この学校の美術部はかなり緩い。先輩たちも宿題が多ければ帰ってしまうし、理由がなくても気分が乗らなかったら無断で休んでもいいことになっている。
たまに顔を見せたかと思えば、一時間に十回はあくびをしているおじいちゃん顧問によると、描きたいときに描くのが一番らしい。加奈子はその持論に反対だった。
描き続けることでうまくなるのではないのだろうか。どうせやるなら一生懸命にやりたいし、賞だって獲りたい。自分とまわりの温度差に、一人だけ間違った場所に来てしまったような居心地の悪さを感じていた。
「あ」
なんとなくスカートが軽い気がして手を触れると、いつも入れているはずのスマホがない。机の中に入れたまま忘れてしまったようだ。早めに気づいて良かった。加奈子は今通ってきたばかりの廊下を戻った。
教室からあゆみたちの声がする。そっと開けて驚かしてみようか。そんないたずらを思いついたときだった。
「なんか一緒にいると疲れない?」
あゆみと話していたうちの一人、片桐さんの声だ。あゆみとは推しているアイドルグループが同じだと聞いたことがある。最近それが発覚したらしく、よくあゆみと話しているのを見かける。
かわいい顔に似合わず、少し話し方がきついときがある。正直少しだけ苦手だ。男子の中には、それがまた魅力的だと言っている人もいるけれど。
片桐さんの言葉に、あゆみを含めたほかの三人が、わかる、と同意したのが聞こえてきた。
「おせっかいなとき多いよね」
「そうそう。それに自分だけはちゃんとしてますって感じでさ」
扉にかけたままの手を動かせない。胸がざわざわする。誰かの悪口を言っているのは明らかだ。でも、自分ではない。だってあゆみもそこにいるのだから。そう信じたかった。
「朝のあれもさ、絶対清水が来るタイミング見計らってたよね。そんなに褒められたいのかな」
「私も見た」
「あぁ傘並べ直してたやつでしょ」
体温が急激に下がったのを感じた。その場からすぐにでも離れたいのに、足が廊下にくっついたみたいに動かない。
「あのせいで清水朝から機嫌悪かったよね」
「うん。『私が前に言ったことを覚えているのは田村さんだけですか』って。なんでこっちが怒られなきゃいけないんだろうね」
確かに清水先生はみんなのことを怒っていた。けれど、それは自分のせいじゃない。傘があのままの状態だったら、きっともっと怒っていたと思う。
悪いのはきちんと並べなかったみんななのに、どうして自分のせいなのかがわからない。
「あゆみ、よくあの子と一緒にいれるよね」
片桐さんがあゆみに言う。少し前までお互いに苗字で呼び合っていたのに、いつの間にか下の名前で呼び捨てにするくらいに仲良くなっていたみたいだ。
でも、自分の方がずっと前からあゆみと仲が良かった。部活も体育のペアも一緒だったし、休みの日にパンケーキを食べに行ったこともある。きっとほかのみんなが知らない、自分のいいところをみんなに伝えてくれるはずだ。あゆみは、気だるそうにあぁと返した。
「たまたま部活が同じだから仕方なくって感じだよ。そうじゃなかったらいないでしょ」
これは本当にあゆみの声なのか自信がなくなってきた。自分の知っているあゆみは、こんなふうに冷たくて、意地悪な話し方をしないはずだ。なにかの間違いだと思いたかった。加奈子のそんな小さな願いは、ほかの子の「あゆみ、結構言うね」という楽し気な声でかき消されてしまった。
「いい子ちゃんのオトモダチも結構大変なんだよ」
お友達、という優しいはずの単語が、なぜか知らない国の言葉みたいに聞こえてきた。
それはとても冷たく鋭くて、胸の奥に痛みをもたらしてきた。
廊下の奥から、清水先生がこっちに歩いてくるのが見えた。自分がここにいたことはあゆみたちにばれたくない。自分のものではないように力の入りづらい足をなんとか動かして、美術室の方へ走った。
結局、教室には入ることができず、部活の最終下校時間まで、スマホを取りに戻ることができなかった。
さすがにこの時間ならあゆみたちは帰ったと思う。それでも、教室に近付くのが怖かった。明日から、今までと同じ顔をしてあゆみと話せる自信がない。教室の明かりは消えていて、中には誰もいなかった。そのことにほっとする。
壁のスイッチを押すと、教室が白い光に包まれる。机の中には、思った通りスマホが入っていた。画面にはメッセージの通知が入っている。あゆみからだった。「さっきは部活のこと言い忘れてごめんね」という文章と、土下座をしている猫のスタンプが送られていた。
片桐さんたちと話していたことは本当?
そう打ちかけて、すぐにやめた。
なにも聞かなかったことにしていた方がいいに決まっている。もしかしたら、あゆみは本当はそんなこと思っていなくて、片桐さんたちに合わせただけなのかもしれない。
加奈子は「大丈夫だよ」と親指を立てている、あゆみと色違いの猫のスタンプを一つだけ送って教室を出た。玄関に向かう途中の廊下にお菓子のごみが落ちていた。加奈子は初めてごみを拾わずに通り過ぎた。
なぜか悪いことをしている気がしてしまう。振り返ったら、この気持ちが大きくなってしまいそうで、まっすぐに歩き続けた。落とした人が悪い。自分はなにも悪くない。
コンクールが近い吹奏楽部は、まだ練習しているようだ。黄昏時には似合わない陽気な音楽が、校舎のどこからともなく聞こえてきた。
心がもやもやするのはきっとそのせいだと、自分に言い聞かせた。
たまに顔を見せたかと思えば、一時間に十回はあくびをしているおじいちゃん顧問によると、描きたいときに描くのが一番らしい。加奈子はその持論に反対だった。
描き続けることでうまくなるのではないのだろうか。どうせやるなら一生懸命にやりたいし、賞だって獲りたい。自分とまわりの温度差に、一人だけ間違った場所に来てしまったような居心地の悪さを感じていた。
「あ」
なんとなくスカートが軽い気がして手を触れると、いつも入れているはずのスマホがない。机の中に入れたまま忘れてしまったようだ。早めに気づいて良かった。加奈子は今通ってきたばかりの廊下を戻った。
教室からあゆみたちの声がする。そっと開けて驚かしてみようか。そんないたずらを思いついたときだった。
「なんか一緒にいると疲れない?」
あゆみと話していたうちの一人、片桐さんの声だ。あゆみとは推しているアイドルグループが同じだと聞いたことがある。最近それが発覚したらしく、よくあゆみと話しているのを見かける。
かわいい顔に似合わず、少し話し方がきついときがある。正直少しだけ苦手だ。男子の中には、それがまた魅力的だと言っている人もいるけれど。
片桐さんの言葉に、あゆみを含めたほかの三人が、わかる、と同意したのが聞こえてきた。
「おせっかいなとき多いよね」
「そうそう。それに自分だけはちゃんとしてますって感じでさ」
扉にかけたままの手を動かせない。胸がざわざわする。誰かの悪口を言っているのは明らかだ。でも、自分ではない。だってあゆみもそこにいるのだから。そう信じたかった。
「朝のあれもさ、絶対清水が来るタイミング見計らってたよね。そんなに褒められたいのかな」
「私も見た」
「あぁ傘並べ直してたやつでしょ」
体温が急激に下がったのを感じた。その場からすぐにでも離れたいのに、足が廊下にくっついたみたいに動かない。
「あのせいで清水朝から機嫌悪かったよね」
「うん。『私が前に言ったことを覚えているのは田村さんだけですか』って。なんでこっちが怒られなきゃいけないんだろうね」
確かに清水先生はみんなのことを怒っていた。けれど、それは自分のせいじゃない。傘があのままの状態だったら、きっともっと怒っていたと思う。
悪いのはきちんと並べなかったみんななのに、どうして自分のせいなのかがわからない。
「あゆみ、よくあの子と一緒にいれるよね」
片桐さんがあゆみに言う。少し前までお互いに苗字で呼び合っていたのに、いつの間にか下の名前で呼び捨てにするくらいに仲良くなっていたみたいだ。
でも、自分の方がずっと前からあゆみと仲が良かった。部活も体育のペアも一緒だったし、休みの日にパンケーキを食べに行ったこともある。きっとほかのみんなが知らない、自分のいいところをみんなに伝えてくれるはずだ。あゆみは、気だるそうにあぁと返した。
「たまたま部活が同じだから仕方なくって感じだよ。そうじゃなかったらいないでしょ」
これは本当にあゆみの声なのか自信がなくなってきた。自分の知っているあゆみは、こんなふうに冷たくて、意地悪な話し方をしないはずだ。なにかの間違いだと思いたかった。加奈子のそんな小さな願いは、ほかの子の「あゆみ、結構言うね」という楽し気な声でかき消されてしまった。
「いい子ちゃんのオトモダチも結構大変なんだよ」
お友達、という優しいはずの単語が、なぜか知らない国の言葉みたいに聞こえてきた。
それはとても冷たく鋭くて、胸の奥に痛みをもたらしてきた。
廊下の奥から、清水先生がこっちに歩いてくるのが見えた。自分がここにいたことはあゆみたちにばれたくない。自分のものではないように力の入りづらい足をなんとか動かして、美術室の方へ走った。
結局、教室には入ることができず、部活の最終下校時間まで、スマホを取りに戻ることができなかった。
さすがにこの時間ならあゆみたちは帰ったと思う。それでも、教室に近付くのが怖かった。明日から、今までと同じ顔をしてあゆみと話せる自信がない。教室の明かりは消えていて、中には誰もいなかった。そのことにほっとする。
壁のスイッチを押すと、教室が白い光に包まれる。机の中には、思った通りスマホが入っていた。画面にはメッセージの通知が入っている。あゆみからだった。「さっきは部活のこと言い忘れてごめんね」という文章と、土下座をしている猫のスタンプが送られていた。
片桐さんたちと話していたことは本当?
そう打ちかけて、すぐにやめた。
なにも聞かなかったことにしていた方がいいに決まっている。もしかしたら、あゆみは本当はそんなこと思っていなくて、片桐さんたちに合わせただけなのかもしれない。
加奈子は「大丈夫だよ」と親指を立てている、あゆみと色違いの猫のスタンプを一つだけ送って教室を出た。玄関に向かう途中の廊下にお菓子のごみが落ちていた。加奈子は初めてごみを拾わずに通り過ぎた。
なぜか悪いことをしている気がしてしまう。振り返ったら、この気持ちが大きくなってしまいそうで、まっすぐに歩き続けた。落とした人が悪い。自分はなにも悪くない。
コンクールが近い吹奏楽部は、まだ練習しているようだ。黄昏時には似合わない陽気な音楽が、校舎のどこからともなく聞こえてきた。
心がもやもやするのはきっとそのせいだと、自分に言い聞かせた。