前世はどこかの学校の保健室だったんじゃないかってくらい、夏目朝春は保健室にいることが多い。貧血持ちで免疫力もなくて、流行り病にはほとんど毎年かかる病弱ぶり。
今日だって、あまりの胃痛に耐えられなくて、一限目の終わりに保健室へ駆け込んだ。二時間ほど横になったあと、いつものストレス性のやつだ、と憂鬱をまとったまま朝春がベッドから抜け出したとき、保健室には養護教諭のカヨさんの姿はなくて、朝春は独りだった。
窓際のパイプ椅子に座って、春風で膨らむカーテンをぼんやりと眺める。どうして自分は他の人と比べてこうも丈夫ではないんだろう。保健室に差し込む柔らかな日差しとは不似合いな落胆が朝春を生ぬるく襲う。でも、本当のところ、そうやって嘆くことにも飽きつつあった、高校二年、朝春の、春。
その男は、生ぬるい静寂をやぶる春雷のように、保健室の扉を勢いよく開けて、朝春の前に現れた。
「あ、夏目」
カーテンから扉の方に朝春が視線を向けると、廊下と保健室の境目に突っ立つ体操着の男から、単調な声が発せられた。鮮やかな金髪の髪に、美しい顔立ちをしたその人は、保健室などとは全く縁がないような見た目だったけど、やすやすと境目を飛び越えて、朝春の前までやって来た。
長身に見下ろされて、朝春は内心怯みながらも、ぎりぎりの愛想笑いを顔に貼り付ける。去年から同じクラスなのに一秒以上目を合わせたことはなかったかも、などと思いながら、一、二、三秒、目を合わせ続け、限界がきて、視線の絡みを断ち切るために、ぱちぱちと瞬きをした。
そう。男は、朝春のクラスメイトだった。名前は、月島虹星という。クラスメイトといっても、一秒以上目を合わせたことがないような間柄なのだから、もちろん話したこともほとんどないし、朝春と彼ではクラスでの立ち位置もまるで違う。劇の配役にたとえるならば、彼が皆に囲まれている主役の王子で、朝春は誰もが前を素通りするその辺の木Aだった。
「カヨさんは?」
朝春の緊張などつゆ知らずの金髪の美しい男は、養護教諭用の机におさまっていた背もたれ付きの椅子を勝手に自分の方に引き寄せる。それから、朝春と一メートルほどの距離をあけ、向かい合って腰をおろした。
「誰も、いねえの?」
「……たぶん、カヨさんは、会議だと、思う」
「夏目、ひとり?」
「あっ、うん」
「ふぅん」
「というか、月島君、俺の名前なんか、知ってたんだね……」
特技、つまらない自虐を発揮して朝春はなんとか自分の緊張をほぐそうと試みたけれど、月島に、「は」と眉をひそめられて呆気なく失敗に終わった。
「同じクラスなんだから、当たり前だろ」
「……ごめんなさい」
「それに、俺ら、去年も同じクラスだったし」
「……そうでした」
アハハ、と、朝春は搾りかすのような情けない笑いを月島に辛うじてお返しする。木Aの朝春にたいして、王子の月島は笑い返してはくれず、眉間に皺をよせたままじっと視線をよせてくるだけだった。
「あの」
「ん?」
「保健室に来たってことは、月島君、つらいんだよね。今、ベッド空いてるから、俺にかまわず……」
「いや。トゲ刺さっただけだから」
「トゲ?」
「今日の体育、バドミントンだったんだよ。床滑って、見学者用のイスに突っ込んだら、刺さった。で、授業抜けてきた」
ほら、と目前に、月島が自分の大きな右手のひらを示してきた。朝春は、わずかに身を乗り出して、月島の手のひらを確認する。月島の右の手のひらの生命線の終わりあたりはほんのりと赤くなっていて、確かに、木のトゲのようなものが刺さっているようだった。
「俺、多分、地味に負傷体質なんだよな」
「ふしょー、たい、しつ」
「負うに傷のふしょう、よく怪我するってこと」
「あ、なる、ほど。……大変だね」
「別に、痛みには鈍い方だしいいんだけどな。でもトゲは抜いときたくて」
月島はそう言って、右手を太もものところへ戻して、椅子の背もたれによりかかった。
「つーか、夏目の方こそ大丈夫なの」
「え。……俺?」
「よく体調崩してるイメージあるけど。今日も一限目の終わりからいなくなっただろ。なんか、朝から辛そうだったし」
ギィと、月島の座る椅子が鋭い音を立てたせいで、終わりの方の言葉は聞き取れなかったけれど、聞き返すなんてことはできず、朝春は、また無理やり口角をあげる。
「カラダがあんまり丈夫じゃなくて。……情けないです」
一限目の終わり際、目立たないようにこっそり教師に耳打ちして、後方の扉から教室を出たというのに、まさか月島のような人に気づかれていたとは。おまけに、よく体調を崩しているイメージまで彼に持たれているのだと思うと、居たたまれなかった。
「なんか、持病とかあんの?……や、別に答えたくなかったらいいんだけど」
「持病まではいかないけど、貧血がいまだにひどくて。あと、ただ単にカラダが弱いというか」
「ふぅん。そっちこそ、大変じゃん。寝てなきゃだめだろ」
「でも、今日のは、ただの胃痛だから。しばらく横になってじっとしていたら大丈夫になるタイプの。今はもう、平気です」
「だったらいいけど」
「……平気、なんだけど、決して、サボってたわけではないので」
「ん? 別にサボってても全然よくね。自由だろ」
ケロッとそう言い切った月島は、二人だけの保健室のなかで、朝春にはやけに光ってみえて、思い知る。
主役には、脇役の苦悩など分かるはずがない。でも月島がそう言い切ってくれて、朝春の心が一瞬だけわずかにほころんだのも事実だった。
「みんなが授業受けてるときに、保健室ばっかり行ってるのって感じ悪いんじゃないかなあって」
「感じ悪いって思うやつの方が、感じ悪いんじゃねーの、それ。まさか、誰かにそういうこと言われたことあんの?」
「……高校に入ってからはないよ」
「よかった」
「……よかった?」
「……わるくはないだろ」
「たしかに」
「もし誰かに言われたら、俺に教えてくれれば、」
「え?」
「いや。なんでもない。間違えた」
月島が、難解な表情で目線を落とす。朝春には、その表情がどういう感情から生まれるものなのか判別できなかった。
ほとんど喋ったことがない、ましてや、クラスのムードメーカーである抜群にイケてる男、月島を相手に、こんなにもたくさん会話を重ねられたこと自体が、朝春にとっては奇跡に近く、ここまではウルトラマンの三分間と同じようなものだった。月島が会話を終わらせればもう、朝春から円滑にしきり直すことなどできない。でも、二人きりの保健室にのしかかった沈黙で、また朝春の胃は痛み出しそうになっている。
「……月島君、トゲ、抜きに来たんだよね」
自身の病弱さにぴったりな、なよなよとした情けない声で朝春が沈黙を破ってみせると、月島はまた朝春の方にゆっくりと視線を戻して、頷いた。もう、難しい顔はしていない。
「カヨさんに、抜いてもらおうかと思ったけどいないし、どうすっかな」
「……俺、呼んでこようか」
「なんで夏目が呼びに行くんだよ」
「……すみません」
「別にカヨさんじゃなくてもいいし」
「うん?」
「むしろ、夏目」
「……うん?」
「夏目が、手当してよ」
そう言って月島はまた朝春に向かって右手を伸ばしてきた。思わず、朝春はパイプ椅子を後ろに引く。床と椅子の足が擦れる鈍い音が保健室に響いた。それでも、月島は、手のひらを表にして、朝春の方に手を伸ばしたままでいる。
「て、あ、て?」
「手当て。まさか、知らねえ?」
「ううん、さすがに言葉は知ってるよ。でも、……俺、養護教諭の免許、もってなくて」
「いや、それは当たり前じゃね。生徒、誰も持ってないだろ」
フハ、と月島が小さく息を吐くように笑う。月島が笑うのを、こんな、友達同士のような、ほど近い距離で見るのは、朝春にとって初めてのことで動揺してしまったけれど、それを悟られないように、「でも、」と言葉を続けた。
「医療行為、かもしれないし」
「ただの生徒だし、教師じゃないからこそ、いけるんじゃね」
「でも、」
「クラスメイトのトゲ抜こうとしただけで退学とか停学とかになんないって」
「でも」
「それに、いま、ここには夏目と俺しかいねーじゃん」
「う、でも、失敗したら」
「失敗しても、頼んだ俺が悪いんだから、別に夏目は気にしなくていい」
「……でも」
「夏目、クラスの保健委員でもあるんだし、ちょうどいいだろ」
でも。――いや、もう無理だろう。朝春がどれだけ「でも」を重ねても、月島にはそれを上回る言葉を永遠と返され続ける気がした。王子に木Aは勝てるわけがない。そもそも、勝ってはいけない。
「……分かりました」
「ん」
「俺が、手当て、するね」
朝春は、うなだれるように頷いて、覚悟を決める。
「よろしく」
なぜか月島の方も、唇を真横に結んで覚悟しているような顔をしていた。
朝春は立ち上がり、保健室の救急箱からピンセットを取り出して、また月島と向き合って、パイプ椅子に腰をおろす。トゲを抜くには遠かったから、音が鳴らないように椅子を動かして、月島の方へ近づいた。
恐る恐る月島の右手をとる。どっどっどっ、と朝春の心臓は、慌ただしく動いている。男相手に、何で緊張してるんだよ。朝春は自分にはそうは思わないけれど、月島にそう思われていたらと思うと怖くて、それでも、緊張は止められないから、とにかく手が震えないようにするので必死だった。
月島に刺さったトゲを抜く。夏目朝春、お前は今そのためだけに生きているんだ。朝春は自分にそう言い聞かせて、月島の手のひらを覗き込むように見つめ、トゲが刺さっている箇所にピンセットを近づける。それから、さらに深く刺さりこんでしまわないように気をつけながら時間をかけて先端をつまんで、ゆっくりとピンセットを動した。
「……とれた」
月島の手のひらに刺さったトゲを無事に引き抜いて朝春が顔をあげると、いつの間にこんなにも近づいてしまったのだろう、月島の顔が目と鼻の先にあって、視線がぴったりと合わさる。
月島はメドューサだったのかもしれない。朝春は、至近距離にある月島の美しい顔を目にしたまま、数秒間、身体を動かすことができなくなった。月島の瞳に自分が映っているのが分かってしまうような距離。月島の眉毛の生え方、陶器のようにつるりとした肌、左の頬の小さな小さな黒子。そんなものまで確認できてしまうような距離。
「……夏目の睫、なが」
朝春を石から人間に戻したのは、月島のそんな声だった。
「え」
「……いや、何でもない。さんきゅ」
先にふたりの距離を遠ざけたのは月島の方で、彼は、椅子の背もたれに脱力するかのように背をつけて、右手のひらを確認しはじめる。朝春もワンテンポ遅れて、パイプ椅子を後ろに引いた。自分の心臓の音がうるさいせいで、保健室に再び訪れたしばしの沈黙は、さほど気にならなかった。
「……ちゃんと抜けたとは思うんだけど、経過は、自分で気にして見てほしいかも」
「オッケー、そうする」
「膿んだりとかしたら、大変だから」
「おう。じゃあ、俺は体育戻るわ」
「うん。お大事に」
「夏目は? 次の授業はどうすんの」
「あ、……次は、戻るよ」
「あんまり無理はするなよ。心配だし」
月島が立ちあがる。それから、ぐぐ、と気持ちよさそうに大きく伸びをした。朝春はその様子をパイプ椅子に座ったまま眺めていたけれど、月島の腹がちらりと見えかけて、慌てて目を逸らした。
「また、なんかあったら手当てしてよ。俺、負傷しがちだし」
「……自分ができることだったら、うん」
「ん、頼りにしてるから」
そう言って月島はすぐに、朝春を残して保健室から出て行った。
保健室の扉がしまって、廊下に響く足音が遠ざかり完全に聞こえなくなるまで、朝春は、動かずじっとしていた。そのうち、鼓動も落ち着いて、独りきりの保健室で、朝春は脱力する。
制服の太もものところに月島の右の手のひらから抜いたトゲがはりついているのを見つけて、指でつまむ。朝春はそれを、カーテンが膨らむ窓の外、眩しい春の中に放った。