夏休みが始まった。始まって早々、屋詰さんから夏祭りのお誘い電話が来た。七月末に行われるその祭りはちょうど花乃子と行こうと話していたもの。
「え、と、幼なじみと行こうと思ってて」
「じゃあ友達も一緒でいいから。こっちも、そうだな、誰かしら呼ぶから。じゃ」
一方的に電話は切られ、断るタイミングを失ってしまう。わざわざメッセージに入れるのもいやらしいし、望月くんの顔に泥を塗る行為かもしれないと思いとどまって花乃子にも話を通すと快く了承してくれた。
花乃子は誰とでも分け隔てなく接することが出来るから、明るい人でも暗い人でも構わないし人数が増えても気にしない。そういう性格に救われてきた。
その日の夜、望月くんに屋詰さんからの電話のことを話すと彼は喜んでくれた。
「いいじゃんいいじゃん、タロちんも星村のこと気に入ったんだ」
「どうだろ」
屋詰さんが私に見せた一瞬の冷たい目を思い出す。大きな目を細め、信用出来ない、と言いたげだったように思う。だからこそこのお誘いは意外なものだった。
「まあでもその日、幼なじみと行く約束してたから本当は断りたかったんだけどトントン拍子に話が進んじゃって」
「へえ、じゃあ三人で?」
「ううん、誰か誘うって言ってた。私ちょっと人見知りだからなあ」「え、じゃあ俺は?」
自分を指さしながら言ってきて、どういう意味の、俺は、なのか分からずに首を傾げると、だから、と続けた。
「デートじゃないんならその誰かは俺で良くない? 気心知れてるわけだし」
ああそういう。納得しかけたが、彼女の存在を思い出す。
「恋人は? 恋人と行けばいいじゃん」
「それがバイト入れちゃってるみたいでさ。まあ、あいつが行きたがってたテーマパーク一緒に行くからいいんだけど」
「そうなんだ。そのために望月くんもバイトを?」
「そう。それに夏は何かと物入りだし。どうせなら奢ってかっこつけたいだろ」
照れ臭そうに笑う彼を見て、やっぱり生きている世界が違うと思った。彼と私の夏休みじゃ密度が違う。アクティブなのに対して私は……。
「で、俺行っていい?」
暗くなりかけていたが、見るからにわくわくと目を輝かせている顔を見てその気持ちも失せ、そっぽを向いた。
「屋詰さんに聞きなよ。私はいいし、私の幼なじみもいいってきっと言うし。あと、来るなら彼女にもちゃんと女の子がいること言っておいてね」
浮気の心配をしていた彼の幼なじみが何と言うか。分かってるって、と軽く返事をしてくる望月くんにも呆れてしまった。
驚いたことに屋詰さんは了承したようで、私たち四人で行くことになった。夏祭りの日、支度を終えて家を出ようとする私に「お姉ちゃん」と背中から声をかけられる。蒼菜だった。「お姉ちゃんお祭り行くの? 蒼菜も行くんだよ」
今から母に着付けしてもらうのだろう、浴衣を身体にあてがってくるりと回った。
一応、私もお洒落をしたがやっぱり浴衣はいいな。
胸元にリボンのついた黄色いワンピースとは違うそれに憧れを抱いてしまう。着付けも出来ないし、そもそも蒼菜みたいに浴衣もないから着ようがないんだけれど。
「綺麗だね、それ」
「えへへ、ありがとう」
浴衣は水色をベースにした布地に、金魚があしらわれていた。きっと蒼菜によく似合う。見ていないのに、母が喜んで買った光景が目に浮かんだ。
「どっかで会うかもしれないね」
「会わないでしょ、花火もあるし、なかなか広いところだから。まあでも」
靴を履き、家を出る前に妹に視線を向ける。無垢な顔で私を見つめ返していた。
「見かけても、話しかけてこないでね」
自分でも最低なことを言った自覚はあった。家を出た時、お姉ちゃん、とか弱い声が届けられてしまう。傷付けても、傷付けても、無邪気に姉を慕う妹。優しい蒼菜。可愛くて愛される彼女を、私は……彼に見せたくないと思ってしまった。
花乃子と合流し、望月くんたちと待ち合わせの場所へ向かう。花乃子も浴衣を着ておらず、オフショルダーのフリルがついたブラウスとショートパンツといういつもの装いよりも少しおしゃれした格好に安堵した。「ごめんね、いつも二人なのに」
謝ってみたがいつも通り涼し気な顔で「別にいいよ」と返される。この顔を驚きに変えるには、百人誘うしかないのかも、と馬鹿なことを考えた。
「それよりちょっと意外」
何がだろう。首を傾げると頭から汗が流れてくる。夕方と言ってもやはりまだまだ暑い。
「歩咲、入学したての頃は本当に疲れた顔してたから。……ううん、その前から、ずっと。だから、友達を作る気ないって言われた時はそりゃそうだよねって納得してた」
何にも関心のない、そんな花乃子に案外見られていたことを知る。私の方こそ驚いてしまって何も言えないでいると、私を一瞥して、続けられた。
「だから夏祭りに誘うほどの友達が出来たんだって思って」
「誘うっていうか、誘われたというか、拒否するタイミングも逃したし」
「でも嫌だったら断るでしょ?」
口元に笑みを携えながら問われ、まあ、と返すしかなかった。その通りだったから。
屋詰太郎が言った、どうせ話もあるから、という言葉も私の中で引っかかっていた。
告白のようなそんな浮いた話じゃない。低い声のトーンがそれを裏付けていた。何かもっと別の、それでいて重要なことのように思えた。断らなかったのは、それが理由かもしれない。
ミーンミーンと蝉が疲れたように鳴く。夕焼けが遠くの空まで広がっていて、もうすぐ日が落ちる。
「歩咲の友達がどんな人なのか、楽しみ」
楽しみ、と言って微笑むその顔に夕日の色が乗る。赤く染まったその顔が、毎年見ていた顔とは違う気がして、何だかそわそわしてしまった。 望月くんたちと合流して自己紹介もそこそこにまずは屋台を見て回ることになった。すっかり日が暮れたこともあって人も多い。色んな匂いが混ざりあって、湿気というか、もはや熱気がまとわりつき、じわじわと汗が流れていく。
それでも歩きやすく感じられるのは、望月くんと屋詰さんが前を歩いてくれているからだろう。
望月くんの背中を眺める。屋詰さんと冗談を言い合っている横顔がずっと笑っている。Tシャツにジーパンと普通の装いだが、心做しかいつもよりかっこよく見えた。新鮮さが増すと顔だけじゃなく身体の端々まで良く見えるのだから不思議だ。
「どっちが好きなの?」
横から発せられた言葉に思わずどきりとしてしまう。花乃子がニヤニヤと下世話な笑みを浮かべていた。
「どっちも好きじゃないよ。屋詰さんなんかほとんど知らないし」
言ってから、でも、と思い直す。望月くんのことも、説明できることは何もない。名前とクラスくらいしか知らないのだから、屋詰さんと変わりないことに気付いた。
「じゃあ望月さん?」
「いやあ、望月くんは……」
友達なのだろうか。よく分からなくて目を逸らすと、屋詰さんと目が合ってしまう。逸らすことが出来なかった。逸らしてしまったら、駄目なような気がした。説明のできない不安が漂う。話を聞いていたのだろうか……。
屋詰さんはそのまま振り向くと「歩咲ちゃん」と呼んできた。
「何か食べたいものはない?」「え……じゃあ、たこ焼きですかね」
「一緒に買いに行こうか?」
「え……いやあ」
ニコニコと笑顔を浮かべてくれているが、どう断ろうかと悩んでいると横から小突かれる。「行きなよ」と念押しされた。
「じゃ、俺たちは俺たちで買いに行っちゃう? 花乃子ちゃん、行こうぜ」
軽い調子で望月くんが花乃子を誘うも、はい、と淡々と返されていた。温度差が少し面白く感じたが、彼のウインクが送られてきて興醒めしてしまった。
後で待ち合わせをしようと約束して別れたがすぐに後悔することになる。喧騒の中、屋詰さんと私の間だけ静寂が流れ続けていた。仲良くする気はない、そう言いたげな横顔にだんだん苛立ってくる。
「話があるって言ったのはそっちでしょ」
口火を切ったのは私だった。視線が流れてきて、目が合う。可愛い顔をしているのに、身構えた。この目を私は知っている。敵意の目だ。
「単刀直入に言う。いっせを好きなら、やめろ」
たこ焼き屋の前に辿り着いて、屋詰さんが四パック分注文する。待ち時間少しあるよ、と屋台のおじさんが言うと、にこやかに、大丈夫です、と返して脇に寄った。その背中を睨みつけ、習って彼の横に寄ってからもその姿勢を崩さなかった。
「好きじゃないです」
「どうだか。あんたみたいな人をよく知ってる。友達面して近付いていっせをたぶらかす。どうせ傷付けるくせに……」
「その人がそうだっただけで私はそんなつもりありません。一緒にしないでください」
「信じられない」
「そう言われても……。大体、屋詰さんに望月くんの交友関係を縛る権利はないはずです。なのに、どうして」
彼は視線を地面に落とすと、深く息を吐いた。それから意を決して顔を上げる。「いっせはこれまで、色んな女に裏切られてきたし、女だけじゃない、男にも、おもちゃのように扱われてきた。あいつは人間不信なんだ」
そういえば彼自身もそのことを少しだけ話してくれていた。頷き返すと、ため息が返された。
「やっぱり知ってたんだな。知ってても可笑しくないとは思ってたんだ、いっせがあそこまで気を許してるのも珍しいから。……人間不信になったきっかけがその、友達面して近寄ってきていっせの懐に入り、最後は裏切った奴だった、元カノだ。色々あったけどあれがトドメだったと言ってもいい」
「浮気されたっていう……」
「そこまで知ってるのか。そう、浮気現場を見てしまったんだ。よくある話だろ? でもいっせは心を殺された。仲の良かった……俺たち三人でよくつるんでいたその内の一人に略奪されてしまったから。俺も、いっせも、あいつらを責めた。だけどあいつらが吐いた言葉は、ざまあみろ、の一言。謝罪なんてなかった。元々男の方はいっせを恨んでたみたいで、女をけしかけたらしい。女の方も性格が腐ってるからそれに乗った、そんなしょうもない動機だよ。しょうもない理由で、いっせは殺された」
はい兄ちゃんお待たせ、とたこ焼きが四パック入った袋を手渡される。ありがとうおっちゃん、と軽やかに返して受け取ると歩き出した。その背中を追いかけ、横に並んで顔を覗き込むと険しいものに変わっていた。
「だからこそ、言わせてくれ。軽い気持ちでいっせに近付いてるなら、やめろ。あいつと一生付き合うくらいの気じゃなきゃ付き合うな。俺はもうあんないっせは見たくない」
厳しい目で見下ろされる。これはお願いじゃない。命令だ。
言いたいことを言うために、私は立ち止まった。彼も立ち止まり、この喧騒と人が多い中、私たちはお互いを睨み、お互いの声だけに集中する。「望月くんが私を裏切らない限り、私は彼を裏切りません」
「その保証は?」
「……例えば私が彼を好きになったとしても、それを伝えることはない。……友達か、友達じゃないかと聞かれたら、説明も出来ない変な関係ですが、私は望月くんと夢の中で過ごす時間が好きなんです。これでは答えになってないと分かってます。ですが恋が別れに繋がるのなら、その心配はない。伝えないんですから」
きっぱりと言い切ったからか、僅かに鼓動が速い。顔に熱が集まるのは、この熱気だけのせいじゃないだろう。汗が首元を伝う。
屋詰さんは口を真一文字に結び、私を観察するように見ていた。やがて二人の間に喧騒が入ってくる。集中していた糸が切れ、彼は息を吐き出した。
「分かった。無粋なことを言ったな、悪かった。戻ろう」
背中を向け、歩き出す。こっそりと安堵のため息を吐いて、私はその後を追った。
待ち合わせ場所へ行くと、望月くんと花乃子は既に来ていた。やんちゃ者に絡まれている女子高生……そんな図を二人は作り上げている。呆れながら二人に近寄ると「お、遅かったじゃん」と軽い調子で彼は屋詰さんの肩に腕を回した。
「さてはこの隙に口説いてたなあ?」
「まあそんなとこ。歩咲ちゃん可愛いから」
よく言う。冷めた目を屋詰さんに送るが素知らぬ顔をしている。
「星村気を付けろよ、こう見えてタロちんは手が早いから」
「お前に言われたくねえわ! あっちこっちでたぶらかしやがって!」
「みんなが俺を放っておかねえのん、タロちんだってそうなくせに」
「うぜえっ」 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を眺めていると花乃子が横に並んできた。心なしか疲れた顔をしているが、玉子せんべいを手渡される。
「これ、歩咲の分。買っておいた」
「やった、ありがとう。これ好きなんだよね」
「だから買ったの」
もう一度お礼を言って一口パリッと音を立てて口に含んだ。美味しい。
薄いえびせんべいの上に目玉焼きとマヨネーズがかかったこれが目当てで毎年お祭りに来ているところはある。花乃子はそれを知っているから売っている屋台を私より先に見つけてくれる。
もう一口食べると、屋詰さんが花乃子にたこ焼きを渡し、望月くんも受け取ろうとするがその手を止め、おっとごめん、とポケットからスマートフォンを取りだしてその場を離れていった。
「彼女からだった」
わざわざ屋詰さんが私に言ってくる。ああそうですか、と返すのも馬鹿らしくて無視した。
「もうすぐ花火が始まるね」
花乃子が言った言葉に時計を確認する。時間が経つのは早い。
「もうそんな時間なんだね、それまでに望月くん戻ってきたらいいけど」
「そういえば望月さんと屋台見て回った時、歩咲のこと話してたよ」
「ええ? 悪口じゃないよね?」
「はっきりしててかっこいいって。案外ナイーブなんですよーって言っておいた」
「変なこと言わないでよ」
幼なじみというのは厄介なものだ。私の何から何まで知っている。それこそ、望月くんと出会う前の過去も……。変なこと言ってないだろうか。
どきどきして花乃子を見ると、彼女は真っ直ぐ前を見ていた。屋詰さんも「来た」と短く言い、私も視線を向けると望月くんが戻ってきていた。「ごめんごめん、彼女からだった。そこでお願いなんだけど、彼女も一緒に花火見ていい? バイト終わったみたいで合流したいって」
「私は構わないです」
花乃子が淡々と返す。こういう時、さすがだが、私は躊躇った。ここに? 望月くんの恋人が?
今日は、元々私と屋詰さんと花乃子だけの予定のはず。そこに望月くんが入ることになったのは偶然だと言ってもいい。意図せずだ。
それなのにここに彼女が来たら、彼の青春に、私が入り込むことになる。それは駄目だ。そこから先は、私が入っちゃいけない場所。
「わ、私は……」
「二人で見ろよ」
私のか細い声が、屋詰さんの声と被さってかき消された。つい彼に視線を向けると、つまらなさそうな顔をしていた。
「イチャイチャを目の前で見せられるのもだるいしな。花乃子ちゃんも、歩咲ちゃんも、いいだろ? 元々いっせはいない体だし」
「あ、省こうとしてる。俺がいて嬉しかったくせにー」
「それとこれとは話が別だろ、ほら行け行け」
しっしっ、と手で払う仕草に対してぶうぶうと怒っている二人の様子を見て、内心、私は安心してしまった。良かった。彼女がここに来なくて。私から、拒否する羽目にならなくて。
文句を言って散々口を尖らせた後、彼は私たちの前で両手を合わせた。
「星村、花乃子ちゃん、ごめんな! また今度埋め合わせするから」
「私は結構です」「私も別にいいから。早く行きなよ、彼女待ってるんでしょ」
ひらひらと手を泳がせると、力強く掴まれた。その強さと温もりに驚き、声を出せないでいると「ありがとな」とはにかんで離れていった。
もう掴まれていないのに、まるでまだ掴まれているかのように、その手を下ろすことが出来なかった。夢では感じられない、強さと温もりに、ここが現実で、現実の彼と、会って、話をしていたのだ、と途端に思い知った。
パアン、と大きな音が鳴る。その音に引っ張られて視線を向けると、大輪の花が咲いていた。
「綺麗!」
「だな。夏はこれからって感じする」
花乃子と、屋詰さんの会話を聞きながらも二人の声が遠ざかっていく。花火が音を立てながら咲き誇っていくのに、ここではないどこかに飛ばされるよう。
じんじんと手が熱くなってくる。頬も、熱いかもしれない。汗のせいでべたべたする身体も気にならなくなっていた。
ふと視界の端に、望月くんとその彼女を見つける。屋台の明かりが彼らを照らしているとしても、暗くて、人も多いのに、見つけてしまった。嬉しそうに見つめ合う二人。笑い合う恋人たち。その顔は、私にも、屋詰さんにも、向けたものとは違う。
始まっちゃいけない。始めてはいけない。彼の青春に、元より私はいない。
現実で、彼と会うのは、今日を最初で最後にしよう。一抹の寂しさを覚え、花火が散る度に切なさが胸を締め付けた。 花火が終わると、私たちは途中まで一緒に帰ることになった。屋詰さんと花乃子はすっかり仲良くなったらしく、連絡先交換をして彼と駅で別れた。
他校の人と連絡先交換って何だか大人の世界だ。彼女と並んで歩く夜道、私はどきどきしながら聞いてみた。
「もしかして、始まった? 恋」
「……始まってない」
ちょいちょいと肘で小突くとそっぽを向かれる。照れているのだろう、私は大袈裟に、そっかあ、と口にした。
「じゃあ私、屋詰さん狙っちゃおっかな?」
「そんな気ないくせに」
「あ、バレた? ふふ、ごめんごめん。何だか珍しくて」
「珍しい?」
「花乃子が人に興味持つなんて」
「酷いこと言うのね。そんなことより、歩咲こそ望月さんとの方が仲良いのね」
「あ、ま、まあ?」
そういえば花乃子には屋詰さんっていう友達も来るからって説明をしていた。言葉のあやでそう言ってしまったが、望月くんとのことは特に説明していなかった。
ところが来てみたら、彼との方が親しいのだから不思議に思えただろう。いや不思議なことじゃない、かもしれないが、時すでに遅し。しどろもどろに返してしまったから、怪訝な目を向けられた。
「友達?」
「そう……だね」
「本当に? 何だか怪しい。二人とも、ただの友達には見えなかった」
「そう言われても。友達……じゃないのかも? 元々接点もないから」
「へえ、じゃあどうやって知り合ったの?」
喋れば喋るほど墓穴を掘っている気がする。つい後ずさってしまうとじりじりと詰め寄られ、ついに電柱に背中がついてしまい、逃げ場を失った。「わかった! 話すから、絶対誰にも言わないでね?」
手を前に差し出し、一旦離れて貰うと、満足気に頷いてくれた。
望月くんとは夢で会っていること、何でこうなったかまでは分からないが、夢の事象まで歩きながら話した。
黙って花乃子は聞いていたが話し終えると「睡眠に関する病気を知ってる?」と突然言い始めた。
「い、いや、知らない。え、病気だって言いたいの?」
いきなりのことに戸惑いながら、わざと笑みを浮かべて返すが、花乃子は真面目な顔をしていた。
「そこまでは言わないけど夢のメカニズムはまだ完全に解明されていないの。それでも今分かっていることは直近の記憶と結びついたものや過去のことがストーリーとして現れること。でも二人はそうじゃない、記憶じゃなく現在進行形で、夢の中で生きて会話をしている……それって凄く異常なことよ」
「何が言いたいの」
異常、という言葉に過敏に反応してしまう。思わず睨んでしまったが、それでも花乃子は続けた。
「人の脳は私たちが思ってるよりもずっと複雑なの。ないものをあるように考えられるし、強いストレスを感じたらその元凶をなかったことにも出来る。脳の中では魔法が起きてるの。そして頭の中のことが影響する夢もまた魔法の世界なの。……気を付けて、歩咲。あまり夢の中のことを大事に思わない方がいいわ。怖い想像をしちゃった」
困ったように肩を竦めて笑う花乃子を見て、私も首を傾げた。煮え切らない、しかも訳が分からない返事に怒りは萎み、言葉の意味を考えてしまう。 花乃子みたいに賢いわけじゃないからはっきり言われないと分からない。けれど反発したいことが一つ出来てしまった。
夢の中のあの場所は私の居場所。大事に思わないなんて出来ない。だってもう、大事な場所になっているのだから。
それをわざわざ言うのは憚られた。
「私、今日、望月さんと話してみて思ったの。中学時代の歩咲みたいって」
「そう? 私はあんなお調子者じゃないけど」
花乃子に接している時の望月くんを思い出し、過去の私と重ねてみるが似ても似つかない。しかし彼女は、そうじゃなくて、と訂正した。
「確かにポジションというか、立ち位置は違うと思う。漫才コンビで言うなら望月さんはボケに回ってる感じがするし、歩咲はツッコミ側。でもそうじゃなくて……雰囲気かな、何だかそう感じた。だから、歩咲が心配」
花乃子はわざわざ立ち止まって、心配、の部分を強調した。彼女の後ろに月が潜み、遠くから騒がしい声が聞こえてくる。お祭り帰りの人達だろう。
今日の花乃子はよく分からない。
「花乃子らしくないよ、心配なんて」
あえておどけてみせると、一瞬の沈黙のあと、口元に笑みを浮かべたのを見つける。
「だね」
小さく返された言葉をきっかけに、私たちは再び横に並んで歩き始めた。
その日の夢は、満点の星空の下、河川敷に私たちはいた。お祭りの場所だ。屋台はあるが、近付くことが出来ず、大人しく芝生の上に腰かけた。
「まだ食べ足りなかったのに」
ぶつぶつと横から文句を垂れ流しているのを横目に、パアン、と大きな音を鳴らして花火が咲き誇った。紡ぐ言葉は止まり、ただ釘付けになる。 現実で見た花火よりも大きく、綺麗に見えるのは星々がはっきりと見えることも影響しているのだろうか。赤、青、黄色、緑、色んな形の花が夜空に咲いては散っていく。花の一生がそこに収縮されていて、思わず手を伸ばす。
「綺麗だね」
「だな。何回見ても綺麗だ」
火薬の匂いも、夏の暑さも、べたべたした感じもここにはない。ただクリアに夜空に花火が描かれる。
横目に彼を見ると、火の色が顔に乗って、カラフルな光が瞳に宿っている。綺麗。手を伸ばせば届く距離。花火よりも、ずっと近くにいる。
なのに、気安く手を伸ばせない。伸ばしてはいけない。私は手を引っこめ、花火に見入った。
「そういえば、どうだった? タロちんとは」
明らかにからかっている口調だった。やれやれ、と首を横に振った。
「どうもこうも。私より花乃子と仲良くなったみたいだし」
「そうなんだ? まあ花乃子ちゃんのツンツンとした感じ、タロちんと合いそうだしなあ。どっちもツンツンしてるし」
「言われてみればそうかも」
つい思い出し笑いしてしまう。なるほど、似た者同士なのか。 そういえば花乃子も私たちのことをそんな風に言ってたっけ。思わず望月くんを見ると、望月くんも私を見ていた。
「な、なに」
「いや、星村、中学の時はもっと友達多かったって聞いたから」
「花乃子、そんなこと話したんだ」
「その子達とは連絡取ってないの?」
「うん、もういいかなって」
「……前にも、友達はもういいって言ってただろ? 中学時代、何かあったのかなって」
「何もないよ。友達と喧嘩しただけ。それで何か馬鹿らしくなって、人の顔色窺うのもしんどいし、色々考えたら疲れちゃって」
そっか、と呟いて望月くんは私から顔を逸らすと体育座りした膝に頬を乗せて、再度顔を覗き込んできた。
「なのに、さ。無理やりタロちん紹介して、ごめんな?」
「ああ……。いや、いいよ」
「俺、星村にもっと友達が出来たら、それこそ彼氏が出来たらいいなって思ったんだ。でもそんなことしなくても、星村は自分で選んでるわけだし、余計なことしたなって」
「……まあ、でも、結果的に、花乃子に春が来たわけだし」
私の返答に、春って、と笑い声が漏れる。私もつい笑ってしまった。花火から逸れた顔に陰りが出来て、まるで秘密の話をしているよう。くすくすと笑うその顔を大事にしたくなる。この場所以上に。
だから、望月くんの言葉を思い出しながら花火に視線を変えた。
彼氏が出来たらいいな、か。心の中で反芻してみる。何度も何度も反芻した。やがてその言葉が、戒めの言葉になるまで。
「え、と、幼なじみと行こうと思ってて」
「じゃあ友達も一緒でいいから。こっちも、そうだな、誰かしら呼ぶから。じゃ」
一方的に電話は切られ、断るタイミングを失ってしまう。わざわざメッセージに入れるのもいやらしいし、望月くんの顔に泥を塗る行為かもしれないと思いとどまって花乃子にも話を通すと快く了承してくれた。
花乃子は誰とでも分け隔てなく接することが出来るから、明るい人でも暗い人でも構わないし人数が増えても気にしない。そういう性格に救われてきた。
その日の夜、望月くんに屋詰さんからの電話のことを話すと彼は喜んでくれた。
「いいじゃんいいじゃん、タロちんも星村のこと気に入ったんだ」
「どうだろ」
屋詰さんが私に見せた一瞬の冷たい目を思い出す。大きな目を細め、信用出来ない、と言いたげだったように思う。だからこそこのお誘いは意外なものだった。
「まあでもその日、幼なじみと行く約束してたから本当は断りたかったんだけどトントン拍子に話が進んじゃって」
「へえ、じゃあ三人で?」
「ううん、誰か誘うって言ってた。私ちょっと人見知りだからなあ」「え、じゃあ俺は?」
自分を指さしながら言ってきて、どういう意味の、俺は、なのか分からずに首を傾げると、だから、と続けた。
「デートじゃないんならその誰かは俺で良くない? 気心知れてるわけだし」
ああそういう。納得しかけたが、彼女の存在を思い出す。
「恋人は? 恋人と行けばいいじゃん」
「それがバイト入れちゃってるみたいでさ。まあ、あいつが行きたがってたテーマパーク一緒に行くからいいんだけど」
「そうなんだ。そのために望月くんもバイトを?」
「そう。それに夏は何かと物入りだし。どうせなら奢ってかっこつけたいだろ」
照れ臭そうに笑う彼を見て、やっぱり生きている世界が違うと思った。彼と私の夏休みじゃ密度が違う。アクティブなのに対して私は……。
「で、俺行っていい?」
暗くなりかけていたが、見るからにわくわくと目を輝かせている顔を見てその気持ちも失せ、そっぽを向いた。
「屋詰さんに聞きなよ。私はいいし、私の幼なじみもいいってきっと言うし。あと、来るなら彼女にもちゃんと女の子がいること言っておいてね」
浮気の心配をしていた彼の幼なじみが何と言うか。分かってるって、と軽く返事をしてくる望月くんにも呆れてしまった。
驚いたことに屋詰さんは了承したようで、私たち四人で行くことになった。夏祭りの日、支度を終えて家を出ようとする私に「お姉ちゃん」と背中から声をかけられる。蒼菜だった。「お姉ちゃんお祭り行くの? 蒼菜も行くんだよ」
今から母に着付けしてもらうのだろう、浴衣を身体にあてがってくるりと回った。
一応、私もお洒落をしたがやっぱり浴衣はいいな。
胸元にリボンのついた黄色いワンピースとは違うそれに憧れを抱いてしまう。着付けも出来ないし、そもそも蒼菜みたいに浴衣もないから着ようがないんだけれど。
「綺麗だね、それ」
「えへへ、ありがとう」
浴衣は水色をベースにした布地に、金魚があしらわれていた。きっと蒼菜によく似合う。見ていないのに、母が喜んで買った光景が目に浮かんだ。
「どっかで会うかもしれないね」
「会わないでしょ、花火もあるし、なかなか広いところだから。まあでも」
靴を履き、家を出る前に妹に視線を向ける。無垢な顔で私を見つめ返していた。
「見かけても、話しかけてこないでね」
自分でも最低なことを言った自覚はあった。家を出た時、お姉ちゃん、とか弱い声が届けられてしまう。傷付けても、傷付けても、無邪気に姉を慕う妹。優しい蒼菜。可愛くて愛される彼女を、私は……彼に見せたくないと思ってしまった。
花乃子と合流し、望月くんたちと待ち合わせの場所へ向かう。花乃子も浴衣を着ておらず、オフショルダーのフリルがついたブラウスとショートパンツといういつもの装いよりも少しおしゃれした格好に安堵した。「ごめんね、いつも二人なのに」
謝ってみたがいつも通り涼し気な顔で「別にいいよ」と返される。この顔を驚きに変えるには、百人誘うしかないのかも、と馬鹿なことを考えた。
「それよりちょっと意外」
何がだろう。首を傾げると頭から汗が流れてくる。夕方と言ってもやはりまだまだ暑い。
「歩咲、入学したての頃は本当に疲れた顔してたから。……ううん、その前から、ずっと。だから、友達を作る気ないって言われた時はそりゃそうだよねって納得してた」
何にも関心のない、そんな花乃子に案外見られていたことを知る。私の方こそ驚いてしまって何も言えないでいると、私を一瞥して、続けられた。
「だから夏祭りに誘うほどの友達が出来たんだって思って」
「誘うっていうか、誘われたというか、拒否するタイミングも逃したし」
「でも嫌だったら断るでしょ?」
口元に笑みを携えながら問われ、まあ、と返すしかなかった。その通りだったから。
屋詰太郎が言った、どうせ話もあるから、という言葉も私の中で引っかかっていた。
告白のようなそんな浮いた話じゃない。低い声のトーンがそれを裏付けていた。何かもっと別の、それでいて重要なことのように思えた。断らなかったのは、それが理由かもしれない。
ミーンミーンと蝉が疲れたように鳴く。夕焼けが遠くの空まで広がっていて、もうすぐ日が落ちる。
「歩咲の友達がどんな人なのか、楽しみ」
楽しみ、と言って微笑むその顔に夕日の色が乗る。赤く染まったその顔が、毎年見ていた顔とは違う気がして、何だかそわそわしてしまった。 望月くんたちと合流して自己紹介もそこそこにまずは屋台を見て回ることになった。すっかり日が暮れたこともあって人も多い。色んな匂いが混ざりあって、湿気というか、もはや熱気がまとわりつき、じわじわと汗が流れていく。
それでも歩きやすく感じられるのは、望月くんと屋詰さんが前を歩いてくれているからだろう。
望月くんの背中を眺める。屋詰さんと冗談を言い合っている横顔がずっと笑っている。Tシャツにジーパンと普通の装いだが、心做しかいつもよりかっこよく見えた。新鮮さが増すと顔だけじゃなく身体の端々まで良く見えるのだから不思議だ。
「どっちが好きなの?」
横から発せられた言葉に思わずどきりとしてしまう。花乃子がニヤニヤと下世話な笑みを浮かべていた。
「どっちも好きじゃないよ。屋詰さんなんかほとんど知らないし」
言ってから、でも、と思い直す。望月くんのことも、説明できることは何もない。名前とクラスくらいしか知らないのだから、屋詰さんと変わりないことに気付いた。
「じゃあ望月さん?」
「いやあ、望月くんは……」
友達なのだろうか。よく分からなくて目を逸らすと、屋詰さんと目が合ってしまう。逸らすことが出来なかった。逸らしてしまったら、駄目なような気がした。説明のできない不安が漂う。話を聞いていたのだろうか……。
屋詰さんはそのまま振り向くと「歩咲ちゃん」と呼んできた。
「何か食べたいものはない?」「え……じゃあ、たこ焼きですかね」
「一緒に買いに行こうか?」
「え……いやあ」
ニコニコと笑顔を浮かべてくれているが、どう断ろうかと悩んでいると横から小突かれる。「行きなよ」と念押しされた。
「じゃ、俺たちは俺たちで買いに行っちゃう? 花乃子ちゃん、行こうぜ」
軽い調子で望月くんが花乃子を誘うも、はい、と淡々と返されていた。温度差が少し面白く感じたが、彼のウインクが送られてきて興醒めしてしまった。
後で待ち合わせをしようと約束して別れたがすぐに後悔することになる。喧騒の中、屋詰さんと私の間だけ静寂が流れ続けていた。仲良くする気はない、そう言いたげな横顔にだんだん苛立ってくる。
「話があるって言ったのはそっちでしょ」
口火を切ったのは私だった。視線が流れてきて、目が合う。可愛い顔をしているのに、身構えた。この目を私は知っている。敵意の目だ。
「単刀直入に言う。いっせを好きなら、やめろ」
たこ焼き屋の前に辿り着いて、屋詰さんが四パック分注文する。待ち時間少しあるよ、と屋台のおじさんが言うと、にこやかに、大丈夫です、と返して脇に寄った。その背中を睨みつけ、習って彼の横に寄ってからもその姿勢を崩さなかった。
「好きじゃないです」
「どうだか。あんたみたいな人をよく知ってる。友達面して近付いていっせをたぶらかす。どうせ傷付けるくせに……」
「その人がそうだっただけで私はそんなつもりありません。一緒にしないでください」
「信じられない」
「そう言われても……。大体、屋詰さんに望月くんの交友関係を縛る権利はないはずです。なのに、どうして」
彼は視線を地面に落とすと、深く息を吐いた。それから意を決して顔を上げる。「いっせはこれまで、色んな女に裏切られてきたし、女だけじゃない、男にも、おもちゃのように扱われてきた。あいつは人間不信なんだ」
そういえば彼自身もそのことを少しだけ話してくれていた。頷き返すと、ため息が返された。
「やっぱり知ってたんだな。知ってても可笑しくないとは思ってたんだ、いっせがあそこまで気を許してるのも珍しいから。……人間不信になったきっかけがその、友達面して近寄ってきていっせの懐に入り、最後は裏切った奴だった、元カノだ。色々あったけどあれがトドメだったと言ってもいい」
「浮気されたっていう……」
「そこまで知ってるのか。そう、浮気現場を見てしまったんだ。よくある話だろ? でもいっせは心を殺された。仲の良かった……俺たち三人でよくつるんでいたその内の一人に略奪されてしまったから。俺も、いっせも、あいつらを責めた。だけどあいつらが吐いた言葉は、ざまあみろ、の一言。謝罪なんてなかった。元々男の方はいっせを恨んでたみたいで、女をけしかけたらしい。女の方も性格が腐ってるからそれに乗った、そんなしょうもない動機だよ。しょうもない理由で、いっせは殺された」
はい兄ちゃんお待たせ、とたこ焼きが四パック入った袋を手渡される。ありがとうおっちゃん、と軽やかに返して受け取ると歩き出した。その背中を追いかけ、横に並んで顔を覗き込むと険しいものに変わっていた。
「だからこそ、言わせてくれ。軽い気持ちでいっせに近付いてるなら、やめろ。あいつと一生付き合うくらいの気じゃなきゃ付き合うな。俺はもうあんないっせは見たくない」
厳しい目で見下ろされる。これはお願いじゃない。命令だ。
言いたいことを言うために、私は立ち止まった。彼も立ち止まり、この喧騒と人が多い中、私たちはお互いを睨み、お互いの声だけに集中する。「望月くんが私を裏切らない限り、私は彼を裏切りません」
「その保証は?」
「……例えば私が彼を好きになったとしても、それを伝えることはない。……友達か、友達じゃないかと聞かれたら、説明も出来ない変な関係ですが、私は望月くんと夢の中で過ごす時間が好きなんです。これでは答えになってないと分かってます。ですが恋が別れに繋がるのなら、その心配はない。伝えないんですから」
きっぱりと言い切ったからか、僅かに鼓動が速い。顔に熱が集まるのは、この熱気だけのせいじゃないだろう。汗が首元を伝う。
屋詰さんは口を真一文字に結び、私を観察するように見ていた。やがて二人の間に喧騒が入ってくる。集中していた糸が切れ、彼は息を吐き出した。
「分かった。無粋なことを言ったな、悪かった。戻ろう」
背中を向け、歩き出す。こっそりと安堵のため息を吐いて、私はその後を追った。
待ち合わせ場所へ行くと、望月くんと花乃子は既に来ていた。やんちゃ者に絡まれている女子高生……そんな図を二人は作り上げている。呆れながら二人に近寄ると「お、遅かったじゃん」と軽い調子で彼は屋詰さんの肩に腕を回した。
「さてはこの隙に口説いてたなあ?」
「まあそんなとこ。歩咲ちゃん可愛いから」
よく言う。冷めた目を屋詰さんに送るが素知らぬ顔をしている。
「星村気を付けろよ、こう見えてタロちんは手が早いから」
「お前に言われたくねえわ! あっちこっちでたぶらかしやがって!」
「みんなが俺を放っておかねえのん、タロちんだってそうなくせに」
「うぜえっ」 ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人を眺めていると花乃子が横に並んできた。心なしか疲れた顔をしているが、玉子せんべいを手渡される。
「これ、歩咲の分。買っておいた」
「やった、ありがとう。これ好きなんだよね」
「だから買ったの」
もう一度お礼を言って一口パリッと音を立てて口に含んだ。美味しい。
薄いえびせんべいの上に目玉焼きとマヨネーズがかかったこれが目当てで毎年お祭りに来ているところはある。花乃子はそれを知っているから売っている屋台を私より先に見つけてくれる。
もう一口食べると、屋詰さんが花乃子にたこ焼きを渡し、望月くんも受け取ろうとするがその手を止め、おっとごめん、とポケットからスマートフォンを取りだしてその場を離れていった。
「彼女からだった」
わざわざ屋詰さんが私に言ってくる。ああそうですか、と返すのも馬鹿らしくて無視した。
「もうすぐ花火が始まるね」
花乃子が言った言葉に時計を確認する。時間が経つのは早い。
「もうそんな時間なんだね、それまでに望月くん戻ってきたらいいけど」
「そういえば望月さんと屋台見て回った時、歩咲のこと話してたよ」
「ええ? 悪口じゃないよね?」
「はっきりしててかっこいいって。案外ナイーブなんですよーって言っておいた」
「変なこと言わないでよ」
幼なじみというのは厄介なものだ。私の何から何まで知っている。それこそ、望月くんと出会う前の過去も……。変なこと言ってないだろうか。
どきどきして花乃子を見ると、彼女は真っ直ぐ前を見ていた。屋詰さんも「来た」と短く言い、私も視線を向けると望月くんが戻ってきていた。「ごめんごめん、彼女からだった。そこでお願いなんだけど、彼女も一緒に花火見ていい? バイト終わったみたいで合流したいって」
「私は構わないです」
花乃子が淡々と返す。こういう時、さすがだが、私は躊躇った。ここに? 望月くんの恋人が?
今日は、元々私と屋詰さんと花乃子だけの予定のはず。そこに望月くんが入ることになったのは偶然だと言ってもいい。意図せずだ。
それなのにここに彼女が来たら、彼の青春に、私が入り込むことになる。それは駄目だ。そこから先は、私が入っちゃいけない場所。
「わ、私は……」
「二人で見ろよ」
私のか細い声が、屋詰さんの声と被さってかき消された。つい彼に視線を向けると、つまらなさそうな顔をしていた。
「イチャイチャを目の前で見せられるのもだるいしな。花乃子ちゃんも、歩咲ちゃんも、いいだろ? 元々いっせはいない体だし」
「あ、省こうとしてる。俺がいて嬉しかったくせにー」
「それとこれとは話が別だろ、ほら行け行け」
しっしっ、と手で払う仕草に対してぶうぶうと怒っている二人の様子を見て、内心、私は安心してしまった。良かった。彼女がここに来なくて。私から、拒否する羽目にならなくて。
文句を言って散々口を尖らせた後、彼は私たちの前で両手を合わせた。
「星村、花乃子ちゃん、ごめんな! また今度埋め合わせするから」
「私は結構です」「私も別にいいから。早く行きなよ、彼女待ってるんでしょ」
ひらひらと手を泳がせると、力強く掴まれた。その強さと温もりに驚き、声を出せないでいると「ありがとな」とはにかんで離れていった。
もう掴まれていないのに、まるでまだ掴まれているかのように、その手を下ろすことが出来なかった。夢では感じられない、強さと温もりに、ここが現実で、現実の彼と、会って、話をしていたのだ、と途端に思い知った。
パアン、と大きな音が鳴る。その音に引っ張られて視線を向けると、大輪の花が咲いていた。
「綺麗!」
「だな。夏はこれからって感じする」
花乃子と、屋詰さんの会話を聞きながらも二人の声が遠ざかっていく。花火が音を立てながら咲き誇っていくのに、ここではないどこかに飛ばされるよう。
じんじんと手が熱くなってくる。頬も、熱いかもしれない。汗のせいでべたべたする身体も気にならなくなっていた。
ふと視界の端に、望月くんとその彼女を見つける。屋台の明かりが彼らを照らしているとしても、暗くて、人も多いのに、見つけてしまった。嬉しそうに見つめ合う二人。笑い合う恋人たち。その顔は、私にも、屋詰さんにも、向けたものとは違う。
始まっちゃいけない。始めてはいけない。彼の青春に、元より私はいない。
現実で、彼と会うのは、今日を最初で最後にしよう。一抹の寂しさを覚え、花火が散る度に切なさが胸を締め付けた。 花火が終わると、私たちは途中まで一緒に帰ることになった。屋詰さんと花乃子はすっかり仲良くなったらしく、連絡先交換をして彼と駅で別れた。
他校の人と連絡先交換って何だか大人の世界だ。彼女と並んで歩く夜道、私はどきどきしながら聞いてみた。
「もしかして、始まった? 恋」
「……始まってない」
ちょいちょいと肘で小突くとそっぽを向かれる。照れているのだろう、私は大袈裟に、そっかあ、と口にした。
「じゃあ私、屋詰さん狙っちゃおっかな?」
「そんな気ないくせに」
「あ、バレた? ふふ、ごめんごめん。何だか珍しくて」
「珍しい?」
「花乃子が人に興味持つなんて」
「酷いこと言うのね。そんなことより、歩咲こそ望月さんとの方が仲良いのね」
「あ、ま、まあ?」
そういえば花乃子には屋詰さんっていう友達も来るからって説明をしていた。言葉のあやでそう言ってしまったが、望月くんとのことは特に説明していなかった。
ところが来てみたら、彼との方が親しいのだから不思議に思えただろう。いや不思議なことじゃない、かもしれないが、時すでに遅し。しどろもどろに返してしまったから、怪訝な目を向けられた。
「友達?」
「そう……だね」
「本当に? 何だか怪しい。二人とも、ただの友達には見えなかった」
「そう言われても。友達……じゃないのかも? 元々接点もないから」
「へえ、じゃあどうやって知り合ったの?」
喋れば喋るほど墓穴を掘っている気がする。つい後ずさってしまうとじりじりと詰め寄られ、ついに電柱に背中がついてしまい、逃げ場を失った。「わかった! 話すから、絶対誰にも言わないでね?」
手を前に差し出し、一旦離れて貰うと、満足気に頷いてくれた。
望月くんとは夢で会っていること、何でこうなったかまでは分からないが、夢の事象まで歩きながら話した。
黙って花乃子は聞いていたが話し終えると「睡眠に関する病気を知ってる?」と突然言い始めた。
「い、いや、知らない。え、病気だって言いたいの?」
いきなりのことに戸惑いながら、わざと笑みを浮かべて返すが、花乃子は真面目な顔をしていた。
「そこまでは言わないけど夢のメカニズムはまだ完全に解明されていないの。それでも今分かっていることは直近の記憶と結びついたものや過去のことがストーリーとして現れること。でも二人はそうじゃない、記憶じゃなく現在進行形で、夢の中で生きて会話をしている……それって凄く異常なことよ」
「何が言いたいの」
異常、という言葉に過敏に反応してしまう。思わず睨んでしまったが、それでも花乃子は続けた。
「人の脳は私たちが思ってるよりもずっと複雑なの。ないものをあるように考えられるし、強いストレスを感じたらその元凶をなかったことにも出来る。脳の中では魔法が起きてるの。そして頭の中のことが影響する夢もまた魔法の世界なの。……気を付けて、歩咲。あまり夢の中のことを大事に思わない方がいいわ。怖い想像をしちゃった」
困ったように肩を竦めて笑う花乃子を見て、私も首を傾げた。煮え切らない、しかも訳が分からない返事に怒りは萎み、言葉の意味を考えてしまう。 花乃子みたいに賢いわけじゃないからはっきり言われないと分からない。けれど反発したいことが一つ出来てしまった。
夢の中のあの場所は私の居場所。大事に思わないなんて出来ない。だってもう、大事な場所になっているのだから。
それをわざわざ言うのは憚られた。
「私、今日、望月さんと話してみて思ったの。中学時代の歩咲みたいって」
「そう? 私はあんなお調子者じゃないけど」
花乃子に接している時の望月くんを思い出し、過去の私と重ねてみるが似ても似つかない。しかし彼女は、そうじゃなくて、と訂正した。
「確かにポジションというか、立ち位置は違うと思う。漫才コンビで言うなら望月さんはボケに回ってる感じがするし、歩咲はツッコミ側。でもそうじゃなくて……雰囲気かな、何だかそう感じた。だから、歩咲が心配」
花乃子はわざわざ立ち止まって、心配、の部分を強調した。彼女の後ろに月が潜み、遠くから騒がしい声が聞こえてくる。お祭り帰りの人達だろう。
今日の花乃子はよく分からない。
「花乃子らしくないよ、心配なんて」
あえておどけてみせると、一瞬の沈黙のあと、口元に笑みを浮かべたのを見つける。
「だね」
小さく返された言葉をきっかけに、私たちは再び横に並んで歩き始めた。
その日の夢は、満点の星空の下、河川敷に私たちはいた。お祭りの場所だ。屋台はあるが、近付くことが出来ず、大人しく芝生の上に腰かけた。
「まだ食べ足りなかったのに」
ぶつぶつと横から文句を垂れ流しているのを横目に、パアン、と大きな音を鳴らして花火が咲き誇った。紡ぐ言葉は止まり、ただ釘付けになる。 現実で見た花火よりも大きく、綺麗に見えるのは星々がはっきりと見えることも影響しているのだろうか。赤、青、黄色、緑、色んな形の花が夜空に咲いては散っていく。花の一生がそこに収縮されていて、思わず手を伸ばす。
「綺麗だね」
「だな。何回見ても綺麗だ」
火薬の匂いも、夏の暑さも、べたべたした感じもここにはない。ただクリアに夜空に花火が描かれる。
横目に彼を見ると、火の色が顔に乗って、カラフルな光が瞳に宿っている。綺麗。手を伸ばせば届く距離。花火よりも、ずっと近くにいる。
なのに、気安く手を伸ばせない。伸ばしてはいけない。私は手を引っこめ、花火に見入った。
「そういえば、どうだった? タロちんとは」
明らかにからかっている口調だった。やれやれ、と首を横に振った。
「どうもこうも。私より花乃子と仲良くなったみたいだし」
「そうなんだ? まあ花乃子ちゃんのツンツンとした感じ、タロちんと合いそうだしなあ。どっちもツンツンしてるし」
「言われてみればそうかも」
つい思い出し笑いしてしまう。なるほど、似た者同士なのか。 そういえば花乃子も私たちのことをそんな風に言ってたっけ。思わず望月くんを見ると、望月くんも私を見ていた。
「な、なに」
「いや、星村、中学の時はもっと友達多かったって聞いたから」
「花乃子、そんなこと話したんだ」
「その子達とは連絡取ってないの?」
「うん、もういいかなって」
「……前にも、友達はもういいって言ってただろ? 中学時代、何かあったのかなって」
「何もないよ。友達と喧嘩しただけ。それで何か馬鹿らしくなって、人の顔色窺うのもしんどいし、色々考えたら疲れちゃって」
そっか、と呟いて望月くんは私から顔を逸らすと体育座りした膝に頬を乗せて、再度顔を覗き込んできた。
「なのに、さ。無理やりタロちん紹介して、ごめんな?」
「ああ……。いや、いいよ」
「俺、星村にもっと友達が出来たら、それこそ彼氏が出来たらいいなって思ったんだ。でもそんなことしなくても、星村は自分で選んでるわけだし、余計なことしたなって」
「……まあ、でも、結果的に、花乃子に春が来たわけだし」
私の返答に、春って、と笑い声が漏れる。私もつい笑ってしまった。花火から逸れた顔に陰りが出来て、まるで秘密の話をしているよう。くすくすと笑うその顔を大事にしたくなる。この場所以上に。
だから、望月くんの言葉を思い出しながら花火に視線を変えた。
彼氏が出来たらいいな、か。心の中で反芻してみる。何度も何度も反芻した。やがてその言葉が、戒めの言葉になるまで。

