夏休みも終わりを迎える頃に、紬とお泊まり会を開催することになった。彼女の家に出向くと、玄関先で、パアン、と大きな音が鳴らされる。視界には飛んでくる色とりどりの紙切れ……と、クラッカーを持った紬が立っていた。
「いらっしゃいませー!」
「……そこまでする?」
 言いたいことは山ほどあるのに、呆れてそれだけのことしか言えない私を他所に、さあ入って入って、とスリッパを出してきた。促されるままスリッパに足を滑らせてリビングへ向かう。
 思っていたよりもずっと綺麗な家。片付いていて、生活感があまり出ていない。埃もそれほどないかも。通されたリビングには台所があるがそこも全然綺麗に整理整頓されている。
「綺麗な家だね」
「ふふ、でしょ? 歩咲が来るから綺麗にしたんだよ」
「一人で? そりゃ凄いね。でもそれだけじゃなくて、なんていうか、新築みたい」
「それは言い過ぎ! 仕事で基本的に親いないから、私だけなの。一人じゃ汚しようもないでしょ」
 さらりと言ってのけたが、どきりとした。そういえば、そうだった。彼女の家は両親共働きで家に帰ってくるのも夜遅い。早い日もあるらしいが、ほとんど残業漬けの日々を過ごしているそう。今のご時世、働き方改革なんて謳われているがまだ浸透していないのかもしれない。
「あ、心配しないでね。両親とは仲良いの」
 ソファーを指され、座って待っているとテーブルにお菓子の入った皿とジュースが出される。スナックやチョコがコーティングされたお菓子が色々入っている。横に腰かけた彼女に、そうなの、と問いかけてみた。「うん。昔からこんな感じだから家族の決まりで、日曜は二人とも休みを被らせてくれてるの。だから、どこかへ出掛けたり、家でのんびり三人で過ごしたりしてね」
「そうなんだ。良い家族だね」
 本心だった。照れたように笑う紬を見て、羨ましくなる。
 彼女は確かに寂しい思いをしてきたかもしれない。けれど暖かい家族がいる。娘を気にかけ、愛してくれる親がいる。それだけで十分幸せなことに感じられる。
 それに、と鼻歌を歌う横顔をちらりと見やる。
 時が経つにつれ、今や彼女にもクラスで友達と呼べる人が出来たようだった。夏休み前にもなると頻繁に私の教室へ訪れることもなくなっていた。適応能力は低いのかもしれないが、私に執着していた入学したての頃とは違う。それでも未だに私に来てくれるのだから、これが友達というものなのだろう。
 中学時代は、こんな風にしてくれる友達も、したいと思える子もいなかったな。
「ちょっと待っててね、紹介したい子がいるから」
「へ? あ、うん」
 唐突に制され、この場を去っていったかと思うとうさぎのぬいぐるみを持って戻ってきた。私の横に腰掛けて、ほら、と見せてくる。
「可愛い」
「でしょ?」
 嬉しそうに微笑む紬を一瞥してうさぎに視線を向ける。ピンクのベストに身を包み、首に赤いリボンをつけていてうさぎらしく表情はないが可愛い。
「私の妹なんだあ。ね、にこちゃん」
「にこちゃん?」
「この子の名前。川田にこ。ほら、挨拶してる」
 と言ってきて更に目の前に差し出してきたが、紬が操作する訳でもなく、お喋り機能がある訳でもない。ただ無表情なうさぎが目の前に来ただけ。「そうだ、何か見たいのある? 晩御飯まで時間あるし、映画でも観よっか」
「あ、ああ、紬の見たいものでいいよ」
「ほんと? じゃあ、是非歩咲に観てもらいたいものがあって」
 にこちゃんを私たちの間に座らせてリモコンを操作している紬に、聞きたいこととは別のことが口から出てきた。
「何で私に?」
「そりゃ私のおすすめだから! 共有したいのっ」
「ふうん?」
 ずっとニコニコしている紬に、わざわざぬいぐるみのことを聞くのも野暮な気がしてすっかりタイミングを逃してしまう。
 お菓子を摘んで、テレビ画面に視線を変えた。選ばれた映画は恋愛もの。大画面に映る俳優たちの演技に見惚れる紬を横目に、私も流し見しつつお菓子を頬張る。
 内容は、余命僅かの主人公がその余生を恋に捧げる話。ありきたりな話だが、次第に見入ってしまう。
 終わる頃には涙が流れてしまっていた。エンドロールを迎えると「面白かったね」とようやく顔を合わせた紬が、驚きの表情に変わる。
「ボロ泣きじゃん! ちょ、ちょっと待って、ティッシュ! はいっ」
 手渡されたティッシュで涙を拭いて鼻をかむ。私だって予想外に感動してしまってつい感想を述べる。
「やっぱり死んじゃうなんて……。結局助かると思ってたのに。やっと恋が叶ったのに……」
「そこが肝なんだよねえ、この映画の。でもまさか歩咲がそこまで感動するなんて思わなかった。あ、さては、好きな人が出来たな?」
 つんつんと頬を小突かれ、つい睨みつける。でもまだ涙目であることは一目瞭然で、ふふ、と紬は笑った。
「恋をすると人は変わるからねえ、今日会った時に垢抜けたっていうか、明るくなったように見えたんだ」
「恋なんてしてないよ」
「そんなこと言って。でも良かった」
「良かった?」
「うん、入学したての頃は全世界の人間敵って顔してたもん、でも今は可愛い顔してる。知ってる? 恋をすると変わるんじゃなくて、人が恋をする時は、変わりたい時なんだよ」
「……恋してないってば」
 はいはい、と軽くあしらわれてしまった。もう一度鼻をかみながら自然と彼女の言葉が頭の中で繰り返される。それでももう一度否定した。恋をする相手なんて、いないし。
 落ち着いた頃にちょうど晩御飯を作る時間になったからと二人で台所に立つ。お菓子のおかげでお腹は空いていないが、料理はこういう時の醍醐味なの、と念を押されてしまった。
「しかもカレーは定番食なんだよ!」
 熱弁する彼女を横目に、食材を切って野菜を炒めて……と、やっていると「慣れてるね」と後ろから覗き込んできた。
「まあ。自分の分は自分で用意してるし」
「えー! そうなのっ? じゃあ得意料理は?」
「んー、定番だけど、肉じゃがかな」
「ああ……作ってもらえば良かった」
「カレーが定番食じゃないんかい」
 呆れて変なツッコミになってしまった。また今度作ってね、と言われていつかの約束を取り付けられてしまう。あとは煮込むだけとなった時、お風呂を勧められた。お言葉に甘えてお風呂に入らせてもらう。 人の家のお風呂なんて入るのはいつぶりだろう。明らかに匂いの違う、使い勝手も違うからどぎまぎしてしまう。湯船にゆっくりと浸かってみた。湯なんてどこも同じはずなのに、いつもの湯とは違ってどこかよそよそしく感じる。
 今日は寝かせないぞ、と紬が言っていたのを思い出した。あの様子なら本気だろうし、今夜は望月くんに会わないかもしれない。
 望月くんとは夏休みに入ってからも毎日夢で会っている。学校で見かけることもないからか、夢で会うとどこかそわそわしてしまう。それに、彼の生活がここ数日希薄なのか、あの花火以来夢が形を変えないことも少し気になる。
「今日は会えないのか……」
 大丈夫かな、と何に対する心配なのか分からない呟きをしてしまった。響いた声に恥ずかしさを覚え、別のことを考えると、夕方に見た映画の内容を思い出した。
 余命か、余命僅かだったら、私はどこへ行くだろう。誰と過ごしたいだろう。家族はありえないし、とりあえず花乃子に会って、それから紬とも会っておくだろう。そして……。
 浮かんでしまった行きたい場所と顔に、ため息が零れた。何となく顔も熱い。のぼせてしまったかもしれない。さっさと洗ってお風呂を出た。
 次は紬が入浴することになり、にこちゃんと一緒に脱衣所へ消えていった。
 彼女の入浴中、母親が帰ってきた。慌てて頭を下げ、自己紹介をすると疲れた顔が優しそうに微笑む。
「ああ、あなたが歩咲ちゃんなのね。紬がよくあなたのことを話してるの」
「え、そうなんですか?」
「ええ。休日はもっぱらあなたの話で持ち切りよ」
「そ、それは……」
 喜ばしいことなのか、悪いことなのか。紬のことを産んだだけはある綺麗な顔から目を逸らすと、ふふ、と笑みを浮かべていた。「心配しなくても、変な話じゃないのよ。何でもはっきり言って、かっこいいって。間違ってることは間違ってるって言える人なんだよって褒めてたわ」
「そんな大それた人間じゃないです」
 実際、そうだ。私は人を傷付けることが出来てしまう人間だ。それは間違っていることを進んでしてしまっているということ。母の顔が浮かんでしまって、つい目を逸らした。
「そうかもしれないけれどあの子にはあなたがそう見えているの。人から見られてる自分って案外本当なのよ。あの子の前では、そうであってね」
 なかなか難しいことを注文する。でも、そうありたい、とも思う。すると、あっ、と大声が放たれた。振り向くとお風呂から出てパジャマに身を包む紬が立っていた。
「お母さんおかえり! 歩咲に変なこと言ってないよねっ?」
「なーんも言ってないわよ」
「えー嘘だー! 怪しいよー、本当は?」
 二人の間に笑い声が弾ける。甘えた子どものような表情を浮かべる紬を見て、これが私から見える紬だということを知る。しつこさは母親の前では愛嬌に変換される。可愛い。素直で喜怒哀楽が激しいが、それは裏を返せば全部甘えているということ。少しだけ、彼女の母親が言った言葉に納得出来た。
 三人でカレーを食べている間、それなりに話は弾んだが、私は一つ気になることがあった。紬が時折にこちゃんに話しかけていたのだ。
「歩咲の作ったカレー美味しいねえ」
「え? 駄目だよ、今度来た時は肉じゃが作ってもらうんだから。お母さん、にこちゃんがわがまま言ってる」
「もう、うるさいなあ。歩咲はお姉ちゃんの友達なんだからね」 彼女の母親も同じように話しかけているように見えたが、よく見ると紬の言葉に相槌のようににこちゃんに話しかけているだけだった。
 食べ終えて紬が部屋に布団を敷くため二階に上がると、私もずっと座りっぱなしというのが居心地悪くて、食器を洗ってくれている母親の横に立った。
「手伝います。拭けば良いですか?」
「ええ、お願い」
 手渡された皿をタオルで拭く。何だか変な気分。誰かの家事を手伝って、母親と呼ばれる人の横に立つなんて。ちらりと横顔を窺うと目が合ってしまった。ついどぎまぎしていると「歩咲ちゃんは」と声をかけられる。
「歩咲ちゃんは、にこちゃんのことどう思った?」
「え、あ……」
 今日一日聞きたいと思っていたが、タイミングを逃して聞けなかったことを不意に問われ、変な反応をしてしまう。落ち着くために、ふう、と息を吐いた。
「紬……さんが、本当の妹のように接してるからそうなのかなって」
「変に思わなかった?」
「……驚きましたけど、変だとは思わなかったです」
 これは本当だ。受け入れることが出来たのは、私の家に、紬とは対照的の人がいるからかもしれない。
「ただ、気にはなりました」
「というと?」
「本当は妹がいたのに、その代わりをあのぬいぐるみが担ってるのかな、とか……」
「ああ、ううん、違うの。私たちが共働きって聞いたと思うけど、昔ね、紬ににこちゃんをプレゼントしたの。妹だよって。そしたら、本当にそうなっちゃったみたいで、今ではもうすっかり。最初の頃は悩んだし、心の病気かと思って精神科にも行ってたんだけど、それ以外は普通の子だから、もう気にしないでおこうって。ただ、もう年齢が年齢だから……。でも良かった、歩咲ちゃんがいい子で。これからも、友達でいてあげてね」 綺麗な顔が嬉しそうに微笑む。私はこくりと頷きながら、彼女の言葉に少し引っかかりを覚えた。同時に、花乃子の言葉を思い出す。
 それって凄く異常なことよ。
 彼女の言葉と、この一言が頭の中で重くのしかかった。
 準備が出来たと紬が降りてきて、ちょうど皿も拭き終えたから私たちは彼女の部屋に戻った。新しく買ったという布団に潜り込むと確かに新品の匂いがした。電気を消され、同じく横の布団に入っている彼女に問いかけた。
「今日は寝かせないんじゃなかったの?」
「あったりまえでしょ! ちょー語り合お!」
 そう言って布団の脇にある小型ライトを付けた。私たちの顔がやっと分かるくらいの明かり。それから、布団の中から同じようにうつ伏せの状態で顔を上げさせられているにこちゃんも発見した。
「仲良しだね」
「たった一人の妹だもん」
「たった一人の妹か……」
 蒼菜の顔が浮かぶ。愛おしそうににこちゃんを見つめる紬の顔を、私はしげしげと眺めてしまう。私にはこんな顔出来ない。あの子のことをそんな風には思えない。
「歩咲は兄弟いる?」
「まあ、妹がいるにはいるけど仲良くはないから。私たち」
「そっかあ。……でも、羨ましいな、本当の妹」
「へ?」
「私、にこちゃんがぬいぐるみだって分かってるんだよ。驚いたでしょ?」
 へ、と間抜けな声が出てしまう。それから驚きを隠せなかった。
 彼女の脳では、もうにこちゃんを生きている妹として作り上げているものだと思っていたから。紬はぬいぐるみの頭を優しく撫でて自嘲気味に笑った。「本当はね、にこちゃんの声が私にだけ聞こえてることも知ってるんだ。そのことに気付いたのは……高校生になってからなんだけどね。プレゼントしてもらえた時も、ぬいぐるみだって思えてたはずなのに。いつの間にか、にこちゃんが私に話しかけてくるようになったの。ほら、今も。お姉ちゃん何言ってるのって文句言ってる」
 困ったように、でも幸せそうにくすくすと笑う。私が何も言えないでいると続けられた。
「私がこうだからお母さんもお父さんも心配してる。昔は病院にも連れてかれたんだよ? 今は、そっとしておいてくれてるけど……いつまた病気扱いされるかわからない。ねえ、歩咲、私の頭って病気なのかな?」
 不安そうに視線を向けてきた彼女の瞳が、ライトの光を吸収して揺れる。ぎゅっとにこちゃんの小さな手を握り、唇を噛み締めている。
 私は、頭を振った。
「病気じゃないよ。魔法が起きてるんだ」
「魔法?」
「にこちゃんの声が、紬にだけ聞こえる魔法」
「でも、異常じゃ」
「異常じゃない」
 きっぱりと言い切ってみせた。気持ちのいい響きが私の胸中に流れてくる。そうだ、異常じゃない。私だけの……。
「紬だけの大事なものを、誰かが否定していいわけない」
「歩咲……」
 見開かれた目が、細められる。紬の顔は、安心したように緩んでいた。
「歩咲って、ロマンチストなんだね」
「あ、いや、別に……」
 急に照れ臭くなって顔を逸らすと、ふふ、と笑い声が届けられる。それから紬は仰向けになるとにこちゃんを胸の上に乗せて、抱き締めた。それはそれは愛おしそうな顔をして。「そっか、そうだよね……私のにこちゃん。私の妹。……ありがとう、歩咲」
 お礼を言われ、彼女の方にしっかり顔を向けると、可愛い顔がはにかむ。甘えん坊の女の子、それでいて姉のような顔をしている。泊まって良かったな、と思えた。以前より紬のことを深く知れたから。
 それに私の方こそありがとうと言いたい。
 その日は夜通しお喋りに付き合った。彼女のクラスメイトのヤンキーのこと、友達のこと、苦手教科の先生のことや、かっこいい先輩のこと……。そこで望月一声の話になった。
「私の友達が望月先輩かっこいいって毎日毎日うるさくてね。あ、望月先輩知ってる?」
「うん、まあ。二年生のね」
 それ以上は言わないでおこう。面倒なことになりそうだから、と彼女の話に耳を傾ける。
「そうそう。でね、望月先輩女の子を取っかえ引っ変えしてるって噂があるんだ」
「そんな根も葉もない」
「ほら、先輩の周りって女の子多いじゃない? だからそう言われるみたい。私の友達も手出してくれないかなあって」
 言われてみればそうだが。ちょっと嫌な気持ちだ。望月くんはそんな人じゃない。
「望月……先輩、本命彼女がいるみたいだよ」
「え、そなの? ああ、こりゃあの子失恋だな。……て、歩咲、先輩と知り合いなの?」
 彼女に問われ、どきりと胸を鳴らす。何で、と何とか絞り出した声が震えていなかったか心配していると「だって」と怪訝な目を向けられた。「凄いしかめっ面。知り合いじゃなきゃそんな顔しなくない?」
 思わず自分の顔を触る。眉間に指をやると確かにシワが寄っていて、ぐりぐりと伸ばしてみる。
「噂が嫌いなだけ」
「ふうん? そうだ、中学の時の」
 上手く話をかわせたようでほっと胸を撫で下ろした。それから改めて、彼が私たち下の学年にも人気であることを知り、尚更私たちの秘密は人には言わないでおこうと固く誓った。
 翌朝、紬にお礼を言って家を後にした。また遊ぼうと約束を取り付け、帰路につき、家の近くまで来るとスマートフォンが鳴る。花乃子だった。
「はい、もしもし。花乃子からなんて珍しいね」
 何となく空を仰ぐと、青空は隠れ、雲が厚く覆っている。もうすぐ雨が降りそうだ。つい足取りも早くなる。
「うん、ちょっと緊急? かな。ねえ、歩咲、望月さんと連絡取れる?」
 花乃子にしてはやけに早口だ。というか、慌てている? それに意外な名前が出たことに驚いた。
「望月くんと? 無理だよ、私たちお互いの連絡先知らないから」
「ああ、だから……。さっき太郎さんから連絡があって」
「太郎さん? 誰だっけ」
「屋詰太郎さん」
「ああ……」
 そういえばそんな名前だった。花火大会の日のことを思い出すとつい苦い顔になってしまう。
 雨がぽつりと頬に落ち、ぽたぽたとまばらだが降ってくる。急いで家の中に入った。
「そう、太郎さんから連絡があって望月さんと連絡取れないって、望月さんの家に行ってもいないみたいで」
「ん……恋人には?」 途端にふらふらと足取りがおぼつかなくなる。強い眠気に襲われ、母がリビングにいるがお構い無しに私は階段を登った。一段一段、身体が重い。
「その恋人が原因なの。よく聞いて、歩咲。あのね……」
 自室に入ると、ベッドに倒れ込んだ。呼吸をするのも億劫で、次第に電話の声が遠くなっていく。
 眠い。猛烈に。望月くん……望月くんを、探しに行かなきゃ……。
 雨で濡れた身体が冷えていくのを感じながら、意識が遠のいていった。
 目を覚ますと……というよりは、目を覚ました感覚が訪れると、雨が降っていた。誇張ではない真っ黒な雲が私の上で広がっている。これが夢だと分かったのは、その雨が冷たくなくて、私は濡れていないから。
 場所は公園のようだった。ブランコ、滑り台、砂場と屋根のついたベンチがあるだけの小さな公園。そのベンチに、望月くんがいた。
「望月くん、こんな昼間っから寝てんの?」
 冗談めかして言ってみたが、上がった顔を見てそれどころじゃなくなった。私は急いで彼の横に腰掛け、自分の服で彼の顔を拭く。
「どうしたの? びしょびしょじゃん、何で……」
 それ以上の言葉は出なかった。
 望月くんが、私を抱き締めたから。
 嬉しいとか、照れるとか、恥ずかしいとか、そんな気持ちは一切湧かなかった。彼は震えていた。寒いからじゃないことは明白だった。嗚咽が、聞こえてきたから。
「星村……やっと、来た」
 私は、胸を抉られる思いに駆られた。胸が痛くてたまらず、得体の知れない苦しさに襲われる。思わず彼の背中に手を回した。すると胸の痛みは増して、望月くんも更に腕に力を込めた。まるで痛みを押し付け合うように、傷口に塩を塗るように、お互い強く力を込める。「痛い……痛いよ、望月くん」
 私の抗議についに力は緩められる。彼の力が痛いんじゃなくて、心が痛くてたまらなかったのだが、緩められたことでようやく彼と顔を合わせられた。
 酷い顔をしていた。置いていかれた子犬のような、親とはぐれてしまった子どものような、物悲しくも心細そうな表情。それでいて、今にも自分を傷付けそうな怒りも含まれている。
「どうしたの、望月くん……。屋詰さんが、探してるよ」
「ずっと、ずっと、星村を探してたんだ。眠ったのに、星村はいなくて、この場所だけあって、本当は俺、眠ってないんじゃないかって、でもこの世界には俺は一人で……」
 だからこんなにびしょびしょなのか。
「何があったの? 話して」
 問いかけてみるが、ぶつぶつと何かを呟く望月くん。何を聞いてもそれらしい返答がされない。
 花乃子の焦りは、屋詰さんの焦りそのものだろう。だからか私もつい焦燥感に駆られる。
 頬を引っ叩いた。
 痛快な音が雨の中反響した。時間が止まったように感じられたのは、彼が呟くのをやめたから。見開かれた目を、私はしっかり見つめた。
 胸が痛い。誰かに助けを求めたくなるくらいに。
 でも、このままじゃ駄目だ。
「屋詰さんが心配してる。信用できる、大事な人なんでしょ?」
 こくりと、頷かれる。こっそり安堵した。意識が戻ってきたらしい。「何があったか話せる?」
 私の言葉に、望月くんは顔をしかめ、目を逸らした。私もため息をこぼして、ブランコに視線を向けた。ついでに座り直した。
「この公園……見たことない。望月くんの思い出の場所?」
 横目に彼を見るが動きがない。肯定と取っていいかもしれない。
「望月くんしか知らない記憶が反映されるって初めてじゃない?」
 顔を覗き込んでみる。死んだような瞳が私を映し、僅かに光を取り戻したように見えた。
「いつもは……星村の方に反映されてたから」
「え? 違うよ」
 何を言ってんだか。まあ、こんな状態の望月くんだ。混乱しているのだろうと相手にしないでいると「さっきはごめんな」と発せられる。声に引っ張られ、顔を見合わせた。少し気持ちは落ち着いたらしい。
 雨も、心なしか弱まってきた気がする。
「見ちゃったんだ」
 ぽつりと、話し始める。私は口を閉ざして、耳を傾ける。
「男と、いるとこ。彼女が、その男と、手を繋いでるところ……キスをしてて、頭が真っ白になって、気付いたら、太郎が、男の胸ぐらを掴んでて……あいつも……彼女も、泣いてて……」
 ああ……。胸の痛みが、重みを乗せてくる。
「目が合って……問いかけたら、俺は……俺は……横に連れて歩くには、いい男だからって……」
 望月くんは手で顔を隠した。落ち着きを取り戻していた身体は震え、声色も揺れていた。痛ましいくらいにぼろぼろで、私は彼の肩にもたれかかってみた。 温もりを感じない。冷たさもない。なのにこんなにも雨に濡れているのは、彼の心を表しているのだろうか。
「キモいって……子どもみたいって……俺の今まで、俺は、もうどんな風に、振る舞えば……あんな、見たことない、嫌な顔で……」
「もういいよ」
 喋る度に大きく揺れる身体に囁きかけた。
「もういいよ、話さなくて。私はここにいるから。大丈夫、ここには、私と望月くんだけしかいないよ」
 どんな顔もしなくていい。どんな者も演じなくていい。ここでは、彼の本当の姿を知る私しかいないんだから。
 雨が徐々に弱まってくる。厚かった雲が少し薄まったように見え、私は目を瞑った。嗚咽と、雨音だけが耳に届けられた。
 目を覚ましたら、白い天井が視界に入って驚いて身体を起こす。
「あ、お姉ちゃん!」
 更に驚くことに蒼菜が私の目の前にいて、その奥に花乃子がスマートフォンを片耳にあてがって、見開いた目を私に向けていた。キョロキョロと辺りを見渡す。自分の部屋だ。そうだ、私、寝ちゃって……。
「あ、彼は!」
「大丈夫。見つけたって。無事だから安心して」
 花乃子は、スマートフォンを少し離して微笑んだ。その笑みに安心して肩の力が抜けていく。
「ごめんね、蒼菜ちゃん。少し席を外してくれる?」
「分かりました。お姉ちゃん、また後でね」
 素直に花乃子の言葉を聞いて部屋を出ていく蒼菜を見送った後、スマートフォンを渡される。ついおずおずと彼女を見ると「太郎さんから」と言われ、出ることにした。「もしもし、屋詰さん。電話変わりました」
「ああ、歩咲ちゃん。君のおかげでいっせは見つかったよ」
 息の上がった声。必死で望月くんを探したことが窺える。なのに、私は、と苦い顔になった。
「えっと、私、寝てただけなんですけど……」
「君の寝言がいっせのいる場所を教えてくれたんだ。それを花乃子ちゃんが俺に伝えてくれた」
「それって、もしかして公園ですか? でも、どこの公園かなんて……」
「言っただろ、俺たちは幼なじみなんだ。いっせの行きそうな公園なんて一つしかないんだよ」
 なるほど、と納得したのと同時に彼らの絆の深さを知る。私が思ってた以上に深いらしい。
「それで、望月くんは?」
「うん、起きてるよ。電話代わろうか?」
「いや……。いいです」
 今夜また会えるのだから。
 屋詰さんは少し咳払いをすると、何かを呟いた。よく聞こえなくて聞き返すと、苛立った声が返ってきた。何なんだ。
「ありがとうって言ってんだよ!」
「あ、ああ……いや、実際、見つけたのは屋詰さんなんで」
 以前私にあんなことを言ったからか、バツが悪いらしい。照れているというよりはそんな感じの彼に「もういいだろ、花乃子ちゃんに代わって」と言われてしまう。言われるがまま花乃子にスマートフォンを手渡して、立ち上がって窓の前に立った。
 雨はすっかり上がっていた。と言っても、眠る前土砂降りではなかったが、大雨が来たことは明白。路面が濡れ、水溜まりを作り、空には虹がかかっていたから。
 夏休みももう少しで終わる。遠い空の向こう、優しい太陽光が秋の訪れを教えてくれていた。 屋詰さんとの電話を終えた花乃子が改めて私と向き直る。思ったよりも真摯な瞳に、私は彼女の言葉を待った。
「急に電話が切れて慌てて来てみたら寝てるし、揺さぶっても叩いても起きないから焦った」
「どうりで頬が痛むわけだ」
 ついじんじんと熱を持つ頬を触る。ちょっとからかうつもりで言ったのだが、花乃子は表情を崩さず、深いため息を吐いた。
「もう起きないのかと思った。夢に取り込まれたのかと」
「何それ、そんな訳ないじゃん。ただの寝不足だよ」
 笑ってみたがやはり真面目な顔をしている。私は肩を竦めた。
「寝たら起きる。当たり前のことでしょ?」
「……だったらいいんだけど。じゃあ帰るね」
 やっと笑みを浮かべた花乃子に頭を撫でられ、気恥ずかしさでその背中を睨みながら見送った。
 あ、お礼言い忘れたな、と思っていると、入れ替わるように蒼菜が入ってきた。ノックをせずに入ってきた彼女を制そうとしたが、コーヒーの入ったマグカップを持っている手を見てやめておいた。
 テーブルにマグカップを二つ置いて、ちょこんと腰掛ける。私もその横に座った。
 この子がいなかったら、屋詰さんに伝えることが出来なかったかもしれない。
「まずは、ありがとう」
 さっきの屋詰さんの気持ちが今になってよくわかる。顔を見れなかったが、笑った気配が伝わってきた。
「蒼菜が花乃子を家に入れてくれたんでしょ? じゃなきゃ、お母さんが混乱するし」
「そうだよ、蒼菜の友達として。そしたらお母さんったらぺちゃくちゃお喋りを始めちゃうんだから困ったよ。まあ、花乃子ちゃんそういうのキッパリ言うタイプだからそんなに長引かなかったけど」 花乃子と私と蒼菜は、昔三人でよく遊ぶ仲だった。だから私のことを忘れてしまった母が花乃子を見たら混乱するだろうと思ったが、やはり花乃子のことも忘れ、新たに蒼菜の友達として認識したらしい。つい安堵のため息を零した。
「で、部屋に入った途端花乃子ちゃんが寝てるお姉ちゃんをぶちまくるんだもん。びっくりしちゃった」
「ぶちまくったの?」
「うん、もう! ベチンベチンって」
 身振り手振りで、しかも顔芸までして教えてくれ、その様子が可笑しくて笑ってしまう。
「そんな顔、花乃子はしないでしょ。馬鹿みたい」
 あ、駄目だ、ちょっとツボに入った。笑いを止めることが出来ないでいると、いつの間にか私の笑い声に蒼菜の笑い声が乗る。二人でひとしきり笑いあった後、今度は素直に言葉に出せた。
「ありがとう」
「ううん、いいよお。そうだ、お礼は、蒼菜との海!」
「ええ……」
 ちょっと渋ってしまうが、輝かせた瞳と今回の仕事ぶりを思うと無下に出来ず、夏休み最後の思い出を妹と作ることになった。
 その日の夜見た夢は、相変わらずグレーのもわもわした空間。望月くんもいつもと変わらない様子で、よ、と出迎えてくれた。
 昼間の光景も、出来事も、まるで夢の中の出来事だったのではないかと思えるくらいいつも通りだ。いや、夢の中のことだから合っているのだが……。ややこしいな。
「昨日は何で来なかったの? 来るのが当たり前だったから、びっくりしちゃった」
 へらへらとしながら近寄ってくる。ジッと顔を覗き込んでみた。「な、なに」としどろもどろとしているが、気まずい訳ではないらしい。
 だとしたら、彼の中で消化できているのかもしれない。彼から離れ、安心してこの問いに答えてあげた。
「友達とお泊まり会してたの。寝かせないよって言ってたんだけど、本当に寝ないからすっかり寝不足。帰って来てからよく寝たよ」
 蒼菜が部屋を出たあと、私は寝続けた。異様に眠すぎたから。その時にはもう望月くんは夢には現れなかったから起きている裏付けにもなった。
「そっか、そっか、そりゃいいことじゃん」
 本当に、いいことだったのだろうか。昼間の望月くんの口ぶりだと、私を待っていたように思う。
 私は、やっぱり心配になって、一歩踏み出した。
「公園で、寝てたの?」
 顔を覗き込むと、望月くんの表情が少し崩れたように見えた。けれど見間違いだったと思えるくらいの一瞬。にこやかに「そうだよ」と答えてきた。
「家出みたいなもんかな。たまにやるんだけど、昨日の今日だったからタロちんも心配で見に来てくれたみたい」
 家じゃ駄目なの。そう聞こうとして、口を噤む。
 私が、踏み込んでいいことだろうか。
 私は、私の家族が変だと思っていたがどこの家族も何かしら事情があるということを知った。それは、紬の家を見て気付けたこと。
 望月くんにとって話したくないことなのかも。にこにこと表情を崩さない彼の様子に圧を感じるのもそのせいのように思えた。
 聞くな。言うな。忘れてくれ。そう言っているようだった。
 私は深く息を吐くと、彼から背を向け、歩き始めた。後を着いてきているのがわかった。
「ま、ここではさ」
 それは、彼なりの譲歩にも感じられた。何も話せない代わり。だから私は振り向いて、手を差し出した。
「辛いことも苦しいことも何もないよ。だからそんな時は、ここに来て青春でもしよ」
 にこにこと笑っていた顔がついに崩れる。驚かれた目が次第に細められ、下げ切った眉と反比例して、口元が嬉しそうに口角を上げる。私の手を取って、望月くんは大きく頷いた。