ちょっとだいぶわけがわからない。小笠原に掴まれている手首は強い力じゃないのに簡単に振り払えるほど緩くもなくて、どうすればいいのか迷いながら引っ張られている。
ずんずん進んでいく後ろ姿に視線を向けつつ僕は足を動かした。必死についていかなければならない速度もさることながら、この状況についていけない僕は足の動かし方がわからなくなりそうだ。本当はそれくらい混乱していた。
もちろん反射的に足は出る。右と左を交互に動かせば前に進むものの、今にももつれて転びそうだ。
「あっ、ま……っ」
呼吸にまぎれた声は届かない。そもそも言葉になっていないから、吐き出す息の一部みたいだ。
小笠原が二歩で進む距離は僕の歩幅だと三歩必要になる。悲しいかな、足の長さがこんなにも違うという現実。普段一緒にいるときは僕に合わせていたらしく、ここまで急ぐことはなかった。今はせかせか。とてもじゃないがいつもの歩くスピードじゃ間に合わない。ついていくだけで精一杯なのだ。
「ちょ、っねえ小笠原って、ば」
止まってくれないか期待を込めて名前を呼んだが、振り返る様子はなかった。せめてもう少しスピードを緩めてくれないと本気でしんどい。息が上がる。
カフェ店員、いわゆるバリスタ姿の小笠原に手を引かれるメイド服姿の僕。傍から見れば何事かと思える僕たちの格好ではあるが、放課後であり文化祭の準備が始まっているクラスも多いことから、一瞥されるもののまったく気にされる様子はない。せいぜいふざけているかどこかへ急ぐ途中と思われるだけだ。
(……なんで赤くなっちゃったんだよ。あんなの誤魔化せない……絶対変に思われた)
廊下の先が行き止まりになっている校舎の奥。角を曲がってそこまで進むと、ようやく小笠原の手が離れた。
掴まれていた手首の開放感に少しだけホッとしながら、荒い呼吸を整えるために何度か深く息を吸った。覚悟を決める意味合いもある。
小笠原から何を言われるんだ?
(よしっ)
最後に長く息を吐き出してから、こちらを向いている小笠原に目をやる。バタバタしている自分と違い飄々としているのだろうと、そう思って。けれど違った。
いつもの人懐っこい笑顔でも、ふかふかの柔らかい雰囲気でもなく、静かなのに真っ直ぐな目。そういえばゴールデンレトリバーって狩猟犬だっけ、なんてささやかな情報がよぎった。
「小笠原?」
「都合よく……解釈してるかもって、思ってたけど」
小笠原が僕の本心にじりじり迫ろうとしている。赤くなったことを誤魔化そうと思っていたのに、その目を見たらできなくなってしまった。
あれは着たことない服が恥ずかしくて照れただけで──明らかな嘘は通じないだろう。
まだ僕の中でちゃんと答えが出ていない。この感情の名前を考えている途中なのだ。
どうして小笠原相手だとゆらゆらぐらぐらしてしまうのか、理由はたぶん間違いなくそうなのだろうけど、それでももう少しだけ待ってほしい。
それなのに──
優しいはずの小笠原は、静かに僕を掴まえていた。
「やっぱり自惚れじゃないみたいだし」
慌ただしく走ったせいで、僕の髪に結ばれていたリボンはほどけていた。山本たちがふざけてつけたものだ。僕のことをおもちゃにして小道具で遊び始めたから、途中で抵抗は諦めた。
そのほどけたリボンへ小笠原の手が伸ばされる。嫌だとか怖いなんてこと思っていない。そんなことないはずだけれど、無意識に肌がヒリついて警戒した。
ささいな僕の反応に気づいたのか、小笠原は『ごめん、手首痛かった?』と聞かれたから首を横に振った。痛むような掴まれ方をされたわけじゃない。だから否定した。
『なら、よかった』と安堵の言葉をこぼした小笠原を間近で見上げたら、いつもの彼なのにやっぱり少しだけどこか違っていた。
「万里の隣にいるのは楽しくて。一緒にいたい、って思ってる」
「それは僕もそうだよ? 小笠原といるの楽しい」
「うん、ありがと。でもさ、俺の『隣』っていうのは友達としての隣じゃなくて、こういうのだから」
言うと同時に目を細めた小笠原は、手にしたリボンを自分の口元へ引き寄せ、そのまま唇へ軽く触れさせる。
まるでキスしているみたいだ。
「っ……!!」
下から見ていた僕はその動きに息を飲んだ。さすがにわかる。触れ方が意味を持たせたそれで、慌てて体を引こうとしてもいうことをきかない。
待ってまって、まって。
本当にぜんぜん気持ちが追いつかない。
さっきの『かわいい』と言われた衝撃ですらまだ立ち直れていないんだ、僕は。顔の熱さがどうにか消えたばかりだというのに、どうしてこんなことになってしまったのか。混乱どころじゃない。
小笠原の唇から目が離せなくなり、羞恥なのか照れなのか、とにかく動揺と困惑で全身がカチコチに固まっていた。
内心で慌てている僕にはお構いなしに、小笠原が目線に近い高さまで少し屈んだ。
「顔、真っ赤。そういう反応するから期待する」
「期、待……」
「そう。嫌悪でも拒否でもなく、意識してくれるから」
リボンから唇が離れた。はらりと指先からも放される。その代わり、僕の何かが小笠原に掴まれた。
「困らせたいわけじゃない。今すぐどうこうなりたいわけでもないし。ただ、万里の隣に俺がいたいと思ってる。意識してくれてるなら、じゅうぶんかなって」
「それは……」
「まあ正直に言うと、最近万里にべたべたしやがってみんなムカつくってことだな。案外、心狭いだろ? 実はかっこよくもなんともないんだ、俺」
へにょっと眉を下げる小笠原はしかられたワンコのように見えた。こんな話をしているときだというのに、僕の中ではやっぱりかわいいワンコが主張してくる。
たぶん小笠原の人柄もあるのだと思う。器用で優しくてかっこいい、でもどこかかわいいと思えるところがあるから。
「バスケの試合、したとき……小笠原が」
「あ? 体育の?」
「うん、そう。シュート決めるって約束してくれたの嬉しかった」
「かっこいいとこ見せたいって、まあ打算もあったし」
「ううん、本当にかっこよかったよ。小笠原がキラキラして見えて、すごい……すごく、て……あのさ」
「うん」
誤魔化すべきじゃない。さっきまではそうしようと思っていたのに、まとまりきれていない僕の気持ちをぽつりぽつり吐露していく。
きっと小笠原はわかってくれるはずだ。
「胸の中がぎゅっとした。いいなって、もっと見ていたいなって思ったから」
「うん、そっか。よかった」
はにかんだ小笠原はそれ以上僕からの返事を求めなかった。困らせたいわけじゃないと言ったのは本当らしい。はっきり言葉で伝えられたわけじゃないけれど、それでもこれだけは今言おうと思う。
だって、僕も同じだから。
「僕も、小笠原の隣に……いたい」