夏休み最終日を飾るには素晴らしい快晴の日、私は蒼菜と海へ来ていた。電車を乗り継いで二駅。砂浜にパラソルを刺し、水玉模様のシートを敷いて、さっさと服を脱いで新調したと言っていた水着を私に見せてきた。
「じゃーん! 可愛い?」
 服の下に着てきているから同じように脱ぎながら「可愛いんじゃない?」と返す。本音だ。蒼菜の水着は、ピンク色をベースとしたフリルのついた水着。可愛い雰囲気の彼女には良く似合う。
 対して私は無難にミントグリーンのビキニ。去年も同じものを着て海へ来たが、まさか蒼菜と来ることになるなんて去年の私は考えもつかなかっただろう。
「まずは、泳ぐっ?」
「そうだね。あ、蒼菜、走ったら危ないって。ああ、もう」
 私の返事を聞く前に駆け出した蒼菜の後を、浮き輪を腰に装着してから追いかける。青い空、青い海、輝く太陽。まさに海日和。私たちは海へ飛び込む。
 冷たさが身体中を纏い、水しぶきが光を吸って輝く。
「お姉ちゃん! えいっ」
 水をかけられ「やったな」と私も応対する。二人の間に笑い声と水しぶきが弾く。眩しい。
 その中でも蒼菜の顔を改めて見て気付く。きゃっきゃっとはしゃぐ妹を何年ぶりに見ただろう。いつもこの調子の蒼菜だが、こんな風にお互い子どものように遊んだのはいつぶりか。
 それに、私も蒼菜といて楽しいと思えたのはいつ以来か。
 しばらく二人でそんな風に遊んで、泳いで、蒼菜に浮き輪を引っ張ってもらって遠くまで行ってみた。
「蒼菜、泳げるようになったんだね」
 小さくなった人々を眺めながら呟いた。蒼菜は立ち漕ぎも習得しているらしく、余裕綽々の顔で笑った。
「うん、家族で毎年海へ行ってたでしょ? 私もお姉ちゃんも泳げなくてさ、お父さんもお母さんもつまらなさそうにしてたから。絶対来年は泳げるようになるぞって頑張ってたんだ。行かなくなっちゃったけど」
 あっけらかんと言ってのける。蒼菜はいつもこうだ。そこに悪気はなく、本当は嫌味じゃないことも知っている。そのまま思ったことを、事実を、言っているだけ。
 この青空の下では私もひねくれることを忘れて、そうだね、と返した。
「また家族で行けたらいいね」
「無理でしょ、私たちわりと大きくなっちゃったし。ああいうのって幼い内に行くもんでしょ」
「蒼菜たち次第だよ」
「……そうだね」
 本当に、そうだと思った。蒼菜は私の浮き輪に手を置くと顔を覗き込んできた。
「お姉ちゃん、前にお母さんがお姉ちゃんの話を一瞬だけしたって言ったの覚えてる?」
「忘れるわけないよ」
「お父さんがね、あれ以来お母さんを揺さぶってみたり、カウンセリングへ連れて行ったりしてるの」
「え、そうなの?」
 初耳だった。しかし言われてみれば、私は部屋にこもっていたり、紬の家に遊びに行ったりしていたから、知らなくても当然と言えた。
「揺さぶるって?」
「お姉ちゃんの名前を言ってみたり、思い出を話してみたり。お母さん、その時だけボーっとするの、スイッチが切れたみたいに」
「ああ……。嫌なんでしょ、私の話なんか」
 困ったように表情を歪めている。けれどこれもまた事実だ。「私はお母さんに愛されてなかったから。蒼菜みたいに可愛がられてないの、見てたでしょ?」
「それは……。ううん、もしかしたら、蒼菜のことこそどうでもよかったのかも」
「そんなわけ」
 笑おうとしたが、彼女の表情が思ったよりも曇っていることに気付く。私は彼女の言葉を待つことにした。
「蒼菜ね、お父さんが言うように、お母さんはしつけとしてお姉ちゃんにあんなことやってるんだって思ってた。でもこの前お姉ちゃんとお父さんの会話を聞いて思ったの、あれがしつけだったんなら、何で蒼菜は同じようにされてないんだろって」
「それは」
 可愛がられていたからだろう。蒼菜が可愛くて、優秀で、怒るところ一つも見当たらなかったから。そう言おうとしたが、蒼菜は続けた。
「蒼菜のこと、どうでもいいからだって気付いた」
「蒼菜……」
 彼女の言葉には、信憑性を感じられた。そんな訳ないのに、本当にそうである気がしてくる。私は空を仰いだ。綺麗な青空が広がっている。
「それでも、家族で海へ行きたいの?」
「……楽しかったから。お姉ちゃんと今日遊んで特に思ったの。みんな、楽しい時は好きとか嫌いとかないでしょ?」
「蒼菜……」
 彼女に視線を向けると、真摯に私の目を見つめていた。その目は観察するような、私の心を見透かすような瞳をしていて、私の脳裏にこれまでの彼女への態度が蘇ってくる。
 同時に、これは私にも向けられた言葉なのだと気付いた。「蒼菜……ごめんなさい」
「何が?」
 淡々と返され、どきりとした。それはおよそ彼女のものとは思えないくらい冷たい声。
 改めて浮き輪の紐を持たれる。まるで、私の生命を左右されているよう。
 生唾を飲みこみ、それでも私はそのことを忘れて目の前の妹に誠心誠意を見せなければならないと頭を下げた。
「これまでのこと。あなたにきつく当たってしまって」
「蒼菜のこと、どうでもよかった?」
「……どうでも良くないよ。あなたのこと、憎いって思ってた」
 嘘をついてはいけない。だから本当のことを言ってしまったが、後悔した。けれどもう止めることも出来なかった。
「私より頭も良くて私よりも器用で、可愛くて、誰からも愛される蒼菜が憎いって思ってた。あなたがいれば私なんかいらないんだって、あの家にいるといつも突き付けられる。それでもあなたが私を慕うから……傷付けても、傷付けても、私を嫌いにならないからっ」
 だから、より鋭利に、より研ぎ澄ました言葉をぶつけた、なんて誰が許してくれるだろう。
「蒼菜がこんなだから傷付かないと思った?」
 思わず顔を上げた。この青空の下には似つかわしくない、無理に笑おうと歪めた顔があった。
 私は、言葉に詰まった。実際のところ、そうなのかもしれない。だから、蒼菜にきつく当たっていたのかもしれない。手応えを感じないから。私も、彼女を傷付けても痛くも痒くもないから。
 最低だ。この子だって思春期を迎えたただの女の子なのに。 ついに顔を背けてしまう。もう何も言えなかった。私たちの間には深い溝が出来ていたのだと思い知る。
 ところが、私の手に少しだけ冷たくなった手が重なった。釣られるように蒼菜の顔を見ると、不思議な表情に変わっていた。嬉しそうな……。
 蒼菜は重ねた手の上に、笑みを浮かべて頬を寄せた。
「ごめんね。意地悪しちゃった」
「え?」
「本当はね、蒼菜、お姉ちゃんにきつく当たられるの好きなの」
 上目遣いで言いのけた言葉の真意が分からずに戸惑った。彼女はそのまま続ける。
「お姉ちゃんだけなの、蒼菜に強い感情を向けてくれるの。友達も、お父さんも、お母さんも、みんな優しくしてくれる。でもそれってきっとどうでもいいから出来ることでしょ? お姉ちゃんは違う、それが良い気持ちじゃないとしても、蒼菜には暖かく感じられたよ。だからお姉ちゃんはあの家に必要だよ。これからも敵視して」
 ゆっくりと頬を離して、私の目を見てお願いをしてくる妹を、ただ私は同じように見つめ返すことしか出来なかった。微笑む妹は不気味にも見えたし、天使のように神々しくも見えた。
「戻ろっか」
 どれだけの時間、二人で見つめ合っただろう。本当は数秒なのかもしれない。浮き輪の紐を引っ張ってくれる背中を眺めながら、妹の知らない一面を作ったこの長い時に思いを馳せた。
 砂浜に戻ると蒼菜はいつもの明るい彼女に戻っていた。海の家でご飯食べよ、と提案され、引っ張られる手を「やめて恥ずかしい」と振り払う。
 ついいつもの調子で言ってしまったが、蒼菜は気にもとめていないようで、ぶう、と唇を尖らせた。少しだけ安心する。「だって仲良しみたいじゃん」
「仲良しじゃないの? 蒼菜たち」
「……普通でしょ」
 前までは仲良くなかった、と断言出来る。やっと普通に戻ったくらい。でも蒼菜にとってはずっとそうだったから、これは私の気持ちが少し変わったということなのだろう。
 脱衣場や休憩所、フードコートが併設している海の家へ戻り、ロッカーに入れていた財布を手に取って二人でメニューとにらめっこ。あれも食べたいこれも食べたいという蒼菜を横目に、私もつい優柔不断になってしまう。焼きそばもいいしカレーもいい、ラーメンもありだし、あ、おにぎりがある。おにぎりは外せないだろう。デザートも……。
「かーのじょ」
 蒼菜の横から声が発せられ、先に反応したのは私の方だった。見ると大学生くらいの男性数人が私たちの周りを取り囲んでいる。私たちのようにレジに並んでいる……ようには見えない。
「悩んでるなら俺らと一緒にシェアしねえ?」
「え、本当ですか?」
「蒼菜」
 乗り気になった蒼菜をすぐに窘める。ぺろ、と舌を出して私にウインクしてきた。軽い謝罪……のつもりなのだろう。
「間に合ってます。私たちここで食べるのやめますので」
「えーそんな釣れないこと言わないでさあ」
 腕を掴まれ、振り払おうにも力を入れられてしまう。痛くて顔を歪めると心なしか男は嬉しそうに口元を歪めた。レジの人も止めてくれたらいいのに、と思ったが同じようにおろおろしている女の子の顔を見て諦めかけた時だった。
「あーだめだめ、その子ら俺らと食うから。な?」 男たちの間を割り込んで入ってきた男性が二人。私たちの前に立つ大きな背中を見上げる。な、ともう一度言われ、そうです、と咄嗟に声を張り上げた。
「連れがいるので! 間に合ってますっ」
 何だ男連れか、と群れが解散していく。ホッと胸を撫で下ろし、振り向いた男性たち……というよりは、あの男性たちが去ったから見えたその顔に驚いてしまった。
 望月くんだ。彼も驚いたように私を見ていた。
 私たちの前にたってくれた、二人の男性は知らないが、眼鏡をかけているのにチャラそうな男の子と金髪の男の子、三人に頭を下げた。
「あ、ありがとうございました。蒼菜も」
「ありがとうございまーす。お兄さんたちかっこいいですねえ、本当にシェアしませんか?」
「蒼菜」
 窘めるが今度は無視され、彼らに釘付けだった。話がトントン拍子で進んでいく中、私はつい望月くんと目を合わせた。彼もまさかこうなるとは思わなかったのだろう、肩を竦め、困ったようにはにかんだ。
 蒼菜の誘いに乗ってきた三人を連れ立って、どうせならとパラソルの下で食べることになった。元々家族で使っていたシートだ、五人くらいなら座れる。私は望月くんと蒼菜に挟まれて座り、五人の真ん中に広げられた料理たちに喉を鳴らしてしまった。
 まずはおにぎりから。塩加減もちょうどよく、具は昆布。昆布のタレが米に染み込んでいるのがポイントだ。美味しい。四人も各々に食べ始め、蒼菜を中心に話題が尽きない。さすがだ、と感心しながら、望月くんを見る。 意図せず望月くんと関わることになった。花火大会の日、現実で関わるのはあれを最後にしようと誓ったのに。しかし、これは不可抗力と言える。
 当たり前だが上半身裸の望月くんを見るのは初めて。わりと筋肉質なのか、胸板は厚く、それなりに焼けた肌が太陽光で勇ましく光る。海パンはシンプルなブルーのグラデーション。よく似合っていた。
 ここへ来る途中、自己紹介をみんなしたが、望月くんとも当然素知らぬ顔でお互い挨拶をした。彼は役者らしい、本当に少しも知らない顔で自己紹介をしてのけた。
「今日はナンパをしに来たんだけど、まさか逆ナンされるなんてね」
 金髪くんがへらへら笑いながら言った言葉につい望月くんに視線を走らせた。やはり素知らぬ顔をしている。
「でも結構されるんじゃないですか? お兄さんたち本当にかっこいいから」
 蒼菜のおだてに、まあ、と高らかに声を上げて照れ、望月くんの肩に手を回した。
「特に今日は一声がいるからさあ、よりどりみどり! な、一声」
「おうよ! この海の女ぜーんいん俺たちのもんよっ」
「お前がいたらマジでそうだわ! いやあ、一声誘ってよかったっ」
 いつものお調子者を出しているが、顔が引きつっていることに気付く。誰も気付いていないのか、望月くんをおだてて持ち上げている。
 それに、何か違和感を覚える。三人を観察しながらおにぎりに手を伸ばすと「お姉ちゃん、蒼菜たちのおにぎり食べ尽くすつもり?」と制され、笑い声が起きた。一人二個として買ったおにぎりに気付いたら手を伸ばしていた。
「いいよ、俺の食べな。歩咲ちゃん?」
 望月くんがにこやかに差し出してくれたが、いつもとは違う呼び方に寒気というか、虫唾が走り、つい目を細めた。「あ、飲み物切れそうだし買ってこよっかな?」
「あ、じゃあ俺着いてくよ」
「俺も。一声は歩咲ちゃんと守っててよ」
 蒼菜が立ち上がると望月くんを除いた二人が後を追った。あれなら心配もないだろうと私は頂いたおにぎりを頬張る。
「おにぎり好きなんだ?」
「そうだよ」
「姉妹なんだな」
「そうだね」
 素っ気ない返事になっていることに気付いたが、やめる気もないし背を向けてやった。「星村?」と戸惑った声で問いかけられた。
「ナンパしにきたんだ。望月くん、そんなことするんだね」
「あー違う違う、無実。あの二人に誘われたんだ」
「でもノコノコ着いてきたんだ」
「うん、まあ、俺が別れたことあの二人も知ってるから誘ってくれたんだ。無下には出来ないだろ」
 ちらりと望月くんの方を振り向くと、目を伏せていて、夢で見たあの日の望月くんを思い出した。私は彼に向き直ると「ごめん」と頭を下げる。
「何か、私の中の望月くんって誠実な人だからナンパなんて汚いことするんだって思って」
「……どうだろ、俺は誠実じゃないよ。星村の言うように、汚い人間かも」
 思わず顔を上げた。らしくない返答と投げやりな言い方に驚いた。彼は相変わらず目を伏せ、口元に笑みを浮かべているが、笑みというよりは歪めた形で言葉を紡ぐ。
「星村が思ってるような人間じゃないよ」
「そんなの」
「俺のこと、何にも知らないくせに」
 ようやく合わせた目は、暗く淀んでいて、私は何も返せなかった。何を言えばいいのか分からず、でも何かを言いたくて、言葉を詰まらせていると、望月くんは明るく笑った。「なーんてな。仕返し」
「し、仕返し?」
「何か気に食わないみたいだったから?」
「別に……望月くんが、ナンパしてようがどうでもいいし」
 そっぽを向いて、安心して笑ってしまう。同じように彼も笑ってくれ、知っている空気が流れる。よかった、いつもの望月くんだ。
「それより、今日は屋詰さんいないんだね」
「ああ、タロちんは本命の子が出来たから」
「ふうん?」
 浮かんだのは花乃子の顔。もしかしたら二人とも本当にそうなっているのかもしれない。勝手な妄想しないで、と頭の中の花乃子が制してくる。つい笑みを零すと「それよりそれより、妹いたんだね」と一度流した話題を蒸し返された。
「まあ……似てないでしょ、素直で可愛い子なんだよ」
 ちょっと拗らせているみたいだが。こっそり苦笑いが出てしまった。
「いや、そっくりだよ。星村によく似て可愛い。水着も、よく似合ってる」
「またまた。そんなおべんちゃら……何も出ないよ」
「ええ、本当だって、じゃなきゃナンパされないでしょ」
「軽そうな女の子に声かけるって聞いたことあるんだけど」
 呆れたように返してみたが、胸中が騒がしくなった。ちぇ、と唇を尖らせる望月くんを見て、落ち着け、と自分を制す。今のは冗談だ。 戻ってきた三人から、私たちの分の飲み物も買ってきたと手渡される。行く前よりも親しくなっているように見えた。三人は連絡先交換をし、食べ終えると海へ駆け出した。
 結局私は十個のおにぎりを平らげ、望月くんに驚かれた。好きなのだから仕方ない。立ち上がって彼の手を取ると引っ張って立たせ、腰に浮き輪を装着した。
「へえ、星村泳げないんだ」
「悪い? そういう望月くんは泳げるの?」
「まあ運動全般得意で通ってるから」
 ふふんと鼻を鳴らす彼を置いて駆け出す。あ、待てよ、という声と共に追いかけてきて、二人で海へ飛び込んだ。
 水しぶきが舞う。さっきよりも強い光を放って、高く、望月くんの周りでキラキラと輝く。青い空、青い海にいる望月くんは綺麗で、あれ、青春してしまってるかも、と思ったがもう遅い。
 楽しい。楽しさの中では確かに好きとか嫌いとか、青春とか、悩みとか、どうでも良くなる。蒼菜の言っていたことがよく分かる。私たちははしゃいで、笑って、最後の夏休みを謳歌した。
 夕方頃に望月くんたちと別れ、私たちも帰路につく。腕に絡まってきた蒼菜を振りほどこうとしたが強い力で締め付けられ、諦めた。
「暑い」
 一応抗議するが無視して「楽しかったね」と返される。
「蒼菜に年上の彼氏が出来ちゃうのも時間の問題かも?」
「あ、そ。よかったじゃん」
「お姉ちゃんは一声くん狙い?」
「そんなわけないでしょ」
 彼女の額を小突く。ぶう、と唇を尖らせている顔がおかしくて笑う。 夕日が遠くの方で落ちようとしている。赤い空が秋を想像させ、昼間の鋭利とも言える暑さとは違った、緩い温もりに、夏休みの終わりを感じる。
「明日学校だね」
 蒼菜の言葉に頷く。気持ちが乱れた夏休みに思いを馳せ、二学期の新たな予感にわくわくした。
 その日の夜、私と望月くんは海にいた。昼間とは違って、星々が瞬く夜空が広がっている。ザザン、と音を立てて打ち寄せる海を前に、私たちは体育座りで眺めていた。
「楽しかったな」
 望月くんがぽつりと言う。まるでロボットのような、抑揚のない声。疲れたのだろう。
「楽しかったね。……実を言うとさ、蒼菜と海へ行くなんて……ううん、どこかへ行くなんて、久しぶりだったんだ」
「そうなんだ?」
「うん。私は……蒼菜に対してコンプレックスを感じてて、それが解消された訳じゃないんだけど、少し分かり合えたの。あの子がそのままでいていいって許してくれたから」
「へえ……凄いな」
 静かな声だった。さざめく海の音も相まって、歌のような軽やかさに心地良さを覚える。この静けさに身を委ねてみたくなった。
 視界に広がる海。水色に輝いているのは、月の光を乗せているからだけじゃないだろう。この夢の中では何もかもが綺麗に映る。ここで住んでしまいたくなるくらいに。
「明日から二学期か」
 静かな声が海の音に乗せられて届けられる。彼の顔を覗き込んでみた。海の光に照らされた顔は笑っているように見えたが、暗くて細かいところまではよく見えない。「大丈夫? その、彼女さんと……」
「うん、大丈夫。明日の俺が頑張ってくれる」
 声音だけでは、彼の表情が読み取れない。相変わらず笑みを浮かべている顔。そうだね、と返してみた。
「だから今日は……今だけは、このままで」
 祈りのようなその言葉に、私は星空を見上げ、両手を合わせて願った。ただただ、彼の横で平和を願い続けた。
 二学期が始まり、九月も終わり頃になると話題は文化祭の件で持ち切りだった。例に漏れず、私のクラスも初めての文化祭で浮き足立っている。その前に二年生は修学旅行なのだが。
 夜、いつものように夢の中で私たちは顔を合わせていた。
 いつもと少し違うのは、お互い体操服を着て、体育館にいること。望月くんの手はバスケットボールを叩いていて、私は彼からボールを奪おうと手を出すがかわされる。
 キュッキュッと床を鳴らす音が私たちの後を追う。シュートを決めようとするその身体の前に躍り出ると大きくジャンプしてみせたが、呆気なくシュートを決められた。
「はあ……ああ、悔しい」
 タイミングを完全に図られた。敗因は焦ってジャンプしたから。……だと思うが、余裕そうに笑う彼を見て、それだけじゃないと窺える。
「星村もわりとやるんだな」
「よく言う……。ぼろ負けだよ」
 軽快な笑い声を上げて、またシュートを繰り出す。何でそんなにぽんぽん入るんだ。私の時は全然なのに。跳ねるボールをつい睨みつけた。 今日の休憩時間の時、移動授業のため体育館の前を通ると望月くんのクラスは体育らしく、早めに来て遊んでいるのを見つけた。以前に海で出会った男性二人と、屋詰さんを交えて。その顔は青春を謳歌している、いつもの彼。
 私は羨望の眼差しで、それから安心感で眺めてしまう。
 二学期が始まると学校で彼を見掛ける回数は増えていった。いや、私が以前よりも彼を見つけてしまっているのかもしれない。
 学期が始まってからの彼は、どこにいても、翳りを帯びているような気がして探してしまっていた。本当はそんなことないのかもしれない。私が気にしているからそう見えるだけだと思いたい。
 それでもどうしても気になってしまっていたが、客観的に、離れて見ると私とは違う世界で生きる明るくて人気者、接点がなかったら絶対関わらない人に変わりなくて、私は陰ながら安堵のため息を吐いていた。
 それでよほど楽しかったのか、バスケットボールを夢の中でもしている訳だが、疲れはないはずのに「疲れたあ」と休憩をねだってしまった。彼は笑いながらボールを抱えて私の横に腰掛けた。
「修学旅行、どこ行くの?」
「沖縄だよ」
「また青い空、青い海かあ。いや、沖縄の海の方が綺麗か」
 海で遊んだ日のことを思い出すが、その時よりもより綺麗な海でより楽しむ望月くんを想像する。修学旅行なんてまさに歩く青春が輝く時だろう。
「星村も同じ学年だったらよかったのにな」
「いやあ、歩く青春と同学年なんてより私の暗さが際立つよ」
「歩く青春?」
「こっちの話」
 そういえば望月くんには言ったことなかった。別に言ってもいいのだがつい隠してしまう。危ない危ない。 望月くんは首を傾げたが、視線を真っ直ぐに口角を上げた。
「星村はそんなに心配しなくても暗くないよ。海がよく似合ってたし」
「そうかな」
「そうだよ。水着も本当によく似合ってた」
 私の方を向いてはにかむ笑顔に、思わず目を細めた。
「何か企んでる?」
「酷い! 事実なのになあ」
 不満げに眉をしかめる彼を見て、僅かに高鳴った鼓動を隠すように悪態ついたことを心の中で詫びる。
 最近の私は、彼のことが前よりも好きになってしまったらしい。この時間がもっと続いて欲しいし、私も彼の青春に混ざりたいと思ってしまっている。つまるところ、もっとという気持ちが湧いてきた。もっといたい。もっと話したい。
 けれど、現実の彼と接触をしてはならない、そんな予感がいつまでも拭えない。最初はこんな不吉な予感は感じなかった。
 ただ、私たちは生きる世界が違うから目立ってしまう。彼の作る輪に入るのも嫌だ、という気持ちからだったが。
 今は、学校で彼と接触をしてしまったら、彼の青春に入ってしまったら、この場所を失いそうで怖い。私は彼もだが、この場所も好きなのだ。
「まあでも本当、星村が同じ学年だったら楽しかったろうな」
「そう? 私面白い人間じゃないけどな」
「少なくとも俺の周りにはおにぎりを十個も平らげる子いないよ」
 思い出したのか、くすくすと笑い始める。そんなに笑わなくても。あえて唇を尖らせてみた。
「いいじゃん、健康的ってことだよ。ところでさ、修学旅行のお土産何かいる?」
「お土産って、ここに持ち込めないでしょ」
「うん、だから渡しに行くよ」 簡単に言ってくれる。私は頭を振った。
「いいよ。クラスに来られても目立つし。望月くん、私の学年でもモテてるんだよ」
「ええ……そうなんだ。まあ有難いけど……」
 浮かない顔で、ため息まで零した。顔のいい人種の悩みではあるだろうが、贅沢な悩みだ。やれやれ、と肩を竦めてみせると、突然思い出したように、星村だって、と続けた。
「前のメンバーに受けてたよ、そういえば」
「前?」
「ほら、海に行ったメンバー。メガネの男がいただろ? あいつが星村のこと可愛いって」
「星村は星村でも、星村蒼菜の方でしょ」
「いやいや、蒼菜ちゃんに連絡先聞いたのも、星村……歩咲の方の連絡先を聞くためだからって。あの時の星村、あいつらに素っ気なかったから、あんまり話しかけらなかったみたいでさ」
 不覚にも、あさき、という響きが気持ちいい。ふうん、と返しながら、そんなこと蒼菜は一言も言ってなかったことを思い出した。
 ただあれ以来、度々望月くんとは進展があったかどうか聞かれるから、蒼菜なりにいらない気を使っているのだろう。
「実際モテてきた?」
 問われて、何度か中学の時に告白してくれた人達の顔を思い浮かべた。
「モテたっていうほどでもないよ。恋とかよく分かんないし」
「じゃあぜんっぜん、本当にしたことないの?」
「ないね」
「まあ恋しなくても、楽しいしな」
 軽やかに言われた言葉に私も同意だった。でも彼は、何度か恋をしているから、どこか説得力に欠ける。そのことは言わないでおこうと口を閉ざした。その度に傷付いてきたのだろうから。 ふふ、と笑い声を漏らした。何事かと首を傾げると、いや、と前置きをして口を開く。
「俺たち修学旅行中も会うんだなって思ってさ。ここが秘密基地みたいな感じがして、なんか童心に帰れるっていうか」
 ああ。私も目を細めて笑みを浮かべていた。
 私だって同じことを思っていたから。ここでなら、彼は傷付かないで済む。恋をして、苦しむこともない。だからこの場所が好き。
 時が流れるのはあっという間で、彼らが修学旅行に旅立つと二年生の教室はガランとしていた。いつもは笑い声が溢れ、はしゃいでいる望月くんを見かける廊下もしんと静まり返り、寂寥感が漂う。
「あーさき。食堂行かないの?」
 階段の下から紬に呼ばれ、駆け下りて合流する。最後に見た廊下はやっぱり誰もいなかったが、まあでも夜に会えることを思うと、気持ちが軽くなった。
 翌日の朝、私は夢を見ずに目を覚ました。
 目を開けた時、驚いたのは既に朝日が部屋を明るく照らしていたこと。これが夢かと思うほどに信じられない光景に、寝起きの頭が混乱する。
「あれ、なんで……」
 何で、私は起きているのだろう。夢は? 望月くんは? あの場所は?
 なくなった?
 なくならない保証なんか、確かにない。
 心臓がどくりと大きく音を立てる。足がムズムズして、自分のものじゃないみたいに感じられる。地に足をつけていない感覚。 冷や汗が流れてきた。
 なくなった? そんなわけない。
 もう一度布団に潜り込み、目をつぶった。冴え渡った頭はなかなか眠ろうとしない。
「歩咲、起きないか」
 しばらく経つと父が部屋に入ってきた。布団を剥がされ、丸まった身体が露呈する。激しい嫌悪感も、今は苛立ちに変わった。
「やめてよ! 寝るんだからっ」
「何を言ってる? 学校があるだろ、その調子なら体調が悪いわけではなさそうだ」
「うるさい! 布団返せっ」
 大きなため息を吐くと、太い腕に引っ張られ、無理やりベッドから降ろされた。思わずベッドへ手を伸ばすが父の腕力には適わず、部屋から引っ張り出される。
「寝る! 寝るんだ、だって!」
 あの場所が、なくなったなんて信じられない。そんなわけがない。望月くん。望月くん!
 伸ばした手が、掴まれる。柔い女の子の手に、父ではない誰かだと察して顔を上げた。
「花乃子……」
「時間になっても連絡なかったらちょっと見に来た」
 さくっと言うと涼しい顔で父を見上げる。横に立つ蒼菜も心配そうに私を見下ろし、父の袖を引っ張った。
「お父さん、花乃子ちゃんに任せよ」
「だが」
「一日くらいサボったって大丈夫です。私も歩咲も。この状態じゃどちみち行けないでしょうし」
 父の視線が落ちてきて、深いため息が吐かれた。やっと離された手がだらんと下がり、床につくと、今度は花乃子に掴まれていた手の方を引っ張られる。
 二人が階段を降りていった後、私たちは部屋に戻った。けれど気持ちはやはり落ち着かず、ベッドに腰かける。花乃子はカーペットの上に座って、私をじっと見つめてきた。「さっきの押し問答聞いてたけど、寝たいの? どうして? 歩咲、寝起きいいのに」
 言いながら観察する目をずっと続けている。その目のおかげでいくらか冷静さを取り戻した私は、拳を握りしめ、視線を落とした。
「夢を……見なかったの。望月くんに、会わなかった」
「それで?」
「な、なんか、怖くなっちゃって……。あの場所が、なくなったんじゃないかって……なくなったら、私は、どうしたら」
「歩咲」
 言えば言うほど、焦りと恐怖が押し寄せてきて早口になってしまう私を、花乃子が制した。息継ぎも忘れてしまっていたらしく、咳き込んでしまう。そんな私の様子を変わらず見続け、落ち着くと、やっと花乃子は顔をしかめた。
「前に言ったことを覚えてる?」
「へ……?」
「夢の中のことを大事に思わない方がいい、そう言ったはずだよ。何で私がそう言ったのか、考えなかったでしょ」
 彼女は私に近付くと、手を重ねて、真剣な表情を向けてきた。
「あの時はっきり言えばよかった! 取り込まれちゃうからだよ、起きたくない、夢に居続けたい。その想いが強くなると、人間の脳は複雑だからそうなってしまう可能性があるの」
「まさか……。だって、寝たら起きる。これは生き物が当たり前に行う生理現象でしょ」
「でも、世の中には寝続けてしまう病気があるの。起きている時間の方が短いくらい……。その人たちは歩咲のように夢に居続けたい訳じゃないでしょうけど、歩咲は夢で生きたいと思ってしまってる。そうでしょ?」
「そんな、こと……ないよ」
 否定を、力強く出来なかった。花乃子の瞳からも目を逸らしてしまう。 しかし、逃さないように花乃子が私を抱きしめた。
「お願いだから、現実で生きて。望月さんだけじゃなくて、私も見て。蒼菜ちゃんを見て。教室を見て。世界を見て……。歩咲が疲れてしまったのは分かるけど、歩咲が捨てたくなるほど、この世界は歩咲を嫌ってないよ」
「花乃子……」
 花乃子の声は震えていた。私は華奢な背中に手を回し、目をつぶった。花乃子の温もり、鼓動、服の感触や、触れる肌の弾力。恐怖心が薄れていく。焦っていた気持ちが萎んでいく。花乃子の言葉が、ぽたりぽたりと点滴のように、胸中に落ちていく。
 私は、やっぱりまだこの世界を見たくないと思う。また向き合うことに疲れてしまっている。けれど、花乃子がいて、紬と仲良くなって、蒼菜と分かり合えて、以前よりもその気持ちが和らいでいることを感じている。
 この人たちが、いらないとは思わない。
 花乃子の肩を離すと、涙を目に浮かべていた。
「ありがとう。ごめんね、もう大丈夫……」
 安堵した笑みが見れて、私も習って微笑んでみた。
 けれど、完全に手放すこともまだ出来ない。頭の片隅で、望月くんと、あの場所を思い浮かべてしまっていた。
 その翌日も、夢を見なかった。焦りはあった。しかし、花乃子が屋詰さんと連絡を取ってくれて望月くんの様子を教えてくれたからまだ取り乱さずに済んだ。
 望月くんも、私と同じように戸惑っていたらしい。屋詰さんしかこのことは知らないから表面上は普通を装っていたようだが、陰で屋詰さんに掴みかかるような形で取り乱した。そこで花乃子からの電話を受け、落ち着きを取り戻した。 奇しくも、私たちはお互いの可笑しくなった様子を聞いて安心したのだ。まるで双子の片割れを失ったような、身体の一部をなくしてしまったような、そんな気持ちだった。
 帰る時、花乃子に念を押されてしまった。
「夢の中のことだけに意識を囚われないで。歩咲は現実で生きてるんだからね」
 珍しくしつこく説かれた。記憶からそう簡単に消えないだろう。
 修学旅行は二泊三日、その三日目の夜、早く寝てしまって夢を見れるかどうか確かめたかったが、私は父と母とテーブルを挟んで座っていた。父に呼ばれ、反抗したが無駄に終わってしまったために。
 母もソファーに座ってテレビを見ていたのにわざわざ椅子に座らされたことに不満を覚えたようで父に抗議していた。しかし無視をして私に話しかけてくる。
「歩咲。学校は、どうだ?」
「はあ? そんな話するために呼び出したの? ……わざわざ、その人も呼んで」
 母をちらりと見たが私には目もくれない。抗議することを諦めた母は身体を捻ってテレビに視線を向けていた。
「なるほど、揺さぶり作戦だ」
 笑みが零れてしまう。無駄なことを。
「仮にお母さんが私のことを思い出したとして、メリットなんかないよ。私から吐かれた暴言を思い出して苦しむだけ。なら、忘れたままの方がいいでしょ」
「……お前は一生このままでいいのか。この先就職しても、結婚しても、子どもが出来ても、お母さんから喜ばれることはないんだぞ」
「私を勝手に忘れたのはその人でしょ? 思い出して欲しいなんてこれっぽっちも思ってない。そういう未来でいいと思ってる。なのに何でわざわざ協力しなきゃいけないの?」 私の非協力的な態度が腹立つのか睨まれてしまうが、私は鼻を鳴らしてテレビを見ている母の前に立った。もう画面は見えていないはずなのに、透けて見えるのかテレビから発せられる笑い声と合わせて笑っている。
「お母さん。お母さーん、おーい、お母さん。……ほら、この人が勝手に私を見ないようにしてるんだよ」
 全然聞こえていないらしい。嫌な笑みを浮かべてしまっている自覚はあった。苛立ちが徐々にふつふつと湧き上がってきている。
 そこでようやく気付いた。魔法だ。よくよく考えれば、この人の頭の中にも魔法が起きている。私を見えなくする魔法。実の娘を自分の都合で消す魔法。
 意地悪な気持ちが、芽生えた。母の手を掴んでやると反応を窺う。最初は感じてもいないようだったが、徐々に、緊張感が芽生え、掴んだ手が強ばっていくのを感じる。
「消せないよ、お母さん」
 にたりと、口角が歪む。ゆっくりと母が私を見上げ、目を見開いた。
 その瞬間、何かが割れた音が響いた。否、これは人の声だと気付く。手が振り払われると母は頭を抑え、金切り声で叫び続けた。慌てて父が彼女を抱き締める。大丈夫、大丈夫、と高い声の中に低い声が混じる。
 私は、動けなかった。
 自分で揺さぶっておきながら、私と母の間で止まっていた時間が動いたことを感じた。私を見た母の瞳が揺れ動き、忘却していたソレが瞳の中にじわりと蘇り、そしてはっきりと姿を現したのを見てしまった。
「お母さん……私を、思い出したよ」
 やっと絞り出した言葉に、父が驚いて私を一瞥すると、母に問いかけた。「歩咲のことを思い出したのか?」
「あさ、あさき……歩咲、ああああの、悪魔みたいな子を、私から遠ざけて!」
 父にすがりついたかと思うと、今度は力をなくして身体を預けた。それから寝息が聞こえ、私たちはその寝息を聞きながら、どうすべきなのか、お互い分からずに立ち尽くしていた。
 とりあえず母を寝室に運ぶと、父がリビングに戻ってきた。私もとりあえず椅子に座って、戻ってきた父に視線を送る。
「思い出すなんて……思わなかった」
「いや……最近、お前のことを度々言うことがあったんだ。俺もお前の話をしてたから……」
 魔法が解けつつあった、ということだろう。ため息が零れた。
「お母さんと、話したくない」
「お前はまたそういう」
「ちゃんと話したことなかったよね? 私、お母さんにしつけられてたなんて思ってなかったよ、ずっと虐められてるって思ってた」
 父の目を見て、きちんとあの時思っていたことを話そうと決意した。苛立ちに任せるんじゃなくて、言葉を選んで、ちゃんと話せば分かり合えるはず。
 前に蒼菜が私に心の内を見せてくれたように。
「毎日毎日辛かった。お父さんのいないところでぶたれることも多かった。蒼菜はよしよししてもらえるのに、私に降りかかるのは暴力と暴言。このままじゃ殺される……そう思ったの。だから」
「だからお母さんを傷付けたのか?」
 父の、重みのある声に言葉を詰まらせた。いつの間にかその顔は怒りに満ち、私を睨みつけていた。私は何とか頭を振ってみせた。
「そうだけど、そうじゃない……。そうじゃないよ、自分の身は自分で守らなきゃって」
「お母さんがお前を殺すわけないだろ。自分の子どもだぞ? そんなことも分からずにお母さんの心を殺したのは、お前だ」
 ああ、駄目だ。 絶望感で、目の前が暗くなる。大切だったものが、学んで得たものが、貰ったものが、落ちていくような感覚に陥る。
 世界は歩咲を嫌ってない? そんなこと、ない。
 世界は、私を、殺そうとしてる……。
 気付くと部屋の中にいて、ベッドに潜り込んでいた。走って階段を駆け上がったらしい足が震えている。足だけじゃない、手も、身体も……。
 強く目を瞑り、自分の身体を抱き締めるように腕をクロスした。
 眠れ。眠れ。早く寝ろ。私。ここではないあの場所に行こう。早く……。
 目を覚ますと、グレーの空間が広がっていて、思わず望月くんの姿を探した。望月くんはどこからともなく現れると私を抱きしめ、私も彼を抱きしめた。
 温もりはない。なのに酷く落ち着く。悲しかった気持ちや絶望感が消え失せ、落としてしまったものがここにあったと錯覚してしまうほどにこの身体も、この存在も大切に思えた。
「望月くん」
「星村……。会えてよかった。いなくなったんじゃないかって」
 彼の腕を押して見上げると整った顔がそこにはあった。
「私も……。怖くなっちゃった。私の居場所は、ここなのに」
 彼が笑みを浮かべる。ああ、好きだ、と思った。前よりも、もっと。
 しばらく私たちはそうして、突然兄と妹のような気まずさに見舞われて離れ、修学旅行の話でもすることにした。
 しかし話しながらもあまり楽しくなかったのが窺える。理由を問うとここに来れなかったから気が気じゃなかったと口にした。「でも星村もだろ?」
「そうだね。それに……」
 私は、今日家族間であったことを話した。母が私を忘れてしまったこと、その原因は私が作ったこと、そうなった経緯が母に強く当たられていたからで、そのことで今日父と話したが分かり合えなかったこと……。
 望月くんにこんな話をするなんて思わなかった。ここでは、私の生活を匂わせたくなかったから。
 けれどここに来れなかった時間が頑なだった気持ちを溶かしたかのように、さらさらと事情を話していた。話せば話すほどに気が楽になっていく。初めて話した内情を黙って望月くんは聞いてくれ、話し終えると、そうだったんだな、と頷いた。
「話し合えば分かり合えるなんて言うけどさ、分かり合えない人種もいるんだよ」
「ああ……確かに」
 父に凄まれ、絶望したのはそこだったのだと理解する。分かり合えない、話しても一方的で、更に罠に嵌ったかのような倍返しを食らったあの感覚。
「星村、前に言ってくれただろ? ここには辛いことも苦しいことも何もないからって。……俺は、きっとここにいるから。保証は出来ないけど、でもきっといる。だから苦しかったらここに来て、全部忘れて、青春でもしようぜ?」
「何それ」
 思わず笑みが零れた。格好付けた言い方がおかしかったのか、不確かなきっとが面白かったのか、分からない。ふんわりした慰めに呆れたのかもしれない。つい昨日までここに来れなかったのに。
 それでも私は、頷いていた。
「この世界中の誰も知らない場所で青春しよっか」
 望月くんが力強く頷く。いつ壊れてもおかしくない約束が、私に明日も起きる勇気を与えてくれた。