望月一声。私よりひとつ年上の男の子。容姿端麗運動神経抜群、勉強はてんで駄目らしいが、加えてお調子者で周りにはいつも人がいる。彼に二つ名を与えるなら歩く青春。
 対して私は平々凡々だが根が暗い。青春とは程遠いし、学年も違うから話すことはないだろう……と、本当に、今でも思う。
 授業中、ぼんやりと窓の外を眺めていると体育の授業を受けている望月くんと目が合い、ウインクと投げキッスを送ってきた。呆れて空に視線を変えた。
 私たちには人には言えない秘密がある。言っても信じてもらえない不思議なこと。夜にだけ現れる秘密の場所。
 放課後になって家に帰り、晩御飯を食べて夜には眠りにつく。少しだけわくわくしているのは望月くんには言わないでおこう。徐々に遠のいていく意識の中でそう思った。
「今日、無視しただろ……」
 気が付くと目の前に望月くんがいた。外ではセットしている髪がぺたんこになり、しっかりパジャマに身を包んでいる。優しそうなタレ目で私を見て、薄い口をへの字に曲げ、せっかくの高い身長が猫背のせいでまあまあ暗い印象を持つ。外の彼とは全然違う姿。
「無視じゃないよ。外であなたと関わりたくないだけ」
「酷い……」
 ため息混じりに文句を呟くと彼は私の横に腰掛けた。体育座りをしている私を真似て……というよりは、それが彼の落ち着く座り方らしい。
「だって住む世界が違うんだもん」
「住む世界って」
「そうでしょ、明るい望月くんと暗い私じゃ、接点もないよ。ただでさえ学年も違うのに親しくしてたらなんて言われるか。なんて説明するの?」
 詰め寄ると、うぐ、と情けない声で言葉を詰まらせた。
 これが彼の本当の姿。外では明るく振る舞っているが、本来は気弱で優柔不断。ここに来て数日だがそれだけ分かるのに十分な時間を過ごしたつもり。
 ここは夢の中だ。
 白とグレーの間の色が、もわもわと広がり、場所を一応形成している。床の感触はない。壁もない。永遠に続いている空間。どことも言えない変な場所。
 私たちは何故か同じ夢を見る。と言うよりは、私たちは、夢の中で会っている。
 それともう一つ分かっていることがある。
 不意にころころと転がってきた野球ボールが私の手に当たった。ボールを手に取り、望月くんに「キャッチボールしよう」と声をかける。彼も素直に応じて少し離れてくれ、ボールを投げてみるが思っていた場所とは違う、変なところへ飛んでしまった。
「下手くそー」
「うるさい!」
 ボールを追いかけに行く背中に悪態をつくが我ながら本当に下手くそだ。
 もう一つ分かっていること。どうやらこれは望月くんの夢の中ということ。私は望月くんの夢に誘われているらしく、その上で二人が見たものが反映されているらしい。
 その証拠に野球ボール。彼は今日、体育の授業で野球をしていた。普通の夢と同じように記憶に残ったことが反映される。昨日なんかはホラー番組を見たらしく、ここにテレビが現れて二人で鑑賞した。そのホラー番組は私も見たからほとんど同じ内容だったが。
「星村さんはさー」
 ボールが飛んでくる。バシッと気持ちいい音を立てて私の手に収まった。野球ボールは素手で受け止めるべきじゃないな。
 投げながら「さんはやめて。望月くんが先に言ったくせに」と返した。上手いこと彼の手中に収まり、やっとまともにキャッチボールが開始された。
 年上だからとさんを付けて呼んだら嫌がったのは彼の方。私だって、さん呼びは何だかこそばゆい。すかさず言い返した私に、う、と声を漏らしたが、持ち直してきた。
「星村はさ、友達……作らないの?」
「うん。いらない。もういいかなって」
「もういい?」
「そういう感覚、望月くんならよく知ってると思うけど?」
 一瞬、ピタリと動きを止めた彼を見て、言葉がきつくなってしまったことに気付く。すぐにボールは返されたが、謝りたいのに言葉が出てこない。何か別の言葉で取り繕おうとするがそれも出てこない。代わりにボールを返すと、そうだね、と彼が呟いた。
「ここなら好かれる心配もないから楽だよ」
「うん? 私に、好きになるなってこと?」
「そうじゃなくて。正直、君にきつい言葉をかけられると安心する」
「……マゾ?」
「そうかも」
 ちょっと子どもっぽい笑顔を見せた。外で見る顔もこんな感じだが、髪がぺたんこだからか、少し幼く見える。こんな風にも笑うんだ。
「無関係だからかな」
「無関係?」
「うん、星村が俺の生活に入ってこないって宣言してくれてるから気が楽なんだ」
「屈折してるなあ」
「星村もだろ? 君は君の生活からそうなんだから」
 まあ似たようなものなのかもしれない。ああ、でも、とある人物の顔を思い浮かべる。
「最近、そうもいかないんだよね」
「ん?」
「私の真似……をしてくる子がいて」
「へえ、そりゃあ、物好きだ」
「どういう意味っ」
 思わず力が入ってしまい、また変なところへ飛んでしまった。それを軽快な笑い声を上げながら拾いに行く背中を睨みつけた。
 確かに、私はちんちくりんだし、鼻も低いし、顔だって可愛くない。髪も短いし。……それは私の好みでやっていることだけれど。
 ごめんごめんと悪びれる様子のない謝罪と共に帰ってくると再びキャッチボールが始まる。
「まあでも真似されるっていいことだよ」
「どうして?」
「憧れられてるってことだから。うん、確かに気持ちは分かる」
「はあ? ブレブレ過ぎでしょ、物好きって言ったくせに」
「冗談だよ」
 ちょうど彼の手にボールが収まると、動きを止めてジッとその手を見つめ始めた。何となく終わりの気配を感じて、もう少ししていたかった物足りない気持ちを抱きながら、近寄った。
「星村は凄いよ、一人でいることが怖くないんだから」
「怖いの?」
「……目立つのが嫌なんだ、一人だと存在が浮き彫りになるような気がして。よく言うだろ、木を隠すなら森の中って」
 その気持ちも、少しわかる。私だって、最初はそうだったから。 もわもわとしていた空間が次第にクリアになっていく。そろそろ起きる気配を感じ、どちらともなく手を挙げた。
「じゃ」
 次の瞬間、私は目を覚ましていた。白い天井が視界に入り、上体を起こして腕を伸ばす。カーテンから僅かに差し込む初夏の日差し。よく寝た。いつだって目覚めは良い。望月くんと話したり遊んだ後も行為自体は睡眠だから、疲れはしっかり取れている。また今日という一日が始まった。
 私にだって友と呼べる人はいる。ちょうど支度を済ませると、待ち合わせの時間に遅れた私のために幼なじみが迎えに来てくれた。高校は違うから駅までだが、中瀬花乃子は唯一そうだと言える。私が気兼ねなく話せる相手。
「今日も暑いねえ」
「まだ梅雨にもならないのにね」
 何気ない会話。額に汗が滲むのを感じながら、横目に彼女を見やる。
 腰まで伸びた髪が歩く度にさらさらと流れ、少し小さな目が瞬きを繰り返す。真っ白な肌は日焼け対策をしていると言っていた。両手で鞄を持って、まさにおしとやか。
「なに?」
 私の視線に気付いた花乃子が首を傾げる。いや、と前置きして続けた。
「花乃子は学校で上手くやれてる?」
「うん、それなりに。友達も出来たし、勉強もついていけないって程じゃないかな。歩咲は?」
 問いかけられ、本当のことを言うべきか、悩んだが、まあ花乃子なら、と口を開いた。
「高校では友達もういらないかなって」
「そうなの? みんな高校違うしね、一から作るのしんどい?」
 みんな、と言うのは中学の時の友達を指している。中学時代、私は友達が多い方だった。けれどそれを壊したのは、私。
「うん、そうだね。一人って楽だし」
 チラリと花乃子を見ると、特に気にしてなさそうな様子で、ふうん、と呟く。彼女のこういうところに私は安心出来る。追求してこない、変なリアクションを取らない、自分の考えを押し付けない、興味があるのかないのか、どっちでもいい。そういうスタンスだから、花乃子の前では本当を言える。唯一彼女とは、友達でいたい。
 駅で別れ、学校へ向かった。
 時間は淡々と進み、放課後になるとどこへ遊びに行くかはしゃぐ集団や、椅子に根付いてお喋りに夢中になっているグループを素通りして教室を出た。その後を着いてくる足音が聞こえ、早歩きに変える。
「あーさき、歩咲、ちょちょ、ちょっと、歩咲、無視しないでよ」
 肩を掴まれ、釣られて振り向くと、思った通りの人物、川田紬がムスッとした顔で立っていた。
 紬は中学から仲良くしている……というより、私に着いてくる。高校に行くまではこうじゃなかったが、真似をしてくるようになった。大きな声では言えないが少し苦手な女の子。私と同じ長さの肩にかかる髪も、高校生になってから開けたピアスも同じ。せっかく可愛い顔をしているのに、真似する人を間違えている。
「歩咲、遊びに行こうよ」
「あーごめん、私、今日も忙しいから」
 目を逸らすとたまたま視界に入った、向こうから歩いてくる望月くんを見つける。隣には女の子がいて、髪が長くてメイクの濃い女の子。いわゆるギャルが隣にいても見劣りしないのだから彼も華があるのだ。
 そういえば昼休憩の時、あの女の子と中庭にいるのを見たっけ。いつも彼の周りには誰かいるが、一対一というのは珍しくて目に付いた。
「昨日もそうだったじゃん」
「まあまあ」
 紬の文句を右から左へ受け流しながら、彼女が望月くんの腕に絡んだのを見てしまう。
 無性に、胸が痛んだ。突き付けられたようだった。彼と私では生きている世界が違うと。同じ空間にいるのに、毎夜会っているのに、私の知らない望月くん。
「じゃあ今日電話してくれる?」
 聞きたくもないのに、彼女と望月くんの会話が耳に入ってしまう。
「するする、めちゃくちゃするわ。どっちかが寝落ちるまでしような」
「もー、一声って甘えん坊?」
「馬鹿、違うよ。甘えん坊はそっちだろ」
 小さな頭を小突く望月くんと、それに笑い声を上げる彼女が私たちの横を通り過ぎていく。
「ねえ、歩咲。聞いてる?」
「え?」
 遠ざかっていく二人の笑い声とは裏腹に、大きな声が私を呼び戻す。一瞬、望月くんと目が合った気がする。本当に一瞬だったから気のせいかもしれない。でもその一秒が私を現実から遠ざけた。
 我に返った視界には、紬が頬を膨らませて、私の手を取っていた。
「いっつも忙しいって言うじゃん、ねえ、何で? どっか行くところあるの? 部活とかやってたっけ? バイトとか? あ、親が厳しいとか」
「うるさいな」
 ついため息が出た。こういう粘着質なところが、苦手だ。「正直に言わせてもらうけど遊びたくないから断ってんの、一人にしてほしいの」
 言ってから、イライラしていることに気付く。ああ、これが駄目だったんだ、と分かっているのに歯止めが効かない。
「何でそんなこと言うの? 私たち、唯一同じ中学からの友達じゃん。高校に上がってから様子がおかしいよ」
「本当にうるさいな、どうだっていいじゃん、別に。大体さ、何そのピアス? そういうキャラじゃないじゃん、髪も短くしちゃってさ、似合ってないよ、それ」
「酷い……」
 そんなの、分かっている。でももう止まらなかった。
「それに私たち友達だったっけ? 同じグループにいただけじゃん、友達の友達くらいだったでしょ」
「じゃあこれからは仲良く」
「出来ないよ、したくないもん。しつこいし私の真似してくるし、嫌だよ」
「じゃあもういいよ!」
 頬に衝撃があった。紬が走り去っていく。熱と痛みを主張してくる頬に、叩かれたのだ、と理解した。
 叩かれても、仕方ないことを言った。言ってはいけないことも、言った。ため息が出た。鼓動が速い。こんな風に、人を傷付ける言葉を私は知っている。私は、最低だ。
 帰路について、自室のベッドで夜が来るのを待った。そんな日ほど晩御飯とか、お風呂に入る時間とか、遅く感じる。体育座りをして時間が訪れるのをジッと待つ。そういえば、望月くんもこういう座り方をしてたっけ。……人の真似をすると、落ち着く気がする。紬も、そうなのかな。気付いたところで遅いが、夜が来るのをただただ待って、やっと眠りについた。
「今日は俺の方が早かったか」
 後ろから声がして振り向くと、望月くんがいた。いつものもわもわした空間に、安堵のため息が出た。
「今日は、聞いて欲しい話があって」
「俺も。先に話していいよ」
 そう言いながらも目をキラキラさせて、口元が綻んでいる。嬉しいことがあったらしい。そんな様子だと話しにくいな、私は首を横に振った。
「望月くんから先に話して」
「え、でも」
「いいから。……私の話は、大したことないから」
 彼の話を聞いたら、少しは気が晴れるかもしれない。鬱屈としたこの気持ちが明るい方へ向かうことを期待しながら座ると、彼も横に腰かける。
「俺、好きな人がいたんだけど」
「え」
 そうなんだ。驚きを隠せないでいると、続けた。
「付き合えたんだ」
「お、おめでとう。……え、望月くん、好かれるの、嫌なんじゃ」
 矛盾している。昨日言っていたことと違いすぎる。戸惑う私に、彼は照れたように笑った。
「うん、まあそうなんだけど、それとこれとは違うっていうか、彼女のことは高校に入った時から好きでさ」
「そうなんだ……」
「自然体でいられるんだよね、あいつといると。あ、ほら、今日すれ違った時に一緒にいた子、あの子だよ」
「ああ、あの人なんだ……。望月くんとお似合いだね」
「そうかな、だったら嬉しいよ」
「じゃあこれから青春の始まりだ」
「何だそれ」
 嬉しそうに微笑む彼を見て、気持ちが落ち着いていった。彼が、ただの男の子のように思えたから。住む世界が違うと思っていたが、こんな風に恋が実って喜ぶただの男の子。
 それに、望月くんが孤独じゃないなら良い。私みたいに……。「それで、星村の話って?」
「私の話はいいよ、そんなことより惚気聞かせてよ」
「そう? じゃあ……」
 彼の惚気話を聞きながら、私は自分で線を引いたことに気付いた。彼と私は住む世界が違う。
 彼の青春に、私はいない。
 私の生活に、彼はいない。
 翌日の学校ではさすがに気まずさを拭えなかった。玄関で会った時も、廊下ですれ違った時も、紬の視線は私に向いていたし、私もつい彼女を目で追ってしまう。
 時間が経つとイラついていたことが嘘のようになくなり、申し訳なさが残った。言ってはいけないことを言った。最低の言葉で彼女を傷付けた。もっと言い方があったはず。……けれど、私は紬と仲良くしていたいのだろうか。そう思うと謝れずにいた。
 下校時、たまたま花乃子と会い、一緒に帰路に着く。紬と花乃子と私は中学時代仲良かったグループに所属していたから自然とその話になった。
「紬ちゃんね、グループでも浮いてたよね」
「そうだっけ?」
 首を傾げると花乃子が頷いた。
「うん、あの時は似たような子もいたから、そんなに目立ってなかったけど。私も正直苦手だったな、だから高校も違うところ選んだんだし」
「え、そうなの?」
 花乃子にも苦手意識あるんだ。
「うん、何か……喜怒哀楽が激しいっていうか、はっちゃけたら凄いはっちゃける人だし、しつこいところもあったから。でも、ほら、紬ちゃんの親ってほとんど家に帰ってこないって言うし寂しいのかも」
 それは私も聞いたことがある。ただ、忘れていた。そういえばそうだった、と昨日見せた紬の暗い表情、陰りのある瞳を思い出す。自然と家でひとりぼっちの彼女の背中を思い浮かべてしまう。
 花乃子と別れ、家へ帰るとリビングに母がいた。母は私に見向きもせずにテレビを見ている。別にいつものことだが、母の生活に私が消え失せてから数年経った。
 寂しい、か。そういう感情、もう湧かなくなったな。
 自室に入って着替え、ベッドに腰かけた。
 母は私が見えなくなった、と言っても過言ではない。
「あんたは蒼菜と違って要領も悪いし頭も悪いし可愛くもないからせめて家事を覚えなさい」
 母がそう言ったのは、私が小学三年生の時だった。母の言葉は当時の私に重くのしかかった。本当にそうだと思ったし、だからこそ言われた通りに家事を手伝うようになる。やがて全ての家事を担うようになった私に母は毎日嫌味を言うようになった。
「こんなところに埃あるんだけど。あんた自身が汚いから汚れにも目が行かないんじゃない?」
「なに、この料理。濃い味付けでお母さんたちの身体を悪くするつもり? 死ねって言いたいわけ?」
「あんたは廊下で寝なさい、臭いんだから。蒼菜、こんなところで寝ないでベッドで寝なさいよ」
 今でも思い出せる言葉の数々。私が爆発したのは、小学六年生だったと記憶している。
「お母さんの顔、気持ち悪。悪魔みたい」
 初めて吐いた暴言だった。母は私の反論に驚き、顔を歪ませた。それが快感へ繋がった。
 まずは家事全般放棄した。もちろん母は怒ったが思いつく限りの暴言を吐いた。
「何で子どもの私がしなきゃいけないわけ? あーお母さんじゃまともに家事出来ないもんね、掃除してるはずなのに汚すし。どっちがゴミなのっていつも思ってたもん。洗濯物もお母さんの顔みたいにシワッシワ。一日通しても家事全部終わらないし、お風呂入る時間も作れないくらい要領悪いからいつも臭かったもん」
「何これ、料理? ゴミ? 私こんなの食べられないから。捨てちゃおっと」
「ほーんと悪魔みたいな顔してる。意地悪してきたからだね、もう戻らないよ、その顔」 酷い娘だった、と今でも思う。母にたくさんの罵倒を浴びせた。妹の蒼菜ばかりを可愛がる母を憎み、妹を恨み、無関心でいる父を嫌った。もう戻らないのは、私たちの関係だった。
 私は汚い人間だ。人が傷つく言葉がわかるから。
 それから、母は徐々に私の言葉を、私の声を、私を、シャットアウトしていった。母の防衛本能が働いたのだと思う。あのままでは壊れてしまうところだったから。
「お母さんには、優しくするんだもんな……」
 父は病みそうな母を支え、初めて私に敵意という名の関心を向けた。
「それ以上お母さんを傷付けるならお前は捨てる。俺はその覚悟が出来ている」
 そう言われてようやく私は暴言を吐くのをやめる。その時になってやっと母には私が見えていないことに気が付いた。
 父にとって母は愛する人なのだから当たり前だが、じゃあ私は何だったのだろう。父にとって、私は生活の一部に入っていなかったのかもしれない。
 蒼菜は、そんな私にも無邪気に接してくる。私がやったこと、私が父に拒絶されたこと、知っているはずなのに、何も知らない顔をしてくる。それが、また嫌だ。
 ため息が出た。
「寂しい、か……」
 そんな感情があるなら、きっとこれがそう。夜が訪れなくてもいい、ただジッと時間が過ぎ去るのを待った。 その日も、翌日も、翌々日も、翌週も、望月くんは惚気話を聞かせてきた。彼の頭の中は彼女でいっぱいらしく、しかし夢に反映はされなかった。不思議なことに学校でも彼を見かけることがなくなった。正直、それはそれで良かった。今の望月くんを見ていると、私が惨めに思えてしまうから。
「あの、聞いてる……? 星村」
「え……ああ、うん、聞いてるよ。毎日雨で嫌になるよね」
「聞いてなかったじゃん」
 肩を落として突っ込まれたが私的には衝撃だった。いつの間にか梅雨に入っていることに気付いたのは今日で、それまでぼんやりと過ごしていたから浦島太郎の気分なのだ。
「最近、星村ボーっとしてる? 何かあった?」
「別に」
「ふうん。……歩咲」
 名前を呼ばれて、心臓を掴まれる感覚がした。驚いている私に含み笑いを返してきた。
「びっくりした?」
「ま、まあ。名前、覚えてたんだ」
「そりゃ毎日会ってる人の名前くらい、さすがに覚えるよ。俺は?」
「え、一声……くん」
「何だ、星村も覚えてるじゃん」
 こんなことが、嬉しく感じるなんて。熱いものが込み上げてきて咄嗟に彼から背を向ける。戸惑う声を他所に、涙が流れた。
 誰かの生活に入っていたことがこんなにも嬉しいなんて。一方的にじゃない、傷付けるためじゃない、私の生活にも入って欲しいって思える相手がいる。これって凄く尊いことなのに、今になって初めて知った。「だ、大丈夫? 星村、星村ー」
「放っといて。……ああ、違う、えっと……何て言えば……そこに、いるだけでいいから」
 ぐちゃぐちゃになった頭で一生懸命考えて絞り出した言葉は、まさに今の私がしてほしいこと。ぴったりの言葉を吐けて、安心する。
 背中にじわりと感触があった。僅かな重みが望月くんの背中だとわかるのに時間はかからなかった。
 しばらくそうしていた。背中合わせに人の感触を感じているせいか、泣くことを今までしてこなかったからか、体感ではすぐに泣き止んだ。泣き止んだ後も望月くんはそうしてくれていて、私も体重を預けてみる。
「知り合いと……喧嘩したの。喧嘩っていうか、一方的に傷付けた」
「前言ってた、真似してくるっていう?」
 こくりと頷く。彼には見えないだろうが。
「私ね、最低な人間なの。人を傷付けることに一度快感を覚えてしまってから、息を吐くように暴言が出てくるようになった。どう言えば相手が傷付くか分かる、むしろ傷付けようとしてるみたいに私の口が動くの」
「た、確かに……身に覚えがある」
「……うん」
 嫌味だろうか。声音にはからかう感じが滲んでいたが、反論したいのをグッと堪える。事実だ。
 何も返さない私を見かね、背中に更に重みが加わる。本当に重いから抗議してやろうと振り向くと、望月くんも振り向いた。
「まあそう自分をあまり虐めないようにな」
「え?」
「人を殴ったら痛みは跳ね返ってくるもんだよ。今の星村みたいに」
「わ、私が? 傷付いてるって?」「うん、星村は暴言を吐くことじゃなくて、強い言葉を使う度に、跳ね返ってくる痛みに快感を覚えてるんだよ。他人にも、自分のためにも優しい言葉を使わなきゃ」
「……でも、そんなの」
 私にはできない。首を横に振るが、体勢を立て直して向かい合った。
「星村はさ、うっかりトゲトゲした言葉を出しちゃうんじゃなくて、それしか知らないんだよ」
 ちょっと引っかかる言葉に少し考えたあと、つい睨んだ。
「……馬鹿にされてる?」
「いやいや。だからさっきみたいに考えてから言い換えればいい」
「さっきって……」
 何だっけ、と言い終わる前に思い出した。そういえば私、彼にそこにいるだけでいいって何とも恥ずかしい言葉を口にしたのだ。まるで告白みたいに……。自覚すると恥ずかしくなった。
「いやあれはそういうのじゃなくて」
 そもそもそういう感情を、望月くんには抱いていない。確かに顔はいいが気弱で優柔不断、ホラー番組にビビり倒す姿なんて情けない。
「分かってるよ、大丈夫。それに俺は星村のはっきりした態度、凄いと思ってる。短所でもあるんだろうけど、長所だよ」
 うんうん頷いて断言してくれる望月くんの方こそ、凄いのに。
 彼を気弱で優柔不断なんて言ったが、言い換えれば……優しい人だ。色んな選択肢を考え、例えば色んな言葉を考えて、その人に合った言葉で伝えてくれているのがわかる。
「それに傷付けたことを気にしてるってことは少なくとも謝りたいってことだよね?」
「……うん」「じゃあ謝りに行こう。それで、どうして真似するのか、聞いてみよう。ぶつけて終わりじゃなくてさ、問いかけるんだ。あ。そろそろだ」
 そろそろだ、という言葉を聞いて私も空間がはっきりしてきたことに気付く。
 じゃあね。どちらともなく手を上げ、目を覚ました。
 支度をして学校へ行き、一人ぼっちで席に座っていた紬に真っ先に話しかけた。
「おはよう」
 驚いた彼女の顔を差し置いて続ける。
「昼休憩の時……ううん、放課後でもいいんだけれど、話があるからちょっと時間くれない?」
「あ……じゃあ、昼、一緒に食べよう」
 戸惑いながらも応えてくれ、私も自分のクラスに向かった。
 昼休憩、クラスの違う彼女を迎えに行って、一緒に食堂へ向かった。その間どちらも口を開かず、食券販売機の時にようやく「何にする?」と問いかけてみた。
「うーん、カレーにしようかな」
「私はラーメンとおにぎりにしようかな」
 言いながらまずカレーのボタンを押すと「えっ」と驚いていた。続けて自分の分の食券も買い、少し行列が出来ている列に並ぶ。
「あ、歩咲、いいよ、自分の分は自分で出すし」
「いいよ。これは……こんなのじゃだめかもしれないけど、お詫びだと思ってくれたら」
「……お詫びだなんて、そんな……」
 何に対するものなのか、言わなくてもわかったらしい。それが彼女を傷付けていた裏付けにもなった。
 レジで渡してすぐに料理を渡され、適当なところに向かい合って座った。手を合わせ「まずは」と口火を切る。
「ごめん。あんな風に、傷付けるような言い方をして」
「ううん。歩咲に言われて気付いたの、本当のことだって。こっちこそしつこくしてごめん」
「それだけじゃない。格好のことも、言っちゃいけないことだった」
「……とりあえず、食べながら話そっか」
 言われて手を合わせたまま、いただきます、と呟いた。
 ここの食堂のラーメンはしょうゆラーメンなのだが、ペラペラのチャーシューが大好きでそれ目当てによく注文する。スープ自体は想像通りの味。おにぎりは私の大好物だと言っていいくらい、この食堂に限らず、メニューにあれば注文する。特に好きなのはご飯にベタっと貼り付いた海苔。湿った海苔と湿ったご飯が美味しくてたまらない。
 と、味を楽しんでいたが「ショートが似合わないのも分かってたんだ」と紬の言葉に本来の目的と向き直る。
「だって家族にも言われてたんだよ、私はロングの方がいいって」
「そうなんだ」
 まあ、確かに、中学の時の彼女はロングだった。そっちのイメージが強かったのもあるが、一度考えてから、口に出した。
「せっかく綺麗な髪だったから。……切ったの、勿体なくて」
 うん、そうだ。自分でもぴったりの言葉を言えたと思う。
 紬は驚いた表情をしたが自分の髪に触れ「憧れてたの、歩咲に」と呟いた。どういう意味か聞こうとしたが彼女に先を越される。「歩咲は……変わったよね、高校生になってから。中学の時はもっと明るかったし、冗談も言ってた。……言いたくなかったらいいんだけど、どうして? やっぱり、あの件で?」
 私は箸を止め、視線を落とした。ゆらゆらとラーメンの湯気が立ち込め、鼻腔をくすぐるがそれどころではなかった。言おうか言うまいか。彼女に視線を向ける。
 おずおずと聞いてきた今の彼女も、高校に入ってからの様子とは違っていた。しがみつくような、まるで子どもがお母さんを求めるような態度だったのが、今は、落ち着きを取り戻したように見える。お互い、一線を引いている。あの時みたいな間違いをしないように。
 今の紬なら、話しても大丈夫かもしれない。私は口を開いた。
「あの件が決定打だけど、前の私は……無理してたんだと思う。何かがあった訳じゃない、ただ……疲れちゃって。本当の私は明るくなんてないのかも。今の方が、気が楽だから。……だから、紬は新しい友達を作った方がいいよ。私といても楽しくないと思う」
 私の言葉を受けて激しく首を横に振る。ちょっとびっくりして仰け反ってしまった。そんなに大きな反応をしなくても、と思うがこれが彼女なのだから仕方ない。
 座り直すと、紬も真摯な瞳を向けてきた。
「歩咲は、私といたくない? いたくないなら、もう話しかけないでおこうって思う」
 その声は、少し震えていた。
 箸を置いて私は彼女の顔をジッと見つめた。食堂にいる全ての人の声が遠ざかっていくようだった。同時に、血の気が引いていく。
 苦手だったはず。彼女のことを、苦手だと思っていたはずなのに、いざそう言われると、寂しく感じる。勝手な感情を抱いているのはわかっている。 でも、この数日間、謝りたいと思っていたのと同じくらい寂しいとも思っていた。休憩時間になる度にわざわざクラスの違う私の所へ来ていた紬。一人でいることじゃなく、彼女が教室に来ないことが寂しかった。
 反応が大きくて喜怒哀楽が激しくて粘着質。彼女を避けた日もあったのに。
「いたくない、訳じゃない……。ごめん。勝手なことは、本当にわかってるんだけど、少しだけ、いてほしい、かも……」
 我ながら煮え切らない返事。どう言われても受け入れるつもりでいると、テーブルが音を立てる。思わず顔を上げると立ち上がった紬の嬉しそうな顔がそこにはあった。
「本当っ?」
「う、うん。静かにして」
「あ、ごめん。ねえねえ、本当? いいの?」
「……いいよ」
 つい目を細めてしまう。それに気付いた彼女が大袈裟に口を手で隠した。
「ご、ごめん、これが駄目なんだよね」「しつこいのは、もういいよ。なかなか治らないだろうし。でも大きな声は……そうだ、猫だと思って。赤ちゃんでもいいかも」
「猫? 赤ちゃん?」
「どっちも大きな音が苦手だから」
「確かに! あ……ふふ」
 くすくすと笑っている様子にやっと安堵出来た。
 残っているラーメンとおにぎりを食べ終えて、紬も食べ終えると、ふう、と一息ついて手を差し出された。何の手だろう。
「握手」
「何でまた……」
「改めて、友達になりたいから」
「ああ。やれやれ」
 めんどくさいな、という言葉を飲み込んで手を握る。ベタベタするのも好きじゃないが、今はめんどくさいだけで嫌だとは思わない。滑らかで温かな手に握り返される。
「これからよろしくね、歩咲。それと、叩いてごめんね」
「いいよ、もう。本当に私が悪かったから。……よろしくね」
 嬉しそうな顔を見て、彼女が私の生活の一部に入ったのを感じる。うん、嬉しいかもしれない。
 ふと視界の隅に望月くんと彼女の背中が映る。二人は談笑しながら食事をしていて、学校で彼を見るのは久々だと気付く。同時に、落ち込んでいたから周りを見ていなかったのだとわかった。
 望月くんのおかげだな。今日、お礼を言わなきゃ。遠い背中に微笑んだ。