「テスト全滅だあ」
いつもの夢の中、私の横で大の字に寝転ぶ男が叫んだ嘆きは何とも情けないもので、その顔を見下ろしてやると本当に情けない顔と目が合った。
「望月くん勉強駄目って言ってたもんね」
「うん、本当に駄目。一応彼女に教えてもらったんだけど駄目だったなあ」
そういえば図書室で二人がいるのを見た。その日のことはよほど楽しかったのか、このもわもわしていた空間が図書室を作り上げ、私たちは隣並んで座って、もちろん夢の中なのだから勉強なんかせずにただただ喋って、ノートに落書きしたりなんかして過ごした。
夢が形を変えることは珍しいことではない。極たまに起きること。それもやはり望月くんの記憶に反映される。
「星村はどうだった?」
「あー、私はまあ普通かな。そんなことよりもうすぐ夏休みだよ、やっとだね」
「夏休み! そうそう、彼女とどこ行こうか迷ってて、海、あとはショッピングしたいって言ってたし、水族館行きたいし、あ、花火もあるし……。誘って大丈夫かな?」
「むしろ何で駄目なの。全部誘えばいいじゃん」
「迷惑じゃないかな……。あっちも友達と遊びたいだろうし……」
「迷惑だったら迷惑って言うでしょ」
相変わらず優柔不断。でもこれが望月くんのいいところだ。うんうんと頭を悩ませている彼を見ながら、私も密かに夏休みのことを考えてみる。何しようかな、と考えて思い浮かべるのは花乃子と紬の顔。
夏休みか。そういえば、望月くんを初めて外で見たのも長期休みである春休みのことだった。
文房具を新調するために電車に乗って市内に出た日、ショッピングモール内で私と同じくらいの歳の男の子たち数人とすれ違ったのだ。
「一声、女装似合いすぎだろ」
「実は女の子なの、うふん」
ギャハハと笑い声が上がる。一声と呼ばれた男の子は身長が高くて、金髪のウィッグをつけ、花柄のワンピースに身を包んでいた。確かに一番似合っていたし、黙っていれば顔はいい。しかしそのノリに私は絶対関わりたくないと思ったのを覚えている。
彼らがその姿のままゲームセンターへ入っていくのが見え、何となく後を追いかけるとプリント倶楽部のカーテンをくぐって中に入っていくのが見えた。
何してるんだか、自分自身に呆れて文房具を買いに行ったのだが、一声という男の子のことが頭から離れなかった。何か目を引くものを感じたというか、単純に目立っていたからか……。
まさか入学した高校で見かけるとは思わなかったし、見かけたその日に彼の夢へお邪魔する摩訶不思議な体験が起きるとは思わなかった。
「星村はさ、夏休み予定あるの?」
「今のところはないかな」
「ふうん、今のところ、ねえ」
「……何よ、気持ち悪い笑い方して」
「酷い」
これは本当のことだ。ニヤニヤと笑みを浮かべる彼が悪い。睨み付けると、うう、と情けない声で返してきた。
「だって友達出来たんだろ、俺からしたら嬉しいんだよ」
「はあ、なんで? 望月くんが喜ぶ意味がわからない」
「うーん親心?」
「こんな親嫌なんだけど」
言いながら、嫌かな、と考え直す。少なくとも私の両親よりは断然いいかもしれない。口には出さないが。「俺、あんまり人を信用出来ないんだよね」
これはまた意外な言葉だった。彼も人付き合いが好きではないらしいが、そこまで言うとは思わなかったから。
「どうして?」
「信用出来ない人が周りに多いんだ、すぐ秘密を話したり、陰で悪口言ったり、嘘コクも例に漏れず俺の周りでも流行ってたし。中学の時浮気されたし」
「浮気っ」
中学と言えばまだ子どものイメージなのだが、彼の話はまるで大人の世界。驚いているとうんざりした顔を見せてきた。
「それも当時友達だった奴と。だからさすがに人間不信になったよ」
「でもまた……人を好きになれたんだ」
望月くんは口元に笑みを浮かべ、上体を起こすと体育座りで、膝に頬を乗せて顔を覗き込んできた。子どもみたいな仕草が、話を聞いてほしそうに見えた。
「うん。実を言うと彼女はさ、初恋の相手でさ、元々小学生のときの同級生だったんだ。転校したんだけどこっちに戻ってきたみたいで。再会した時は驚いたけどちっとも変わってなくて、だからかな、どういう奴か知ってるから、無条件に……信用出来たし、好きになれた。……話が逸れたけど、誰も信用出来ないって薄暗い世界を生きてるみたいだから。だから、星村がそうじゃなくって、しかも友達まで出来たのが嬉しいんだ」
へへ、と嬉しそうにはにかむものだから望月くん自身のことを話しているように聞こえる。私自身、そんなに大それたことではないから。
でも、薄暗い世界か。それは今でもそうかもしれない……。
「星村は好きな人とかいるの?」
「ううん、いたことないかも」 唐突だな、と思いながらも答えるが、本当にいたことがない。高校までの私は明るくて、それなりに周りに人はいた。男女問わず友達が多い方だったから、男の子との交流もあったが……そういったものはこれっぽっちも感じなかった。
「好き、か。そもそも分からないかもしれない。好きなものないかも」
「へえ、じゃあ好きな歌手とかは?」
「まあ一通り聞くけど別に……」
「好きな授業とか」
「……ないかも」
「好きな食べ物とか」
「あ、おにぎりは好き。学食のラーメンのチャーシューも好き。お腹が無限大に入るならもっと食べてるかも」
望月くんはパチンと指を鳴らした。
「それだよ、もっとっていう気持ち。音楽も耳障りの良いものを好んで聴いてるんだろうし」
「はあ、言われてみればそうかも」
難しく考えていたがもっと単純でいいのかも。考えて見て、そうだ、と思い立つ。
望月くんを初めて見かけて記憶から消せなかったのもこれで納得がいく。
「私、望月くんのこと好きなんだ」
「え」
「望月くんと話したかったんだよ」
そういうことだったのか、と右手のひらで左手の拳を受け止める。ふと望月くんを見ると、はあ、と深いため息を吐いているところだった。
「驚かさないで……」
「何が」
「告白されたのかと思ったじゃん」
言われてから途端に恥ずかしくなった。でも、自分で言った言葉に嫌な気はしない。むしろ良い気分。続けて彼が口を開く。
「俺を好きにならないでね。星村のことは信用、したいから」 胸に、針が突き刺さったようだった。彼の言葉が痛みを伴うが何故なのか分からないまま、私は起床した。
花乃子と登校中、話題は夏休みのことで持ち切りだった。
「遊びに行かない?」
私から誘ってみた。花乃子は幼なじみだから緊張も特になく、すんなりと言えた。彼女も簡単に、いいよー、と返してくれる。
「でもどこ行くの? こんなに暑いけど」
「花乃子暑いの苦手だもんね。じゃあ夏祭り一緒に行かない?」
「いつも通りだね……いいよ、行こう」
地元の夏祭りは毎年花乃子と行く。家も近いし祭りからもそう遠くない距離で帰ろうと思えばすぐに帰れるからお互い都合がいいのだ。
花乃子と別れた後も、教室では夏休みの話題が飛び交っていた。テスト明けで気持ちも開放的になっているのだろう。かく言う私もそうで、昼休憩時、学食で紬と夏休みの話になった。
「歩咲、良かったら家に泊まりに来ない?」
親子丼を美味しそうに食べている姿を見ながら、今日もしっかり注文したおにぎりを頬張る。美味しい。中身は明太子だ。
彼女とはあれ以来、何度か遊ぶようになった。カラオケへ行ったり、ショッピングをしに行ったり。やっぱり大袈裟なリアクションを取るが悪い人ではないと分かる。でも泊まりか、と渋ってしまう。
「夜通しゲームして、おしゃべりして、アイス食べ放題出来るくらい買ってくるし、お菓子も買ってくるよ」
「いやそれは……さすがに私も買ってくるよ」
「じゃあいいってこと? やった!」
手を上げて喜ぶものだからついしてしまった返事に後悔した。
「そうは言ってないけど」
一応反論してみるがもう聞こえていないらしい。やれやれ、取り消せる雰囲気でもなくなったから彼女のお泊まりプランを黙って聞いていた。 学校で望月くんを見かけるのは珍しいことではない。目立つ彼だから玄関先や中庭、グラウンドで見かけることはよくあることなのだが、保健室で出会うのは初めてだった。
朝からいわゆる女の子の日で唐突に腹痛と貧血が酷くなってきたため、五限六限を捨てて保健室に出向く。先生にベッドを使う許可を得て閉められたカーテンをうっかり開けてしまった。
「あ、そっちじゃないわよ」
「す、すみません」
貧血でぼんやりしているのはよくあることが望月くんで良かったような、良くないような。ベッドで眠る彼を見たのは一瞬だが、どぎまぎしてしまう。そそくさとカーテンを閉めて横のベッドに潜り込んだ。
いつも夢の中で会っているが、突然現実に現れると思わぬ事態にどきどきしてしまう。外で見る彼とも、夢で見る彼とも違う、大人しく寝息を立てている望月くん。
寝顔だと尚のこと顔の良さが際立つなあ、なんて思ってしまう。
「先生、ちょっと職員室に戻るからね。寝てていいから」
先生の言葉に分かりましたとだけ返し、出ていった扉の音を聞くと、目をつぶった。
「星村」
カーテンの向こうから声が発せられ、瞑っていた目を開けた。
「……望月くん、起きてたの?」
「うん、今起きた。よく寝た……」
「保健室にいるなんて、なんか、イメージと合わないね」
「どういう意味だよ……。実は最近バイト始めて、寝不足なんだよ」
「確かに体感だけど夢の中で会う時間減った気がしてた」
「そうだろ? 星村って、俺と会う以外の夢見てる?」
「そういえば見てないかも。じゃあどっちかが寝る時間早くても、望月くんに会う時間まで普通の夢は見ないんだ」
「そうだと思う、俺、結構最近は寝る時間遅いから」
「不思議だよね、なんで夢で会えるのか……。どうせなら彼女と会いたいでしょ」 ちょっとからかってやろう。そんな気持ちで言ってやると、いや、とすぐに否定された。
「夢で会うのが星村で良かったよ」
それってどういう意味だろう。聞こうとすると、扉が開いた音がした。それから足音が近付いてきて隣のカーテンが開けられる。
「一声、大丈夫? 心配で来ちゃった」
「えーもうすぐ五限始まるだろ、さてはサボりに来たな?」
「バレた?」
女の子の声と彼の笑い声が弾けたが途端に静まる。
「隣で寝てる人いるから」
「一声もでしょ」
小声で、抑えきれない笑い声が聞こえてくる。私は目をつぶった。
本当に不思議。カーテンの向こうからこそこそと聞こえてくる話し声。もう私にはしっかりとは聞こえない。
こうしていると私たちはただの他人。接点もない、先輩と後輩にもならない関係。どうして私なのだろう。どうして彼なのだろう。お互い、夢で会うような存在はもっと他にいるはずなのに。
初めて夢の中で彼と出会った時、それはそれは驚いた。意識もしっかりしているし、視界も良好。夢の中特有のぼんやりした感じがない。ただし空間はもわもわとしていて、声が響く、等ももちろんないが、就寝したのは確か。変な夢だが、まあこれは夢だからと、お互い自己紹介をしてみせた。
「星村歩咲です」
「も、望月……一声、です」
外で見かけた彼とは違って、やけに気弱に見えた。戸惑っているのだろうが、それにしても覇気がない。きょろきょろと辺りを見渡し「どういうことだよ」と呟く彼に私は続けた。
「私は望月さんが通ってる高校の一年生です」
「あ、こ、後輩なんだ。俺は二年生……。君、怖くないの?」
「はあ、夢ですから」
何を怖がることがあるのか。私が首を傾げると、察してか、彼が口を開いた。「これ、普通の夢じゃないよね……。なんでこんな……なんか始まりそうじゃん」
「なんかって?」
「デスゲームとか、殺し合いとか」
「二人で? 馬鹿馬鹿しいですね」
心からの本音だった。そんなもの、少なくとも私の生活にはない。
「冗談じゃん……」
小さな声で反論してきたが無視して辺りを見回す。見回しても、何もないことしか分からない。
「さすがに夢から出られないとかだったら私も怖いですけど」
「怖いこと言うなあ……」
その心配はなかった。お互い起床できたから。変な夢だったが忘れようと思った。けれど、その夜に見た夢も彼がいた。
「望月さん、また会いましたね」
「あ……えっと、星村さん。……望月さんは、その、やめてほしいかも……。さん付けて貰えるような、立派な人間じゃないし」
「はあ、めんどくさいですね」
えっ、と彼が声を漏らしたのと同時に思わず口を手で押さえた。つい出てしまった失礼な言葉を謝ろうとしたが、彼はやっと安心したような笑顔を返してきた。
「星村さんってはっきり言う人なんだね」
「さんはやめてください。……望月くん」
「じゃあ……星村。敬語もなしでいいよ」
その日、私たちはこの事象について一応話し合った。これはどっちの夢なのか、つまりどっちの夢にお互いが入っているのか。そうじゃなくても、夢という場所があって、そこにお互い入り込んでいるのか。じゃあ夢とは何なのか。どうしてこんなことになっているのか。こうなるまで、お互い普通の夢を見ていたはずなのに。
心当たりがあるとすれば、この夢を見た日、つまり前日、私が望月くんを見かけたこと。そのことを伝えると、彼も私を見たと言うのだ。「望月くんのような陽キャが私なんかを認識するの?」
「なんて言い草だよ。星村、今日、親と学校に来てただろ。こんな時期に珍しいなって」
「ああ……」
母の代わりに父が有給を取って来た。私が学校で、問題を起こしたから。ただし、私と、担任の教師しか知らないこと。
「で、先生とお父さんに食ってかかってただろ、あれは凄かった」
思い出したのか楽しそうに笑う。私はその時笑い事じゃなかったが、確かに傍から見れば凄い剣幕だったかもしれない。釣られて笑みが零れた。
「望月くんも……外にいる時とは随分様子が違うんだね」
軽い調子で言ったつもりだが、彼は笑うのをピタリとやめ、暗い顔に変わっていった。何かまずいことを言ったのか。
「夢の中だから……気抜いてたんだ。ここで見る俺のことは、外では言わないで」
「どうして? 自然体で、いいと思うけど」
「……俺は、星村みたいに気の強いタイプじゃないから。元々はこうなんだ。でも冗談を言って、笑いを取ってれば、強い敵意を向けられることはない」
「作ってるってこと?」
黙って頷く。改めて見るとやっぱり顔がいい彼だが、それだけで妬まれたり、僻まれることがあるのかもしれない。
夢で会う前日に、彼を見かけた時のことを思い出す。
「一声は顔がいいからなー」
休憩時間のこと。それこそ、父と職員室へ向かう時にすれ違った。職員室は二年生の教室がある階にある。あの時とは違い、女装などしていなかったが、あ、あの時の人だ、と分かった。声や顔、それにいっせいという珍しい名前が彼だと証明づけた。 金髪の男の子が口にした言葉にいっせいと呼ばれた彼は「まあ? アイドル目指してっから」と調子よく返す。
「うぜえ! でも俺の好きな例の女優と知り合ったら紹介してください!」
「そん時はいっせい様と呼べよ。くるしゅうない」
手をぱたぱたとさせると、ははあ、とお辞儀する金髪の彼。周りにいた男女がドッと笑い声を上げる。
いいなあ。
素直にそう思った。
楽しそう。青春ってやつだ。
その輪に私を加えてみる。想像してみて、笑顔の弾ける私を見つける。
なんてね。目を逸らす。私は、もうああいうところにいたくない。疲れてしまったから。友達付き合いとか、空気を読むとか、読めた試しがないけれど、もう分からない。何も分からない。
「じゃあ教室行こっか、一声」
女の子の声に我に返る。望月くんも、軽く返事をして、保健室を出ていく。しんと静まり返った室内がやけに寒く感じる。
「冷房効きすぎじゃん」
布団にくるまって、目をつぶった。
放課後になって紬は保健室まで私の荷物を持ってきてくれた。しつこいくらい心配していたから「もういいって」とつい強い口調で返してしまう。
すぐに「ごめん、大丈夫だから。今日は一人で帰りたいから先に帰ってくれる?」と出来るだけ優しく返したが、紬の顔は見れなかった。どんな顔をしていても、また傷付けてしまいそうだから。 私は駄目人間だ。結局、自分のことしか考えられない。あんなことを思い出したのが悪い。望月くんに出会う前日の、人生最悪の日……。
ふらふらと帰路に着き、家に着くと自室のベッドに制服のまま身体を預けた。うつ伏せで枕に顔を伏せ、目を瞑る。早く夜になって欲しい。
しばらくして蒼菜の帰ってきた足音が聞こえる。隣の部屋の扉が開かれ、入ったかと思うとすぐに私の部屋の扉が開かれた。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
甲高い声にため息が出た。苛立ちが爆発しそうになるのを抑えながら「なに」と返す。
「今日ね、蒼菜、先生に褒められたんだよ。何と全教科満点! 凄くない?」
「凄いね……」
本当に凄いと思う。私とは違う可愛い笑顔を思い浮かべる。見なくても、屈託ない顔で私を見ていることが分かる。元気印のポニーテールを揺らして、フレッシュな雰囲気を纏う妹。私がなれなかった、いい子。
「でもお姉ちゃんはもっと凄いんだろうなあ! 蒼菜もお姉ちゃんみたいになりたいよ!」
「蒼菜」
声を荒らげてしまう。うるさい黙れ、と叫んでしまいそうな衝動を抑えた。ん、と悪気のない声が返ってきたから。
「……お母さんにも、その話をしてあげて。きっと喜ぶから」
「うん分かった! お姉ちゃんも今日こそは一緒にご飯食べようね!」
バタバタと慌ただしく部屋を後にし、階段を降りる音が聞こえる。微かに届けられる母と蒼菜の声も聞きたくなくて、布団を被った。
お腹が痛い。痛い。痛い。
蒼菜はいつだってああだ。私の成績も知っているくせに、私に憧れを抱いてくる。プレッシャーをかけてくる。自分の方が、ずっと凄いくせに。いっそ馬鹿にして、私の全てを否定してくれたらいいのに。
早く夜になれ。
早く夜になれ。
早く夜になってくれ。
ただただ、両手を合わせて祈ることしか出来なかった。
晩御飯はいつも自分で用意をする。そう父に言われているから。言われなくても、母は私の存在を認知していないからいつだって三人分しか用意されていない。
最初こそ蒼菜が無鉄砲にも質問していたが、父が黙らせた。だから、あの蒼菜もさすがに食卓では私の話をしなくなった。
時間をずらして晩御飯を食べ、お風呂に入って眠りにつく。鎮痛剤を飲んだから腹痛は和らいできていたが、それでも貧血が酷かった。朝はこんなことなかったが生理の一日目はいつだってこうだ。夜にかけて辛くなってくる。ついでに気持ちも暗くなってくるものだから、早く眠りについた。
夢の中は、保健室だった。ただ昼間と状況が違って、ベッドに横たわる望月くんを椅子に座って見下ろす私。恐らく、彼と彼女があの時していたように。
最悪だ。よりによって、こんな、羨ましい青春。
お腹は夢の中だからか痛くない。ただ、気持ちがずっと陰鬱で、よ、と寝転びながら片手を上げる望月くんを睨みつけた。「こ、こわ……。何だよ」
「別に。起きたら?」
「いやあ、それがベッドがあったら寝転びたい性分で」
「……何それ」
本当に何それ。少しだけ口角が上がる。気持ちが和らいでいくのがわかった。
この時間が、好きだ。いつしか夜を待ちわびている私がいる。ここが私の真の居場所。ここでなら、誰も傷付けないで済むし、私も傷付かない。ここにいるのが、望月くんで良かった。
よ、と声を出して起き上がり、彼が私の顔を覗き込む。何か言いたげな表情に首を傾げた。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」
「まあ聞ける範囲なら」
おずおずと聞いてくるものだからちょっと身構えてしまう。しばらく葛藤しているのか、目を泳がせたあと、彼は意を決して、口を開いた。
「俺の彼女を紹介させてほしい」
「……は?」
「星村とここで話すこと、この時間を俺は大切に思ってる。でも同じくらい、彼女のことも大切だから紹介させて欲しい」
「……えっと、つまり、私とここで会ってしまってることに、罪悪感があるってこと?」
望月くんは、頷かなかった。ただ、目を逸らした。それが肯定を物語っている。
私は、血の気が引いていくのを感じた。
「私たちの関係は、どう説明するの?」
「それは……正直に」
「正直に言って、誰がこんなこと信じるの? 信じて貰えなくても、夜に男女が会ってる、そこだけ抜き取られたら、浮気って思われてもおかしくないんだよ?」
「そ、それは……説得させる」
駄目だ、止まれ。望月くんの表情が暗くなっていく。止まれ、と祈るのに、私の口は勝手に開く。「望月くんが? 無理でしょ、そんなの。優柔不断で気の弱いあなたにそんなこと出来ない。彼女にも、まだ素を出せていないのに」
言ってからじゃ遅いのに、やっと言ってしまった重大さに気付いて口を噤んだ。こんなことを言いたかったわけじゃない。何て言えば良かったのか。
望月くんは、酷く傷付いた表情をしていた。
「分かった、やめとくよ。……ごめんな」
怒っていいのに。お前に何が分かるんだって突き放していいのに。望月くんは、その日ずっと黙っていた。
起きた後も、気持ちは最悪だった。まだお腹が痛む。二日目になると、いつもなら軽くなっているのに。ため息が出た。今更になってあの時言いたかった言葉が思いつく。
私の居場所を、壊さないで欲しい。私たちだけの居場所であって欲しい。
ただ、望月くんにそう言いたかっただけなのに。傷付けてしまった。私の主観で、でも恐らく彼自身も感じていたことを突き付けてしまった。
今日は学校に行く気にならなかった。私は待ち合わせ場所に行くであろう花乃子に連絡をして、再び眠りについた。
起きたのは昼過ぎ。腹痛は幾分和らいでいて、一階へ降りると、母がテレビを見ながらラーメンを啜っていた。
私も同じインスタントラーメンでいいやと台所に立つ。鍋をコンロに置くと、ガシャン、と音が鳴った。私の乱暴者め。もう少し静かにできないものか、と呆れていると視線を感じた。
顔を上げて、息を飲んだ。
母がこちらを凝視している。目が合っている。頭に血が上っていくのを感じる。息を忘れてしまう。「家鳴りかしら」
呟いてから母はテレビに向き直った。彼女の背中を眺めながら、忘れていた息が帰ってくる。は、は、と短い呼吸が次第に通常に戻っていくのを感じながら、頭もクリアになっていく。
いつぶりか分からない、母の目は、かつて私にも向けられていた無垢な色を宿していた。敵意のない、悪意も感じられない、そんな瞳。そんな瞳だからこそ、怖くて萎縮してしまった。叩かれる。暴言を吐かれる。その瞳に殺意が孕むのをただジッと待つことしか出来なかった。
どうして。
私が立てる物音も遮断されるらしく、母にはいつも聞こえていない。実際足音は聞こえていなかったはず。なのに、どうして。
私が、いつもいない時間だから? 予期せぬ時間に音を立てたから、母の脳も遮断しきれなかった?
鼓動が早くなっているのを感じながら、コンロの火をつけてみる。ちらりと母を見ると、テレビに夢中になっていた。これくらいの音なら大丈夫らしい。安堵のため息を零した。
無事ラーメンを作って二階に持っていき、食べ終えるとベッドに寝転んだ。リビングで食べても良かったが、今は近くに行くのが怖い。食器はまた後で下ろせば良いだろう。
再び眠りにつこうとすると、スマートフォンに着信が入る。表示された名前に顔をしかめたが出る訳にもいかず、ため息を殺して出た。
「はい」
「はいじゃないだろ、学校に休みの電話は入れたのか?」
父だった。掠れた声は元々で、昔から聞き取りずらいと思っていた。「入れたよ。何で休んだの知ってるの」
「蒼菜が教えてくれたんだよ、学校に行く前にお前の様子を見たら寝てるって。たぶん休んだんだろうって心配してたよ、あの子は優しいから。それなのにお前は心配ばかりかけて」
「はいはい、悪かった悪かった」
「……俺が帰るまでお母さんの前には極力出るなよ」
「分かってるよ」
一応さっきのことは伝えた方がいいだろうか、と思っていると「怪しいもんだ」とイチャモンを付けられたせいで言う気が失せた。
「昼飯は食べたのか」
「食べたよ」
「いいか、大人しくしているんだぞ。余計なことはするな」
はいはい。言い終わる前に切られてしまった。
父は、良くも悪くも母ファーストだ。私たち子どもは母のおまけ程度。仲のいい夫婦だと思うし、母にとってもそれが一番いいことなのだろうが、私にとって、昔は寂しいことだった。
優秀な蒼菜は当然のように褒められ、愛される。対して私は平凡だった。決して、悪くなかったと思う。ただ目立つところがないというのは蒼菜より愛を貰えないということ。蒼菜よりどうしても劣ってしまう。両親の愛のランキングは私が最下位だったし、母には疎ましくさえ思えたのだろう。
母は、父のいないところで私を虐めた。父が事を知ったのは私が母を虐め返した後だった。
「余計なこと、か」
父にとって、あのことは余計なこと。望月くんを初めて校内で見かけた日の前日に私が起こした問題。母がもし起こしていた問題なら、父は卒倒したはず。
私はここにいなくてもいい。いない方がいい。けれど家を出ることは出来ない。余計なこと、だから。学校へも、行かなくていい。行かなくても、誰も私のことなんて気にしないから。私はこの世界にいらない。
「……早く、夜になって欲しい」
望月くんに謝らなくちゃ。布団を頭まで被って時間をやり過ごす。 そうしていると蒼菜が帰宅した。私の様子を見に来たがすぐに追い返す。やがて父が帰ってきた。やはり様子を見に来たが、父の心配が疎ましく思えて「何も余計なことはしてないからあっちへ行って」と追い返した。心配されたってもう溝は埋まらない。
お風呂に入ってベッドに入った。昼間寝すぎたせいで眠れない。電気を消して、ぼんやりと天井を見つめていると、扉がノックされる。答えなかったが、扉が開けられた。
「お姉ちゃん? 寝てる?」
蒼菜だ。布団を頭まで被り「寝てる」と返してみた。笑った気配と共に、蒼菜が近付いてきた。
「カイロ持ってきたんだ」
「……置いといて」
「お姉ちゃん、今日あったこと聞いてくれる?」
「……話せば」
「今日ね、晩御飯食べてる時、お母さんがお姉ちゃんのこと話したの」
一瞬、聞き間違いだと思った。自分の耳を疑ったが次の瞬間には引っ張られるように上体を起こし、蒼菜を見ていた。
「うそ……」
「嘘じゃないよ。あの子……あの子はどこって言ったの。お父さんが、あの子ってって聞き返したら、あさきよって」
「そ、それで?」
「歩咲は体調崩して寝てるって返してた。それだけだし、それ以降はもうお姉ちゃんのこと忘れたみたいだった」
安堵のため息が漏れ出た。いやしかし、と思い直す。昼間のことが母の記憶を呼び戻したのなら、やはり私は母の前に出るのを少し控えた方がいいかもしれない。
私の決意を知らない生暖かい手が握ってきた。「ねえ、お姉ちゃん。このままいけばまた昔みたいに家族の団欒ができるかもしれないよ、凄い嬉しい!」
「はあ? 勘弁してよ」
私は彼女の手を振り払った。大きな目が驚いて更に見開かれる。その目を見つめ返した。
「家族の団欒? そんなのあった?」
「あったじゃん! みんなが帰ってきて、ソファーに並んでテレビ見たり、リビングでそれぞれ勝手に過ごすのんびりした時間が! 私、あの時間が大好きだったんだよ」
「それを私が壊したって?」
困った顔で見つめ返してくる。自分は何も悪くない、そう言いたげな表情が、苛立ちをふつふつと昇らせる。
「そんなこと言ってないよ、お姉ちゃん」
「言ってるよ! 目がそう言ってる! 私のせいだって、お母さんがああなったのは私のせいって言いたいんでしょ? そうだよ、私があんな風にしてやったんだ! それの何が悪いのっ」
誰も、守ってくれないくせに。昔も、今も、これからも。自分で自分を守るしかないじゃないか。
「歩咲」
ハッと、した。我に返って顔を上げると、真っ暗な部屋の入口、明かりの付いたその場所で、立ち尽くす父がいた。
「そうやって苛立ちに任せて人を傷付けるのはお前の得意技だな。ずっとそうやって生きればいい。誰もお前の周りにはいなくなるだろう。それが望みだろ? 来い、蒼菜」
「でも」
「もういいから」 父の言葉に促され、蒼菜は私を一瞥すると、大きな背中の奥に隠れた。父が私を見る。扉が閉まるその瞬間まで、カエルを睨む蛇のように、ジッと見つめられ、そして暗闇が帰ってきた。
虚無感に襲われた。同時に、心が酷く痛い。蒼菜が置いていったカイロを手に取り、お腹に押し当てた。その温もりに余計に傷付けられる。気持ちよくて、痛い。涙が零れてきた。横になって目を瞑る。早く眠れ。眠れ眠れ。カイロを握りしめ、その時を待った。
その時が来た。
来たのに、望月くんの隣には彼女がいた。血の気が引いていく。
「どうして……」
私の声に気付いた彼が振り返る。いつものように、よ、と片手を上げてきた。
「来たか、星村」
「ど、どうしてっ」
「へ?」
「どうして、彼女がいるのっ」
望月くんの顔を眺める横顔に向かって指を差した。え、え、と彼は狼狽えたように私の差した先と、私を見る。
「な、なにが?」
「何がじゃないよ! ここに呼ばないでよ! ここは、私たちの場所なのにっ」
もう嫌だ。もう嫌だ。私は走り出した。
「ほしむらっ」
彼の声が後を追って来る。振り払いたくて更に足を早めた。
どこにも私の居場所はない。走ってもどこまでも続くこの空間に、どこか私の居場所がないか探す。どこまでも走る気でいた。だって、夢の中でさえも奪われたら、私はどこに……。
「星村っ」 手を引っ張られ、強制的に足を止められた。その手を叩くように振り払おうとするがなかなか離れない。
「やめて、望月くんも私がいない方がいいんでしょ!」
「え、ええ? どういうことだよ、落ち着いて話を」
「だって、彼女がそこにっ」
改めて望月くんを見ると、その隣に彼女はいなかった。ただ、焦っておろおろしている彼の顔がそこにあるだけ。
「彼女? て、俺の彼女?」
困惑しながら問われ、こくりと頷くと彼は首を傾げた。
「俺はずっと一人だよ。怖いこと言わないでくれ……」
やっと私の手を離した望月くんはびくびくしながら、辺りを見回す。その様子が嘘ではないことを裏付け、私も落ち着きを取り戻していった。
「ご、ごめん……」
気まずくて俯くと、望月くんの頭が下がってきた。
「いや、こっちこそごめん」
驚いて顔を上げる。彼は、私に頭を下げていた。
「何が? やめてよ、そんな」
「星村、昨日から様子が変だったから。俺が紹介したいって言ったからだろ、星村の気も知らないで、ごめん」
「私の気って……」
どきりとした。落ち着いた今だから思えるが、実に子どもじみたこと。それを彼に知られていたなんて。恥ずかしさでいたたまれなくなる。
顔を上げ、気まずそうに望月くんは言いのけた。
「彼氏が欲しくてたまらないんだろ、自慢みたいになってごめん」
「……はあ?」
呆れて言い返すのを忘れてしまう。彼はその調子で続けた。「良かったら俺の友達を紹介するよ、良い奴がいてさ、そいつは信用できるよ」
うんうんと頷いて腕を組む彼。力が抜けていく。馬鹿馬鹿しい。でも、安心感が帰ってきて、私は座り込んだ。
勘違いをしばらく続けた望月くんが落ち着いたあと、私たちはさっきの事象について語り合った。
望月くんの彼女が出てきたこと。これは、いわば悪夢として片付けられる。彼には失礼な話だが、彼の記憶が反映されているのだから当然と言えば当然だが、それで説明がつく。
「じゃあ人も出てこれるってことなんだ」
「うん、でも、彼女は望月くんしか認識してないようだった」
望月くんを見つめる横顔が私の方を振り向くことはなかった。だから、と人差し指を立て、仮説を立ててみる。
「たぶん私たちのようにここで会ってる、という感覚はないと思う。あくまでも出てきただけ。ここの空間が形を変えたり、ボールを出してくるのと同じこと。その証拠にきっと彼女は夢に出てきた認識はないはずだから、今日彼女に会ったら聞いてみて」
望月くんが頷いたのを見て、私は改めて彼と向き直った。
「それから、昨日はごめん。さっきのことも……。完全に八つ当たりだった」
「いいよ、そんなこともあるよ。それよりさっきの話だけど」
「へ?」
「友達。紹介しようか?」「ええ……いや、いいよ。前に話した通り、私たち住む世界違うし……。それに説明もめんどくさいし信じてもらえないよ。だから秘密にしよって最初に取り決めたんじゃん」
むしろ、本気だったんだ。彼の青春に、私は入るつもりはない。ただここで会って話をして……この場所を守れたら、それでいい。
んー、と唸った後、じゃあさ、と提案してきた。
「そいつにだけ本当のことを話そう。本当に信用出来るやつだから言いふらしたりしないだろうし、きっと信じてくれる。な?」
な、な、とやけに食い下がってくる。何でそんなに……と聞こうとしたが、そういえば以前、私に友達が出来て嬉しいと喜んでいた顔を思い出す。ため息が出た。あの顔を思い出したあとでは断りづらく、仕方なく了承した。
朝が来ると支度をして、リビングへ行くとちょうど父と会った。母は台所で料理をしている。いつもの光景だった。そそくさと玄関へ向かうため、父の横を通り過ぎようとすると手を掴まれた。
「体調はどうだ」
驚いた。母の前では、絶対私に話しかけないから。つい母の方に視線を走らせる。父も同じようにして、母の様子に変わりないことを確認すると私たちは目を合わせた。
「別に……私の体調なんて、どうだっていいでしょ」
ふん、と鼻を鳴らされる。
「また余計なことをされたら適わんからな」
「だから聞いてやってるって?」
「そうじゃない。子どもの体調を気遣うのも親の役目だ」「何を今更。お母さんが私を虐めてた時、何もしてくれなかったくせに」
「あれはお母さんがお前のことを思ってしつけてくれていたんだろう」
ああ馬鹿馬鹿しい。もう話したくなくて、手を振り払った。
「そうだね。どれだけ暴言を吐いても分からないような馬鹿娘には叩かなきゃ駄目だもんね」
「歩咲」
「はいはいもういいです。私が全部悪いもんね。体調も良好です、ご心配なく」
ちょうど父の奥の階段から蒼菜が降りてくるのが見えた。心配そうに窺うその顔を一瞥し、玄関へ向かう。早く家を出たい一心で飛び出し、花乃子との待ち合わせ場所へ向かった。
花乃子から多少の労いを受け、学校へ行くと紬が犬のように駆け寄ってきた。
「大丈夫? もうしんどくない?」
「うん。今回はちょっと痛みと貧血が長引いただけだから」
「それなら良かった。じゃあ今日こそお泊まりの日程決めちゃう?」
ニヤリと笑む彼女の前で手を合わせた。
「今日はごめん。ちょっと放課後、用事があって」
「えー、それ、今日じゃなきゃ駄目? 昨日も歩咲いなかったからつまらなかったんだよ。……て、ごめん。駄目だから断ってるんだよね」
言ってから肩を落として謝罪をされる。あの日から紬は私が言ったことを何とか改善しようとしてくれているのは伝わっている。……それでもたまに、苛立ちが顔を出してしまうことがある。それが今なのだが、私もこの性格を改善していくために、そのまま頭を下げた。「ごめんね。明日は絶対」
「絶対だよ? 約束だからね? 約束破ったら針千本飲ますからねっ。そろそろ戻るね」
言いながら時計の針がもうすぐ予鈴を差すのを見て、慌ただしく自分の教室へ戻っていった。その背中を見送った後、気持ちを落ち着かせるために深く息を吐いた。
放課後になると私は約束した時間になるまで教室で何をするでもなく、待った。一人、また一人と教室から人が減っていく。
階下から生徒たちの部活動の声が聞こえてくる。夏の眩しい夕日が教室へ差し込む。扇風機で循環させている、少しだけ冷たい空気が夏の暑さをより主張させる。
もうすぐ夏休み。休みの日は、好きじゃない。家にいたくないから。中学時代は遊んでくれる人が誰かしらいたから良かったが、高校生になってから土日が苦痛になった。でも外にも居場所がないから、やっぱり家にいるしかない。父が帰ってくるまで私はほぼ自主的に軟禁状態。だから夏休みは憂鬱。
でもそれ以上に、楽しみだと思える。夏が好きだから。何かが起きそうな予感をいつも抱える。
「お待たせ」
どきりとして、教室の入口にゆっくり顔を向けた。約束の相手は望月くん。その後ろに望月くんよりも身長の低い男の子がいた。まんまるの茶髪くん。いわゆる、マッシュルームカットというやつ。蒼菜にも負けないくらい大きな目、少し日焼けした肌は活発さを匂わせる。着崩した制服が彼を少し幼く見せ、一言で言えば、可愛い男の子。「この子がいっせの紹介したい子?」
いっせと呼ばれているらしい。望月くんは頷いた後、私の前の席に座った。まんまる茶髪くんもその横に腰かける。
「お前、下の子もたぶらかして……。しかもこんな真面目そうな子を! 彼女に言うしかねえ!」
茶髪くんはパシーンといい音を鳴らして望月くんを叩いた。突然のことに驚いていると「違うって、話を聞け!」と制する。私も手を前に突き出した。
「私からも話をさせてください。この人にたぶらかされるなんてありえない」
「酷い! こんなイケメンに何てことをっ」
「それ以上に残念なポイントがいっぱい」
わあわあと騒ぐ望月くんをなだめていると、茶髪くんが吹き出した。それを合図に当の本人も笑い出す。呆れて私も笑みを浮かべていた。
落ち着いた後にお互い自己紹介をした。彼の名前はまんまる茶髪くん改め、屋詰太郎さん。タロちんって呼んでるよ、と望月くんが補足してくれたが、呼ぶことはないだろう。
その後に私たちの関係を話した。屋詰さんは眉間に皺を寄せながら話を聞いてくれたがにわかには信じ難い話らしく、聞き終えたあとも、うーんと唸って机に突っ伏した。
「浮気じゃないんだな?」
「浮気じゃない」
そう疑われることは覚悟していたが、即座に否定する。偶然にも声が重なってしまい、屋詰さんも目を細めたが、自分でも怪しさが増したと気付いてしまった。「で、このことは内緒にしててほしいと」
「今みたいに疑われるの嫌だから」
私の横で補足が入ったが、ふうう、と深いため息が吐かれた。彼の様子を黙って窺うことしか出来ず、ジッと顔を覗き込んでると「わかったよ」と気難しげな顔で了承してくれる。
「タロちん!」
「そりゃ幼なじみのよしみだし信じるよ。いっせが浮気をしないこと、俺が一番知ってるし。で、そのことを俺に話してどうって言うんだ?」
私をチラリと見た後、屋詰さんは望月くんに頷き返していた。彼のことは信用出来るが、私のことは信用出来ないらしい。まあそれはそうだ。私たちは今出会ったばかりだし、実際、彼は本当に顔だけは良いから悪い虫もつきやすいのだろう。
「どうもこうもないよ。言っただろ、この子を紹介したいって。だから紹介したんだよ」
「ん……?」
ああそういえばそういう話だった、と私も思い出す。前フリが長かったし強烈だっただろうから、屋詰さんも戸惑いを隠せていない。「す、すみません。望月くん、私に友達を増やしたいみたいで」
間違ってはいない。が、少し恥ずかしくて顔が赤くなったのを自覚する。お兄ちゃんの後を着いて回る妹みたいな気分。だがまさか彼氏候補として紹介されたとも言えない。
「まためちゃくちゃな……。こいつ、冗談のように見えて結構本気でこういうことする奴だから気を付けてな」
「はあ、まあ、今回のことで身をもって知りました」
屋詰さんの言葉通り思い出されるのは数々の冗談。私がため息混じりに笑うと同じような表情を返してきた。
見た目のわりにちょっと怖い人かも、と思っていたが、案外気さくなのかもしれない。
安心していると「さ、連絡先交換、連絡先交換」と横から誰よりも乗り気に促してくる。
そういえば望月くんと連絡先交換していないな。
そのことに気付いたが口には出さず、言われた通り連絡先交換を終え、解散した。
いつもの夢の中、私の横で大の字に寝転ぶ男が叫んだ嘆きは何とも情けないもので、その顔を見下ろしてやると本当に情けない顔と目が合った。
「望月くん勉強駄目って言ってたもんね」
「うん、本当に駄目。一応彼女に教えてもらったんだけど駄目だったなあ」
そういえば図書室で二人がいるのを見た。その日のことはよほど楽しかったのか、このもわもわしていた空間が図書室を作り上げ、私たちは隣並んで座って、もちろん夢の中なのだから勉強なんかせずにただただ喋って、ノートに落書きしたりなんかして過ごした。
夢が形を変えることは珍しいことではない。極たまに起きること。それもやはり望月くんの記憶に反映される。
「星村はどうだった?」
「あー、私はまあ普通かな。そんなことよりもうすぐ夏休みだよ、やっとだね」
「夏休み! そうそう、彼女とどこ行こうか迷ってて、海、あとはショッピングしたいって言ってたし、水族館行きたいし、あ、花火もあるし……。誘って大丈夫かな?」
「むしろ何で駄目なの。全部誘えばいいじゃん」
「迷惑じゃないかな……。あっちも友達と遊びたいだろうし……」
「迷惑だったら迷惑って言うでしょ」
相変わらず優柔不断。でもこれが望月くんのいいところだ。うんうんと頭を悩ませている彼を見ながら、私も密かに夏休みのことを考えてみる。何しようかな、と考えて思い浮かべるのは花乃子と紬の顔。
夏休みか。そういえば、望月くんを初めて外で見たのも長期休みである春休みのことだった。
文房具を新調するために電車に乗って市内に出た日、ショッピングモール内で私と同じくらいの歳の男の子たち数人とすれ違ったのだ。
「一声、女装似合いすぎだろ」
「実は女の子なの、うふん」
ギャハハと笑い声が上がる。一声と呼ばれた男の子は身長が高くて、金髪のウィッグをつけ、花柄のワンピースに身を包んでいた。確かに一番似合っていたし、黙っていれば顔はいい。しかしそのノリに私は絶対関わりたくないと思ったのを覚えている。
彼らがその姿のままゲームセンターへ入っていくのが見え、何となく後を追いかけるとプリント倶楽部のカーテンをくぐって中に入っていくのが見えた。
何してるんだか、自分自身に呆れて文房具を買いに行ったのだが、一声という男の子のことが頭から離れなかった。何か目を引くものを感じたというか、単純に目立っていたからか……。
まさか入学した高校で見かけるとは思わなかったし、見かけたその日に彼の夢へお邪魔する摩訶不思議な体験が起きるとは思わなかった。
「星村はさ、夏休み予定あるの?」
「今のところはないかな」
「ふうん、今のところ、ねえ」
「……何よ、気持ち悪い笑い方して」
「酷い」
これは本当のことだ。ニヤニヤと笑みを浮かべる彼が悪い。睨み付けると、うう、と情けない声で返してきた。
「だって友達出来たんだろ、俺からしたら嬉しいんだよ」
「はあ、なんで? 望月くんが喜ぶ意味がわからない」
「うーん親心?」
「こんな親嫌なんだけど」
言いながら、嫌かな、と考え直す。少なくとも私の両親よりは断然いいかもしれない。口には出さないが。「俺、あんまり人を信用出来ないんだよね」
これはまた意外な言葉だった。彼も人付き合いが好きではないらしいが、そこまで言うとは思わなかったから。
「どうして?」
「信用出来ない人が周りに多いんだ、すぐ秘密を話したり、陰で悪口言ったり、嘘コクも例に漏れず俺の周りでも流行ってたし。中学の時浮気されたし」
「浮気っ」
中学と言えばまだ子どものイメージなのだが、彼の話はまるで大人の世界。驚いているとうんざりした顔を見せてきた。
「それも当時友達だった奴と。だからさすがに人間不信になったよ」
「でもまた……人を好きになれたんだ」
望月くんは口元に笑みを浮かべ、上体を起こすと体育座りで、膝に頬を乗せて顔を覗き込んできた。子どもみたいな仕草が、話を聞いてほしそうに見えた。
「うん。実を言うと彼女はさ、初恋の相手でさ、元々小学生のときの同級生だったんだ。転校したんだけどこっちに戻ってきたみたいで。再会した時は驚いたけどちっとも変わってなくて、だからかな、どういう奴か知ってるから、無条件に……信用出来たし、好きになれた。……話が逸れたけど、誰も信用出来ないって薄暗い世界を生きてるみたいだから。だから、星村がそうじゃなくって、しかも友達まで出来たのが嬉しいんだ」
へへ、と嬉しそうにはにかむものだから望月くん自身のことを話しているように聞こえる。私自身、そんなに大それたことではないから。
でも、薄暗い世界か。それは今でもそうかもしれない……。
「星村は好きな人とかいるの?」
「ううん、いたことないかも」 唐突だな、と思いながらも答えるが、本当にいたことがない。高校までの私は明るくて、それなりに周りに人はいた。男女問わず友達が多い方だったから、男の子との交流もあったが……そういったものはこれっぽっちも感じなかった。
「好き、か。そもそも分からないかもしれない。好きなものないかも」
「へえ、じゃあ好きな歌手とかは?」
「まあ一通り聞くけど別に……」
「好きな授業とか」
「……ないかも」
「好きな食べ物とか」
「あ、おにぎりは好き。学食のラーメンのチャーシューも好き。お腹が無限大に入るならもっと食べてるかも」
望月くんはパチンと指を鳴らした。
「それだよ、もっとっていう気持ち。音楽も耳障りの良いものを好んで聴いてるんだろうし」
「はあ、言われてみればそうかも」
難しく考えていたがもっと単純でいいのかも。考えて見て、そうだ、と思い立つ。
望月くんを初めて見かけて記憶から消せなかったのもこれで納得がいく。
「私、望月くんのこと好きなんだ」
「え」
「望月くんと話したかったんだよ」
そういうことだったのか、と右手のひらで左手の拳を受け止める。ふと望月くんを見ると、はあ、と深いため息を吐いているところだった。
「驚かさないで……」
「何が」
「告白されたのかと思ったじゃん」
言われてから途端に恥ずかしくなった。でも、自分で言った言葉に嫌な気はしない。むしろ良い気分。続けて彼が口を開く。
「俺を好きにならないでね。星村のことは信用、したいから」 胸に、針が突き刺さったようだった。彼の言葉が痛みを伴うが何故なのか分からないまま、私は起床した。
花乃子と登校中、話題は夏休みのことで持ち切りだった。
「遊びに行かない?」
私から誘ってみた。花乃子は幼なじみだから緊張も特になく、すんなりと言えた。彼女も簡単に、いいよー、と返してくれる。
「でもどこ行くの? こんなに暑いけど」
「花乃子暑いの苦手だもんね。じゃあ夏祭り一緒に行かない?」
「いつも通りだね……いいよ、行こう」
地元の夏祭りは毎年花乃子と行く。家も近いし祭りからもそう遠くない距離で帰ろうと思えばすぐに帰れるからお互い都合がいいのだ。
花乃子と別れた後も、教室では夏休みの話題が飛び交っていた。テスト明けで気持ちも開放的になっているのだろう。かく言う私もそうで、昼休憩時、学食で紬と夏休みの話になった。
「歩咲、良かったら家に泊まりに来ない?」
親子丼を美味しそうに食べている姿を見ながら、今日もしっかり注文したおにぎりを頬張る。美味しい。中身は明太子だ。
彼女とはあれ以来、何度か遊ぶようになった。カラオケへ行ったり、ショッピングをしに行ったり。やっぱり大袈裟なリアクションを取るが悪い人ではないと分かる。でも泊まりか、と渋ってしまう。
「夜通しゲームして、おしゃべりして、アイス食べ放題出来るくらい買ってくるし、お菓子も買ってくるよ」
「いやそれは……さすがに私も買ってくるよ」
「じゃあいいってこと? やった!」
手を上げて喜ぶものだからついしてしまった返事に後悔した。
「そうは言ってないけど」
一応反論してみるがもう聞こえていないらしい。やれやれ、取り消せる雰囲気でもなくなったから彼女のお泊まりプランを黙って聞いていた。 学校で望月くんを見かけるのは珍しいことではない。目立つ彼だから玄関先や中庭、グラウンドで見かけることはよくあることなのだが、保健室で出会うのは初めてだった。
朝からいわゆる女の子の日で唐突に腹痛と貧血が酷くなってきたため、五限六限を捨てて保健室に出向く。先生にベッドを使う許可を得て閉められたカーテンをうっかり開けてしまった。
「あ、そっちじゃないわよ」
「す、すみません」
貧血でぼんやりしているのはよくあることが望月くんで良かったような、良くないような。ベッドで眠る彼を見たのは一瞬だが、どぎまぎしてしまう。そそくさとカーテンを閉めて横のベッドに潜り込んだ。
いつも夢の中で会っているが、突然現実に現れると思わぬ事態にどきどきしてしまう。外で見る彼とも、夢で見る彼とも違う、大人しく寝息を立てている望月くん。
寝顔だと尚のこと顔の良さが際立つなあ、なんて思ってしまう。
「先生、ちょっと職員室に戻るからね。寝てていいから」
先生の言葉に分かりましたとだけ返し、出ていった扉の音を聞くと、目をつぶった。
「星村」
カーテンの向こうから声が発せられ、瞑っていた目を開けた。
「……望月くん、起きてたの?」
「うん、今起きた。よく寝た……」
「保健室にいるなんて、なんか、イメージと合わないね」
「どういう意味だよ……。実は最近バイト始めて、寝不足なんだよ」
「確かに体感だけど夢の中で会う時間減った気がしてた」
「そうだろ? 星村って、俺と会う以外の夢見てる?」
「そういえば見てないかも。じゃあどっちかが寝る時間早くても、望月くんに会う時間まで普通の夢は見ないんだ」
「そうだと思う、俺、結構最近は寝る時間遅いから」
「不思議だよね、なんで夢で会えるのか……。どうせなら彼女と会いたいでしょ」 ちょっとからかってやろう。そんな気持ちで言ってやると、いや、とすぐに否定された。
「夢で会うのが星村で良かったよ」
それってどういう意味だろう。聞こうとすると、扉が開いた音がした。それから足音が近付いてきて隣のカーテンが開けられる。
「一声、大丈夫? 心配で来ちゃった」
「えーもうすぐ五限始まるだろ、さてはサボりに来たな?」
「バレた?」
女の子の声と彼の笑い声が弾けたが途端に静まる。
「隣で寝てる人いるから」
「一声もでしょ」
小声で、抑えきれない笑い声が聞こえてくる。私は目をつぶった。
本当に不思議。カーテンの向こうからこそこそと聞こえてくる話し声。もう私にはしっかりとは聞こえない。
こうしていると私たちはただの他人。接点もない、先輩と後輩にもならない関係。どうして私なのだろう。どうして彼なのだろう。お互い、夢で会うような存在はもっと他にいるはずなのに。
初めて夢の中で彼と出会った時、それはそれは驚いた。意識もしっかりしているし、視界も良好。夢の中特有のぼんやりした感じがない。ただし空間はもわもわとしていて、声が響く、等ももちろんないが、就寝したのは確か。変な夢だが、まあこれは夢だからと、お互い自己紹介をしてみせた。
「星村歩咲です」
「も、望月……一声、です」
外で見かけた彼とは違って、やけに気弱に見えた。戸惑っているのだろうが、それにしても覇気がない。きょろきょろと辺りを見渡し「どういうことだよ」と呟く彼に私は続けた。
「私は望月さんが通ってる高校の一年生です」
「あ、こ、後輩なんだ。俺は二年生……。君、怖くないの?」
「はあ、夢ですから」
何を怖がることがあるのか。私が首を傾げると、察してか、彼が口を開いた。「これ、普通の夢じゃないよね……。なんでこんな……なんか始まりそうじゃん」
「なんかって?」
「デスゲームとか、殺し合いとか」
「二人で? 馬鹿馬鹿しいですね」
心からの本音だった。そんなもの、少なくとも私の生活にはない。
「冗談じゃん……」
小さな声で反論してきたが無視して辺りを見回す。見回しても、何もないことしか分からない。
「さすがに夢から出られないとかだったら私も怖いですけど」
「怖いこと言うなあ……」
その心配はなかった。お互い起床できたから。変な夢だったが忘れようと思った。けれど、その夜に見た夢も彼がいた。
「望月さん、また会いましたね」
「あ……えっと、星村さん。……望月さんは、その、やめてほしいかも……。さん付けて貰えるような、立派な人間じゃないし」
「はあ、めんどくさいですね」
えっ、と彼が声を漏らしたのと同時に思わず口を手で押さえた。つい出てしまった失礼な言葉を謝ろうとしたが、彼はやっと安心したような笑顔を返してきた。
「星村さんってはっきり言う人なんだね」
「さんはやめてください。……望月くん」
「じゃあ……星村。敬語もなしでいいよ」
その日、私たちはこの事象について一応話し合った。これはどっちの夢なのか、つまりどっちの夢にお互いが入っているのか。そうじゃなくても、夢という場所があって、そこにお互い入り込んでいるのか。じゃあ夢とは何なのか。どうしてこんなことになっているのか。こうなるまで、お互い普通の夢を見ていたはずなのに。
心当たりがあるとすれば、この夢を見た日、つまり前日、私が望月くんを見かけたこと。そのことを伝えると、彼も私を見たと言うのだ。「望月くんのような陽キャが私なんかを認識するの?」
「なんて言い草だよ。星村、今日、親と学校に来てただろ。こんな時期に珍しいなって」
「ああ……」
母の代わりに父が有給を取って来た。私が学校で、問題を起こしたから。ただし、私と、担任の教師しか知らないこと。
「で、先生とお父さんに食ってかかってただろ、あれは凄かった」
思い出したのか楽しそうに笑う。私はその時笑い事じゃなかったが、確かに傍から見れば凄い剣幕だったかもしれない。釣られて笑みが零れた。
「望月くんも……外にいる時とは随分様子が違うんだね」
軽い調子で言ったつもりだが、彼は笑うのをピタリとやめ、暗い顔に変わっていった。何かまずいことを言ったのか。
「夢の中だから……気抜いてたんだ。ここで見る俺のことは、外では言わないで」
「どうして? 自然体で、いいと思うけど」
「……俺は、星村みたいに気の強いタイプじゃないから。元々はこうなんだ。でも冗談を言って、笑いを取ってれば、強い敵意を向けられることはない」
「作ってるってこと?」
黙って頷く。改めて見るとやっぱり顔がいい彼だが、それだけで妬まれたり、僻まれることがあるのかもしれない。
夢で会う前日に、彼を見かけた時のことを思い出す。
「一声は顔がいいからなー」
休憩時間のこと。それこそ、父と職員室へ向かう時にすれ違った。職員室は二年生の教室がある階にある。あの時とは違い、女装などしていなかったが、あ、あの時の人だ、と分かった。声や顔、それにいっせいという珍しい名前が彼だと証明づけた。 金髪の男の子が口にした言葉にいっせいと呼ばれた彼は「まあ? アイドル目指してっから」と調子よく返す。
「うぜえ! でも俺の好きな例の女優と知り合ったら紹介してください!」
「そん時はいっせい様と呼べよ。くるしゅうない」
手をぱたぱたとさせると、ははあ、とお辞儀する金髪の彼。周りにいた男女がドッと笑い声を上げる。
いいなあ。
素直にそう思った。
楽しそう。青春ってやつだ。
その輪に私を加えてみる。想像してみて、笑顔の弾ける私を見つける。
なんてね。目を逸らす。私は、もうああいうところにいたくない。疲れてしまったから。友達付き合いとか、空気を読むとか、読めた試しがないけれど、もう分からない。何も分からない。
「じゃあ教室行こっか、一声」
女の子の声に我に返る。望月くんも、軽く返事をして、保健室を出ていく。しんと静まり返った室内がやけに寒く感じる。
「冷房効きすぎじゃん」
布団にくるまって、目をつぶった。
放課後になって紬は保健室まで私の荷物を持ってきてくれた。しつこいくらい心配していたから「もういいって」とつい強い口調で返してしまう。
すぐに「ごめん、大丈夫だから。今日は一人で帰りたいから先に帰ってくれる?」と出来るだけ優しく返したが、紬の顔は見れなかった。どんな顔をしていても、また傷付けてしまいそうだから。 私は駄目人間だ。結局、自分のことしか考えられない。あんなことを思い出したのが悪い。望月くんに出会う前日の、人生最悪の日……。
ふらふらと帰路に着き、家に着くと自室のベッドに制服のまま身体を預けた。うつ伏せで枕に顔を伏せ、目を瞑る。早く夜になって欲しい。
しばらくして蒼菜の帰ってきた足音が聞こえる。隣の部屋の扉が開かれ、入ったかと思うとすぐに私の部屋の扉が開かれた。
「お姉ちゃんお姉ちゃん」
甲高い声にため息が出た。苛立ちが爆発しそうになるのを抑えながら「なに」と返す。
「今日ね、蒼菜、先生に褒められたんだよ。何と全教科満点! 凄くない?」
「凄いね……」
本当に凄いと思う。私とは違う可愛い笑顔を思い浮かべる。見なくても、屈託ない顔で私を見ていることが分かる。元気印のポニーテールを揺らして、フレッシュな雰囲気を纏う妹。私がなれなかった、いい子。
「でもお姉ちゃんはもっと凄いんだろうなあ! 蒼菜もお姉ちゃんみたいになりたいよ!」
「蒼菜」
声を荒らげてしまう。うるさい黙れ、と叫んでしまいそうな衝動を抑えた。ん、と悪気のない声が返ってきたから。
「……お母さんにも、その話をしてあげて。きっと喜ぶから」
「うん分かった! お姉ちゃんも今日こそは一緒にご飯食べようね!」
バタバタと慌ただしく部屋を後にし、階段を降りる音が聞こえる。微かに届けられる母と蒼菜の声も聞きたくなくて、布団を被った。
お腹が痛い。痛い。痛い。
蒼菜はいつだってああだ。私の成績も知っているくせに、私に憧れを抱いてくる。プレッシャーをかけてくる。自分の方が、ずっと凄いくせに。いっそ馬鹿にして、私の全てを否定してくれたらいいのに。
早く夜になれ。
早く夜になれ。
早く夜になってくれ。
ただただ、両手を合わせて祈ることしか出来なかった。
晩御飯はいつも自分で用意をする。そう父に言われているから。言われなくても、母は私の存在を認知していないからいつだって三人分しか用意されていない。
最初こそ蒼菜が無鉄砲にも質問していたが、父が黙らせた。だから、あの蒼菜もさすがに食卓では私の話をしなくなった。
時間をずらして晩御飯を食べ、お風呂に入って眠りにつく。鎮痛剤を飲んだから腹痛は和らいできていたが、それでも貧血が酷かった。朝はこんなことなかったが生理の一日目はいつだってこうだ。夜にかけて辛くなってくる。ついでに気持ちも暗くなってくるものだから、早く眠りについた。
夢の中は、保健室だった。ただ昼間と状況が違って、ベッドに横たわる望月くんを椅子に座って見下ろす私。恐らく、彼と彼女があの時していたように。
最悪だ。よりによって、こんな、羨ましい青春。
お腹は夢の中だからか痛くない。ただ、気持ちがずっと陰鬱で、よ、と寝転びながら片手を上げる望月くんを睨みつけた。「こ、こわ……。何だよ」
「別に。起きたら?」
「いやあ、それがベッドがあったら寝転びたい性分で」
「……何それ」
本当に何それ。少しだけ口角が上がる。気持ちが和らいでいくのがわかった。
この時間が、好きだ。いつしか夜を待ちわびている私がいる。ここが私の真の居場所。ここでなら、誰も傷付けないで済むし、私も傷付かない。ここにいるのが、望月くんで良かった。
よ、と声を出して起き上がり、彼が私の顔を覗き込む。何か言いたげな表情に首を傾げた。
「あのさ、ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」
「まあ聞ける範囲なら」
おずおずと聞いてくるものだからちょっと身構えてしまう。しばらく葛藤しているのか、目を泳がせたあと、彼は意を決して、口を開いた。
「俺の彼女を紹介させてほしい」
「……は?」
「星村とここで話すこと、この時間を俺は大切に思ってる。でも同じくらい、彼女のことも大切だから紹介させて欲しい」
「……えっと、つまり、私とここで会ってしまってることに、罪悪感があるってこと?」
望月くんは、頷かなかった。ただ、目を逸らした。それが肯定を物語っている。
私は、血の気が引いていくのを感じた。
「私たちの関係は、どう説明するの?」
「それは……正直に」
「正直に言って、誰がこんなこと信じるの? 信じて貰えなくても、夜に男女が会ってる、そこだけ抜き取られたら、浮気って思われてもおかしくないんだよ?」
「そ、それは……説得させる」
駄目だ、止まれ。望月くんの表情が暗くなっていく。止まれ、と祈るのに、私の口は勝手に開く。「望月くんが? 無理でしょ、そんなの。優柔不断で気の弱いあなたにそんなこと出来ない。彼女にも、まだ素を出せていないのに」
言ってからじゃ遅いのに、やっと言ってしまった重大さに気付いて口を噤んだ。こんなことを言いたかったわけじゃない。何て言えば良かったのか。
望月くんは、酷く傷付いた表情をしていた。
「分かった、やめとくよ。……ごめんな」
怒っていいのに。お前に何が分かるんだって突き放していいのに。望月くんは、その日ずっと黙っていた。
起きた後も、気持ちは最悪だった。まだお腹が痛む。二日目になると、いつもなら軽くなっているのに。ため息が出た。今更になってあの時言いたかった言葉が思いつく。
私の居場所を、壊さないで欲しい。私たちだけの居場所であって欲しい。
ただ、望月くんにそう言いたかっただけなのに。傷付けてしまった。私の主観で、でも恐らく彼自身も感じていたことを突き付けてしまった。
今日は学校に行く気にならなかった。私は待ち合わせ場所に行くであろう花乃子に連絡をして、再び眠りについた。
起きたのは昼過ぎ。腹痛は幾分和らいでいて、一階へ降りると、母がテレビを見ながらラーメンを啜っていた。
私も同じインスタントラーメンでいいやと台所に立つ。鍋をコンロに置くと、ガシャン、と音が鳴った。私の乱暴者め。もう少し静かにできないものか、と呆れていると視線を感じた。
顔を上げて、息を飲んだ。
母がこちらを凝視している。目が合っている。頭に血が上っていくのを感じる。息を忘れてしまう。「家鳴りかしら」
呟いてから母はテレビに向き直った。彼女の背中を眺めながら、忘れていた息が帰ってくる。は、は、と短い呼吸が次第に通常に戻っていくのを感じながら、頭もクリアになっていく。
いつぶりか分からない、母の目は、かつて私にも向けられていた無垢な色を宿していた。敵意のない、悪意も感じられない、そんな瞳。そんな瞳だからこそ、怖くて萎縮してしまった。叩かれる。暴言を吐かれる。その瞳に殺意が孕むのをただジッと待つことしか出来なかった。
どうして。
私が立てる物音も遮断されるらしく、母にはいつも聞こえていない。実際足音は聞こえていなかったはず。なのに、どうして。
私が、いつもいない時間だから? 予期せぬ時間に音を立てたから、母の脳も遮断しきれなかった?
鼓動が早くなっているのを感じながら、コンロの火をつけてみる。ちらりと母を見ると、テレビに夢中になっていた。これくらいの音なら大丈夫らしい。安堵のため息を零した。
無事ラーメンを作って二階に持っていき、食べ終えるとベッドに寝転んだ。リビングで食べても良かったが、今は近くに行くのが怖い。食器はまた後で下ろせば良いだろう。
再び眠りにつこうとすると、スマートフォンに着信が入る。表示された名前に顔をしかめたが出る訳にもいかず、ため息を殺して出た。
「はい」
「はいじゃないだろ、学校に休みの電話は入れたのか?」
父だった。掠れた声は元々で、昔から聞き取りずらいと思っていた。「入れたよ。何で休んだの知ってるの」
「蒼菜が教えてくれたんだよ、学校に行く前にお前の様子を見たら寝てるって。たぶん休んだんだろうって心配してたよ、あの子は優しいから。それなのにお前は心配ばかりかけて」
「はいはい、悪かった悪かった」
「……俺が帰るまでお母さんの前には極力出るなよ」
「分かってるよ」
一応さっきのことは伝えた方がいいだろうか、と思っていると「怪しいもんだ」とイチャモンを付けられたせいで言う気が失せた。
「昼飯は食べたのか」
「食べたよ」
「いいか、大人しくしているんだぞ。余計なことはするな」
はいはい。言い終わる前に切られてしまった。
父は、良くも悪くも母ファーストだ。私たち子どもは母のおまけ程度。仲のいい夫婦だと思うし、母にとってもそれが一番いいことなのだろうが、私にとって、昔は寂しいことだった。
優秀な蒼菜は当然のように褒められ、愛される。対して私は平凡だった。決して、悪くなかったと思う。ただ目立つところがないというのは蒼菜より愛を貰えないということ。蒼菜よりどうしても劣ってしまう。両親の愛のランキングは私が最下位だったし、母には疎ましくさえ思えたのだろう。
母は、父のいないところで私を虐めた。父が事を知ったのは私が母を虐め返した後だった。
「余計なこと、か」
父にとって、あのことは余計なこと。望月くんを初めて校内で見かけた日の前日に私が起こした問題。母がもし起こしていた問題なら、父は卒倒したはず。
私はここにいなくてもいい。いない方がいい。けれど家を出ることは出来ない。余計なこと、だから。学校へも、行かなくていい。行かなくても、誰も私のことなんて気にしないから。私はこの世界にいらない。
「……早く、夜になって欲しい」
望月くんに謝らなくちゃ。布団を頭まで被って時間をやり過ごす。 そうしていると蒼菜が帰宅した。私の様子を見に来たがすぐに追い返す。やがて父が帰ってきた。やはり様子を見に来たが、父の心配が疎ましく思えて「何も余計なことはしてないからあっちへ行って」と追い返した。心配されたってもう溝は埋まらない。
お風呂に入ってベッドに入った。昼間寝すぎたせいで眠れない。電気を消して、ぼんやりと天井を見つめていると、扉がノックされる。答えなかったが、扉が開けられた。
「お姉ちゃん? 寝てる?」
蒼菜だ。布団を頭まで被り「寝てる」と返してみた。笑った気配と共に、蒼菜が近付いてきた。
「カイロ持ってきたんだ」
「……置いといて」
「お姉ちゃん、今日あったこと聞いてくれる?」
「……話せば」
「今日ね、晩御飯食べてる時、お母さんがお姉ちゃんのこと話したの」
一瞬、聞き間違いだと思った。自分の耳を疑ったが次の瞬間には引っ張られるように上体を起こし、蒼菜を見ていた。
「うそ……」
「嘘じゃないよ。あの子……あの子はどこって言ったの。お父さんが、あの子ってって聞き返したら、あさきよって」
「そ、それで?」
「歩咲は体調崩して寝てるって返してた。それだけだし、それ以降はもうお姉ちゃんのこと忘れたみたいだった」
安堵のため息が漏れ出た。いやしかし、と思い直す。昼間のことが母の記憶を呼び戻したのなら、やはり私は母の前に出るのを少し控えた方がいいかもしれない。
私の決意を知らない生暖かい手が握ってきた。「ねえ、お姉ちゃん。このままいけばまた昔みたいに家族の団欒ができるかもしれないよ、凄い嬉しい!」
「はあ? 勘弁してよ」
私は彼女の手を振り払った。大きな目が驚いて更に見開かれる。その目を見つめ返した。
「家族の団欒? そんなのあった?」
「あったじゃん! みんなが帰ってきて、ソファーに並んでテレビ見たり、リビングでそれぞれ勝手に過ごすのんびりした時間が! 私、あの時間が大好きだったんだよ」
「それを私が壊したって?」
困った顔で見つめ返してくる。自分は何も悪くない、そう言いたげな表情が、苛立ちをふつふつと昇らせる。
「そんなこと言ってないよ、お姉ちゃん」
「言ってるよ! 目がそう言ってる! 私のせいだって、お母さんがああなったのは私のせいって言いたいんでしょ? そうだよ、私があんな風にしてやったんだ! それの何が悪いのっ」
誰も、守ってくれないくせに。昔も、今も、これからも。自分で自分を守るしかないじゃないか。
「歩咲」
ハッと、した。我に返って顔を上げると、真っ暗な部屋の入口、明かりの付いたその場所で、立ち尽くす父がいた。
「そうやって苛立ちに任せて人を傷付けるのはお前の得意技だな。ずっとそうやって生きればいい。誰もお前の周りにはいなくなるだろう。それが望みだろ? 来い、蒼菜」
「でも」
「もういいから」 父の言葉に促され、蒼菜は私を一瞥すると、大きな背中の奥に隠れた。父が私を見る。扉が閉まるその瞬間まで、カエルを睨む蛇のように、ジッと見つめられ、そして暗闇が帰ってきた。
虚無感に襲われた。同時に、心が酷く痛い。蒼菜が置いていったカイロを手に取り、お腹に押し当てた。その温もりに余計に傷付けられる。気持ちよくて、痛い。涙が零れてきた。横になって目を瞑る。早く眠れ。眠れ眠れ。カイロを握りしめ、その時を待った。
その時が来た。
来たのに、望月くんの隣には彼女がいた。血の気が引いていく。
「どうして……」
私の声に気付いた彼が振り返る。いつものように、よ、と片手を上げてきた。
「来たか、星村」
「ど、どうしてっ」
「へ?」
「どうして、彼女がいるのっ」
望月くんの顔を眺める横顔に向かって指を差した。え、え、と彼は狼狽えたように私の差した先と、私を見る。
「な、なにが?」
「何がじゃないよ! ここに呼ばないでよ! ここは、私たちの場所なのにっ」
もう嫌だ。もう嫌だ。私は走り出した。
「ほしむらっ」
彼の声が後を追って来る。振り払いたくて更に足を早めた。
どこにも私の居場所はない。走ってもどこまでも続くこの空間に、どこか私の居場所がないか探す。どこまでも走る気でいた。だって、夢の中でさえも奪われたら、私はどこに……。
「星村っ」 手を引っ張られ、強制的に足を止められた。その手を叩くように振り払おうとするがなかなか離れない。
「やめて、望月くんも私がいない方がいいんでしょ!」
「え、ええ? どういうことだよ、落ち着いて話を」
「だって、彼女がそこにっ」
改めて望月くんを見ると、その隣に彼女はいなかった。ただ、焦っておろおろしている彼の顔がそこにあるだけ。
「彼女? て、俺の彼女?」
困惑しながら問われ、こくりと頷くと彼は首を傾げた。
「俺はずっと一人だよ。怖いこと言わないでくれ……」
やっと私の手を離した望月くんはびくびくしながら、辺りを見回す。その様子が嘘ではないことを裏付け、私も落ち着きを取り戻していった。
「ご、ごめん……」
気まずくて俯くと、望月くんの頭が下がってきた。
「いや、こっちこそごめん」
驚いて顔を上げる。彼は、私に頭を下げていた。
「何が? やめてよ、そんな」
「星村、昨日から様子が変だったから。俺が紹介したいって言ったからだろ、星村の気も知らないで、ごめん」
「私の気って……」
どきりとした。落ち着いた今だから思えるが、実に子どもじみたこと。それを彼に知られていたなんて。恥ずかしさでいたたまれなくなる。
顔を上げ、気まずそうに望月くんは言いのけた。
「彼氏が欲しくてたまらないんだろ、自慢みたいになってごめん」
「……はあ?」
呆れて言い返すのを忘れてしまう。彼はその調子で続けた。「良かったら俺の友達を紹介するよ、良い奴がいてさ、そいつは信用できるよ」
うんうんと頷いて腕を組む彼。力が抜けていく。馬鹿馬鹿しい。でも、安心感が帰ってきて、私は座り込んだ。
勘違いをしばらく続けた望月くんが落ち着いたあと、私たちはさっきの事象について語り合った。
望月くんの彼女が出てきたこと。これは、いわば悪夢として片付けられる。彼には失礼な話だが、彼の記憶が反映されているのだから当然と言えば当然だが、それで説明がつく。
「じゃあ人も出てこれるってことなんだ」
「うん、でも、彼女は望月くんしか認識してないようだった」
望月くんを見つめる横顔が私の方を振り向くことはなかった。だから、と人差し指を立て、仮説を立ててみる。
「たぶん私たちのようにここで会ってる、という感覚はないと思う。あくまでも出てきただけ。ここの空間が形を変えたり、ボールを出してくるのと同じこと。その証拠にきっと彼女は夢に出てきた認識はないはずだから、今日彼女に会ったら聞いてみて」
望月くんが頷いたのを見て、私は改めて彼と向き直った。
「それから、昨日はごめん。さっきのことも……。完全に八つ当たりだった」
「いいよ、そんなこともあるよ。それよりさっきの話だけど」
「へ?」
「友達。紹介しようか?」「ええ……いや、いいよ。前に話した通り、私たち住む世界違うし……。それに説明もめんどくさいし信じてもらえないよ。だから秘密にしよって最初に取り決めたんじゃん」
むしろ、本気だったんだ。彼の青春に、私は入るつもりはない。ただここで会って話をして……この場所を守れたら、それでいい。
んー、と唸った後、じゃあさ、と提案してきた。
「そいつにだけ本当のことを話そう。本当に信用出来るやつだから言いふらしたりしないだろうし、きっと信じてくれる。な?」
な、な、とやけに食い下がってくる。何でそんなに……と聞こうとしたが、そういえば以前、私に友達が出来て嬉しいと喜んでいた顔を思い出す。ため息が出た。あの顔を思い出したあとでは断りづらく、仕方なく了承した。
朝が来ると支度をして、リビングへ行くとちょうど父と会った。母は台所で料理をしている。いつもの光景だった。そそくさと玄関へ向かうため、父の横を通り過ぎようとすると手を掴まれた。
「体調はどうだ」
驚いた。母の前では、絶対私に話しかけないから。つい母の方に視線を走らせる。父も同じようにして、母の様子に変わりないことを確認すると私たちは目を合わせた。
「別に……私の体調なんて、どうだっていいでしょ」
ふん、と鼻を鳴らされる。
「また余計なことをされたら適わんからな」
「だから聞いてやってるって?」
「そうじゃない。子どもの体調を気遣うのも親の役目だ」「何を今更。お母さんが私を虐めてた時、何もしてくれなかったくせに」
「あれはお母さんがお前のことを思ってしつけてくれていたんだろう」
ああ馬鹿馬鹿しい。もう話したくなくて、手を振り払った。
「そうだね。どれだけ暴言を吐いても分からないような馬鹿娘には叩かなきゃ駄目だもんね」
「歩咲」
「はいはいもういいです。私が全部悪いもんね。体調も良好です、ご心配なく」
ちょうど父の奥の階段から蒼菜が降りてくるのが見えた。心配そうに窺うその顔を一瞥し、玄関へ向かう。早く家を出たい一心で飛び出し、花乃子との待ち合わせ場所へ向かった。
花乃子から多少の労いを受け、学校へ行くと紬が犬のように駆け寄ってきた。
「大丈夫? もうしんどくない?」
「うん。今回はちょっと痛みと貧血が長引いただけだから」
「それなら良かった。じゃあ今日こそお泊まりの日程決めちゃう?」
ニヤリと笑む彼女の前で手を合わせた。
「今日はごめん。ちょっと放課後、用事があって」
「えー、それ、今日じゃなきゃ駄目? 昨日も歩咲いなかったからつまらなかったんだよ。……て、ごめん。駄目だから断ってるんだよね」
言ってから肩を落として謝罪をされる。あの日から紬は私が言ったことを何とか改善しようとしてくれているのは伝わっている。……それでもたまに、苛立ちが顔を出してしまうことがある。それが今なのだが、私もこの性格を改善していくために、そのまま頭を下げた。「ごめんね。明日は絶対」
「絶対だよ? 約束だからね? 約束破ったら針千本飲ますからねっ。そろそろ戻るね」
言いながら時計の針がもうすぐ予鈴を差すのを見て、慌ただしく自分の教室へ戻っていった。その背中を見送った後、気持ちを落ち着かせるために深く息を吐いた。
放課後になると私は約束した時間になるまで教室で何をするでもなく、待った。一人、また一人と教室から人が減っていく。
階下から生徒たちの部活動の声が聞こえてくる。夏の眩しい夕日が教室へ差し込む。扇風機で循環させている、少しだけ冷たい空気が夏の暑さをより主張させる。
もうすぐ夏休み。休みの日は、好きじゃない。家にいたくないから。中学時代は遊んでくれる人が誰かしらいたから良かったが、高校生になってから土日が苦痛になった。でも外にも居場所がないから、やっぱり家にいるしかない。父が帰ってくるまで私はほぼ自主的に軟禁状態。だから夏休みは憂鬱。
でもそれ以上に、楽しみだと思える。夏が好きだから。何かが起きそうな予感をいつも抱える。
「お待たせ」
どきりとして、教室の入口にゆっくり顔を向けた。約束の相手は望月くん。その後ろに望月くんよりも身長の低い男の子がいた。まんまるの茶髪くん。いわゆる、マッシュルームカットというやつ。蒼菜にも負けないくらい大きな目、少し日焼けした肌は活発さを匂わせる。着崩した制服が彼を少し幼く見せ、一言で言えば、可愛い男の子。「この子がいっせの紹介したい子?」
いっせと呼ばれているらしい。望月くんは頷いた後、私の前の席に座った。まんまる茶髪くんもその横に腰かける。
「お前、下の子もたぶらかして……。しかもこんな真面目そうな子を! 彼女に言うしかねえ!」
茶髪くんはパシーンといい音を鳴らして望月くんを叩いた。突然のことに驚いていると「違うって、話を聞け!」と制する。私も手を前に突き出した。
「私からも話をさせてください。この人にたぶらかされるなんてありえない」
「酷い! こんなイケメンに何てことをっ」
「それ以上に残念なポイントがいっぱい」
わあわあと騒ぐ望月くんをなだめていると、茶髪くんが吹き出した。それを合図に当の本人も笑い出す。呆れて私も笑みを浮かべていた。
落ち着いた後にお互い自己紹介をした。彼の名前はまんまる茶髪くん改め、屋詰太郎さん。タロちんって呼んでるよ、と望月くんが補足してくれたが、呼ぶことはないだろう。
その後に私たちの関係を話した。屋詰さんは眉間に皺を寄せながら話を聞いてくれたがにわかには信じ難い話らしく、聞き終えたあとも、うーんと唸って机に突っ伏した。
「浮気じゃないんだな?」
「浮気じゃない」
そう疑われることは覚悟していたが、即座に否定する。偶然にも声が重なってしまい、屋詰さんも目を細めたが、自分でも怪しさが増したと気付いてしまった。「で、このことは内緒にしててほしいと」
「今みたいに疑われるの嫌だから」
私の横で補足が入ったが、ふうう、と深いため息が吐かれた。彼の様子を黙って窺うことしか出来ず、ジッと顔を覗き込んでると「わかったよ」と気難しげな顔で了承してくれる。
「タロちん!」
「そりゃ幼なじみのよしみだし信じるよ。いっせが浮気をしないこと、俺が一番知ってるし。で、そのことを俺に話してどうって言うんだ?」
私をチラリと見た後、屋詰さんは望月くんに頷き返していた。彼のことは信用出来るが、私のことは信用出来ないらしい。まあそれはそうだ。私たちは今出会ったばかりだし、実際、彼は本当に顔だけは良いから悪い虫もつきやすいのだろう。
「どうもこうもないよ。言っただろ、この子を紹介したいって。だから紹介したんだよ」
「ん……?」
ああそういえばそういう話だった、と私も思い出す。前フリが長かったし強烈だっただろうから、屋詰さんも戸惑いを隠せていない。「す、すみません。望月くん、私に友達を増やしたいみたいで」
間違ってはいない。が、少し恥ずかしくて顔が赤くなったのを自覚する。お兄ちゃんの後を着いて回る妹みたいな気分。だがまさか彼氏候補として紹介されたとも言えない。
「まためちゃくちゃな……。こいつ、冗談のように見えて結構本気でこういうことする奴だから気を付けてな」
「はあ、まあ、今回のことで身をもって知りました」
屋詰さんの言葉通り思い出されるのは数々の冗談。私がため息混じりに笑うと同じような表情を返してきた。
見た目のわりにちょっと怖い人かも、と思っていたが、案外気さくなのかもしれない。
安心していると「さ、連絡先交換、連絡先交換」と横から誰よりも乗り気に促してくる。
そういえば望月くんと連絡先交換していないな。
そのことに気付いたが口には出さず、言われた通り連絡先交換を終え、解散した。

