長かった夏は過ぎ、過ごしやすい季節がやってきた。この季節は敦の体調もいい。今日は三ヶ月に一回の総合病院での定期検診の日だ。普段は母親が付き添っているけれど、どうしてもシフトの都合がつかず、美穂が代わりに来た。しっかり先生の話を聞いてくるように頼まれたけれど、最近の敦の様子を見る限り、結果はきっと問題ないだろう。

 総合病院の待ち時間は長い。敦は動物図鑑をかれこれ一時間は眺めている。美穂もその隣で英単語を覚えていた。さすがに目が疲れてきて、単語帳から顔をあげた。フロアの真ん中にあるエレベーターの前に、見知った人がいるのに気がついた。

 山津だ。

 自分の診察か、それとも誰かのお見舞いだろうか。なんとなくその姿を見ていると、山津が急にしゃがみ込んだ。一瞬体調でも悪くなったのかと焦ったが、ただ靴紐を直しただけだった。立ち上がったとき、山津のズボンのポケットからなにかが落ちたのが見えた。
 山津はそれに気づかずに、エレベーターに乗り込んでしまう。美穂は急いで山津がいた場所まで駆け寄った。そこには茶色い財布が落ちていた。エレベーターのランプは上の階へ表示を変えていく。

 入院用の病室が並ぶ五階でランプが止まった。部屋に入ってしまったら、見つけられないかもしれない。この病院のエレベーターが、ひどく遅いのは敦のお見舞いに来たときに何度も感じていた。見失わないうちに行かないと。美穂は隣にある階段を駆けのぼった。

 五階に着いて左右を見ると、山津の背中が見えた。

「山津先生!」

 息が切れているせいで、声がうまく出せなかった。山津は美穂の呼びかけに気づかない。そして一番奥の病室に入っていった。
 プライバシーをのぞき見しているようで、少しの罪悪感がある。けれど、財布がないと山津も困るだろう。美穂は山津が入っていった病室に向かった。扉の隣には、部屋の患者の名前が書いてある。何気なくそこを見ながら、病室の扉をノックしようとしたときだった。

「え」

 美穂の手が止まった。

 片岡いずみ。学校の二三年生の中に、その名を知らない人はいない。彼女は、去年――

「どうかされました?」

 病室の前に呆然と立ち尽くしている美穂を見て、看護師が声をかけてきた。言葉がうまく出てこない。不審に見えたのか、看護師の顔から笑顔が消えていく。

「どなたかのお見舞いですか」

「いえ、あの」

 美穂はとっさに拾った財布を看護師に押し付けた。

「この部屋に入っていった人が落としたみたいです。それだけです」

 これ以上ここにいたらいけない。それだけはわかる。美穂は足早にエレベーターに向かった。後ろから看護師がなにかを言っている声がする。聞こえないふりをして、タイミングよくおりてきたエレベーターに乗り込んで、息を大きく吐いた。

 たまたま、だろうか。

 あれはちょうど一年前だ。集会の日でもないのに突然全生徒が体育館に集められた日のことが頭をよぎる。

「みなさんに、大変悲しいお知らせがあります」

 夏も過ぎ、暑くもないのに何度も校長が額の汗をぬぐいながら話していた。スカートのしわをみながら、どうせ誰かが校則違反でもしたのだろうと予想をつけていた。

「一年一組の片岡いずみさんが」

 名前も知らなかった、一人の女の子。

「昨晩自宅でお亡くなりになりました」

 ざわざわと広まる話し声の中には、少しの悲しみも含まれていなかった。好奇心や非日常的なできごとが起こったことへの高揚が詰まった空気や、演技みたいに神妙な顔をした教師たちの姿に、気味の悪ささえ感じたのを覚えている。

 言葉は濁されていたけれど、自殺だというのはわかった。

「まさか、ね」

 死んだはずの片岡いずみが、入院しているなんてありえない。きっと名前が同じだけだ。
 エレベーターを降りると、敦が不安そうな目でフロアをきょろきょろと見回していた。

「ごめん、敦。もう呼ばれた?」

 美穂が聞くと、敦はほんの少しだけ頬を膨らませて答える。

「まだだけど。どこ行ってたの」

「トイレ」
 ふぅん、と呟くと、敦はまた動物図鑑の世界に戻っていった。