、大きな瞳。
ぷるんぷるんの唇に、お人形みたいな白い肌。
黒のセーラー服に青い三角スカーフを結んだ女子生徒が、寝袋からはいだす。
制服のしわを伸ばし、バツ印のマスクをし、正座をして。
ペコリと、頭を下げた。
「ね、モモちゃん。おばけじゃなかったでしょ」
「は、はい……。あ、あの、バツマークは……?」
「あれはね、ユキの『話しません』。でもでも! 俺達が話している事はちゃんと聞こえてるからね。簡単な返事は動作でするけど、長い話を伝えたい時は筆談するし。コミュニケーションはバッチリ!
ユキ。新メンバーのモモちゃん。次から、寝袋で寝る時は貼り紙しといて。モモちゃんをこわがらせないように!」
グッと、親指を立てるユキ先輩。
寝ることにはツッコまない先輩達。
今度から入る前に必ずノックをしよう、そうしよう。
「これで@homeメンバー全員そろいましたー! パチパチパチ。モモちゃん、よろしくね!」
笑顔を欠かさない同好会代表・コウタ先輩。
本名を明かす気がない+同級生にも先輩呼びされる・メガネ先輩。
バツ印マスクの無口な美人・ユキ先輩。
「よろしくお願いします!」
わたしはお腹の底から声をだし、深々と頭を下げた。
☆★ @homeの基本ルール ☆★
1・新しい事を始める時→メンバー全員が賛成したらオッケー!
2・休みたい日は休んでオッケー! ココで寝るのもオッケー!
(寝袋で寝る時→貼り紙をすること!)
3・活動時間は十七時半まで! 遅くなる時はメガネ先輩へ連絡!
(※十七時四十五分にカギを閉める byメガネ)
4・活動内容は自由! 活動用紙に”やりたいこと“を書いて、メガネ先輩へ提出!
5・活動場所は自由! 他の部や同好会のジャマはしない!
(※許可がでるまで、野上は放送室立ち入り禁止 byメガネ)
☆★ 1人1人が、今を楽しもう‼︎ ☆★
わたしはメガネ先輩の話を聞きながら、生徒手帳へメモ。
カギの開け閉めは、メガネ先輩が担当。
活動記録である同好会日誌をまとめる事も、メガネ先輩が担当。
生徒会が行なっている部活動・同好会会議にも、メガネ先輩が参加。
先生や他部活・同好会への対応、備品管理や必要書類の作成・提出など、細かい事は全てメガネ先輩が担当。
なるほど。
同好会として成立するには、メガネ先輩のサポートが不可欠。
コウタ先輩が“先輩呼び“をするのは、@homeのボス=メガネ先輩だからだ……!
ちなみに、コウタ先輩の活動用紙に書かれていたのは【モモちゃん!】だけ。
【モモちゃん!】を【新メンバー加入により、同好会室へ案内】に書き直すメガネ先輩、スゴイ!
「はいはーい! 俺から提案! メンバーも増えたし、みんなで勧誘用の寸劇をしようと思うんだけど。どうかな?」
棚の前に立っていたコウタ先輩が、右手をあげる。
「やりたいです!」
「賛成だ」
わたしに続き、メガネ先輩、ユキ先輩と手があがる。
「よーし、寸劇をします! そうだなぁ、勧誘用でやるなら……あの話かな。ウケが良かったのはこれとそれで……あ、でも今年はモモちゃんがいるから……あれでもいいか」
棚へ振り返ったと思いきや。
コウタ先輩がポイポイと冊子を取りだす。
色も厚さも置いてある場所もバラバラなのに、いっさい迷いがない動き。
ポカンと口を開けたわたしを見て、メガネ先輩が「モモ」と声をかけてくれた。
「演じた役はもちろんだが。観たもの、聞いたもの、読んだもの。演劇関係であれば、野上は全部覚えているぞ」
「ぜ、全部……ですか⁈」
「生粋の演劇バカだ。まさしく”バカと天才は紙一重”だな」
「そうなんですね……すごい……」
わたし達の会話すら聞こえていない様子で。
コウタ先輩は唇に人差し指を当て、ブツブツ言いながら、冊子をめくっている。
(……あんな顔もするんだ……コウタ先輩……)
優しくて甘い笑顔は、いつ見てもドキドキする。
まっすぐで真剣な顔を見るのは、別の意味でドキッとする。
コウタ先輩は、コウタ先輩なのに。
表情が違うだけで、王子様が二人いるみたい。
「モモちゃん? どうかした?」
コウタ先輩が視線を上げ。
わたしは熱くなった顔を、あわてて下へ向ける。
「な、なんでも……あ、暑いですね、この部屋!」
わからない。
わからないけれども。
今、顔を見られるのは。
とてもとても、はずかしい。
「クーラーないから暑いんだよねー。待ってね、窓を開けるから」
「ありがとうございますっ!」
この部屋は暑い。
けれど、暑さのせいじゃなくて。
わたしの身体中に、別の熱さが流れているから、熱いんだ。
「そうだ。ユキ、手で持てる扇風機持ってなかったっけ。あ、そうそうハンディファン。暑さ対策のヤツ。モモちゃんに貸してあげてー」
ユキ先輩が、スクールバッグの置いてある棚へ歩く。
ガタガタと音を立てながら、コウタ先輩が窓を開ける。
その時。
窓から入ってきた風が、コウタ先輩の白いパーカーとユキ先輩の黒髪を舞いあげ。
絵のような光景が広がり、わたしは息を飲んだ。
「やっぱり開けたほうが気持ちいいなー。……ん? ユキ、どうした?」
「…………」
「ちょ、ユキ、ストーップ! ……ったく、無理にのぞこうとするなよー。せまいんだからさー」
わきの下からもぐりこんだユキ先輩を見て、コウタ先輩が笑う。
ユキ先輩は髪の毛をかきあげ、ピースサイン。
身長差もピッタリ。
王子様のコウタ先輩と、お姫様のユキ先輩。
二人が並んでいる姿は、どこからどうみても、おにあいのカップルにしかみえない。
…………ツキン。
変な音が、わたしの胸の奥で鳴る。
…………ツキン、ツキン。
「ユキ。身を乗りだしてると落ちるぞー」
ツキン。ツキン。ツキン。
どんどん、ひどくなってる……?
「モモちゃん? 大丈夫?」
「だ、だ、だ、大丈夫です!」
コウタ先輩が伸ばした手から、逃げるように。
わたしはバッと体をひねり、胸を押さえる。
「…………」
「……ユキ。え、俺が悪い? 俺のせい? 俺、何かしたっけ……?」
「…………」
軽い足音で近づいてきたユキ先輩が、わたしへハンディファンをさしだす。
「あ、ありがとうございます、ユキ先輩。お借りします」
片手を振り、コウタ先輩の隣へ戻るユキ先輩。
首をかしげているコウタ先輩の頬を、ユキ先輩の細い指がつつく。
ツキン。ツキン。ツキン。
変な音がするたびに、身体が冷えていく。
ツキン。ツキン。ツキン。
この音は、嫌な感じが、する。
(……コウタ先輩は誰でもあだ名で呼ぶんだって、勝手に思っていたけれど……ユキ先輩だけは本名で呼んでるんだ……)
楽しみにしていたはずの同好会初日。
嫌な音は、わたしの胸の奥で、ずっと鳴り響いたままだった。
2.
@homeの主な練習場所は、特別棟4階の地学準備室・廊下+屋上。
他の準備室へ入らないことを条件に、メガネ先輩が丸々借りたらしい。
さすがです、メガネ先輩!と思っていた矢先。
「中間・期末テストで赤点の場合、即刻活動停止にする」宣言を聞き、わたしはヒュンッと背筋を伸ばした。
***
「モモ。活動していいぞ」
「ありがとうございますっ!」
わたしが提出した小テストは、無事にパス。
ユキ先輩の小テストもパス。
コウタ先輩がさしだした小テストを見て、メガネ先輩のメガネが光る。
「野上。江戸幕府の第三代将軍の名前」
「石川ごんざぶろう!」
「違う」
「えー……あー……うーん……?」
「徳川家光だ」
「メガネ先輩。徳川なんちゃらって名前、多くないですか? 似た名前ばっかりで覚えられないんですよね」
「勧誘用寸劇。ようせいの初セリフ」
「『ここが魔法の国ね! どんなステキなものがあるのかしら!』」
「江戸幕府の第三代将軍の名前」
「徳川……徳川……徳川さぶろうだいじん!」
「家光だ。頭に叩きこみながら雑巾がけしてこい」
「いえっさー! いえみつ、いえみつ、いえみーつ‼︎」
パーカーを脱ぎ、ネクタイをほどき、ワイシャツを脱ぎ。
白いTシャツとランニングシューズ姿のコウタ先輩が、廊下へ飛びだしていく。
コウタ先輩にとっては、雑巾がけも体幹トレーニング。
楽しそうな声が地学準備室から遠ざかる。
「モモ。演劇以外はマネするな。絶対にだ」
メガネ先輩が、小テスト用紙を長机に置く。
コウタ先輩の名前が書かれた小テストは十五点(五十点満点)。
ギラリと光ったメガネを見て、わたしは首を縦に振った。
コウタ先輩。
将軍の名前より、ようせいのセリフのほうが長いです。
「会議に出てくる。ユキ、モモを頼むぞ」
こくりとうなずくユキ先輩。
わたしも笑顔で手を振る。
メガネ先輩が扉を閉め、コウタ先輩の声が小さくなる。
シーンとした空気に、わたしの口角がひくひくと動いた。
(……きまずいです、メガネ先輩! ユキ先輩、今日もバツ印です! と、とりあえず座って落ちつけ、わたし!)
わたしは入口に近いイスに腰をおろし、薄い冊子を取りだす。
コウタ先輩オススメの中から全員で選び、メガネ先輩が寸劇用に書き直してくれた台本。
魔法の国を訪れたようせいが、お姫様と王子様を巻き込んで騒ぎを起こすコメディ、『ようせいのたからもの』。
記念すべき一回目は、まさかの主役だった。
(『ピッタリな役だよ!』って、コウタ先輩は言ってくれたけれど……『長くないぞ』って、メガネ先輩も言ってくれたけれど……。じ、時間がみ、短くても……しゅ、主役はめだつよね……。セリフを忘れないようにしなきゃ……)
高校受験当日より、ずっとずっと緊張する。
わたしは蛍光ペンを引いたセリフを声にださず、口だけパクパク動かす。
「『お宝の合図かしら? きっと、ステキなものに違いないわ!』」
隣のパイプイスが、カタンと音を立てる。
お花畑みたいな、いい匂い。
台本から顔を上げたわたしの頬を、ユキ先輩の細い指がつついた。
「ゆゆゆユキ先輩⁈」
飛び上がりそうなほど驚いたわたしに向かい。
ユキ先輩が両手を顔の前で合わせ、ごめんなさいのポーズ。
ふわふわ、サラサラ、つやつや、キラキラ。
女の子のカワイイを、全部持っているユキ先輩。
わたしが二年生になっても、ユキ先輩には絶対なれないと思う。
……ツキン。
あ、また。
嫌な音がした。
ユキ先輩がノートを持ち、手書きのイラストを指す。
両頬に指を当てたウサギ+『うるせぇ、ハゲ。こっち見んな♡』のセリフつき。
わたしが好きな【毒舌ウサちゃん】にそっくり。
「ユキ先輩。これ、毒舌ウサちゃん……ですか? トークアプリのスタンプの……」
もしかしたら。
ユキ先輩と話すキッカケになるかもしれない。
わたしはユキ先輩の正面へ向き直る。
ユキ先輩がこくこくとうなずき、スマートフォンを取りだす。
見せてくれた待ち受け画面は、毒舌ウサちゃんのカレンダー。
「やっぱり! わたしも好きです、毒舌ウサちゃん!」
[カワイイ見た目とセリフのギャップがいいよね]
「分かります! 『世界で一番き・ち・く〜🎵』とか『なんだゴラァ、目つぶしするぞ☆』とか!」
[セリフのせいで送れないスタンプ、たくさんあるよね。でも、新作がでるとついつい買っちゃう]
「わたしもです! ユキ先輩、イラスト上手ですね!」
[ありがとう。今日はね、画面をじーっと見て描いたの。見ないで描くとコレ]
細い指が示す、ページ下。
クマらしき形に棒線が引かれ、『〇〇先生の授業、眠いー』のフキダシ。
わたしが吹きだすと、ユキ先輩が別のページを開いた。
[モモちゃんのスクールバッグに、毒舌ウサちゃんのマスコットキーホルダーがついてたから。モモちゃんも好きだと思ったの。
ごめんね。私と二人きりで、きまずかったでしょ。コウタやメガネ先輩みたいにできなくて、ごめんね。
私、初日にモモちゃんを泣かせちゃったから。こわい先輩って思われたかなって、話しかけにくいって思われたかなって。
本当は、口で言わなくちゃいけないんだけど。今の私、声を出すのがダメな日があるんだ。だから、文章でごめんね。
モモちゃんが、ユキ先輩って呼んでくれて。私、とても嬉しかったの。ありがとう。
モモちゃん。主役だからどうしよう、セリフを忘れたらどうしようって。気持ちがあせっちゃうの、すごく良く分かる。
私とコウタは同じ中学で、演劇部仲間。中三の時、全国大会にでたんだ。コウタは個人のすごい賞をとった天才だけどね。基本的な事は、私もやってきたから。
私でよければ、私が知っている事でよければ、モモちゃんに教えてあげられる。
だから、モモちゃん。私と一緒に、練習しない?]
綺麗な字で書かれた文章。
わたしは一文字ずつ目で追い、台本を抱きしめる。
わたしにないものを、望んでも手に入らないものを。
ユキ先輩がたくさん持っていることは、変わらない。
コウタ先輩がユキ先輩を名前で呼ぶことも、ユキ先輩がコウタ先輩を名前で呼ぶことも。
ユキ先輩がコウタ先輩とおにあいなことも、変わらない。
わたしの胸の奥で、ツキンツキンと嫌な音がすることも。
きっと、これからも。
何度も、何度も、あると思う。
それでも。
バツ印なのに、話しかけてくれて。
会って数日しか経たないわたしを、気にかけてくれて。
@homeに入会したからこそできた、大事な先輩の一人。
「ユキ先輩! ご指導よろしくお願いしますっ!」
わたしは立ち上がり、勢いよく頭を下げる。
おそるおそる顔を上げると、ユキ先輩の大きな瞳がひとまわり大きくなって。
ささやき声よりも小さな声で、ユキ先輩が笑った。
[モモちゃん。屋上に行ってみない?]
「行きたいです! 中学は立ち入り禁止だったので、どんな場所かなってわくわくしてたんです!」
[秘密の場所も教えてあげる。コウタとメガネ先輩には内緒ね]
「わぁ! すっごく楽しみです!」
ユキ先輩に続き、わたしは地学準備室を出る。
吹きこんできた春風が、ぎすぎすしたきまずさを軽やかに運び去っていった。
***
「「Dグループ、ストップ。時間の無駄だわ」
北風のように冷めきった菅井の声が告げ、演劇部部室内の空気がかたまる。
「Dのヤツら、ヤバくね? 女王様、マジで機嫌悪そー」
「スパルタマンとかスパルタ先輩って呼ばれてんの、気づいてないんじゃない? 同じ部じゃなかったら、絶対かかわりたくないし」
「理事長様の娘だから、新しい顧問も逆らわないしねー。あーあ、前の先生が良かったなー」
「今年の一年、全員二軍からだってよ。しかも三人だけ。二軍がやってんの、基礎練と雑務だろ? クソつまんねーのに、よくやるよなぁ」
「ぜーんぶ、去年の予選落ちのせい。全国常連の看板に傷がついたって、ギャーギャー騒いでたもん」
「しかもご自慢の一軍だして県予選ブロック落ち決めたんだよな。講評アンケートに『顔が死んでいます』って書かれる始末だろ? そりゃ毎日こわいこわいしてたら、本番ド緊張で失敗もするだろ」
「アレのせいで、練習メニューキツくなったもんねー。昔もキツかったけど、今じゃ運動部よりキッツいし。部活が楽しいとか、言える人いないって」
「あーあ、野上なんか高校じゃ好き放題やってるじゃん。負け犬のクセに」
「……負け犬って……そんな言い方しなくても……。中三の全国大会も野上君はすごかったよ。むしろ去年彼が入部してくれてたら、結果が変わってただろうなって思う。ひどいのは……中二の時、何も言わずに逃げだしたヒロインだよ……」
青と緑のジャージの中。
黒色のセーラー服に青い三角スカーフを結んだ菅井が、腕組みをして指をこつこつ動かしている。眺めるように一睨みすれば、囁き声もすぐに止んだ。
「部長! Dグループ集合しましたっ!」
「三番。なにをしていたの?」
「はい! インプロ……インプロヴィゼーションです!」
「四番。インプロとエチュードの違いを述べなさい」
「は、はいっ! え、エチュードは、場所・場面・人物設定のある即興劇で」
「質問の意味が分からなかった? 『違いを述べろ』と言ったのよ。エチュードもインプロも、即興劇には変わりないわ」
パンと菅井が手を叩き、Dグループ全員の肩が震える。
「インプロのイの字も理解していないわね。お腹を押さえている人は、全員病人なの? 地面に両ひざを着いている人は、全員落ちこんでいるの? 違うでしょう。お腹がよじれるほど大笑いしている人。目をこらして落とし物を探している場面。人物像も場面設定もたくさんあるわよ。
打ち合わせなしに始まる相手の仕草一つ、セリフ一つ。その場で柔軟に対応し、何もない所から世界を創りだすのがインプロよ。
台本に書かれた文字を読むだけなら誰でもできる。脚本の理解も役の理解も深めない、手抜きする者を見抜くのは観客よ。一回限りの本番六十分、良い役者は観客をも舞台に引きこみ、時間の感覚さえ忘れさせる。今のあなた達とは月とスッポンね。
来月頭の学内公演が、今年の初舞台。退部したくなければ、一軍から落ちたくなければ、日々努力なさい。話は以上」
「「「「「はい!」」」」」
(……返事だけなのよね。インプロの力は一朝一夕には身につかない。それを理解している者が、この場に何人いるのかしら)
スパルタ先輩もとい菅井は、階下へ視線を向ける。
人気のない中庭庭園のベンチに座っている、白いTシャツ姿の男子生徒。
男子生徒が──かつての中学演劇部仲間が、すぐさまこちらを見上げ。
キッチリ0.五後に視線を外し、風景を眺めだした。
(知覚の遅れは0.五秒から一秒。作品的な死に間を作らず、役者の表情・言葉・感情を観客に伝える時間は0.五秒が最適。
それらを自然体で、やってのけることができるまで。どれだけの時間と労力を演劇にささげてきたのか。ムダ話している人達には想像もつかないでしょう。
『パッパッってさー、体が勝手に動くんだよねー』って言いきった笑顔、いつ思い返しても背筋が凍る)
くるりと窓に背を向け、菅井は爪を噛む。
(今でもまざまざと思い出せる。中二の夏、世界観を壊す事なく、アドリブで二十分間舞台を維持した才能。台本重視の審査委員は最低評価でも、観客評価はあなたが一番だった。荒れに荒れた中三で全国大会に出場できたのがその証拠。高校でも演劇部に入ってくれていたら、今頃我が部を引っぱっていく存在になっていたのに──)
***
「いっくよー! 王様ダルマさんがー……ニワトリのマネ!」
コウタ先輩の声にあわせ、わたしは片足立ちをし、バッと両手を広げる。
ユキ先輩が軽く腰を曲げ、両手でクチバシを作る。
メガネ先輩が背中を丸めて座り、お腹を抱えた。
体の表現力をきたえる、王様ダルマさんゲーム。
@homeの練習メニューは【無理せず・楽しく・身につける】をモットーに、コウタ先輩が組んだもの。
演劇部の基礎練習より、何万倍も楽しい。
「全員セーフ! メガネ先輩はそろそろタマゴが産まれそうだねー。
次いくよー! 王様ダルマさんがー……左手上げて右手上げて左手下げない!」
「……あ、え……あ! バンザイじゃないですか! コウタ先輩のいじわる!」
「ふっふっふっ。同じ言い方じゃおもしろくないから変えてみた! モモちゃんアウトー! メガネ先輩アウトー! 残るはユキ一人! さーてどうしようかなー」
「くやしぃぃぃぃ。左手上げてみひへ……右手上げてひだりふぇ……左手上げてみひへあげふぇひふぁりふぇ! コウタ先輩だけ、三枚ぐらい舌がついていると思いますっ」
「モモ。残念だがアイツも人間だ」
「はい、そこー! 残念とか言わないでくださーい! モモちゃん、あとでコツを教えてあげる。さーて、ユキには……」
わたしとメガネ先輩は、少し離れた場所へ移動。
青いジャージにポニーテール姿のユキ先輩が、グッと親指を立てる。
「よし決めた! 王様ダルマさんがー……オットセイのマネ!」
ユキ先輩が即座に横たわり、そろえた両足を斜め四十五度で止める。
「三、二、一。カウント終了。決まりだな」
「ユキ先輩、すごいです! 足がピタッって止まってます!」
ユキ先輩が振り返り、ピースサイン。
わたしも笑顔でピースサインを返す。
「ユキのセーフで終わり! くっそー。いけると思ったんだけどなー」
寝転んだコウタ先輩が唇をとがらせ、屋上の床に“へのへのもへじ”を書きだす。
すねる姿も分かりやすいコウタ先輩。
先輩なのに、男の人なのに。
カワイイって思うのは、変なのかな。
じわじわ温かいものが身体中に広がり、思わずわたしは立ち上がる。
日光のカーテンが、キラキラ、キラキラと光る。
わたしは太陽にも負けない満面の笑顔で、真っ青な空へ両手を伸ばす。
「アット・ホームに入って良かったぁぁぁぁ! 毎日とっても、とっても、とーってもたーのしいぃぃぃぃ‼︎」
澄んだ春風が笑い声を響かせる。
わき上がる喜びに身を任せ、わたしは叫ぶ。
「コウタ先輩、だーいすき‼︎ ユキ先輩、だーいすき‼︎ メガネ先輩、だーいすき‼︎ アット・ホーム、だーーいすきーー‼︎」
りぃんりぃんと。
屋上に残った余韻も気持ちいい。
わたしは振り返り、メガネ先輩とハイタッチ。
立ち上がったユキ先輩ともハイタッチ。
寝転がったままのコウタ先輩へ近づき、わたしは笑う。
「コウタ先輩も!」
「…………え、あ、ハイタッチね、ハイタッチ!」
ワンテンポ以上遅れ、コウタ先輩があたふたと座り直す。
さしだされた手のひらに、わたしは自分の手のひらを打ちつける。
「コウタ先輩。このまま練習してもいいですか? 今すっごく、ようせいになりたい気分なんです!」
「オッケー! やる気花丸のモモちゃんには、ジュースをおごってあげよう! というわけで! 俺は買いだしに行ってくるねー」
「ありがとうございます! ユキ先輩、メガネ先輩。見てくださーい!」
コウタ先輩が屋上の扉を開け、姿を消す。
ユキ先輩とメガネ先輩に向かい、わたしは「登場シーンやりまーす!」と声を張り上げた。
────☆☆☆────
屋上の扉を閉め、一段飛ばしで階段をかけおりる。
(深呼吸深呼吸深呼吸。吸って吐いて吸って吐いて吸って吐いて。落ちつけ落ちつけ落ちつけ……って、自分に言い聞かせてる時点でダメじゃん、俺!)
毎日欠かさない自主練の運動メニューでも、心臓が驚く事なんてほとんどない。
それがいまや。
耳からバクバクと音が聞こえそうなほど、心臓が跳ねている。
(普通に返したよな⁉︎ 普段通りにできたよな⁈ ……おいおい。自分の表情や言葉まで覚えてないとか、どれだけテンパってんだよ、俺!)
誰もいない四階の廊下。
地学準備室の扉へ、ゴンと額を打ちつけ。
俺はその場に座りこむ。
(初めて会った日も間近で見たけどさ。『入会する』って言ってくれた時も間近で見たけどさ。笑ったところは何度も見てるけどさ! さすがに反則だろ、あの表情は!)
パッと花咲いた、満開の笑顔。
一ミリの邪心も感じさせない、無邪気な表情。
目が釘づけになって。
心をガッシリつかまれて。
声をかけられた事すら、気づかなかった。
(ユキやメガネ先輩にも言ってたから、大好き発言に深い意味はないだろうけど! 場のノリで言いたくなっただけだろうけど! 不意打ちのダブルコンボはズルイ。ズルイったらズルイぞ、はるかちゃん!)
アンテナを張っている身体感覚。
ごちゃごちゃと頭が考えるよりも、ピンッと体が反応するほうがはやい。
だから。
俺の全部が、キミだけに反応している証なんだ。
(役に入れば、キザなセリフもポンポン言えるくせに。リアルだと、本名で呼べないし。俺のヘタレ大魔王!)
再度、額をゴツン。
(……写真、とりたかったなー。同好会の集合写真が嫌なわけじゃないけどさ。お願いすればオッケーしてくれそうだけどさ。それは分かってるんだけどさ。面と向かって言えないから、もんもんとしてるわけで。
練習中はスマホ持たないようにしてるからなー。持ってると壊すんだよなー。気づくとバッキバキにしてるもんなー。『今度壊したら、洸太もゴミ袋に入れるわね。そうすれば、物の大切さが分かるでしょう?』って、母さんに言われたしなー……笑顔百倍マシの母さんは怒りモードだしなー……。
あんなふうに、ふっと出てくる自然な表情が、グワッて観客をひきつけるんだよ。俺は完全に見とれてたけど。カワイイにカワイイを足し算して、カワイイをかけ算しても足りないレベル。語彙がカワイイだけになるレベル。マジでカワイイしかでてこない。あーもう、かわいすぎてどうにかなりそう。今の俺、完全にあやしい人じゃん。
次からは、スマホ持ち歩こう。壊したら……肩もみ一万回。風呂洗いと皿洗いも追加。それでどうにか許してもらおう。……よし、少し落ちついてき)
「野上。額で瓦を割るつもりなら扉では物足りんぞ」
メガネ先輩の声が聞こえ、俺はあわてて顔を上げる。
耳に届く足音は一人分。
胸をなでおろした直後。
「勧誘用チラシの素材を探していたんだが。良いものを見つけた。どう思う、野上」
メガネ先輩が掲げたスマホの画面に。
青空の下でキラキラ弾けた笑顔が、ベストアングルかつベストショットで映っている。
ボンッと。
全身から湯気が吹きでる音が、聞こえた。
「い、い、い(つの間に)⁈」
「モモが叫んでいる時にとった」
質問を先読みしたメガネ先輩が、冷静な口調で話を続ける。
「モモ本人の許可は得た。ユキと私も賛成だ。残るはお前の意見だけだ、野上」
文章だけの勧誘チラシよりは、効果があると思う。
メガネ先輩に任せれば、キッチリ作ってくれると思う。
分かっている。
分かっている、けれども。
その表情だけは、嫌だ。
「メガネ先輩」
「なんだ」
「答えはノーで‼︎ あと、その写真、俺にください‼︎」
勢いよく廊下に額をこすりつけ、俺は土下座する。
すぐさま「お前の土下座は見あきた」と返答され、地学準備室の扉が開く。
メガネ先輩が定位置に座り、すごすごと俺も室内へ入る。
(メガネ先輩相手だと、土下座以外にお願いする方法が思いつかないんだよなー。かといって、メガネ先輩が俺に頼み事をするのは……ないな。うん、百パーセントない。残念だけど、次の機会をま)
ピロリロリン。
トークアプリのメッセージ着信音が室内に鳴り響く。
ユキはサイレント。
メガネ先輩とはるかちゃんはマナーモード。
着信音が鳴るスマホは、一つだけ。
俺はスクールバッグからスマホを取りだす。
【メガネ先輩】のアイコンをタップすると、はるかちゃんの笑顔が視界いっぱいに広がった。
「メンバー全員の賛成が同好会のルール。私には不要なデータだ。悪用するなよ」
「……っ‼︎ メガネ先輩、一生ついていきます!」
「断る。それより野上。喉がかわいた。私はブラックコーヒー。ユキはミネラルウォーター、モモはイチゴミルクだ」
「いえっさー! 全速力で買ってきます!」
俺は地学準備室を飛びだす。
階段をおりつつ、スマホを操作。
時計しかなかった待ち受け画面へ、写真を設定する。続いてスマートウォッチの待ち受けにも写真を設定する。
(もう絶対、スマホは壊さない! 壊さないったら壊さない!)
夕陽に照らされ、まぶしく輝く笑顔。
よっし!とガッツポーズしたのは、自分だけの秘密だ。
────☆☆☆────
勧誘用寸劇の当日。
わたしはカラフルなパーカーワンピースにきがえ、黒いレギンスをはき、音が鳴る運動ぐつをはく。
腕を動かすと、背中についた羽がパタパタ動く仕組み。
星をつけた指示棒を持てば、ようせいの完成。
(小学生高学年の子と同じくつのサイズっていうのは……気にしない、気にしない! コウタ先輩の妹なら、コウタ先輩に似て大きいはずだし! また1つ、コウタ先輩のことを知ったから問題ナッシング!)
わたしはイスに座り、台本を取りだす。
コウタ先輩やユキ先輩にアドバイスをもらいながら書きこんでいった冊子は、ボロボロだけれど。
みんなで創る世界のタネが、たくさんたくさん詰まっている大切なもの。
(練習も楽しかったし、本番も楽しくできる! うん、今日は緊張してない!)
シャーッ。
黒いカーテンが開く。
ユキ先輩を見て、わたしは飛び上がる。
「かわいいぃぃぃぃぃぃ‼︎ ユキ先輩、写真とらせてください‼︎」
真っ白なレースとリボンがたっぷりついたフリフリのワンピースを身につけ。
銀色のティアラを頭にセットし、マスクを外したユキ先輩がピースサイン。
わたしはスマートフォンで写真をとり、【@home】のフォルダに入れる。
「ユキ先輩、家でもそんな感じなんですか⁈」
[これはね、メガネ先輩の私物]
ユキ先輩が指した文章を目で追い、わたしの思考はフリーズ。
「クローゼットに山ほどあるからな」
制服姿のメガネ先輩が即答し、効果音の確認作業へ戻る。
メガネ先輩。
あなたのナゾはますます深まるばかりです。
「メガネ先輩、被服同好会とアウトドア同好会から借りてきましたー。おおー! モモちゃんカワイイ! ユキもバッチリ!」
赤い布とブルーシート、ハート型のバルーンを抱えたコウタ先輩が、歯を見せて笑う。
黒いワイシャツに黒いスーツズボン、小物も全て黒。
普段の服装とは全く違う、長身と細身がめだつ衣装。
(わーわーわー‼︎ コウタ先輩、大人っぽい! すっごくスラッとしてて……カッコイイなぁ……‼︎)
胸がドキドキ張りつめて。
鳴り響く音が一つずつ大きくなって。
つま先から頭の先まで熱くなる。
ゆるめていたネクタイをキュッとしめる指。
まぶたを閉じて息を吐き、その後に一瞬見える真剣な表情。
まばたきを忘れたわたしの目は、コウタ先輩だけを追いかけている。
「野上。準備完了だ」
「ありがとうございまっす! 円陣を組むよー! 集まってー!」
コウタ先輩の声で、わたしは我にかえる。
メガネ先輩が手を置き、ユキ先輩の手が重なり、わたしが手を重ねると。
一番上に、コウタ先輩が手を重ねた。
「一人一人が楽しもう! @home活動スタート!」
***
「今の人、見た? 超カワイイんだけど! モデルみたい!」
「スゲー美人。誰か知ってる?」
「へー。正門で劇やるんだー」
ほほえんだり、手を振ったりと、ユキ先輩が全身でアピール。
足が止まった生徒達へ、すかさずメガネ先輩がチラシを渡す。
わたしは一人で昇降口を横ぎり、職員玄関へ向かう。
『思い当たる事は何もないんだけどさー。俺の顔を見た途端、なぜか先生達が追いかけてくるんだよねー。つかまると、長い長いお説教タイ厶。そういうわけで、安心安全な遠回りルートで行くねー』
コウタ先輩。
何もしていない人は、先生に追いかけられないと思います。
何もしていない人は、そもそもお説教されないと思います。
職員玄関に立ち、わたしは指示棒をにぎりしめる。
観客が集まり始めている。
ユキ先輩を見て、メガネ先輩が作ったチラシを見て、続々と人数が増えていく。
(……ひ、一人になったら、ききき緊張してきちゃった……こ、こ、こういう時は、人の字を手のひらに書いて……)
「モモちゃん、見て見てー。隠れ身の術!」
わたしはビックリして振り返る。
赤い布をかぶったコウタ先輩が段差に座り、笑っていた。
「コウタ先輩⁈」
「モモちゃん、シーッ! ここめちゃくちゃ職員室近いから、シーッ!」
コウタ先輩が唇に指を当て、キョロキョロと忙しなく周りを見回す。
わたしはコウタ先輩の隣へ腰をおろし、ヒソヒソ声で話す。
「コウタ先輩、遠回りするはずじゃ……?」
「ラスボスがいてねー。逃げてきちゃった」
「誰ですか?」
「生徒指導の先生。『服装ガー! 服装ガー!』って、しつこいんだよー。入学式から鬼ごっこしてるんだけど、全然あきらめてくれないんだよね。服は着てるのにさー」
右へ左へ首をかしげるコウタ先輩。
黒のブレザーと灰色のズボン、白いワイシャツに学年色のネクタイが男子の制服。
キッチリ制服を着ているコウタ先輩は、ただの一度も見たことがない。
コウタ先輩。
先輩の入学式は、一年前だと思います。
生徒指導の先生にとっては、先輩がラスボスだと思います。
(……あれ……コウタ先輩の話を聞いていたら……コウタ先輩のことを考えたら……体が軽くなった気がする。さっきまでは、すごく緊張してたのに……)
おずおず見上げた先。
コウタ先輩が首をかしげるのを止めて、にっこり笑う。
緊張の二文字を、きれいさっぱり消し去るかのような笑顔。
わたしが一人で悩んでいると。
きづけば、コウタ先輩がそばにいて、笑顔の魔法をかけてくれる。
「カワイイようせいさん。旅立つ準備はできましたか?」
「はい! バッチリです!」
すっくと立ち上がり、わたしはコウタ先輩へ背を向ける。
右手を三回振ると、メガネ先輩が右手を三回振り返し。
鐘の音がリーンゴーンリーンゴーンと鳴り響く。
「いきます!」
職員玄関から飛び出す直前。
大きくて温かな手が、トンッと優しく。
わたしの背中を、押してくれた。
「みろよ。あの美人、寝てるぞ」
「音が鳴ったから、そろそろ始まるのかなぁ?」
ブルーシートの上に横たわり、ハート型バルーンに囲まれながらすやすや寝息を立てるユキ先輩。
寝顔までかわいくてキレイとか、神様は不公平ばかり。
現実では、ユキ先輩に勝てるところは一つもないけれど。
舞台では、ないないづくしのわたしが主役になれる。
『初登場から魔法の国へ誘うまでの、ようせいのセリフ。別の言葉に変えようと思う。背景用の大道具を使わないから、なおさらね。
もしも自分だったらって、場面をイメージしてみよう。知らない人が突然目の前に現れて、いきなり「魔法の国が〜」って話しかけてくるんだ。「何を言ってるの?」って、「どこが魔法の国?」って、不思議に思ったり、混乱しない? 観客も同じ。いつもの学校、みなれた景色で、舞台がスタートするから。
ようせいは、動の動きが多いキャラ。静の動きは、メリハリをつけるために使う。動き回っていた人が、急にピタッって止まったら。どうしたんだろう、何があったんだろうって気になるよね。モモちゃんを意識するような言葉に変えて、仕草も変えて。そうすれば、ユキを見ていたはずの観客が、自然にモモちゃんを見始める。
視線誘導っていうんだけどね。役を演じる上で、世界を創る上で、重要かつ大切な事なんだ。新しいキャラが出れば、そっちを見る。新しい音が鳴れば、あっちを見る。上演時間中、観客はじっと見ているようで、実は舞台のあちこちを見てる。だから、棒立ちの時間が長すぎると、シーンとした時間が長すぎると、観客はどんどん現実へ戻ってしまう。
目線一つ、仕草一つ、声の大きさや効果音。そういうものを、要所要所で視線誘導の手助けにするんだ。セリフや動作の間も含めて、視線誘導のバトンリレー。「今からタイミング合わせるよー」とか、本番では言えないから。自分達の中でタイミングになるものを決めて、動いてみて、合わせていこう。最後までバトンリレーできたら、観客は舞台に釘づけのまま。
演劇は視覚と聴覚で楽しむものだって、よく言われるけど。人間を反応させるには、五感を刺激するのが一番。正門前みたいなオープンな場所は、制限がない舞台なんだ。だからこそ、世界を自由に創りあげる事ができる。俺達の体全部を使って、メガネ先輩にサポートしてもらって。観客を刺激し続けよう。
モモちゃん。キラキラの舞台が待ってるよ。俺達が創る魔法の国へ、観客を連れていこう!』
「あ、ちっちゃいこがでてき」
「『あらあら! まあまあ! あなた、わたしの姿が見えるのね!』」
トントントン、トントトン。
わたしはステップを踏みながら、観客の前へ飛びだす。
両腕を振るたび、背中の羽がパタパタ動く。
「『そこのあなたも! むこうのあなたも! みーんな、わたしが見えるのね!』」
右から左へ横切って。
わたしは腰を軽く曲げ、ピタッと止まる。
王様ダルマさんゲームで、ユキ先輩がやっていたニワトリの表現。
「『ようせいが見える人達に出会えるなんて! とっても良い気分!』」
観客に向かい、チュッと投げキッス。
先生が黒板を指すように指示棒を動かし、わたしは左右へ歩く。
「『わたし、今から魔法の国に行くの! あなた達も一緒に行かない?』」
観客の後ろに回りこんだコウタ先輩が、右手を三回振る。
「『え? 招待状がないからダメ? 心配ないわ! 一・二・三でだせるもの! せーのっ、一・二・三!』」
わたしは『せーのっ』で上を向き、指示棒をゆっくり振り上げる。
一と二の間で、コウタ先輩が空へ袋を放り投げ。
二と三の間で、コウタ先輩が正門へ走りだす。
三カウントで観客が見上げた瞬間、折り紙の花が降りそそいだ。
「わ! わ! ビックリしたぁ!」
「へー。こんな仕掛けまであるんだー。カワイイー」
「『うふふ! 準備はバッチリね! 魔法の国へレッツゴー!』」
両手を後ろに回し、『うふふ』は大きめの声で。
わたしはセリフを言い終えてから、ななめ横を向き、羽をパタパタ動かす。
口に手を当てて、笑う仕草も考えたのだけれども。
セリフを邪魔しないほうがいいよって、ユキ先輩がアドバイスしてくれた。
タタッ、タン、タタッ。
わたしのスキップに合わせ、くつがピコピコ鳴る。
タタッ、タン。
指示棒の星をメガネ先輩に向けると、明るい曲が流れ始める。
タタン、タン、タン。
最後のタンで、ユキ先輩の隣に到着。
ブルーシートに腰をおろし。
眠っているユキ先輩の体へ、わたしは背中を軽く押しつける。
「『ココが魔法の国ね! お宝はわたしが独りじめ! バンザーイ!』」
わたしは『独りじめ』を強調しながら、大きくバンザーイ。
「クスクス。誰もいないとかさー、あの子ヤバくない?」
「いるよー! あなたの後ろにいるよー!」
「美人が寝てるぞー」
「なんかカワイイじゃん。バンザーイだって」
観客の声が聞こえ。
内心で、わたしはホッと息を吐く。
現実のユキ先輩は、もちろん見えているけれど。
魔法にかかったお姫様が見えていないようせいが、観客にちゃんと伝わってる……!
「『お宝はどこかしら! こっち? あっち? 誰か教えてくれないかしら!』」
わたしは立ち上がり、観客に笑顔を見せ。
クルクルと指示棒を回しつつ、ユキ先輩からスキップで遠ざかる。
ちらりと、横目で視線を向けた先。
正門の影から見えた手が三回動く。
「『お星様! お宝の場所を教えてちょうだい!』」
わたしは正門に背を向け、指示棒の星を教室棟へ向ける。
観客の視線が正門から外れた直後、コウタ先輩が走り始め。
ドンガラガッシャン!の効果音にあわせ、勢いよくすべって転んだ。
「『な、なんの音⁉︎ 岩でも崩れたのかしら⁈』」
その場で、大きくジャンプ一回。
わたしは体を左右にひねりながら、キョロキョロと周りを見回す。
「みてみて! 新しい人が出てきたよ!」
「あの人さ、絶対あやしいって! 赤い布かぶってるし!」
「音にもビビったけど。転び方、ヤバくね? めっちゃ痛そー」
観客の視線が、声が、赤い布で顔を隠したコウタ先輩に向けられる。
ようせいから王子様へ、視線誘導のバトンリレー成功!
黒子服姿のメガネ先輩が【ただいま半額で馬車に乗車できます。※ただし降車は馬の機嫌によります】のチラシをこっそり観客へばらまく。
よろよろと体を起こし、地面に座り直し。
赤い布を外したコウタ先輩の目には、大粒の涙。
「『イタタタタ……アイタタタ……。まったく! なにが! 安心で! 安全だよ! 王子をけり落とすことはないだろー! 馬のくせに! 馬のくせにぃぃぃぃい!』」
『な・に・が』を発声しつつ、上半身ごと斜め後ろを見上げ、泣き顔から怒り顔へ。
『安心・で! 安全・だよ!』の漢字はハッキリ発声し、ひらがなに強弱をつけ。
片手でメガホンを形作り、『馬のくせに』の言い回しを変え。
片手をグーの形にし、ブンブンと腕を振り回すコウタ先輩。
(『ああああ』とか『いいいい』とか、同じ母音が続く音は、発声がとても難しいのに! コウタ先輩の声は、最初から最後までキレイなまま! 大声を出していないのに、叫んでいるように聞こえるし! すごいなぁ! すごいなぁ!)
わたしは腰を低く落とし、ゆっくりコウタ先輩のほうへ歩きだす。
王子様がようせいに気づいていない場面。
クルクル変わるコウタ先輩に、観客は釘づけ。
(ようせいが完全に消えてる……! うわーうわー! コウタ先輩、スゴイ!)
「プッ。あれが王子だって。ショボくない?」
王子様を笑う声が聞こえ、思わずわたしは足を止める。
コウタ先輩はカッコイイですっ‼︎と反論したいけれども、できないモヤモヤ。
わたしは声の方向をジーッとにらむ。
二秒もたたないうちに。
観客の一人が、わたしをマジマジと見た。
「……ん? なにしてんだ、アイツ」
声をきっかけにして。
観客の視線がコウタ先輩から外れ、少しずつわたしへ移り始める。
(どどどどうしよう、せっかくコウタ先輩にバトンリレーできたのに……! わたしを見始めたら、お、お話が続かなくなっちゃう……! どうしよう、どうしようどうしよ)
すかさず、コウタ先輩がパチンと指を鳴らす。
その音で、振り向いた観客へ向かい。
片ひざを地面に着き、片手をさしだし、コウタ先輩が王子様の姿勢をとる。
「『俺としたことが! なんて失礼なことを! 改めまして、カワイイおじょうさん! キレイなおじょうさん! ステキな笑顔を、俺に見せてくれませんか?』」
甘い笑顔でウインクを決める、コウタ先輩。
「え⁈ え⁉︎ あ、あたし⁈ あたしに言った⁈」
「ウチらじゃない⁈ こっち見てるし!」
「な、なんかドキドキしちゃうね……!」
「でもさー。イケメン王子なら、コケたりしねーし、文句も言わねーじゃん」
「『チッチッチッ! 甘いな、君は!』」
指を振りつつ『チッ・チッ・チッ』を言い、セリフの間で立ち上がり。
優雅な足どりで、コウタ先輩が観客へ近づく。
「『王子も人間だからね。失敗の一つぐらいするさ! それに! イケメンかどうかは、心で感じるもの。カワイくてキレイな、おじょうさん達のようにね!』
キャアキャアと上がる高い声が、わたしへの視線を消し去る。
観客をグイッと引き寄せる、アドリブ三連発。
背中に隠した手で、コウタ先輩が横向きのピースサインを作る。
ようせいが王子様を驚かすための合図。
わたしはあわてて歩きだす。
自分の役を演じながら。
舞台にいる他人の動きまで把握して。
現実へ戻りそうな観客を、即座にアドリブで引きとめて。
台本通りに進むよう、自然な形で世界をつなぐ。
コウタ先輩は、とってもとってもスゴイ人だ……!
「『ところで。こんなウワサを知らないかい? この国に』」
赤い布をひるがえしながら、コウタ先輩が元の位置へ歩きだす。
「『それはそれは美しい姫がいて、結婚相手を探して』」
コウタ先輩のピースサインが、パーに変わった瞬間。
メガネ先輩にも見えるよう、わたしは指示棒を振り上げ、勢いよく振りおろした。
「『いると』」
ゴッツン!の効果音にあわせ、コウタ先輩が頭を抱え、座りこむ。
わたしは腰に手を当て、指示棒をクルクル回す。
「『お宝はわたしのものよ! ドロボウさん!』」
「『〜ッ……〜ッ……!』」
プルプルふるえる動きで、声にならない痛さを表現するコウタ先輩。
「『俺がドロボウだって⁈』」
立ち上がったコウタ先輩が振り返り、わたしを見つめる。
目があったのは、一を数え終わらないぐらいの、ほんのつかのま。
「『お前こそ、何者だ!」』
見えない糸にひっぱられているかのように、コウタ先輩がスーッと後ろへ下がる。
一ミリもふらつかない姿を見て、「スッゲー……」の声が聞こえた。
(すごいよね! すごいよね! 普通はグラグラするし、バッターンって倒れるのに! コウタ先輩はスーッって! コウタ先輩の全部がカッコよくて、ステキです‼︎)
今にも叫びたい気持ちを。
わたしは表情に変え、セリフにのせる。
「『わたしはようせい! キュートでラブリーなようせいよ! さあ、あなたも名乗りなさい!』」
「『よくぞ聞いてくれた! 俺は王子! 顔よし、姿よし、性格よしの王子だ!』」
わたしはおもいっきり眉を寄せ、観客へ向き直る。
顔の前で右手をブンブンと振り、横目でコウタ先輩をチラチラ。
「『王子様とかありえないわ! だって、見た目があやしいもの!』」
0.五秒ズラし、観客へ向き直り。
あからさまな溜息をついたコウタ先輩が、横目でわたしをチラチラ。
「『たまにいるんだよなー。アイツみたいなイタイやつ。ようせいとかナイナイ』」
笑い声が、観客の中に広がっていく。
わざとらしく髪をかきあげたコウタ先輩へ向け、「自称王子もイタイぞー!」と声が飛ぶ。
今度はちゃんと、バトンリレーできた……!
ギィ……ギギギギギギギギ……ガコーン‼︎
今までで一番大きな効果音が鳴り響き。
わたしは耳を押さえて座りこみ、コウタ先輩が上空を見る。
ユキ先輩が、あくびをしながら目をこする。
うーんと大きく伸びをしたところで、観客に気づき、ほほえんだ。
「ヤッベー……モロタイプなんだけど……」
つぶやきを聞き逃さず。
あごの下で両手を組み、うるんとした瞳で観客を見上げるユキ先輩。
ゴクリと、息を飲む音が聞こえれば。
すらりとした両足を伸ばし、流し目で観客を見つつ、モジモジとはずかしがるユキ先輩。
セリフを使わず身振り手振りだけで表現するパントマイムは、ユキ先輩の得意分野。
あっという間に、観客の視線を独りじめ。
ここからは、三人で視線誘導のバトンリレー。
わたしは耳を押さえていた手を外し、ピョンッと飛び跳ねる。
「『もしかして! お宝の合図かしら? きっと、ステキなものに違いないわ!』」
「『待て! 魔物かもしれないぞ!』」
タタッ、タン、タン。
わたしはステップを踏みながら、ユキ先輩の近くへ。
一秒遅れで、コウタ先輩の声が背中に届く。
タン、タタッ、タン!
前方へジャンプし、タン!で着地。
わたしはユキ先輩に歩みよる。
「『あらあら! まあまあ! なんてキレイなお姫様! こんにちは! わたしはようせい! 宝物を探しにきたの! お宝がどこにあるか、知っているかしら?』」
長セリフを言い終え、わたしは胸をなでおろす。
ユキ先輩が左手に右ひじを置き、頬に指を当て、ウーンウーンと考えだす。
グーの形にした右手を、左の手のひらへポンと乗せ。
観客側の手を口元に当て、反対側の手で『こっち、こっち』とわたしを誘う。
「『やっぱり! 教えてちょうだい、お姫様! お宝の場所を!』」
ブルーシートに腰をおろしたわたしに向かい、ユキ先輩がささやく(フリ)。
「『うん……うん……ええええ⁉︎』」
『ええええ』を『えーーーー!』で発声してしまい。
わたしは真正面のユキ先輩へ、大声で叫んでしまう。
ユキ先輩がビクビクッと肩をふるわせ、両耳を手でふさぎ、ギュウとまぶたを閉じる。
結ばれた唇までも、ふるふるとふるえている。
(……あ、あれ……? ……ユキ先輩……?)
「『結婚相手が欲しいだなんて! 考えもしなかったわ!』」
ハッと顔を上げたユキ先輩が、すぐさま笑顔を浮かべ、観客へ向き直った。
台本通りに進んでいるけれども。
さっきのパントマイムは、演技というより。
ユキ先輩、本気でこわがってた……?
ピコン!の効果音にあわせ、ユキ先輩がコウタ先輩を指す。
剣をかまえる仕草をしつつ、左右を見ながら歩いていたコウタ先輩へ、観客の視線が向く。
とっさに『分かったわ!』と言い、ピョンッと飛び跳ねたわたしを、観客が見る。
「『わたしが連れてくるわ! どんな人がタイプなのかしら!』」
タタッ、クルッ、タンッ。
ユキ先輩とコウタ先輩の間に立ち、わたしは指示棒をユキ先輩へ向ける。
「『そうね〜☆ まずはぁ〜顔でしょお〜☆ 次はぁ〜体型でしょお〜☆』」
アニメのヒロインのようなカワイイ声が流れだす。
声にあわせ、ポーズを決めるユキ先輩とコウタ先輩。
わたしは奥歯をかみ、必死に口角を上げ、指示棒をクルクル回す。
メガネ先輩。
本名といい、私服といい、アニメ声といい。
高校生活最大のナゾは、間違いなくあなたです。
「『それからぁ〜☆ お・か・ね・も・ち☆ きゃはっ☆』」
「『結局、金なのかぁぁぁぁぁぁ‼︎』」
コウタ先輩がガクンと両ひざをつき、にぎりこぶしで地面を叩く。
わき起こった笑い声が、波のように広がっていく。
わたしはブルーシートの下からホワイトボードを取りだし、背中に隠したまま、コウタ先輩のそばへ。
「『ねえねえ! あなた、お金は持っているの?』」
「『ない! ないったらない!』」
二人同時に、ユキ先輩へ視線を向ける。
ブブー!の効果音が鳴り、ユキ先輩が大きなバツ印を作り、首を横に振る。
「『しかたないわね! わたしが魔法をかけてあげる! さあ、目を閉じて!』」
わたしはクラッカーが弾ける音と共に、指示棒を振り。
五回目のパンッ!で、ホワイトボードのヒモをコウタ先輩の首へかける。
立ち上がったコウタ先輩の胸には【金持ち】と書かれたホワイトボード。
「『オレハ、カネモチデス』」
ピンポーンの効果音が鳴り、ユキ先輩が大きくマルを作る。
クスクス、くすり、ケラケラ、あはは。
正門前が、笑い声の花畑に変わっていく。
メンバー全員で、視線誘導のバトンリレー成功……!
残るはラストシーンだけ……!
結婚式の音楽が流れ始める。
わたしは端へ移動し、体育座りをする。
ユキ先輩とコウタ先輩が歩みより、見つめあう。
コウタ先輩が、ユキ先輩の腰へ手を回し、あごをクイッと持ち上げ。
ひるがえした赤い布の影で、誓いのキスシーン(フリ)。
わたしはひざを抱え、ギュウと指示棒をにぎる。
ツキン、ツキン、ツキン。
……知ってる。ユキ先輩とコウタ先輩が仲良しなことは。
ツキン。ツキン。ツキン。
……分かってる。ユキ先輩とコウタ先輩がおにあいなことは。
ツキン。ツキン。ドキン。
……だけど。自由に創ることができる、舞台の上でなら。
ツキン。ドキン。ドキン。
……いつか。いつの日か。
……コウタ先輩のお姫様が、ユキ先輩じゃなくて。
ドキン。ドキン。ドキン。
……コウタ先輩のお姫様が、わたしかもしれないって。
……夢みても、許されるよね……?
「『うふふ! これで、お宝はわたしのもの!』」
勢いよく飛び上がり、わたしはユキ先輩のそばへ。
「『お姫様! お宝の場所を教えてちょうだい!』」
ユキ先輩が観客の後ろを指す。
青色に溶ける、オレンジ色の夕焼け。
知らず知らずのうちに、わたしは「わぁ……!」と歓声をあげていた。
「『なんてステキなのかしら! わたし一人じゃ、持ちきれないわ!』」
トントントン、トントトン。
わたしはステップを踏みながら、観客の前へ飛びだす。
両腕を振るたび、背中の羽がパタパタ動く。
「『そこのあなたも! むこうのあなたも! お宝はみんなで分けましょう!』
右から左へ横切って。
わたしは腰を軽く曲げ、ピタッと止まる。
タタッ、タン、タタッ。
わたしのスキップにあわせ、くつがピコピコ鳴る。
タタッ、タン。
指示棒の星をメガネ先輩に向けると、鐘の音がリーンゴンリーンゴンと鳴る。
「『あらあら! お別れの時間だわ!』」
パーカーワンピースのポケットに両手を入れ、細かく切った金紙をつかみ。
バッと観客へ放り投げ、わたしは最後のセリフを口にする。
「『とても楽しかったわ! 遊んでくれたみんなに、ようせいの祝福を‼︎』」
金色の紙ふぶきが舞う中、わたしは両足を交差させ。
指示棒を持った手をお腹に当て、反対側の手を腰に回し、頭を下げる。
ハァハァと、吐く息が熱い。
ドクドクと、波打つ心臓がうるさい。
「以上、演劇同好会・@homeでした! 二年生三名と、初舞台・初主演をつとめた一年生の四名で、楽しく活動しています。楽しみたい気持ちがあれば、誰でも大歓迎! 新メンバー募集中です! 本日はありがとうございました!」
コウタ先輩のあいさつが、遠くで聞こえた直後。
ブワッと。
嵐のように巻き上がった空気が、打ち上げ花火のように鳴り響く拍手が、わたしの全身を包みこんだ。
「おもしろかったねー」
「楽しかったぁ。またやるのかなぁ?」
「はるっちー! かわいかったよー!」
「……‼︎」
生まれて初めて、舞台から見た向こう側は。
あの日見た夢の世界よりも。
キラキラ、キラキラ輝く、色とりどりの笑顔の世界。
熱湯のような熱さが胸を突き上げ、身体中がゾクゾクしたまま。
わたしは無我夢中で、コウタ先輩へ抱きつく。
「こ、こ、こ、コウタ先輩! わ、わ、わたし、わたし」
「うん、モモちゃん」
「もっと、演劇がやりたいです! もっと、うまくなりたいです! もっと、もっと、観る人に楽しんでもらいたいです! それから、それから」
「うん、モモちゃん」
たまっていた気持ちが、大粒の涙に変わる。
「わ、わだじを、アッドホームにいれでぐれで、ありがどうございまじだぁぁぁぁ」
「モモちゃん。こちらこそ、入ってくれてありがとう! 初舞台と初主演、お疲れ様!」
泣きじゃくるわたしの前で、コウタ先輩が笑う。
大きくて温かい手が、わたしの頭を優しくなでてくれた。