例えばこれを恋と言うならば、どうしてキスをしたいと思わないのだろう。
 いつものように夢の中、現れた教室で私と望月くんはそれぞれが教室内で座っている位置に席を着いていた。教室の外は出られない。出ようとしても近付けないのだ。
 彼の動く唇をボーッと見つめてしまう。
 花乃子が屋詰さんとお付き合いを始めたらしい。花乃子にとっては初彼氏な訳だけれど、屋詰さんは本当に手が早いらしく、花乃子も嫌だった訳じゃないと漏らしていたが。
「なんか、もっと、ロマンチックにキスするものだと思ってた……」
 どういうシチュエーションだったのかまでは聞かなかったけれど不満そうな顔をしていた。しかしその端々で嬉しい感情が滲み出していて、私は、と以前望月くんと抱き合った時のことを考えてみる。
 嬉しかった気持ちは確かにあったが、あれは会えたことによる喜びだったように思う。私は望月くんが好き。それって恋かな、と考えてみたけれどたどり着いた答えはそれ。
 キスしたいと思わない。抱き合ったのも会えたことによる喜び。じゃあこれは、何なのだろう。友達……よりも、もっと別の、なにか。何の好きに当たるのだろうか。
「星村? おーい」
 目の前で大きな手がひらひらと泳ぎ、我に返る。顔を上げると望月くんがいた。
 私は窓際の席。彼は真ん中の列の後ろらしく、そこにいたはず。
「なに?」
「いやなにって……。話しかけても返事ないし、ボーッとしてるからどうしたのかなって」
「ああ、別に。何の話だっけ?」
 全く、と零して前の席に腰掛け、私の席に肘をついて、だから、と前のめりに口を開いた。「タロちんと花乃子ちゃんが付き合ったって話。俺、星村に聞くまで知らなかったんだけど」
「ああ……そうだそうだ」
 私だって昨日の朝知った。付き合って一週間なの、とまるで世間話でもするかのようにあっけらかんと言っていた。びっくりしたが本人の中で気持ちが落ち着いてから話そうと思ってくれたらしい。
「タロちん薄情じゃない? 言ってくれてもいいのに。……まあ、毎回教えてくれないんだけど。勝手に付き合って勝手に別れてるのがタロちんだし」
「毎回なら別にいいじゃん」
「いや、そうなんだけど、一応星村を紹介した身としては……」
「どっちもそう思ってないから」
 ええ、と大袈裟に驚いている。これは本当だ。屋詰さんから直接聞いた訳じゃないが、彼に私とそのつもりはないだろうし、私も彼と恋愛する気はない。
「そっかあ……。まあ、花乃子ちゃんとはそうなりそうな気してたしな。星村は好きなタイプとかないの?」
 窓の外に視線を送ると、一応グラウンドが広がり、夕焼けが伸びている。外に出られないのに外があるのは変なもので、でも錯覚してしまう。ここは現実で、私たちが同学年で、教室に残って喋っている放課後だと。
「好きなタイプか、やっぱり分からないな」
「ちっとも?」
「ちっとも。……恋なんか、出来そうにないし」
 呟いてみると、しっくり来た。望月くんのことは好き。でも、これは恋じゃない。私なんかが恋をして、青春を謳歌していい訳がない。母を殺し、そして……。
 ああ、この夕焼け、あの日に似てる。
 中学時代のことを思い出すと、よりそう思える。陰鬱な気持ちが湧き上がってきた。すると、手に感触があった。望月くんが手を重ねていた。
「恋しなくてもさ、誰か、頼れる人を作って」
「何急に」 驚きながらも笑ってみせたが、彼は笑わなかった。真っ直ぐに私を見て、もう一度同じことを繰り返した。
「頼れる人を作って」
「心配しなくても……。私には、ここがあるし」
「でも、ここは所詮夢の中だ。俺、この前思ったんだよ。ここに来れなかった時……いつか、そういう日が来るんじゃないかって」
 私だって、想像しなかった訳じゃない。ここがいつか消えてしまう日、私たちが本当に接点をなくす日が、いつか来るかもしれない。
 それは、凄く怖いこと。ここは私の居場所で、望月くんにはここにいて欲しい。ここで私と話をして欲しい。もしそんな日が来たら……。
「そういう日が来た時、俺たちはどうするだろうって。会いに行けるか、現実にいるお互いの存在を受け入れられるか……俺は、無理だと思う」
「……そうだね。私も……」
 外の世界で今と同じように振る舞えるかと聞かれたら、きっと、無理だ。先輩と後輩として、同じ学校の同じ生徒として、大勢の中のただの一人として、お互いを見れるかと聞かれたら、自信がない。
 私たちはここにいて、二人の世界で、たった一人の人として出会えたから特別なのだ。
 この場所もそうだ。誰も入って来れない、外の世界とは隔離された特別な空間。それを外の世界と同じようには扱えない。きっと、出来ない。
「だから、さ。現実でも星村にはそういう人が出来てほしい。そういう場所が出来て欲しい」
 望月くんは、私のことなのに、私よりも切望するように口にした。
 眩しい、と思った。
 彼の顔は赤く染まり、瞳が火を灯したように揺れている。その力強い言葉が、その瞳を作り出したのだと思えてしまうほどに、眩しい。
 他人のことをこんな風に願えるこの人を美しいと思った。同時に、自問自答してしまう。
 居場所。居場所にいてくれる人……。私が? 現実で?「作れるかな」
「作れるよ」
 力強く肯定されて自分で呟いた言葉が弱音だったと思い知る。望月くんの言葉は、背中を押してくれていた。大丈夫、そう胸に訴えかけてくる。
 だったら、と私も彼の手の上に自分の手を重ねた。
「だったら、望月くんもだよ。望月くんも現実でそういう人を、そういう場所をいっぱい作って。ここがなくなっても大丈夫なように」
 言いながら、胸が抉られる思いに駆られる。
 ここがなくなるなんて、嫌だ。けれど。
 彼の作った居場所にいるのは私じゃなくていい。その場所に、私じゃない誰かがいて、望月くんが笑えるならそれでいい。
 心からそう思える。
 なのに、頷いた望月くんを見て、私は、その思いと同時にこんなに苦しいなら感情なんかなくなって欲しいと願った。
 朝になると憂鬱になる。リビングに降りると、私を一瞥して、わざと無視をする母と、挨拶をしてくる父。今日初めて会う人間がこの二人だから憂鬱になってもおかしくないだろう。それから蒼菜が起きてくる。
 蒼菜が来ると、少し空気が和らぐ。母も笑顔を浮かべるが、チラチラと私を見てくる。
 私を思い出した母は、意識して私を見ないようにしていた。その目には怯えが混じり、いつ仕掛けてくるのかと警戒しているようだった。
 私は、もう母に何かするつもりはない。けれど一方的に被害者意識を持つその目に苛立ちが募ってしまう。
 だから、蒼菜がいる空間では私も緊張を解くことが出来た。 四人で食卓を囲み、蒼菜を中心に話が盛り上がる。思い出して以来、私の食事も用意をするようになった母からの視線を受け止めながら料理を口に含む。私も目を合わせるとすぐに逸らされる。
 いつ私がこの料理を否定し、ゴミ箱に捨てるか、監視しているのが見て取れる。
 でももうそんなことはしない。母が何もしないなら、私だって何もしない。当たり前だろう、なのに……一方的に、私に怯えている。私がいつ暴れるかとヒヤヒヤしている。心外だ。
 それに対して、抗議しようとも思わない。
 この人たちは話し合っても無駄な人たちだから。望月くんが言っていたように、私ももう話し合う気はない。
「ご馳走様でした」
 手を合わせ、肩を震わせた母が視界に入ったが知らん顔で玄関へ向かう。遅れて「ご馳走様でした!」と蒼菜の声が聞こえ、駆け寄ってきた。
「お姉ちゃん一緒に行こ!」
「いいけど、途中で花乃子も一緒だよ」
「やった」
 嬉しそうにはにかみながら家を出た。私もその背中に続く。
 十月にもなると、幾分日差しが弱まり、日中はまだ暑いが、登校する分には快適な気候。きゃっきゃっとはしゃぎながら追い越していく小学生たちの背中を見送っていると、蒼菜が身を寄せてきた。
「ちょっと、暑いんだけど」
「えへへー、懐かしいね。蒼菜たちもあの子たちみたいにみんなで学校行ってたよねえ」
 彼女の言う通り、昔は私と蒼菜と花乃子で登校していた。いつからか……そうだ、小学六年生の時に、蒼菜を拒否するようになったのだ。ちょうど、母に反抗した頃。
「……友達と登校するようになってたから、気にしてないんだって思ってた」
 バツが悪くて言い訳がましくなる。知ってか知らずか、蒼菜は笑ってくれた。「気にしてなかったよ。お姉ちゃんが一人で行ってって拒絶してくれたから、ふふ、大袈裟だけど、世界が広がった感じがしたんだ」
「世界が?」
「うん。初めて一人で登校してね、あれ、通学路ってこんなに広かったっけーとか、空ってこんなに遠かったんだーとか。あ、ここにこんなポスターあったんだって知ったの。いつもお姉ちゃんと花乃子ちゃんの間にいて、蒼菜ったら話に夢中だったから知らなかったんだよ」
 そういえばそうだ。自然とあの頃のことを思い出す。蒼菜はずっと喋っていて、花乃子が相槌を打つ。私は話を聞きながら、この妹を学校へ連れて行く。そんな任務に駆られていたように思う。
「それで、友達と歩くとまた通学路が違って見えたの。お姉ちゃんたちと歩いてた時は連れて行ってもらってるって感じだったんだけど、友達と歩くと、一緒に向かってる。意識の問題なんだけど、友達と歩くと何だか冒険してるように感じるんだって思ったの覚えてる。だから文字通り、世界が広がったんだよ」
 笑顔でそう言うと、白い歯がキラリと輝いた。この子は凄いな、と思った。だからそれを伝えてみることにし、一旦、彼女を離して改めて顔を覗き込む。
「蒼菜は前向きだね」
「えーそうかな?」
「そうだよ。蒼菜は、みんな、自分のことどうでもいいんだって言ってたけどそうじゃない。悪意を向けられても、それを受け入れて、前向きに取り組める力がある。みんなそんな蒼菜に当てられて、敵意とかそういう気持ちが萎んじゃうんだよ。……言わば、光属性」
「光属性!」
 大声で驚いてみせたあと、すぐに笑い声が弾けた。人差し指を突き出して力説してしまった私は何だか恥ずかしくなって、引っ込めることも出来ない指がふにゃりと曲がってしまう。「ちょっと、笑うことないでしょ」
「だって、真面目な顔で、ふふ」
 光属性ってそんなに変な言葉だろうか。つい口を尖らせると、目尻の涙を拭って、お姉ちゃん、と呼びかけられる。
「ありがとう、そんな風に言ってくれて。蒼菜、何だか自信ついちゃった」
 そ。一言だけ返して私はさっさと歩き始める。ああ待って待って、と後ろから追いかけてきて、私の前に躍り出る。思わず睨みつけると、また笑いが込み上げてきそうなのか、口元に手をやった。
「ご、ごめん。それより蒼菜、お姉ちゃんに言いたいことあって。えっと、ごめんね?」
「何が?」
 並んで歩くと、やっと落ち着くことが出来たらしい。言いたいことのあとに続いた謝罪に心当たりがなく首を傾げる。
「前、お父さんたちと話したんでしょ? その日、蒼菜遊びに行ってていなかったし……。けしかけた訳じゃないんだけど、お母さんとお姉ちゃんが面と向かって話したら思い出すんじゃないって軽くお父さんに言っちゃったの。だから」
 なるほど。いつも友達と登校していた彼女が、珍しく着いてきた理由はこれらしい。
「言わなきゃ言わなきゃって思ってたんだけど、蒼菜とお姉ちゃんのタイミング合わなくて」
 しょぼんと顔を俯かせて、ごめん、ともう一度謝られる。さながら怒られた時の犬みたいだ。私は頭を振った。
「いいよ。蒼菜は家族仲良くして欲しいんでしょ」
「……してくれるの?」
 大きな目が更に見開かれる。私は鼻で笑ってしまった。
「するわけないでしょ。蒼菜、あの時いなかったから知らないだろうけど、私、当時感じてた気持ちをちゃんと伝えたんだよ。でも駄目だった、私の話なんか聞こえてないみたいだし、お母さんの目、ずっと私を睨みつけてる。結局私だけ悪者にされちゃった。話が通じないんだよ、あの人たち」
 つい早口で捲し立ててしまう。すると、募っていた苛立ちが加速して、口元を意地悪に歪ませていることに気付いた。急いで両手で頬を揉む。それから落ち着くためにため息を落とした。
「でも、蒼菜がいると気が楽かな」
 フォローのために言ってみたが、ふむ、と考える仕草をして蒼菜は黙った。
 だが実際、気が楽だ。両親といると居心地悪く、早くどっかへ行きたくなるが、妹がいると、そんな私を繋ぎ止めようとしてくれる。まるで風船。彼女が私の逃げたくなる気持ちを紐にして握ってくれている。以前までは無理やりだったが、今は握られているのも悪くないと思える。
「よし、こうしよう!」
 急に大声を上げたものだから驚いたが、蒼菜はそんな私の両肩を掴んで、名案だと言わんばかりに目を輝かせて提案した。
「旅行しよ! みんなで」
「はあ? 嫌だよ」
「そうと決まればお父さんに言わなきゃ」
「聞け」
 突っ込んでみたがやはり聞こえていないらしく、どこがいいか話し始めた。まあお父さんも行きたがらないだろう、と高を括り、花乃子と合流して、その話も終わりを迎えた。
 学校はすっかり文化祭ムードだ。放課後にもなると十月の中頃に向けて、あちこちで準備が始まる。
 私のクラスは焼きおにぎり屋をすることになった。クラスで浮いていた私だが、思い切って提案してみるものだ。まさか採用されるなんて思わなかった、と看板を作りながら思う。 ダンボールに黄色い色紙を貼って、う、の枠を作っていると、クラスメイトの神崎さんが「う?」と問いかけてきた。
 神崎さんはスクールカーストで言う上位の人だが、暗い私にも話しかけてくれるいい人だ。
 パーマを当てた髪をポニーテールにして、濃いメイクを施し、香水の匂いなのか、甘い匂いが鼻腔を掠めた。
「うますぎる! 昔懐かし焼きおにぎり」
 キャッチコピーを口にすると、ああ、と納得したようだった。その後ろで葉月くんと真咲くんが神崎さんの肩から顔を出してきた。
「やっぱもっと強いキャッチコピーが欲しいよなあ」
 何故か胸ポケットにかけていたサングラスをかけて真咲くんが言うと、その後を葉月くんが続ける。
「と言うと?」
「うそ! ランダム? 何が入ってるか食べてみてのお楽しみ! 焼きおにぎり!」
 そっちの方がいいような気がしてくる。ううん、と悩む二人と同じように悩んでいると彼女が「もっと考えちゃう?」と言い出した。
 一応クラス全員で考えたキャッチコピーなのにまた一から考えるのか、と思ったが、彼女たちならその提案も許されるのだろう。
 真咲くんがそれぞれ作業に取り掛かるみんなに招集をかけると、上辺だけはだるそうにしながらも楽しそうに近寄ってきて会議という名の談笑会が始まった。
 その日の夜、つい放課後のことを話すと望月くんは嬉しそうに口元を綻ばせた。というより、言い方を変えればニヤニヤしている。
「何その顔。気持ち悪い」
「酷い! いやあ、星村楽しそうだなあって」
「別に。そりゃ、初めての文化祭だし。ちょっと、青春っぽいなって思っちゃったり?」
 言えば言うほど恥ずかしくなってきた。ついそっぽを向くと、笑い声が聞こえてくる。からかわれている。でも嫌な気はしない。睨みつけると案の定まだニヤニヤしていた。「で、しかも焼きおにぎりなんだもん。本当に好きなんだな」
「好きだよ。いいじゃん、おにぎりは素晴らしいんだよ。大きくても小さくてもまとまってるからパッパッと食べられる」
「十個も平らげてるしな」
「伝説みたいに何回も言うじゃん……」
「伝説だよ! 細身の女の子があんなに食べるなんて思わないじゃん」
 それなら一発芸として大食いを出してみるのも悪くないかもしれない。まあ、おにぎり限定だが。
「そう言う望月くんのクラスは? 何するの?」
「俺のところは、よりにもよってお化け屋敷だよ」
 身震いしている彼を見て、そういえばホラー番組に怯えていた姿を思い出す。よりにもよって、のところを強調して言うものだから思わず笑みが零れた。
「所詮文化祭クオリティだよ、大丈夫」
「だと思うだろ? うちのクラスに特殊メイクを極めたい子がいて、その実験台として今回のお化け屋敷が選ばれたわけなんだけど、これがもう……恐くて恐くて。ああいうメイク見ると、夢に出てきそうだ」
「実際に夢に出てくるのは私なんだけどね」
 ぷるぷる子鹿のように震えているから軽口を叩いてみたが口元に申し訳程度の笑みが浮かべられる。滑ったみたいじゃないか。
 それにしても、それは楽しみだな、と思い、つい前のめりになって聞いてみた。
「てことは、人間が襲ってくるってこと?」
「そうそう。もちろん仕掛けもするけど、基本的には、後ろから追いかけられたり、横から飛び出したり、かな。俺は小道具だから助かったよ。あんなメイクされたら、自分の顔見れなくなる」
 ふう、とため息を零してやっと落ち着いたらしい。ちょっと気になって、聞きたいことを聞く前に立ち上がった。私を見上げた望月くんが首を傾げ、そんな彼に手を差し出した。
「どこ行っても同じところだけど、ちょっと歩かない?」
 私の手を取って、引っ張ってあげると立ち上がって二人並んで歩き始める。 すると空間が徐々に色を変え、夜空へ変わる。上も右も左も下も、夜空に。星々が呼吸をするように瞬き、暗くなった視界でも微かに光に照らされる私たちの身体。
 最近、この空間が夢の途中から形を変えることが多くなった。以前は初めから教室や体育館だったのに。しかも決まって、こんな風に一面夜空になる。
 そんな時、望月くんはどこか暗い顔をしているような気がする。まるで彼の顔を隠すように暗くなるものだから、顔をよくよく見なきゃ表情が読み取れない。
「綺麗だね」
「うん。俺、夜空が好きなんだ。……落ち着く」
 笑っている気配がして、ジッと見つめると確かに口元が綻んでいる。望月くんも私に習うように見つめ返してきた。
「私は……夜が嫌い」
「へえ、そうなの? 何で?」
「夜になると……家族が集まるから。朝には学校へ行けるから、朝の方が好きだったな」
 食卓を囲んだり、ソファーに座ってテレビを見たり、リビングでそれぞれ別のことをしたり……。そんな家族の団欒が行われる夜が嫌いだった。
 けれど、自室に籠るのはもっと嫌で居続けた。そんなことをしたら本当にこの家族にとって、私はいらない存在なんだと思い知らされてしまう。
 昔の私はよく頑張っていたな、と思う。
「でも今は好き。ここに来れるから」
 自然と口元が綻ぶ。望月くんはそれには答えずに、いきなり走り始めると少し離れたところで振り向いた。
 そんなところにいられたら、全然顔が見えない。
「文化祭さ、星村のクラスに行くよ」
「え、でも」
「大丈夫、全然知らない人がいるクラスの出し物を見に行くくらい、あるだろ? だからさ、星村も来てよ。お化け屋敷」
「……仕方ないなあ」
 やれやれとわざと肩を竦めてみせると、笑い声が届けられる。
 けれどやはり顔が見えない。こんな状況が、保健室で少し話をした日のことを思い出させた。あの時も、カーテンに仕切られて顔が見えなかった。 私は目をつぶった。
 この距離が、この位置関係が、私たちの学校での位置だと頭の中に刷り込ませた。
 それからトントン拍子に文化祭の準備は進んだ。それと連動して私もクラスに馴染むようになっていく。
 その中でも神崎さんが面倒見よく私に接してくれるからクラスでは一番仲良くさせてもらえている。もちろん、私がそうなだけで、彼女には別に親友がいる。そのことに不満はないが、少し寂しさを覚えてしまう。
 そんな時、紬が私のクラスへ来てくれると安心出来た。別の村から来てくれた旅人に、この村で起きている問題をつい話してしまうような、そんな気楽さに包まれる。
 そうすると、私は必ずと言っていいほど蒼菜の言葉を思い出した。
 世界が広がった感じがする……。
 これがそうなのかはまだ分からないけれど、生きている世界が教室の中だけじゃないとうっすら分かってきた。
 やがて当日の朝、私たちクラスは早くから学校に集まり、仕込みを始め、文化祭が始まりを迎える。
 いつの間にかおにぎり大好きな私が指揮を執った方がいい、という話になり、張り切って指示を出した。調理班、提供班、片付け班、それからテイクアウト班と別れ、更にシフト制にしてお店を回す。
 私は全体を見れるようにと提供班に属し、間に合わなさそうなら他の班の助けにも行く。思ったより店は繁盛し、お客さんが途絶えることはなく、テイクアウトの方も注文を受けるものだから慌ただしく店を回す。この調子ならと順調に思えたその時だった。「来たよー」
 片手を上げて入ってきたのは花乃子と屋詰さんだった。彼女たちを窓際の席に案内し、メニューを渡すと、彼が私を見上げて笑みを浮かべた。
「久しぶりだな」
「面と向かって会うのは……花火大会以来ですね」
 つい身構えてしまうが、鼻で笑われた。
「今日はデートをしに来ただけだ。そんなに睨まないでくれ」
 言われて初めて目付きがきつくなっていたことに気付く。眉間を揉んで、気持ちを切り替えてにこりと笑ってみせた。
「花乃子とお付き合いを始めたそうで。花乃子を傷付けたり、裏切ったら許しませんよ」
「ふん、君が言えたことか」
 私が何をしたと言うのか。全くこの人は。
 ハラハラしている花乃子を横目に、言い返してやろうとすると、まあでも、と続けられた。
「分かってるからいっせと現実では関わらないようにしてる、君のその姿勢に称賛を送りたいとは思ってる。そのまま夢とやらもフェードアウトしていってくれたら」
「もう、太郎さん。歩咲を虐めないで。早く注文して」
「ああ、ごめんごめん」
 呆れたように彼女に制され、やっとその憎たらしい口を止めてメニューに視線を落とす。しかしすぐに眉を顰め、私に視線を向けた。
「何だこのメニュー表は」
「何って、焼きおにぎりのメニュー表ですよ」
「そうじゃなくて。中身が分からないじゃないか」
 彼氏の抗議を受けて、花乃子がメニュー表を見せてくれる。私は分かっていながらニヤニヤを抑えられずに、メニューに視線を落とした。 二人が育む恋の味おにぎり、今がその時! 青春が詰まってるおにぎり、風邪を引いたらお母さんが握ってくれるおにぎり、漆黒の病み期に突入おにぎり、お酒好きに食べさせても味がわかるおにぎり。上から順に、チョコ、鮭、梅、昆布、練りからしとチーズ。
 店のキャッチコピーは、うそ! 食べなきゃ分からない? ハズレもありの焼きおにぎり屋になった。
「太郎さん、辛いの駄目なの」
 耳打ちをしてくれた花乃子の情報のおかげで私のいたずら心に火がついた。
「じゃあお酒好きに食べさせても味がわかるおにぎりがおすすめです。ついでに考案はうちの担任です。花乃子には今がその時! 青春が詰まってるおにぎりがおすすめかな」
「じゃあ私はそれで」
 オーダー用紙のメモ帳に書いて、屋詰さんを見ると彼は怪訝に私を見ていた。私はあくまでも平静を装い、どうしますか、ともう一度聞いてみる。
「……じゃあそれで」
 私のおすすめを頼むのは癪だ、と言いたげな顔。ササッとメモ帳に書くと、今に見てろ、と心の内で悪態ついて調理班に手渡す。
 出来上がった焼きおにぎりを二人のところに運び、サービスのほうじ茶とお茶が入ったポットを置いた。
「美味しそう。歩咲監修だもんね、美味しいんだろうな」
「期待に添えると思うよ」
 珍しくはしゃいでいる花乃子に笑みを返して、きょろきょろ見渡したあとに私に視線を向けた屋詰さんを見た。
「何でこの席だけお茶のポットを置くんだ?」
「友人割り? みたいな。たーんと飲めるようにサービスです」
「ふうん? 頂きます」
 よしよし食べた。もぐもぐとおにぎりを食べ進めながら、帰らない私を訝しげに見ている彼の顔が、途端に歪む。 勢いよく咳き込むと、急いでお茶を飲み始め、更にお茶を汲んで胃に押しこむ彼の挙動に笑いが込み上げたがグッと我慢する。
 花乃子はその挙動にぽかんとしていた。
「ほ、ほ、星村歩咲い……。嵌めたな!」
「嵌めてません。実際担任からは好評なんですよ、これ」
 酔っ払うと味が分からなくなるから強めの味を好むんだ、と大人の意見を取り入れ、出来たのがこのおにぎり。
 ただ、本来はチーズの割合の方が多く、ピリッと辛味がある程度なのだが、屋詰さんのは特別にからしを多くしてと調理班にお願いしたのは内緒だ。
 意地悪なことばっかり言うからこんな目に遭うのだ。
「いやあ、お茶、置いておいて良かったですねえ」
「星村あ……。君、性格悪すぎだろ」
 もう歩咲ちゃんと呼ぶ気すら起きないらしい。涙目で睨まれ、しかし顔は可愛い人だから凄みはない。
 べ、と舌を出すと花乃子にため息をつかれた。
「もう、歩咲ったら。太郎さんを虐めないで」
「だって屋詰さんがずっと嫌なことを言ってくるんだよ」
「私が歩咲を心配してるように、太郎さんもあの人が心配なの。二人が煮え切らない態度だから余計に太郎さんもやきもきするんだよ」
 花乃子の言葉に、私は何も返せなかった。子どもみたいに唇を尖らせてしまう。
 二人が心配をしてくれていることはもう痛いほど分かっている。きっと屋詰さんも私にだけ言っているわけじゃない。煮え切らない関係……それにも、言い返せる言葉が思い付かない。
 この気持ちに、名前が付けられたら関係が変わるのだろうか。「好き……。彼が、好き。でも付き合いたいとか、キスしたいとかじゃないの。ただあの場所にいて、私の特別で、私を特別視して欲しい……」
 つい、口にしてしまっていた。歩咲、と花乃子が呟く。この気持ちに、答えが欲しい。答えをくれないだろうか。そう思い、俯いていた顔を上げた。
「お子ちゃまだな」
 しかし返ってきた答えは、思ったものとは違って、冷たいもの。私はたまらず屋詰さんを睨み付けたが、彼は呆れたようにため息を吐いた。
「君の独白なんかどうでもいい。じゃあ君は、十年後も、二十年後も、そうありたいのか。俺は一生一緒にいる気がないなら身を引けと言ったんだ。君がその気なら、俺だって認めたさ。でも君は……君だけじゃない、全く、あいつも。馬鹿馬鹿しい」
 意味が分からない。黙って睨み続けていたが、花乃子が手に触れてきて、我に返る。
 真摯に私の目を覗いていた。
「私もそうだよ。ちゃんと、太郎さんの言葉を覚えていて。忘れないで。今のままではあまりに不健全、それだけだから」
 その瞳に、心配の色を滲ませている。自分の中で敵意が萎んでいくのが分かった。俯いて、ごめんなさい、と屋詰さんに謝罪をした。
 二人が帰ると神崎さんが近寄ってきて、肘で小突いてきた。
「あれって、屋詰先輩だよね? 一緒にいた人は彼女?」
「ああ、そうだよ。彼女の方が幼なじみなんだ」
 食器を流し台に置き、慌ただしい片付け班を横目に、神崎さんは、いいなあ、と両手を合わせた。
「屋詰先輩人気なんだよお、ほら、一緒にいる望月先輩と一、二を争うくらい。あれ、てことは、屋詰先輩を紹介したのって……?」
 ぎくりとした。確かに、他校の幼なじみとの関係性の方が強いのだからそう思われても可笑しくない。だから間髪入れずに首を横に振った。「ううん、幼なじみが屋詰……先輩? と付き合ったのはたまたまだよ。私も今日初めて挨拶したもん」
「ふうん? そのわりにはからし多めに言ってたよね」
 見られてた。額に手をやりたくなったが堪えて、あ、とわざとらしく大声を上げた。
「私そろそろ休憩の時間だ! お先っ」
 そそくさとエプロンを外して教室を飛び出す。変なの、と後から聞こえてきたが構わなかった。
 人の流れに乗りながら、詰問から逃れられた安心感で息を吐く。うちのクラスだけじゃなくあちこち大繁盛らしく、人が途絶えない中、紬の教室へ行くとちょうど休憩に入る彼女と鉢合わせた。
「あ、ちょうど良かった。歩咲、一緒に回ろ」
「うん、私もそのつもりで来た」
 やった、と喜ぶ彼女に引っ張られ、連れて行かれた場所はお化け屋敷。ここって望月くんのクラスだ、と思うや否や、紬が引っ付いてきた。
「実はここのお化け屋敷、クオリティが凄い高いらしくってさ。私、怖いの駄目なんだけど、好奇心が抑えられなくて」
「くっついたら余計危ないでしょ」
 言いながら受付に向かうと、受付の人に「一人で入ってください」と言われてしまう。横から乗り出して問いかけた。
「一人でっ?」
「まあないとは思うんですけど、防犯対策というか。お化け役が取り押さえられたら大変なんで」
 怯えて取り押さえて殴る……というイメージをしてみるが、大体の人はそんなことをするなら逃げるだろう。建前だろうな、と思いつつ私は頷いた。
「わかりました。じゃあ先入ろっかな」
「ま、待って、私が先に入る」
「紬が? 怖いんじゃないの?」
「うん、でも何か後ろから歩咲が歩いてきてるって思うと安心出来そうだから……」
「何だそりゃ。まあいいよ」
 どうせ合流出来ないのに一緒だろう。そのツッコミは心の内に留めておいて、扉を開け、暗闇に消えていく紬を見送る。 五分後に入ってください、と言われてジッと待ちながら、受付の人にも施された特殊メイクを盗み見る。
 なるほど、確かにクオリティが高そう。耳まで裂けているように見える口、顔中傷だらけで服もぼろぼろのワンピースに身を包んでいる。そういえばいらない服を持ち寄るんだ、と望月くんが言っていたのを思い出した。
 どうぞと促されて扉を開けて中に入る。途端に冷気が身を縮こまらせた。クーラーがよく効いているらしく、照明が赤ということもあって不気味さに拍車をかける。
 そろりそろりと歩き始める。中は一直線だから迷うことはない、と望月くんが言っていた。それは本当のようで、まっすぐ歩き続ける。
 向こうの方では紬の叫び声が聞こえ、思わず肩を揺らしてしまった時だった。
 ロッカーの中から勢いよく人が飛び出してきて、おぞましい声を上げて迫ってきた。
「きゃあ!」
 つい声を上げて走り出す。すると続々、後ろから、前から、横から、恐ろしい顔の人が襲ってきた。ゾンビだ。まさにゾンビ。動きもさることながら、声で恐怖心を増幅させ、極めつけにはやはりメイクを施された顔。顔色が悪く、黒目を失って、血だらけの身体、肉が露出し、這いずる人までいる。
 喉が枯れるくらい叫び、やっと出口の扉が見え、安堵していると、手を掴まれた。
 思わず叫んで目をやると壁の隙間から人の手が飛び出し、私の手をガッシリ掴んでいる。
 しかし冷静さを取り戻せた。
 その手は冷房に当てられて冷たさはあるものの、他のゾンビと違って綺麗な手をしていたから。
 綺麗な人の手、それも男の人の手だと分かると、その手は私から離れ引っ込み、今度は拳を突き出してきた。拳が揺れる。まるで手を出せと言わんばかりに。 だから私は手の下に手を広げた。
 そしてブレスレットが落とされる。黄色とオレンジのガラス石で作られたそれに、意味がわからずに固まっていると手は引っ込んで行った。
「こ、これ」
 問いかけようとした時、後ろから声が聞こえた。私の次に入った人が追いついてきたのだ、急いで教室の外に出た。
 眩い光に目を細めてしまう。突如、重みがぶつかってきた。
「歩咲い……。怖かったあ」
 情けなくわあわあと泣く紬だった。温もりに安堵しながら、私も彼女の背中に手を回して、ブレスレットを眺めた。
 落ち着いた頃、二人で二年生の廊下を渡り歩く。望月くんのクラスも良かったが、占い、巨大ジェンガ等バラエティに営んでいる。
 面白いのが、焼きそば屋と焼きうどん屋が並んでいたところ。悩んだが焼しうどんを食べることにし、教室の中に入り、席について、注文して待っていると、目の端に、望月くんの元彼女の姿が映る。友達と来ているようで話が盛り上がっている。
 仲良さそうだったんだけどな。あの人、浮気したんだ……。
 つい冷めた目を向けていると、いっせい、と彼女が言ったのが聞こえた。思わず聞き耳を立ててしまう。
「文化祭なんて特に一声を連れ歩くには気持ち良さそうなんだけどなあ」
「酷いこと言う! 浮気したくせに」
「まあねえ、だってあいつ実は女々しいっていうか、記念日とか細かいし、結構疑ってくるし、ノリとかもさ、子どもっぽくない?」
「あー、わかる。ほんと、顔だけだよねえ。うちのクラスでは太郎くんの方が人気だよね、みんな知らないんだろうなあ」
「ね。あの男、顔が悪かったらどうなってたかって考えるとウキウキしちゃう、きっと酷い虐められ方してたんだろうなあ」
 徐々に聞こえてくる声が大きくなってくる。視界も動いていて、気付いたら、彼女たちを見下ろしていた。「あ、歩咲っ、歩咲ったら」
 紬の声で我に返り、それでも私は彼女たちを、元彼女を睨み付けていた。
「何? あんた」
 驚いていたが負けじと彼女も顔を険しくし、私を見上げてきた。そして鼻で笑うと、ああ、と片手をひらりと上げた。
「分かった、一声のファンだ。よくいるんだよね。やめときなよ、あんな男。重いよー」
「それの何が悪いんですか」
 へらへらしていた顔が固まる。歩咲、と情けない声が聞こえてきたが、私は続けた。
「信用出来ない、させられないあなたが悪いんじゃないんですか。大体連れ歩くって何ですか、彼を犬かなんかだと勘違いしていらっしゃる? 馬鹿なんですか? 馬鹿なのはその金金の頭と言葉だけにしてくださいよ」
 口が止まらない。彼女の顔が真っ赤になっていく。なのに私の頭は冷えていった。冷静に、胸の内に怒りを孕んで。
「何よあんた、なんで見ず知らずの人にそこまで言われなきゃいけないわけ? ただのファンのくせに! それともあんた、あいつの差し金? 一声の何なのよ!」
「何でもないです。無関係です。ただこの楽しい空間に、あなたみたいなゲスがいると空気が淀む。分かりませんか? 人の悪口を馬鹿みたいな大声で話してたんですよ、あなたたちは。そんなものを聞いて、嬉しい人なんて少数なんです、例えそれが知らない人の悪口でもね」
 私が視線を走らせると、彼女も気付いたのか、同じように辺りを見渡す。それから息を飲んだ。みんな、私たち……いや、彼女たちに、冷たい視線を送っていた。
「出ていってください」
 誰かがぽつりと口にする。それを合図に、出ていけ出ていけ、とあちこちで声がする。私も習うことにした。
「出ていって」 赤かった顔を歪め、彼女たちは私を睨み付けると教室を飛び出した。教室内の緊張の糸が張り詰めていたが、ぐわんと緩み、みんな笑顔になった。振り向くと紬の安心したような顔を見て、私も笑みを浮かべた。
 焼きうどんは美味しかった。醤油ベースに豚バラとキャベツ、人参などが入っていて結構お腹が膨れてしまった。その横の焼きそば屋はツナが入っているらしいが、もう入りそうにない。
「それにしてもびっくりした」
 教室を後にすると、紬が口にした。私は首を傾げた。
「いや何がって顔してるけど。メニュー見てたらいつの間にか歩咲が上級生に食ってかかってるんだもん、そりゃびっくりするでしょ」
「ああ……でも大声で、あんなの誰もいい気しないでしょ。ま、人のこと言えた義理じゃないけど」
「……歩咲……」
「だからこそ、かな。経験談だよ」
 眉を下げて口を噤む彼女に、心配かけまいと笑いかけてみる。
 そう、私が言えた義理じゃない。ポケットに入れたブレスレットを握りしめ、あ、と思い出す。
「ごめん、もう時間だ! 戻らなきゃ」
「また後で食べに行くね」
 紬に見送られながら急いで教室へ向かう。人の間を駆け抜けながら、思い出されるのは中学時代のこと。……忘れよう。今は、楽しいのだから。足を早め、教室へ向かった。
 私が教室に戻ると、続いて休憩に入っていた神崎さんグループも戻ってきた。その中に葉月くんと真咲くんもいて、微笑ましくなる。
 見てわかるくらい、二人は神崎さんが好きだ。クラス内で二人の好意は周知の事実。まさに青春の主人公と言わんばかりの神崎さん。
 中学時代の私も、その位置にいたと思う。けれど神崎さんと違って、私は日々演じていた。ナチュラルではなかった。私の暗さは、尖っていた。
 休憩に行く子達と入れ替わり、再び店を回していく中、さっきよりは忙しくないことに気付く。
「落ち着いてきたね」
 神崎さんが私の横に寄ってきて口にする。
「まあみんな散々食べたあとだろうし、飲食はこういう時痛いよね」
 残念そうに言うものだから、元気だなあと思いつつ、お腹を摩った。「おにぎりならぽんぽんお腹に入ると思うんだけどね」
「あさっきーだけでしょ、それ」
 笑い声を上げて、隣にいた子に、ねー、と同調を求める。私はわざと唇を尖らせた。
 あさっきーとは教室内での私のあだ名だ。神崎さんが付けてくれた。それを嬉しいと思うし、心地いいと感じる。
 初めから気負わずに、このままの私で接したから手に入れた心地良さ。私は神崎さんみたいに青春の主人公じゃなくても、今の位置が気に入っている。
 その時、きゃあ、と黄色い声援が上がった。入口の方を見るとそこに立つ人物にどきりとしてしまう。
 望月くんだ。一人で来たらしい。
 思わずポケットの中のブレスレットを握りしめた。
 私は、これは望月くんからのプレゼントだと思っている。そうでなければ間違えて誰かが私に手渡したとしか思えない。それほどこれを渡される心当たりがないから。
 クラスの女子が駆け寄り、いらっしゃいませ、とワントーン声を上げて出迎えた。
「何名様ですか?」
「寂しく一人だよ」
 肩を竦めてキザったらしく笑みを浮かべている。どこかでまた声が上がった。
「全然寂しくないです! 今どき一人なんて普通ですから! さ、先輩、特等席があるんですよー」
 女生徒は上機嫌に望月くんを窓際の一人席に案内すると、メニュー表を渡した。
「変わったメニュー名だね。全然味が分からないや」
「えへへ、そうでしょ? 変わったメニュー名にしよって、そこの子の提案なんですよ」
 突然指を差され、望月くんの目が私を見る。私を、映す。
 初めてのことだった。学校で、この青春の場で、彼が私を見るのは。
 勢いよく顔に熱が集まるのがわかった。ぶわっと体温が上がり、鳥肌が立ってしまう。隠すように頭を下げた。「みんなで考えたんですけど、どうですかあ?」
「センスの塊だな。面白いよ、俺も見習いたい」
「いやいや、先輩に比べたら」
「いやあ、俺芸人目指してるから」
「うそ!」
「嘘」
「もう、先輩ったら」
 二人の笑い声が聞こえてくる、はずなのに、望月くんの笑い声だけがやけに耳に届く。大きく、響く。
 びっくり、した。まだ顔が熱い。
 夢の中で毎日会っているのに、外でだって、海とか、花火大会とか、そういう場でも会っていたのに、今までとは違った。
 特別な場じゃない、青春という時間の中の、私の生活に彼がいる。ただそれだけのことが、こんなにも、言葉にできない気持ちにさせるなんて。
「あさっきー、顔赤いよ」
 神崎さんに頬をつつかれ、思わず飛び退いてしまう。にやりとからかう調子が顔に乗るのが分かった。
「へえ、そっかそっか、あさっきー、望月先輩のファンなんだ。このクラスにもいっぱいいるもんね。よし、あたしが一肌脱いで」
「い、いい、いい、やめてっ」
 腕まくりをして力を入れる神崎さんを止めていると、あっれー、と素っ頓狂な声が発せられた。
 その声は聞き覚えのあるもので、私は、固まってしまう、
「歩咲じゃん」
 ゆっくりと振り向くと、中学時代、仲良くしていた子たちがいた。
「え、ほんとに歩咲じゃん! そっか、紬と一緒の高校へ行ったんだっけ」
 みんな、変わっていない。ゆう、チエ、ナッツ、みつちゃん、それに、カッパ……。
「あさっきー、友達?」
 掴まれたままの神崎さんが、私の腕を解くと耳打ちしてきた。けれど答えることが出来ずに、生唾を飲む。
 カッパが、にたりと笑った。その笑みは私を傷付けるには、十分なもの。
「久しぶりじゃん、歩咲。またクラスのリーダー面して、人の揚げ足取って、笑い取ってんの?」 おかっぱ頭だから、カッパ。そう名付けたのは私。今や私しか呼んでいないあだ名。カッパもとい山田夏希は、いじめっ子だった。
「あんたこそ……また、自分より弱い子虐めて満足してんでしょ」
 やっと絞り出した反論だが、カッパは鼻で笑った。
「私たち同じようなもんじゃん、何が違うの? あ、あなた、歩咲の友達?」
 標的を神崎さんに変えて、詰め寄ってくる。私は彼女の前に出たが横に突き飛ばされてしまった。
 そのせいで教室内の視線を集めてしまう。
「ちょうどいいや、みんな聞いてー! この星村歩咲はね、私を虐めた極悪人なんだよー」
「いじめって」
 そうじゃない。違うだろ。声を上げようとしたが、目の端に望月くんが映る。
 望月くんが、ここにいる。
 血の気が引いていく。
 私ね、最低なの……。いつか彼に晒した本音が、頭の中で響く。
「やっと歩咲と学校別れられたのに、ここでも同じようなことをするのかと思うとこのクラスの子たちが可哀想で。いわば親切心だよ、そこのあなた、名前は?」
「……神崎」
 ぶっきらぼうに、放たれた名前を山田は反芻して頷いた。
「神崎さん、気を付けた方がいいわ。あなたもこの女に虐められかねない。この女はね、教室内の一番目立つ子の懐に入って寝首を掻くんだから。そういう女なの、気付いた時にはもう遅い、クラスみんなこいつの味方になってるんだから」
 違う。違う。違うだろ。言いたいのに、望月くんの視線が刺さって、みんなの視線が突いてきて、声が出せない。痛い。怖い。あの日のことが思い出される。心臓が、バクバクと大きく音を鳴らす。
「俺にはそう見えないけど」 ざわざわと騒がしかった声を貫いた一声に、ピタリと声が止む。私は、いつの間にか瞑っていた目を開け、横に立つ葉月くんを見上げた。
「あたしにも見えない」
 後ろからも発せられ、振り向くと神崎さんが山田を睨みつけていた。真咲くんに腕を引っ張られ、立たされる。大丈夫か、と耳打ちされ、驚きながらも頷くと微笑みを返してくれた。
「何があったか知らないけど少なくともこんなところでそんなことを言うあんたの方がよっぽどあたしたちには極悪人に見える」
 はっきりと神崎さんが言ってくれて、体温が戻ってくるような感覚に見舞われる。身体の機能が、正常に戻っていく。
「そんな奴らに売る焼きおにぎりなんかねえから帰んな」
 真咲くんの怒った横顔に釘付けになっていると「バッカみたい」と山田は一蹴した。見ると顔を真っ赤にして震え、私を睨みつけていた。
「あーあー人がせっかく親切心で言ってやってんのに」
「うるせえ帰れ帰れ」
 ぶつくさ言っていた彼女を、神崎さんが押して教室から出した。釣られて他の子達も帰っていく。私が何か言う間もなく、嵐が過ぎ去ったことに呆然としてしまっていると教室にいたクラスメイトたちが駆け寄ってきてくれた。
「気にしないでね、あさっきー」
「あさっきー確かに余計な一言多いけど悪い子じゃないって分かってるから」
「みんな過去なんか色々あるから、こいつなんてもっと悪いことしてるから」
「あ、言うなよ!」
 他にも、みんながみんな慰めてくれる。その温かさについ熱いものが込み上げてきて、俯いた。
「うるさ……みんなで来て、どうすんの。お客さんたち待たせちゃってるよ」
 あ、確かに、とどこからか聞こえてきて、それぞれ配置に戻ろうと踵を返す。 こんなことを言いたいんじゃない。もっと、もっと、この嬉しいって気持ちの奥深くにある言葉を……。
 大勢の背中に、たどり着いた言いたかった言葉を張り上げた。
「ありがとう! みんなっ」
 クラスメイトたちが振り向く。その中心に、神崎さんと真咲くん、葉月くんがいる。みんな笑顔を向けて、親指を立ててくれていた。
 そうして夕方になると無事文化祭は終わりを迎える。大雑把に片付けを終え、翌日に細かい片付けをするらしく、打ち上げもその後になった。
 最後はグラウンドで閉会式を兼ねたキャンプファイヤー。私はクラスで固まりながら、眺めていた。
「なーんかさ」
 私の横に腰掛けていた神崎さんが肩を寄せてきた。つん、と香水の匂いがする。あんなに汗をかいたはずなのに、ギャルはいい匂いを絶やさないものらしい。
「青春って感じだったね」
「青春?」
「うん、文化祭準備もさ、今思えば青春だったなって。今日も楽しかったし。青春って後から思うもんなんだね」
「……だね」
 私も、彼女に肩を預けてみた。オレンジ色の灯火が神崎さんの身体を照らす。疲れた。でも、嫌な疲れじゃない。充実感に溢れた疲労感。彼女の言うように、この準備期間から今日のことをつい思い返してしまう。
 私も、私の生活にも、青春を乗せられていたのだろうか。だったら、嬉しい。嬉しいけれど……。
 私は、望月くんのことを思い浮かべた。いつの間にか望月くんはいなくなっていた。
 クラスのみんなは、山田の言ったことを深くは聞かない。けれど、望月くんには聞いて欲しい。勘違いをしているなら解きたいと思う。目をつぶった。
 ここに、望月くんがいてほしい。
 初めてそう思った。
 その日は、あまりの疲労にベッドに倒れ込むと泥のように眠った。