山津先生との補習から数日が経った。
相変わらず母親とみのりは言い合いばかりだし、自分の思いを口にするのも苦手だし、人の目が気になりすぎるのも変わらない。けれど、そんな大嫌いだった自分のことが、今は少しだけ大切にしてあげてもいいんじゃないかと思えるようになった。
もしかしたら、コウモリも自分と同じことで悩んでいるかもしれない。自分だけではないと思えることが、心を軽くしてくれることを初めて知った。それが人間じゃなく、見た目の全然違う動物であっても。
放課後、校舎から門に向かって歩いていると、花壇で花に水やりをしている山津先生を見つけた。あの日、特別な補習をしてもらったのに、そのお礼をまだ言えていなかったことを思い出す。
あかりが近づいていくと、気配に気づいた様子の山津先生が振り返った。あかりの顔を見てふっと頬を緩ませた。
「無事に調子が戻って来たようですね」
まだなにも言っていないのに、山津先生はあかりの心の声が聞こえたみたいだった。自分よりも、山津先生の方がずっとコウモリなんじゃないかと思った。
「山津先生のおかげです」
「そうですか。それはなによりです」
「山津先生がいてくれて本当に良かったです。本当にありがとうございました」
大げさでも、お世辞でもない。相手にどう思われるかよりも、自分の言葉を伝えたいと思えたのはいつ以来だろうか。
山津先生はいつもみたいに穏やかに笑ってくれると思っていた。けれど、山津先生の反応は、予想とは違ったものだった。
「私はお礼を言われるような人間ではありませんよ」
一瞬、謙遜しているのかと思った。けれどその声はひどく冷たくて、まるで自分自身を責めているみたいだった。その言葉の鋭さは、あかりの胸にまで、深く突き刺さってきた。
無意識に出た言葉だったのか、山津先生ははっとした表情を浮かべた。そしてこれ以上触れさせたくないみたいに、また水やりを始めてしまう。
「山津先生」
「なんでしょう」
何事もなかったかのように、山津先生は聞き返した。このまま気づかないふりをして、その場を去ることもできる。けれど、あかりはそうしなかった。
「自分がなにかを抱えていることを知っている人がいるというだけでも、人は意外と救われる」
コウモリだと言われた日、山津先生が教えてくれた言葉を口にした。
「それは、山津先生にも当てはまりますか」
山津先生はいつも微笑みを顔に浮かべていた。その表情は、授業中でも、一人で廊下を歩いているときでさえ変わらない。だからそれが彼の一番自然な顔なのだと思っていた。
けれど、それは自分の思い違いだったと知った。見られたくない本当の表情を隠すための仮面だったのだ。その下で山津先生がどんな顔をしているのか、あかりにははっきりとはわからない。けれど、あかりが今までに会った誰よりも悲しい表情をしていることだけは不思議と感じ取ってしまう。
自分は生徒で、山津先生は教師だ。人生経験だって比べ物にならないくらい浅い。そんな自分が先生を救いたいと思ってしまうのは、おこがましいことだろうか。
「コウモリには、安易に触れてはいけない」
またコウモリの話だ。
「そのことをうっかり忘れてしまっていました。コウモリは様々な恐ろしい病気を媒介する可能性のある動物です。最悪の場合、命に関わることもあるんですよ。知っていましたか?」
「知らないです。そもそもコウモリを見たことがないから、触れる機会もないです」
「それもそうですね」
山津先生はホースのつながる蛇口の栓を閉じた。
音が一つ消えるだけで、世界がすごく静かになったような気がしてしまう。
「片岡いずみという生徒を知っていますか」
この学校で彼女の名前を知らないのは、今年の一年生くらいだろう。それ以外の人は、きっとみんな知っているはずだ。知っているのに、触れてはいけない無言の圧力がこの学校には流れている。一年前に、自宅で自ら命を絶ったという女の子の名前だ。
一つ隣の教室にいた子が亡くなったのに、遠く離れた外国のニュースを聞いているみたいに感じたのを今でも覚えている。
「娘なんですよ」
世間話でもするみたいな軽さだった。
「あの子が中学にあがる少し前に離婚したので苗字が違うんです」
いくつもの疑問が頭の中に浮かんでくる。山津先生の言葉が本当だとして、どうしてここに来たのだろう。片岡さんが過ごしたこの場所に、どんな気分でいるのだろうか。
なにか言わなくてはいけない。けれど、片岡さんについて知らないことが多すぎる。そんな自分が彼女について語るのは、あまりにも無神経で、残酷で、罪深いことのような気がする。
ただ山津先生の言葉の続きを待つことしかできない自分は、やはり今までとなにも変わっていないのだと思い知らされる。
「私は」
山津先生の、痛みを堪えるようなかすれた声がした。
「いずみを二度殺しました」
すっと背筋が冷たくなったのを感じる。殺した、という単語は、あまりにも山津先生に似合わない。そんなはずはないと確信しているのに、なぜか否定することができなかった。
「どういう意味ですか」
あかりの言葉に山津先生が口を開きかけたとき、遠くの空から雷の音が聞こえてきた。これ以上踏み込むのを、誰かが止めているみたいだった。空はいつの間にか、分厚い雨雲に覆われている。
「水やり、しなくて良かったかもしれませんね」
花壇を見ながら山津先生が呟いた。
「雨がひどくなる前に帰った方がいいですよ」
話を強制的におしまいにされてしまったようだ。そのことに、どこかほっとしている自分がいた。
「気を付けて帰ってくださいね」
山津先生は校舎に向かって歩いていく。数歩進んだところで、くるりと振り返って、右手の人差し指を唇に当ててみせた。
「今の話はくれぐれも内密にお願いします」
あかりはただ黙って頷いた。それを見た山津先生は、いつものようにほほ笑んでまた歩き始めた。
その姿が校舎に消えたのとほぼ同時に、あかりの頭にぽつりと水滴が降ってきた。
山津先生は、傘を持ってきているのだろうかとふと思う。
冷たい雨に濡れながら歩く、山津先生の悲し気な後ろ姿が頭によぎった。
相変わらず母親とみのりは言い合いばかりだし、自分の思いを口にするのも苦手だし、人の目が気になりすぎるのも変わらない。けれど、そんな大嫌いだった自分のことが、今は少しだけ大切にしてあげてもいいんじゃないかと思えるようになった。
もしかしたら、コウモリも自分と同じことで悩んでいるかもしれない。自分だけではないと思えることが、心を軽くしてくれることを初めて知った。それが人間じゃなく、見た目の全然違う動物であっても。
放課後、校舎から門に向かって歩いていると、花壇で花に水やりをしている山津先生を見つけた。あの日、特別な補習をしてもらったのに、そのお礼をまだ言えていなかったことを思い出す。
あかりが近づいていくと、気配に気づいた様子の山津先生が振り返った。あかりの顔を見てふっと頬を緩ませた。
「無事に調子が戻って来たようですね」
まだなにも言っていないのに、山津先生はあかりの心の声が聞こえたみたいだった。自分よりも、山津先生の方がずっとコウモリなんじゃないかと思った。
「山津先生のおかげです」
「そうですか。それはなによりです」
「山津先生がいてくれて本当に良かったです。本当にありがとうございました」
大げさでも、お世辞でもない。相手にどう思われるかよりも、自分の言葉を伝えたいと思えたのはいつ以来だろうか。
山津先生はいつもみたいに穏やかに笑ってくれると思っていた。けれど、山津先生の反応は、予想とは違ったものだった。
「私はお礼を言われるような人間ではありませんよ」
一瞬、謙遜しているのかと思った。けれどその声はひどく冷たくて、まるで自分自身を責めているみたいだった。その言葉の鋭さは、あかりの胸にまで、深く突き刺さってきた。
無意識に出た言葉だったのか、山津先生ははっとした表情を浮かべた。そしてこれ以上触れさせたくないみたいに、また水やりを始めてしまう。
「山津先生」
「なんでしょう」
何事もなかったかのように、山津先生は聞き返した。このまま気づかないふりをして、その場を去ることもできる。けれど、あかりはそうしなかった。
「自分がなにかを抱えていることを知っている人がいるというだけでも、人は意外と救われる」
コウモリだと言われた日、山津先生が教えてくれた言葉を口にした。
「それは、山津先生にも当てはまりますか」
山津先生はいつも微笑みを顔に浮かべていた。その表情は、授業中でも、一人で廊下を歩いているときでさえ変わらない。だからそれが彼の一番自然な顔なのだと思っていた。
けれど、それは自分の思い違いだったと知った。見られたくない本当の表情を隠すための仮面だったのだ。その下で山津先生がどんな顔をしているのか、あかりにははっきりとはわからない。けれど、あかりが今までに会った誰よりも悲しい表情をしていることだけは不思議と感じ取ってしまう。
自分は生徒で、山津先生は教師だ。人生経験だって比べ物にならないくらい浅い。そんな自分が先生を救いたいと思ってしまうのは、おこがましいことだろうか。
「コウモリには、安易に触れてはいけない」
またコウモリの話だ。
「そのことをうっかり忘れてしまっていました。コウモリは様々な恐ろしい病気を媒介する可能性のある動物です。最悪の場合、命に関わることもあるんですよ。知っていましたか?」
「知らないです。そもそもコウモリを見たことがないから、触れる機会もないです」
「それもそうですね」
山津先生はホースのつながる蛇口の栓を閉じた。
音が一つ消えるだけで、世界がすごく静かになったような気がしてしまう。
「片岡いずみという生徒を知っていますか」
この学校で彼女の名前を知らないのは、今年の一年生くらいだろう。それ以外の人は、きっとみんな知っているはずだ。知っているのに、触れてはいけない無言の圧力がこの学校には流れている。一年前に、自宅で自ら命を絶ったという女の子の名前だ。
一つ隣の教室にいた子が亡くなったのに、遠く離れた外国のニュースを聞いているみたいに感じたのを今でも覚えている。
「娘なんですよ」
世間話でもするみたいな軽さだった。
「あの子が中学にあがる少し前に離婚したので苗字が違うんです」
いくつもの疑問が頭の中に浮かんでくる。山津先生の言葉が本当だとして、どうしてここに来たのだろう。片岡さんが過ごしたこの場所に、どんな気分でいるのだろうか。
なにか言わなくてはいけない。けれど、片岡さんについて知らないことが多すぎる。そんな自分が彼女について語るのは、あまりにも無神経で、残酷で、罪深いことのような気がする。
ただ山津先生の言葉の続きを待つことしかできない自分は、やはり今までとなにも変わっていないのだと思い知らされる。
「私は」
山津先生の、痛みを堪えるようなかすれた声がした。
「いずみを二度殺しました」
すっと背筋が冷たくなったのを感じる。殺した、という単語は、あまりにも山津先生に似合わない。そんなはずはないと確信しているのに、なぜか否定することができなかった。
「どういう意味ですか」
あかりの言葉に山津先生が口を開きかけたとき、遠くの空から雷の音が聞こえてきた。これ以上踏み込むのを、誰かが止めているみたいだった。空はいつの間にか、分厚い雨雲に覆われている。
「水やり、しなくて良かったかもしれませんね」
花壇を見ながら山津先生が呟いた。
「雨がひどくなる前に帰った方がいいですよ」
話を強制的におしまいにされてしまったようだ。そのことに、どこかほっとしている自分がいた。
「気を付けて帰ってくださいね」
山津先生は校舎に向かって歩いていく。数歩進んだところで、くるりと振り返って、右手の人差し指を唇に当ててみせた。
「今の話はくれぐれも内密にお願いします」
あかりはただ黙って頷いた。それを見た山津先生は、いつものようにほほ笑んでまた歩き始めた。
その姿が校舎に消えたのとほぼ同時に、あかりの頭にぽつりと水滴が降ってきた。
山津先生は、傘を持ってきているのだろうかとふと思う。
冷たい雨に濡れながら歩く、山津先生の悲し気な後ろ姿が頭によぎった。