「楽采とメッセージで決めたんだ。俺、今回は楓音とふたりだけで弾く曲にしか出演しないことにした」
 ピアノを弾くことが今は全然楽しくなくつらいと言った彼なりの判断であろう。そう考えるとすぐに腑に落ちる。
 でも……。
「他には弾かなくていいの?」
 私は知っている。奏翔は音楽とピアノが大好きだ。もし嫌いだったら、壁にぶちあたった時点でやめてしまっていただろう。
 しかし彼は一時期はやめていたものの、泉平くんが弾いてとせがんできたことをきっかけにその壁に何度も立ち向かった。そして今も続けている。それが彼の強さであり、音楽への愛を示している。
 一流のピアニストのような腕前を持つ奏翔と一緒に演奏したいと願う人は多いだろう。彼の音楽には引き込まれる魅力があるからだ。彼と演奏することは、彼の心に触れる特別な瞬間でもあるだろう。
「ああ、いいんだ。今回は。だから楓音もそうしてくれ」 
 奏翔の言葉には不安と期待が混じっていた。でも真剣な視線で私の反応を待っている。彼は私の飛び入り出演や聴覚過敏のことも気にかけてくれているのかもしれない。
「わかった」
「じゃあ、さっきの曲の復習からいこうか」
 私が頷くと、奏翔は楽譜をチラリと見て言った。これは泉平くんと私が作った曲だ。そして、ふたりで練習に励んだ。
 彼は最初こそ途中で止まることが多く、とてもゆっくり弾いていたが、私が初めて練習する曲もあったため、ペースとしてはちょうどよかった。

 あっという間に校門が閉まる時間となり、私は一度奏翔と手を繋いで帰宅した。奏翔の弟である泉平くんは萌響を家まで送ってくると途中で別れた。奏翔には玄関で待ってもらい、泊まり用の荷物を取りに行った後、奏翔の家へと案内された。
「ここだよ」
 住宅街をしばらく歩いていると、奏翔がふと、目と鼻の先にある家を指して言った。お屋敷のような外観で、灰色の瓦屋根に薄い肌色の壁が特徴的だ。まさに昔ながらの渋い家で、玄関の古びた木枠のドアからも、築40〜50年は経っていそうな雰囲気が漂っていた。