キャンプファイヤーの灯火が私を、そして望月くんを鮮やかに照らす。夢に入った時、望月くんは火の前にいた。私は彼の背中をしばらく眺めてから、声をかけた。
「望月くん」
「星村。文化祭、回ろっか」
「え」
近寄ってきた彼に手を取られ、校舎の中に入る。夢の中だからだろう、この時間には片付けていたはずなのにまだお店は営業していて、しかし生徒たちの顔はどこかぼやけ、誰なのかは分からない。お金も払う必要はなく、注文だけで商品が手に入った。
「はい、星村。このまま体育館へ行こうか」
ポテトフライを手渡され、ありがとう、と返す間もなく手を引っ張られる。
なんか、変だ。
繋いでいる手を、振りほどくことが出来ない。人の間を縫って歩きながら、私は彼の背中に、ねえ、と呼びかけてみた。
振り向かない。やっぱり、なんか変だ。
「望月くん、ちょっと、ねえ、なんか変だよ、怒ってる?」
無視される。無視されていい気がする人間もいないだろう、眉間に皺が寄ってしまう。
「ねえねえねえねえねえねえねえねええ」
子どもみたいに、しつこく言い続けるとやっと振り向いた。けれどその顔は、怒っている訳でも、このしつこさに笑っている訳でもなく、寂しそうな表情を浮かべていた。
何て顔してるんだ。思わず言葉を詰まらせた。
「星村は、もうここには来ないんだろうなって……思って」
「は? 来てるじゃん、どういうこと」
「いや……そう仕向けたのは、俺だからいいんだけど」
「はあ……何言ってんだか」
私はため息をつくと、肩で突進してみた。うわ、と短い悲鳴を上げてよろめくが、さすが男の子なだけあって私を支えるように体制を立て直す。 彼の顔を覗き込んではにかんでみせた。
「何をそんなしょぼくれてるのか知らないけど、私たちだけの文化祭楽しもうよ。こんな青春、私たちだけだよ」
少し元気になったらしい。見開いた目を細め、口角を上げて、そうだな、と呟く。私はもう一度肩で突進してみせ、歩き出した。
「体育館って、なんで?」
「知らない? バンドとか、ダンスとか、そういった出し物が見れるんだよ」
「へえ! そうだったんだ、楽しそうだなあっ」
自然と胸を躍らせる。足早に向かうと彼も着いてきてくれた。
望月くんが言っていたように、体育館の壇上ではダンスが繰り広げられた。一年生も、二年生も、三年生も、ここでは無邪気な顔で踊る。腕を振り上げ、足を駆使して、重心を傾けて、全身で表現する。
思わず、うわあ、と感嘆の声を上げてしまう。
当てられた照明も彼らが物にしている。華麗に、かっこよく、そしてときめきを覚えてしまうほどに輝いて、笑顔を振りまく。たまらず拍手を送った。
バンドも、迫力のある演奏や心を打たれる歌詞が胸に響いた。自然とこの空間が、この時間が、隣にいるこの人が大切で大事だと感じさせられる。胸が締め付けられる。
壇上の人達がこの場の主人公だと分かっているのに、私もそうな気がして、青春の短さに苦しさを覚えてしまう。この刹那を愛したい。苦しさの正体は、きっとその気持ち。
全ての出し物の終わりを迎えると私たちは体育館を後にした。
「さすが夢の中だからか、より迫力があったというか、近くに感じられたね」
「だな。次は謎解き行ってみるか」
「へえ、そんなのあるの?」
「ああ、三年の教室に。行こっ」
走り出した背中を慌てて追いかける。人が多すぎて、彼の背中を見逃さないように私も足を早めた。楽しい。ただ走っているだけなのに、そう思える。望月くんといるだけでこんなに楽しい。 私たちは一通り遊んだ。スーパーボールすくいや、射的、カラオケ大会とか、展示を見たり、食べたいものを食べ尽くして、遊び尽くしてキャンプファイヤーの前で一息ついた。
不思議と、灯火に照らされた横顔が美しく見える。触れてみたい、と思えてしまうほどに。楽しくて、嬉しくて、浮かれた一日の終わりに、穏やかな感情に包まれる。望月くんが、綺麗だから。
クラスで眺めていた気持ちとはまた違う感情に身を任せてみた。
「何?」
触れた頬には温もりがない。振り向いた顔が、いつもよりも儚く見える。望月くんってもっと逞しい顔してたんじゃなかったっけ。逃げていきそうな、火に溶けてしまいそうな、危うさを滲ませている。
「何もない。楽しかったね、文化祭」
引っ込めた手で彼の服の袖を掴む。望月くんは、ああ、と微笑んだ。
「本当に楽しかった。来年も期待だな。……そうだ、星村、あいつに言ってくれたんだってな」
「あいつ?」
「元カノ」
ああ……。呻き声にも似たような声を出してしまう。それほどまでに、嫌な気持ちをあの時抱いたから。
「その場にいた奴から聞いたんだ。俺のためにすげえ啖呵切った子がいたって。ありがとう」
「……いや、別に。その場にいる人みんなが気分悪くなるようなこと言ってたんだよ」
「それでも言ってくれたのは星村だけだろ。星村は、かっこいいよ」
私は頭を振った。かっこよくなんかない。私なんか、最低な人間なのだ。
望月くんは後ろ手を地面につけると、力なく、あいつみたいな奴結構いるんだ、と告白した。
「あいつみたいなって……」
「俺を、犬とか、アクセサリーみたいに思ってる奴。連れ歩くと自分をよく見せられるって思い込んでるんだ。その人はその人なのにな……。女の子だけじゃない、男も。例えば、ナンパするために連れていく、とかな」
彼の言葉に誘導され、つい海の日で会った時のことを思い出す。あの時見せていた顔とは違って、どこかやさぐれたような、拗ねたような表情。私は首を傾げた。「彼女と別れたから気を使って誘ってくれたって」
「その気持ちも嘘じゃないと思う。でも連れ歩けば……って気持ちも、あいつらにはあるんだよ」
投げやりな言い方をしているが、そういえば、と私もあの時違和感を覚えたことを思い出す。やけに望月くんを持ち上げていた。まるで、頑張って貰わなきゃ、と言わんばかりに。
「俺の周りにはそんな奴ばっかりなんだ。元カノは違うって思ってたけど、時間が経てば人は変わるんだな……」
ため息を落として、膝を抱えて座り直し、キャンプファイヤーに視線を投げた。
「俺、時間が経つのも、人が変わっていくのも、怖いよ。このままじゃいられないのかな」
ああ、だから。ここに来た時の彼の言葉を思い出す。不安であんなことを言ったのか。
「あのね、望月くん。私は……私も、変わっていく人たちが怖かった。今まで仲良かった人が私を見放した時の目……今でも、思い出すと、怖い。……でもね、怖いだけじゃないんだって今日分かったの。一人ぼっちだった私の周りには今たくさんの人がいる。望月くんの言うように、そういう場所を作れたんじゃないかって思うの。だから、変化も悪い方に変わっていくだけじゃないはずだよ」
「星村……」
顔を上げたが、やはりどこか力ない。
私は、ずっと頭の片隅にあったあのことを話そうと決めた。
「……あのね、望月くん。望月くんが、私の教室を見に来てくれた時に来た女の子たちなんだけどさ」
「うん」
口を真一文字に結んで、話を聞く体勢を取ってくれる。緊張していたが、何となく安心できて、一息ついてから続けた。
「あの子たちは私の中学時代の友達……だった。私に一番突っかかってきたボブの子をリーダーにしてね、当時……虐めがあった。ターゲットはクラスでいつも一人でいた女の子。その時はあの子たちとは友達じゃなくて、私にも自分のグループがあった。言い訳みたいになるけど、虐めは彼女たちグループの中だけで蔓延してたみたいで知らなかったの。それで、ある日知ることになるんだけど知ったその日に彼女たちと友達になった」
今でも思い出せる。 ターゲットの子はいつも髪の毛はボサボサで、服も皺が寄って汚れていた。肌もくすんで見えて、一言で言えばみすぼらしい女の子。そういう家庭の子なのだろうと思っていた。
虐めを見かけたのは本当に偶然だった。帰宅途中に立ち寄ったコンビニで、彼女がお菓子を鞄に入れたのを見つけた。驚いて声もかけられずにその後を追うと、山田たちが彼女を出迎え、意地悪な笑みを浮かべ、叩いたり、押したりしてからかっているのを見てしまう。
虐めだ。
一目で分かるくらい、中心にいる彼女は怯えきっていた。
私は尾行し、集団が解散して彼女が一人になったところで近寄った。最初は渋っていたが、目に物見せてやろうと提案すると虐めの全貌を話してくれる。
最初は、仲良かったそうだ。けれど、空気が読めないから、とか、叩くと面白い反応をするから、という理由で中学一年から三年の時までずっと虐められ続けたと吐露してくれた。
とりあえず彼女にはしばらくそのままでいて欲しいとお願いした。私に考えがあるから、と。絶対に失敗しない、そして立場を逆転させてやる。そんな約束をした。
私には、実績があったから。母という実績が。
「友達になってから、私も同じようにターゲットの子を虐めた。ただ、私たちは裏で繋がっていたから、彼女たちの信用を得るためだってターゲットの子も知ってた。更にクラス全員と仲良くなって根回しをした。それでね、ようやく信用を得られたって確証ができた日に、私はあの子たちをみんなの前で酷く傷付けた。傷付けるのは、簡単だった」
まずは彼女たちの虐めを暴露してやった。クラス全員の刺す視線を受け、青ざめていた。裏切った私を睨みつけ、私も同じことをしていた、と糾弾される。
けれどそこは作戦通り。私とターゲットの子は繋がっていたし、実は直接的にあの子を虐めることはしなかった。ただ傍で笑っていただけ。あの子はそれだけでも嫌だっただろうが、許してくれた。
私が彼女たちを地獄へ追い込んだから。 まずは、おかっぱ頭のカッパちゃん。そう名付けた。それからみんなで無視をするように仕向けた。次第にその空気は彼女たちをいじめのターゲットへと働きかけた。家にも嫌がらせをし、教室内でも嫌味を言い続けた。
「虐めて自分が優位に立ってるとでも思ってた? 下の下の人間なのにねえ、人間でもないか、人間以下。これはね、あなたたちの罰なんだよ、人間以下を人間にするための罰。いわば洗礼。生まれ変わりたいでしょ?」
「何か臭いと思ったら発生源あんたじゃん。ねえ、みんな、消臭しなきゃね?」
「万引きさせてたんでしょ? 証拠の写真あるからこればらまいちゃおっかなあ。あ、彼女のことはご心配なく。親にも店の人にも正直に謝って許してもらえてるから。それよりあんたたちだよねえ、こーんなことして、ふふ、一番近くで見てたから証拠の写真も動画もあるんだよ、流出させちゃおっかなあ」
虐めの空気は加速していった。私は、やはり最低な人間で、人助けをしている気分に浸っていたのだ。
その空気がいつしか破綻する。クラスメイトたちは、私のノリについてこれなくなった。
当たり前だった。ほとんどの人間は、他人のことなんてどうでもいい。更に私の言葉は彼女たちに留まらず、クラスメイトたちにも厳しい言葉を投げかけるようになる。
「え、その髪飾り似合ってないよ。馬鹿でかいリボンのせいで馬鹿に見える」
「あの番組やらせ感凄いよねえ、え? 面白いからいいじゃないかって? やらせかやらせじゃないか分からないからそんなこと言うんでしょ、真実の目を持たなきゃ」
「点数ひっく! こんなんじゃ高校行けないよ!」
自分を棚に上げて人を下げて笑いを取る。私はそんな人間に成り下がっていた。
卒業する頃には、私は一人になっていた。元々のグループの子達からは「歩咲といると最低になる」と見放されてしまう。ちょうど、望月くんと夢で見たあの時の夕焼けに似た真っ赤な教室の中で。 今思えば、思うままに人を動かせたから王様のような気分でいたのだ。最後までどこか人助けの気持ちもやっぱりあった。そうなるまで、私のしでかしたことが最低なことだとは気付けなかった。
それからは自己嫌悪の日々。最低なことをみんなに言ってしまった、という自覚に毎日押しつぶされそうになって、家での孤独感も相まって、疲れてしまった。
唯一かつてターゲットだった彼女からは感謝されたが、私の気持ちは晴れなかった。
本当に、誇れた話じゃない。
この全貌を望月くんに話すと、途端に恐怖に襲われる。だから私は彼からそっぽを向いた。
「これが全て。今日、クラスメイトたちは庇ってくれたけどとても自慢げに話せたもんじゃない。……最低だって言われる覚悟は出来てる。それでも、今の私はあんな最低なことを、もうしない。私はあの頃とは違う自分に変われたことを自慢に思う」
望月くんは何も言わない。そのせいで、鼓動が激しく鳴る。怖い。どうしよう。身体が震えてきてしまう。
でも、私は今の自分が好きだ。変わった自分が好きだ。
彼の口が動く気配がする。私は身構えた。
「……そうだな、俺から見ても、星村はいい方に変わったよ」
思わず彼の方を向くと微笑んでくれていた。その笑みは糾弾するものではなくて、安心した。
「最低って言わないの?」
「まあ、やりすぎたとは思うし、恨まれても仕方ないとは思うけど。大丈夫。星村はそれが最低なことだってわかったんだ。だから、今の星村がいるんだろ。それでも罪の意識を感じるなら、ずっと感じ続けること、忘れないことが、星村に出来る唯一の償いだと俺は思うよ」
そう言ってはにかむ。
忘れないこと。心の内で反芻してみた。 山田たちがしたことは最低なことだし、許されない。けれど私のしたことも最低なこと。例え、あの子に感謝されたとしても、山田たちの心には傷が深く残り、かつてのクラスメイトたちを傷付けたことは謝ったって許されることではない。
忘れないこと。だから、忘れずに、ずっと罪の意識を持ち続けること。私は胸に手を当てて、刷り込むように繰り返した。
「俺も、受け入れられたらいいな」
「ん?」
「変わっていくことを。……それで、良い方に変わりたいって、思うよ。星村を見てると」
キャンプファイヤーに視線を投げた横顔を見つめる。
望月くんは素敵な人だ。不安に思わなくても、彼は既に素敵なのだから恐れなくてもいいだろう、と私は思う。
だから伝えようとしたが、その瞳が、どこか違うところを見ているような気がして言うことを憚られた。
代わりに、違うことを口にしていた。
「ブレスレット……」
「ん? ああ、沖縄土産だよ。星村はいらないって言ってたし、結構時間も経っちゃったけどさ。せめて、持ってて欲しいんだ。ここに来れない日が来ても」
「またそんなこと……」
私はわざと笑ってみせたが、望月くんは笑わなかった。
「俺を好きにならないで」
「望月、くん?」
見つめ返された目は、ただ真っ直ぐに私を映す。
「所詮、ここは夢の中だからさ……。だけど、俺を好きにならない星村が現実で生きてる。それだけで、苦しいくらい心強いから」
「何それ……」
意味がわからない。そんな複雑な感情、訳がわからないよ。
そう抗議しようとした。
そして次の瞬間には、私は目を覚ましていた。 天井が視界に入り、夢から覚めたのだと突きつけられる。本当に突然だった。前触れも何もなかったのだから。
上体を起こし、机の上に置いたブレスレットに視線を向ける。せめて持ってて欲しいんだ……。彼の言葉が蘇り、ベッドから這い出ると、私はそれを腕につけてみた。
改めて見るとフレッシュな黄色と、鮮やかオレンジ色をしている。まるで太陽をイメージしたような、そんなブレスレット。こんなの私には身に余る代物だ。けれど外す気にはなれず、そのまま登校することにした。不思議と口角が緩む、そんな思いで。
その日の夜、打ち上げを楽しんできたことを望月くんに話そうと眠った。
それなのに、本当に夢を見なかった。望月くんに会わなかった。私はただ普通の夢を見て、翌朝、目を覚ました。
会わなかったことにも驚いたが、普通の夢を見たのも久しぶりで、そっちに驚いてしまう。まるで、あの夢の場所が終わったかのような……。
血の気が引いていく。でも、以前より取り乱すことはなかった。ブレスレットに触れる。これがあるからだろうか……。望月くんの言葉を思い出した。
彼が言うように、私も心強さを感じる。一人じゃない。会えなくても、これをくれた人はこの世にいる。
それは、苦しさを伴う支えを感じた。ようやく分かった。望月くんの言っていた気持ち。
それに、望月くんは、夢の終わりが来ることを分かっていたのだ。その上で私にブレスレットを渡してくれた。現実で関わりのない私たちの、唯一の繋がりとして。
ブレスレットの上に、雫が落ちる。落とす場所を指で触れると、初めて泣いているのだと気付いた。
「これで、終わりってこと?」
私、泣いてる。涙がぽろぽろと溢れて止まらない。胸が苦しい。苦しいのに、心に宿った力強さが、私に前を向かせようとする。あれは所詮夢だった、望月くんが同じように心強さを感じてくれるように、現実で頑張って生きようと思わせてくる。
それでいい。そんな風に望月くんが笑うのも、想像出来てしまった。 登校中、花乃子に夢を見なくなったことを話すと、彼女は嬉しそうな、それでいて安心したように口角を緩めた。
「歩咲からしたら良くないことなんだろうけど、私は安心したよ。これをきっかけに、望月さんに話しかけてみたら?」
「……無理だよ」
「どうして?」
「望月くんは、私に、自分の人生に入ってきて欲しくないの」
「そんなこと……」
「私も……私も、望月くんが、私の人生に入ってきたら、怖い。嫌われたら、怖い。見放されたらって思うと……」
ああ、そうか。言っていて、やっと気付いた。あの時だけ、あの瞬間だけの関係だから、私たちは気が楽だったのだ。
待ち合わせをしていなくて、ただそこに居合わせただけ。コンビニの店員さんとお客さんのような、毎日電車で顔を見るだけのような、エレベーターでただ一緒に乗っただけのような、顔も知らない人と文通を楽しむだけみたいな、そんなほとんど顔見知り程度の無関係の状態が心地よかった。
だから私たちは頑なに学校では関係を持ちたくなかった。
でももうそういう問題じゃなくなってきている。
「もう離せなくなりそうで、でも拒絶されたらって思うと、怖い。怖いよ、花乃子」
恐怖心が押し寄せてくる。思わず花乃子にしがみついた。想像してしまった。想像すると足が崩れそうなくらい怖くて、だったら、と私は続けた。
「今のままでいい。今のままだったら、私の中の望月くんはあの場所にいる優しい望月くんのままだから」
彼女の華奢な肩に掴まりながら、今の思いを吐露した。これが本音だった。だから私は会いに行く選択肢を取らないし、このブレスレットを彼だと思って大切にしたい。「素敵な別れをしたからこれでいいって?」
顔を上げると、花乃子は呆れたように目を細くしていた。
「別に歩咲の人生だからどう生きてもいいと思うし、夢に取り込まれないなら私はそれでいい。ただね、魔法がもう解けたのだとしたら、それがどういう意味かしっかり考えた方がいいよ」
花乃子の言葉に首を傾げた。剥がされて、じゃあね、と手を振られる。別の高校へ向かう背中を見送って、私も学校へ向かった。
やがて季節は、冬を迎える。
時間が経つにつれ、花乃子の言っていた意味が分かってきた。
本当にあれっきり、望月くんと夢で会わなくなった。私はそれなりに楽しい学生生活を送れていると思う。
けれど朝を迎えるといつも虚無感と寂しさに襲われる。花乃子の言葉の意味を思い知らされる。最近は特に冷えるから、余計に。生きることを諦めたくなるくらいに。
あの日から、望月くんを学校で見かけることも減ったような気がする。まるで、避けられているみたい。
だからって、やはり直接会いに行こう、とは思えなかった。いや、少しは思ったが、踏み出せなかった。二年生の教室が並ぶ階まで足を運んだこともあるが、それでも足が竦む。未知の世界でもないはずなのに、よそよそしく、私の入るべき場所じゃないと言われているようで、進めなかった。
十二月の中頃にもなると、ちらほらと雪も降る日が増えた。私はぼうっと窓の外を眺め、雪の落ちる先を追う。
授業中だが先生の声を右から左へ流して自然とグラウンドに視線を落とす。
そこに望月くんを見つける。久々に見た彼は寒そうに、体操服のジャージから手を出さないで震えている。少し、やつれたかもしれない。
彼から視線を外さなかったが、いつかの日みたいにこっちを見ることはなかった。
いや、視線を、外せなかった、の間違いかもしれない。
あの時とは変わってしまった私たち。 それでも、私の気持ちはまだ答えを見つけられずに、ただ望月くんとあの場所を求めている。
そんな日々を送っていると、たまたま屋詰さんと玄関先で会った。終業式も前日に迫った日のこと。
「久しぶりだな」
「ですね」
二人で校舎を出る。空を仰ぐと曇り空で、雪が舞っている。今日も冷えるな、と自分を両腕で抱きしめると彼の視線が手首に向けられた。そこにあるのは、ブレスレット。
「これ……望月くんから、貰ったんです」
「うん、だろうな。あいつが石を選んで、作ってたの見てたから」
「そうなんですか?」
「て言っても、わりと即決で決めてたよ。よく似合いそうだろって言われたからさ、あの子、そんな明るいイメージあったっけって冷やかしてやった」
「相変わらず無礼な人ですね」
思わず睨みつける。屋詰さんはくすくすと笑って続けた。
「悪い。そしたらさ、あいつ、星村は俺にとって太陽みたいだからって臭いこと言ったんだ」
「太陽? ……大袈裟な」
悪態をついたが、顔が熱くなるのを感じて、マフラーで口を隠した。にやけてしまいそうだったから、せめてそれだけは隠したかった。
「歩咲ちゃんさ」
屋詰さんは立ち止まると、私を呼んだ。私も立ち止まって振り向く。いつもの無礼なことを言う雰囲気はなく、ただ真っ直ぐに私を見つめてくる。まるで年上らしく。
「もう、夢で会わなくなったんだってね」
「はい」
「俺、花乃子とさ、その現象について考えてたんだよ。何で二人が夢で会い、そして会えなくなったのか……。会うようになった理由は分からないけど、会えなくなった理由は、君が孤独じゃなくなったからだと思う」
「孤独じゃなくなったから?」
「うん。いっせから聞いたけど充実してるんだろ。青春を謳歌してるようじゃないか」
「別に。そんな……」
「いや、俺も文化祭の時に君を見て、こんなに明るい顔してたっけって思ったよ」 今までそんなに暗い顔だったのだろうか。思わず頬に触れると私の気持ちを汲み取ったように「初めて会った時は酷い顔してたよ」と補足される。いらない補足に再び睨んでしまう。でも、と屋詰さんは続けた。
「今は、寂しそうな顔してる」
どきりと、した。言い返す言葉も思い付かない。図星だった。
毎日、毎日、寂しい。生きるのがしんどい。
でも、私が消えたら、と思うと、悲しむ人達の顔が浮かんでしまう。その中にはもちろん望月くんもいる。きっと彼は私がいなくなったら傷付く。望月くんを、悲しませたくない。だから踏ん張って生きようと思える。
「望月くんも、孤独だって言うんですか? あんなに周りに人がいるのに」
これ以上、私の心に踏み込んで欲しくなくて話題を変えたが、屋詰さんは歩き始めると私を追い越していく。私も慌てて背中を追いかけた。
「俺はいっせが孤独を感じないようにいつも傍にいた。だから分かるんだ、俺じゃ埋められないって。あんたの言う通り、他にも周りに人はいるがいっせはそいつらに心を開いていない。……孤独かどうかはその人の心が決めるもんだろ」
彼の言葉に、私は俯いた。身に覚えがあったから。
私も心を閉ざした。私が孤独になったのは私自身が原因なのだから、心を閉ざすなんておこがましいのかもしれない。それでも、私に味方はいないと感じていた。
実際には、蒼菜や、花乃子、紬がいたのに。
「着いてきて欲しい場所がある」
「へ……どこですか?」
「それは着いてくれば分かる」
そう言うと口を結ぶ。言う気はないらしい。仕方ない。ため息を殺して着いていくことにした。
電車を五駅乗り継いで、閑静な住宅街を抜けると、連れていかれた場所は公園だった。その公園には見覚えがある。
ブランコ、滑り台、砂場と屋根のついたベンチがあるだけの小さな公園。私はベンチに向かって歩みを進める。
夢の中で見た場所だ。あのベンチで、望月くんは泣いていた。あの時と同じように腰をかけると、その横を屋詰さんが座った。
「ここ、夢の中で見た公園です」
「やっぱりそうか。……ここは、いっせにとって、大事だけど、壊してしまいたい、そんな場所なんだ」「壊してしまいたい?」
私が首を傾げると、彼は頷いた。
「ここで、何度も何度も母親に捨てられたんだ。いっせの母親は浮気性で、彼氏が出来れば夫と子どもを置いて駆け落ち同然のことをする女性だった。その度にいっせは家から近いここに連れてこられて、ここで待っててねって言いつけられたそうだ」
「なんで、そんな……」
「……今にして思えば、母さんも俺を連れていくかどうか悩んでたんだと思うって、いっせは言ってたよ。あいつの父親はそんな母親を許す人だった。一見それは美徳に思えるだろうが、何度も自分たちの元に戻ってきては捨てていく母親の背中を見続けた子どもの気持ちを考えると、とても健全な環境だったとは思えない」
私は拳を握りしめた。
自分と、重ねた。私のことを忘れた母。そんな母を許し、私を糾弾した父。
子どもの頃、親が全てだった。親が私の世界を作っていた。両親は神のような存在で、私たちは神様に見て欲しくて、愛されたくて、つい期待を抱いてしまう。
けれど神様は私たちを見てくれない。愛してくれないし、裏切るし、捨てられる。神様は自分勝手なただの大人だと認識を変えたあの日、私は母を傷付けた。
「望月くんは……親とは、どうなったんですか」
「いっせの母親はもう何年も帰ってきてない。父親は、ほとんど家に帰らなくなった。月初めに金だけを置きに帰ってくるくらいだ。一応、成人するまでは面倒見るからって親父さんに言われたっていつだったか話してたよ」
安心出来る、終わりじゃない。
私は、もう両親と話し合う気はない。話しても無駄だと思うから。このまま学生を続け、いつか家を出られたらと考えている。
けれど望月くんは、安心出来る終わりじゃない。その証拠に望月くんはこの公園の夢を見たのだから。
彼は、まだ待っているのだ。
「いっせは今日……今日だけじゃない、よく休むようになったんだ」
「え、そうなんですか?」
屋詰さんが頷いたのを見て、だから学校で見かけることが少なくなったのだと納得した。「最近バイトを何個か始めたみたいで、働き詰めらしい。家には寝に帰るだけって聞いた。……けど、あんまり寝れてないみたいでさ」
屋詰さんは、歯を噛み締めて悔しそうに続けた。
「歩咲ちゃん、君に散々きつく当たってきたこと、許されることではないと分かってるけど君にしか頼めない。いっせを助けて欲しい」
驚いた。彼が頭を下げたことに、じゃない。私は手を横に振った。
「わ、私がですか? 私なんかじゃ……。大体、助けるって、何を」
「目に見えていっせはやつれてきている。あいつは寝れないんじゃない、寝ないんだ。俺、何度か家へ覗きに行ったんだけど、その度に悪夢にうなされてて……。君なら、助けられるんじゃないか」
勢いよく肩を掴まれ、必死の顔で訴えかけてきた。
「夢の中に入って、あいつを助けてやってくれないか!」
揺さぶられ、その力の強さに、いた、と声を漏らすと、我に返ったようで、悪い、と手を離してくれた。バツの悪そうな顔。必死だった顔が頭から離れず、私は、自分の無力さを恨んで俯いた。
「私なんかじゃ」
「いっせが孤独を感じないようにいつも傍にいたけど、友達が埋められるものって限度があるんだ。知ってるか? 恋愛ってのは親から与えられた愛情の延長線らしい」
「それってどういう……」
顔を上げると、屋詰さんは切なそうな顔をして「頼んだぞ」と念を押してきた。
彼が残した言葉の意味を考えながら、帰路に着いた。それから望月くんの過去を思った。見ていないのに、聞いただけでも苦しみが伝わる。心を閉ざすのには十分だ、と思える。
空を仰ぐ。相も変わらず厚い雲に覆われている。
屋詰さんの言うように、もう一度、夢で逢えたなら。その時は何を話そう。
私は望月くんに学校で出会う前日のことを思い出していた。 翌日、花乃子といつものように登校をして、明日はクリスマスだねえ、と軽く話をして、学校へ向かう。教室内も冬休みとクリスマスを目前にして浮き足立っていて、遊びに誘われたり、紬からまたお泊まりの提案をされたりして、終業式を終える。
紬から一緒に帰ろうと誘われるが、私はそれを断って、生徒たちが帰るのを、階段に腰掛けて眺めていた。
今の私は、青春の真っ只中。私の生活の背景に青春がある。
でも、そこに、望月くんはいない。
望月くんは、私の憧れだった。初めて見た時、学校で彼を見かけた時、酷く惹かれた。その輝きに焦がれた。私もあの中にいたい。話をしてみたい。彼と青春を、謳歌したい。そう強く思った。
でも、強く思えば思うほど、私には無理だと悟ってしまう。それが出来ていたのなら、あんなことにはならなかったと、絶望を繰り返した。罪はいつも後ろにいて、その時も私を酷く糾弾した。
生徒がいなくなると、私は階段を駆け上がった。一番上の階は屋上に出られないよう、柵を設けられている。けれど登ろうと思えば全然登れて、更に扉には鍵がされていたのだが、誰かが壊したのか、簡単に開くことが出来た。
屋上に出ると、冷気を含んだ風が駆け抜けていった。寒い。屋上を囲う柵に近付いてグラウンドに視線を落とす。今日からは部活もないから、ガランと寂しげにそこにあるだけ。頬杖をついて、そのまま眺める。
いつだって、望月くんのことを考えていた。友達と笑い合う時、食堂にいる時や、授業を受けている時。私は笑っているのに、青春を謳歌しているのに、いつも寂しかった。
本当は、この気持ちの正体にも気付いている。見ないふりをすることで私の中で綺麗に残しておきたかった。
魔法は、解けた。
私は、もう一人じゃない。
けれど、一番傍にいて欲しい人と、どうやって関係を始めたらいいのか分からない。いつも、気付いた時には始まっていたから……。 家に帰ると、リビングで両親と蒼菜が席に着いて談笑していた。その横を素通りしようとしたが、蒼菜に腕を掴まれてしまう。
「お姉ちゃん、明日楽しみだねっ」
「明日? ああ、旅行か……」
両親に視線をやると二人ともニコニコと笑みを浮かべている。
結構前に蒼菜が提案していた旅行を、クリスマスにしようと決めたのは、意外にも父だった。それも私も参加で考えているらしくその意思は変わらないらしい。
まさか私もなんて。
母は旅行が決まってからみるみる回復していった。一時は私に怯え、やつれていたが今ではすっかりふっくらとしてきている。
「本当に私もいいの」
「当たり前じゃない。歩咲との思い出は空白なんだもの、今から埋めていかなきゃ」
話しかけてもこの調子で、普通に返してくれる。私は頷くと自室に着替えに向かった。
普通の家族に戻れたのだろうか。あの人たちと話し合う気はもうないし、このまま現状維持を続けて、いつか家を出らたらいいと考えている。
けれど普通の家族に戻れたのなら、と思うと心は幾分楽になる。そのいつかが来るまで、気が重くならないで済むのだから。
それもこれも、蒼菜のおかげだな。蒼菜が旅行を提案してくれたから母は前向きに考えてくれたし、父も家族として私を受け入れてくれた。
「お姉ちゃん」
噂をするとなんとやら。と言っても私の中でだけだが、部屋の入口からひょっこり顔を出す妹に向かって「ありがとう」と感謝を述べてみた。
蒼菜は驚いたようで目を見開いたあと、部屋に入ってきてはにかんだ。
「えへへ、良かった。明日は楽しもうね」
「うん」
頷いて、二人でリビングへ戻った。 翌朝、キャリーケースを持って四人で車に乗り込むと京都へ向かった。車内では蒼菜を中心に盛り上がり、クリスマスソングを歌って、楽しいドライブから始まる。それなりに楽しくて、それなりに笑顔を浮かべて……。
どんどん離れていく地元。県外を出ると、私は、自分が無理に笑っていることに気付く。離れたくない、と思ってしまう。その思考の先に、望月くんがいた。
京都に着くとまずは旅館に車を停め、観光へ向かった。清水寺へ行き、金閣寺や銀閣寺を見て、食べ歩きをして、蒼菜が写真映えを求めたスポットを紹介してくれて、写真映えに特化したスイーツ、食事をして、やがて日が暮れ、私たちは旅館へ戻った。
旅館でも食事をして、温泉に入って、卓球に勤しんだ。
こんなに家族でなにかをしたのは久しぶりだった。お風呂だって、母と入った記憶はなかったが今回一緒に入ってくれた。卓球ではしゃぐ両親を見て、嬉しそうに笑う蒼菜も見れた。来てよかったな、と心から思う。
いつの間にか、私の中の両親へのわだかまりも解消されていた。完全に、という訳ではないが、旅行マジックと言わざるを得ないだろう。蒼菜の言う通り、楽しい時は、好きとか嫌いとかそれまでの悩みが全部気にならなくなる。
部屋に戻って両親は晩酌を始め、私たちはジュースで乾杯する。買ってきたお菓子をつまみながら、蒼菜が口火を切った。
「楽しかったねえ、お母さんったら今日すごく食べたんじゃない?」
「だってせっかくの旅行だもの。それに蒼菜が行きたいって提案してくれた、写真映えスイーツも本当に可愛くて」
確かに蒼菜の次に母が喜んでいたかもしれない。父が「若返った気分だろ」と茶化す。
「本当にね。今は見た目も楽しめて、いい時代になったわあ」
「お母さんおばさんくさい」
ドッと笑い声が巻き起こる。その中に私もいた。自然に笑えていた。ずっと、望月くんのことを頭の片隅に残していたが、笑うことが出来ていた。
「また来たいね」
私がそう言うと、父はピタリと動きを止めた。母も笑顔を引き攣らせる。 ……何かまずいことを言っただろうか。首を傾げると、父は私に向かって言い放った。
「これが、最初で最後になるだろう」
「は? ……ああ、そうなの。まあそうだよね、そんなポンポン行けるもんでもないし」
そりゃそうだ。納得しかけたが、父は頭を振った。
「そうじゃない。今日はそのことも話そうと思ってな」
二人は座り直し、私と蒼菜は顔を見合わせて、同じように座り直した。
「歩咲、お母さんが今もカウンセラーを受けているのは知ってるな?」
「……うん」
母が回復をしていってるのは明白だが、まだ完全に、という訳ではないらしい。だから週に何度かカウンセラーを受けている。それがどうしたのだろう。
「お母さんは今も悪夢を見たり、フラッシュバックに襲われるんだ。知らなかっただろ?」
「知らなかった……」
今の母は、私の前では普通に見えたから。チラリと母を見ると、目を伏せて、私を見ないようにしていた。
「今でもやっぱりお前が怖いんだと。だから今回の旅行の提案を受け入れることにした」
「どういうこと?」
「この旅行は、お前の送別会だ」
「はあ?」
全く、意味が分からない。けれど、冷や汗が流れる。心臓がバクバクと音を立てる。頭は理解していないのに、身体が、あの感覚を思い出す。
「カウンセラーの先生が言うにはな、こうなった原因を遠退けるのが一番いいらしい。歩咲、お前を親戚の家に預けることにした」
「……はあっ?」
裏返った声に驚くように立ち上がった。当然だが驚いたのは声じゃない。
「隣の県に祖父母がいるだろ、そこに預けることにしたから。もう話は通してあるから、年始に向かいなさい」
「ま、待って、待って。学校はどうするの?」「そこから通えばいいしお前が望むなら転校だってしていい」
淡々と言ってのける父が、人間に思えなくて立ちくらみをしてしまう。よろついた私を蒼菜が支えてくれた。
「何それ! そんなの、聞いてないよっ。蒼菜、お姉ちゃんと離れたくないよ!」
妹が護衛に入ってくれるが「だったらお前もそこに行けばいい」と返されてしまう。横から絶句した気配が伝わってきて、私は、蒼菜からそっと離れた。
「大丈夫、蒼菜。蒼菜はお父さんたちと住みな……」
「お姉ちゃん、そんな」
悲しそうに眉をひそめ、首を横に振る妹に微笑みかけ、私は父と母を睨みつけた。
父はその視線を受け止め、母は相変わらず目を伏せ、よく見ると肩を震わせている。私がテーブルを叩くと、その肩が大きく揺れた。
「そういうこと。私を捨てるから、これが最後だからってあんなに笑顔だったんだ」
「そんな言い方をするな」
「だってそうでしょ、私の都合も考えないで親の勝手で学校も変えさせて。私、今あの学校から離れたくないのに」
私の抗議も、面倒くさそうにため息をつかれた。
「お前が嫌なら、俺たちが移住してもいい。幸い、ネット環境があればどこでも出来る仕事だからな」
「何それ……」 足先から、冷えていくのを感じる。髪を引っ張られているように頭が重い。ただ私を見ているだけの視線が突き刺さる。被害者面するその姿勢がより私を遠ざけ、人畜無害な、心配した顔が、私をこの輪から省いているように見える。
あの感覚だ……。私は、財布とスマートフォンを手に取ると、部屋を飛び出し、旅館を抜け出した。
走って走って、足がもつれ、息が切れ、いつの間にか流していた涙で視界が歪む。どこへ行っても、誰も私を知らない。私の知らない場所、知らない匂い、知らない人たち。
孤独だ。私は、一人だ。死にたい。……死にたい。私が消えたって、きっとあいつらは悲しまない。こんな知らない土地で息を引き取っても、誰も私を見つけられない。見つけられないじゃないか。
望月くん。
ついにもつれた足を踏ん張ることが出来ずに転んでしまう。寒さのせいで、痛みが突き刺さった。
痛い。痛いよ。何が家族団欒だ。何が家族旅行だ。何が、普通の家族だ……。
立ち上がってふらふらと歩くが、悔しくてたまらなかった。
その時、目の前がパッと明るくなった。反して、身体が硬直するようなけたたましいクラクションが鳴り響く。音のする方を咄嗟に振り向くと、鬼気迫る勢いで車が目の前に迫っていた。
「望月くん」
「星村。文化祭、回ろっか」
「え」
近寄ってきた彼に手を取られ、校舎の中に入る。夢の中だからだろう、この時間には片付けていたはずなのにまだお店は営業していて、しかし生徒たちの顔はどこかぼやけ、誰なのかは分からない。お金も払う必要はなく、注文だけで商品が手に入った。
「はい、星村。このまま体育館へ行こうか」
ポテトフライを手渡され、ありがとう、と返す間もなく手を引っ張られる。
なんか、変だ。
繋いでいる手を、振りほどくことが出来ない。人の間を縫って歩きながら、私は彼の背中に、ねえ、と呼びかけてみた。
振り向かない。やっぱり、なんか変だ。
「望月くん、ちょっと、ねえ、なんか変だよ、怒ってる?」
無視される。無視されていい気がする人間もいないだろう、眉間に皺が寄ってしまう。
「ねえねえねえねえねえねえねえねええ」
子どもみたいに、しつこく言い続けるとやっと振り向いた。けれどその顔は、怒っている訳でも、このしつこさに笑っている訳でもなく、寂しそうな表情を浮かべていた。
何て顔してるんだ。思わず言葉を詰まらせた。
「星村は、もうここには来ないんだろうなって……思って」
「は? 来てるじゃん、どういうこと」
「いや……そう仕向けたのは、俺だからいいんだけど」
「はあ……何言ってんだか」
私はため息をつくと、肩で突進してみた。うわ、と短い悲鳴を上げてよろめくが、さすが男の子なだけあって私を支えるように体制を立て直す。 彼の顔を覗き込んではにかんでみせた。
「何をそんなしょぼくれてるのか知らないけど、私たちだけの文化祭楽しもうよ。こんな青春、私たちだけだよ」
少し元気になったらしい。見開いた目を細め、口角を上げて、そうだな、と呟く。私はもう一度肩で突進してみせ、歩き出した。
「体育館って、なんで?」
「知らない? バンドとか、ダンスとか、そういった出し物が見れるんだよ」
「へえ! そうだったんだ、楽しそうだなあっ」
自然と胸を躍らせる。足早に向かうと彼も着いてきてくれた。
望月くんが言っていたように、体育館の壇上ではダンスが繰り広げられた。一年生も、二年生も、三年生も、ここでは無邪気な顔で踊る。腕を振り上げ、足を駆使して、重心を傾けて、全身で表現する。
思わず、うわあ、と感嘆の声を上げてしまう。
当てられた照明も彼らが物にしている。華麗に、かっこよく、そしてときめきを覚えてしまうほどに輝いて、笑顔を振りまく。たまらず拍手を送った。
バンドも、迫力のある演奏や心を打たれる歌詞が胸に響いた。自然とこの空間が、この時間が、隣にいるこの人が大切で大事だと感じさせられる。胸が締め付けられる。
壇上の人達がこの場の主人公だと分かっているのに、私もそうな気がして、青春の短さに苦しさを覚えてしまう。この刹那を愛したい。苦しさの正体は、きっとその気持ち。
全ての出し物の終わりを迎えると私たちは体育館を後にした。
「さすが夢の中だからか、より迫力があったというか、近くに感じられたね」
「だな。次は謎解き行ってみるか」
「へえ、そんなのあるの?」
「ああ、三年の教室に。行こっ」
走り出した背中を慌てて追いかける。人が多すぎて、彼の背中を見逃さないように私も足を早めた。楽しい。ただ走っているだけなのに、そう思える。望月くんといるだけでこんなに楽しい。 私たちは一通り遊んだ。スーパーボールすくいや、射的、カラオケ大会とか、展示を見たり、食べたいものを食べ尽くして、遊び尽くしてキャンプファイヤーの前で一息ついた。
不思議と、灯火に照らされた横顔が美しく見える。触れてみたい、と思えてしまうほどに。楽しくて、嬉しくて、浮かれた一日の終わりに、穏やかな感情に包まれる。望月くんが、綺麗だから。
クラスで眺めていた気持ちとはまた違う感情に身を任せてみた。
「何?」
触れた頬には温もりがない。振り向いた顔が、いつもよりも儚く見える。望月くんってもっと逞しい顔してたんじゃなかったっけ。逃げていきそうな、火に溶けてしまいそうな、危うさを滲ませている。
「何もない。楽しかったね、文化祭」
引っ込めた手で彼の服の袖を掴む。望月くんは、ああ、と微笑んだ。
「本当に楽しかった。来年も期待だな。……そうだ、星村、あいつに言ってくれたんだってな」
「あいつ?」
「元カノ」
ああ……。呻き声にも似たような声を出してしまう。それほどまでに、嫌な気持ちをあの時抱いたから。
「その場にいた奴から聞いたんだ。俺のためにすげえ啖呵切った子がいたって。ありがとう」
「……いや、別に。その場にいる人みんなが気分悪くなるようなこと言ってたんだよ」
「それでも言ってくれたのは星村だけだろ。星村は、かっこいいよ」
私は頭を振った。かっこよくなんかない。私なんか、最低な人間なのだ。
望月くんは後ろ手を地面につけると、力なく、あいつみたいな奴結構いるんだ、と告白した。
「あいつみたいなって……」
「俺を、犬とか、アクセサリーみたいに思ってる奴。連れ歩くと自分をよく見せられるって思い込んでるんだ。その人はその人なのにな……。女の子だけじゃない、男も。例えば、ナンパするために連れていく、とかな」
彼の言葉に誘導され、つい海の日で会った時のことを思い出す。あの時見せていた顔とは違って、どこかやさぐれたような、拗ねたような表情。私は首を傾げた。「彼女と別れたから気を使って誘ってくれたって」
「その気持ちも嘘じゃないと思う。でも連れ歩けば……って気持ちも、あいつらにはあるんだよ」
投げやりな言い方をしているが、そういえば、と私もあの時違和感を覚えたことを思い出す。やけに望月くんを持ち上げていた。まるで、頑張って貰わなきゃ、と言わんばかりに。
「俺の周りにはそんな奴ばっかりなんだ。元カノは違うって思ってたけど、時間が経てば人は変わるんだな……」
ため息を落として、膝を抱えて座り直し、キャンプファイヤーに視線を投げた。
「俺、時間が経つのも、人が変わっていくのも、怖いよ。このままじゃいられないのかな」
ああ、だから。ここに来た時の彼の言葉を思い出す。不安であんなことを言ったのか。
「あのね、望月くん。私は……私も、変わっていく人たちが怖かった。今まで仲良かった人が私を見放した時の目……今でも、思い出すと、怖い。……でもね、怖いだけじゃないんだって今日分かったの。一人ぼっちだった私の周りには今たくさんの人がいる。望月くんの言うように、そういう場所を作れたんじゃないかって思うの。だから、変化も悪い方に変わっていくだけじゃないはずだよ」
「星村……」
顔を上げたが、やはりどこか力ない。
私は、ずっと頭の片隅にあったあのことを話そうと決めた。
「……あのね、望月くん。望月くんが、私の教室を見に来てくれた時に来た女の子たちなんだけどさ」
「うん」
口を真一文字に結んで、話を聞く体勢を取ってくれる。緊張していたが、何となく安心できて、一息ついてから続けた。
「あの子たちは私の中学時代の友達……だった。私に一番突っかかってきたボブの子をリーダーにしてね、当時……虐めがあった。ターゲットはクラスでいつも一人でいた女の子。その時はあの子たちとは友達じゃなくて、私にも自分のグループがあった。言い訳みたいになるけど、虐めは彼女たちグループの中だけで蔓延してたみたいで知らなかったの。それで、ある日知ることになるんだけど知ったその日に彼女たちと友達になった」
今でも思い出せる。 ターゲットの子はいつも髪の毛はボサボサで、服も皺が寄って汚れていた。肌もくすんで見えて、一言で言えばみすぼらしい女の子。そういう家庭の子なのだろうと思っていた。
虐めを見かけたのは本当に偶然だった。帰宅途中に立ち寄ったコンビニで、彼女がお菓子を鞄に入れたのを見つけた。驚いて声もかけられずにその後を追うと、山田たちが彼女を出迎え、意地悪な笑みを浮かべ、叩いたり、押したりしてからかっているのを見てしまう。
虐めだ。
一目で分かるくらい、中心にいる彼女は怯えきっていた。
私は尾行し、集団が解散して彼女が一人になったところで近寄った。最初は渋っていたが、目に物見せてやろうと提案すると虐めの全貌を話してくれる。
最初は、仲良かったそうだ。けれど、空気が読めないから、とか、叩くと面白い反応をするから、という理由で中学一年から三年の時までずっと虐められ続けたと吐露してくれた。
とりあえず彼女にはしばらくそのままでいて欲しいとお願いした。私に考えがあるから、と。絶対に失敗しない、そして立場を逆転させてやる。そんな約束をした。
私には、実績があったから。母という実績が。
「友達になってから、私も同じようにターゲットの子を虐めた。ただ、私たちは裏で繋がっていたから、彼女たちの信用を得るためだってターゲットの子も知ってた。更にクラス全員と仲良くなって根回しをした。それでね、ようやく信用を得られたって確証ができた日に、私はあの子たちをみんなの前で酷く傷付けた。傷付けるのは、簡単だった」
まずは彼女たちの虐めを暴露してやった。クラス全員の刺す視線を受け、青ざめていた。裏切った私を睨みつけ、私も同じことをしていた、と糾弾される。
けれどそこは作戦通り。私とターゲットの子は繋がっていたし、実は直接的にあの子を虐めることはしなかった。ただ傍で笑っていただけ。あの子はそれだけでも嫌だっただろうが、許してくれた。
私が彼女たちを地獄へ追い込んだから。 まずは、おかっぱ頭のカッパちゃん。そう名付けた。それからみんなで無視をするように仕向けた。次第にその空気は彼女たちをいじめのターゲットへと働きかけた。家にも嫌がらせをし、教室内でも嫌味を言い続けた。
「虐めて自分が優位に立ってるとでも思ってた? 下の下の人間なのにねえ、人間でもないか、人間以下。これはね、あなたたちの罰なんだよ、人間以下を人間にするための罰。いわば洗礼。生まれ変わりたいでしょ?」
「何か臭いと思ったら発生源あんたじゃん。ねえ、みんな、消臭しなきゃね?」
「万引きさせてたんでしょ? 証拠の写真あるからこればらまいちゃおっかなあ。あ、彼女のことはご心配なく。親にも店の人にも正直に謝って許してもらえてるから。それよりあんたたちだよねえ、こーんなことして、ふふ、一番近くで見てたから証拠の写真も動画もあるんだよ、流出させちゃおっかなあ」
虐めの空気は加速していった。私は、やはり最低な人間で、人助けをしている気分に浸っていたのだ。
その空気がいつしか破綻する。クラスメイトたちは、私のノリについてこれなくなった。
当たり前だった。ほとんどの人間は、他人のことなんてどうでもいい。更に私の言葉は彼女たちに留まらず、クラスメイトたちにも厳しい言葉を投げかけるようになる。
「え、その髪飾り似合ってないよ。馬鹿でかいリボンのせいで馬鹿に見える」
「あの番組やらせ感凄いよねえ、え? 面白いからいいじゃないかって? やらせかやらせじゃないか分からないからそんなこと言うんでしょ、真実の目を持たなきゃ」
「点数ひっく! こんなんじゃ高校行けないよ!」
自分を棚に上げて人を下げて笑いを取る。私はそんな人間に成り下がっていた。
卒業する頃には、私は一人になっていた。元々のグループの子達からは「歩咲といると最低になる」と見放されてしまう。ちょうど、望月くんと夢で見たあの時の夕焼けに似た真っ赤な教室の中で。 今思えば、思うままに人を動かせたから王様のような気分でいたのだ。最後までどこか人助けの気持ちもやっぱりあった。そうなるまで、私のしでかしたことが最低なことだとは気付けなかった。
それからは自己嫌悪の日々。最低なことをみんなに言ってしまった、という自覚に毎日押しつぶされそうになって、家での孤独感も相まって、疲れてしまった。
唯一かつてターゲットだった彼女からは感謝されたが、私の気持ちは晴れなかった。
本当に、誇れた話じゃない。
この全貌を望月くんに話すと、途端に恐怖に襲われる。だから私は彼からそっぽを向いた。
「これが全て。今日、クラスメイトたちは庇ってくれたけどとても自慢げに話せたもんじゃない。……最低だって言われる覚悟は出来てる。それでも、今の私はあんな最低なことを、もうしない。私はあの頃とは違う自分に変われたことを自慢に思う」
望月くんは何も言わない。そのせいで、鼓動が激しく鳴る。怖い。どうしよう。身体が震えてきてしまう。
でも、私は今の自分が好きだ。変わった自分が好きだ。
彼の口が動く気配がする。私は身構えた。
「……そうだな、俺から見ても、星村はいい方に変わったよ」
思わず彼の方を向くと微笑んでくれていた。その笑みは糾弾するものではなくて、安心した。
「最低って言わないの?」
「まあ、やりすぎたとは思うし、恨まれても仕方ないとは思うけど。大丈夫。星村はそれが最低なことだってわかったんだ。だから、今の星村がいるんだろ。それでも罪の意識を感じるなら、ずっと感じ続けること、忘れないことが、星村に出来る唯一の償いだと俺は思うよ」
そう言ってはにかむ。
忘れないこと。心の内で反芻してみた。 山田たちがしたことは最低なことだし、許されない。けれど私のしたことも最低なこと。例え、あの子に感謝されたとしても、山田たちの心には傷が深く残り、かつてのクラスメイトたちを傷付けたことは謝ったって許されることではない。
忘れないこと。だから、忘れずに、ずっと罪の意識を持ち続けること。私は胸に手を当てて、刷り込むように繰り返した。
「俺も、受け入れられたらいいな」
「ん?」
「変わっていくことを。……それで、良い方に変わりたいって、思うよ。星村を見てると」
キャンプファイヤーに視線を投げた横顔を見つめる。
望月くんは素敵な人だ。不安に思わなくても、彼は既に素敵なのだから恐れなくてもいいだろう、と私は思う。
だから伝えようとしたが、その瞳が、どこか違うところを見ているような気がして言うことを憚られた。
代わりに、違うことを口にしていた。
「ブレスレット……」
「ん? ああ、沖縄土産だよ。星村はいらないって言ってたし、結構時間も経っちゃったけどさ。せめて、持ってて欲しいんだ。ここに来れない日が来ても」
「またそんなこと……」
私はわざと笑ってみせたが、望月くんは笑わなかった。
「俺を好きにならないで」
「望月、くん?」
見つめ返された目は、ただ真っ直ぐに私を映す。
「所詮、ここは夢の中だからさ……。だけど、俺を好きにならない星村が現実で生きてる。それだけで、苦しいくらい心強いから」
「何それ……」
意味がわからない。そんな複雑な感情、訳がわからないよ。
そう抗議しようとした。
そして次の瞬間には、私は目を覚ましていた。 天井が視界に入り、夢から覚めたのだと突きつけられる。本当に突然だった。前触れも何もなかったのだから。
上体を起こし、机の上に置いたブレスレットに視線を向ける。せめて持ってて欲しいんだ……。彼の言葉が蘇り、ベッドから這い出ると、私はそれを腕につけてみた。
改めて見るとフレッシュな黄色と、鮮やかオレンジ色をしている。まるで太陽をイメージしたような、そんなブレスレット。こんなの私には身に余る代物だ。けれど外す気にはなれず、そのまま登校することにした。不思議と口角が緩む、そんな思いで。
その日の夜、打ち上げを楽しんできたことを望月くんに話そうと眠った。
それなのに、本当に夢を見なかった。望月くんに会わなかった。私はただ普通の夢を見て、翌朝、目を覚ました。
会わなかったことにも驚いたが、普通の夢を見たのも久しぶりで、そっちに驚いてしまう。まるで、あの夢の場所が終わったかのような……。
血の気が引いていく。でも、以前より取り乱すことはなかった。ブレスレットに触れる。これがあるからだろうか……。望月くんの言葉を思い出した。
彼が言うように、私も心強さを感じる。一人じゃない。会えなくても、これをくれた人はこの世にいる。
それは、苦しさを伴う支えを感じた。ようやく分かった。望月くんの言っていた気持ち。
それに、望月くんは、夢の終わりが来ることを分かっていたのだ。その上で私にブレスレットを渡してくれた。現実で関わりのない私たちの、唯一の繋がりとして。
ブレスレットの上に、雫が落ちる。落とす場所を指で触れると、初めて泣いているのだと気付いた。
「これで、終わりってこと?」
私、泣いてる。涙がぽろぽろと溢れて止まらない。胸が苦しい。苦しいのに、心に宿った力強さが、私に前を向かせようとする。あれは所詮夢だった、望月くんが同じように心強さを感じてくれるように、現実で頑張って生きようと思わせてくる。
それでいい。そんな風に望月くんが笑うのも、想像出来てしまった。 登校中、花乃子に夢を見なくなったことを話すと、彼女は嬉しそうな、それでいて安心したように口角を緩めた。
「歩咲からしたら良くないことなんだろうけど、私は安心したよ。これをきっかけに、望月さんに話しかけてみたら?」
「……無理だよ」
「どうして?」
「望月くんは、私に、自分の人生に入ってきて欲しくないの」
「そんなこと……」
「私も……私も、望月くんが、私の人生に入ってきたら、怖い。嫌われたら、怖い。見放されたらって思うと……」
ああ、そうか。言っていて、やっと気付いた。あの時だけ、あの瞬間だけの関係だから、私たちは気が楽だったのだ。
待ち合わせをしていなくて、ただそこに居合わせただけ。コンビニの店員さんとお客さんのような、毎日電車で顔を見るだけのような、エレベーターでただ一緒に乗っただけのような、顔も知らない人と文通を楽しむだけみたいな、そんなほとんど顔見知り程度の無関係の状態が心地よかった。
だから私たちは頑なに学校では関係を持ちたくなかった。
でももうそういう問題じゃなくなってきている。
「もう離せなくなりそうで、でも拒絶されたらって思うと、怖い。怖いよ、花乃子」
恐怖心が押し寄せてくる。思わず花乃子にしがみついた。想像してしまった。想像すると足が崩れそうなくらい怖くて、だったら、と私は続けた。
「今のままでいい。今のままだったら、私の中の望月くんはあの場所にいる優しい望月くんのままだから」
彼女の華奢な肩に掴まりながら、今の思いを吐露した。これが本音だった。だから私は会いに行く選択肢を取らないし、このブレスレットを彼だと思って大切にしたい。「素敵な別れをしたからこれでいいって?」
顔を上げると、花乃子は呆れたように目を細くしていた。
「別に歩咲の人生だからどう生きてもいいと思うし、夢に取り込まれないなら私はそれでいい。ただね、魔法がもう解けたのだとしたら、それがどういう意味かしっかり考えた方がいいよ」
花乃子の言葉に首を傾げた。剥がされて、じゃあね、と手を振られる。別の高校へ向かう背中を見送って、私も学校へ向かった。
やがて季節は、冬を迎える。
時間が経つにつれ、花乃子の言っていた意味が分かってきた。
本当にあれっきり、望月くんと夢で会わなくなった。私はそれなりに楽しい学生生活を送れていると思う。
けれど朝を迎えるといつも虚無感と寂しさに襲われる。花乃子の言葉の意味を思い知らされる。最近は特に冷えるから、余計に。生きることを諦めたくなるくらいに。
あの日から、望月くんを学校で見かけることも減ったような気がする。まるで、避けられているみたい。
だからって、やはり直接会いに行こう、とは思えなかった。いや、少しは思ったが、踏み出せなかった。二年生の教室が並ぶ階まで足を運んだこともあるが、それでも足が竦む。未知の世界でもないはずなのに、よそよそしく、私の入るべき場所じゃないと言われているようで、進めなかった。
十二月の中頃にもなると、ちらほらと雪も降る日が増えた。私はぼうっと窓の外を眺め、雪の落ちる先を追う。
授業中だが先生の声を右から左へ流して自然とグラウンドに視線を落とす。
そこに望月くんを見つける。久々に見た彼は寒そうに、体操服のジャージから手を出さないで震えている。少し、やつれたかもしれない。
彼から視線を外さなかったが、いつかの日みたいにこっちを見ることはなかった。
いや、視線を、外せなかった、の間違いかもしれない。
あの時とは変わってしまった私たち。 それでも、私の気持ちはまだ答えを見つけられずに、ただ望月くんとあの場所を求めている。
そんな日々を送っていると、たまたま屋詰さんと玄関先で会った。終業式も前日に迫った日のこと。
「久しぶりだな」
「ですね」
二人で校舎を出る。空を仰ぐと曇り空で、雪が舞っている。今日も冷えるな、と自分を両腕で抱きしめると彼の視線が手首に向けられた。そこにあるのは、ブレスレット。
「これ……望月くんから、貰ったんです」
「うん、だろうな。あいつが石を選んで、作ってたの見てたから」
「そうなんですか?」
「て言っても、わりと即決で決めてたよ。よく似合いそうだろって言われたからさ、あの子、そんな明るいイメージあったっけって冷やかしてやった」
「相変わらず無礼な人ですね」
思わず睨みつける。屋詰さんはくすくすと笑って続けた。
「悪い。そしたらさ、あいつ、星村は俺にとって太陽みたいだからって臭いこと言ったんだ」
「太陽? ……大袈裟な」
悪態をついたが、顔が熱くなるのを感じて、マフラーで口を隠した。にやけてしまいそうだったから、せめてそれだけは隠したかった。
「歩咲ちゃんさ」
屋詰さんは立ち止まると、私を呼んだ。私も立ち止まって振り向く。いつもの無礼なことを言う雰囲気はなく、ただ真っ直ぐに私を見つめてくる。まるで年上らしく。
「もう、夢で会わなくなったんだってね」
「はい」
「俺、花乃子とさ、その現象について考えてたんだよ。何で二人が夢で会い、そして会えなくなったのか……。会うようになった理由は分からないけど、会えなくなった理由は、君が孤独じゃなくなったからだと思う」
「孤独じゃなくなったから?」
「うん。いっせから聞いたけど充実してるんだろ。青春を謳歌してるようじゃないか」
「別に。そんな……」
「いや、俺も文化祭の時に君を見て、こんなに明るい顔してたっけって思ったよ」 今までそんなに暗い顔だったのだろうか。思わず頬に触れると私の気持ちを汲み取ったように「初めて会った時は酷い顔してたよ」と補足される。いらない補足に再び睨んでしまう。でも、と屋詰さんは続けた。
「今は、寂しそうな顔してる」
どきりと、した。言い返す言葉も思い付かない。図星だった。
毎日、毎日、寂しい。生きるのがしんどい。
でも、私が消えたら、と思うと、悲しむ人達の顔が浮かんでしまう。その中にはもちろん望月くんもいる。きっと彼は私がいなくなったら傷付く。望月くんを、悲しませたくない。だから踏ん張って生きようと思える。
「望月くんも、孤独だって言うんですか? あんなに周りに人がいるのに」
これ以上、私の心に踏み込んで欲しくなくて話題を変えたが、屋詰さんは歩き始めると私を追い越していく。私も慌てて背中を追いかけた。
「俺はいっせが孤独を感じないようにいつも傍にいた。だから分かるんだ、俺じゃ埋められないって。あんたの言う通り、他にも周りに人はいるがいっせはそいつらに心を開いていない。……孤独かどうかはその人の心が決めるもんだろ」
彼の言葉に、私は俯いた。身に覚えがあったから。
私も心を閉ざした。私が孤独になったのは私自身が原因なのだから、心を閉ざすなんておこがましいのかもしれない。それでも、私に味方はいないと感じていた。
実際には、蒼菜や、花乃子、紬がいたのに。
「着いてきて欲しい場所がある」
「へ……どこですか?」
「それは着いてくれば分かる」
そう言うと口を結ぶ。言う気はないらしい。仕方ない。ため息を殺して着いていくことにした。
電車を五駅乗り継いで、閑静な住宅街を抜けると、連れていかれた場所は公園だった。その公園には見覚えがある。
ブランコ、滑り台、砂場と屋根のついたベンチがあるだけの小さな公園。私はベンチに向かって歩みを進める。
夢の中で見た場所だ。あのベンチで、望月くんは泣いていた。あの時と同じように腰をかけると、その横を屋詰さんが座った。
「ここ、夢の中で見た公園です」
「やっぱりそうか。……ここは、いっせにとって、大事だけど、壊してしまいたい、そんな場所なんだ」「壊してしまいたい?」
私が首を傾げると、彼は頷いた。
「ここで、何度も何度も母親に捨てられたんだ。いっせの母親は浮気性で、彼氏が出来れば夫と子どもを置いて駆け落ち同然のことをする女性だった。その度にいっせは家から近いここに連れてこられて、ここで待っててねって言いつけられたそうだ」
「なんで、そんな……」
「……今にして思えば、母さんも俺を連れていくかどうか悩んでたんだと思うって、いっせは言ってたよ。あいつの父親はそんな母親を許す人だった。一見それは美徳に思えるだろうが、何度も自分たちの元に戻ってきては捨てていく母親の背中を見続けた子どもの気持ちを考えると、とても健全な環境だったとは思えない」
私は拳を握りしめた。
自分と、重ねた。私のことを忘れた母。そんな母を許し、私を糾弾した父。
子どもの頃、親が全てだった。親が私の世界を作っていた。両親は神のような存在で、私たちは神様に見て欲しくて、愛されたくて、つい期待を抱いてしまう。
けれど神様は私たちを見てくれない。愛してくれないし、裏切るし、捨てられる。神様は自分勝手なただの大人だと認識を変えたあの日、私は母を傷付けた。
「望月くんは……親とは、どうなったんですか」
「いっせの母親はもう何年も帰ってきてない。父親は、ほとんど家に帰らなくなった。月初めに金だけを置きに帰ってくるくらいだ。一応、成人するまでは面倒見るからって親父さんに言われたっていつだったか話してたよ」
安心出来る、終わりじゃない。
私は、もう両親と話し合う気はない。話しても無駄だと思うから。このまま学生を続け、いつか家を出られたらと考えている。
けれど望月くんは、安心出来る終わりじゃない。その証拠に望月くんはこの公園の夢を見たのだから。
彼は、まだ待っているのだ。
「いっせは今日……今日だけじゃない、よく休むようになったんだ」
「え、そうなんですか?」
屋詰さんが頷いたのを見て、だから学校で見かけることが少なくなったのだと納得した。「最近バイトを何個か始めたみたいで、働き詰めらしい。家には寝に帰るだけって聞いた。……けど、あんまり寝れてないみたいでさ」
屋詰さんは、歯を噛み締めて悔しそうに続けた。
「歩咲ちゃん、君に散々きつく当たってきたこと、許されることではないと分かってるけど君にしか頼めない。いっせを助けて欲しい」
驚いた。彼が頭を下げたことに、じゃない。私は手を横に振った。
「わ、私がですか? 私なんかじゃ……。大体、助けるって、何を」
「目に見えていっせはやつれてきている。あいつは寝れないんじゃない、寝ないんだ。俺、何度か家へ覗きに行ったんだけど、その度に悪夢にうなされてて……。君なら、助けられるんじゃないか」
勢いよく肩を掴まれ、必死の顔で訴えかけてきた。
「夢の中に入って、あいつを助けてやってくれないか!」
揺さぶられ、その力の強さに、いた、と声を漏らすと、我に返ったようで、悪い、と手を離してくれた。バツの悪そうな顔。必死だった顔が頭から離れず、私は、自分の無力さを恨んで俯いた。
「私なんかじゃ」
「いっせが孤独を感じないようにいつも傍にいたけど、友達が埋められるものって限度があるんだ。知ってるか? 恋愛ってのは親から与えられた愛情の延長線らしい」
「それってどういう……」
顔を上げると、屋詰さんは切なそうな顔をして「頼んだぞ」と念を押してきた。
彼が残した言葉の意味を考えながら、帰路に着いた。それから望月くんの過去を思った。見ていないのに、聞いただけでも苦しみが伝わる。心を閉ざすのには十分だ、と思える。
空を仰ぐ。相も変わらず厚い雲に覆われている。
屋詰さんの言うように、もう一度、夢で逢えたなら。その時は何を話そう。
私は望月くんに学校で出会う前日のことを思い出していた。 翌日、花乃子といつものように登校をして、明日はクリスマスだねえ、と軽く話をして、学校へ向かう。教室内も冬休みとクリスマスを目前にして浮き足立っていて、遊びに誘われたり、紬からまたお泊まりの提案をされたりして、終業式を終える。
紬から一緒に帰ろうと誘われるが、私はそれを断って、生徒たちが帰るのを、階段に腰掛けて眺めていた。
今の私は、青春の真っ只中。私の生活の背景に青春がある。
でも、そこに、望月くんはいない。
望月くんは、私の憧れだった。初めて見た時、学校で彼を見かけた時、酷く惹かれた。その輝きに焦がれた。私もあの中にいたい。話をしてみたい。彼と青春を、謳歌したい。そう強く思った。
でも、強く思えば思うほど、私には無理だと悟ってしまう。それが出来ていたのなら、あんなことにはならなかったと、絶望を繰り返した。罪はいつも後ろにいて、その時も私を酷く糾弾した。
生徒がいなくなると、私は階段を駆け上がった。一番上の階は屋上に出られないよう、柵を設けられている。けれど登ろうと思えば全然登れて、更に扉には鍵がされていたのだが、誰かが壊したのか、簡単に開くことが出来た。
屋上に出ると、冷気を含んだ風が駆け抜けていった。寒い。屋上を囲う柵に近付いてグラウンドに視線を落とす。今日からは部活もないから、ガランと寂しげにそこにあるだけ。頬杖をついて、そのまま眺める。
いつだって、望月くんのことを考えていた。友達と笑い合う時、食堂にいる時や、授業を受けている時。私は笑っているのに、青春を謳歌しているのに、いつも寂しかった。
本当は、この気持ちの正体にも気付いている。見ないふりをすることで私の中で綺麗に残しておきたかった。
魔法は、解けた。
私は、もう一人じゃない。
けれど、一番傍にいて欲しい人と、どうやって関係を始めたらいいのか分からない。いつも、気付いた時には始まっていたから……。 家に帰ると、リビングで両親と蒼菜が席に着いて談笑していた。その横を素通りしようとしたが、蒼菜に腕を掴まれてしまう。
「お姉ちゃん、明日楽しみだねっ」
「明日? ああ、旅行か……」
両親に視線をやると二人ともニコニコと笑みを浮かべている。
結構前に蒼菜が提案していた旅行を、クリスマスにしようと決めたのは、意外にも父だった。それも私も参加で考えているらしくその意思は変わらないらしい。
まさか私もなんて。
母は旅行が決まってからみるみる回復していった。一時は私に怯え、やつれていたが今ではすっかりふっくらとしてきている。
「本当に私もいいの」
「当たり前じゃない。歩咲との思い出は空白なんだもの、今から埋めていかなきゃ」
話しかけてもこの調子で、普通に返してくれる。私は頷くと自室に着替えに向かった。
普通の家族に戻れたのだろうか。あの人たちと話し合う気はもうないし、このまま現状維持を続けて、いつか家を出らたらいいと考えている。
けれど普通の家族に戻れたのなら、と思うと心は幾分楽になる。そのいつかが来るまで、気が重くならないで済むのだから。
それもこれも、蒼菜のおかげだな。蒼菜が旅行を提案してくれたから母は前向きに考えてくれたし、父も家族として私を受け入れてくれた。
「お姉ちゃん」
噂をするとなんとやら。と言っても私の中でだけだが、部屋の入口からひょっこり顔を出す妹に向かって「ありがとう」と感謝を述べてみた。
蒼菜は驚いたようで目を見開いたあと、部屋に入ってきてはにかんだ。
「えへへ、良かった。明日は楽しもうね」
「うん」
頷いて、二人でリビングへ戻った。 翌朝、キャリーケースを持って四人で車に乗り込むと京都へ向かった。車内では蒼菜を中心に盛り上がり、クリスマスソングを歌って、楽しいドライブから始まる。それなりに楽しくて、それなりに笑顔を浮かべて……。
どんどん離れていく地元。県外を出ると、私は、自分が無理に笑っていることに気付く。離れたくない、と思ってしまう。その思考の先に、望月くんがいた。
京都に着くとまずは旅館に車を停め、観光へ向かった。清水寺へ行き、金閣寺や銀閣寺を見て、食べ歩きをして、蒼菜が写真映えを求めたスポットを紹介してくれて、写真映えに特化したスイーツ、食事をして、やがて日が暮れ、私たちは旅館へ戻った。
旅館でも食事をして、温泉に入って、卓球に勤しんだ。
こんなに家族でなにかをしたのは久しぶりだった。お風呂だって、母と入った記憶はなかったが今回一緒に入ってくれた。卓球ではしゃぐ両親を見て、嬉しそうに笑う蒼菜も見れた。来てよかったな、と心から思う。
いつの間にか、私の中の両親へのわだかまりも解消されていた。完全に、という訳ではないが、旅行マジックと言わざるを得ないだろう。蒼菜の言う通り、楽しい時は、好きとか嫌いとかそれまでの悩みが全部気にならなくなる。
部屋に戻って両親は晩酌を始め、私たちはジュースで乾杯する。買ってきたお菓子をつまみながら、蒼菜が口火を切った。
「楽しかったねえ、お母さんったら今日すごく食べたんじゃない?」
「だってせっかくの旅行だもの。それに蒼菜が行きたいって提案してくれた、写真映えスイーツも本当に可愛くて」
確かに蒼菜の次に母が喜んでいたかもしれない。父が「若返った気分だろ」と茶化す。
「本当にね。今は見た目も楽しめて、いい時代になったわあ」
「お母さんおばさんくさい」
ドッと笑い声が巻き起こる。その中に私もいた。自然に笑えていた。ずっと、望月くんのことを頭の片隅に残していたが、笑うことが出来ていた。
「また来たいね」
私がそう言うと、父はピタリと動きを止めた。母も笑顔を引き攣らせる。 ……何かまずいことを言っただろうか。首を傾げると、父は私に向かって言い放った。
「これが、最初で最後になるだろう」
「は? ……ああ、そうなの。まあそうだよね、そんなポンポン行けるもんでもないし」
そりゃそうだ。納得しかけたが、父は頭を振った。
「そうじゃない。今日はそのことも話そうと思ってな」
二人は座り直し、私と蒼菜は顔を見合わせて、同じように座り直した。
「歩咲、お母さんが今もカウンセラーを受けているのは知ってるな?」
「……うん」
母が回復をしていってるのは明白だが、まだ完全に、という訳ではないらしい。だから週に何度かカウンセラーを受けている。それがどうしたのだろう。
「お母さんは今も悪夢を見たり、フラッシュバックに襲われるんだ。知らなかっただろ?」
「知らなかった……」
今の母は、私の前では普通に見えたから。チラリと母を見ると、目を伏せて、私を見ないようにしていた。
「今でもやっぱりお前が怖いんだと。だから今回の旅行の提案を受け入れることにした」
「どういうこと?」
「この旅行は、お前の送別会だ」
「はあ?」
全く、意味が分からない。けれど、冷や汗が流れる。心臓がバクバクと音を立てる。頭は理解していないのに、身体が、あの感覚を思い出す。
「カウンセラーの先生が言うにはな、こうなった原因を遠退けるのが一番いいらしい。歩咲、お前を親戚の家に預けることにした」
「……はあっ?」
裏返った声に驚くように立ち上がった。当然だが驚いたのは声じゃない。
「隣の県に祖父母がいるだろ、そこに預けることにしたから。もう話は通してあるから、年始に向かいなさい」
「ま、待って、待って。学校はどうするの?」「そこから通えばいいしお前が望むなら転校だってしていい」
淡々と言ってのける父が、人間に思えなくて立ちくらみをしてしまう。よろついた私を蒼菜が支えてくれた。
「何それ! そんなの、聞いてないよっ。蒼菜、お姉ちゃんと離れたくないよ!」
妹が護衛に入ってくれるが「だったらお前もそこに行けばいい」と返されてしまう。横から絶句した気配が伝わってきて、私は、蒼菜からそっと離れた。
「大丈夫、蒼菜。蒼菜はお父さんたちと住みな……」
「お姉ちゃん、そんな」
悲しそうに眉をひそめ、首を横に振る妹に微笑みかけ、私は父と母を睨みつけた。
父はその視線を受け止め、母は相変わらず目を伏せ、よく見ると肩を震わせている。私がテーブルを叩くと、その肩が大きく揺れた。
「そういうこと。私を捨てるから、これが最後だからってあんなに笑顔だったんだ」
「そんな言い方をするな」
「だってそうでしょ、私の都合も考えないで親の勝手で学校も変えさせて。私、今あの学校から離れたくないのに」
私の抗議も、面倒くさそうにため息をつかれた。
「お前が嫌なら、俺たちが移住してもいい。幸い、ネット環境があればどこでも出来る仕事だからな」
「何それ……」 足先から、冷えていくのを感じる。髪を引っ張られているように頭が重い。ただ私を見ているだけの視線が突き刺さる。被害者面するその姿勢がより私を遠ざけ、人畜無害な、心配した顔が、私をこの輪から省いているように見える。
あの感覚だ……。私は、財布とスマートフォンを手に取ると、部屋を飛び出し、旅館を抜け出した。
走って走って、足がもつれ、息が切れ、いつの間にか流していた涙で視界が歪む。どこへ行っても、誰も私を知らない。私の知らない場所、知らない匂い、知らない人たち。
孤独だ。私は、一人だ。死にたい。……死にたい。私が消えたって、きっとあいつらは悲しまない。こんな知らない土地で息を引き取っても、誰も私を見つけられない。見つけられないじゃないか。
望月くん。
ついにもつれた足を踏ん張ることが出来ずに転んでしまう。寒さのせいで、痛みが突き刺さった。
痛い。痛いよ。何が家族団欒だ。何が家族旅行だ。何が、普通の家族だ……。
立ち上がってふらふらと歩くが、悔しくてたまらなかった。
その時、目の前がパッと明るくなった。反して、身体が硬直するようなけたたましいクラクションが鳴り響く。音のする方を咄嗟に振り向くと、鬼気迫る勢いで車が目の前に迫っていた。

