「暗闇の色って何色だと思う?」
「……黒?」
「だよね」

 突然の謎かけに首を傾げながら答えた私に、恋人の透は軽く笑った。彼はたまに、こういう唐突な話題を持ち出す。雑学が好きらしかった。

「黒と白って、どんな言語でも必ず最初に名前がつく色なんだってさ」
「あー、暗闇だから? 世界は最初暗闇で、そこに光が射してーみたいな?」
「信仰に基づいたものかどうかはわからないけど。バーリンとケイって人が調査した、色彩語の話」
「へぇ」

 適当な相槌を打ちながら、私はテーブルの上のつまみに手を伸ばす。
 社会人カップルである私たちは、週末は透の家で宅飲みをするのが習慣になっていた。
 さして広くもないワンルームだが、二人くらいなら十分に過ごせる。
 透を座椅子にして抱え込まれている今なら、実質一人分の場所しかとっていない。

「黒という言葉ができたから、俺たちは同じものを見た時に『あれは黒い』と言うことができる。言葉による共通認識で、意思の疎通ができるようになった。けれど本当のところは、同じものを同じように見ているかはわからない。本当は違う色が見えているけれど、『黒』と言葉で定義してしまったことで、違う色をお互いに『黒』だと言っているのかもしれない。或いは、片方が嘘を吐いているのかも。言葉は簡単に嘘が吐けるから」

 こういう哲学的なことを言い出す時は、疲れている時だ。
 私はもぞもぞと体を動かすと、透に向き直り、手を伸ばして彼の少し硬い髪を撫でた。

「どしたの。誰かに嘘でも吐かれた?」
「……どっちかっていうと、俺かも。言葉で説明しようとして、誤解が生じた。伝えたかったイメージとは違うように受け取られた」
「それは仕方ないさぁ。人と人が完全にわかり合えるなら、『誤解』なんて言葉は生まれないよ。人間は自分の意志を歪みなく完璧に相手に届ける手段を、まだ持たないんだから」

 よしよし、と両手で髪をかき混ぜる。
 しょげたような透に、苦笑してキスを送る。

「こうやって、言葉がなくても伝えることもできるけどさ。誰にでもできるわけじゃないし、やっぱり嘘は吐けるよ。言葉は嘘も誤解もあるけどさ、言葉じゃないと、伝わらないものもあるよ。私は透が一生懸命言葉を尽くして伝えようとしてくれるの、好きだよ」
「……ん」

 納得したんだかしてないんだかわからない返事をして、透が私を抱きしめる。
 この腕が、体温が、私に愛を伝えてくる。けどそれは私がそう思いたいからだ。人は自分の受け取りたいように物事を捉えるから。愛はなくてもハグくらいできるし、人肌は温かい。

「私の世界に最初に生まれた言葉は、『透』かな」
「なにそれ。どういう意味?」
「ほら、なんだっけ、有名なあれ。『はじめに言葉があった』? 世界の最初は言葉だから、言葉ってすごく大事なんでしょ。だから、私の一番大事は透かなって」
「……それ誤解だよ。続き読めばなんとなくわかるけど、その言葉ってキリストのことだから。世界の根源(アルケー)とはイエス・キリスト(ロゴス)である、って意味で、一番大事なのはキリストって教えだから」
「えっそーなの!?」
「真希、高校プロテスタントじゃなかった?」
「女子高生が真面目に礼拝なんか聞いてるかい」
「ごもっとも」

 同意した透を軽く小突く。
 ダメージなんかないくせに、痛いと笑った彼は、少し元気になったようにも見えた。

「いいじゃん、間違ってないよ。キリスト教の人たちにとって、世界はキリストで、一番大事がキリストなんでしょ。私にとっては、世界は透で、一番大事も透。透は私の神様だから」

 そう言って、彼の胸に頰を預ける。
 世界は透から始まって、私の世界には透しかいない。
 だから私にとって唯一の神様は透だ。

「透の世界に最初に生まれた言葉は何?」
「…………真希かな」
「今正解探ったろ」
「だって間違ったら怒るじゃん」
「そうだけど! そうなんだけどさ! それならそれでしれっと即答してよ! 合ってる? って顔しないでよも〜!」
「ごめん」
「いいよ合わせてくれてありがとね!」

 考えすぎる透にとって、些か適当な私は安心する存在らしい。
 適当ってなんだ、と思いつつ、透が必要としてくれるなら何でも良かった。
 私の世界は暗闇だった。黒しかない世界に透が光を射して、初めて色彩が生まれた。
 透を通して、私は世界の色を認識している。だから。



「透がいないと、色がわかんないよ」

 急に世界が黒白になった。
 誰もが黒い服を着ている。私も黒い服を着ている。ただ一人、透だけが白い服を着ている。
 もうすぐこの白も燃えてなくなる。そうしたら、私の世界には黒しか残らないだろう。
 四角い枠の中で笑う透に、黒いリボンがかかっている。

「透に黒は似合わないな」

 私は毟り取るようにして、黒いリボンを解いた。